第5章

  1


 七人の子どもたちは、悪夢でも見たかのように一斉に跳ね起きる。規則正しく二列に並んだ一人不在の八(はっ)床(しょう)のベッド。丁寧にブランケットまでかけられて、ふかふかのベッドの中で眠っていた。

 ひどく怯えた顔は青白く、冷や汗に塗れて、頬に新しい涙を流す。

 ──電車の扉を開け中に入った瞬間、現実で待ち受けていたのは暗闇と、猛烈な毒々しい煙の襲撃だった。催眠、催夢、記憶喪失、残酷な要素を豊かに備えるガスに塗れて眠りに落ち、毒ガスに立ち向かう特殊部隊のような集団に遺体の扱いで台に乗せられ、手術さながらの様相で、超科学を駆使して各々の夢の世界を撮影されていた。そしてゲームが終わると、彼らをベッドルームまで運び、しばらくの間昏睡(こんすい)していたことなど知る由(よし)もない。

 だが泣き顔を豪快に吹き飛ばして、ギルベルトはカバみたいに口を開けて豪快に笑った。向かいにいたエトワールに指をさす。

「お前なんで泣いてんだよ!」

「え?」

 エトワールもいつもと変わらない様子で明るく笑い返す。

「いや、そういう君も」

「は? うっわ! マジだ。なんで?」

 鼻にかかった声で、皆が若干寝ぼけ気味に喋る。

「なんでベッドにいんの~?」

「なんか、長い夢でも見ていたような……」

「僕、寝てたのぉ? いつ?」

「さあ……」

「確か、電車の中に入って、おかしな扉を開けて……それからぁ……」

「ねえゲームは? まだゲームしてないじゃない!」

 一瞬静かになり、部屋中に妙な疑念が滲んでいく。

「確かに。え、どうゆうことだ?」

 眼鏡を逆さまに着けたマルクスが、急に深刻な顔になって膝を寄せる。

「待って! エイミーがいない!」

「ピエロも!」

「アイツらどこ行った?」

「ちょ……待って、なんか止まらないんだけど」

 涙に濡れた声で、セシルが笑い交じりに言った。

 涙が止まらない。彼だけではない。みんなそうだった。何かを覚えている体が一方的に泣いている。体に刻まれた絶望と恐怖に、頭が追い付いていなかった。雫の一粒にそっと触れる、涙の意味がまるで分からず。

 

「あれ? 俺たちなんで──泣いてるんだ……?」


 ユメの記憶は、夢のように消えていた。

 

 ハッと目を開き、弾かれるように起き上がる。

 広大な、一面真っ白な広場の中心にいた。赤髪はきれいに編み込まれたままだ。ようやく形を崩して、涙がひとつ、初めて零れ落ちる。

 首を落とし、涙の存在も忘れて、状況整理もできず、寝起きの朦朧(もうろう)とした状態で真白い地面を見つめる。かつ、かつと、優美な靴の音が彼女に近づいてくる。やや前で立ち止まった。顔を上げると、見上げるような長身の、道化師の青年紳士が笑顔で立っていた。

「おかえり、エイミー」

 仮面は嘘偽りなく優しい笑顔を浮かべる。一瞬驚きつつも、大好きな人の登場で一気に意識が冴え渡り、こぼれるように破顔(はがん)した。

「ただいま!」

 その銃弾に、彼の心臓は撃ち抜かれる。

 流れるように膝をつき、無邪気な笑顔に不釣り合いに伝う、忘れられた涙を指でそっと拭った。彼はにっこりと、面影の欠片もない少女にジェントルに手を伸べる。

「お手をどーぞ」

「うん!」

 少女を軽(かろ)やかに必要以上に引っ張り、華奢な身体が折れないように、とでも囁くように大切に抱き寄せる。今まで彼女たちに見せたこともないような、愛おしそうな微笑みで見つめている。

「みんなはどこにいるの?」

「別の部屋で眠っているよ」

「眠ってるの? じゃあ起こしに行く!」

 ふ、と笑を零し、手を繋げたまま艶めいて言う。

「私を置いていくつもり?」

「みんなに会いたい!」

「二人きりはイヤ?」

「ううん! そんなことない! とーっても楽しいです!」

「じゃあ、行く必要はないね」

「エイミー、どうしてここいにいるの?」

「ンー? それはねえ、ユメを見ていたのさ」

「ユメ?」

 音楽もなく、群衆もなく、鼻でワルツを歌い、背中とウエストに手を回して、ふたりだけのゆったりとした舞踏をはじめる。

「それはそれは、ある時のこと。どんな望みも叶うという夢の世界で、記憶が吹き飛んでしまうくらい楽しくて、残酷なゲームをしました。ある子は突飛(とっぴ)な理想を願い、ある子は既にあるしあわせを望み、子どもたちは、ひとりひとり、喜劇と悲劇の世界を過ごしました」

 エイミーをくるくる回す。

「その中で、一際誰よりも強く、優しく、美しい少女がおりました──君だよ」

 ぐっと抱き寄せ、キスをするように見つめる。

「険しい道のりを乗り越え、勇猛(ゆうもう)果敢(かかん)に戦い、今まで、誰も踏むことはなかったゴールまでやってきたんだ」

「でも、なんにも覚えてません!」

「あんなに楽しかったのに!」身体を持ち上げて天に差し出し、彼女はきゃっきゃと笑う。「あんなに悲しかったのに……」すとんと落とす。きゃあ!「夢の記憶というものは、あきれてしまうくらい、あっさりと忘れてしまうもの──君は、そう。忘れちゃったのさ」

 エイミーは空に目をやった後、愚かにもすぐに納得した。

「そっかぁ! ホントだね!」

 純白の広場は、まるで世界で二人しかいないみたいに静かだ。

 ワルツを止め、彼女の背に触れたまま、祭りのように輝く瞳の奥まで吸い込まれて、甘く「エイミー」と名を呼び、

「おっめでとう~!」

 歓喜してぎゅぅッと抱きしめた。抱いたまま彼女の顔を爛爛(らんらん)と見つめる。

「君はゲームに勝ち残った! おもちゃの国は、君のものだよ!」

 瞳がぎらぎらどんどん輝いて、喜びいっぱいの笑顔が咲いた。とびきりの歓声を響かせて飛び跳ねてハイタッチをする。同じように、否、それ以上に狂喜的なのはピエロの方なのだが。

 にこにこと可愛いと思う半面、紳士の理性で欲望をグッと抑え、彼女を笑いながら見守る。

 するとぴたりとエイミーの動きが止まって、にこにこしたまま問うた。

「みんなも一緒だよね!」

「ああ……」滑稽に思いだす──残念。七つの大穢は……。「みんなは──」願い下げだ。

 けれど笑顔でエイミーは、ビジョンを根底から揺るがすことを言った。

「エイミー。みんながいないなら──おもちゃの国、いらない」

 ………………。

 ちょっと、想定外。

「うん! じゃあ、みんなのものだねー」

「やったぁ!」

「フフ」──あとでいくらでも取り繕(つくろ)えばいいだろう。記憶を消すなりなんなり、いくらでも手はある。

 仮面の裏が含み笑った。

 彼女は至って無邪気に、未発達だが多少ある果実ごと腕に巻きつく。男として思わず顔を逸らす。

「ねぇねぇ! ピエロとみんなとおもちゃで遊ぼう!」

「……ふふ、私は君と二人がいいな。みんななら、また後で会えるから」

「ほんと?」

「ホント」

「わかった! ピエロと二人で遊ぶ!」

 ぎゅっと小さな腕をかわいらしく背中に回して抱き着いた。妖精みたいなきらきらした上目遣いと絡み合い、心臓が早鐘を打つ。

「うん、イイ子だね」

 やさしくそう言って頭を撫でる。手袋が鬱陶(うっとう)しいとさえ思いながら。

 彼は王子然と跪く。宝物のように手の甲を取って、固い口づけを落とした。

 顔を上げ、眩しい彼女をプロポーズさながら見つめる。

「エイミー……私とデートしてください」

「はぁい!」

 ひゃほー! 告白が成功した小学生のように万歳して喜んだ。エイミーもころころ笑った。かと思えば、

 おいで──信じられないくらい優しい大人の甘い声で、エスコートするように手を丁寧に差し伸べる。

「うん!」

 躊躇(ためら)いもなくその手を取った。

 

  2

 

 エレベーターを一緒に昇り、ピエロ以外誰も立ち入りできない城の上層部へ入る。

 おしゃべりをして高々と笑い合い、城内なのに遊園地みたいな乗り物とか不思議な仕掛けがたくさんあり、二人ともとても楽しんで遊ぶ。

 よりねんごろに仲良く手を繋いだまま、エイミーが得意の歌をうたって、ピエロがそれを微笑んで見守り、廊下を歩く。

「とってもかわいい、とっても上手。アイドルみたいだ」

 エイミーが顔を上げて嬉しそうに笑った。そしてピエロが滑稽な歌声を重ねて、エイミーの歌を茶化して屈託なく笑い合う。

「エイミーは誰か、好きな男の子とかいるのかなー?」

「いるよ! セシルもルイスも。ギルベルトもエトワールも、みんな大好き!」

「おやおや? 私がいないなぁ」

「ピエロもすきだよ!」

 彼は娘を見るように優しく、愛おしく笑った。

「かわいいね。君の〝好き〟は」

 その目の奥は燃えている。

「うーん?」

 何も知らない彼女からゆっくりと視線を前に移す。静寂が包む廊下に、靴音が律を刻んでいる。彼は呟くように言った。

「──よく似ている」

「?」

 やおら彼女に向き戻り、少女の、その、吸い込まれそうなほどに澄んだ瞳を見つめる。

「強く、優しく、美しい」

 彼女を超越して、彼は遠い昔の人を見続け、少女に意識を戻すと穏やかに言った。

「私のマ──母も、多少性格は違えど、君のように美しい人だった。無垢で、美しさも知性も備え、万物(ばんぶつ)を深く愛していてね、微笑みを絶やさず……女神のような人だったよ。前世はきっと地球でも救ったんじゃないかな。それに、天然だった」

 じっと純粋な眼を見つめ、無自覚にも程がある彼女は明るく笑った。

「私を盲目(もうもく)にするところも」

 ポツリと呟かれたそれは、彼女の耳には届かなかった。 

 夜のように暗い、テラスのような場所へ案内する。街並みの形をした不揃いの柵があり、その先には大空間が広がり、一本の長い綱が宙に張られている。圧倒的な背景として、一角がぺろんと捲れた満月の夜は不思議な壁紙で、満月は本物のように光(ライト)を放っている。柵の前方に一メートルを隔てて、柵と同じ高さの透明な踊り場があり、掛け階段を登って踊り出る。

 私と踊ろう!

