プロローグ
祥方大学の春学期の試験が終わり、長い夏休みが始まろうとしていた。
今年、祥方大学に入学し、文学部 人文社会史研究学科 民族学専攻所属。そこの一回生の雪上理来は、慣れない試験に四苦八苦しながらも、手ごたえもまあまあで、なんとかやり遂げた達成感に安堵する。
大学にはほぼ来ているので出席点は間違いない。
適当になんとなくそつなくこなしていけばいいと、元来全てにおいて八割を目標に生きていた雪上にしては目覚ましい結果である。高校生の自分からみると想像もつかない。聞いていた先輩の話からは、百パーセント出席している生徒なんてあまりいないと聞いていたものだから、大学に入学し、自分が一パーセント未満のマイノリティに属すとは思ってもみなかった。
このままの調子でいけば、卒業には問題ないだろうと言う安心感。
他の友人の中には、バイトや遊びに明け暮れ、出席点が足りず、取得できる単位数もほとんどなく、このままだと卒業にも影響するかもしれないと、肩を落とし、秋学期はもっと真面目に出席しなければならないと神妙な面持ちをしているものもいたが、それもテストが終わるまでのこと。
終われば終わったで、各々、夏休みの楽しい予定が待ち構えている。遠方に実家があり帰省するという人もいたし、旅行に行くという人もいた。
「雪上はどうするんだ?」
ソーシャルデザイン論の試験を一緒に受けていた、友人の山内昌也が大きく伸びをしながら雪上にそうたずねる。
「特に」
短髪に人懐っこい笑みを浮かべ、「相変わらずだな」と、雪上の肩を叩いた。
「山内はどうするんだ?」
「俺? どうするかなーバイトして、遊んで……」
まあ、普通ならそうだろうと雪上は頷く。先ほどは、ああ言ったが、実は忙しいのだ。それを友人に事細かに説明するつもりはない。
それからたわいない言葉をいくつか交わした所で、スマートフォンのメッセージの通知が知らせる。
「あ、俺行くわ」
会話を切り上げると、雪上は手をあげた。
「またな」
山内の言葉に見送られ、雪上は足早にその場を離れる。名残惜しさは全く感じなかった。
むしろ、夏休みを目前にワクワクしていた。
もう一度、先ほど届いたメッセージを確認する。
示されていたのは、ある教室の番号で、雪上はその教室に向かっていた。
大学内はいつもに比べ、がらんとしている。
試験が早く終わった生徒は一足先に夏休みを満喫している人もいるのだろう。部活やクラブ活動などで残っている生徒もいるかもしれないが。かくいう雪上も後者の人間である。
指定された教室に入ると、黒い作務衣姿でノートパソコンとにらめっこしている一人の男子生徒。と言っても、年齢で言えば雪上よりも二十歳は年上である。彼の名は九曜三之助。
雪上は「試験、お疲れ様です」と小さく言って席に座ると、同じようにノートパソコンを広げた。
九曜は雪上に気が付くと、テストはどうだったとか、挨拶代わりの当たり障りのない会話。実は大してお互いに興味はない。
「それで……来週のフィールドワークについてだけれど」
九曜がそう話を始めた所で雪上は、何となく動かしていた手をとめ、視線を向ける。九曜も先ほどとは声のトーンが変わっていた。
「九曜さんと教授で、フィールドワークの計画をされている話は聞きましたが、実際にどこに行くか、何を調べるのかと言う話は聞いていないのですが」
教授と言うのは、二人のゼミを受け持っている小笠原教授の事である。専門は民間信仰など。六十代くらいのふっくらとした優しそうな人相の人であるが、見たままの人で悪く言うと、生徒の雪上から見ても、少々抜けている部分があると感じられる。
実は大学に入学してからの雪上九曜とは二人で、各地に伝わる民話や伝承の調査、編纂を行っている。
なぜこんな事をしているかって。
正直な所、雪上もなぜと聞かれると上手く答えられない。
きっかけは、大学に入学したゼミのクラスで、九曜が『この学部に入学した理由は自分の足で調べて、民話や伝承の調査、編纂をすることを生涯の目標としたからです』と、堂々とそう言い放ったのを小笠原教授が気に入り、雪上の名指しで助手に指名したことだった。
はじめは、何で自分が。他にも生徒はいたはずなのにと、思ったりもしていたが、それでもなんだかんだ、休みの日を利用して、九曜に付き添って様々な場所に出かけせっせと作業を続けたのが小笠原教授の目に留まり、今回、教授の好意で一緒にフィールドワークをしようじゃないかと言う運びになったらしい。
「それは失念していた」
雪上が九曜に敬語を使うのは、大学の学年は変わらないが、単純に年齢が上だからである。前に、同じ学年なのだからと九曜に言われたが、そう言う訳にもいかないと、敬語を突き通した。
九曜は社会人の経験した後に大学に入学した。なぜ今になって大学に入学したのかと言う経緯について詳しくは聞いてはいないが、簡単に言うと世界的なウイルスの蔓延で失職したからであると聞いた。
普通であれば、そこでお先真っ暗だとネガティブな考えに至るのであろうが、九曜はこれ幸いとばかりに、いつかはやっていみたいと思っていた民話研究をするために大学受験をしたとのことだ。
「それで、対象の話はどんな?」
「洞窟に潜む龍だ」
「龍ですか」
「蒼龍様だそうだ」
流石にその単語を聞くと雪上も胸がときめいた。それと同時にフィールドワークで登山は経験していたが、洞窟は初めてだ。なにか特別な準備が必要か聞くと、整備された場所なので、いつもの感じで大丈夫だと九曜は言う。
洞窟に潜むという部分は民話と言うよりも神話を連想させる。大学に入学する以前の雪上なら全く興味を示さなかっただろう。しかし、この祥大に入学して、ひょんなことから教授の指名を受け、九曜の目標に付き合って今に至っている自分は非常に面白いと感じる。
実際にやってみると雪上はのめりこんだ。
雪上の成績は上の中。今まで何をやってもそこそこ出来たので挫折を味わうことなく何事もこなしてきた。
見た目も上の中。今まで生きてきて特に困ったことはなかったが、これといって興味をそそられるものもなかった。そんな雪上にとって九曜との出会いは青天の霹靂。
強制ではないのだから、やめようと思えばいつでもやめることも出来たはずなのに、やめなかったということはそれが雪上自身の選択である。
「教授は珍しく楽しそうにしていたよ。こっちは決められた予算の枠でどうにかしなければと四苦八苦しているというのに」
小笠原教授はフィールドワークの提案をしたのはいいが、計画やらなんやらは全て九曜に丸投げ。様々な調整役を担った九曜も文句を言っているものも、それなりに楽しそうにしている。
「楽しみですね」
その様を見て思わずそう口をついて出た。
「そうだな」
「ですが」
「ん?」
「流石に、フィールドワークに行く際は、もうちょっと私服らしい私服の方がいいと思います」
入学した時から九曜は作務衣姿がトレードマークになっていた。入学当初はそれは目立って、通り過ぎる度に、生徒の視線を浴びていたが、慣れと言うのは面白いもので、今では当たり前になっているのか誰も何も言わない。
ただ、フィールドワークで出向くと、変な宗教家だと勘違いされるので、いちいち説明するのも面倒だと思い、雪上は先にそう指摘した。
「善処する……」
また、九曜はまだ細かいところが決まっていないので詳しく決まり次第メッセージを送信すると言った。
了承したが、出発まであと一週間。
大丈夫だろうかと、不安な反面。九曜ならなんとかするのだろうと思い、ノートパソコンに向きなおると自身の作業を再開した。
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