序章 『初恋』

 

 ——息を呑む。

 それは、あまりにも理解し難い光景だった。


「————」


 鼓動とともに、吐息が漏れる。

 式部茉弘しきべまひろは、胸の中に広がる感情が何なのか理解できず、その場に立ち尽くした。

 茉弘は別に霊能信者でも無ければお年頃あるあるの中二病でもない。

 少なくとも今まで普通に生きてきたし、なんならそんな時期を体験したことも無かった。ある意味で少し変わった男の子で、家庭環境も悪くないので反抗期なく穏やかに育てられたといったところだ。

 けれど今、初めて人を傷つけたこの瞬間に自分の中から飛び出したもの、から目を離せずにいた。

 その——ぼんやりと身体に纏わりつく、不思議な光から。

 明らかに身体から漏れ出ているそれは、今しがた作られた恐ろしい光景を茉弘に生み出していた。


「……………………、う、ぁ……」

「……っ!」


 数瞬のあと。

 呆然ぼうぜんと立ち尽くす茉弘の我に返したのは、そんな、今にも消え入りそうな声だった。

 そう。今しがた茉弘が深手を負わせた同級生の男子生徒が、弱弱よわよわしく言葉を発してきたのである。

 ——まだ、生きている。

 茉弘は己の中に後悔の念を生んだ早とちりを恥じた。

 そしてそれ以上に、彼にまだ命があることに安堵あんどした。


「……っ、だ、大丈夫か⁉ ごめん、僕……自分で何したかわからなくて……っ」


 茉弘は肩を震わせると、彼の隣に膝を折り、苦し紛れの言い訳のような言葉を発した。

 未だにどうして自分がこんなことをしてしまったのかわからないし、この光のこともよくわからないしで、頭は混乱しっぱなしだ。

 けれど、実状はどうであれ、傷つけてしまった相手を助けなければならない。そんな使命感が、罪の意識に怯える茉弘に冷静さを取り戻させた。

 男子生徒が、うっすらとその瞼を開く。

 今にも消えそうな色を映す双眸が、茉弘の貌をゆっくりと撫でてきた。


「……は、は——、っんだよ……、その、顔はよ……

 泣き虫野郎が、いっちょ前に……俺を、心配すんじゃ……ねえ……」

「…………っ!」


 男子生徒の——ずっと施設暮らしの茉弘をいじめていた主犯格であった志摩は、こんなときでも悪態をついてくるのに、茉弘は顔を苦渋に歪めた。

 許そうなんて思ったことは無い。彼のせいで授業に出れない時もあったり、お金だって盗られたことがあるんだ。たまに何度か痛い目に合ってしまえと思ったりもしていた。

 けれど……こんな形を望んだわけじゃない。こんな形で報いを受けさせたかったわけじゃない。

 もっとちゃんと、きちんと謝って欲しかっただけなのに……っ。


「頼むっ、頼むから死なないで……、お願いだから……」

「……っ、は——、て、めぇ……んかに、ころ、さ、れ…………まる………………か、よ…………なき、む……しが……」


 その一言を最後に、茉弘を罵倒し続けてきた声が響かなくなった。


「おい……っ、おいっ! 志摩っっ!!」


 まずいっ! まずいっ!

 ここから病院に連れてこうにも、徒歩じゃ三十分以上かかる。仮に今から救急車を呼んだとしても東京都内の国道は混みやすく、救急搬送を受け付けられる病院がすぐに見つかる保証もない。だがもう、そんな事を考えている場合じゃない。

 ほぼ確実に傷害罪を捕まることを覚悟し、それでも彼を救うために茉弘は今どきでは化石文化だとかなんとかと馬鹿にされてきた旧式の携帯を開いて「119番」にかける。

 が、聞こえてきたのは圏外である、という音声メッセージが連続で流れるだけだった。

 まさかと思い、携帯の画面を凝視すると確かに圏外の表記があった。


「そんな、なんで……」


 東京都内で電話が繋がらないはずがない。

 と、常識的な思考をするが茉弘はその思考を切り離して自身の身体を見た。

 先ほどよりも身体に纏わりつく、この不思議な光の濃度が増している気がしたのである。


「まさか、これのせいで——」

「良い発想だ。もっとも、その答えは不正解だがね」


 狼狽ろうばいする茉弘の鼓膜を、鈴の音のような声が震わせたのは。

 茉弘は慌てて後ろに振り返ると、そこには貴族令嬢を思わせる衣装に身を包んだ少女が、数歩先のとこに立っていた。

 歳は十六、いや十七くらいといったところだろうか。

 あどけなさを微かに残しながらも、大人の色香に指をかけたような顔立ち。

 街灯の光を浴びて、金とも銀ともいえない神秘的な色に煌めく長い髪。

 様々な色を映す幻想的な双眸に、整った鼻梁びりょうや形のよい唇を際立たせ、どこか人間離れした、美の女神にさえ嫉妬を抱かせるほどの美しさを備えた、思わず目を奪われてしまう要素を兼ね備えた少女だった。

 そして、そんな彼女の容貌を彩るかのように、頭上に浮かぶ、極彩色の光を放つ縦伸びの三重の紋様が輝いている。

 それは。

 幻想的で。

 圧倒的で。

 暴力的なまでに、美しい姿だった。

 嗚呼、何を考えてるんだ。こんな状況で。

 いや、むしろこんな状況だからなのだろう。

 不謹慎だと、そう思われても仕方のない状況で、茉弘は己の中に突如として芽生えた感情に気づいてしまった。

 きっと生涯で初めてで、恐らくたった一度きりの——


 ——の、初恋をしてしまったことに。


「どうやら間に合ったようだ。まだ完全でなかったのが幸いしたか」

「え……?」


 少女の身姿に見惚れていた茉弘は、彼女がなにを言ったのかがイマイチ聞き取れなかった。

 そんな茉弘の様子に、少女は一瞬首を傾げ、なにかを察したようになるほど、と大仰に首肯して腕を組む。


「——言っておくが、わたしは別に怪しいものじゃない。

 わたしは魔術師。名を無華花彩菜という。

 キミに用があって会いにきたのだが、どうやら向こうの対応が先のようだね」


 そう言うと、少女——彩菜が茉弘の後ろで倒れている志摩の横で膝を折り、彼の傷口に触れた。


慧林えりんの調べよ、我が口より紡がれし祝詞のりとを以て、癒しの聖光を」

「え……」


 茉弘は茫然と声を漏らした。

 それもそのはず。彼女が志摩の側でなにかを呟いたと思うと、若緑の如き光で志摩の全身を包み、中身の多くが漏れ出ていた傷口がみるみると塞いでいってしまったのである。


「ひとまずこれで死んでしまう事はないだろう。

 だが少々中身が零れすぎている。彼も連れて行くとしようか」

「連れて行くって、一体どこに。それに僕に用って……貴方はいったい」


 茉弘の問いかけに、彩菜は数瞬の逡巡しゅんじゅんののち、答えてきた。


「先ほども言った通り、わたしは魔術師だよ。

 そして先に伝えると君は人間じゃない。だからわたしが保護しに来たんだ」

「…………! あなたは、僕になにが起きてるのかわかるんですか! 教えてください! 一体僕に何が……」


 再度問いかけると、彼女ははあ、と息をついたのち、答えた。


「キミは。世界を滅ぼす可能性を秘めた、『始原の精霊」の継承者だよ」


 問いにそう答えると、なぜだか悲しげな表情でそれを告げ。

 茉弘と彩菜。のちに世界を背負う二人の目が交わり——式部茉弘の物語は、始まった。

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