 エイミーを傀儡師(くぐつし)のように操り、街並みのシルエットを舞台に、二人の影が月の下で踊る。夜のような世界に、少女と大人の笑い声が木霊する。

「月と太陽。どっちが好きかい?」

「太陽!」

 彼女は眩しく輝いた。

「君にぴったりだ」

 エイミーの背を手袋で支え、覆いかぶさるように細い腰を折る。フィンガースナップを鳴らすと、魔法のように夜の帳(とばり)に昼の幕が降りた。青い空、ふわふわの白い雲、絵に描いたような巨大な太陽が笑っている。

 おてんと様だ!

 彼女はピエロをすっぽかして柵から身を乗り出し、本当に光っている眩しい太陽に歓ぶ。

 その背中を歩いて追いかけ、傍にやって来ると片肘をつき、小さな太陽を見つめる。

 空に夢中の彼女に夢中になる。小雪のような手に、大人の手を重ねる。

「太陽が眩しいね」

 視線は絡まず、光沢を放つ手袋が美しい赤髪を愛撫し、白い頬まで蕩け落ちる。愛くるしい横顔に見惚れ、顔を徐に近づける。

「タッチ!」

 しかし無知に、小さな両手が顔面を覆い隠した。

「かくれんぼしよう! ピエロ鬼ね!」

 となんとも愛らしく言い捨て、掌から無邪気に逃げた。コケっと大げさに転げ落ちる。かくれんぼはタッチしないよぉ……。

 どんな心も手玉のように転がす彼だが、女一人に振り乱され、悪くない苦笑をこぼす。

「君の心は読めない……」

 森で遊ぶように廊下に笑いを響かせ、一人駆け巡る。どこに隠れようかと色んな扉を開ける。

 男の子、または女の子向けの子ども部屋、トイレ、書斎、お店屋さんごっこ用のコンビニ、旅館、ゲームセンター、アトリエ、まるでデパートみたいに充実した設備だ。牢獄も見つけたが、おままごとでするような遊び場だと思って何も思わなかった。

 そしてある扉を開けたとたん、目を丸くした。閉めるのを忘れ、おびき寄せられるように踏み込んだ。

 幼稚園の部屋だった。陶器やフェルト、セルロイドなどといった素材という名の個性に溢れた子ども人形たちが戯れている。しかし、皆玩具だ。これ以上置けないと思ったのか、ペットボトルサイズの子どもたちが長い赤い糸に脳天を吊るされ、人形の森を形成していた。

 子どもたちを踏まないように、人形たちをかき分け、慎重な探検家のように森の中に入る。中央にきたところで好奇心が疼いた。

 宙に浮かぶ球体関節の少年人形を引き寄せる。ぷっくりした白い頬は柔らかい肉(にく)色(しょく)を刷(は)かれ、幸せそうにぽかぽか笑っている。かわいい、と頬が綻んだ。陶器の肌を親指で撫でてみると、とても冷たかった。目をかっと剥いて、義眼を虫眼鏡を覗くようにして凝視する。本物の眼球のように精緻で美しく、吸い込まれるようだ。完璧なまでにリアルに作られていた。

 隠れ場所は見つかった。いそいそとロッカー沿いを這い這いする。ピエロ、見つけられるかな? くすくす笑い、ひょこっと頭をもたげた瞬間、ごつんとロッカーの角に頭を盛大にぶつけた。

「いったぁい!」

 すると、ロッカーの一番上の部屋で迫(せ)り出ていたオモチャ箱がずれて回転し、大量のオモチャが雪崩れのごとく彼女に襲い掛かる。悲鳴を上げた。

 オモチャの波に埋もれ、んー、と怒ったように呻く。埃(ほこり)の臭いにうえっと顔を顰め、とあるオモチャが目に入った時、ふいと痛みを忘れた。

 娘二人を夫婦が挟み、人間の四人家族が仲良しに手を繋いで合体しているフェルト人形だった。それを導かれるように拾い上げる。

 幸せそうな家族を、そして父を、見つめる。笑顔を忘れ、無意識に、零していた。

「パパ……」

 まっ黒な愛らしい物資を超え、トンネルを進むように、意識を吸い込まれていく。

 意識はやがて、羊皮紙(ようひし)めいた光の世界に包まれる。子どもから大人まで、多くの人たちの楽しそうな笑顔がぼんやりと浮かぶ。彼らの中心で一層鮮やかに燃え立つ赤色があり、彼だと判(わか)った瞬間、ピントが合ったように世界が冴える。

 隣に母と姉、村のみんなに囲まれた父親が、気配に気づいて背中を振り返った瞬間──闇に覆われ、猛烈な紅蓮(ぐれん)の炎がうねり、大きな白い掌が懸命にこちらに伸びる。唇が何か言葉を象り──掌は、スローのように落ちる。そして元の光に満ちた世界に戻り、エメラルドの愛に輝く瞳が自分を映す。赤髪の男は、少年のように白い歯を見せて手を振る。

「エイミー!」


 ──フレッド……。

 

 今はもういない、父親を思い出す。

 

 3

 

 数十年ほど前の昔。珍しいことではないが、村人たちの顔は暗く曇り、陰口と愚痴が絶えない、陰気な村があった。

 すり減った靴で田舎の土をくしゃりと踏み、鮮やかな赤髪を靡かせ、その青年は突然現れた。

「俺の故郷! たっだいまああああああああああ!」

 異国の村を自身の生まれ故郷と勘違いし、両腕をがばりと広げて、非常に明るい大声を上げた。外国の青年にわらわらと人が怪訝顏で集まる。「ただいま」とか「ビルお前老けたなあ!」と大笑いし、初対面にも関わらずアメリカンに力強いハグをし、知らない名前を呼んでくる。お前の知り合い? 知るか。

「外国人が何の用だ」と老人が無愛想(ぶあいそう)に言うと、青年はハッと突如衝撃を受け、真剣に顔を覗き込んで詰め寄った。

「お前、誰だ?」

「聞いてるのかねワレええええ?」

 ここ俺の故郷じゃないのかよ? と、二人称は専(もっぱ)ら「お前」でバカで底抜けに明るい青年はフレッドと言い、異端者(いたんしゃ)の性格は村人たちには奇異(きい)に映った。華やかで美しい容姿で、きらきらと彼を見つめる乙女もいた。

 幼少期に両親を他界し、路頭に彷徨っていたら知らない老夫婦が家族にならないかと手を伸べてくれ、貧乏で学校にも行けなかったが遊ぶように働き、のびのびと俺は成長した。高校生の年齢で自分を本当の我が子にように育ててくれたじっちゃんばっちゃん(恩人)が他界し、悲しみをすっぱりと断ち切り(何故か)旅をしようと決意し、財産を持って世界の旅に出た俺。金も食料も尽きたところでお前たちと出会った、これからの俺の運命は如何(いか)に──とあらすじのような壮絶な身の上を会ったばかりの連中に愉快に話し、しかじか居候(いそうろう)することになった。

 最初は村の特産物とも言える愚痴の対象になっていたが、娘や子どもたちを初めに打ち解け、誰にでも気さくに話しかけた。「持つぜ」と重い材木を担(かつ)いで仕事を喜んで手伝った。わっはっはっはと笑いが弾ける彼の楽しい心は伝染していき、やがて村中を明るく太陽のように愛に染め上げた。ハーレムを無自覚で築き、小学生を含む娘たちに囲まれ、男子たちは嫉妬こそしたが彼を憎めず、軽口を叩き合える友人として親しんだ。 

 それから村一番の美人のマーシャにビビッと一目で恋に落ちた。彼女は強気で猫のようにつれなかったが、猛アタックが実を結んで、二人は二十歳で盛大に祝われて結婚した。

 翌年に長女のペティが産まれた。マーシャ譲りの金髪の綺麗な女の子だった。

 そして、翌々年にエイミーが誕生する。

 フレッドの血を遺憾(いかん)なく注いだような赤い髪と緑の瞳、らんらんと見つめられて弾けて笑う。

『かわいい~!』

 家族はでろりと口を揃え、フレッドが産まれたばかりの彼女を抱き上げる。

「お前俺とそっくりだなあ~! 将来はべっぴんになるぜ~!」

 愛し、愛される子にという意を込めて、「愛」という意味の「エイミー」とフレッドが名付け、村中が家族のように賑わった。愛嬌をいっぱいに振り向く天真爛漫なエイミーは、村中の皆からとても愛された。年々花が咲くようにすくすくと可憐に成長する。エイミーはフレッドが大好きでいつもくっついており、容姿に加えて性格まで生き写しで、二人揃って豪傑によく笑った。

