あなたの家の冷蔵庫の中見せてください。
めけち
あなたの家の冷蔵庫の中見せてください。
他人の家の冷蔵庫の中がどうしても見たい。
あなただったら、そんな時どうやって見せてもらいますか?
仲良くなってお願いする?忍び込んで勝手に覗く?
私は……。
1階と2階に3部屋ずつ、計6部屋しかない小さなアパート。その1階の、道路に面した角部屋が私の部屋だ。
1部屋あたりの間取りはいわゆる1DK。玄関を入るとトイレやお風呂に繋がる廊下があり、その奥にダイニングキッチン。更に6畳の洋室へ続いている。
リフォームされたキッチンは広くて明るく、清潔だ。料理が得意な人にとってはなかなか良い物件と言えるだろう。私もこのキッチンが気に入って入居を決めたクチだ。
ウチを除いた5部屋。他の人達の冷蔵庫の中身が、どうしても見たい。どうしても。
私は行動を開始することにした。
*
1部屋目。
1階の真ん中の部屋、つまりウチのお隣さんだ。40代半ばの女性の一人暮らし。出入りする際に鉢合わせることも多く、顔見知りの仲だ。
彼女は穏やかな性格で、いつもニコニコとしていて愛想が良い。「おはようございます」と声をかければ、「今日は暑くなりそうですね」とちょっとした世間話もする。
詳しくは知らないが数年前に離婚したらしく、慰謝料とスーパーのパート代で生活しているらしい。慎ましく暮らしていると、苦笑混じりに以前教えてくれた。
人の良さそうな彼女なら、素直にお願いすれば見せてくれるかもしれない。女性同士だ。友人と呼べるくらい仲良くなれば、家にお邪魔して一緒に料理を作るような機会もあるだろう。よく彼女の部屋から料理の良い香りがしてくるし。
しかしそんなに時間をかけていられない。一刻も早く冷蔵庫の中が見たい。
とりあえず仕事終わりの彼女を待ち伏せ、声をかけることにした。
「こんばんは。今日もお疲れ様でした」
「あら、こんばんは。この時間にお会いするの珍しいですね」
そのまま会釈して部屋に入ろうとするので、慌てて引き留める。何か話題はないだろうか。彼女の持つスーパーの袋が目に入った。
「今日の夕飯は何ですか?」
「え?ええと……白身魚のレモンソテーと野菜スープです。後は残り物を適当に」
「料理がお上手なんですね」
褒めると彼女は「そんなことないですよ」と照れ臭そうに微笑んだ。上機嫌だ、これはいけるかもしれない。
「あの……私、料理が苦手で……よかったら、今から料理を教えてもらえませんか?」
「えっ?今からですか?」
唐突なお願いに、彼女は目を瞬かせた。
「で、でも材料も一人分ですし……」
「大丈夫です、見ているだけで結構ですから!」
さすがに困ったように眉を下げる彼女だが、気づかないフリをして一気に畳みかける。
「お願いします!どうしても、その料理の作り方を知りたいんです!」
「う、うーん……」
勢いで押し切った。しばらく逡巡していた彼女だが、ついに首を縦に振る。
「わかりました。少しなら大丈夫ですよ」
「ありがとうございます!」
そうして私は、まんまと彼女の部屋に上がり込んだ。
キッチンはきちんと片付いて隅々まで掃除が行き届いている。食器棚の中は皿やカップが大きさ別に収納され、壁にかけられた鍋やフライパンも使い勝手が良さそうだ。
調味料も種類が多く、吊るされたバスケットには玉ねぎなどの小さな野菜が入っていた。料理上手な彼女らしい。
そして一人暮らしにしては大きめの白い冷蔵庫。早く、早く開けたい。横目で見ながらチャンスを伺う。
「すごい。キレイにしてますね」
「いえいえ……」
褒められ慣れてないのか、彼女は恐縮しながら白いダイニングテーブルの上に買ってきた食材を並べる。
「では始めましょうか。まずは……」
「これで食材は全部ですか?」
「あ、レモンは冷蔵庫に入ってます」
早速チャンスが回ってきた。この機会を逃す手はない。
「私が出しますね!」
「ちょ……」
言うが早いか、彼女が制止しようとするのも構わず勝手に冷蔵庫を開ける。
冷蔵庫の中も、きちんと整理整頓されていた。
