あなたの行方

本日はなんと9月も終わり10月の初め。

10月2日となっている。

そろそろ今年も終わりが見えてきたところで

私たちはまた時間に遅れそうになりながら

集合場所の駅へと向かっていた。

朝の日差しが眩しく、

外へと向かえば日が目をめがけて

直進してくるではないか。

電車内は早朝だからか

いつも以上に人は少ない。

これが平日であれば

もう少し人で溢れていたはずだ。

休日の朝はとてもいい。

早起きしたということもあり、

愉悦感を味わえている。

美月ちゃんは毎朝このような時間に

起きているのだろうか。


梨菜はわくわくして眠れなかったといい、

早めに準備をしたと口にしていたものの

結局こう遅れているのだから呆れる。

今から言って治るものではないと

私も諦めてしまっているのが

よくないのだろう。

けれど、こればかりは

呆れて諦めてしまってもおかしくない。

いくら私が早く梨菜の家に行こうと

梨菜は時計を基準に余裕を見つけ、

余裕を自らの手で潰していく。


梨菜「ねぇねぇ、この後晴れてるといいね!」


にこやかにこちらを見て

子供のように笑うものだから、

どうでも良くなってきた。


波流「そうだね。」


梨菜「あ、子供っぽいって思ったでしょ。」


波流「うん。当たり前だよね。」


梨菜「ぐぬ。」


ぐうの音は出なかったが

ぐぬの音が出たことだし

いいということにしておこう。


くらりからり。

電車に揺られながら向かう先は

休日で人も多いであろう海老名駅。

そこから目的地である山の方まで

4人で向かっていく。


先日、麗香ちゃんから

もう1人も誘って行きたい

という知らせがあった。

私も梨菜も知っている人ではなく、

麗香ちゃんの幼馴染の子だという。

それ以外の情報は

一切知らないけれど、

私たちは快く了承した。

個人的には、麗香ちゃんを深く知る人が

1人でもいてくれるのはありがたかった。

麗香ちゃんは普段

愛咲先輩や羽澄先輩と共に過ごしている。

他校かつ学年も違う彼女達との接点も

ほぼないようなものだった。

彼女を深く知る人がいないとなれば、

正直私は距離の測り方が

わからないまま困り果てていた。

現に、三門さん…歩ちゃんと

2人で会った時がそうだったのだ。

梨菜はうまく距離を

詰めることができると見ているが、

私は実はそうではない。


子供の時のように

無邪気に考えなしのまま

声をかけることは難しかった。


梨菜「ねぇねぇ。」


波流「今度はなあに?」


梨菜「見つけようね!」


波流「それは梨菜の目標ね。」


梨菜「そうだけど…波流ちゃんも見つけよう!」


波流「はいはい。」


それは言わずもがな、

新しい自分であることに違いはなかった。





***





梨菜「ごめーん!少し遅れた!」


波流「ごめんなさいー!」


麗香「3分…許容範囲内。」


「全然大丈夫ですー!」


海老名駅に着くや否や、

改札を出てすぐのところに

2人がいてくれたため、

思っている以上にすぐに合流できた。

麗香ちゃんは寒かったのか

カーディガンを羽織ってきており、

隣にいる幼馴染の子は

ロングスカートを身につけていて、

2人とも大人の雰囲気が漂っている。


麗香「いつもそんな感じなの?」


波流「あ、あはは…梨菜に合わせるとこうなる…。」


梨菜「私のせい!?」


波流「私1人だったら間に合ってるよ…。」


梨菜「確かに。」


「ふふっ。」


お淑やかに笑う麗香ちゃんの幼馴染は

随分と身長が高かった。

私と同じくらいか、

麗香ちゃんよりかは高いのが見てとれる。

幼馴染というくらいだし

同い年か年上だろう。

おさげをしているからか、

よりその清楚さに磨きがかかっている。


梨菜「あ、はじめまして!嶋原梨菜です!」


波流「遊留波流です。」


いろは「はじめましてー。西園寺いろはですー。」


ゆったりとした話し方をする子のようで、

ふんわりと語尾が

伸びていくのが感じられる。

この人といると、時間の流れを

いつも以上にゆっくり感じてしまいそうだ。


梨菜「西園寺!」


いろは「はい、西園寺ー。」


梨菜「お金持ちそう!」


いろは「ふふん、よく言われますー。」


波流「確かにアニメとかだと良く見るような感じだよね。」


いろは「中々実際にはいないものですから。」


麗香「次の電車は?」


波流「えっと…この線とはまた別だったよね?」


梨菜「そのはず!」


波流「あ、何も分かってないね。」


梨菜「うん!」


波流「ちょっと待ってね、今調べるよ。」


いろは「あぁ、私調べてあるんで大丈夫ですよ!次ってこれですよね?」


いろはちゃんは自分のスマホを傾けて

こちらへと見せてくれた。

なんと準備のいい人だ。

梨菜にも私にもない要素なもので

感心してしまう。

家族などとても近しい人だといないのだが、

少し外れたところ…

それこそバドミントン部や

美月ちゃんには当てはまるような。


麗香「んー?あー、それでいっか。」


波流「時間もぴったりそう。」


梨菜「思ったよりも近いね。」


麗香「こっからバスと徒歩だし結構かかる。」


梨菜「え!そっかぁ。」


波流「知らずにきたの?」


梨菜「電車である程度は行けると思ってた!」


いろは「怪我しないように休み休みで行きましょー。」


波流「あはは、そうだね。」


ああ。

これがもしかしたら

緊張というものなのかもしれない。

いや、出会う時から緊張はしているものの

今一瞬のみ、どきりとするような

緊張が走ったのだ。

麗香ちゃんをよく知るいろはちゃんと

いろはちゃんをよく知る麗香ちゃん。

その2人の間の空気は

なんとも独特なものだと言わざるを得ない。

…。

私と梨菜も

そのように見えていただろうか。


私たちは電車に乗り込み、

そう長いことはかからず

ものの10分ほどで目的地である

伊勢原駅に足をつける。

ここからは長くバスに揺られる予定だ。


確かに木々が多いと言われれば

多くなっている。

山となればまたこことも違い

木のみの住居となる。

人々の影が薄れ閑散とする中に

梨菜のいう探しているものは

見つかるのだろうか。

人の足がある程度踏み入れられていない

土地というのは妙に背筋にぞくっと伝う。

助けを呼んでも人は来ない。

そんな境地にまで至ってしまったら。

そう考えてしまうから。

とはいえ、ハイキングコースを辿るらしいので

程々には人はいるはず。


実を言うと、私は詳しい行き先を知らない。

麗香ちゃんが細かい行き先までを決めたらしい。

彼女曰く、新しい自分を

見つけることができるだろうとのこと。

一体どんないい景色の場所なのか、

期待ばかりが心の内で膨らんでいく。

行き先について、梨菜やいろはちゃんが

知ってるいるのかはわからない。

だが、2人とも爛々と目を輝かせており、

寧ろ楽しみそうなので

それならいいかと息を吐く。


麗香ちゃんといろはちゃんは

口数は多くなく、

麗香ちゃんはスマホを、

いろはちゃんは外を眺め続けた。

対して私たちはずっと話していた。

その内容は、いつもと同様

どうでもいいと言って

一蹴されても問題ないようなものばかり。

昨日の夕飯はどうだったとか、

眠れなかったから動画を見ただとか。

それから、妹の星李の話。

…。

嬉々として話すものだから、

私はどう受け取ればいいのか

わからなくなっていた。


梨菜「それでね、星李が言うの!こう言う時こ」


波流「そういえば、さ。」


梨菜「うん?なになに?」


波流「…あ、あぁ…ほら、前にさ、梨菜の家の近くで異臭騒ぎだとか言って警察が集まってたじゃん?」


梨菜「んー…あぁ、あれか!そんなこともあったねぇ。あれ、私の家にも来たの!」


波流「そうなんだ。あれはもう大丈夫なの?」


梨菜「うん!問題ないよ。」


にこやかに言うのだから、

私はきっとこれを信じるほかないのだろう。

私は、そうすることしか出来ないのだ。


バスで揺られること数十分。

ようやくお目当ての駅に辿り着く。

降りてみれば、人里からは

離れたなんて印象はまだあまりない。

近くに小さなお店や人が

ぱらぱらと見えるからだろう。

しかし、横浜駅と比べれば

ここは間違いなく田舎だ。

私たちは、普段の生活から

大きくかけ離れたところに立っている。


麗香「こっち。」


梨菜「坂多い?」


麗香「自転車じゃきついくらいにはね。」


梨菜「え、だいぶきつい!」


波流「まあ山だからね。」


いろは「しっかりハイキングって感じなんですねー。」


麗香「うん。登山ではない程度だと思う。」


梨菜「どうしよう。麗香ちゃんがばりばりに運動できるタイプで、登山レベルでもこの程度は登山じゃないって言ってきたら。」


波流「あはは…。」


麗香「どうだろ。」


麗香ちゃんはマスクを

しているにもかかわらずにっ、と

口角を上げているように見えた。

愛咲先輩とのやりとりを思い出して見れば

妙に納得のいくもので。

彼女たちのやりとりの中で、

麗香ちゃんはよく意地悪を

していたように見えた。

それは勿論不快感をもたらすものではなくて

仲がいいが故のものだと思っている。

一線があるのだ、と感じとった。

この人にならいじるようなことを

言ってもいいという一線が。

それを梨菜は超えたのだと

勝手に判断をした。


山道を歩いてゆくと、

人が多くて3人歩いて行ける程の道。

そして両側には天まで高く伸びる

木々たちがそこにはあった。

神秘的と言えばいいか、

私たちが何か影響を与えようとしても

容易ではないことが窺える。

道中、廃墟が見えてきたが、

ぞっとするあまり直視はできなかった。

もしここで事故があって

心霊スポットになっていたら。

そう思うだけで胃が飛び出てきそうだ。

怖いものが駄目なのに、

怖いものがいる想像をしてしまうのだった。


梨菜は終始感嘆を漏らし、

いろはちゃんは黙って周りを観察するように

眺め続けていた。

麗香ちゃんは行先を確認しつつ

私たちを先導してくれている。

梨菜の口にする言葉に返してみれば

意気揚々とどこが凄いのか話し出してくる。

よっぽど気に入ったらしい。

この先、さらにいい景色があるのか。

そう思うだけでどきどきとしてくる。


麗香ちゃんが言っていた通り

坂が続いているようなもので、

いろはちゃんは体力があまりないのか

早々に息切れをしていた。

それは梨菜も同じ。

反して、現在運動部に所属している私は

普段の厳しすぎる

練習での成果が出ているのか、

まだ体力には余力があった。

麗香ちゃんはというと、

完全なインドア派に見えて

思っているよりも運動が出来るらしく、

山道をほぼ息を切らすこと

すいすいと泳ぐように登っていった。

意外だ、という印象が強かった。


梨菜「はぁっ…はぁっ…。」


いろは「…。」


波流「ね、ねぇ。」


あまりにすいすい登るものだから、

彼女の肩をとんとんと叩く。

背負っていたリュックが

緩やかに回転していき、

やがて麗香ちゃんの顔が半分ほど

こちらを向いたあたりで止まった。


麗香「んー。」


波流「ちょっと休まない?ほら、2人がばてちゃってるし…。」


梨菜「お、お願いしまー…。」


いろは「うんうん、休もうよ麗香ちゃんー…。」


息があっているのかあっていないのか、

2人は棒立ちになり

同じようなポーズをとりながら

萎れた声を飛ばした。

私たちは目的地を知らないものだから

後どれくらい歩かなければならないのか

梅雨ほども知らない。

麗香ちゃんは特にこれといって

表情を変えることはなく、

道端に寄ってはリュックを下ろすことすらなく

水筒を取り出していた。

口を助けて数秒。

何回か喉を鳴らした後、

軽く口を拭い、蓋を閉めながらこう言った。


麗香「10分くらいでいい?」


梨菜「やったぁー…へとへとだぁ…。」


いろは「私もです…。」


波流「あはは…結構汗かいたし疲れたね…。」


梨菜「そうだよ…家の中にずっといる人にはきつすぎる!」


麗香「部活やってないんだ。」


梨菜「嶋原家帰宅部部長!」


麗香「へー。」


梨菜「興味なさそう!」


いろは「ふふ。…波流さんは何か部活やってらっしゃるんですか?」


波流「うん、バドミントン。」


いろは「わあ、凄い。」


いろはちゃんは疲れの色が濃く出ているようで

マスクを外してはぜえぜえしていたけれど、

こちらを見て笑顔で凄いなんて言うものだから

その気遣いに凄いと思わざるを得なかった。

梨菜は近くの段差に腰を下ろして、

足まで伸ばしてくつろいでいる。

どこでも放っておけば眠れそうだなんて

思ってしまっていた。

前々から思っていたけれど、

梨菜はその場その場に馴染む力が強い。

適応力が高いと言うべきか。

人間関係は勿論の事、

山道だろうとそこに座れば

梨菜の家のように

見えてくるのだから不思議なものだ。


波流「ううん、そんな事ないよ。」


いろは「運動部ってだけで凄いです。」


梨菜「いろはちゃんは部活入ってるの?」


いろは「私は美術部に。」


梨菜「え!そっちの方が凄い!」


いろは「そうでしょうか…。」


梨菜「うん!というか、部活やってる人凄いよ。」


波流「あはは…。」


梨菜「そういえば麗香ちゃんは部活やってたっけ?」


麗香「やってない。」


梨菜「そうなんだ!息もあまり切れてないし歩くの早いし、何かやってるのかと思った!」


麗香「歩くのが早いって…そりゃあこの辺じゃ熊が出るかもって聞いたし。」


波流「…え?」


いろは「な、なんでそんな大事な事言ってくれなかったのー。」


麗香「昼間は大丈夫じゃない?」


波流「ま、まぁ…夜よりは…。」


梨菜「急いで登ろう!」


麗香「いいよ、もう少しは休んでいこう。」


梨菜「で、でも熊が出たら…」


麗香「熊が出た時に走って逃げれるくらいには休んでた方がいいかもね?」


確かに、中途通ったゲートには

熊出没注意の看板があった気がする。

麗香ちゃんは梨菜を見て

またにっ、と笑うのだった。

それを見た梨菜は怯え上がり

子猫のようにしゅんとなった後、

ちびちびとお茶を飲み出した。

わかりやすくて思わず笑ってしまう。

感情表現を素直に出来ることも

梨菜のいいところだ。

遅刻癖は治らないけれど、

それによって釣り合いが

取れているようにも思えた。


暫くしてから、私たちは再度

上り坂を歩いた。

梨菜やいろはちゃんにとっては

これは登山コースも同然だろう。

息を切らしながらも

必死についてきていた。


それから間もなく

日も段々と登り、暑さに拍車がかかる頃。

不意に、開けた道が側に出現した。

その先にはひとつのトンネルがあり、

近くには簡易トイレがある。

簡易トイレは若干通路から離れ、

木に隠されているような位置に

ぽつんと佇んでおり、

とてもいく気にはなれなかった。


ふと。

トンネルに対して大きな違和感を感じたのだ。

まるでこの山一帯を

支配しているような雰囲気がある。

それどころか、この山一帯を

飲み込んでしまうかのような。

今いる位置からだと

トンネルの先に光は見えず、

真っ暗という言葉が妥当だった。

そもそも、空気が違うのだ。

近くにいるだけで気温が

下がっているかのように感じる。

常に鳥肌が立っているような。

本能的に、ここは駄目だと言っている。


さっさと通り過ぎようとした時、

麗香ちゃんは唐突に足を止めた。


麗香「…。」


波流「…?早く行かないの?」


麗香「到着。」


波流「…え。」


麗香「目的地はここ。到着。」


梨菜「え、えぇ!ここ?」


いろは「トンネル?」


麗香「新しい自分を探すんだよね?」


梨菜「そう!」


麗香「なら、新しい感情に触れられればいいと。」


梨菜「その通り。」


麗香「なら、恐怖でもいいよね?」


波流「な、何でそうなるの。」


麗香「今言った通りだけど?恐怖も感情のひとつでしょ。」


いろは「じゃあここって…」


麗香「心霊スポット。」


麗香ちゃんは悪びれもせずに

そう口にしていた。

少しの間、何が起こったのか

わからなかったのだが、

時間を置くごとに段々と実感が

湧いていくのだった。

背中からこれまでとは違った汗が

滝のように流れているのが

嫌でも分かった。

心臓がどくどくと通常より早く鳴っている。

早く帰りたいのが体に表れたのか

1歩後退りをしていた。


麗香「ここにはね、いくつか心霊現象が起きるんだって。」


波流「やだやた、聞きたくない。」


麗香「じゃあ耳塞いでなよ。」


波流「え、えぇ…帰ろうよ…。」


梨菜「波流ちゃん。」


波流「何ぃ…。」


梨菜「新しい自分を見つけるチャンスだよ!」


波流「だからってここじゃなくてもいいじゃん!」


梨菜「けど、リアルで恐怖体験をするなんて滅多にないよ。」


波流「そうだよないよ!」


梨菜「これまでもこれからもなかったはずのいい機会だよ!」


波流「怖いのは無理なの!」


そう声を上げた時、

周りが信じられないほど

しんと静まり返っていることに気がついた。

はっとしていろはちゃんや

麗香ちゃんの方を見てみれば、

いろはちゃんはともかく

麗香ちゃんは冷ややかな目で

こちらを見ている気がした。

身勝手なことばかり口走ってしまったと

反省をしている時に、声がした。


麗香「じゃあ、遊留は帰る?」


いろは「ちょっと…」


麗香「嫌なら帰りなよ。」


いろは「そんな言い方ないよー。それに、行き先を伝えてなかった麗香ちゃんも悪いからね。」


波流「…。」


梨菜「波流ちゃん?」


波流「…ごめん、大丈夫。」


梨菜「本当に?」


波流「うん。せっかく来たんだし、残るよ。」


梨菜「よし、それでこそ波流ちゃんだ!」


梨菜は元気付けるように、

将又背中を押すように

明るく声をかけてくれた。

それは励ましのようにも思えて

遥か昔の時とは立場が

反対になっていることに

笑うしかなかった。


麗香ちゃんはどっちでもよかったようで

何か訝しげな顔をすることもなく

トンネルに向き合った。

そして、不思議な雰囲気を纏う

麗香ちゃんの口から

ぽつりぽつりと呟かれてゆく。


麗香「このトンネルでは、昔建設中に作業員が亡くなったんだって。事実かは知らないけど。」


まさかここで心霊スポットについての

説明が挟まるとは思わず、

耳を塞ぐ前に語り始めてしまった。

始めを聞いてしまったのであれば

終わりまで聞こうと聞かまいと

同じようなことだと諦めの念が過る。

耳を塞ぐことも失礼かと思い、

その行動にまで至らなかった。

優しさなどではなく、

紛うことなきただの諦めだったのだ。


麗香「トンネルの中や道路には作業服を着た男性が出てくるんだとか。これが1つ目。」


いろは「えっ。」


梨菜「全部でいくつなの?」


麗香「全部で3つ。」


波流「3つも!?」


麗香「2つ目は、そこにある簡易トイレが建つ前に小屋があったらしくて、その小屋で女性が暴行されて亡くなってるんだって。」


いろは「実際に出ることはないよね?」


麗香「周囲で白い服の女性が目撃されてるよ。後子供の笑い声もするみたい。」


いろは「ひいぃ…。」


波流「…聞かなきゃよかった…!」


梨菜「波流ちゃん、怖いの駄目だもんね。」


波流「駄目。」


麗香「実質雛との話もホラーみたいなもんだよ。」


波流「いや、あれは…」


梨菜「まあまあ、それで3つ目は?」


梨菜は私と美月ちゃんとの話を流すように

3つ目を催促していた。

何故催促するのか。

私は何度もやめて欲しいと感じているのに。


耳を塞ぐ準備をしたその時、

麗香ちゃんが山の綺麗な空気を

肺に取り込む音が聞こえた。

ああ、遅かったらしい。

それとも、そもそも耳を塞ぐ気など

なかったのかもしれない。


麗香「3つ目は、トンネルの内側にて神隠しがあったこと。」


波流「…!」


麗香「結構昔、私たちが生まれる前の頃に、トンネル前に看板があったんだとか。」


梨菜「神隠し…。」


いろは「…とある映画みたい。」


波流「あぁ…ジブリの…。」


梨菜「…。」


明るく、あぁあの映画ねと

口にできればよかったのだが、

きっといろはちゃんを除いて

私たちの頭の中に過ったのは

これまでの不可解な出来事の数々だった。

美月ちゃんは裏山に隠れていたので

神隠しではないにしろ、

愛咲先輩は現にいなくなった。

神隠しだった。

本人も何も覚えていないようで、

何が起こったのかは全て

隠されてしまったのだ。

愛咲先輩が戻ってきたにもかかわらず、

事実は戻ってこなかった。


現在、宝探しの話、

美月ちゃんと私の吸血鬼のような話、

麗香ちゃんと羽澄先輩、愛咲先輩の経験した

海底での奇怪な話、

美月ちゃんと歩先輩が経験した

ひと部屋での話、

そして花奏ちゃんの過去の話は共有している。

花奏ちゃんの件や

吸血鬼のような話以外の

私があまり関わっていない部分では

概要のみ知っている形だ。

その出来事の中でどんな会話をしたかは

詳しく聞いていないし

聞く気すらなかった。

自分に置き換えてみれば、

1から10まで聞かれるのは気が引けたからだ。

幸い、他のみんなも同じような考えだったのか