『あーはっはっはっはっは!』

「親子というより双子ね」

 豪傑で愛情豊かな父のフレッド、厳しいけど本当は家族想いな母のマーシャ、優しい姉のペティ、家族も、村のみんなもエイミーは大好きだった。たくさんの人から愛をもらい、笑顔に溢れ、裕福ではなかったけれど、幸せだった。

「いい子にしてるんだよ」

 七歳のある日、頬にキスを、愛情いっぱいにハグをもらって、初めての留守番をした。いつも周りには人がうんといたため、初めて一人になった気がして寂しい、だなんてちっとも思わない。留守を大いに喜んで家内をはしゃぎ回った。いつもなら、遊んでないで勉強しろ、ペティを見習えとマーシャにお咎(とが)めを受け、フレッドが豪快に笑う中、「はーい」と笑っているだろう。でも今は誰もいない。普段ならできないことがいっぱいできるのだ。自由を謳歌(おうか)した。謳歌しすぎた。遊びはエスカレートし、元気いっぱいに火遊びをした。

 家族が家に着いた時には、村全体で大騒ぎが起こっていた。野次(やじ)馬(うま)が垣(かき)を作り、木造の家は天の闇を焦がす猛烈な炎に焼かれていた。この世の終わりを見るように日車(ひぐるま)と化した家を見上げ、家族が彼女の名を痛烈に叫ぶ。

『エイミー!』

 自分はなんて悪い子だ。炎に囲まれて膝を抱き、ごめんなさいと繰り返してエイミーは泣いていた。

 悲鳴と怒声の交じった引き止める声を振り切り、剣呑の眼でフレッドは炎の巨人へ突き進む。

「エイミー……どこだ! エイミー!」

 炎を掻い潜り、蹲ったエイミーを見つけるや否や駆けつける。

「パパぁ!」

 エイミーは涙顔ですぐに立ち上がって、胸に飛び込もうとする。しかし、親子を引き裂くように焦げた天井の材木が軋んで、エイミーの頭上に崩落する。

「危ない!」

 飛び込むように彼女を抱き竦(すく)め、床に倒れる拍子に彼女を突き放す。

 彼女は後頭部を強打し、父の温もりがないことを悟り瞬時に起き上がる。目前の光景を見た時、寝ても覚めても忘れられないような残酷な衝撃を刻まれた。フレッドは自分を庇い、残骸の下敷きとなって、はみ出した片手をぐったりと横たわらせ、死んだように倒れていた。

「パパあ!」

 すぐに駆け寄って父を必死に呼びかける。

「パパ! パパ! ごめんなさい……お願い起きて! 死なないで! パパあ!」

 指がぴくりとわずかに動いた。まだ生きている。

「エイミー……」

 かすれた声がその名を呼ぶ。周りに火の粉が舞い散り、生気を振り絞るように、震えながら腕が伸びてくる。重い顔を必死に上げ、絶望を呑み込むエイミーを決して離さず見つめる。顔に指がそっと触れると、掌が柔らかに頬を包み込み、愛でる。深い緑の目が慈しみ、命を込めて微笑んだ。

 

「お前は、愛の子」


 火焔(かえん)の輪の中で、親子の燃えるような赤髪は、黄金色に照り輝いている。

 フレッドは、エイミーの胸に力強く言葉を遺した。

 

〝たとえ、お前が世界に嫌われても。世界を、愛し抜け。必ず……返してくれる〟


「愛している。みんな……村のみんなも……多くの人たちを、これからも……」

 手が、するりと地面に落ちた。

 目の前が真っ白になった。

 目の前で、フレッドは死んだ。エイミーの目がこれ以上にないほど見開かれる。涙が滝のように溢れ出す。

「ああ……あぁ、パパ、パパぁ……ああ」

 烈火を破り、闇夜を引き裂く少女の慟哭が轟いた。

 その後、エイミーは救済され、鎮火した。フレッドは原型を留めない焼死体で発見された。

 家族は音もなく崩れ落ち、心を失ったように彼を見続ける。

 村全体を、死のような沈黙が包んだ。

 男の顏に涙が零れる。分け隔(へだ)てなく人間を愛し、誰からも愛された、かけがえのない男だった。家族にも等しい存在だった。

「フレッドは、儂(わし)らの心の柱だった……」

 彼の死に、村中が深い悲しみに沈んだ。目を曇らせた。

「お前のせいだよ!」

 寄り添おうと触れた時、マーシャに突き放されて尻餅をつく。見上げると、憎悪に満ち溢れた濡れた目があった。

「お前のせいで……家も失い、フレッドは死んだんだ」

 ペティも憎しみを込めてエイミーを睨んでいた。マーシャは泣きながら声を荒げた。

「見せないでくれ! その顔も、その赤髪も……」

 外に出ると全員から冷め切って睨まれ、在りし日の頃のように腐敗し、くすくすと陰口を叩き合う。笑顔を絶やさない一人の少女を忌み嫌う。

 見てエイミーよ。やだ。火の粉が移るじゃない、うちも火事になるわ。何を笑っているの? 気持ち悪い。

 ──お前なんか、産まなきゃ良かったんだ。

 家族には空気のように扱われても、母も姉も村のみんなを愛し続ける。毎日ハグをしても鬱陶しそうに振り払われる。料理は頑張って自分で作れるように努力した。押しつけられた仕事を終えると、決まって森に遊びに行く。木登りをしたり、蝶々と戯れたり、小鳥と歌ったり、一人で歌ったり、森の奥にはとても広い花畑があって、そこが大のお気に入りの場所だった。

 ──なんでいつも笑ってんだよ! 人殺しのくせに! 不吉ぅ。気持ち悪いんだよ!

 男子はエイミーを見かける度に取り囲んで、赤髪を四方八方に引っ張り暴言の雨を浴びせる。彼らが遊び尽くして立ち去ると、彼女は擦り切れた心を抱いて、何事も無かったように笑い、歌った。

 この村とよく似合う、黄昏時の光が牧草を美しく染め、牛たちが鳴く。優しい風が汚されたスカートと乱れた赤毛を撫でる。バケツを両手でぶら下げて、美しく、どこか寂しい旋律が小高い丘の牧場に響く。日々が映像となって脳裏に流れる。感傷し、胸が熱く込み上げ、喉までせり上がってきて目をじんと燃やす。いけないと思ってつっと下を向いた。

 ──大丈夫だ、エイミー。

 父の声が、胸の中でそう響いた。脳が言ったのか、妄想だったかも知れない。強かな灯のような声だった。はっとして、フレッドのたくましく笑う姿を思い浮かべる。

 滲み広がるように、胸の奥が、強く、熱くなる。

「……エイミーは負けない。エイミーは、あきらめない」

 さっぱりと顔を上げ、黄昏に照り輝いて、フレッドのように大きく笑みを浮かべた。

 家事も仕事も終わって、彼女は元気いっぱいに森へ村を駆ける。

「誰にも愛されず、学校にも行かせてもらえないなんて……」

 女たちがさも同情し、陰で嗤う。

「いい気味だわ」

 誰もいない花畑でへたり込む。家族のために編んだ花冠が、惨い形になって横たわっている。幼い頃、花の冠をがんばってつくって渡したら、家族はすごく喜んでくれた。あの笑顔が今でも忘れられない。涙を拭って、歌詞のない歌をうたう。

 それから一年、二年、三年経っても変わらない。背が伸びても誰にも褒められず、頭も撫でてもらったこともなく、いつものように花畑の上で編んで歌っている。

 美しくも寂しい歌をさえずり、ゆっくりと、時間をかけて涙を落とした。

 

 目覚めるように、ゆっくりと現実に巻き戻る。

 涙の筋が頬に伝っていた。

 条件反射で頬が吊り上がる。それでも涙は止まるどころか、流れを増して雨をつくる。

「あはは、あれ……?」

 涙を拭っても、笑っても、拭っても、笑っても、躾けたはずのそれは言うことをきいてくれない。こういう時は大好きな歌を歌う。楽しいことに夢中になれば涙も笑うから。けれど、いくら繕っても歌声は汚れる。雨が頬を濡らし続ける。当惑(とうわく)した呼吸をし、顔を非常に歪めて、それからは歌うことも笑うこともできなかった。

 ひょうきんに歩くピエロは開けっ放しのドアを見つけた。

「ぶよーじーん」

 行きつけの人形部屋に入り、鼻を歌って、吊るされた子どもにキスをして「ただいま」と言う。寂しかった? お元気? 良かったねぇ、と歩きながら色んな子に話しかけ、愛の巣をかき分け、エイミーを探し求める。ぴた、と静止した。

「感じる……」

 ぞわぞわと気配を感じて右に方向転換し、人形の束をばっとカーテンみたく左右にどける。

 すると、オモチャが散乱した床をバックグラウンドに、小さな赤い頭があった。愛おしさが超絶込み上げる。ハグするように両腕をバッと広げる。

「エイミー! みつけ」

 言葉が途中で止まる。彼女は膝を抱いて嗚咽を漏らしていた。

「エイミー……?」

 真剣な声になり、急いで駆け寄りすかさず抱きしめる。ああどうしたんだい。ケガでもしたの? 見つけるのが遅かったね、寂しい思いをさせてごめんね。そう言って頭を優しく撫でる。