様々な食材や調味料がバランス良く入っている。夕べ作ったのだろうか、美味しそうな料理もある。
清潔感のある、理想的な冷蔵庫と言えるだろう。
【白い冷蔵庫】
・常備菜のタッパー
・作り置きのおかず
・保存袋で小分けされた野菜と肉
・牛乳、卵
・手作りのヨーグルト
・収納ケースに入ったスパイス類
・大小様々な保冷剤、氷
なるほど……。これが彼女の冷蔵庫の中。
「もう!勝手に開けないでください!」
じっくりと眺めていたら、さすがに気分を害したらしい彼女に冷蔵庫を閉められた。
「あ、すみません……」
「いえ……でも冷蔵庫って、やっぱりあまり人には見られたくないじゃないですか」
「そうですよね、申し訳なかったです。では、私はもう帰りますね」
「は?え、料理は?」
「失礼しました」
冷蔵庫の中を見るという目的は達成された。もう興味はない。
ぽかんとする彼女を残し、私はさっさと部屋を出た。
*
2部屋目。
1階の奥の部屋。ここには老夫婦が住んでいる。年金暮らしで、のんびりと老後を過ごしているようだ。夫婦仲が良く、玄関先の鉢植えに2人で水をやっている姿を時々見かける。
おばあさんは少し耳が遠く、おじいさんは少し足が悪いらしい。生活には不自由していないようだが、老人2人では大変なこともあるだろう。
この2人なら、何かお手伝いすることがあれば家に上がり込めるかもしれない。家にさえ上がれたら、冷蔵庫を見ることはたやすそうだ。
早速、家の前で日向ぼっこしているおじいさんに声をかける。
「こんにちは。いい天気ですね」
「……うん?ああ、同じアパートの…。こんにちは」
「何か困っていることはありませんか?」
「ないよ、ありがとう」
ないのか、とついガッカリしてしまった。たとえばテレビの調子が悪いとか、そんな理由があれば家に上がり込めたのに。
しばらく世間話をした後、おじいさんはおばあさんに呼ばれ、ゆっくりとした足取りで家に入ってしまった。
何か、きっかけになるような物はないだろうか。周囲を見回す。2人が大事に育てている植木鉢が目に入った。
「仕方ないか」
私は植木鉢を持ち上げ、思いっきり地面に叩きつけた。ガシャン!と大きな音がする。
おばあさんは耳が悪いので聞こえないだろうし、おじいさんは足が悪いのですぐには出てこられない。全ての植木鉢を割ってから、私は急いで自分の家に入る。
様子を伺っていると、やがて出てきて惨状に気付いたおじいさんがオロオロとしているのがわかった。すかさず顔を出す。
「どうしました、大丈夫ですか」
「だ、誰かが……植木鉢を……」
「まあ、ひどいことをする人がいますね!お手伝いします」
おじいさんと一緒に片付けをする。散らばった破片や土を全て処理すると、おじいさんがホッとしたように言った。
「いやあ、助かったよ。ありがとう。お礼にお茶でも飲んでいかんかね」
「いいんですか?じゃあ遠慮なく。お邪魔します」
そうして私は、自然に老夫婦の部屋に上がり込んだ。
キッチンにはゴザが敷かれ、ダイニングテーブルの代わりにちゃぶ台が置いてある。座布団に座ったおばあさんが、まったりとお茶を飲んでいた。
小さな茶箪笥にはどこかのお土産や工芸品。流しには2人分の和食器が水切りに伏せてある。棚にはレースのカーテン、出入口には玉すだれがかけられている。
使い古した緑色の冷蔵庫。たくさんの手書きメモが貼ってある。この中が早く見たい。早く。
おじいさんがヤカンに火をかけている間に、私はおばあさんに話しかけた。
「おばあちゃん。お茶菓子はどこですか?冷蔵庫ちょっと開けさせてもらいますね」
おばあさんには聞こえていなかったかもしれないが、了解をもらった体で勝手に冷蔵庫を開ける。
冷蔵庫の中には、様々な食品が乱雑に詰め込まれていた。
奥の方にはいつの物かわからない瓶詰などもある。冷蔵しなくても良さそうな食品も多い。なんとなく実家の冷蔵庫を思い出した。
【緑色の冷蔵庫】
・痛み始めている果物、根の生えた根菜
・たくさんの同じ調味料
・手作りの梅ジュース
・食べかけのパン、使いかけのバター
・切り干し大根や漬物のタッパー
