第20話 十階層〈主の間〉

「――きろ。起きろって言ってるだろ」


 頭の中がぐわんぐわんと揺れていて、気持ち悪い。


 手足の感覚をやけに遠くに感じる。


 全身がバラバラになったみたいだった。


「ようやく目覚めたか」


 重い瞼を持ち上げようとすると、差し込む光が目を焼いた。


 ゆっくりと目を開ける。


 周りの光景が目に浮かび上がってきた。


 ぽつ、ぽつと明かりを灯したランタン。


 見慣れた岩の壁。


 ――ダンジョンだ。


 僕の体はダンジョンの地面に横たわっていた。


 そうだ、僕とホーラは一階層にいて――、


 男の冒険者がやって来て――、


 ホーラがヘルハウンドを――、


 そして、僕は、後頭部を――、


「うっ!」


 じんじんと後頭部が痛み出す。


「手加減してやったから、死にやしねえよ」


 手を地面につきながら、ゆっくりと上半身を起こす。


 壁にもたれかかってこちらを見下ろしていたのは、一人の男だった。


 この男、どこかで……。


「おいおい、なんだよその顔は。まさか俺のことを忘れたとでも言うつもりかぁ」


 男は壁から背を離し、僕の前でしゃがみ込むと、前髪をぐいと片手で引っ張り上げてきた。


「ちゃんと見ろよ、ちゃんと。これでも思い出せねえか」


 そうだ、この男は、昨日冒険者組合で僕に話しかけてきた――。


「ようやく思い出したみたいだな。俺は言ったよな、あの子に近づくなって。――あの子は俺だけのものなんだ。お前なんかが近くにいていいわけないだろうが!」


 あの子――ホーラのことか。


「忠告を守らねえから、こういうことになるんだ。悪い子にはちゃんとお仕置きしねぇとな」


 男が下卑た笑いを浮かべる。


「それにしても、ああも簡単に罠に引っかかってくれるとはな」


 罠? 何のことだ。


「ヘルハウンドが出たなんてのは、真っ赤な嘘だ。お前を一人にして、こうしてお仕置きするためのな。お前たちの前に現れた男。あれは俺が服をズタズタにしてやって、ちょいと命令したら、あっという間に言うことを聞いてくれたぜ」


 何体ものヘルハウンドが三階層に出現したという情報は、嘘だったのか……。


「おい、何笑ってやがる」


 そうか、僕は今笑っているのか。


 だとしたら、それは――。


「舐めやがって!」


 男は僕の前髪をさらに上に引っ張り上げる。


 頭皮が、ぶち、ぶち、と嫌な音を立てた。


 ――ホーラ。君が危険な目に遭っていないと知って、僕は心から安心したよ。


「いつまでも笑いやがって。見ていてむかつくんだよ」


 男は掴んだ前髪を下に強く振り抜き、僕の額は、がつん、と音を立てて地面にぶつかる。


 視界に星が散った。


 額と後頭部、その両方が痛む。


「ちっ、いちいちしゃくに障る奴だ。これだからエセ冒険者は」


 視界が赤く染まった。額から出血しているみたいだ。


「おいおい、寝るにはまだ早いぜ。お楽しみはこれからなんだからな」


 男はそう言うと、僕の背の襟をぐいと掴んで、僕の体を引きずり始めた。


 年上の、しかも相手は冒険者だ。力で勝てるはずもなかった。


 それに、さっきから頭がすごく痛む。抵抗する気力すら湧いてこない。


 ――どれくらい引きずられただろうか。


 かろうじて開けていた瞼の隙間から、ぐっと光が差し込んでくる。


 広い。どうやら開けた場所に出たみたいだけど……。


 ドーム状の広い空間。


 まさか、ここは……。


 男はドームの真ん中辺りで足を止める。


「さて、十階層〈主の間〉だ。ここでお前の性根を叩き直してやるよ」


 そうだ。実際に見るのは初めてだけど、これほど広い空間は、階層主のいる〈主の間〉しか心当たりがなかった。


 意識がなかった僕を運んで、一階層からここまで来れたとは思えない。移動には転移結晶を使ったのだろう。


「ここには今、階層主がいねえんだろ」


「……どうして、それを」


「ああ? お前たちが酒場でぺちゃくちゃしゃべってただろうが」


 昨日、この男も酒場にいたのか。


「普段からここに近づく奴なんてほとんどいねえ。それこそ十階層の討伐隊が組まれたときくらいだな。階層主もいねえとなれば、誰にも見つからずに楽しいことをするには、うってつけの場所じゃねえか」


 男は高笑いし、次いで僕の前でしゃがみ込むと、ニタニタと嫌な笑みを浮かべる。


「安心しな。外でお前のことを聞かれたら、モンスターと勇敢に戦って死んだって言っといてやるからよ。――まずはどんな楽しいことから始めようか」


 そう言って男が腰から抜いたのは、一本のダガーナイフ。


 男は僕の目の前で刀身をちらつかせ、刀身の腹を僕の首筋に繰り返し当ててくる。


「首をグサッとやっちまうのは、あまりにもあっけないよな。手足をこのナイフで滅多刺しにして、最後に首っていうのが面白いか。なあ、お前はどう思うよ」


 この男の狙いは、僕の恐怖心をあおって、怯える僕を見て楽しむこと。


 こんな奴の思い通りになってたまるかと、僕は懸命に恐怖を押し殺そうとした。


 だけど、やっぱりナイフを目の前で見せられたら、どうしても恐怖の感情が湧き上がってきてしまう。


 僕の手足が小刻みに震えだす。


「もっと恐怖に怯えろ! 『自分みたいなエセ冒険者が、あの子に近づいてしまって、ごめんなさい』と言え! 『命だけは助けてください』と懺悔しろ! ――おら、どうした! さっさと言わないと、首にこいつを突き刺すぞ」


 愉快げに笑いながら、男は僕の前髪を掴んで引っ張り、ナイフの刃先を首筋にあてがう。


 ちくり、と首にわずかな痛みが走る。


 それでも僕が何も言わないのを見て取ると、


「ちっ、ムカつく奴だ。これはもうとことんまで痛めつけるしかなさそうだな!」


 男は僕の前髪から手を離して立ち上がると、地面に横たわった僕のわき腹を思い切り蹴り上げた。


「――うぐっ!」


 腹部に衝撃と痛みが走る。


 体が大きく吹き飛ばされ、宙を舞った。


 落下で強く体を打ち付け、勢いを殺すこともできずに地面を転がる。


「雑魚過ぎるだろ! これだからエセ冒険者は軟弱すぎて、話にならねえ」


 男の足音が近づいてくる。


 ――殴られた後頭部が痛む。


 ――叩きつけられた額が痛む。


 ――蹴られたお腹が痛む。


 ――打ち付けた四肢が痛む。


 全身がボロボロだった。


 立ち上がる気力さえ、もはや僕の中には残されていない。


 地面を這いつくばり、近づいてくる死の足音を聞くしかなかった。


 そんな絶望的な状況で、僕の耳がかすかな地響きを捉えた。


 かと思うと、その音は段々と大きくなっていく。


 何の、音だ――僕が頭の隅でそんな疑問を抱いていると、


「ヘ、ヘルハウンド!」


 男が急に怯えた声を上げた。


 かろうじて目線を上げれば、ダンジョンの十一階層に続く道から、見覚えのある漆黒のモンスターが姿を見せた。


 しかも、一体じゃない。


 一、二、三――少なくとも十体以上いた。

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