「ピエロ……」

 潤んだ瞳で見上げられる。狂うほどに綺麗で、場違いにも心臓が飛び跳ねる。

「……?」

 エイミーはぎゅっと抱き着いて胸に埋めた。折れないように抱き返す。ひどく細い体は嗚咽に震えている。だいじょうぶ、だいじょうぶ……そう繰り返して、背中をやさしく叩く。

 エイミーの雨はだんだん落ち着いた。

「大丈夫?」

 こくんと頷く。小さな頭をすっぽりと手で包んで、頭を撫でる。

 エイミーは涙を浮かべたまま、痛々しいまでににっこりと彼を見上げた。

「だいじょうぶ」

 その嘘に、彼女の愛想(あいそ)笑いに傷つく。

 そんな、笑い方をしないでくれ。エイミー。

 彼は見抜く。計り知れないほどの悲しみをその笑顔の裏に巧者(こうしゃ)に隠していた。これまで、ずっとそうしてきたかのように。

「でも、泣いている。君は今、痛がっている」

 笑い泣く瞳がきらきらと潤んで軋み、彼女はくすりと囀って胸に埋める。水分が浸みる。くすくすと涙声が笑う。

「だいじょうぶ」

 その姿に、その言葉に尚(なお)も深く抉られる。

 鼻を啜(すす)り、手が触れる背中は、かすかにだが震えている。

 ──似ている。

「……さみしいの?」

 ぴくっと背中が震え、固まった。

 彼は衝撃を受けて確信する。彼女は沈黙の後、雪が溶けるように笑みを零し、呟いた。

「痛みとともだちになれば、もうひとりじゃない」

 発した人間を疑うような言葉が、ピエロの心を悲劇的に貫く。

「そのトモダチは、君の傷を宥めてくれるの? 痛みとは……ハグをすればするほど、痛く辛いものだ。キスをすればするほど、悲しいものだ。濁点を付ければ、それはキズになる。痛みまで愛さなくてもいい。そんな君を見るのが、私は堪らなく痛い」

 それでも、その心は壮絶な悲しみの雨に打たれても笑い続け、背中が嘘をついている。

 悲しむな、傷つくなエイミー。いったい何があったんだ。誰が君を……大事な君を傷つけたんだ? 君の心の重荷を、私も持つから。どうか教えてほしい。

 エイミーは、泣きながら嘘をつき続ける。

「だいじょうぶだよ」

「そんな君の……どこが大丈夫なんだ」

 心を頑丈に閉め切った哀しい扉を、ピエロは憮然(ぶぜん)と見つめることしかできない。その心はすぐ目の前にあるはずなのに、届かない。彼女は受け入れようとしない。長い沈黙が彼らを包む。問い質(ただ)したいのをぐっと堪(こら)えて、そっと微笑んだ。

「言いたくなったら言ってごらん」

 彼女は、悲しみに背き続けることが、小さな頃からの習慣だった。一人でいるのが当たり前だった、寂しく、冷たく、暗い部屋に入り込んできた、あたたかくて、優しい、何も言わない温もりが、傷だらけの凍てた心を抱きしめて、溶かす。誰にも開かすことのなかった頑丈な扉を、そっと開放に導く。彼のためなら……開けてもいいかも知れない。こんなにも優しく、真剣に向き合ってくれるこの人になら……。

 間があり──うん、と、小さく頷いた。額を預けてピエロの胸の影を見つめ、口を開いた。

 あのね──

 色んなことを話した。家族のぬいぐるみを見て、過去を急に思い出したこと。家族のこと、火事のこと、赤髪、村でのことも。

 すべてを包み込むような相槌(あいづち)が助け、言葉を詰まらせながら話し終える。彼は「ありがとう」と頭を撫でた。

 心から悲しんだ。

 健気(けなげ)に強く可憐に咲く一輪の花。

 しかし人知れず、いったい、どれだけ涸れるほどの涙を流した。

 ──腸(はらわた)が煮えくり返る。

 この子を傷つけた下々(しもじも)の浅ましい胸を刺してやりたいくらいだ。

 怯えるように震え、服を濡らさないように気を付ける彼女の、目の下の雨が、彼を激しく傷つけ、燃え上がる絶望のような悲しみを素顔に刻みつける。

 濡らしてもいいと言うように、強く胸にそれを押し当て、訴えるように後頭部に手を添える。

 切ないくらい愛おしい。

 こんなにも、傷つく君を見て、傷つけられるのは──。

 もう……何もかも。奪われてしまったからだ。

「この世で一番嫌いなのは、君の涙だ」

 帽子の鍔をすぐに取り、ぼすん、とエイミーの雨に傘を被せた。

 まるで、生まれて初めて愛を知ったかのように、驚愕として涙を影の中で落とす。

 涙腺がひとしお緩む。思い切り彼の体に抱き着き、もうなりふり構わず、堰を切ったように、彼女は大きな声で赤子のように泣き叫んだ。

 きつく抱き合う二人を、人形を吊るす長い赤い糸が森のように囲い、遠ざかって見ると、まるでタブーとでも糾弾するように、真紅が彼らを一面に覆い隠した。

「だいじょうぶ、だいじょうぶだよ」

 今まで、ずっと罵られてきたのに。

「もう、独りじゃない」

 傷つくことが、当たり前だったのに。

「もう、独りにさせない」

 泣きたくなるほどの、あたたかい心に出逢う。

「私にもう、愛想笑いウソはしなくていい」

 陽だまりのような胸の中で、じわじわと凍った心を溶かしていく。微笑んで、きゅっとピエロの服を摘まむ。

 ずっとこの胸の中にいたい。そう思った。

 雨は止む。そっとピエロを見上げて、ふふふ、と蕩けるような笑みを広げた。

 笑い返し、行こうか、とピエロが衣擦(きぬず)れをして立ち上がる。が、んん、と嫌がる甘えた声を出し、一層胸に顔を埋めて、いつまでもくっつき虫みたいに引っ付いて離れない。もう一度立ち上がろうとするものの、エイミーがくすくす笑って、「やだ」と言う。ピエロは笑う。こら、動けないじゃないか。

「離しちゃダメ」

 イチゴ味の飴玉みたいな瞳で見上げる。

 それが破壊的にかわいいものだから、座り直して、二人だけの甘ったるい世界にどっぷり浸る。ぬいぐるみのように抱きしめ、無言のまま熱く、甘い視線が絡み合う。きらきらと輝く綺麗な赤髪を愛撫し、二つの宝石を覗き込むように、ピエロがおでこをこつんとくっつける。

「私が好きかい?」

「うん! 大好き!」

 けれど、エイミーは心配そうな顔をする。

「エイミーのこと……好き?」

「好きだよ。チェリーみたいに真っ赤な髪色も、無垢な心も、奇跡みたいな美しさも、ぜんぶ好きだ」

 雪の肌が鴇(とき)色(いろ)を帯びて、ふんわりと咲くようにはにかんだ。その笑顔は、今まで見た中で最高に可憐ですばらしく、虜にならずにはいられなかった。

 綺麗だ。今すぐ押し倒したいくらい。世界を救えるような笑顔に、落ちていく。

「エイミー……」

 囁き、抱き寄せる。華奢な体が折れてしまうほど、力強く。

「会いたかった。君に出逢う前から──ずっと」

 見つめれば見つめるほど磨かれるように美しくなる、彼女というこの世のまたとない秘宝に魅入られる。

 ほとばしる情熱の炎が、胸を焦がす。燃える恋心が、この娘を熱狂せずにはいられない。

 後頭部を片掌で押さえつける。息が出来ぬほど。

 ──なんてことだ……。

 たった今日出会った十歳の少女に、色欲も嫉妬も戦(おのの)く、初めて知る、この強烈な独占欲。

 ──なんてことだ!

 私のもの、私の女、私のレディ!

 私だけを見続けてくれ! 私も君だけを見つめているから。

 私だけを望んでくれ! 私が君を焦がれるほどに欲するように!

 私に執着してくれ! 私が君に執念(しゅうね)いように!

 他に笑うな。他を見るな。他と話すな──私だけを見ろ。

 私を捨てるな。私から去っていくな。

 ──どうしよう、私のレディ。私のエイミー!

 もう心から惚れてしまったようだ。

 ──どうすれば?

 もう君から抜け出せそうにない。

 ──どうすればいい?