・通帳
・冷凍のイカ
こんな感じか……。じっくりと眺めてから、ため息をついて冷蔵庫を閉める。
「羊羹がありました、これを頂きましょう」
笑顔で振り返り、おじいさんとおばあさんと軽くお茶をした。
冷蔵庫には賞味期限の切れている食品も多かったが、もう目的は達成されたのでどうでもいい。2人のためにわざわざ整理してあげる必要もない。
お茶が終わると、さっさと自分の部屋に引き上げた。
*
3部屋目。
2階。ウチの真上の部屋だ。若い男女が同棲している。2人共派手な身なりで、いつも賑やかだ。ケンカも多い。正直階下のウチにしてみれば、うるさいと感じる時もある。
彼氏の方は仕事をしているのかいないのか、日中も家にいることが多い。彼女の方はキャバ嬢か何からしく、夜になると仕事に出かけていく。
あまり話したことはないが、彼女の方は気が強そうだ。きっと正面からお願いしても相手にしてもらえないだろう。聞こえてくるケンカの声も、彼女が一方的に責めていることが多いし。
そうすると、彼氏の方を狙った方が良いかもしれない。彼氏は見た目がチャラチャラとしていて、あまり物事を深く考えないタイプに見える。
私は、彼氏が1人になる夜を待つことにした。
彼女が出て行ったことを確認し、そっと2階に上がって彼らの部屋の前に立つ。勝手にシールやステッカーが貼られている扉に苦笑しつつ、インターホンを鳴らした。
「……はーい」
しばらくして彼氏がドアを開けた。ボサボサの金髪、黒いタンクトップ。シルバーのピアス。
寝ていたのか少し機嫌が悪そうだ。さすがに正直に冷蔵庫を見せてくれとは言えない。だけど部屋に上がり込みたい。手っ取り早く。それなら。
「すみません、突然。あの……私、あなたのこと、よく見かけてて」
「……ん?」
「ずっとカッコイイなって思ってたんです。だからその……あなたのことよく知りたくて」
「……へえ、そういうこと。ふーん…?」
ジロジロと値踏みするように、私の頭のてっぺんからつま先まで眺める視線を感じる。
それから彼はニヤリと口角を上げて、「まあ入りなよ」と私を招き入れた。最低な男だ。だけど今は都合が良い。なりふり構っていられない。
そうして私は、首尾よく彼らの部屋に上がり込んだ。
キッチンはかなり散らかっている。足の踏み場もないとはこのことだ。椅子には脱いだ服、床にはゴミ袋や雑誌、パステルカラーのテーブルにはカップ麺の容器やマグカップが乱雑に置かれている。
流しには調理に使った鍋や食器が洗わずに残っていた。隅のダンボール箱にはインスタント食品がぎっしり入っている。
彼女の方の趣味だろうか、動物型のマグネットがベタベタと貼られたピンクの冷蔵庫。丸みを帯びたデザインで可愛らしい。いや、デザインはどうでもいい。早く、早くその中を。
そんなことを考えていると、不意に両肩を掴まれた。そのまま顔を近づけられて、慌てて制止する。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「は?そのつもりで来たんだろ?」
「そ、そうですけど!えっと。その前に喉が渇いたなって……」
彼は拍子抜けしたような顔をしたが、「待ってて」と椅子を指した。物をどかして座ると、彼は2人分のコップをテーブルに置く。冷蔵庫から出したペットボトルの烏龍茶が注がれたところで、おずおずと声をかけた。
「あの……ストローとかってありますか?」
「はは、結構図々しいね。ん~、あったと思うけど」
後ろを向いて棚を漁る彼。その隙に、私は隠し持っていた睡眠薬を素早く彼のコップに入れた。
・・・
彼がテーブルに突っ伏して寝ている。予想以上に薬が効いたようだ。その間に、私はゆっくりと冷蔵庫を開ける。
冷蔵庫の中は、酒や飲み物、おつまみがほとんどだった。
自炊している形跡はあまりない。食べ物はコンビニの惣菜やお菓子ばかりだ。どれも2人分ずつ入っている。
掃除はそれほどしていないらしい。醤油か何か零したのか、茶色いシミがある。
【ピンクの冷蔵庫】
・缶ビール、缶チューハイ
・ペットボトルのお茶