もしくは興味がなかったのか

聞かずのままでいてくれた。


神隠し。

その単語がもたらすこと。

私たちの間に、妙な緊張感が走る。


麗香「ねぇ。」


梨菜「…。」


麗香「新しい自分、見つけられそうでしょ。」


梨菜「もしかしたら、それ以上かも。」


麗香「100%何かが起こるってわけでもないし、とりあえず入ってみようよ。」


麗香ちゃんはふらりと

まるで乗っ取られているかのような

軽い身のこなし方で後ろを振り返り、

ゆったりとした足取りでトンネルへ向かう。

そしていろはちゃんが

それを追うかのように

たたたと駆けていった。


梨菜「…。」


波流「…梨菜?」


梨菜「ん?」


波流「本当に行ってもいいと思う?」


梨菜「神隠しの起こったことがあるとされてるトンネル。」


波流「…。」


梨菜「私ね、思うんだ。」


ふわり、と風が香る。

はっとして顔を上げてみれば、

梨菜はもうトンネルしか見ていなかった。

近くにある簡易トイレでも、

足元に咲いている小さな花でも

傍に生い茂っている草原でもなく、

ただ、トンネルを見続けていた。


嫌だ、と思った。

まるで梨菜がトンネルの中に吸い込まれて

そのまま出てきそうにないだなんて

想像がついてしまったから。

声をかけようとした。

帰ろう、と。

けれど。


梨菜「NO DATAって人は、もしかしたらここにいるんじゃないかって。」


波流「……え?」


梨菜「今でもTwitterは動いてない。存在しているかすらわからない。」


波流「…。」


梨菜「それから神隠し。」


波流「でも、実際にそうだとして、その人は何歳なの。私たちみんな高校生だよ?神隠しがあったのは私たちが生まれる前って言うし、その人だけ違うとかあり得るの?」


梨菜「分からないよ。何も分からない。」


波流「だったら」


梨菜「波流ちゃん。」


波流「…っ!」


梨菜「可能性の話だよ。」


その時の彼女は、目が据わっていて

何か別のものを見ている気がした。

それはトンネルの奥にあるのか、

それとも彼女の心の中にあるのか。

梨菜が梨菜で無くなってしまった気がして、

近づこうにも離れたい気持ちで

いっぱいいっぱいになってゆく。

1歩、本能的に後退っていることに

数秒経てから気づいた。


あぁ。

きっと、遅かった。

私が感じていた違和感が、

これまでの話とも今の梨菜とも

関係ないはずなのに結びついてゆく。

根拠のない確信が生まれてゆく。

違和感は…。

…。


梨菜「あ、そーだ!」


波流「…?」


梨菜は声を上げた後、

私に身を寄せて

耳元でこそこそと話し出した。

ぞっとするものの動くことができずに

硬直したまま耳を傾けた。

安心して、私。

落ち着いて。

相手は、今隣にいるのは梨菜だ。

10年間一緒に生きてきた梨菜だ。

友達だ。

幼馴染だ。

大切な人だ。

それには違いないじゃないか。


梨菜「さっきの美月ちゃんと波流ちゃんの話、私が早々に変えたんだから感謝してね!」


波流「え、え…何のこと?」


梨菜「ほら、麗香ちゃんが言いかけたでしょ?2人の話も中々ホラーみたいなものだって。」


波流「…あぁ、そうだったね。」


梨菜「いろはちゃんは多分何も知らないから、不審がられても困っちゃう。」


波流「それは確かに。」


梨菜「だから貸し1ね!」


波流「…あはは、はいはい。」


見なければ、気づかなければ

幸せなことだってある。

その言葉を信じて、

その言葉に半身を預けて

この先へと向かう他ないのだと悟った。

それでいいのだと

自分を誤魔化しながら。


…。

…あぁ。

何故だか辛そうな顔をした

花奏ちゃんの顔が過ぎる。

こんな気持ちだったのだろうか。

嘘の説明をする時、嘘をついた時

そんなにも心がざわついていたのか。


スマホのライトをつけた

麗香ちゃん達の後を追って

一緒にトンネルに入っていく。

すると、虫の声や鳥の鳴き声で

騒々しかったはずなのに、

唐突に無音にも近しい状態になった。

俗世と大きくかけ離れてしまったような

不明瞭な感覚に陥ってゆく。

がくっと気温が下がったことで、

よりここが異界の如く映る。

先程までいろいろな汗をかいていたが

全てが一気に冷えてゆき、

体調を崩してしまうのではないかと

思うほどだった。

気温差は相当あるに違いない。

そして、気温もそうだが

雰囲気もあり鳥肌が止まらなかった。

近くにいる梨菜もライトをつけたようで、

とてつもなく暗いトンネル内は

徐々に光を纏いつつあった。


トンネル内には

いくつかの落書きがされており、

上下が反転している状態の赤い文字が

連ねられていたり

気味の悪い顔がこちらを見つめていたりした。

ぎょっとして思わず梨菜の手を握りしめる。

すると、温もりを感じるもので

どこか安心をもたらしてくれた。


恐怖があまり足がすくんでいたが、

梨菜が握った手を振り解かず

こちらへにこりと微笑んでくれたおかげで

幾分か恐怖は和らいでいく。

いくら梨菜ではない

何かの片鱗が見えようとも、

梨菜は梨菜なのだ。

私の1番の友達だ。

そのことに変わりなどないのだ。


何度も何度も同じ言葉を言い聞かせた。

かつん。

かつん。

靴音がトンネルの中で

無限にも広がっていき、

それは止まるところを知らないよう。

波紋は次第に収まっていくはずなのに、

私たちが歩き続けているからだろう、

やんわ、やんわと耳の奥で木霊し続けた。


梨菜「ねぇ、麗香ちゃん。」


麗香「…。」


梨菜「この先って何があるの?」


麗香「キャンプ場があるらしいよ。」


梨菜「キャンプ場?」


麗香「らしいの話。」


かつーん。

かつーん。

段々と歩幅を広げているのか

ゆったりとした音になっていく。

それとも、反響しすぎるがあまり

間隔が長くなっているのか

私には判別がつかなかった。


後ろからひたり、ひたりと

音が鳴ってもおかしくない。

ぎゅっと目を瞑ってその場でしゃがみ込み

助けを求めたいくらいだった。

高校生にもなってと思われるかもしれないが

苦手なものは苦手なのだ。

こういう時、美月ちゃんがいたら

どうしていたのだろう。

美月ちゃんも怖いものは苦手だったから

2人で怯えるだけかな。

それとも、意外にも私の手を引いて

しっかりしてと軽く

説教じみたものをしながら

トンネルの外まで連れ出してくれるかな。


感情の変化に追いつけない中、

ひとつ分かるのは梨菜の手の温もりだった。

ぎゅっと強く握れば

その分安心させるかの如く

少しばかり力を入れてくれる。

私の行動に対して微々ながら

返事をしてくれる。

それだけで心が安らいでいく。


遠くにあった光が

どんどんと近づいてくることに気がついた。

そろそろトンネルを抜けるらしい。

漸くか。

待ち望んでいたゴールはもうすぐだ。

そう思うと、自然と恐怖よりも

嬉しさの方が強くなっていく。

もうすぐ終わる。

この恐怖から解かれる。

どんなにいいことか

想像してもしきれない。

さっさと出てしまおう。

そうだ、こんなところに長居する理由など

ひとつもないのだから。


すたすたと梨菜を追い越し

寧ろ置いていくかと思われるほど

急足で歩こうとした時だった。


波流「…っ?」


いろは「…?…風…ですかね。」


びゅう、と強めの風が吹いたのだ。

刹那、感じ取ったことがある。

この風は不吉だ、と。

それはただの怖がりな私が

そう解釈しただけであって、

普段と何ひとつ変わらないものかもしれない。

しかし、そうではないと肌が言っている。

逃げろ、と警告しているのに

梨菜は手を引いて離してくれず

麗香ちゃんもいろはちゃんも

留まろうなんて考えていないようだった。

どうして。

どうして、こんなに恐れを抱かずに

進むことができるの。

嫌な予感がするのにも関わらず、

先程、私が空気を崩してしまったのもあり

声を上げることができなかった。


梨菜に連れていかれるがままついていくと、

風は次第に強くなっていき、

ある地点を越えると無風になる。

全てが急に始まり

急に止まるものだから、

現実のものとは思えなかった。

みんなも声をひとつ発しない。

…違和感を感じとっているのではないか。

この先に行ってはいけないと

肌で、本能ではわかっているのではないか。

それでも、行くのか。


その答えは直ぐに行動によって示された。

麗香ちゃんを先頭に

トンネルのその先へと向かい続けたのだ。


光が近づいてゆく。

光の中へと。


…。

…。

…。


麗香「…!」


いろは「わあ、凄い!」


トンネルを抜けた先。

麗香ちゃん曰く、

キャンプ場があるとの話だった。

それが廃れているのか

今もやっているかを聞き忘れたなと

今更になって思っている。

しかし、そこにあるのは

キャンプ場なんてものではなかった。


家だ。

一軒家があったのだ。

誰もが一度は憧れたことのあるような

ログハウスがぽつりとそこに。


周りは木々で覆われており、

トンネルの他に道が見当たらなかった。


波流「え…ここ、ほんとにトンネルの先…?」


梨菜「…。」


トンネル内の空気感とは全く違った。

全てを拒絶するような内部とは異なり、

全てを受け入れるかのような

無償の愛を与えられているかのような

暖かさに塗れている。

優しい日差し、のびのびとしているが

お手入れの行き届いている草原、

新築のようなログハウス。

家の前には庭のようなものなのか、

花壇がいくつかあり、

そこには綺麗な花が咲き誇っていた。

夢の中で見るものが

ここに体現されている。


梨菜「…………っ……ぅ…。」


波流「…え?」


梨菜「あ…写真、撮らなきゃ。」


梨菜は何かをつぶやいたものの

どんなことを口にしていたのか

聞き取ることができなかった。

不意に手が解かれる。

何故か、このタイミングで

スマホを取り出してかしゃりと

音を鳴らしていた。

その後、何かしらの操作をしており、

少し経てからスマホをしまった。

梨菜のその行動に影響を受けたのか、

麗香ちゃんやいろはちゃんも

写真を撮っている。

集団心理か否か、

私もスマホを構えた方がいいかと感じたものの

上手く体が動いてくれなかった。


ふと、家の奥に動く影を捉えた。

幽霊だ。

そう直感的に感じたものの、

声は勿論上がってくれない。

その影は家の影に隠れるように

動いていたのだが、

やがて何かを持ったままゆらりと

表に姿を現した。


麗香「…人?」


波流「あ、え…っ?」


その姿は私も何度も見かけたことがある。

最近こそ見かけていないものの、

忘れることなんてするはずもないその人。


波流「……星李…。」


梨菜「あ、星李ー!」


梨菜が大きな声をひとつあげた。

その声に驚いて麗香ちゃんと

いろはちゃんがこちらを向く。

梨菜はと言うと、何も考えていないのか

星李の居る方へと走っていった。

危ない、星李がこんなところに

居るはずなんてないんだから。

そう言おうとしたけれど、

口が思うように動いてくれない。

まるで神経がつながっていないみたいだ。


星李に寄って、

梨菜ははっとしたような顔をした。

それが見えてしまった。


梨菜「…違う。この子、れいちゃんだ。」


波流「…は……?」


麗香「遊留、遊留。」


波流「え…っ…何?」


麗香「せりって誰?」


波流「あぁ…梨菜の妹なの。」


いろは「妹さんなんですねー。」


麗香「でも今、れいちゃんだとか言ってなかった?」


波流「違う、星李にそっくり…星李そのものだよ、あれ。」


麗香「どういうこと?」


波流「分からないよ!」


「こんにちは。」


少し距離がある中で、

通る声が耳を掠める。


ゆっくりと目を見開いているのが

自分でも分かるのだ。

その声だって、星李だった。

笑った顔も、仕草も

全てが星李そのものなのに。

不意に麗香ちゃんが私に耳打ちをするように

近づいてきているのが視界の端で見て取れた。


れい「私、この家に住んでる、れいだよ。よろしくね。」


梨菜「れいちゃんはね、星李の友達で何回かうちに遊びにきたことがあるんだ!」


麗香「…遊留、どうなのあれ。」


波流「星李の…友達?」


いろは「…?」


波流「いや…あれが星李本人じゃなくとも、ぱっと見は星李で…でも…。」


麗香「一旦落ち着いて。」


波流「…っ。」


麗香「…いろはー。」


いろは「んー?」


麗香「後ろのトンネルからさっきの場所まで走って。」


いろは「え?」


麗香「いいから早く。」


波流「…!」


麗香ちゃんは冷たく言い放った。

ここには必要ない、

そう言っているかのように。

けれど違う。

麗香ちゃんの瞳の色は

明らかに変わっていた。

きっとここは、既に不可解の中。

いろはちゃんは不可解とは

関係のない人だ。


巻き込んでしまった。


そう言うべきだろう。

いろはちゃんを早く逃そうとしているのだ。

それと同時に、私たちはもしかしたら

神隠しにあったのかもしれないと

嫌な想像が過る。


いろは「でも、麗香ちゃん達は」


麗香「早く行って。」


いろは「…うん。」


ことの重大さが

わかっていないらしいいろはちゃんは、

恐ろしく声に緊張を走らせる

麗香ちゃんの言葉を渋々

飲み込もうとしていた。

くるり、と振り返って

後ろにあるトンネルへと向かう。

私も、きっと麗香ちゃんも

正面から目を離すことはできなかった。

私は恐怖で、麗香ちゃんは知りたくて。

彼女は小さな小さな声で

呟くように話しかけてきた。


麗香「分かってるだろうけど、もうここは違う。」


波流「…うん。」


麗香「本来なら、山道が続いてるはずなんだよ。」


波流「……うん。」


麗香「何であて達はこんな出来事に巻き込まれてるんだろう。」


波流「…。」


麗香「この先も永遠に続くと思う?」


波流「…それはっ」


麗香「嫌だよね。」


波流「…。」


麗香「早いところ解き明かさないと駄目なんじゃないかってこの前思ったんだ。」


波流「解き明かすって…。」


麗香「説明つかないことばかり。でも、理屈さえわかれば説明は出来るはず。」


波流「…。」


麗香「…それから、目的が知りたい。」


波流「…首謀者がいるってこと?」


麗香「そりゃあね。あたりはつけられてるけど。」


波流「…。」


前に、情報を共有する際に話してくれた

髪の毛が程々に短い人の事だろうか。

華奢だったらしいというのは

覚えているものの、

星李は髪型からしてそれには当てはまらない。

星李は長い髪の毛を

いつもおろしていた。

中学生になってからこそ

校則が厳しいが故に

下の方で言っていたけれど。

そして、れいちゃんと呼ばれるその子も

星李と同じ程の髪の長さだった。

だから、この人ではないのは確か。


いろは「ねぇ麗香ちゃん。」


麗香「いろは、早く」


いろは「出られない。」


麗香「え?」


麗香ちゃんは石から解かれた銅像のように

急にくるりと振り返った。

つられて私も振り返る。

出られないとはどう言うことなのか。

疑問に思って見てみれば、

トンネルは浅い部分で

土砂崩れがあったかの如く

堰き止められてあるのが見えた。

先程まで私たちは

そこを通っていたはずであり、

耳をつぶすような轟音だって

全く聞こえてこなかった。

元々そこにあったかのようで。

理解ができなかった。

まるで私たちを閉じ込めようと

しているみたいじゃないか。


麗香「…!」


いろは「麗香ちゃん、何がどうなってるの?」


麗香「…分からない。」


いろは「…。」


2人の間には何とも

言い難い空気が流れていた。

麗香ちゃん然り私も知らない。

何も分からない。

理屈も目的もなにもかも。

けれど、このような不可解な出来事は

何度も私たちに襲い掛かっているという

事実だけが分かっていた。


思い出したかのように

梨菜へと視線を向けると、

れいちゃんとやらと

楽しそうに話しているのだった。


波流「梨菜!」


梨菜「あはは、それでねー…あ、波流ちゃんどうしたの?」


波流「戻ろう!ここ、おかしいよ。」


梨菜「え、でもれいちゃんがお茶を用意してくれるって」


波流「駄目だよ、帰ろう!」


梨菜「でも」


波流「梨菜!」


れい「ほんの少しだけでいいのでお茶してってよ。」


波流「…!」


れい「今朝、ケーキも焼いたんだー。」


持っていたジョウロを

庭のそのあたりに丁寧に置いて、

梨菜の手をとった。

そしてそのままれいちゃんは

梨菜を家の中へと招き入れようとした。


波流「まっ…」


麗香「待って!」


私がようやく1歩踏み出した時には

麗香ちゃんは梨菜を目掛けて

走り出していた。

麗香ちゃんは愛咲先輩や

羽澄先輩のためであれば

何でもするイメージがあったのだが、

私や梨菜はその範疇に

入らないのだとばかり思っていた。

どうやら梨菜は

その枠に入ったらしい。

それとも、また別の考えが

あるのかもしれない。

麗香ちゃんはいの一番に駆けていき、

れいちゃんに手を引かれるままの梨菜を

つかんだかのように思えた。


しかし、その手は空を切ったようで、

バランスを崩す彼女の姿が映った。


れい「2人はちょっと待っててね、すぐに戻るから。」


波流「えっ…駄目、待って!」


私の口から出るのは

駄目、そして待ってという

拒絶と願いの言葉だけ。

それらの拙い言葉を聞き入れるはずもなく

れいちゃんは麗香ちゃんと梨菜を

家の中へと引き入れ、

扉は閉じられてしまった。


いろは「…!」


いろはちゃんは何が起こったのかを

理解してしまったのか、

綺麗なログハウスへと駆けては

どんどんと扉を叩いた。

お淑やかそうに見える人だったのだが、

こうも行動力はあるものかと

感心している自分がいる。

少しばかり、この現実から離れたことを

考えていなければ

正気を保っていられそうにもなかった。


いろは「麗香ちゃん、麗香ちゃんっ!」


波流「…。」


いろは「出して、麗香ちゃんと梨菜さんを出して!」


波流「…いろはちゃん。」


いろは「ねぇっ!」


声を荒げるような人ではなさそうだったのに、

今ここをの一瞬で印象は大きく変わった。

けれど、それは友人を思ってのこと。

私もそのくらい声を上げられたら

違ったのかもしれない。


いろはちゃんが声を

上げてくれているものだから、

反面私は冷静になりつつあった。

彼女の方へと徐に近づき

とん、と優しく肩に触れる。

驚いたのか、ものすごい速度で

こちらを向いた。

ふんわりと風に運ばれて

何やら美術室のような香りが

漂ってきた気がする。


波流「大丈夫、少し待ってみよう。」


いろは「…っ…でも、おかしいじゃないですか。」


波流「おかしいよ。普通じゃあり得ないことが起こってる。」


いろは「…麗香ちゃんにははぐらかされましたけど…波流さんは何か知ってますか?」


波流「……。」


いろは「知ってるんですよね…?」


波流「何で起きたとか、何が起こるかとかは何も分からないよ。」


いろは「…。」


波流「待ってよう。大丈夫、あの2人は大丈夫。」


いろは「どうしてそう言い切れるんですか。」


波流「言い切らないと、私がもたないから。」


いろは「…!」


波流「信じてようよ。」


いろは「…はい。」


いろはちゃんは見てわかるほどに項垂れ、

しょんぼりとしたままに

近くの花壇へと近づいた。

何をするのかと思いきや、

花壇の縁に腰をかけて膝を抱えるだけ。

花に背を向ける形で座るものだから、

花達は何だか寂しそうだった。


彼女と相反するように

私は花達を正面にして

近くにしゃがみ込んだ。

先程れいちゃんが手にしていたジョウロには

水が幾分か入っており、

水やりをするところだったのだろうと

容易に想像がついた。


花をぼんやりと眺めていると、

季節からは外れかけている

朝顔と目があった。

青くて凛とした花で、

私になんか目もくれず空を見上げている。


波流「…綺麗。」


いろは「…。」


れいちゃんは、どうやってここで

生き続けているのだろうか。

道という道はなく、

植物や木々で遮られている。

まるで幽閉されているように。

そもそも、れいちゃんとは何なのか。

星李ではないのか。

しかし、星李だとするのであれば…。

…。


優しく青い朝顔に触れてみる。

もし雨の後であれば

私が触れたと同時につうっと

腕を伝っていく雫があったはずだ。





°°°°°





波流「きれい!ねーねー梨菜ちゃん、朝顔咲いたね!」


梨菜「…うん、きれいだね。」


波流「ね!わあ、よかった。」


梨菜「でも…枯れちゃうよ。」


波流「そしたら今度は種が出てくるんだよ!」


梨菜「種はえらいの?」


波流「えらいよ!だって来年も朝顔が咲くんだよ!」


梨菜「…それはいい子なの?」


波流「いい子だよ、来年も楽しみだなぁ。あ、種が出来たらお母さんとお父さんと先生にあーげよ!」


梨菜「…。」



---



波流「梨菜ちゃん!」


梨菜「…。」


波流「梨菜ちゃんやーめーて!」


梨菜「…痛い。」