 好きなだけ詰め込んだ偶像の型にぴったりはまってしまった、奇跡の子ども、エイミー。 

 ──嗚呼(ああ)。

 暗闇の中に、私独りを残さないでくれ。

 愛するあまり壊してしまっても、私の傍にいてくれ。 

 君を知らずに百年生きるくらいなら、明日死ぬほうがマシだ。

 もし君と出会わなかったら、私は永遠に迷子だった。

 恐ろしい少女は、これから少しずつ、残酷なまでに美しい娘へ成長するだろう。より多くの男をかくも狂わせるだろう。たとえ世界が彼女に手を伸ばそうとも、血みどろの手で、目を隠してキスをするだろう。 

 君がいるなら、何もいらない。

 私をときめかしてくれる。昏(くら)い私に光を教える。今のようにずっと私に笑いかけてくれ。眩しいほどに美しい、この極寒の地の唯一のひだまり、赤色のレディ。

 年齢など関係ない。この子は女だ。

 ぞくぞくと骨の髄(ずい)まで無上の快楽(けらく)が沁(し)み渡る。

 ああ……。

 やっと、やっと手に入れたんだ。これで、やっと君を……──。

 ニタリと、仮面の裏が狂気を象る。

 ──嗚呼、笑いが止まらない。

 この世のすべてを手に入れたような気分だ。

 ふと、曇った呻き声が届く。ピエロ! ピエロ! 苦しい! 気づけばエイミーが胸の中でもがいていた。死んだらひとたまりもない。

「ああ、ごめんよ」

 急いで解放する。肺満タンに息を吸い込んで、彼女はあっという間に破顔した。

 立ち上がり、彼女を起き上がらせ、手を繋いで部屋に出ようとする。エイミーは改めて部屋を見渡し、満面に笑う。

「このお部屋にあるお人形さん、みんなとってもかわいい!」

 ピエロは薄く笑った。

「ああ、君の分は、作る必要がないね」

「?」

 首をかしげる。

 彼はすぐ横にあった少女人形を手に取り、いつものように愛おしそうに撫でる。ふいと、仮面の目が子どものようにかわいく円くなって、ぱちぱちと瞬き、気づいて呟いた。

「ああ……もういらないか」

 赤い糸から引きちぎり、投げ捨てた。

 ピエロの世界から、人形たちは完全に背景と化した。もうこの玩具部屋にも用はない。

 主役の彼女を、ただ見つめる。

 ハリボテを背景に、ニンゲンを前に、腕を伸ばしてエスコートする。

「さァ、私の部屋においで」

 男は、ひどく楽しげに、娘の手を引っ張っていった。

 

  4


「マジで納得いかねぇ! 『ゲームが終わった』とかどう考えてもおかしいだろ! 俺たちまだ遊んでないんだぜ?」

 子どもたちはぞろぞろとおもちゃがいない通路を探索していた。

 ベッドルームから出るとおもちゃが待ち伏せしており、ゲームは終わったからお家に帰ろうと言った。当然記憶を失った彼らは何故どうしてと問い質す。ピエロとエイミーがいない理由もおもちゃに問うも、「彼女はゲームに勝ち残ったから、二人は一緒にいる」と答え、さらに紛糾(ふんきゅう)した。

 それから白々しい嘘しか返ってこず、「アイツを置いて帰るわけにはいかない」と怒号し、結局おもちゃを振り切って二人を探すことにしたのだ。

「仲間外れ……?」

「きっと全部ウソだろ? ドッキリに決まってる。僕たちの反応を見て楽しんでるんだよ。どこかにカメラない?」

 ルイスが辺りを見渡すが、カメラらしいものはない。

「扉を開けて、僕らは何らかの作用で眠らされ、気がつけばベッドの上にいた。問い質したことが全部真実だとしたら……記憶でも消されたんじゃ?」

 マルクスの推理に双子が同時に吹き出す。

「ないないない!」

「怖い怖い怖い!」

「だってそれしかないだろ。じゃあどうして目を覚ましたとき全員泣いてるんだよ? 説明できるのか?」

「んん、それは……悪夢でも見てたんだろ? 覚えてないけどさ」

「じゃあエイミーとピエロは今何してるのよ。私たちを忘れてゲームも中断? 二人っきりで手を繋いでラブラブデート?」と、ニコラが腕を曲げる。

『はぁ?』と、二人が調和。

「なにハーモニーしてんのよ。それしかないじゃない」

「アビーたち……ピエロに忘れられたの?」

 束の間、沈黙が流れる。ギルベルトがアビーの頭をくしゃっと撫でる。

「そんなわけねぇだろ? アイツはそんなことしねぇよ」

「トイレの仕方が分からないんじゃない? うんこ長すぎぃ」

 ルイスが場を盛り上げ、ギルベルトが話題を変える。

「お前ら扉になんの夢言ったんだ? 俺世界最強!」と、豪傑笑い。

 セシルとエトワールは同じ色に染まり下を向いた。

「僕は世界平和かな」と、ルイスが髪を掻き撫で、

「新鮮界を耕すのよ」皆が誇らしげなニコラに爆笑する。

 しかし楽しみはすぐに不安に染まり、エトワールが吐息する。

「エイミーに会いたい。このまま別れるなんて、絶対にやだよ」

 エトワールの言葉に、皆の顔つきが変わる。

「そうね。あいつがいないと、ちょっと、いえ……かなり寂しいわ」

 ニコラが苦笑して言った。

 アビーがある事に気づいた。

「あれ? マルクスは?」

 さっき隣にいたはずなのに、姿がない。

「いない! アイツどこいった?」

「何うんこ?」

 後ろを振り向くと、セシルが「あ、いたぞ!」と気づいた。なだらかな曲線の壁の死角寸前の所で、マルクスが頭逆さに尻を出して壁の穴に突っ込み、じたばた暴れていた。

『マルクス!』皆が急いで駆けつける。

「助けてくれー! はまったんだ!」

「このドジっ子! 何したら穴にはまんだよ!」

「ここに隠れてるかもしれないだろ? あのエイミーのことだから何考えてるのか──」

「天然は一人でいいぞ」

 セシルがジト目でそう言い、エイミー症候群、とアビーがからかい皆笑う。

 先頭のアビーがマルクスの足を持ち、エトワールが後ろから抱っこして、その後ろで続々と子どもたちが橋のように一列になる。前の子の腰を掴んで、大きなカブのように力を合わせて、せーのっと同時に引っ張る。

 ふーん、ふーん! と、引っ張っても、頭が奥までつっかえているようで、すんともちんとも動かない。

「痛い痛い痛い! もっと優しくしろ!」

 すると、一番後ろにいたセシルがズルっと足を滑らせた。後ろ向きに倒れ、ロケットのごとくルイスの股間を蹴りあげる。ルイスは女子のような悲鳴を上げ、前に倒れるついでにギルベルトのズボンを下ろす。やられた本人は気づかず引いている。そこで力が急に削げたので後ろの男子勢を注意するべくニコラが振り返り、

「ちょっと男子! ちゃんと引っ張──」ヒョウ柄のパンツがあった。「キャーーー! パンツぅ?」赤面してショックは大きく後ろに後退し、背中で前にいるエトワールを強く押しやる。「わぁ?」とアビーもろとも軸が大幅に前方に傾き、アビーの小さな両掌が足を超え、ジェットコースターのごとく前進し、尻を猛烈にプッシュする。

「あ……」

 ドン、と音がして、マルクスの悲鳴が遠のいていき穴の中に木霊(こだま)した。

 落ちた。

 沈黙。

『マルクスうううううううう!』

 アビーは固まり、男子たちが後ろで騒ぐ。お、お、お、お前のせいだろ! パンツ丸出しで言うなあああ! タマ蹴られたんだよ! そしてギルベルトが猛然と振り返り、

「クソッ……行くしかねぇ!」

 穴へ駆け出す。

「は? 俺たちも落ちるのかよ? 穴に!」

「待てよ! 戻れなくなるかもしれないんだぞ!」

 エトワールが腕を引き留めるも、それを乱暴に振り払い、ギルベルトは尻目で怒号した。

「そんなことくらい分かってんだよ! 見捨てることなんざできねぇ! アイツは俺たちのダチなんだ! ダチっつぅもんは何かあった時、手を引っ張りあげてやるもんだろ。あの時思ったんだ──大きな壁があっても、お前たちとなら乗り越えられる。絶対助けにいくぞ」

 皆々の顔つきが、臆病に揺れつつも彼の瞳と凛々しく同化する。

 ギルベルトは先に躊躇いなく穴に落ちた。

 セシルは俯き、「アイツなら、絶対助ける……」と拳を固く結ぶ。

「エイミー! 必ず君を迎えにいくから待っててね!」

 続々と続き、悲鳴を響かせて穴に消えた。

 絶叫が木霊して、暗く、冷たい円筒形のスライダーを猛スピードで滑っていく。胃腸のように曲がりくねり、排せつするように排出口から次々に吐き出される。

 くたばるマルクスを基盤に、子どもたちが一人ずつジェンガのように重なる。バランスを崩して、ぼすん、と皆がごつごつした固い斜めの地面に再び落ちた。各々打った箇所を痛そうにさする。

 そろりと辺りを見渡すと闇(やみ)朧(おぼろ)にだだっ広く、天は遙かでマンホールの中みたいに暗く、哀愁がしっとり漂っている。空気は淀み、ふしぎな異臭がむんと立ち籠(こ)めている。

 そして、全員が顔を落とした刹那、一面が強烈な恐怖に染まった。口を抑え、ニコラが絶叫する。

「いやああああああああああああ!」

 蝮(まむし)で満たす棺(ひつぎ)のような凄惨さを放って、生気のないおもちゃが地面に埋め尽くされていた。

 セシルの指先が震えながら、冷たい無機質なプラスチックに触れる。

「なぁ、どうしたんだよ……起きろよ」

 揺さぶると、首がぽろっと落ちた。顔面蒼白する。

 斜面を下り、打ち寄せる波の形でおもちゃたちが横たわる麓(ふもと)に移動する。死屍(しし)累々るいるいと聳(そび)え立つおもちゃの山を前に、呆気に見上げる。

「死んでるの……?」

「冗談だろ……?」

 アビーがルイスのズボンを摘まんだ。子どもたちは慄然(りつぜん)と散り、おもちゃに歩み寄る。暗がりに包まれている中、命のように細い灯火が点滅している。それに導かれて、アビーは光源のおもちゃをそっと抱きしめる。