・コンビニ弁当
・シュークリーム、チョコレート
・ウィンナーの袋、イカの塩辛の瓶
・アイスクリーム
目的の物はない。眉間にシワを寄せ、静かに冷蔵庫を閉める。
視線を向けると、彼はまだいびきをかいて寝ている。夢か何かだと思ってくれると助かるんだけど。ともかく彼女が帰ってくる前に、さっさと退散した方が良いだろう。
私は簡単に自分の痕跡を消してから、静かに部屋を後にした。
*
4部屋目。
2階の真ん中の部屋。キャリアウーマン風のクールな女性が住んでいる。毎日しっかりとスーツを着込み、黒い艶やかな髪をなびかせ、ヒールをコツコツと鳴らして出勤していく。
美人でスタイルも良いが、目つきがキツくて愛想がない。住民とは関わりたくないようで、挨拶をしたのに無視されたことがあった。
警戒心がかなり強く、周囲を信用していないようだ。話しかけることさえ難しいとなると、これまでのようなコミュニケーションによる目的達成は不可能だろう。さて、どうしたものか……。
とりあえず、彼女の部屋の前まで行ってみる。玄関先には何も置いていない。
合鍵でもないかとポストなどを探ってみたが、用心深い彼女がそんなわかりやすいところに隠しているはずもなかった。出直そうかと考えて、ふと足を止める。
「……ん?この窓……」
目に留まったのは、ドアの横の小窓。位置的に廊下に面している。モザイクガラスで中は見えないが、多くの住民は内側の出っ張り部分に物を置いているようだ。
しかし彼女は、小窓の周囲に何も物は置いていないらしい。窓格子もないし、ここからなら中に侵入できそうだ。
「……。よし」
私は雨音で音がかき消される大雨の日を選び、行動を起こした。
黒い皮手袋に帽子。彼女が留守で周囲に誰もいないことを確認し、持っていた石で小窓を割る。鍵を開け、開けた窓に身体をねじ込む。小柄な体格で良かった。
そうして私は、なんとか彼女の部屋に上がり込んだ。
キッチンはガランとしていて殺風景だ。ガラスのダイニングテーブルと椅子、小さなスチールラックに置かれた電子レンジくらいしか家具がなく、生活感がない。
料理はほとんどしないのだろう。流しもしばらく使った形跡がなく、食器類も仕舞ってあるようで見当たらない。唯一人間味が感じられるのは、ラックに置かれた紅茶のパックくらいだ。
薄暗い中、雨音に紛れて冷蔵庫の稼働音がする。一人暮らし用の、小さな黒い冷蔵庫だ。私は素早くそれを開ける。
冷蔵庫の中は、ほとんど物がなかった。
食に興味がないのか外食ばかりなのかはわからないが、健康状態が心配になるほどだ。
むしろ食品以外の物も入っていて、本来の用途ではないようにも感じる。
【黒い冷蔵庫】
・水
・栄養補助食品(ゼリーなど)
・化粧水、目薬
ダメだ、この部屋でもない。ガッカリして冷蔵庫を閉めようとしたその時。アパートの階段を上がってくるヒールの音がして、ギクリと動きを止める。
「……!?」
彼女だ。この部屋の主。玄関のすぐ外で小さな悲鳴が聞こえた。まさか今日に限って早く帰宅するなんて。
「ど、泥棒…!?」
小窓が割られていることに気付いたのだろう。声からは驚きと困惑した様子が伝わってくる。まずい。
「け、警察呼ばなきゃ…!」
私はじっと息を殺して様子を伺った。外にいる彼女は、さすが冷静だ。賢いようで中には入ってこない。そのまま電話をしながら階段を駆け下りていく音が聞こえる。
今のうちだ。私は素早く自分の痕跡を消し、そっと玄関から出て自分の部屋にするりと入った。
やがて彼女が警察と共に戻ってきた。色々とバタバタとやっていてにわかにアパートが騒がしくなったが、もう目的を達成した私には関係ない。私が彼女の部屋に侵入した証拠はどこにもないのだ。
その後ウチにも警察が聞き込みに来たが、素知らぬフリを貫いた。泥棒を怖がる、か弱い女として。
*
5部屋目。
2階の奥の部屋。厳格そうな中年男性が住んでいる。人から聞いた話によると、どうやら作家らしい。
基本的に部屋に籠っていて出てこない。気難しい性格なのか、編集者らしき人間を怒鳴って追い返しているところを見たことがある。口ひげを生やし、着流し姿だった。