波流「何で朝顔抜いちゃったの!」


梨菜「……だって…。」


波流「何で!」


梨菜「もう、元気がなかったんだもん…。」


波流「種まだ出来てなかったのに…。」


梨菜「種、落とさなかったよ?」


波流「これからだったの!」


梨菜「でも、種落とさないのはいい子じゃない…」


波流「だから、待ってればできたの!」


梨菜「それに…。」


波流「なあに!」


梨菜「…元気ない時間が長いのは、可哀想だったから…。」





°°°°°





波流「…。」


いろは「朝顔…。」


波流「うん。」


いろは「季節外れですね。」


波流「ぎりぎり咲くんじゃない?まだあったかいしさ。」


いろは「そういうものでしたっけー。」


波流「多分ね。」


それから暫くの間、

私といろはちゃんは言葉を交わすことなく

花壇の周りでじっとして待っていた。

トンネルに入る前にしていた虫の声は

何ひとつすることがなく、

静かな空間が広がっている。

家を囲っている木々の奥も

気になるところだが、

今ここを離れてしまっては

一生戻ってこれないような気がしてしまい

動くことはできなかった。

トンネルの中を覗いてみれば、

上から下までぎっしりと詰まった岩や石。

ふとした拍子にこちら側に

崩れてしまってはひとたまりもない。


ぼんやりと空を眺めたその時だった。

きい、と音のない世界に産み落とされた音。

はっとして2人して

玄関の扉のある方へと向かうと、

そこにはれいちゃんがいたのだ。


れい「お待たせしてごめんない。」


いろは「麗香ちゃんは。」


れい「中にいるよ。どうぞー。」


波流「…。」


れいちゃんはにこやかに

私たちを招き入れてくれた。

私はれいちゃんのこの動作を

よく知っていた。

嫌というほど見てきたのだから。

それは、登校時に梨菜を迎えに行く時のこと。

星李が毎朝決まって

玄関に上がらせてくれたのだ。

その動きと全く同じだった。


本物の星李を見ているような気がした。

本物がいると思ってしまった。





***





麗香「…で、どういうことけぇ。」


梨菜「そ、そんな怖い顔しないでよ…。」


麗香「そりゃするに決まってるけぇ。遊留が言ってたけど、れいは星李と全く一緒ってどうなってるけぇ?」


芳しい香りが家の中を満たしてゆく。

私と麗香ちゃんは今、

キッチンが横にあるダイニングのような

部屋に通されていた。

ついさっきお茶を出してくれて、

もう少ししたらケーキも用意するとのこと。

星李は料理が得意だったけど

れいちゃんも得意だったのかと

今更ながらに知った。


先程までお互いにスマホをいじっていたものの、

麗香ちゃんは何かを決めたのか

ひとつ大きく息を吐いた後、

質問攻めが始まったのだ。


とはいえ、ずっと気を張ってばかりで

疲れてしまい、懐かしい、と思いながら

家の中を見回した。

先ほどもつい、口に出てしまったほどだ。





°°°°°





梨菜「………知ってる…。」


波流「…え?」


梨菜「あ…写真、撮らなきゃ。」





°°°°°





この家は見覚えがあった。

確か、2度は見ているはずなのだ。

1度見た時は夢だったはず。





°°°°°





深々と降る木の葉。

秋だろうか。

奥に眠るように静かに建っている

お屋敷のようなものが見えた。

懐かしいような気がするような、

しないようなー。





°°°°°




いつ見た夢なのかも忘れたが、

確実に夢で1度見ている。

そのような確信があった。

それから、他のあと1回。

うーんと頭を捻っても

答えが出ることはなかった。

頭の隅にすら眠っていないようで、

どれだけ考えても出てきそうにない。


麗香「聞いてるけぇ?」


梨菜「き、聞いてるよぉ…。」


頭の中でぐるぐると考えていたせいで、

麗香ちゃんの話をあまり聞けていなかった。

それを見抜きずばっと刺してくるものだから

驚いて肩がくっ、と上がる。

麗香ちゃんはやっぱり、と言うように

ため息をひとつ吐いてから

足を組んだのか否か、

背もたれに体重を預けた。


たった今、私は麗香ちゃんに

問い詰められていた。


麗香「まず、れいと星李の違いは何けぇ。」


梨菜「違い?」


麗香「そう。遊留曰く一緒だと。」


梨菜「全然違う…と思うけど。」


麗香「あてはその星李を見たことがないからわからないけど、本当に全然違うけぇ?」


梨菜「うん、私からしてみればね。」


麗香「一卵性双生児が見分けられるみたいなものけぇ?」


梨菜「うーん…それとも違う気がするけど。」


麗香「明確に、これがあるからまたはないから違うってところはあるけぇ?」


梨菜「明確に…?」


麗香「そう。人格でも見た目でもいい。」


梨菜「見た目は確かに似てるよ。…っていうか、私も時々星李だって間違えるくらい。」


麗香「…。」


梨菜「妹とその友達を見間違えるなんて変かな。」


麗香「不思議ではあるけぇ。」


梨菜「そっか。」


麗香「性格面は?」


梨菜「それも似てる。けど、何だろう…れいちゃんの方が、凄みがあるって言うか。」


麗香「凄み?」


梨菜「何でも知ってる感じ。」


麗香「博識ってことけぇ?」


梨菜「ううん、そういうのじゃなくて。私のことを何でも見透かしてるっていうか、私のことを何でも知ってるって感じ。」


麗香「それは妹もそうじゃないの。」


梨菜「え?」


麗香「妹こそ長い時間一緒に生きてきてる。嶋原のことを見透かしたような言動だってあってもおかしくない。」


梨菜「…そうだね、星李は私のことを分かってた。」


麗香「じゃあ、違いは何。」


梨菜「…星李は、私たちが小さい頃のことを棘を刺すように話すことはなかった。」


麗香「…。」


梨菜「れいちゃんはあるんだ。時々だけどね。」


麗香「…棘を刺すように?」


梨菜「うん。胸がぎゅーってなるの。」


私もれいちゃんと星李の違いは

分からなかったものの、

麗香ちゃんと話していると

その差がついに見えてきた。

そうだ。

れいちゃんが時折家に来ては

星李が姿を消していた。

気がついた時には星李は戻ってきていて

れいちゃんは帰っていたっけ。

れいちゃんは2人でいる時、

よく昔の話をした。

昔の話を掘り返すようなことばかり

私に突きつけてくるのだ。





°°°°°





梨菜「帰らなくていいの?」


れい「うん。」


梨菜「お母さんには言った?」


れい「お母さん、捕まってるから今は1人。」


梨菜「え?」


れい「え?」


梨菜「捕まってるの?警察にってこと?」


れい「そう。」


梨菜「悪いことしたの?」


れい「したよ。」



---



「お姉ちゃん。」


梨菜「…?」



---



梨菜「星李?」


「…。」


梨菜「いや、れいちゃんか。」


れい「うん。」


梨菜「なんでお姉ちゃんって呼んだの?」


れい「ちゃんとれいのことを見てるのかなって疑問に思って。」


梨菜「…?どういうこと?」


れい「星李ちゃん、2、3日帰ってこないって。」


梨菜「………え…っ。」


れい「れいは聞いたよ、星李ちゃんから。それと、お姉ちゃんから。」


梨菜「私は言ってないよ、そんなこと。それに私、知らなかったし…!」


れい「言ってたよ。」


梨菜「あのね、れいちゃん。嘘も大概にしようね。」


れい「れいは小さい子?」


梨菜「私からすればね。」


れい「だから怒るの?」


梨菜「違うよ。小さい子だからじゃない。」


れい「知ってるよ。お姉ちゃんは、お母さんみたいになるんだよ。」


梨菜「…。」


れい「れい、星李ちゃんとお姉ちゃんに聞いたよ。」


梨菜「…ねぇ、れいちゃ」


れい「私たち、ずっと暗い部屋でお腹空いたまま、痛いのだって我慢したじゃん。それで、お姉ちゃんは決めたんでしょ?」



---



れい「だからお姉ちゃんはお母さんのこと」


梨菜「うるさいっ!」



---



れい「…。」


梨菜「ふー…っ…ふー…。」


れい「お姉ちゃんは、お母さんみたいになるよ。」


梨菜「ならない!」


れい「じゃあ、今は?」


梨菜「…っ……私は、私たちはもう、何にも不自由はしてない!」


れい「…。」


梨菜「……っ…。」





°°°°°





夏の終わりのことだったか。

これまでれいちゃんのことを

割と忘れかけていたのか、

コップはかけているとばかり思っていたが、

割られていたのを思い出す。

その後、愛咲ちゃんと出かけた時に

買い足したことだって思い出した。





°°°°°





口にするたび何だか物悲しさに

襲われてしまうもので、

手持ち無沙汰でコップを手に取った。

それはたまたま目の前にあったもので

あまり値段の張らない

庶民的なものだった。


可愛らしい赤のコップと

それよりは薄くピンクに近しいコップが

姉妹のように並べられている。


あぁ、これだと

不意に思ったのだった。





°°°°°




星李は…。

…。

…。

あれ。

喜んでくれたんだっけ?


これまで、星李とれいちゃんは

何となくで見極めてきた。

それこそ感覚というものだ。

基準はどこにあったのかと問われると

答えることなんてさらさら出来るわけもなく、

何となくそう思ったからとしか

口にすることができなかった。


波流ちゃんからしてみれば

全く同じように思えるかもしれない。

だって、そのように棘を刺してきた時は

決まって私の家の中のみで

行われていたことだったから。

だから、ぱっと見ただけの状態であれば

星李と思うのもおかしくない。

違いは内面にあるのだから、

外側だけ見たってわかるはずがないのだ。


麗香「最近はれいに会ってた?」


梨菜「夏休みの最後ぐらいは頻繁に会ってたけど、最近はあんまりだったかな。」


麗香「れいと出会ったのはいつ。」


梨菜「今年の夏。花火大会に行く前だった気がする。」


麗香「結構最近けぇ。」


梨菜「それまで、星李にれいちゃんっていう友達がいるだなんて知らなかった。」


麗香「普通会話で出てこないけぇ?」


梨菜「部活の友達の話とかなら聞いたことあったけど…。」


麗香「星李は何歳けぇ。」


梨菜「中学3年生。」


麗香「へえ、受験生。」


梨菜「愛咲ちゃんの妹ちゃんと同い年なんだっけ?」


麗香「それはいいにして、部活は?」


梨菜「吹奏楽。」


麗香「最近、星李はおかしな行動を取ることはあったけぇ?」


梨菜「おかしな行動?」


麗香「そうけぇ。ちょっとした違和感でもいい。」


梨菜「ちょっとした違和感…それならいくつかあるかな。」


麗香「思いつく限り言って。」


梨菜「まず、金曜日の映画見てる時、一緒におやつ食べなくなった。」


麗香「これまではどうだったけぇ。」


梨菜「これまでは一緒におやつを食べてたよ。一緒に買い出しに行く時が楽しいの。」


麗香「…他には?」


梨菜「金魚のお世話するって自分から言ってたのにしなかったこともあったよ。」


麗香「管理能力が甘いってことけぇ?」


梨菜「ううん、星李は逆。」


麗香「逆?」


梨菜「うん。家の出費とかまめにつけるタイプだし、家事はほとんどを任せてた。私ができることといえば洗濯と掃除くらいで。」


麗香「…。」


梨菜「後は…あ、そうだ。家を出ていつの間にか帰ってくることもあったよ。」


麗香「何時頃?」


梨菜「夜の9時とか。その代わりにれいちゃんが遊びにきてたり。」


麗香「そんな時間に?」


梨菜「うん。2日か3日くらい星李がいなかった時があるんだけど、その間はれいちゃんと過ごしたよ。」


麗香「…何それ、おかしいけぇ。そんなの。」


梨菜「あのときはおかしいこともあるんだなって思ってたなぁ。」


麗香「星李は無事に戻ってきたけぇ?」


梨菜「うん!元気いっぱいで戻ってきたよ。」


麗香「その間、れいとはどんなことを話したけぇ。」


梨菜「あんまり会話は多くなかったかな。時々昔のことを話してくるくらい。あと、お姉ちゃんって言ってからかってくるの。」


麗香「似てることを利用してって感じ?」


梨菜「かな?ただの悪戯みたいな。あ、あと不思議なことはまだあってね。」


麗香「うん。」


梨菜「洗濯物が最近極端に減ってたり、星李は料理が得意なんだけどあんまり美味しくなかったりしたよ。」





°°°°°





最近、何となくだけど

星李に対して不思議だなと思うことが増えた。

ご飯は正直美味しく無くなってから

数週間経ったから慣れてきたけど、

でもやっぱりおかしい。

あと、ゴミ出しはこれまで

星李が担当だったのに

急に私に押し付けてきたのも数週間前のこと。

それから、金魚の世話をすると言いながら

多分だけど何もしてなかったこと。

最も簡単にからになった水槽を

思い浮かべることができた。



---



いつかからか、洗濯物が

異常なまでに少ないのだ。

それは、洗濯をサボっている

というわけでは無い。

毎週2、3回程回しているにも関わらず

何故か使用しているハンガーの数が

やたらと少ないのだった。





°°°°°





麗香「調味料を変えたからとかじゃなく?」


梨菜「うーん、なんか根本から変わった感じ。」


麗香「根本から?」


梨菜「そう。後は…ゴミ捨ての担当は星李なのに押し付けてきたり!」


麗香「…。」


梨菜「最近はサボりたいのかな。」


麗香「……じゃあれいの年齢は。」


梨菜「…正確には知らないけど、多分同い年。」


麗香「多分って…。」


梨菜「気にしてなかったから聞いてなかった。」


麗香「じゃあ行ってる学校や部活は。」


梨菜「…それも分からない。」


麗香「じゃあ、れいと星李はどこで会ったけぇ。」


梨菜「…分からない。」


麗香「…。」


梨菜「私、れいちゃんのことはほとんどわからない。れいちゃんは私のことを深くまで知ってるのに。」


麗香「…深くまで?」


梨菜「え?…うん。」


麗香「れいは嶋原達が小さい頃のことを、棘を刺すように話すって言ってたよね?」


梨菜「言ったよ。」


麗香「昔のことを、話したことはあった?」


梨菜「………え?」


麗香「会話、あまりなかったって言ってたから…不思議に思ったんだけぇ。」


梨菜「……話したことは…。」


これまでのれいちゃんとの会話を

ぐるりぐるりと巡ってみる。

どんな会話をしただろうか。

これまで、どんな。

どんなことを。


夏休み中盤の頃。

夏休みの終わりの頃。

そして、夏休みが

終わって以降の頃。


…。

…。

…。


どれだけ巡っても、

思い浮かぶのは私と星李の過去を

抉るようなことばかり。

それなのに、肝心なことを忘れていた。

その話をいつにしたのか、

私には記憶がない。

いつ、教えたのだろうか。


…。

…。

…。


れいちゃんとは一体

何者なのだろうか。


梨菜「…ない。」


麗香「…!」


梨菜「…ない……気がする…。」


麗香「じゃあ、何でれいは知ってたけぇ。」


梨菜「………。」


麗香「なんでれいは嶋原の昔のことを知って」


梨菜「知らないよっ!」


からん。

机を叩いたせいで

ティーカップがからりからりと

音を立てるのだった。

それにびっくりすることもなく、

麗香ちゃんは背に体重を預け続けている。

しかし、顔つきは明らかに違った。

信じられないものを見るような目つきで

こちらを眺めているのが分かる。

何かを確信したのか、

私を逃すようなことはしないと

意気込んでいるようにも見えた。


梨菜「…ごめん。」


麗香「落ち着いてもらってもいいけぇ?」


梨菜「うん…。」


麗香ちゃんはいつも冷静だ。

愛咲ちゃんのことになると

ツンとしていたり熱心になったりはするけど、

私たちの前では少なくとも

冷静沈着ではあった。


指先でティーカップを突き、

中に入っている紅茶が

揺らぐのを見つめた。

中身は麗香ちゃんに飲むなと言われ

口をつけていないままでいる。

ケーキも持ってきてくれるらしいのに

もったいないと思いながら、

その指示に従うばかり。

ティーカップには花柄の模様が

コップの縁を1周するように刻まれており、

可愛さと高貴さを醸し出していた。

このティーカップだって、

どこかで見たことのあるような気がしていた。

夢ではなく、きっと遠い記憶の中で。

決して私の家の中にあるようなものでは

ないことばかり分かる。


かつん。

爪を立てて突けばいい音がした。


麗香「…嶋原。」


梨菜「ん?」


麗香「これまで、星李とれいについては質問してきた。」


梨菜「あはは、ものすごい量でちょっと疲れちゃった!」


麗香「…あては、嶋原についても聞きたいことがあるけぇ。」


梨菜「ん、なあに?」


麗香「……嶋原と星李に昔、何があったのかを聞きたい。」


梨菜「私と星李に?」


麗香「そう。それから、今の生活のこと。」


梨菜「今の…。」


麗香「所々気になることがあったけぇ。」


梨菜「例えば?」


麗香「星李が出費を管理しているだとか、姉妹2人だけで家事を回しているように話すことだとか、星李が夜中に出ていってれいが来てたというのに親から問い詰められなかったりだとか。」


梨菜「…。」


麗香「あげれば沢山あるけぇ。」


梨菜「…そうかぁ。」


麗香「れいにも話していないはずのそのことを、差し支えないのであれば教えてほしいけぇ。」


梨菜「…。」


麗香「事細かに言えっていうわけじゃない。ざっくりでもいいんだけぇ。」


梨菜「…あはは、いいよ。」


麗香「…。」


梨菜「…私と星李はねー」


ティーカップを再度

かつんとつついてから、

私たちの過去について

思いを馳せるのだった。





°°°°°





私たち、今は2人で住んでるんだ。

星李と私だけ。

2人だけの幸せな生活。


小さい頃のことは

微妙に覚えてるよ。

なんていうんだっけ、

ネグレクトにあってて。

お父さんはいなかった気がする。

その時はいたお母さんは

全く私たちの面倒を見てくれない人だった。

ひもじくて、でもお金もなくて

耐え凌ぐことしか出来なかった。

確か、小学校に上がる前くらいのこと。

全部を覚えてるわけでもないし、

寧ろほとんど記憶から抜け落ちてるから

一部違うかもしれないけど、許してね。


冷蔵庫にあったものを、

出来る限り星李に渡してたっけ。

その頃小さかった星李は

いろいろなものを手掴みでそのまま口に

してしまうことだってあったような。

私の食べるものも

星李の食べるものが無くなっても尚

暫くお母さんが

帰ってこなかったことがあった。


本当に死期を感じた。

あぁ、もう死ぬかもって。

その時どうやって助かったんだかは

あまり思い出せないな。

お母さんが戻ってきたのか、

近所の人が見つけてくれたのか。

声を出す気力もなくって

2人で床を転がってたんだ。


気づいたら、ある程度は体調が戻ってた。

その次に待ってたのは

親戚の家のたらい回し。

私と星李の2人を引き取っては

役立たずだのいらないだの

好き勝手言って次の家への繰り返し。

その頃にはだんだんと

物心がついていくようになってたかな。

私も星李も然り。


まあ、あのお母さんの親戚だったもので

碌にいい人はいなかった。

いい思い出もない。

けど、いくら引っ越しても

同じ小学校、中学校には

通わせてもらってた。

多分手続きが面倒なだけだったと思うけど。

親戚は多くが神奈川にいたものだから

ある意味好都合だったのかな。

そんな中、波流ちゃんと出会ったんだ。

今は波流ちゃんのことは置いておいて

家のことだけ話すとこんな感じ。


私が高校生になった時

思い切って言ってみたの。

私と星李の2人だけで暮らしたいって。

2人なら出来ると思った。

あれだけ苦しい生活を乗り越えられた

私たちならできるって。

寧ろ今よりいい暮らしができるって

確信を持ってた。


最後に私たちを引き取って

面倒を見てくれた親戚の人は

そこそこ歳をとった夫婦でね。

その人達には長めにお世話になった。

小学生6年生から中学3年生くらいまで。

約4年間ほどお世話になっていたけれど、

信頼関係が成立することはなかった。

夫婦は他人行儀で

私たちとの距離を測りあぐねていたし、

私たちも私たちで2人だけの距離感だけで

生きていけるって思っていたから。

大人に対していいイメージなんて

お互いなかったんだと思う。


その夫婦は、私たちの2人暮らしを

快く了承してくれた。

背中を押すだなんて言っていたけれど、

もしかしたら私たちの世話は

面倒だったのかもしれない。

世話というほど何かをしてもらった覚えは

あまりないけれど。

その頃には、休みの日など特に

星李がご飯を作っていたから。


2人暮らしをする際、

お金の面だけは全面頼ることにした。

いいよって言ってくれたのだから、

思う存分利用しようと思った。

利害のためだけに見るのが

正解だったんだってその時知ったよ。

小学生の頃は純粋だったから

頑張って親代わりの人を

信頼しようと頑張ってみた。

けれど、大人は駄目だなって

思うようになっていった。

利用するのが正解だ。

多分、星李もそう思ったんじゃないかな。


ん?