 目が力なく見開かれた。今にも消えてしまいそうな声で訊いた。

「君は……?」

 アビーは、恐怖と哀しみに満ちた声で言った。

「……アビー」

「アビー……かわいい名前だね」

 彼女の瞳から涙が零れ落ちた。それを見て、おもちゃはカッと目を見開いた。アイを震えさせて、感動する。

「綺麗だ……涙って、こんなに綺麗なんだ……」

 埃被った目に光輝(こうき)を灯す。人間のように複雑な表情をして。

 彼らは生きている。そして人間のように終わりがある。アビーも、他の子どもたちは初めてその現実を知った。今にも命は風前の灯で、胸が締め付けられる。何故こんな形で、こんな場所で彼らは命を手放しているのだ。

「どうして……」

 こんな目に遭ったのか、ときかれたのかと思って、おもちゃは力なく答える。

「愛(め)での盛(ざか)りは過ぎゆくものさ」

 そして、哀らしく笑った。

「可笑しいよなぁ。こんなに、悲しいのに……涙一つでやしない。すげぇだろ、おもちゃって。なにがあっても、絶対に泣いたりしないんだぜ」

 彼は泣くように笑っている。胸が一層締め付けられて、さらに抱き締めた。

 おもちゃは成仏(じょうぶつ)するように微笑んだ。

「あぁ、こんな気持ち……久しぶりだ」

 ありがとう、と彼は言った。

「一度でいいから、ラーメン……たべたかったな」

 そう言い遺し、太陽が地平線に沈むように、命は消えた。それっきり、光はつくことはなかった。アビーはいつまでもぎゅっと離さなかった。

 おもちゃの山腹(さんぷく)に小さな人影が現れる。

「子ども……?」

 刮目(かつもく)して俯瞰(ふかん)すると、紛うこともない七人の子どもの姿があった。少年の怒声が静寂を破った。

「君たち、そこで何してるんだ?」

 え? 子どもたちはびっくりして声の方に顔を上げる。山の腹で、フラッシュライトを持った道化姿のぬいぐるみ人形が赤いほっぺを膨らませて、腕を組んで立っていた。山を慣れた素振りでアクロバティックに下り、彼らに歩み寄る。

「こんなとこにきちゃいけないよ! ピエロはどうした? ダメじゃないか! 勝手に──」

 と、説教を垂れるも、子どもたちは目をらんらんと輝かせる。

『生きてるぅ!』

「え?」

 歓声を弾ませ、徒競走みたく皆が走って一番乗りでアビーがとびきりのハグをした。だがすぐギルベルトに横取りされ、またルイスが横奪(おうだっ)し、代わりばんこで子どもたちの胸に乗り移る。

 かわいい! 俺も抱かせろよ! ねぇちょっとアンタ邪魔!

 争いは盛(さか)っていき、今度は皆が手足を引っ張って奪い合いをする。

「え? え? えぇ? やめてー! ちぎれるちぎれるちぎれる! 綿が、綿が出ちゃうって!」

 ただでさえ年季が入っているというのに、ご老体に情け容赦なく、遂には痛みが限界に達して我慢できず怒鳴る。

「やめろって……言ってるだろおおおおおおおおおお!」

 おー、となかなかの迫力に皆が離れた。さっと軽やかな身のこなしで宙返りをして立ち、またむーっと膨れっ面をする。かわいい! と女の子がほっこり笑顔になる。

「僕をいじめるなー! 八つ裂きになるところだったぞ」

 久しぶりで、ホントはいっぱいハグをされて嬉しかったけど、素直になれずそっぽを向いた。腰に手を当てる。

「さぁ説教タイムだ! 君たち! ダメじゃ──」

 うぐ、と目を丸くして言葉を詰まらせる。きらきらした笑顔を一斉に向けられ、説教する気はすとんと失せてしまう。んー、とこめかみを掻いて、自己紹介にシフトチェンジ。

「名前……きいてもいい?」

 それから一人ずつ軽く自己紹介をきいて、道化の少年人形は身軽にアクロバットしながら、微笑んで言った。

「僕はロア。特別面白くもなく、カッコイイ決め台詞があるわけでもない、なんのへんてつもないただの人形さ」

「でもとってもかわいい」

 アビーが慈愛の笑顔を浮かべて言った。

「ああ……はは、ありがと」

「アクロバットすげぇじゃん! お前普通にすごいぜ?」

「それは、どうも」

「つーか喋ってるだけでもすごいと思うけど」

「だよね」と、エトワール。

 ……サンキュ、とロアははにかんで笑った。とても愛くるしい。

「で、ここどこなの?」と、マルクス。

「ここは──」少し言葉を考えて、わからないように言った。「おもちゃが最終的に行き着く場所さ」

 子どもたちは首をかしげる。

「僕は……まぁ訳あって、十年くらいここにいるんだ」

 真実は語らず笑ってそう言うと、え? マジ? と驚愕の声が返ってくる。

「ここのおもちゃたちはみんな、その……死んでいるの?」

 わかっているのに、エトワールが恐る恐るきいた。

「はははまさか。おもちゃは死なないよ。人じゃないんだから。ただ、そう、みんな眠っているだけさ」

 ロアは笑ってウソを言った。それなのに子どもたちの顔は悲哀に染まる。

「じゃあ……君はなんでこんなところにいるんだよ。眠ってもないのに」と、ルイス。

「そういう君たちこそ、なんでここにいるの?」

 ギルベルトが隣のマルクスの肩を組んで豪快に笑った。

「そらァこの天然ドジっ子が穴に突っ込んで落ちたからよォ! がーはっはっはっはっはっは! マジでバカだよなあお前」

「そ、その件については深く反省しているが、誰がバカだ! 少なくとも君よりは知──」

「はいはい」

「よく言うよ」

 ニコラとエトワールが呆れ顔で肩をすくめ腕を折る。

「何か言うことあるんじゃないの?」

 と、ニコラが明後日の方を見、

「皆さん! 身を呈して僕を助けて頂き、誠にありがとうございました!」

 マルクスがビジネスライクなお辞儀をして、子どもたちがわはははと愉快に笑った。

 ロアはその光景をあ然と見つめ、微笑んだ。

「仲がいいんだね」

「ああそうだ落ちたんだ! このままじゃ戻れないじゃないか! ああどうしよう……もう一生父さんに会えない……」

 と、マルクスががっくり項垂れ、まじでファザコンだよな、別になんとかなるだろ、と他の子たちはのんきに言い、全然怖がっていない。

「だいじょうぶさ。君たちはある意味とても幸運だよ。顔を上げてマルクス」

 え? と顔をもたげる。

「僕についてきて」

 ロアは自信ありげに微笑を湛えていた。彼を先頭に付いていく。

 やってきたのは、鉄みたいな絶壁の前。何もないわけではなく、部品を拝借(はいしゃく)してパッチワークしたハシゴが天高く築かれている。壁上に取ってつけたような電灯が並(な)べて光り、仄(ほの)かに闇を払っている。子どもたちは口をぽかんと開けて仰いでいた。

「このハシゴを渡れば、排出口に繋がってる。近くにはライトがあるし、ちゃんと印を付けたから判るはずだ。その中を入ると、滑り台みたいな狭い急傾斜(きゅうけいしゃ)の通路に入る。そこで僕がここで拾ったパーツを応用して創ったホールドっていう突起物(とっきぶつ)をそこかしこに設けた。中はボルダリングになってるから、それをよじのぼって脱出するんだ。これを創るのに多分十年かかって、今年やっと完成したんだ! それで起きている仲間を探している時に、君らを見つけたってわけ。ね、超幸運でしょ」

 子どもたちはやおら顔をロアに向け、天才かよぉ! と猛烈にギルベルトがハグをし、口々に彼の偉業を絶賛した。ロアは照れくさそうに笑い、言葉を続ける。

「いいかい。外に出たら、僕ともお別れ。おもちゃの言う通りにちゃんとお家に帰るんだよ。ハッピーエンドで、終わるために」

 しかし、子どもたちの笑顔は急に深刻なものになった。

「それはムリだ」と、セシルが答える。

「どうしてさ」

「まだ国にはエイミーがいるんだ。彼女を置いて帰るわけにはいかない」

 エトワールがセシルの言葉を繋ぐように言う。

「エイミー? ほかにまだいるのかい?」

「そ。ゲームに勝ち残ったらしくて、今ピエロと二人でいるんだってさ、おもちゃが言ってた」と、ルイス。

「僕たちはなにも知らないんだよ。ゲームで何をしたのか。何故エイミーだけが勝ち残ったのか。何故ベッドに寝ていたのか、何故全員泣いていたのか……」

「ホント、凄く気味が悪いわ」

 ふと、ロアを見やると翳(かげ)って俯いていた。どうした? とギルベルトが訊く。

「勝ち、残った……」

 顔をいきなり上げ、怒鳴るように言う。

「勝ち残ったのか? ゲームに!」

「うん……そうだけど?」

 ルイスの返事に、これ以上ないくらいに目を見開いて、ゆっくり退いた。懊悩(おうのう)するように頭を覆う。

「なんてことだ……遂に、見つけたのか……?」

 子どもたちの形相が変わった。

「なんか知ってるの?」

 エトワールが目を据えて問う。

 ロアは顔と声を軽快に繕う。

「イヤ。なんでもないよ」

「なんでもない訳ないだろ! なにかあるんだろ?」

 セシルが怒号する。

「なにもないってば。今すぐ帰ろう」

「エイミーは俺たちのダチなんだ! ほっとけねぇだろ! 教えてくれよ!」

「ホントに何もないんだ! お願いだから、お家に帰ってくれよ。その子は大丈夫だから……ホントに」

 子どもたちのために、嘘を苦しそうに言う。

「話せよロア!」

「それって……エイミーに危害が及ぶこと?」

「嘘つかないでよ!」

 皆々がロアを激しく問い詰める。ロアは俯き、小さな拳が苦しげに震えている。そしてついに耐えきれなくなり、顔を上げ怒声を飛ばした。

「真実を知って何になるんだよ! 悲しいことは全部忘れ、楽しいことを満喫して子どもたちには、しあわせな笑顔で帰ってほしいんだ! おもちゃは、そう思っているんだ……これ以上傷つけたくないんだ──君たちは、何も知らない方がしあわせなんだよ!」