この男性も、他の住民とは一切関わろうとしないようだ。また一日中部屋から出ないとなると、4部屋目の彼女のように忍び込むのも難しいだろう。
だけど、冷蔵庫の中がどうしても見たい。どうしても。
私はとりあえず彼の部屋の前まで行ってみた。この部屋も、玄関先には何も置いていない。
日用品や食料の買い物はどうしているんだろうと思ったが、そういえば宅配便はよく来ているようだ。編集者の人が持ってくることも頻繁にある。
それならば。私は一旦自分の部屋に戻り、編集者の人を待ち伏せることにした。
夕方になって、予想通り編集者が小走りでやってきた。両手に下げている紙袋は差し入れなのだろう。偶然を装って外に出て「お疲れ様です」と声をかけると、うまい具合に急いでいるようだ。
「そうだ私、ちょうど先生のところに夕食のお裾分けに伺おうとしていたんです。よかったら一緒に持っていきましょうか?」
「え、いいんですか?」
笑顔で申し出ると、編集者はこれ幸いとばかりに食いついてきた。袋を預かると「じゃあお願いします!」とサッサと行ってしまう。初対面の私を信用するとは。ラッキーだ。
2階に上がり例の部屋のインターホンを押すと、しばらくしてから彼が緩慢な動きで扉を開けた。
「……?誰だ?」
「下の階の者です。編集者の方からお使いを頼まれまして」
「なんだと?まったく、あの馬鹿……。それはすまなかったな。では」
「あっ!あの、よかったら私がお食事をお作りしましょうか?キッチンをお借りして……あの、先生はお忙しいと聞いて」
袋を受け取った彼がさっさと扉を閉めようとしたので、慌てて口を挟んだ。唐突な申し出だが、あわよくば部屋に上がり込めたらと。しかし。
「結構だ。私は誰も部屋には上げん」
冷徹な視線。そのまま目の前で扉を閉められてしまった。取り付く島もない、むしろ印象が悪くなったようだ。失敗だ。
「………」
こうなったら。もう手段は選んでいられない。
・・・
夜になって、私はアパートの裏手に回った。目的の部屋の真下だ。ここなら、道路側からも見えない。
持っていた瓶の蓋を開ける。中の液体を地面にまんべんなく撒き、火をつけたライターを放った。
小さな火は、液体を伝ってあっという間に燃え広がる。真っ暗だった周囲が赤く照らされた。順調に火の手を伸ばしていく様を確認し、急いで自分の部屋に戻る。
「か、火事だー!!」
どこかの部屋の住民の声がした。私もその声を聞きつけて慌てて部屋から飛び出すフリをする。
住民達が急いで逃げていく。おじいさんとおばあさんも、同棲カップルに支えてもらって逃げ出したようだ。
上の階を見た。例の部屋から、作家の彼が飛び出してきた。アパートの敷地から転がるように出ていく姿を見届け、私は素早く2階へ移動する。
火は簡単に燃え広がり、既にアパート全体が炎に包まれ始めていた。でもそんなこと気にしてはいられない。一刻も早く、冷蔵庫の中を。
そうして私は、やっとの思いで彼の部屋に上がり込んだ。
キッチンにはまだ火の手は届いていない。しかし奥の居室は燃えているようで、隔てる扉から時々火の粉が舞い上がる。
赤々と照らされたキッチンは、一人暮らしの中年男性らしく雑然としていた。意外と自炊はしているらしく、調理器具や食器は揃っている。それも土鍋や陶磁器などの和食器。こだわりが強いようだ。
重厚そうな棚には、手挽きのコーヒーミルとコーヒー豆が置いてある。ダイニングテーブルは渋い和モダンのウォールナット製。ここでも仕事をしていたのか、書類や本が散らばっている。
そして業務用にも見えるシルバーの冷蔵庫。最新モデルのようだ。私は急いで冷蔵庫を開ける。
冷蔵庫の中には、珍しい食材や高級そうな食材が多かった。
お取り寄せだろうか、桐箱に入った食品もある。ラインナップを見るに、どうやら魚卵が好きらしい。
他にも持病があるのか仕事柄か、薬の類も色々と入っていた。
【シルバーの冷蔵庫】
・桐箱入りの明太子、数の子
・イクラ、筋子
・霜降り肉
・松茸
・壺入りの味噌?