あぁ、信頼云々は大人だけで、

さらに言えば親戚の人だけかな。

…あー…そうだね。

花奏ちゃんとちょっと似てるかも。

でも私は友達に対しては

そんなに不信感ないよ。

うん、似てるってだけで

根っこは全然違うね。


そして、去年の春からは

晴れて2人で暮らすことになった。

とても爽快な気分で、

毎日が楽しくなった。

薔薇色の人生って感じかも。

大好きな妹と2人で暮らす。

休みの日なんていつまでも眠っていていいし

勉強だって好きな時に出来るし、

親代わりの人の介抱を

しなければならないなんてこともない。

テレビも買ってもらったから

週に1回は妹と映画を観れるし

好きな時に好きなおやつを買って

一緒に食べることだって出来る。

2人だからいくら身内とは言え

不平不満があって喧嘩をすることはあるけれど、

2人だからこそ手を取り合って

頑張って生活するんだ。

すぐに仲直りをするの。


今、毎日が楽しいんだ。

今、夢見たいな生活をしてるんだ。





°°°°°





ざっくりでもいいと言ったものだから

言葉の通りざっくりと話をした。

麗香ちゃんはじっと私のことを

見つめていたはずだけど、

私が突ついていたティーカップから

目を離して顔を上げてみれば、

麗香ちゃんも紅茶を眺めていた。

けれど、私みたいに突くことはなく

じっと見つめるだけだった。

紅茶の先に何を見ているのか

私には計り知れない。

次に出す言葉を探しているのか、

それとも自分のことと重ねているのか、

将又可哀想だと感じているのか

私にはわからない。


次に出てくる言葉を待っていたけれど、

ふうー、と長いため息が

口から漏れるだけだった。

そして、数秒の間

無音が聞こえるほどに時間が経た頃。


麗香「………そうけぇ。」


ぽつり、ひと言。

紅茶に滴っていった。


梨菜「うん。」


麗香「そのこと、遊留は知ってるけぇ?」


梨菜「知ってるよ。親戚の間をたらい回しにされてたから住所が何回も変わってて。流石にバレたよ。」


麗香「今みたいな説明をした?」


梨菜「してる。今私が2人暮らしをしてることも知ってる。」


麗香「…。」


梨菜「今住んでるところだって、色々知ってくれてる親友の波流ちゃんが近くにいるからそこにした。」


麗香「…へぇ。」


梨菜「…。」


その先の言葉に迷ったのか、

ティーカップを手にしては

話すだけの動作をしていた。

飲んではいけないことを

不意に思い出したのだろう。


麗香「………いろんな人生があるね。」


梨菜「ね。」


麗香「最近、思い知ってばっかりけぇ。」


梨菜「うん、私も。」


暗い話をしたわけでも

ないと感じているのに、

お互い下を向いて口数は少なく

時間が経つのを待つばかり。

れいちゃんが早く来てくれれば。

そう願った時だった。


かちり。

きぃ。


ふと、扉が軋むような音が聞こえ、

その方向へと顔を向ける。

それは、麗香ちゃんだって一緒だった。


れい「お待たせー。」


梨菜「あ、れいちゃん!」


れい「ケーキは今遠くにあるからもう少し待ってね。」


梨菜「はーい。」


麗香「…遠く?」


れい「そうだよ。ここの部屋から遠くにあるの。」


麗香「キッチンはそこなのに?冷蔵庫もあるし。」


れい「けど、まだなものはまだなんだ。」


梨菜「待ってようよ、麗香ちゃん。」


麗香「…。」


麗香ちゃんは明らかに不機嫌になり、

ばっとその場を立っては

今れいちゃんが出てきた

扉の方へ向かった。


先程も、この家から出られるか

試しては見たのだ。

扉は3つほどあり、

その全てが鍵がかけられていたのか

開くことはなかった。

しかし、たった今れいちゃんが出てきたのだ。

次は開くに決まってる。

麗香ちゃんはそう踏んだのだろう。


そのまま足早に扉へと向かい、

ドアノブに手をかけた。

アンティーク香る焦茶色の

重たそうな扉だった。

ああ。

やはり見たことがある。


がち。

がちがち。


麗香ちゃんが開こうとした扉は

既に固く閉ざされているようで

開く様子はなかった。

れいちゃんが鍵を閉めた様子もなかったのに

一体どうしてなのか気になっていたが、

それを考える時ではないのかもしれない。

それ以外にもっと大事なことが

あるのだと悟った。

どうやってここから出るのだろう、と。


麗香「…何でっ…。」


れい「まあまあ、席についてよ。」


麗香「いろはは。」


れい「あぁ、2人も家によんだよ!」


麗香「…!」


れい「これから2人を迎えにいくんだー。」


梨菜「ここにくるの?」


れい「うーん、どうだろ?」


麗香「…。」


れい「あの2人には頼みたいことがあるから、それ次第かも。」


麗香「ここに呼んで。」


梨菜「麗香ちゃ」


麗香「もしくは、2人と合流させて。」


れい「ううーん…考えてみるね!」


れいちゃんは明るい声でそういうと

ティーカップの中身を覗き見ては

困ったように笑って

そのまますたすたと

歩いて行ってしまった。

別の扉から出て行ったが、

麗香ちゃんは何も思ったのか

先ほどのようにくってかかるかの如く

扉に向かうことはなく、

その場で立ち止まって

れいちゃんの背を睨んでいた。


きぃ。

そんな音が木霊し続けている気がするも、

そんなのはまやかしだと知る。

だってここには無音がいるのだから。





***





れいちゃんに、家に連れられたはいいものの

梨菜と麗香ちゃんの姿が全く見えない。

れいちゃんは何かを取りに行くと言い、

扉の向こうへと消えてしまった。


このログハウスは

見た目に反して結構大きいようで、

1本の長い廊下にいくつもの和室が

くっついていた。

そのつながり方は複雑で、

ひとつの和室に襖が2つあり、

別々の和室に

繋がっているということもあった。

柱を見ていると、年季が入っているのか

色が褪せているように見える。

外見は新築そうだったのに、

ここは匂いも含めて古臭い。


和室と廊下だけ見ると

まるで美月ちゃんの家のようだ。

美月ちゃんの家も、

彼女の部屋にたどり着くまでに

多くの和室や扉を通り過ぎた。

それをモチーフにしたと言っても

何ら疑問すら抱かないほどに。

構造は全く同じとは言えないだろう。

いくつかの扉の位置や

和室の位置が違うことから

美月ちゃんの家とは違うとわかる。

同じはずがないのに、

もしかしたら

あり得るかもしれないと思うあたり

正常な思考など

出来ていないことに気づく他ない。


いろは「わあ、これはここに繋がるんだぁ。」


波流「あはは…。」


いろは「なんだか迷路みたいで楽しいですねー。」


波流「そうかな?」


いろは「はい!秘密基地って感じもするしー。」


いろはちゃんのそばから離れないよう

出来る限り一緒に行動しているはいいものの、

いろはちゃんは自由に動き回った。

話し方もそうだがマイペースなのだろうと

感じるところは所々にあった。

もしくは、梨菜のように

何も考えていないのか。


廊下の両サイドと和室の

部分部分に扉があるが、

そのどれもが開かなかった。

なので、限りある中で和室の部屋を

ぐるりと見回っているわけだが、

相当な部屋数があるようで

いくら見回っても尽きないようにすら

感じてしまうほど。


れいちゃんには靴のまま上がっていいと

言われたけれど、

流石に畳の部屋では気が引けると

いろはちゃんと話しており、

片手は靴で塞がっている。

ぱっと靴を見てみれば

だいぶ履き潰していることに気づいた。

帰ったら買い替えた方が

いいかもしれない。


いろは「じゃあ、次はこの部屋でー。」


波流「気をつけてよ?何が起こるか分からないんだし…。」


いろは「はーい。」


分かっているのか分かっていないのか、

のほほんとした声で返事をしては

次の和室へと向かうために襖に手をかけた。

するうぅ、と特有の音が鳴ったと思えば

新たな光景が目に届く。


いろは「わあ!凄いー。」


そこには、立派な囲碁の板があった。

四つ足でちょっとばかりカーブの効いた

お洒落なタイプの机型で、

反対の襖越しに日が差しているお陰で

とても趣のある部屋になっている。

しかも3つもそれらはあった。

ひとつは中央に置かれているのだが、

もう2つは部屋の端に

乱雑に置かれている。


波流「立派だね。」


いろは「ですねー。」


いろはちゃんは何を思ったのか

日の差す方の襖を開こうとしたものの

開かなかったようで、

ちからを入れているらしい背中だけが

私の瞳に映っていた。

どうやら、外に通じていそうなところは

全て開かないらしい。

襖に鍵はないものだから

どうやって固定しているのか

まるで分からないけれど、

そういうものだと思うのが1番いいはずだ。

これについては

考える方がばかばかしくなってくる。


いろは「ふんぬっ…。」


波流「いろはちゃん、無理そうだよ。」


いろは「ふぬぬっ…はぁ………駄目ですねー。」


波流「簡単に外に出れることはなさそうだね。」


いろは「でも、ひとつだけ出れる扉があったとして…それを見逃してたってなると悔しいです…。」


波流「それはそうだけど…。」


いろは「れいさんに聞いてみますかー。」


波流「あはは…あんまりあてにならなそうだね。」


いろは「やっぱりそうなんでしょうか…。」


波流「多分…。」


いろはちゃんは疲れたのか

碁盤の前に座り、

ぼうっとその目を眺めた。

碁盤の目を見ていると、

遠近感がおかしくなるのか

どこを見ているのか

分からなくなった経験がある。

それは、小学生の時でも経験出来る。

例えば方眼紙。

自然と横の列にずれていた、

なんてことが時折あったものだ。


いろは「綺麗に使われていますね。」


波流「確かに。」


いろは「白黒のあれはないんですかね?」


波流「あー…碁盤だけっぽいね。」


いろは「なんだー、残念。」


波流「一応は人の家だから少し遠慮しておこうよ…。」


いろは「はーい。」


ゆるりとこちらを向いて微笑むものだから

もういいかと思ってしまう。

私もハイキングの疲れが

今になって襲ってきているのか

足が疲れたと感じたので、

徐にいろはちゃんの前に座る。

碁盤を挟んで向かい合うような形だ。


彼女は私以上に疲れていたのだろう、

靴の底を合わせて近くに置いた後、

そのまま後ろに倒れて

大の字のようになりながら

寝転がったのだった。


いろは「わぁー。」


波流「あはは。」


いろは「この碁盤を使っていた人は、囲碁が好きだったんですかねー。」


波流「そうじゃないかな。」


いろは「沢山碁盤がありますもんねー。」


波流「ね。」


いろは「好きなことに真っ直ぐっていいなぁ。」


伸び伸びとした声を

天井や壁に伝わせていた。

伸びやかな声だからか

または家が木造だからか、

声が家に浸透していくような感覚に陥る。


いろはちゃんが黙ってしまうと

私も声を発するタイミングがなくなり、

次に襲ってくるのは

小さな針が無数に降ってくるかと

勘違いしてしまうほど

細い細い雨のような静けさだった。

2人の呼吸音の底まで

聞こえてきそうなほど静か。

私たち以外に

誰1人としていないような、

そんな静けさ。


いろは「…2人とも大丈夫ですかねー?」


波流「分かんない。れいちゃんも戻ってこないね。」


いろは「はい。」


間の抜けた声がしとしとと

降るように森の館に響くも、

行先虚しく足元に転げ落ちた。


梨菜と麗香ちゃんが姿を消してから

どれだけの時間が

経過したのか梅雨知らず。

私といろはちゃんの間には

絶妙なぎこちなさが

延々と跋扈している。

何気ない話をすればいいんだろうけど、

心配のあまりか背中をぐっしょりと

普段は流れないような気持ちの悪い汗が

つうっと背骨のあたりを滑った。


いろは「んー…。」


いろはちゃんは何も感じていないかのように

大きく長い伸びをひとつ。

見ていると欠伸が出かかったが

この状況だ、我慢するべきだと

心の奥底に眠る常識が声を上げた。

と、私が葛藤している間にも

隣からは靄の塊がふわふわと飛んだ。

紛れもなく彼女の欠伸だった。


いろは「ふぁ…ふぁ…。」


波流「何だか緊張が解けてくるね。」


いろは「え?そうですか?」


波流「ほら、いろはちゃんがあんまり心配したり不安になったりしてないからさ。」


いろは「私めちゃくちゃ不安ですよ?」


波流「嘘でしょー。」


いろは「んーん、ほんとです。」


ふにゃりと笑って、寝転がったまま髪の毛を

くるりと人差し指に巻いた。

その仕草はこれぞ女の子という雰囲気。

可愛らしい服装も相まって

その出で立ちに磨きがかかっている。

しかし、寝転がっているせいで

そのほとんどが台無しだ。

台無しとは言え、

纏っている雰囲気は女の子そのものだった。

おさげということもあるのか、

私個人の理想の愛たい妹像と言っても

過言ではないかもしれない。


いろは「ここから出れるのかなとか、2人は大丈夫かなとか。不安な事だらけです。」


波流「の割には欠伸してたけど。」


いろは「うーん、緊張よどっか行けーっていう心持ちです。」


波流「あはは、何それ。なんか気が抜けちゃうな。」


いろは「他にも不安はありますよー。」


波流「あるの?」


いろは「はい。身内話になっちゃうんですけど、麗香ちゃんがまた没頭出来ることを見つけられるかなとか、私ってこの先もっと絵を上手く描けるのかなーとか。」


波流「ここを出る前提の不安だね。」


いろは「確かにー。」


波流「いろはちゃんは美術部なんだっけ。」


いろは「はいー。」


波流「絵を描くのが好きなんだ?」


いろは「そうなんですよー。それ以外脳がないんです。」


波流「ずっと描いてるってこと?」


いろは「ほぼずっとですね。」


波流「えー凄い!」


いろは「そうでもないです。最早生活の1部なんですよ。」


波流「生活の一部?」


いろは「歯磨きと一緒です。呼吸も同然とまでは言いませんが。」


波流「なるほど。」


いろは「波流さんはありますか?これは生活の一部だなって思うもの。」


波流「私で言えば音楽かな。」


いろは「音楽好きなんですか?」


波流「うん、ずっと聞いてる!」


いろは「ふふ、じゃあそれと一緒です。」


波流「でもさ、私は受け取るだけだから。ずっと作ってるって凄いよ。」


いろは「それがいまいち分からなくて。」


波流「あー…描けるのが当たり前になっててってこと?」


いろは「それに近いです。歯磨き出来ますって言って偉ーいってなりますか?」


波流「あんまりならない…。」


いろは「それと一緒なんです。」


波流「凄い、同い年でそこまで感じてるなんて。」


いろは「え?」


波流「ん?」


いろは「私、中学2年生ですよ?」


刹那、時間が止まるのを感じた。

そんな重大な事実を

何故麗香ちゃんは黙っていたのか。


確かに敬語だし

距離は感じるなって思ったものの

いろはちゃんは身長が高くて

梨菜や麗香ちゃんくらい、

それよりも若干高いくらいだったものだから、

つい同い年と思って接していた。

現代は怖いものだと思い知る。


いろはちゃんはというと

天井を見上げていたはずが

少しだけ起き上がってこちらを見ていた。

きょとんとしているのが伺える。


波流「………は…え、えっ?3歳も下だったんだ!?」


いろは「あれ、麗香ちゃんから聞いてませんでしたか?」


波流「麗香ちゃんからは何も。」


いろは「もー…いつも雑なんだからー。」


波流「あははっ、えー麗香は雑なイメージなかったなー。」


いろは「そうなんですか?」


麗香の話題になると

少しばかり腰骨を立てて

上半身を前に乗り出した。

そして私の顔を

覗き込むようにして首を傾げる。

するとばっちりと目があった。

好奇心旺盛という言葉が似合うと

不意に脳裏を過る。


波流「うん。どちらかと言うとしっかりしてる方だと思うよ。」


いろは「意外すぎます。」


波流「一体いろはちゃんからはどんなイメージがあるの…。」


いろは「自由人。」


波流「いろはちゃんも大概だけど…。」


いろは「部分的に似てるんでしょうねー。」


波流「あぁ。」


いろは「幼馴染って似るものですよー。」


波流「それはわかるかも。」


いろは「あれ、梨菜さんと波流さんも幼馴染なんでしたっけ。」


波流「そうなの。」


いろは「納得ですー。」


波流「あはは、似てた?」


いろは「性格とか明るさが似てるかなって。」


波流「やっぱり幼馴染ってそういうものなのかな。」


いろは「長く一緒にいるってことはお互い尊敬しあえる部分があるってことじゃないですか?」


波流「なるほど。」


いろは「それとか、気のおけない仲だからこそ言えることがあったり。」


波流「いろはちゃんもそう?」


いろは「ですねー。」


にこっと笑うものの、

何かを考えていたのか

少しばかり困っているようにも見えた。

仕方のない人だと言いながら

笑っているような感覚。

嫌なところもあれば

好きなところもある。

そして、尊敬できる部分もある。

だから友達として、親友として

ずっとやっていけるのか。


…。

…。

…。


それを、梨菜に当てはめて考えてみる。

悪いところは、遅刻癖と…

あとはだらしなさすぎるところがある点。

遅刻癖もだらしないに

含まれるのだろうけれど、

主にはそれ以外の部分だ。

起きる時間がばらばらすぎたり、

お風呂をサボり続けるなんてことも

ざらにあると聞いたことがある。


好きなところは…明るいところ。

ちょっかいかけても

笑って受け取ってくれるところ。

昼ごはんをくすねても

文句ばかり言って

本気で怒ることはないところ。

家族仲がいいところ。

星李を大事にしているところ。

…。


尊敬しているところは、

誰とでもすぐに仲良くなれるところ。

素直で、探究心が物凄いところもそう。

星李を大事にしているところは

尊敬にも入るかもしれない。

素直なところだってそう。

そして、嘘をほとんど吐かないところ。

私とは違って。


梨菜は、私が持っていない

多くのものを持っている。

同時に、少しばかり梨菜にはないものを

私が持っている。

その差異がパズルピースのように

うまく合致した。

得手不得手が噛み合ったのだ。

お互い補い合える関係だったのだ。

…。

今は、どうだろうか。

考えれば考えるほど

分からなくなっていくなんてことは

なんと実際にもあるもので、

1度思考を手放すことにした。


刹那、どこかしらから

きぃ、という音が聞こえた気がした。

無音なものだから

音が発生すると遠くでも

響いてくるもので。

木造ということも原因のひとつとして

挙げられるかもしれない。

暫く耳を澄まして待っていると、

突如、背にあった襖が

開くのが分かった。


れい「あ、いたいた。」


振り返ってみれば、

そこにれいちゃんはいた。

手に何かを持っていて、

よくよく見てみると何やら

冊子のようだった。


いろは「寛いでましたー。」


れい「ご自由にどうぞー。」


いろは「この碁盤、立派ですねぇー。れいさんのものなんですか?」


れい「れいのじゃないよ。そんなのもう誰も使ってない。」


いろは「じゃあ昔に使ってたとか?」


れい「ううん、ただのゴミだよ。」


波流「ゴミって…こんなにちゃんとしたものなのに?」


れい「元から余り使われてなかったんだ。」


宝の持ち腐れということなのか、

れいちゃんにはこれの価値が

いまいち分からないらしい。

私も私でちゃんと

分かっているわけではないものの

高級品なのだろうということは

嫌でもわかるものだ。


指先で碁盤の目を撫でている

いろはちゃんを横目に、

れいちゃんの方へと向く。

やはり手には冊子を持っている。

本だろうか。


波流「そういえば…れいちゃん。」


れい「何?」


波流「この家って外見だと2階建て以上だなって思ったんだけど、2階ってあるの?」


れい「あるよ、吹き抜けのお部屋。」


いろは「吹き抜け?行きたい!」


れい「多分そうだったと思うよ。」


波流「多分?」


いろは「ここに住んでるんじゃないの?」


れい「その部屋には小さい頃に数回行って以来だから

れいもあんまり分からない。」


波流「そうなんだ?」


いろは「このおうち広いですもんねー。」


いろはちゃんは再度

倒れ掛かりそうになりながらも

後ろに手をついてストッパーをかけていた。

やはり、あまり深くは

考えていなさそうだ。

彼女は、麗香ちゃんの先輩である

愛咲先輩が行方不明になったことを

知っているのだろうか。

知っていたら、もっと深刻な

顔をしているのかもしれない。

それとも、知った上で

不安じゃなさそうにしているか。


れい「2人にね、お願いがあるの。」


波流「お願い?」


れい「うん。この本をね、元の場所に戻してほしいんだ。」


そう言って、手に持っていた冊子を

こちらに手渡してくれた。

本というよりはノートだったよう。

見えたのは自由落書き帳。

それと、国語のノート等。

小学生が使うような

方眼紙があるタイプのもののようで、

懐かしい気持ちに陥った。

いろはちゃんはさっとその場を立ち、

ノートを見ようとこちらに寄ってきた。


いろは「懐かしいー。」


波流「だよね。」


いろは「中は見ていいの?」


れい「うーん、見ない方がいいと思ってるけどどうなんだろう?」


波流「人のだしやめておこうよ。」


いろは「なるほどー。」


れい「それで、頼み事引き受けてくれる?」


波流「いいよ。」


れい「やった!ありがとうー。」


そう言って健気に笑う姿は

どう頑張ってもれいちゃんではなく

星李にしか見えなかった。

いろはちゃんに有無を聞かず

答えてしまったものの、

彼女の方を向いて反応を見れば

異論はないようで、

こちらを見て日向のような優しい笑顔で

頷いているのだった。


れいちゃんへ嬉々として

冊子を手渡してくれた。

随分と古びているようで、

最も簡単に手で裂けてしまいそうなほど。

先程のれいちゃん同様

両手で大事に抱えるようにして持つと、

安心したのかれいちゃんは微笑んだ。


波流「それで、これはどこに戻せばいいの?」


れい「その部屋までは案内するよ!こっちこっち。」


いろは「ありがとうー。」