 本音をまくし立て、ハッとして子どもたちのショックを受けた顔を見る。そんな顔をさせないために嘘を言ったのに、わかっていたのに、またも心を抉られた。知らない方がいい。泣かせたくない──真実を知れば、この子たちはもう笑顔を見せなくなるかもしれない。けれども、ともだちを純粋に想う彼らの気持ちが、ロアには痛いほど伝わっていた。

 しばしの沈黙が流れ、わかったよ、と小さく言った。剣呑を込めた鋭い眼差しを、子どもたちに向ける。

「アの子が、危ない」


  5


 恋人のように手を繋いで、螺旋(らせん)階段をぐるぐると下りる。

「ねぇピエロ。みんなは? みんなはどこにいるの?」

「みんななら、また後で会えるよ」

「ねぇピエロ! おもちゃ! おもちゃはどこ?」

「おもちゃはここにはいないんだ。後で遊ぼうね」

「どこに行くの?」

「秘(ひ)蜜(みつ)のお部屋だよ」

「秘蜜のお部屋? 何するの?」

「秘蜜ー」

 ケーキにちょこんと乗ったバースデーキャンドルの電灯たちが、恥ずかしそうに指の隙間から覗くように灯り、仄暗いメルヘン空間が秘蜜の世界へ誘う。

 階段を下りて少し進み、時計の内部のような精緻な扉の前に立つ。扉の上方に模様がバラバラになったブロックパズルがあり、それを目にも止まらぬ速さで指先で上下左右に弾く。

 そして不思議な模様が完璧に浮かび上がると、カチッ、と奥の方から音がした。中心からギアが廻りだし波紋する。すべてのギアが廻ると、カチッという鍵を開けたみたいな音を出し、歯車仕掛けにロックが解除された。複雑な過程をもって扉を開け、エイミーをジェントルに招き入れる。

 エイミーは感嘆の息を漏らし、目を奪われた。

 暗闇に、星々みたいに色とりどりの光の粒が無数に輝いて、夢のようなきらめきがいっぱいに広がっている。

「わあ! 満天のお星さまのなかにいるみたい!」

「綺麗だろう?」

 ピエロが隣の彼女を見て言うと、うん! と照り輝く横顔は答えた。この時を希って用意していたムーディな夜。星に照らされて、より美しく輝くその横顔に、また恋をする。

「エイミー……」

 己の拳で、狂おしさを握り潰す。

 道化の名をかなぐり捨てたように、彼は言う。

「君に、伝えたいことがあるんだ」

 彼女は笑顔のまま彼を見上げて、首をかしげた。

「なぁに?」

 その目は、どの人間の眼球よりもずっとずっと美しいと思う。

 彼女から目を離さず、高揚する熱を追い出すように、息を吐く。

 ずっと繋がっていたい手を離して、真剣な目で向かい合う。

 星の絶景が、沈黙の二人を縁取る。そして、ピエロは笑みを浮かべてこう言った。

 

「君の、心がほしいんだ」


 恋人なら、きっと赤らめたり、場合によって、あるいは青ざめたりする言葉だが、彼が言ったのは後者の方だった。単純な彼女は真の意味を理解するには難しく、いつもの冗談だと思って日常的な笑みを返した。

 やけに不気味に見える笑顔が間を詰める。

「その心が、どういう意味か解かるかな。君に奪われたようなニュアンスなら、もちろん手を血に染めてでも手に入れるとも。しかしもっとシンプルな言葉だ。そのままの意味だ。リンゴが欲しいと同じ──私は、君の心が欲しい」

 膝をつき、心臓の奥に触れるように手がぴたりと左胸に触れた。怪異(かいい)のおぞましい黄色い手が発するような冷気が心臓を撫でる。君の目をくり抜きたいと、同じようなことを言っていることに、彼女はとても遅れて気づいた。不気味な雰囲気が増して、恐怖を覚える。また……冗談だろうと、戸惑いつつも笑いを努めた。

「う、うそ!」

「私の家族になりなさい」

 またも衝撃的な言葉に遮られる。

 さっきから何を言っているのだ。エイミーは真に信じられず、日常的な笑みをやめない。

 彼女の顎をフォーマルな指が持ち上げる。

「オママゴトだと思うかい」

 低く、甘い声。道化はすっぽかれ、到底、嘘とは思えない声音だ。彼女の笑いがするりと落ち、ピエロが婀娜(あだ)に笑う。この男は、自分の知っている優しいピエロではない。恐ろしい魔物に見つめられて、凍りつくように麻痺させられる。

「ピエロ……?」

「ねえ」

 後頭部に手を回され、泣き笑いの顔が至近距離に来る。

 初めて、固い感触が唇を隙間なく覆い尽くす。

 男に仮面越しにキスをされ、目をひどく見開いた。

「お嫁さんがイ?」

 本当の口から熱い息を感じる。やっ、と彼を突き放して急いで飛びずさる。

「ピエロは、ピエロは……ともだちだよ?」

 立ち上がって愉快に腕を曲げる。

「アハハハハ! 妹でも娘でもなんでもいいがね」

「家族じゃ──」

「愛している」

「?」

 彼は本当に大切な人に言うように、彼女を見つめてそう言った。

「家族、なんて……」

「?」

 子どものように首を傾げて腕を折る。何故笑わないのか心底わからないというように。

「家族なんて、そんなの聞いてない!」

 ピエロは狂気的に抱腹する。

「サプライズだもの! 嬉し恥ずかし驚き?」

 そして真剣にエイミーを見据え、言い放つ。

「君は、アイの子」

 なぜそれを。父が言った言葉を偶然にも彼が言う。

「私は……ずっと追い求めていた。穢れなき奇跡の存在──アイの子を。子どもはみな白い羽、白い心を持つ天使だ。ところが学び、成長していけば、富、名声、自意識、孤独、恋愛──数えきれない煩悩(ぼんのう)に苛まれ、無垢を失い、いつしか白い羽は折れ曲がり、心は穢れを知る──子どもとは、無知故に無垢な生き物だ。硝子(がらす)のように繊細で脆く、物理的に、精神的にもショックを与えれば、いとも簡単に壊れてしまう……誰もが、みんなそうだった。しかし、君は違った! 優しさ、美しさ、強さを兼ね備える、まさに稀有(けう)なる完璧な存在。君は、この世でもっとも美しい」

 彼女を、恍惚として笑いを湛える目が捉える。

「ああ、世界で一番かわいいエイミー。君を誰よりも愛している。──君に、見てもらいたいものがある」

 そう言うと、部屋の中心に歩を進め、光源のスイッチを押した。

 すると、体を闇に蔽(おお)っていたおもちゃが、美しい星空すら霞む大いなる虹色の光を解き放つ。エイミーは目を傷め、怯えるようにそれを見上げる。

 十数メートルはある、メルヘンな聖堂のような装置のおもちゃだった。

 一際中央には、両扉になった精緻に細工された大きなステンドグラスが神秘的に輝いている。オパールみたいな透きとおった光が全身を血液のごとく流れ、妖精にも似て、オーロラと光の粉を身体中に溢れんばかりに放出している。

 さっきまで擬態(ぎたい)するように身を闇に染め上げ、光の粉だけ見えるようになっていた。星の絶景は、このおもちゃが作り出す遊戯的なほんのギミックの一つだった。

「美しいだろう? こいつは、ラブ・メーカーだ」

「ラブ・メーカー……?」

「おもちゃに命を与える装置だよ。まぁ、彼もおもちゃの部類には入るがね。私にとって、ラブは宝物なんだ」

 と、肌を大事そうに愛撫する。

「だが……彼がすばらしいのはそこではない。ラブは、人間の心を、永遠に美しくすることができるんだ! それには──プロセスがあってね」

 その目をマッドサイエンティストのようにぎらつかせ、エイミーに向き直る。

「シンプルに説明すると、君は、今からこの中に入ってもらう。案ずることはない、中心に立つだけでいいんだ。そうしたら身体(しんたい)を分離するために君の心を注射して、ドロドロに溶かしてかき混ぜた蜜をラブ・メーカーが吸い尽くす。君は空っぽの容器になる。単体の心に美(び)薬(やく)を注入して、元いた体に還元(かんげん)すれば、永遠に美しいアイの子が完成するというカラクリさ。ご理解頂けたかな?」 