・漢方薬、高麗人参
・冷却シート
「……そんな。ここでもない…っ!!」
目的の物は見当たらない。そんなはずはない。だって、この部屋が最後のはずだ。
唇を噛みしめ、冷蔵庫の中を睨む。しかし中身が変わることはない。
ゴウ、と激しい音がして、奥の部屋から炎が吹き出した。大分火の手が回ってきたようだ。
ぐずぐずしていられない。私は臍を噛む思いで冷蔵庫を閉め、急いで部屋から飛び出した。
*
結局アパートは半焼。思ったよりも早く火が消し止められたので、建物自体は形が割と残っている。
ただし住民は立ち入り禁止だ。私はキープアウトテープの前で、ボロボロのアパートを見上げた。
「………」
目を細めて考える。全ての部屋の冷蔵庫の中身を見たけれど、それで本当に全てだったのだろうか?もう冷蔵庫はないと言えるのだろうか?
もしかして。ひとつの結論に辿り着く。あの中で一番気になる冷蔵庫だったのは……。
意を決し、私はキープアウトのテープをくぐった。
1階の真ん中。ウチの隣の部屋。最初に見た、40代女性の。
黒く煤けた玄関を通り、見る影もないキッチンを抜ける。奥の部屋への扉は燃え落ちている。
居室に足を踏み入れるのは初めてだ。何もかも燃えていて、ほとんどの物はもう原型がわからない。隅の黒く大きな物体はベッドだろう。真ん中にはローテーブル。そして。
押し入れがあった部分に足を向ける。炭と化した衣類やプラスチックケースを払いのけると、それはあった。
冷蔵庫だ。
小さくて白い。冷凍機能のついていないタイプの。煤けてはいるが、燃えてはいない。
震える手で、ゆっくりと開ける。
「………。いた……」
いた。目的のものが、ずっと探していたものが、そこに。
「ここにいたんだね……ごめんね遅くなって」
まだ歩くこともできなかった赤ちゃん。
花柄のベビー服に身を包んだ、可愛い可愛い私の娘。
抱き上げると、氷のように冷たい。見た目はまだ生きているようだが、その目が開くことはない。温めるように、ぎゅっと抱きしめる。
「……開けてしまったんですね」
不意に後ろから、女の声がした。振り返らなくてもわかる。この部屋の住民。人の良さそうな、彼女だ。
「………」
「保冷剤が足りなくて。キッチンの冷蔵庫にもたくさん用意していたのは失敗でした」
「………」
「……すみませんでした」
「……どうして攫ったの。この子を」
旦那と娘を同時に亡くしたあの事故。葬儀の前日に消えてしまった、我が娘。
このアパートの誰かが隠し持っていることまでは、必死に自力で突き止めた。子供を隠しておくなら冷蔵庫以外に考えられない。
だけどその後がどうしようもなかった。警察も私に協力してくれなかった。だから自分で、全ての冷蔵庫を確認するしかなかった。死に物狂いで。
「……私も、赤ちゃんを亡くしたんです。元旦那に、DVを受けてて。守ってあげられなくて。それで」
「それで!?それで、この子を代わりにしたって言うの!?」
激昂して振り返る。そんなこと許されるわけがない。彼女の事情なんて、娘にも私にも関係ない。
全ての憎しみを込め、彼女を睨みつける。彼女は目を反らさず、まっすぐこちらを見返してきた。
「お葬式もしてあげられなかったんです」
「だからって…!」
私の娘を代わりに弔おうとでもしたのか。何を言っているのか全く理解できない。
葬式費用を出せなかったのか何なのか知らないけど、そんなの……
「遺体が、いなくなったので」
静かな声に、一気に背中が寒くなった。まるで冷水を浴びせられたように。
目を見開く。彼女の表情からは、感情は読み取れない。
「私もずっと探していたんです。いなくなった私の赤ちゃんを」
「……あ……」
「あなたの娘さん、生前は難病でドナーを探していたんですってね?」
「……!」
彼女の冷たい視線が、私を正面から射抜く。
「あなたの家の冷蔵庫の中、見せてくれますか?」
あなたの家の冷蔵庫の中見せてください。 めけち @mekechan
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