いろはちゃんは疑うことを知らない

純粋な子供のように

れいちゃんの後を追おうとしていた。

その手をとって引き止めようとしたものの、

したところでどうにかなるわけでも

ないと思い、その行動までには至らなかった。


足音だけが降り積もる中、

私よりも幾分か

背丈の低いれいちゃんの後を追う。

星李もこのくらいの身長だと

しみじみ思うばかりだった。


どの扉も開かなかったはずなのに、

れいちゃんが扉に触れると

まるで何もなかったかのように

すんなりも開く。

そのままついていくと

横幅の広い木製の階段が見えてきた。

お金持ちの家だと一目瞭然。

階段が広い上に絵画まで

飾ってありそうなほど。

そのまま上がると

いくつかの広大な部屋を経由した。

全て何もないかの如く通り抜けていくのだが、

ひとつひとつが気になって仕方がない。

何故なら、別々だが寝室を2度通ったり、

方向は全く違うはずなのに

同じ洗面所を2度も通ったりしたからだ。

しかし、れいちゃんは気にせず

どんどん進んでいく。

いろはちゃんも、

何かを口にするわけでもなく

淡々と進むばかり。


扉を通るたびに

風が吹くことだって不思議に感じた。

多少の風があるのは

普段からでもあることだし

理解できるのだが、

窓を開けっぱなしにして

扉を開閉した時のような、

そこそこ強めの風を感じるのだ。

トンネルを通った時に

1度感じたあの風のよう。


窓は今のところほとんど見当たらない。

あるとしてもカーテンの閉じられた窓ばかり。

れいちゃんすら閉じ込められているのでは

ないかとは考えたのだが、

こんなにも自由に歩いていて、

体に傷があるわけでもない状況に見えるので

違うのだろうという結論に至る。


奇怪な家の構造の先に、

開放的な図書館のような部屋が現れた。

いろはちゃんはれいちゃんを追い越して

走って手すりのある方へと向かった。

私もそれについてゆく。

吹き抜けになっていて下はリビングの様子。

大きめの机が目に入った。

吹き抜けの大きさも

洒落にならないくらい大きく、

バドミントンコート2個は

入るだろうと思うほど。

2階部分はコの字型になっており、

ぱっと見ではここから

1階に降りることができる階段はなさそう。

別の部屋から行かなければならないようで。


れい「じゃあ後はよろしくね。」


波流「…え!」


いろは「待って、まだ聞きたいことが」


麗香「あぁ、上の本棚はそこに吊り下がってる紐を引っ張れば行けるから!」


れいちゃんは急いでいたのか

早口でそういうと、

来た時の扉とはまた別の

扉を通ってどこかへいってしまった。

扉を閉める時、走って駆け寄り

足でも挟めばよかったのだろうが、

冊子を抱きしめたまま

足が動かなかった。

今日は足が動かない。

それを悉く知ることとなった。

いろはちゃんだってそうしなかったのは

何かしら思うところが

あったからじゃないのかと思案する。


いろは「…物凄い本の数なのに、どこに戻せっていうんでしょうかね…。」


波流「…だよね。」


自然のうちにノートを

力強く抱きしめていた。

れいちゃんの存在自体

懐疑的に見ているのだが、

彼女の大切にしているであろうものを

蔑ろにできなかった。

大切なものだと伝わるからこそ、

微妙に人間らしさが伺えるからこそ

迷ってしまうのだ。


いろは「紐、引いてみませんか?」


波流「れいちゃんの言ってたやつ?」


いろは「はい。ここ、天井が高いですし上までは絶対届かないです。」


いろはちゃんに言われて漸く

壁を見てそのまま上を眺めた。

なんと壁一面が本棚になっており、

学校の図書館よりも

蔵書数は大きのではないかと

思ってしまうほど。

それが、コの字で言う辺のない部分を除く

3面に渡って広がっていた。

ざっくりと見て通してみると、

本棚にはいろいろな種類の書籍が

あることが見えてくる。

図鑑から小説、日記まで様々だ。

まるで美月ちゃんの部屋にある

本棚のようだった。


ぼうっとしたまま天井を眺めていると

いろはちゃんは天井から

吊るされていた紐を引っ張っており、

天井に格納されていた階段が降りてきた。

どのような仕組みになっているのか、

戻す時はどうするかなど

何ひとつ理解できないのだが、

分かったことはひとつ。

常識は通用しないと言うことだろうか。


階段はよくよく見てみれば

1段1段のその段差にすら

本が詰まっているのだった。

それなのに、どんと大きな音を鳴らして

唐突に階段が展開されることもなく、

緩やかに下がっては

いろはちゃんの足元にまで届いた。

強く閉めても閉まる直前で

減速する扉に似ているのかもしれない。


いろは「わあ!すごいすごいー!」


波流「ちゃんと手すりもあるみたいだね。」


いろは「ですね!わぁー…。」


波流「登ってみる?」


いろは「先に登っちゃっていいんですか!」


波流「あはは、全然いいよ。」


いろは「ありがとうございます!」


いろはちゃんはこれまでのどの時よりも

うきうきとしているようで、

言動全てに喜びの色が表れている。

秘密基地という言葉に

どきどきするタイプに違いないと

頭の隅で思いながらいろはちゃんを見守る。

ロングスカートだったおかげで

斜め下から見上げても

問題なさそうで安心した。

いろはちゃんは手すりを持ちつつも

恐る恐る階段を登る。

そして、1番上の本棚まで届いたのか

くるりと身を翻し

階段に腰をかけた。


いろは「わぁー…怖いー。」


波流「高所は苦手?」


いろは「人並みに苦手ですねー。ぞくっとします。」


波流「あはは、分かるなぁ。」


いろは「もし落ちちゃったらどうしようとか考えるんです。」


波流「そうそう。けどなんか悦を感じるんだよね。」


いろは「そう、そうなんです!」


ぎゅっ、と再度手に力を入れると

古びたノートが軋んだような気がした。

こんな沢山ある本の中、

どこに戻せというのだろうか。

自由帳やノートのため

背に番号が振ってあるわけでもない。

まずは似たような棚があるのか

探したほうがいいのかもしれない。


ふらりふらりと影が揺らぐ。

何かと思えば、いろはちゃんが

足をぷらんぷらんと揺らしていた。

階段は左右に移動させることができるのか、

床と天井にレールらしきものが

あるのが目につく。

ひとつひとつここにある本を

見ていかなければならないのか。

やると言った以上

やるしかないのだけれど。


暫くやる気も何も出ずに

みんなといつ合流出来るのか

考えているふりをしていた。

いろはちゃんも何かを口にすることなく

黙ったまま足をゆらつかせている。

その影は私の元で踊り狂うものの

一緒に踊る気にはなれなかった。

それからどれほどの時間が経たのか

私たちには正確には分からなかったが、

間違いなく10分以上は経たはず。


…。

ひと息吐いたのち、

やろうと心を決めた時だった。


かちり、

ぎい。


そんな音がどこかからした。

周りを見渡してみても

れいちゃんの姿も梨菜も

麗香ちゃんすらいなかった。


何だ、音がしただけか。

そう思いながら尚

本棚に寄りかかってはぼうっとした。

やる気を削がれたような気分になり、

遂にはそこに座ってしまった。

音がしたということは

どこかしらの扉が開いたはずなのだ。

少しの時間だろうと、開いているはずー


いろは「あ。」


波流「…ん?」


いろは「波流さん波流さん!下に2人、います!」


波流「…えっ!?」


いろはちゃんはだだだと

まるで滑るように階段を降りては

吹き抜けの手すりのある方へ走っていき、

ぶつかるようにして止まる。

私もゆるりとその場を立って

足早に駆け寄ってから

吹き抜けの下の方を覗いてみた。

すると、先程と何ら変わらない

大きめの机があるリビングだった。

しかし、よくよく見てみると

その近くに人影があるのがわかる。


波流「…!梨菜ー!」


梨菜「…?」


波流「上、上!」


梨菜「ん?…あ、波流ちゃん!」


ぴょんぴょんと跳ねながら

手を上げてこちらに笑いかけている梨菜と

無愛想ながらこちらを見つめる

麗香ちゃんがそこにはいた。





***





見上げると、そこには

波流ちゃんといろはちゃんがいるようで、

2人の快活な声が届く。

天井に電気があるせいで

手すりから身を乗り出してこちらを見る

2人の顔は残念ながら影が多いけれど、

再会できたのを喜んでいるというのは

十二分に伝わっていた。


私と麗香ちゃんは

キッチンとダイニングの繋がっているような

部屋にいたのだが、

れいちゃんに突如連れられ

こんなところにまできてしまった。

ここに来るまでに気づいたことがある。

この家は、外見よりも遥かに

内側の方が広いということ。

今いる1室だけで

外から家を見た時の広さと

ほぼ相違ないほどだった。


ぱっと見たところ、2階の壁は

本棚になっているようだが、

1階の壁は絵画が飾られていたり

謎の剥製があったりと

図書館のようではなかった。

本が多く存在しているのは

2階のみらしい。

1階は見回すに食堂のような

雰囲気が漂っている。

しかも、狼が眠っていそうな

若干不穏さのあるものだ。

剥製がよりその雰囲気を

醸し出しているに違いない。

洋風のお屋敷といえば伝わりやすいだろうか。

和室があり、低く大きな机がある

日本ならではの食卓ではなかった。


麗香「へー…繋がったんだ。」


いろは「麗香ちゃん、無事?」


麗香「無事ー。いろはは?」


いろは「何もないよ、無事ー!」


麗香「ならよかった。」


麗香ちゃんも安心したのか、

少し笑みをこぼしていた気がする。

上を向く彼女の首には

幾らか筋が浮かんでいて、

それも冬になれば

マフラーで隠れてしまうのかと

時間の流れを感じる。


波流「今、れいちゃんから頼まれて本を仕舞いに来たの。」


梨菜「本を?」


いろは「本っていうよりノートって感じですー。」


麗香「中身は?」


いろは「見てないよー。れいさんが、中身でいいか分からないって言っててー。」


波流「これなんだけど。」


落とさないように両手で持ちながら

波流ちゃんは私たちに見せてくれた。

光の角度上なかなか

細部までは見れないものの、

使い古されたノートであることは

何とか見てとれる。

自由帳や小学生が授業で使うノートらしい。


その数冊を見せてもらう中で、

私にはどうにも見覚えが

あるものしかないことに気づいた。


全て知ってる。

知ってるのだ。

懐かしい。

きっとこの剥製のある食卓だって、

2階部分の図書館だって

見覚えはあるのかもしれない。

今は思い出せないだけで

もしかしたら記憶の奥に

眠っているのかもしれない。

けれど、今は全く想起されなかった。

分かるのは、そのノートに

見覚えがあるということだけ。


麗香「ノート…。」


梨菜「仕舞ったら出れるのかな。」


波流「さぁ…でも普通の書籍とは違って背中に番号のシールがあるわけじゃないから、どこが正解かわからなくて。」


麗香「とりあえず同じようなノートが詰まってる棚を見つけて、後は日付順で並べるとかだと思う。」


波流「日付順?」


麗香「もし中身が日記だとしたら想像しやすいと思う。」


梨菜「小学生の時ってさ、授業だとしてもノートの隅に何月何日って書く場所があれば律儀に書いてたよね。」


いろは「わ、懐かしいー。」


梨菜「えへへ。」


麗香「だから、正解の位置に戻したいなら中身を見るべき。」


波流「…なるほど、分かったよ。」


いろは「2人はこれまでどこにいたのー?」


梨菜「ダイニングみたいなところだよ!お茶を出してもらって、ケーキを待ってたんだけど途中で連れてこられちゃった。」


麗香「お茶は飲んでない。大丈夫。」


波流「あ、そっか。こっちで何かを口にしたらどうやるか分からないもんね…。」


麗香「帰れなくなるのは嫌だし。」


梨菜「…2人は帰り道って分かる?」


いろは「それは…。」


波流「…。」


2人とも口を閉ざすあたり、

ここにいる誰もが

帰るための道を知らないということを

示しているのだった。

帰り道…それこそ、

玄関を見つけられれば

それでいいのかもしれない。

しかし、この空間の中で

それが出来るのだろうか。

部屋の繋がりが

あべこべになっているこの家では、

そう簡単にいきそうもない。


麗香「…今度れいに会った時、聞いてみる。」


梨菜「答えてくれるといいな。」


麗香「嶋原が言えば聞いてくれそう。」


梨菜「うーん、どうだろう?結構意地悪なこと言われるし…。」


波流「私たちも次会ったら聞いてみるよ。」


梨菜「うん、よろしくね!」


麗香「ここから2階に上がれないの?」


梨菜「ぱっと見だと階段はないかな…。」


いろは「多分別の部屋から登ってこないと無理みたいですー。」


波流「私たちがそうだったよね。」


梨菜「そうなんだ!」


波流「だからここから上に登ったり逆に下がったりするのは難しいかな。」


麗香「なるほど。」


会えたはいいものの、

これではある意味合流とは

言えないのかもしれない。

お互いが会えるまで

扉の先へと進み続けるのが

得策なのだろうか。

それには、れいちゃんが必要だった。

私たちでは扉を開くことは

出来そうにないのだから。

しかし、れいちゃんについて行くだけで

みんなと合流できるようにも思えなかった。

れいちゃん次第なのだ。

私たちを合流させるも

引き離すことすらも。


れいちゃんとは一体何なのか。

何者なのか。


麗香ちゃんに問われて漸く

疑問に思ったのだ。

何故、私は過去のことを

話していないにも関わらず

昔のことを知っていたのか。

私と星李のことを知っていたのか。

母親のようになると言ってきたのか。

何故。

…何故。

何故なのか。


…そもそも、れいちゃんは

本当にここで暮らしているのだろうか。

れいちゃんは存在しているのだろうか。


そう思った時だった。

ぎい、という音が背後から聞こえ、

そちらへと視線を注ぐと

そこにはれいちゃんがいたのだ。

噂をすればとは

まさにこのことかもしれない。

れいちゃんはくしゃみをすることなく

扉から顔だけを覗かせて

こちらに声を飛ばした。


れい「お姉ちゃん、こっち来て!」


梨菜「…私?」


れい「勿論!」


麗香「…お姉ちゃんってどういうこと。」


梨菜「れいちゃんは私のことを偶にそう呼ぶの。」


れい「偶にじゃないよ、ずっとだよ。」


梨菜「あれ、そうだっけ?」


れい「ほら、早く。」


波流「梨菜!」


梨菜「…!」


波流ちゃんが大きな声で

私を呼び止めるものだから、

何か心の中で揺らいでしまう。

このままここに居続けた方が

いいのではないか。

折角今4人いるのだ。

ここから一緒に出る方法を

模索した方がいいんじゃー


れい「お姉ちゃん…?」


梨菜「…っ!」


れいちゃんは物憂げに

私のことを呼んで、

扉に更に隠れるように

身を引っ込めた。

…それは、小さい頃の星李が

よくしていた仕草だった。

未だに覚えている。

…というよりも、たった今

思い出したという方が正しいのだろう。





°°°°°





星李「お姉ちゃん…?」


梨菜「ん、どうしたの?」


星李「…またお引っ越し?」


梨菜「そうだよ。次はどんなお家かな。」


星李「…。」


梨菜「どうしたの、星李。」


星李「…何でお引っ越しするの。」


梨菜「え?」


星李「お友達はね、そんなに引っ越すなんて変だって…。」


梨菜「…。」


星李「…私たち、変なの?」


梨菜「変なのはね、親戚の人たちなんだよ。」


星李「…私たちは?」


梨菜「変じゃないよ。」


星李「そうなの…?」


梨菜「うん。私たちは頑張ってるから大丈夫!」


星李「…!よかったぁ…。」





°°°°°





あの頃の星李はまだ幼くて

小学生低学年の頃だった気がする。

その頃の子供は

相手が少し世間でいう普通から

外れているだけで仲間はずれにしたがる。

人間、自分と違うものがいたら

受け入れがたいのはわかるけど、

残酷だとは思う。

星李も私の知らないところで

苦労していたのだと今更浮かぶ。


そのことを思い出してなお、

当時と同じような行動をするれいちゃんを

放っておくことなど出来なくなってしまって

ついつい足を踏み出した。

すると、れいちゃんは

私の意思を汲み取ったのか

小さく笑ってから扉の奥に消えていった。


梨菜「あ…待って…。」


麗香「…。」


梨菜「…。」


波流「梨菜、行かないで!」


麗香「…どうするの。」


麗香ちゃんは私にだけ聞こえる程の

小さな小さな声で問うた。

どうするのか。

それは紛れもなく、

れいちゃんと波流ちゃんの

どちらを取るのかという問いだ。

そう言っても差し支えない。


れいちゃんとは出会ってから

たった2ヶ月程の仲であり、

波流ちゃんとは出会って10年来の仲である。

この文字の並びだけ見れば

間違いなく波流ちゃんを取るのが

正解だと自分ですら分かっている。

しかし、れいちゃんには

たった2ヶ月だがそれ以上の時間を

共に過ごしていた気がするのだ。

そう感じた時には既に

答えなんて出ていた。


波流「梨菜、梨菜っ!」


麗香「…本当にいいの。」


梨菜「いいよ。」


再確認されるも、彼女にだけ聞こえるよう

そう返事をした。

私は、この選択は間違っていないと

心の底から思えるような何かがあった。

それは記憶なのか感覚なのか

まるではっきりとしないけれど、

後悔がないであろうことは

自然と伝っていた。

指先までじんわりと熱が染み渡る。

あぁ。

これを求めていたのかもしれない。


れいちゃんの後を追って

扉へと近づく。

すると、半分扉は開いている

状態のままになっており、

その先には別の部屋が見えた。

後ろには麗香ちゃんが

くっついてきているよう。

どうやら一緒に来てくれるらしい。


私は扉に手をかけ、

ひとつ大きく深呼吸をした。

肺の隅々まで酸素が行き渡ると同時に

脳がゆるりと揺られ

じんと鈍い痛みが襲う。


梨菜「間違ってない。」


呼気には、明らかに

これまでとは違う色が混ざっていた。

それは安心の色だったのかもしれない。


扉をくぐり、麗香ちゃんも

扉を通ったことを確認してから

ゆっくりとそれを閉めた。

すると、かちりと音が鳴り

閉まった合図がする。


梨菜「…。」


麗香「遊留は止めてたけぇ。」


梨菜「うん。」


麗香「しかも必死に。」


梨菜「…うん。」


麗香「遊留を選ばなくてよかったけぇ?」


梨菜「…いいの。私ねー」


扉から目を離し、

くるりと回転して麗香ちゃんに向かい合う。

その部屋は、誰かの寝室のようだった。


梨菜「星李と…いや、れいちゃんともっと話してたいなって思っちゃった。」


麗香「…。」


梨菜「麗香ちゃんこそよかったの?」


麗香「何が?」


梨菜「私についてきちゃって。いろはちゃんもいたよ?」


麗香「いいよ。2人ばらばらになる方が困るし。」


梨菜「ついてこさせちゃった?」


麗香「そうだね、嶋原のせい。」


梨菜「今回は許して!」


麗香「…出れたら許すよ。」


梨菜「そっか、そうしよう。」


私は1歩踏み出し、

また何歩か踏み出す。

麗香ちゃんを追い越して、

そのまま誰かの寝室に踏み入る。


梨菜「そういえば、麗香ちゃんっていろはちゃんには言ってないの?」


麗香「何を。」


梨菜「その、話し方とかいろいろ。」


麗香「言ってないけぇ。」


梨菜「どうして?」


麗香「幼馴染がこんなだと気持ち悪いって思われるから。」


梨菜「いろはちゃんがそう言ったの?」


麗香「いいや。」


梨菜「じゃあ、幼馴染なんだし大丈夫だよ。」


麗香「嶋原。」


梨菜「ん?」


麗香「幼馴染だからって何でもかんでも受け取ってもらえると思ったら間違いけぇ。」


梨菜「そう?」


麗香「そう。自分じゃなく他人であって、ある程度の線引きは必要。あてはそう考えるけぇ。」


梨菜「いろはちゃんのこと、線引きしてよかったの?」


麗香「ある程度、けぇ。親しき仲にも礼儀ありっていうでしょ。」


梨菜「…うん。」


麗香「あぁでも、何でもかんでも受け入れられる方が寧ろ気持ち悪いけぇ。」


梨菜「どうして?嬉しいことじゃないの?私のことをわかってくれるんだって思わない?」


麗香「そんなの、ただの置物けぇ。」


梨菜「そこまで言わなくても」


麗香「その人は自分のことだけを全て受け入れるんじゃなくて、他の人の全てだって受け入れてる。誰の特別でもなく表面だけのものになる。」


梨菜「…私はそうは思わないかな。」


麗香「ほら、今の。」


梨菜「…?」


麗香「受け入れられない。これが人間。」


振り返ってみれば、

麗香ちゃんの視線は明らかに鋭かった。

つまり、私は人間ということらしい。

彼女の話すことは微々ながら

理解できるような気がしながらも

その根っこまでは

辿り着けていないのだと

直感的に告げられる。

彼女は誰に対しても

受け入れられない部分があるのかもしれない。

それは家族にだって、いろはちゃんにだって、

愛咲ちゃんや羽澄ちゃんにだってあるのだろう。

いくら仲が良くても

他人だと線引きしているのだ。


麗香ちゃんの話してくれたことを

ぐるぐると頭の中で考えながら

部屋を見て回るも

れいちゃんの姿はなく、

どこに行ったのかと探すものの

出てきてくれない。

適当に他の扉でも

叩こうと思っていた時だった。


れい「こっちこっち。」


梨菜「あ、れいちゃん!」


れい「ケーキ、用意出来た。」


麗香「…。」


梨菜「本当!?やったぁ!」


れい「こっち来て。」


梨菜「うん!」


麗香「…。」


私たちはれいちゃんに付いて

いろいろな部屋を通り過ぎた。

そのどれもが妙に見覚えがある気がしたのだ。

どこで見たのか、

いつ見たのかと聞かれても

てんで思い出せないのだが、

通った部屋のいくつかは

外装よりも相当古臭く小さい部屋、

それこそオンボロアパートの1室のような

部屋だって多く存在した。

麗香ちゃんは何を思っているのか

計り知ることはできない。

ひたすら無言でついてくるだけだ。

私とれいちゃんは移動中

ほぼ話し合っていた。

最近の調子はどうだ、とか

最近見た映画の中で

面白いものはどれだ、とか。

その全てが楽しかった。

まるで。


…。

まるで、星李と話しているようだった。


刹那、見覚えのある部屋が目の前に広がる。

どうやら1番最初にお茶を出された

キッチンとダイニングのよう。

れいちゃんはこちらへと向き直し

両手を広げてこう言っていた。


れい「とうちゃーく。ここだよ。」


梨菜「あ、1番最初の…。」


麗香「戻ってきただけけぇ。」


梨菜「みたいだね。」


麗香「…これ……。」


麗香ちゃんは何かを見つけたのか

ダイニングテーブルの上に

置かれたものを注視した。

そこには、さっき飲まなかった

紅茶がそのまま置いてあり、

その隣にケーキと称された

別のものが置いてあったのだ。


麗香「…プリン?」


梨菜「…!」


れい「プリン?…それ、ケーキ!」


梨菜「星李?」


れい「…?」


れいちゃんは首を傾げるだけ。

きっともう、分かっているはずなんだ。

自分でも、理解しようと

し始めてしまっているのかもしれない。

それでも、あの記憶には

蓋をし続けなければならないのだ。

私は無意識のうちにそうすると

決めていたのだから。


麗香「…嶋原。」


梨菜「…。」


麗香「その子は、誰。」


梨菜「…。」


麗香「本当にれい?」


梨菜「…わか、らない。」


麗香「どうして星李だと思った?」


梨菜「…。」


麗香「理由、あるけぇ?にぃ?」


梨菜「…プリン…。」


私も机に寄って

お皿の上に盛られたプリンを

まじまじと見つめた。

あぁ。

懐かしい。

ただ淡々とそう感じる。

今もプリンが好きなきっかけは

ここにあったのだろう。

今になって思い知ることばかりで、

感情がついていかない。


梨菜「…星李と私が小さい頃、親戚の家を転々としてるって言ったよね。」


麗香「うん。」


梨菜「ある親戚は貧乏なのに私たちを引き取る羽目になって。…その暮らしの中で、プリンはケーキだったんだ。」


麗香「…へぇ。」


梨菜「だから暫くの間、星李は間違って覚えてたの。」


麗香「…。」


梨菜「だから、星李って…。」


ふと、れいちゃんの方へと向かう。

れいちゃんはいつも以上に

大人びた笑顔をしていた。

姿も性格も何ひとつ

さっきと変化していないはずなのに、

何がそう見させているのか。


れい「お姉ちゃん。」


梨菜「…。」


麗香「…っ…。」


れいちゃんの声色が変わる。

愛嬌を振り撒くような、

星李のような声ではなく、

まるで別の人格が憑いてしまったかのような

冷淡な喋り方へと変化した。

あぁ。

これはれいちゃんだと

感じずにはいられない。

星李ならいくら家で会話したとしても、

怒っていたとしても

そんな声をあげることはないから。


袖を引かれる感覚がする。

ちらと横目で確認すると、

麗香ちゃんが私の袖を

く、くっと引いているのが見えた。

その表情は後悔と怒りのように見えたが、

元より目つきが鋭いから

そう見えただけだろう。

実際には恐怖…といったところか。


麗香「…嶋原、出よう。」


梨菜「…。」


麗香「……嫌な感じがする。」


梨菜「旅先にここを選んだのは麗香ちゃんだよ。」


麗香「…っ。」


梨菜「こういうことが起きるかもしれないって覚悟してたんじゃないの?」


麗香「…してた……つもりだった。」


梨菜「検索してた段階で神隠しの話を見つけてたんでしょ?」


麗香「…。」


梨菜「このまま、戻れないことだって」


麗香「戻ろう。」


梨菜「…。」


麗香「…れいって子、普通じゃない。」


梨菜「なら私もだよ。」


麗香「…。」


梨菜「普通じゃない。」


麗香「…そういうことを言いたいんじゃない。」


梨菜「なら」


れい「おねーえちゃん。」


梨菜「…。」


れい「れいと話そうよ。」


麗香「…。」


梨菜「うん、話そう!」


…れいちゃんの雰囲気を見るに、

星李と話すような

明るい話ではないと

肌で感じるところはあった。

けれど、それ以上に嬉しいんだ。

れいちゃんと、星李と話せることが

何よりも嬉しくて。

この時間を手放したくなくて

必死にしがみつこうとしてる。

帰れば星李だっているし

今も心配かけているかもしれないとは

頭では分かっているのだけれど、

それを拒んでいるかのような。


ずっと袖を引かれたままに

私とれいちゃんは話し出した。

麗香ちゃんの表情は

伺うことすら辞めたのだ。


れい「お姉ちゃん、最近は楽しい?」


梨菜「楽しいよ。」


れい「何してるの。」


梨菜「映画見たり、沢山寝たり!」


れい「そうなんだ。」


梨菜「そう!後…夏休み中だと花火も見たんだ。」


れい「れいと会ったあたりのことだよね。」


梨菜「楽しかったなぁ。1回目は花 花火大会に行って大きな花火を見たの。」


れい「2回目は?」


梨菜「みんなで手で持つ花火をしたんだ。」


れい「みんな?」


梨菜「波流ちゃんや美月ちゃん!それに、麗香ちゃんや花奏ちゃん、愛咲ちゃん、羽澄ちゃん、歩ちゃんと!」


れい「みんな仲良いんだね。」


梨菜「みんながみんなとても仲がいいってわけではないんだけど、それでもみんなで遊びに行くくらいには!」


れい「今度、またみんなで遊びに行くの?」


梨菜「行きたい!」


れい「どこがいいの?」


梨菜「うーん、どこに行っても楽しそう!」


れい「例えばを聞きたいな。」


梨菜「水族館!…は騒ぎ過ぎちゃうと良くないか。」


れい「元から賑やかなところがいいね。」


梨菜「ライブ?」


れい「みんなが好きなアーティストを見つけるのは大変そう。」


梨菜「確かに…そしたら公園とか?」


れい「ピクニック?」


梨菜「そうそうそれ!わあ、楽しそう。あと海!」


れい「海、いいね。」


梨菜「夏にね、星李と行ったんだ!はしゃぎ過ぎちゃって周りの視線が痛かったけど…。」


れい「そうなんだ。」


梨菜「また行きたいなぁ。」


れい「夏以外ならどこがいい?もうすぐ冬だしスキーはどう?」


梨菜「それもいいね。でも私滑れないや。」


れい「私も。」


梨菜「あはは、一緒だね。」


れい「なら、どこがいい?」


梨菜「温泉宿に泊まるとか!」


れい「いいね。」


梨菜「えへへ、楽しそうでしょ?」


れい「みんなのこと好き?」


梨菜「うん、好き!」


れい「じゃあれいのことは?」


梨菜「れいちゃんのことは…分からない。」


れい「1番好きなのは?」


梨菜「星李かな!」


れい「波流ちゃんじゃないの?」


梨菜「波流ちゃんも大事だし大好きだけど、家族と比べちゃうとやっぱりね。」


れい「家族は友達より大事なの?」


梨菜「私はそうだよ!」


れい「なんで?」


梨菜「だって、今までずっと一緒にいたから。」


れい「時間だけが理由なの?」


梨菜「違うよ。時間もあるけど、それまでに沢山の話をしたからだよ。」


れい「沢山の話?」


梨菜「うん!学校がどうだったとか、好きな人ができたとか、このテレビ面白いだとか。」


れい「いろいろ話したんだね。」


梨菜「それから、一緒に沢山の困難を乗り越えてきたんだよ。」


れい「嫌な思い出?」


梨菜「うーん、星李が一緒だったからそんなに。…って、れいちゃんは知ってるでしょ。」


れい「うん、知ってる。」


梨菜「れいちゃんはどこまで知ってるの?」


れい「全部知ってるよ。」


梨菜「全部?」


れい「全部。お姉ちゃんとの昔のことも、今のことも全部。」


梨菜「じゃあ、花火大会の話とかも知ってる?」


れい「うん。」


梨菜「わあ…知ってることを聞かされても面白くないよね?」


れい「そうかもね。」


梨菜「どうやって知ったの?私話してないよね?」


れい「話してはないよ。でも、お姉ちゃんから教えてもらったよ。」


梨菜「話してないのにどうやって教えられるの?手紙も渡してないのに。」


れい「れいは、お姉ちゃんだよ。」


梨菜「…?」


れい「れいは、お姉ちゃん。」


梨菜「妹がいるの?」


れい「お姉ちゃん。」


梨菜「…。」


れい「れいは、嶋原梨菜。」


梨菜「…。」


ぎゅっ、と手首に

圧がかかるのを感じた。

血圧計のように

じんわりと強くなっている気がする。

それは紛れもなく

麗香ちゃんが私の手首を

握ったせいだった。


麗香「……っ…。」


軽く、後ろへと手を引いている。

逃げよう。

そう言っているようだった。


しかし、これを言葉にすることはなく

じっと私の横に居続けている。

私は知ってる。

麗香ちゃんは好奇心が故

ここを離れられないことを。

怖いには怖いのだろう。

けれど、それ以上に

留まっていなければ

ならない理由を見据えていた。


梨菜「…どういうこ」


れい「気づいてるよね。」


梨菜「…。」


れい「れい、自分のことだからわかるよ。」


梨菜「私とれいちゃんは違うよ。」


れい「違うの?」


梨菜「性格も、見た目も違うよ。」


れい「そしたら違う人なの?」


梨菜「そうだよ。」


れい「でもれい、お姉ちゃんの記憶全部知ってるよ。」


梨菜「…。」


れい「れいはお姉ちゃんだよ。」


梨菜「…なら、どうして目の前にいるの。」


れい「…?」


梨菜「れいちゃんが私なら、どうして私が2人いるの。私は今、誰と話してるの。」


れい「れいと話してるよ。」


梨菜「…私は2人いるの?」


れい「違うよ。」


梨菜「何がどう違うの。」


れい「知ってるでしょ、いいの?」


梨菜「…。」


れい「ずっと蓋をし続けたのに、開いていいの?」


梨菜「…だって」


れい「今の知りたい欲求がために、中身を見てもいいの?」


梨菜「…。」


れい「れいとお姉ちゃんは違うよ。でも、れいはお姉ちゃんだよ。」


梨菜「…。」


れい「だから、お姉ちゃんは1人だよ。」


梨菜「…。」


れい「お姉ちゃんは1人。」


梨菜「…。」


れい「れいは、そこから生まれたよ。」


梨菜「…。」


そこから、生まれた。

…。

それは、事実を言い当てているのだろうか。


麗香「…どういうことけぇ。」


梨菜「…。」


麗香「嶋原の年齢で子供がいるわけ」


れい「れいね、この家から出たことない。」


梨菜「…っ!」


れい「でも、これまで何回も話したよね?」


梨菜「そうだよ。勝手に私の家に上がり込んで、話して、コップだって割っていったのを覚えてる。」


れい「それ、このれいじゃない。」


梨菜「…っ……。」


れい「それ、お姉ちゃんだよ。」


梨菜「違うっ!」


れい「ここにいるれいはね、ちゃんと体あるんだ。」


梨菜「…。」


れい「触れるよ、体温くらいの温度もあるよ。」


梨菜「…。」


れい「でも、お姉ちゃんのお家に遊びにいったれいはれいじゃない。」


梨菜「…。」


れい「そのれいは、体がない。」


梨菜「…。」


れい「れいはね、知ってるよ。」


梨菜「いい、もういいから。」


れい「れいは、つくられたんだよ。」


梨菜「もうやめてよ。」


れい「お姉ちゃんにつくられたんだ。」


梨菜「ねぇっ!」


れい「星李の姿に似せて、お姉ちゃんにつくられた。」


梨菜「やめてっ!」


れい「…いい加減、現実を見なよ。」


金切り声を上げるも、

れいちゃんは話を止めることはなかった。

口を塞ぐために襲い掛かろうとしても

麗香ちゃんがしっかりと

腕を握っているせいで

飛びかかることができない。

力を入れると、より強く握ってくる。

逃がす意志なんて

さらさらないみたい。

れいちゃんも、麗香ちゃんさえも。


れい「認めなよ。」


梨菜「やだ、嫌だっ!」


れい「醜いよ。」


梨菜「星李の見た目で言わないで!星李はそんなこと言わない!」


れい「星李は言わないよ。」


梨菜「なら」


れい「でも、れいは星李じゃない。お姉ちゃんの理想郷じゃない。お姉ちゃんそのものだから。」


梨菜「私は、そんなこと望んでない!」


れい「…。」


梨菜「今の生活が続けば、それで」


れい「その生活にも、限界が来たんだよ。」


梨菜「…っ。」


れい「分かってるでしょ。」


梨菜「…い、や…。」


れい「気づいてるんでしょ。」


梨菜「…違うんだよ…。」


れい「多くの違和感に追いつけなくなって来てるんでしょ。」


梨菜「それは、星李が」


れい「星李は?」


梨菜「…そ、れは…ほら、星李が最近ちょっと疲れちゃって、怠けちゃってるだけであって…」


れい「それは、本物?」


梨菜「…っ!」


れい「本物の星李はそんなことする?」


梨菜「…。」


れい「星李だって、つくってたんだよ。」


梨菜「違うよ!星李はいる、ちゃんといる!」


れい「本当に?」


梨菜「当たり前じゃん!小さい頃からずっと一緒に生きて、辛くても頑張って笑い合ってきた!それが嘘なわけない!」


れい「でも、お姉ちゃんは星李もつくったよ。」


梨菜「つくってなんかないっ!」


れい「じゃあ、どうして洗濯物は減ったの?」


梨菜「…っ!」


れい「どうして料理が急に下手になったの?ゴミ捨てを押し付けたの?金魚の掃除をしなかったの?何も言わずに家出したの?ご飯を食べなくなったの?」


梨菜「…ち、がくて…」


れい「星李をつくってたよ。」


梨菜「…だって…私、星李といろんなところに行った。」


れい「…。」


梨菜「買い物だって、海だっていったよ…?」


れい「買い物、最後に一緒に行ったのはいつ?」


梨菜「それは…。」


れい「思い出せないよね?」


梨菜「でも、夏には海に…」


れい「周りの視線、痛かったよね?」


梨菜「…っ………。」


れい「女の子1人が誰かと一緒にいるかのようにはしゃいでたら、みんな見るよね?」


梨菜「…………星李…は…。」


れい「お姉ちゃん。」


梨菜「……っ…。」


れい「いつまでも夢を見てちゃ駄目だよ。」


梨菜「…。」


れい「本物を見て。」


梨菜「…、」


れい「現実を見て。」


梨菜「…。」


れい「…。」


梨菜「…星、李ぃ…。」


縋るように、そう呼んだ。

届け。

届けと願いながら

星李の名前を呼んだ。





°°°°°





梨菜「…星李ー…?」



---



梨菜「星李ー…いないのー…?」



---



梨菜「そういえば何で星李は早帰りだったの?」


星李「後3日で中間テストだからだよ。」


梨菜「テストかあ。頑張るねぇ。」


星李「お姉ちゃんもそろそろじゃないの?」


梨菜「あ。」


星李「あーあ。今日の映画はなしかなぁ。」


梨菜「やだ!見る、絶対星李と見る!」


星李「私は勉強しながら見るもん。」


梨菜「内容入ってこないよ?映画は映画で楽しもう?」


星李「お姉ちゃんほど私は気楽なタチじゃないもーん。」


梨菜「えー、お姉ちゃんを見捨てるのー?」


星李「見捨てはしないけど扱くかな。」


梨菜「わ、鬼だ。」


星李「愛しい妹と言ってほしいね。」


梨菜「愛しい妹。」


星李「よし。」



---



梨菜「星李…星李。」


星李「おねーちゃんおなかすいたー。」


梨菜「そうだよね、待っててね。」


星李「やだ、おねーちゃんもどっかいくのやだ!」


梨菜「…。」


星李「いーやーだ!やだやだやだ」


梨菜「うん、うん。分かったから。じゃあ一緒にいようね。」



---



梨菜「星李ー…?」



---



梨菜「星李ー?寝てるのー?」



---



梨菜「…。」


星李「…。」


梨菜「…星李?」


星李「…。」



---



梨菜「ね、星李ー?」



---



梨菜「星李、プリン買ってきたよ。」


星李「…。」


梨菜「知ってる?今日ってね、金曜ロードショーは中止なんだって。」


星李「…。」


梨菜「…?」





°°°°°





何度も呼んで、呼んで、

その名前をまた呼んだ。

呼び続けた。

嬉しくても苦しくても

泣きたくても笑いたくても

その名前を呼び続けた。

星李って、ずっと呼んでいた。


星李から呼ばれるのだって好きだった。

お姉ちゃん、と言ってくれるのが

とんでもなく嬉しかった。


いつからか、名前を呼んでも

届かなくなっていた。

名前を呼ばれても届かなかった。


星李。

私、気づいてた。




















れい「星李は3ヶ月前に死んでるよ。本物のお母さんに殺されたんだ。」





***





波流「…。」


いろは「うーん、この辺は図鑑コーナー見たいですー。」


波流「下の方はエッセイばっかり。」


いろは「この棚の縦1列も違いそうですねー。」


波流「そうだね。」


いろは「じゃあ次を見てみますか。」


波流「うん。」


いろはちゃんはこの特殊な階段に

昇り降りすることに慣れたようで、

するすると降っては

レールに沿って階段を押して動かした。

このノートの元の場所を探して

随分と経ている。

やっとのことで3分の2ほどは

確認し終えたのだが、

それでもまだ見つかる気配はない。

棚をひとつひとつ確認しており、

背を確認していると

どの本にもラベルがついているのが分かる。

まるで本物の図書館だ。

反して、ラベルのないものが見当たらない。

ひとつさえラベルなしの本があれば

その近くに仕舞う場所が

あるのではないかと思っているのだが

実際はどうなのか見当もつかなかった。


からりからりと階段を動かし、

そして棚を舐めるように見回す。

探していて気づいたのだが、

本棚は丁寧なことに

図鑑、小説、各種専門書、

資格試験用の本、新書など

分類されていた。

とはいえ、ノートの中身がわからない以上

どこに仕舞うべきかというのは判断しかねる。


波流「ねえ、いろはちゃん。」


いろは「はあい?」


波流「ノートの中身、見てみない?」


いろは「え、いいんですか?」


波流「じゃないと、どこに仕舞うべきか分からないよ。」


いろは「そうですか?」


波流「ほら、この本棚はしっかり分類されてるじゃん?」


いろは「あぁー、確かに。さっき見たところはクラシック音楽の本ばかりでしたしー。」


波流「でしょ?だからこのノートの中身を見ればヒントになるかなって。」


いろは「うーん、ノートの中にびっしり人体について書かれているとか?」


波流「もしそうだったら生物系のあたりを見ればよくない?」


いろは「けど、こんなノートに書きますかねー。」


波流「頭はよかったけど貧乏だった人が、研究で大瀬古したけど出版できずに終わったとか。」


いろは「それでノートに書き溜めてた?」


波流「そう。」


いろは「ふふ、だったら夢がありますねー。」


いろはちゃんは私の話を流すようにそういうと

次の位置についたのか

階段を登り始めたのだった。


波流「待って待って、ありそうじゃない?」


いろは「可能性はなきにしもあらずですけど、せっかくここまで探したんですし最後までしませんか?」


波流「最後までって…。」


いろは「もう半分もないんですよ?あっという間です。」


階段を登りながら

こちらを振り返ることもなく

そう口にしていたのだが、

何故だか彼女が笑っているのであろうことは

容易に伝わった。

それは嫌な笑い方ではなく、

微笑むような、春の日差しのようなものだった。


もう半分もない。

確かにそれはそうなのだが、

どうにも麗香ちゃんと梨菜のことが

気になって仕方ない。

特に梨菜だ。

れいちゃんの存在自体

いいものだと感じられないからこそ

不安で仕方がない。


梨菜は、自然のうちに

星李を求めるはずだから。


波流「でも…」


いろは「心配ですか?」


波流「え?」


いろは「梨菜さんのこと、心配ですか?」


波流「……そりゃあ…そうだよ。」


いろは「ですよね。私もです。」


波流「じゃあ、何でいろはちゃんはそんなに平気なの?」


いろは「平気そうなだけです。」


波流「平気そう…。」


いろは「はい。」


1番上にまで辿り着いたようで、

すぐに作業に移るかと思いきや

後ろを向いて全体を見渡すように

再度座るのだった。

そして、床より近くになった

天井を仰ぐのだ。

まるで、空に憧れる人魚のようだった。


いろは「何事もそうなんですけど、一旦は平気そうなふりをするんです。」


波流「どうして?」


いろは「うーん…難しいんですけど、心配をかけたくないからとか…そういう理由なんじゃないかなって思います。」


波流「心配を…。」


いろは「でも、時々いっぱいいっぱいになってだだ漏れちゃうんですよ。」


波流「いろはちゃんもそんなことあるんだ。」


いろは「そんなことばかりです。」


波流「なんだか、意外。」


いろは「えへへ。今日のこの数時間でどんな私のイメージが出来ちゃってるんですかー。」


波流「こう、お淑やかで大人っぽい。」


いろは「大人っぽいとはよく言われます。」


波流「だろうなぁ…。」


いろは「全然そんなことないのに。」


ぽつり。

小雨が降ったのかと思ったほど

細々とした声だった。

気を抜いていたら

聞きそびれていたに違いない。


いろは「波流さん、波流さん。」


波流「…ん?」


いろは「実は私、ひとつ嘘をついてました。」


波流「え?」


いろは「…。」


波流「…あはは、どれが嘘だか分かんないや。」


いろは「そうじゃなきゃ困りますよ。」


波流「うん…確かにね。」


いろは「…。」


その静寂は小さな針が無数に降ってくるかと

勘違いしてしまうほど

細い細い雨のような静けさだった。

たった1秒が無限のように感じられ、

目を閉じて開いてみれば

いくつもの雨が滴り落ちている。


そうだ。

ここは、不可解の一環だ。

ここは、森の奥に眠る家だった。

決して私の知っている場所ではない。

幾度となく見て確認してきた。

実感してきた。

しかし、どこからか。

胸の奥底から知ってる場所ではないかと

信じてしまいたくなっている。

ここは知っている場所で、

幼少期に1度は来たことがある場所で、

そこで素敵な思い出があってー。

そんなことはないと知っている。

夢物語などないと知っていた。


いろは「私、絵を描くのは辞めたんです。」


波流「…。」


いろは「…えへへ。」


波流「何で…。」


いろは「それは…まあ、いろいろなことが重なっちゃって、それで」


波流「何で笑ってられるの?」


いろは「…!」


波流「辛くないの?」


いろは「…私が絵を辞めるって言った時、誰も喜んでくれなかったんです。」


波流「…。」


いろは「たった1人でも喜んでくれたなら悔いはなかった。」


波流「絵を描くのが好きなんじゃないの?」


いろは「…好き…だったはずなんですけど、いつからか分からなくなっちゃって。」


波流「そっかぁ。美術部に入ってたんだっけ?」


いろは「今は行ってないですけどね。」


波流「賞とかとったりしたの?」


いろは「…はい、いくつか。」


波流「凄いね。」


いろは「…麗香ちゃんに言われたんです。いろはは同い年より飛び抜けて絵が上手い、なのに辞めるなんてもったいないって。」


波流「多くの人はそう思うよ。」


いろは「…。」


波流「絵を続けないの?」


いろは「少なくとも今はその気持ちでいます。」


波流「…好きなものを辞めるって…辛い…はずだよね。」


いろは「絵を描く意味を、他人に預けすぎた仕返しでもあるんだと思います。」


波流「他人に?」


いろは「好きだから描く、気が向いたから投稿する…そうでありたかったのに、変わっちゃったんです。」


波流「…他人って…。」


いろは「見てもらいたいから嫌でも描く、投稿しなきゃいけないから周りの人が好きそうなものを描く。」


波流「…。」


いろは「今まで描いてきた中に、きっと本当に好きで描いたものもありました。」


波流「なら、それでよかったんじゃないの?」


いろは「そういう絵に限って、見てくれないんです。」


波流「見てくれてる人はいるよ。…その数は少ないかもしれないけど。」


いろは「そこが問題なんです。ものの10分で描いた落書きがとんでもなく伸びて、10時間かけたものがいつもの5分の1しか伸びない。ざらにあることです。」


波流「それが原因で辞めたの?」


いろは「他にも色々あります。重なっちゃったんです。」


波流「じゃあ、その理想と現実の差っていう原因は何%くらい占めてる?」


いろは「え…?」


波流「割り振ってみようよ。私、数字苦手だけど。」


座り込んで、木の匂いを近くで感じる。

自然と私は笑っていたようで、

口角が上がっていることに気づいた。

片手で床をなぞる、木目を、隙間をなぞる。


いろは「うーん…15%。」


波流「そんなに占めてないんだね。」


いろは「些細な事なんです。それに、昔からある課題でしたから慣れてきました。」


波流「慣れるものなんだ。」


いろは「大体はそんなもんです。」


波流「じゃあ…あ、でも他はあまり聞かない方がいい?」


いろは「ふふ、じゃあ内緒で。」


波流「あはは、残念。」


いろは「いつか時が来るまでのお楽しみにしててください。」


波流「じゃあ今日が終わってもまた会ってくれるんだ?」


いろは「はい、ぜひ。」


いろはちゃんは

笑っているのだろうか。


私も絵を描くことは出来る。

世の中の神絵師だなんて

到底及ばないけれど、

全く描けないわけじゃない。

下手ではないがうまくもない。

器用に出来るね、程度。


だが、絵を本気でやっている人の気持ちは

まるでわからなかった。

何故それを職にしようと思えるのか

どこからそんなアイデアが浮かぶのか

理解することが難しい。

受け取る側としての趣味が多い分、

創る側としての趣味の

理解に苦しんでいる。

だから、私は梨菜や美月ちゃんと

仲良くなれたのかもしれない。

彼女たちもまた、受け取ることを

得意としているから。

梨菜は主に映画から、

美月ちゃんは小説から。

私は音楽から。


それぞれ異なってはいるけれど

近しいところに位置している感性が

引き合っているのかもしれない。

そんな私たちがいるところから

1枚壁を隔てた向こう側に

いろはちゃんは立っている。

私たちが座って談笑している間にも

彼女は1人立ちすくんだまま

絵の具用のパレットとバケツを手に、

もう片手には筆を持って

巨大なカンバスの前にいるのだ。

人生のうちの多くの時間を費やし、

その命を燃やしながら

心の中の欲を描いてゆく。

私にはできない。

私とは違う世界。


そのようなことができる人が、

出来ることを辞めてしまう。

羨むほどの才能を持っていた人が、

その才能を無碍にする。

周りの人は、もったいないと、

無駄にするなというに違いない。

私だって羨ましい。

何かひとつに特化して

物事を続けられることが羨ましい。


波流「あのね。」


いろは「はい。」


波流「私にとある友達がいるんだ。」


いろは「梨菜さんではなくて?」


波流「ううん、また別の人。」


夏の匂いを想像する。

あぁ、この家からも

漂ってきているのではないか。

錯覚してしまうほどに

脳裏ではあの青々とした草原を

浮かべることができた。

私にとっての大切な思い出だ。





°°°°°





波流「ふぁ、は…んーっ!はぁ。めっちゃいいところじゃん!」


美月「でしょう?」


波流「うん!しかも貸切!」


美月「まあ、私有地だからね。」


波流「これが私有地…凄すぎる…。」


美月「この山の別の場所では何かしら果物を育てているとは聞いたことがあるわ。」


波流「家の中で果物!?」


美月「えぇ、行ったことはないから分からないけれど。」


波流「この方15年くらい行ったことないのが不思議だよ。私だったら通っちゃうね。」


美月「別に毎日実るわけじゃないのよ。」


波流「そうだけどー。」



---



波流「そっかぁ。美月ちゃんは憧れとか目標のために努力できる人だよね。」


美月「当たり前よ、これくらい。」


波流「これくらいで済ましていいレベルなのかな…。」


美月「私がいいと言ったらそれでいいのよ。」


波流「美月ちゃんはさ、前々から思ってたんだけどものすごく頑張り屋さんだよね。」


美月「何よ急に。」


波流「かっこいいと思うよ。」


美月「べた褒めし出すなんてらしくないじゃない。」


波流「え、私結構褒めたつもり」


美月「冗談よ冗談。結構褒めてるわ。そして、続きは?」


波流「へ、あ、そうだった。何でかっこいいって思うかってね、私はあんま頑張り続けるって苦手だからさ。」


美月「そうなのね。」


波流「うん。だからすーぐ心折れちゃう。」


美月「にしてはあのスパルタ部活に所属し続けてるのね。」


波流「あー…何となくね。」


美月「何となくで続けられるものかしら。」


波流「どうだろ、何かひとつ受験の時に「これ頑張りました」って言えるといいなって思って。」


美月「だからってあの部活を続けようだなんてよく思ったわね。」


波流「友達が出来てたのもあるし、それに…うーん…何となくだよね。」


美月「多分思っているよりも度胸あるわよ。」


波流「私?」


美月「えぇ。」


波流「そっかぁ。」





°°°°°





何もない私を、何かがある私に

変えてくれたのだ。

それとは真逆の位置にいるいろはちゃんは

きっと今、何かであり続けた女の子から

何にでもない女の子になったのだ。

今は、同じところに立って

別々の方向を見ているだけなのかもしれない。


波流「その人は頑張り屋さんなの。」


いろは「素敵ですねー。」


波流「きっと、いろはちゃんも頑張り続けてきたんだと思う。自分が知らないうちに、それを当たり前だって言って。」


いろは「…そうなんでしょうかねー。」


波流「どう?普通の女の子になった気分。」


いろは「…!」


かたん。

刹那、音が鳴ったかと思えば

いろはちゃんが動いたようだった。

身を再度反転させ

既に棚に向かって

本の背を指で追っている。

何かに気づいて

本を探しているのかと思ったが、

暫く待っても反応はないようで

作業に戻っただけらしいかった。

不思議なタイミングで作業に戻るのだなと

内心疑問に思いながらも

渋々作業を再開した。


それから何分、否、何時間経たのか

私たちには分からないものの、

全ての本棚を見終わった。

結果、棚にはなかったのだ。

勿論階段部分の本棚も探し切った。

それらしきノートの束などなく、

自由帳があったものだから美術系の本棚を

じっと眺めてみても見つからない。

それらしき場所がないのだ。

これは、探すだけ無駄であって

適当に戻してもよかったのではないだろうか。


心労は常に溜まり続け、

爆発こそすることはないが

限界が近づいているのを感じる。

何せこの異常の中で呼吸をしているのだから

息苦しくなって当然だ。


いろは「…悪くない。」


波流「はぁー………えぇ…?」


へこたれて床に足を投げ出し

座り込む私を他所に、

床に大の字になって寝転がるいろはちゃんは

そう口にしていた。


いろは「悪くないですね。」


波流「だって、見つからなかったんだよ?」


いろは「何にでもない私、悪くない。」


波流「あっ…。」


いろは「これが欲しかったんですよ。多分。」


清々しい朝を迎えた時のような、

朝の日差しから酸素を受け取り

目一杯吸い込んだ時のような、

充足感に満ちた顔をしていた。

ふぅ、と綺麗な深呼吸をひとつ

この家にプレゼントをした後、

近くにあった本棚から

1冊の本を取り出した。

それは白を貴重とした絵本のようで、

独特の味がある絵が表紙になっている。


いろは「けど、何かを得ると何かが欠けていくものなんですね。」


波流「…?」


いろは「いっつも欠けてる。いっつも何かが欲しい。何かで埋めていたい。」


波流「…欲?」


いろは「…それを埋めるには、私には絵が最善なんでしょうね。」


波流「…。」


いろは「朝は好きですか?」


波流「嫌いじゃない…けど月曜の朝は嫌だなぁ…。」


いろは「じゃあ日曜日。」


波流「土曜日の朝が1番嬉しいんだけど、1番綺麗だなって思うのは日曜日。」


いろは「どうしてですか?」


波流「曜日に日ってついてるからじゃない?」


いろは「あははっ…何ですかそれー。」


波流「あはは、いいでしょー。」


いろはちゃんは、現在の状況すら忘れて

只管に今を楽しんでいるようだった。

絵を辞めたと言っていた

いろはちゃんだったのに、

別の人に変わってしまったように見える。

それを見ていると、

私まで変われた気がした。


いろは「あははっ…ふぅー…じゃあ、その日曜日の朝が巡ってくるまで待とうかな。」


波流「月だって満ち欠けするんだし、そんなものだよ。」


いろは「そうですよねー。周期的にぐるぐる回るものですよね。」


波流「うん。間違いない。」


いろは「心強いですね。」


心強い。

それは誰かからは

あまり言われてこなかった言葉だった。

私が受け取っていいものかと思ったが、

素直に言葉を受け取ることも

また礼儀なのだろうと思い、

静かに両手でしっかりと

受け取ることにした。

落としてしまわないように、大切に。

それこそ、れいちゃんが

ノートを抱えていた時のように。


…。

…。


もう、場所探しは手詰まりなのかもしれない。

本棚を全部探した。

1階にも本棚があるとしたらお手上げだ。

そもそもとして下に降りる方法がない。

この本棚の1番上まで届く階段だって

レールの上のみしか移動できない。

下に下ろすなんてことは出来ないのだ。

ならば、どうすれば。


徐に立ち上がって

置きっぱなしにしていたノートを手に取る。

いろはちゃんは起きてこず、

寧ろ絵本を読み始めている。

マイペースとよく言われるのではと

何度も容易に想像がついてしまう。

自由帳を取ったそのままの手癖で

ぱらぱらとめくってみた。

すると、書という字を分解して

3ページにわたって赤文字で

書かれていたり、

人らしい何かが2つ並んでいたりと

とにかく奇妙なものが多かった。

途中から字の練習を始めたのか、

国語の教科書にある内容を

そのまま移したらしいものがあった。

内容は…多分スイミーだろうか。

字がぐねぐねと自由奔放に

曲がっているせいで

確信は持てないけれど、

その次のページに描いてある

黒と赤の魚らしい粒を見て確信した。

ずっとめくって行っても

文字が大きいからか中々終わりが見えない。

漸く終わったと思ったら

ノートの紙が終わっただけであり、

内容は完結していない。

1番最後の裏の硬い部分にまで

文字を滲ませている。


次の冊子を手に取った。

れいちゃんからもらったのは全部で4冊。

そのどれも見ても、

スイミーのお話が描かれており、

途中に10枚前後を使って

国語の教科書の丸写しか否か

絵を描いているものだから

終わりまでが随分長かった。


4冊目を手に取りぱらぱらとめくっていると、

その終わりは唐突にきた。

おわり、と1枚に1文字書き

贅沢に締めとられている。

それ以降のページには

何も書いていないのかと思い

一応はめくってみた。


すると、あったのだ。

まだ、続きがあったようだった。

続きというよりも

本当の締めと言えばいいのだろうか。



『しまばら りな』



波流「…!」


あぁ。

…あぁ、そうだったのか。

そうか。

…。

見たこと、あったかもしれない。

小学校に上りたての頃、

梨菜は私に1度だけ見せてくれたっけ。





°°°°°





波流「ん?」


梨菜「波流、ちゃん。」


波流「どーしったの?」


梨菜「お話、書いたの。」


波流「え、お話!?」


梨菜「…う、ん…。れ


波流「見せて見せてー!」


梨菜「これ、なんだけど…。」


波流「あれ、これってスイミー?」


梨菜「えっ…。」


波流「知ってるよー、スイミーってお魚さんの話でしょー?」


梨菜「…!や、やっぱりなんでもない。」


波流「え?えー、待ってよー。なーんーでー。」





°°°°°





当時は何も思っていなかったし

今の今まで忘れていたものだから、

私にとってはあまり重要な

思い出ではなかったらしい。

唐突に思い出されたことで

ぐらりと頭が揺れる思いがするも

ぐっと堪える。

そうだ。

これは、梨菜のものだ。


それなら、これを仕舞う場所は…。

…。

そんなはず、あるわけないか。


いろは「この絵本、意外と面白いー。」


波流「あはは…自由だね…。」


いろは「波流さんこそー。」


波流「そうかな。」


いろは「波流さんは何読んでるんですか?」


波流「あ、これは…」


彼女は絵本をしまうと

匍匐前進のまま

こちらの方へと寄ってきた。

立った方が疲れないと思うのだが、

いろはちゃんは起き上がる方が

面倒だったらしい。


彼女がこちらに来る前に

ノートを閉じてしまうか迷ったが、

そうする理由もない気がして

そのまま待った。

私の開いていた最後のページを

覗き込んだところで、

む、と顔を顰めだしたのだ。

文字が蛇よりうねっているから

読みづらいようで苦戦していた。


いろは「…?し…しな…?」


波流「あー…汚くて読みづらいよねー…。」


いろは「幼稚園の子が書いたみたいな文字ですね。」


波流「まあ、そんな感じかも。」


いろは「…?」


波流「これ、梨菜が小さい時に書いたやつだと思う。」


いろは「梨菜さんが?」


波流「うん。」


いろは「…じゃあ、ちゃんと返しに行かなきゃですね。」


波流「それでいいと思う?」


いろは「それが元の場所です。」


波流「…?…あはは、確かにね。」


いろは「探したのは無駄になっちゃいましたねー。」


波流「大丈夫、ちゃんと得られたこともあるよ。」


いろは「ありますかー?絵本は面白いとか?」


波流「いろはちゃんはそうかもしれないけど…」


いろは「冗談ですよー。それで、得られたものって?」


波流「新しい自分。」


いろは「…あぁ、そんな目的でしたっけ。」


波流「達成だね。」


いろは「こんな形で、ですが。」


いろはちゃんは困ったように笑った。

今日のことがきっかけで、

もしまた彼女が絵を描けたら。

そう願わずにはいられない。


この図書館内だけの会話であれば

物語のように劇的な何かが

起こったというわけでもなければ

主人公が困難を乗り越えたわけでもない。

それなのに、私は少しだけ心が軽い。

そういう何気ないことでよかったのだ。

いろはちゃんもきっとそう。

少しだけ何かであり続けることから

離れることができれば

それでよかったのかもしれない。


この時。

かちり、ちり、ちり。

いくつもの音が連なって

耳がおかしくなってしまうかと思うほど、

将又虫の輪唱が始まったのかと

勘違いしてしまうほどだった。


いろは「今のって…。」


波流「何だろうね。」


いろは「鍵、空いたんじゃないですか?」


波流「え?」


いろは「そんなふうに聞こえましたけど…。」


波流「だとしたら何で急に?誰かが見てたぐらいぴったりなタイミングで?」


いろは「そんなこともあるんじゃないんですか?」


波流「普通はないよね。」


いろは「ここは普通ではありませんし、あり得るのかなって。」


波流「…言われてみれば。」


いろは「すぐ行ってみましょ!」


すたたた、と脇目も振らず

走っていくものだから、

私はノートを手早くまとめて抱え、

彼女の背中を追った。

まるで妹のような気質を持ったいろはちゃん。

本当に妹だったら

手に負えなかったのではと考え出すと

止まるところを知らなかった。


走った先にあった近くの扉。

そこに手をかける彼女。

開くまでの謎の緊張を

とくと味わうかと思っていたのだが、

意外にもせっかちなところも

持ち合わせているようで、

何の間もなくすんなり開いてしまう。


その先には、私たちがさっき通った部屋とは

また別の場所が広がっていた。

今度は廊下があり、

両サイドに扉が並んでいる。

いろはちゃんは臆することなく

1歩を踏み出したのだった。


いろは「あり得るかもしれませんねー。」


波流「ん?何が?」


いろはちゃんの中では

会話がつながっていたのだろうが、

私としては何のことか

全く分からない。

すると、彼女は振り返ることなく

廊下に向かって声を放った。


おさげが緩やかに揺れる。

あぁ。

そうだ、風が吹くんだった。


いろは「誰かに見られてるかもって話です。」





***





暫く扉を行き来したものの、

それらしきところには行きつかない。

扉を通るたびに

やはり風は吹くもので、

だんだんと前髪は崩れている。

部屋には色々あった。

台所、洗面所、子供部屋、納戸の中。

さまざまな部屋を通るごとに

そこに人が住んでいないことに

疑問を抱いた。

人が住んでいてもおかしくないほどに

生活用品が揃っているのだ。

なのに、当たり前のように人1人すらいない。

れいちゃん以外の人間は

本当に存在していない様子。

しかし、1人で住むには広すぎる上に

難解すぎるのだ。

…本当にこんなところに

住んでいるのだろうか。


いろはちゃんと時折話しながら、

しかし多くは話さず

ただ黙々と進んだ。

床の軋む部屋では

それだけが音の発生源に

なっているかのような気味の悪さを覚えた。


ひたすらに進む中、

思い浮かぶのは何故か

美月ちゃんの家の裏にある山へ

立ち入る時のことだった。

秘密基地へと向かう道中のことを

何度も思い出しては

時間の中へ流れて行った。





°°°°°





家の正面には向かわず、

山の側面の方へと向かう。

そして、住民の人になるべく

見られないようにして山に入った。

山の中は思っているよりも暗く、

どこに段差があるのか分からない。

大きな段差、

それこそ崖とも取れるような場所は

あの秘密基地あたり以外はなかったはず。

通るとはいえ、崖を上方から

降るような道ではないので

あまり心配しなくていいだろう。

けれど、暗いことに変わりはない。

2人でスマホのライトをつけて、

遠くを照らし過ぎないようにして歩いた。

すると、羽虫が数匹光へと

集まっては散っていった。

波流はその度に苦い顔をしていたけれど、

叫ぶことこそなかった。





°°°°°





美月ちゃんも同じ風景は見ていたけれど、

同じように見えていたのだろうか。

そうだったらいいな。


この10年ほどの間、

私にとって心を許している人間は

梨菜だけと言っても過言ではなかった。

勿論、他の人とも

ある程度は交流していたものの、

私が梨菜を守らなければならないという

考えがあったのか、

ずっと一緒にいたのだ。


それが、今年の4月から大きく変わった。

美月ちゃんは他の人達と出会った。

特に美月ちゃんとは

梨菜とまた違った深い関係になっている。

これまでの私では考えられない。

私には、もう梨菜だけではないのだろう。

現に隣にはいろはちゃんだっているのだから。


いろはちゃんは頑張っているのか、

将又好奇心が赴くままなのか

私の前を歩き続けた。

そして扉をいくつもくぐって行った。

それについていくばかりだが、

何故か安心しているところがあったし

不安も最初よりはだいぶ

抑えられている。

大丈夫。

本当にそう思えるようになっていた。


…。

のに。


「やめて、離してっ!」


いろは「…っ!」


波流「今の…」


いろはちゃんが扉を開きかけた時

その声が届いたのだ。

私がぼうっと立っている間に

扉を全開にし、その先へと駆けてゆく。

慌てて正気に戻し

その後を不格好ながらに追う。

手中のノートを抱きしめながら、

大事に大事にしながら数歩走った。


すると。


れい「…。」


麗香「嶋原、落ち着いて!」


梨菜「…っ!」


梨菜がれいちゃんの上に跨り

肩をぎゅっと強く強く

掴んでいることがわかる。

爪を食い込ませているようで、

服が不思議なほど歪んでいた。

首の根からもぎ取ってしまおうという

気概さえ感じられる。


波流「梨菜!」


麗香ちゃんが梨菜を離そうと

胴を引いていたため、

ノートをいろはちゃんに預け、

梨菜のその手を剥がしてから

彼女の肩を押した。

手を剥がすにも

物凄く力を込めているものだから

中々離れてくれなかった。

数秒、もしかしたら数分粘ったのち、

疲れたのは梨菜の手は離れ、

その勢いでれいちゃんから遠ざける。

梨菜だけでなく

麗香ちゃんも私すらも

若干息を切らしていた。

れいちゃんは寝転がったまま

動かいていなかったけれど、

瞬きしているのを確認出来た。


波流「何があったの…。」


梨菜「…離してよ。」


波流「梨菜。」


梨菜「…れいちゃんが悪い…。」


波流「だからって」


麗香「星李は本当の母親に殺された。」


波流「…っ!?」


麗香「…れいがそう言ったら、これ。」


波流「…。」


麗香「最初は首を絞めてたんだけど、思い直したのか肩掴んで…。」


梨菜「…。」


星李は、本当の母親に殺された。

その言葉を今の梨菜が

鵜呑みに出来るはずがなかった。


知ってた。

私は、知ってたんだ。


…。

これまでの行動を見るにそうだった。

星李の死を受け入れられずに

いつまでも彼女が

生きているかのように振る舞った。

ネット上でも実際に会った時でも

度々星李の話が出てきた。

それでも。


それでも私は、

合わせることしかできなかった。

梨菜の嘘を知りながらも

それを崩すことを怖がって、

私も嘘を吐き続けた。

それが優しさだと信じてたから。


でもこんなことになるのであれば、

早い段階で伝えればよかったのかもしれない。

星李はいない、と。

もう、いないんだって。


…。

…。

…。


言えるはずがない。

嬉々として星李のことを話す梨菜は

いつものように輝いて見えた。

本当に星李はいるんだって、

時折思うことがあった。

…だけど違う。

梨菜は、星李との記憶を頼りに

星李がいるかのように

生活をしていたのだった。


けれど、それはあくまでも

梨菜の想像の中での話。

毎朝迎えに行っても

梨菜は星李に

起こされることがないから目覚めていない、

それから掃除行き届いてない廊下があって。

ゴミ袋は8月頃には

積もっていた覚えがある。

家に上がってはいないので

細かいところまでは分からないものの、

少しずつ梨菜は家のことを自分で

するようになっていったのだと思う。


ご飯の味が変わったのだって

自分で作るようになったから。

おやつを2人分買っても残るのは

梨菜しか食べる人がいないから。

洗濯物が減ったのは

丸々1人分かけたのだから。

金魚が死んだのはいない星李に押しつけて

そのまま世話をしなかったから。


梨菜「………波流ちゃん。」


波流「…。」


ぎゅ、と拳を握っているのが確認できた。

相当な感情に悩まされているらしい。

それは後悔なのか

それとも怒りなのか、

悲しみなのかすら分からない。


再度れいちゃんに

襲い掛かろうとしているのだろうか。

それならば全力で止めなければならない。

友達に前科持ちになんて

当たり前だがなってほしくないし、

れいちゃんとはいえ見た目は星李同様。

2度も妹の死に直面できるはずがない。

しかし、今にも殴りかかって

しまいそうな目をしているのだ。

じっと睨んでは離さない。

獣のようだった。


不意に、思えば梨菜の暴力性は

昔からあったものだと想起される。





°°°°°





梨菜「…っ。…っ。」


「うえぇぇええーん。」


波流「ちょっと、梨菜ちゃん何してるの!」


「ままぁああぁぁー!」


梨菜「何って?」


波流「何でお友達を叩いてるの!」


梨菜「先にやってきたのは向こうだもん。」


波流「だからって駄目だよ!」


梨菜「何で?」


波流「駄目なものは駄目なの!ママや先生に教わるでしょ!」


梨菜「そんなこと、教えてもらってない。」


波流「梨菜ちゃん!」


梨菜「それに、何でそっちはよくて私は駄目なの。」


波流「それは…。」


梨菜「何で。」


波流「とにかく、やりすぎは駄目だよ!ほら、ごめんなさいしよう?」





°°°°°





その後、すぐに先生が来て

仲裁に入ってくれて事態は収まった。

このまま梨菜が孤立してはいけないと思い

以後見守るような形で

関わってきた節がある。

それも中学、高校と進む毎に

段々とその片鱗は薄れていた。

もう大丈夫だろう。

もう高校生なのだから。

そう思ったけれど、

高校生になって以降も

何かと関わり続けたまま

関係が途切れることはなかった。


治ったものだと思っていた。

そう思っていたんだ。

梨菜は普通の子になったんだと、

衝動のままに人を殺してしまうのでは

ないかと思うほどに人へ危害を加えないと

過信していたのだ。


梨菜は床に座り込んだまま

項垂れるように俯いた。


梨菜「波流ちゃん。」


波流「…。」


梨菜「………星李は…いるよね。」


波流「…っ!」


顔をあげることなく、

縋るように口にした。

…。


私は知ってる。

星李はもういないことを知ってる。

そして、梨菜は星李のことを

他の誰よりも大切に

していたことを知っている。

梨菜が星李なしでは

生きていけないだろうことも知っている。


だからこそ、私はあの日見た景色を

なかったことにしたんだ。





°°°°°




7月も段々と閉じかかる中、

いつものように梨菜の家に行った時

違和感に気づいた。


波流「…?」


変な匂いがする。

これまでに嗅いだことのないような香りだけど

ひとつ言えるのは気を害するような

匂いだということだった。

これまでにも7月の頭から

時折気になっていたが、

その日は気温も上がったからか

間違いなく異臭と呼べるものが

家の中に立ち込めていた。


波流「り、梨菜ー…。」


梨菜「なあに?」


波流「…なんか変なにおいがしない?」


梨菜「そう?」


洗面所から顔を出す梨菜は

当たり前のようにこの香りを吸い

当たり前のように暮らしていた。

私の鼻がおかしいだけかと思っていた。


しかし、違った。

おかしいのは梨菜だった。

その確信が持てたのは

朝から梨菜の家に行く時に

近隣の住民に会ったこと。

最近、異臭がひどくてたまらない、と。

暑くなってきているのもあるだろうが

明らかに汗や生ゴミ、生乾きの類ではなく

吐き気を催すような独特の香りなのだ。


違和感が止まらなくなり、

元より匂いをわかっていない

梨菜に言うのも気が引けたので

警察に連絡して見る事にした。


友人の家から異臭がするんです。

そう伝えた。

…。


翌日。

私は部活か何かしらの用事で

梨菜の家の前を通ると、

そこには多くの車両が停まっていた。

警察と、後は救急車だろうか。

何事かと思った。

しかし、梨菜の住んでいるところは

マンションなのだから、

関係あるはずがない。

そう感じていたのだけれど。


波流「…っ!?」


遠くから、家の前に突っ立っている

梨菜が見えたのだ。

すぐさま人から見えないようにと

火曜ミステリーでしか見ないようなものが

次々の展開されていく。

間違いなく、梨菜の家だった。


不審に思って走って入ろうとしたが

警察に止められてしまって。

いくら私が梨菜の友達だと説明しても

入れてくれることはなかった。

私が暴れていると、

近くの警察官だか将又別の役職の人だかが

報告をしているのが聞こえた。


「嶋原星李というーーーーーーーーーーー、ーーーーーーーーー死亡が確認されーーーーーー。」


波流「…えっ…。せ、星李は今、なんて…!」


それ以上はいくら聞いても

全く返してくれなかった。

相手にされなかったのだ。

少しして、台に乗せられた何かが

運び込まれるのが見えた。

何が運ばれているのか

見ていないのだからわからないはずなのに、

その異臭で気づかざるを得なかったのだ。


その後、夕方あたりだろうか。

すでに夜だったのかもしれない。

梨菜と会ったのだ。

どうしても心配になって、

近くだったし親からもあまり心配されず

駆けつけた記憶がある。

外から見るに家が真っ暗だったから

嫌な予感がしていた。

梨菜の家の扉は

鍵をかけていなかったようで

最も簡単に開いたことを覚えてる。

夏とは思えないほど寒かった。


波流「…っ!」


梨菜「…。」


玄関に座ったまま、

梨菜はそこにいた。

正気を失った顔をしており、

ぼうっとひとつのコップを手に取り

眺め続けるだけ。

じっと。

じー、っと。

目の前にいるのに私がここに来たことに

気づいていないように。

否、実際に気づいていなかったのだろう。

怖かった。

何もできない無力さを感じた。


梨菜に頼れる親や身寄りがあれば

また違った未来だったのだろうと思う。


私は、思わずその場から逃げ出した。

無力感に苛まれ、消えたくなってしまった。

梨菜を、どうやったら梨菜を

守ることができたのだろう。

どうすればよかったのだろう。

通報したのが間違いだったのか?

けれど、結局は同じ末路を

辿っているに違いないのだ。

ただの時間の問題だったのだ。


…その後、星李を殺したのは

梨菜と星李の実の母親だと聞いたのだった。





°°°°°





波流「…。」


私は、決断しなければならない。

事実を伝えるのか、

それとも事実を隠し通すのか。

事実を伝えれば

どうなるのかは分からない。

もしかしたら星李の死を認めて

今後前へと向かってくれるかもしれない。

逆上されることだってあるかもしれない。

隠し通せばこれまで通り

仮初の平穏な毎日を

過ごしていけるかもしれない。

これまで通り笑っていられるのかもしれない。

けれど、梨菜自身がその異変に

ついていけなくなったらおしまいだ。

少しでも正気になった時、

梨菜は、泡のように呆気なく

消えてしまいそうな気がした。


これも異臭の通報の時のように

どっちにしろいつかは暴かれるのだ。

本人だってこの違和感に

耐えられなくなってきているのではないか。

梨菜は分かっている。

梨菜だって知っている。

1番理解している。

認めたくないだけで

その事実があったこと自体は知っているのだ。


…時間の問題か。

そうだと信じたい。

信じたい。

梨菜のことを信じたい。


波流「…………梨菜…。」


梨菜「…。」


波流「……。」


梨菜「…。」


波流「私…見たの、見てたの。星李が運ばれるところ。」


梨菜「…。」


波流「…………星李は…いないよ。」


梨菜「…………………。」


梨菜の目線に合わせるように

彼女の前まで行き腰を下ろした。

梨菜は呼吸を止めているのか

すう、はぁという鈍い音は聞こえず、

手はぷるぷると震えていた。


星李はいない。

言った。

言っ、てしまった。

優しい嘘は優しくなかったのだろう。

ただの私のお節介だったのだろう。

梨菜は、梨菜なら大丈夫。

これまでだって多くのことを

乗り越えてきたのだから。

だから、大丈夫。


…。

…。

…。


その乗り越えてきた物事には

全て星李と一緒だったからという言葉が

先頭につくのを失念していた。


梨菜「…る………ゃ…。」


波流「…。」


梨菜「…波流、ちゃんの………嘘つき。」


波流「…っ。」


梨菜「星李は…いる。」


波流「梨菜、梨菜だって分かって」


梨菜「みんなみんな同じことを言わないでよっ!」


波流「っ…!」


梨菜「私は分かってるでしょ、見てたでしょ、理解してるでしょって…!星李はいるよ、生きてるよ…なのに、ぃ…。」


波流「…。」


梨菜「波流ちゃんもそっち側なの?」


波流「…。」


梨菜「波流ちゃんも裏切るの?」


波流「…裏切りじゃないよ。」


梨菜「じゃあ何。」


波流「…。」


ならば。

これは何なのだろうか。

正論か?

常識か?

正常か?

見えもしない普通か?


…私は、そうではない。


波流「私は、梨菜だからこう言ってるの。」


梨菜「…傷つけたい?見下したい?」


波流「違う!昔から頑張ってるのは知ってた、だから少しでも居場所であり続けたかった。」


梨菜「居場所って」


波流「少しでも梨菜のことを守っていられるようにって思ってる!」


梨菜「……それは…友達じゃないよ。」


波流「…。」


梨菜「それは、対等じゃないよ。」


波流「…っ!」


梨菜「守りたい欲を私で晴らすために、出まかせを言って私を傷つけようとしてるんでしょ。」


波流「そんなことしたって意味がないでしょ。」


梨菜「…。」


梨菜は硬く口を閉ざし、

そのまま手で何度も床を叩いた。

床はフローリングらしく、

軋むこともないので

頑丈にできているらしい。

そこに、何度も何度も手を、

自分の拳を打ち付けるのだ。


麗香ちゃんもいろはちゃんも

ひと言すら発することなく

その光景を見守っていた。

これまでだってそう。

何も言わずにただ傍観してくれていた。


ふと、梨菜の手に

赤色が過ぎったことではっとし、

すると自然に足は動いていた。


次に振り下ろされる拳が

床に届かぬように、

その手首を掴む。

それでもなお、梨菜は振り下ろそうとした。

どうして。

どうしてそんなことをしているの。


私は、梨菜の心のことは

まるで何も知らないのだと思い知る。


梨菜「…やめて。」


波流「やめない。」


梨菜「…何で。」


波流「梨菜のこと、大切だから。」


梨菜「…私は星李だけいればいい。」


波流「…。」


梨菜「これまでずっと2人で」


波流「知ってる。」


梨菜「…っ…星李だけがいれば、それで…。」


波流「……知ってる。」


梨菜「…なら、何で…星李はいないなんて…言うの…?」


波流「…っ!」


俯いたままだったのに、

顔なんて見えるはずないのに

つうっと雫が溢れたような気がした。

ただの気のせいかもしれないが、

体は言うことを聞かず

勝手に動いてしまう。


そっと梨菜のことを抱きしめた。

私に出来ることは何もない。

だって何にでもない人だから。

私は、梨菜にとっての特別でも

何でもないのだ。

10年間近くに居ただけの赤の他人だ。


梨菜は、私のことを慕ってくれていた。

それは分かってた。

私も梨菜のことを慕ってた。

けれど、梨菜の奥底には

いつだって星李しかいない。

私は、大切な人の枠の中には

入れないままなんだと分かってた。

いつからか理解していた。


私が教える立場で、

梨菜が教わる立場になっていること。

私が守る立場で、

梨菜は守られる立場になっていること。

友達のはずなのに

見えない心のうちで上下が生じていた。

この心のつっかかりには

中学生の時点で気づいていたけれど、

自分すらも騙してここまできた。

ここまで繕ってきた。

ここまで守ってきた。

ここまで、形を保ってきた。


それは、私にとって梨菜は

大切な人たちの中に含まれる人だから。

たとえ梨菜にとって私は大切じゃなくても、

私はあなたのことが大切だから。


だから。


波流「私が守るよ。」





°°°°°





「…。」


波流「あははー、逃げろ逃げろー!…ん?」


「…。」


波流「ねーねー!」


「…。」


波流「ここら辺に住んでるのー?」


「………う、ん。」


波流「そーなんだー!最近きたの?」


「……う……ん……。」


波流「じゃあ今日からお友達ね!」


「お、ともだ……………?」


波流「そう!仲良し!」


「……そう、な…の?」


波流「そうだよー!お名前なんて言うの?」


梨菜「………り、な。」


波流「梨菜ちゃんね!よろしくね!私は波流!」


梨菜「…はる…。」


波流「あ、そーだ。一緒に鬼ごっこやろうよ!」


梨菜「…鬼ごっこ……し、たい…。」


波流「やろうやろう!向こうにいる田村くんが鬼だからね!」


梨菜「ま、って…。」


波流「どーしたの?」


梨菜「………こ、わい。」


波流「あははー。怖くないよー!」


梨菜「…でも……」


波流「じゃあ私に任せてよ!」


梨菜「え……?」


波流「私が守ってあげる!」





°°°°°





梨菜「……っ!」


ぎゅ、と抱き締めると、

もう異臭のしなくなっている

梨菜本来の香りがした。

首元から熱が伝わる。

温もりが肌を伝って心に届いていく。

…。

梨菜にも、伝わっていますように。


その瞬間だった。

ぐらり、と大きく地面が揺れたのだ。

刹那、大地震だとわかるほどに。

本能で理解できてしまい、

ばっ、と梨菜から離れ距離をとる。


いろは「じ、地震…ですか?」


麗香「……早く逃げなきゃ、2人ともこっち!」


梨菜「…。」


波流「梨菜、立って!」


立ち上がってすぐ

梨菜に手を伸ばしても、

手を取らないままほんの数秒が過ぎる。

事態も事態なので待っていられず、

無理矢理に彼女の手を

掴んで引っ張り上げると、

思ったよりも根を張っていなかったようで

すんなりと立ってくれた。


波流「行こう。」


梨菜「おいてって。」


波流「出来ない。」


梨菜「…。」


波流「何でって聞かないんだ。」


梨菜「………だって、無駄だから。」


梨菜は。

…どんな顔をしていたのだろう。


れいちゃんは惜しくも

そのまま放置するほかない。

連れて行ったとしても

梨菜のためになるとは思えなかった。

それを、麗香ちゃんもいろはちゃんも

思っていたのか

誰1人としてれいちゃんの元へ向かわず

扉へと一直線に向かった。


梨菜「……星李…。」


波流「……。」


梨菜は、紛れもなくその

れいちゃんに向かって

呟いていたのが聞こえてしまった。

聞かなければよかった、と

思ってしまった私は薄情者なのだろう。


4人で走りながら

何度も扉をくぐり抜けるも、

なかなか目的地に着いてくれない。

繋がりはめちゃくちゃになっており、

簡単には出られなくなっている。

けれど、進むしかなくて

がむしゃらに扉を開いては

その先へと視線をむけ続けた。

地震はおさまるところを知らず、

寧ろ揺れは強くなっていく。

ぱらぱらと天井から

ちりのようなものが

降ってくる部屋もあるあたり、

そろそろ限界なのかもしれない。


それから何秒か、将又数分経た時のこと。

麗香ちゃんが先導して開いた扉の先には、

見覚えのある場所が広がっていた。


いろは「…外!」


麗香「…!早く、そのままトンネルの方に。」


波流「トンネル!?土砂で通れなかったんじゃ」


麗香「何故か今はないから、早く!」


麗香ちゃんの言葉を聞いて

不自然に思いはっと顔を上げると、

そこには私たちが朝方

通ってきたトンネルそのままがあった。

土砂で通れなくなっているわけでもなく

だからといって落書きのない

綺麗なトンネルに変わっていることもない。

私たちが通ったトンネルそのものだ。


走って、息が切れても足を

動かし続けた。

あのいろはちゃんや梨菜でさえ、

ぜえぜえと口から音を漏らしながら

走り続けていた。

梨菜の手首を持ってが熱い。

熱が集中しているのかもしれないし、

熱が篭っているのかもしれない。

冷静に考えればわかることのはずが、

今はそれすらまともに

言い当てることができなかった。


走り続けていると、

唐突にびゅう、と強い風が吹いた。

それは、家の中にあった扉を

潜る時のものに酷似している。

しかし、強さとしてはやはり

圧倒的にトンネル内の方が強かった。


その風を受けたからか、

先頭を走っていた麗香ちゃんは止まり

後ろを向いた。

そして、肩で息をしながら

やがてその場に座り込んだのだ。

お尻から落ちるように座るものだから

痛くないのか不安になったが、

彼女自身もそれどころではないらしい。


麗香「…………で…られた…。」


波流「…………。」


いろは「…あれ、家は?」


麗香「…もうないよ。」


麗香ちゃんの言う通り、

今まで走ってきたところを振り返った先に

あのログハウスは建っていなかった。

そのかわり、元々あったのだろう

自然がちらちらと蠢いている。

どうやらトンネルの外では

風が吹いているらしい。

トンネルの内部は気温が

下がる感覚がするのを思い出したが、

今は汗でぐっしょり濡れているせいことや

体温が高いこともあり、

それほど気にならなかった。


ぱ、と梨菜の手を離す。

強く握り締めたせいか

若干赤くなっている気がした。

光の限られているこの中では

隅々まで見ることはできない。

だからといって、すぐにトンネルから

出ようなんて言える雰囲気でもなかった。


麗香「……とんでもなかった。」


波流「…。」


麗香「いろはー。…無事ー?」


いろは「うん。」


麗香「………なら…いいや。」


いろは「……あ、そうだ。これ…。」


いろはちゃんはおずおずと

梨菜に近づくと、

それらを梨菜へと両手で渡した。

それは、私たちが

れいちゃんから元の位置に戻してほしいと

頼まれた時に渡されたノートだった。

そういえばいろはちゃんに

渡したままだったと想起される。

いろはちゃんはここまで大事に

抱えて走ってくれたようだ。


いろはちゃんは梨菜のことが

怖くなってしまったのだろう。

それとも、走り疲れたからなのか、

手も声も震えているのが伝った。


いろは「……これ、梨菜さんに。」


梨菜「…ありがとう。」


梨菜はそのノートを受け取ると、

少しばかり笑って

そのまま私たちから遠ざかった。

トンネルを出る気らしい。

外は段々と暗くなるような時間が

近づいているよう。

真っ赤な外の世界が

遠くにぽつりとと灯っている。


波流「ま、待って梨菜。」


梨菜「…。」


今度は手首を掴むことすらしなかった。

…。

きっと、今の私たちが

本物の距離感だったんだ。

梨菜は、こちらを振り返ることなく

ただ立ち止まるだけ。


梨菜「………なあに?」


波流「これでおあいこね。」


梨菜「…。」


波流「……貸し1。」


梨菜はこちらを振り返ろうとしたけれど、

何を考えたのかそれすらやめ、

そのままトンネルの出口へと

向かって歩いて行くのだった。

私は麗香ちゃんたちと

それとなく目を合わせた後、

梨菜の後を追うようにして出口を目指す。

今となってはトンネル内の落書きすら

愛おしく感じてしまう。

…それほど、あの家の中での出来事は

怖かったのだと思い知った。


あの家がどうなってしまったのか

今では知ることはできない。

崩れたのか、形は保っているのか、

それとも元から何ともなかったのか。

私たちはもう知ることはできない。

戻ることはできないのだ。


トンネルから出ると、

私のことを責めるかの如く

夕日が叫んでいた。

許さない、と吠えているようで。

…私は、ひとつ嘘を重ねることにした。

私は、梨菜に対して

はじめから嘘をついていなかった。

そういうことにした。


本物はそこにあったのだから。











本物を探して 終

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