 エイミーにしても、誰にしても現実離れした彼の言葉は到底理解できない。

「お前………何言ってるの……?」

 彼女は青ざめて頭を振った。

「言葉では難しかったようだね。だいじょうぶだよ。中に入ればすぐにわかる」

 意味もないのに彼は優しく言う。

 ピエロの裾(すそ)を摘まんで、エイミーは哀れに乞(こ)う。

「ピエロ……ここじゃなくて。お外に行って、みんなと、おもちゃと遊びたい。行こう?」

 きっと、そう、ぜんぶ悪い嘘だ。ぜんぶ無かったことにして、みんなと遊べば、きっとピエロも元に戻ってくれるはずだ。そう、思ったはずなのに。

「オモチャ──? どうでもいいだろ。そんなガラクタ」

 金属の声に、頭を殴られるような衝撃を受けた。そっと、彼から離れる。

「ガラ、クタ……」

 その言葉が、自分が何度も浴びているような暴言だということを、直感的に理解できた。

「さぁ、笑いなさいエイミー。私と家族になるんだよ! 永遠の愛を、永遠の美を誓おう」

「絶対にやだ!」

「さあ、こっちにおいで」

「やだ……!」

「どうして?」

「エイミー。玩具なんかになりたくない!」

「玩具じゃない。君は人間のまま家族になるんだよ?」

「心をとられるくらいなら……お家に帰りたい!」

「帰りたい? 正気か?」

 嘲笑を込めて彼は言った。

「下界……あんなところにいてはいけない。自由も娯楽も歌うことさえ許されず、機械人形のようにただ業(ぎょう)を全(まっと)うする地上世界──地獄。彩りも芸術もなく、俗物(ぞくぶつ)に支配され、下水のように大人の目は澱(よど)んでいる。あれが子どもたちの未来の鑑(かがみ)だと言うなれば、なんと嘆かわしい。君は、そんな大人にならなくてもいい。ここは極上の楽園──天国だ。雲のような心と羽をずっと抱き続けて、楽しい歌をいつでも歌っていられるよ。君を傷つける者は誰一人いない。いつまでもここにいて、鳥のように歌をさえずり、青空に羽ばたいて、幸せいっぱいに楽しい日々を送ればいいのさ」

「でも、家族がいないところにずっといたいとは思わない。エイミーの家族は……ここにはいない。パパとママとお姉ちゃんだけだもん!」

「ハグもキスもなく、愛してもくれない存在を、君は家族と呼ぶのか?」

「きっとまたいつか愛してくれる! 絶対そうだもん!」

「いつかっていつさ? 十年? 百年? 永遠にそうかもしれないね」

 エイミーの瞳が悲壮に揺れた。

「そんなことない……!」

「ああ……世界で一番かわいそうなエイミー。私なら、君と妹のように戯れ、娘のように抱きしめ、花嫁のように口付けを交わし、いつまでも愛してあげられるというのに」

「エイミーは……」

「私の家族だ」

「違う!」

「君を愛している。この世界中で誰よりも。やっと……やっと逢えたんだ。一体いくつ繰り返した? まるで何十年の時を死んだように生きた。すべては君と出逢うために! ああ、エイミー。これは運命だ、ようやく、神は私に微笑んだ。私の理想そのままに君は現れた。君に出逢う前から君を愛していた。それがついに、ついに叶ったのだ! 私の夢が! 理想が! アイの子が! 遂に私の目の前にッ!」

 狂喜のマグマの煮え滾る腹を抱え、くつくつと笑い、狂ったように爆笑した。

 その姿を、まじまじとショックを受けて見つめる。

「ねぇ、ピエロ……。ピエロは、どこにいるの?」

 つっと頭を擡(もた)げ、腕を広げて言い返す。

「ここいるよ? 君の傍にずっといる」

「ピエロはおもちゃをガラクタなんて言わない!」

「あぁ、あのゴ──クラウンたちのことかね。職業柄同じく道化だが、つまらないものはゴミ箱に捨てるべきだよな。君もそう思わないか? この国にゴミが一つも落ちていないように、生きていようと私の国(いえ)にゴミはいらない」

「いらない……?」

「いらないものは捨てればいい」

 頭がパニックに陥って、たくさんの疑問が洪水する中、その中の一つを絞り出した。

「なら……なら、どうしてさっき遊んでいたの? ピエロ、おもちゃと楽しそうに遊んでいたよ?」

 至って軽快に返す。

「あぁ演戯(えんぎ)だよ? 生粋(きっすい)の道化も時としてお仕事をするのでね。お付き合い願わない相手には愛想笑いもする。まあ、大好きな君たちの前では違うけどねえ」

 あんなに、大好きだった泣き笑いの顔が、今はもう凶悪な狂人が浮かべる笑顔にしか見えない。エイミーは瞠目して、男に問う。

「お前は……誰だ?」

 ふざけているのだと思って、彼は腕を曲げて笑って答えてみせる。

「ピエロ・ペドロニーノさ」

 ン? と揶揄(からか)うように腕を曲げた。

「ぜんぶ……嘘だったの?」

「なぜなにどうしてとんでもない。嘘なんかついていないとも」

 と、惚(とぼ)け笑う。

「おもちゃとのゲームは楽しかったろう?」

 そんなものは、前座(ぜんざ)だ。

「ラストゲームも、実にすばらしかった!」

〝アイの子〟と〝穢(きたな)い子〟を選別するゲームに過ぎない。

「玩具の国は君のもの」

 ──そして君は私のもの。

「さァ、おいで」

 ふたりきりの結婚式のステージ、聖書を持つ振りをして、ピエロは道化る。

「汝(なんじ)、穢れるときも、病めるときもなく、永遠の美を、誓いますか?」

 エイミーはぴしゃりと跳ね返した。

「誓わない!」

 ピエロは黒く冷酷に笑う。

「そうかい。なら、力づくでも奪おうか」

「エイミーは、お前の玩具なんかにならない!」

 そう言い捨て、彼女は踵を返す。扉は幸運にも開いており逃げることができた。ピエロの怒声が背中で響く。

「待ちなさい!」

 ピエロが即座に振り向き、命令する。

「ラブ・メーカー! 追いかけろ!」

 すると、聖堂のような体が燦然と光り、ドラゴンのようにフォルムが転化する。鱗(りん)粉(ぷん)の光を散らして巨大な両翼をばさりと広げ、猛烈な速さで低空を飛翔する。出口は体より非常に小さく壁ごと突撃して、一気に瓦礫(がれき)が滝のごとく崩れ落ち、ラブ・メーカーをせき止めるも巨体とスピードで弾き飛ばす。

 その間にエイミーはどんどん駆け上がり、幾重の円を描く。下の方から瓦礫を弾き飛ばしたおぞましい轟音が聞こえた。

 飛沫を上げて階段を壊滅させながら、怒涛(どとう)の勢いで追いかけてくる。瓦礫の雨を超人的な身のこなしで伝ってピエロが叫ぶ。

「アイニイイイイイイイイイイイイイイジュ!」

 殺されるような恐怖に支配され、エイミーは廊下に出ても必死に走り、少し遅れてラブ・メーカーが凄まじい勢いで彼女を追う。

 下の階、そのまた下の階まで逃げ続け、アーチをくぐり、空の下のブリッジを駆ける。その後からラブ・メーカーが猛然と続き、出口を爆砕(ばくさい)し、ラブ・メーカーよりも蟻(あり)と巨人ほどに大きい出口のブロックの壁面が、内側から四隅にかけて破壊の稲妻が走る。ブロックの土砂崩れとなって全壊し、津波となってラブ・メーカーの背に襲い掛かる。

 エイミーは一直線に走り、遊戯が終わったことで開放された純白の広場に舞い戻る。たくさんのおもちゃたちがコミュニティの場として賑わっていた。彼女の必死な叫びが響き渡る。

「みんな逃げて!」

 壁が破壊され、巨大なジェンガが倒れたような騒音がホールを揺るがす。ラブ・メーカーが猛然と乱入し、悲鳴が舞い上がる。ある者は慄然と目を丸くした。

「ラブ・メーカー……?」

 壊れたように暴走し、逃げ回るエイミーを飛んで追跡する。広場は狂乱に包まれ数多のおもちゃたちが逃げ惑う。脱出したロアと子どもたちが遭遇し、愕然とする。子どもたちが一斉に叫んだ。

『エイミー!』

「何よあの変態ブルドーザー!」

 セシルが駆けつけ、必死に逃げるエイミーを抱きとめる。自分を盾にするように庇い、ラブ・メーカーに立ちはだかる。

「この怪物! エイミーを喰いてぇなら俺を喰ってからにしろ!」

 ラブ・メーカーは構わず突っ込んでくる。「逃げろ!」と尻目で叫び、エイミーはより悲痛に歪ませた顔で彼を背いて走る。

「エイミー!」

 ギルベルトが力強く手首を引っ張って誘導する。泣きそうな彼女を安心させるように白い歯を見せた。

「必ず逃げ切るぞ」

「うん……!」

 ラブ・メーカーは左右に粘り強く制するセシルを、亜麻髪が踊るほどの強風を撒いて振り切り、追跡を再開。

 そこでピエロが走って広場に現れる。アビーが気づいて、助けを求めて叫んだ。

「ピエロ! お願い! エイミーが……」

「ラブ・メーカー! 何がなんでも捕まえろ! 逃がすな!」

 ピエロは想像もつかない空気が震えるような怒声を飛ばし、セシルたちは恐怖の色に染まる。

「誰だ……?」

 ラブ・メーカーは自らを盾にする子どもたちを躱して、猛スピードで追いかける。エイミーは後ろを振り返ると驚異的な速さで生きる聖堂が自分に迫ってくる。その間で、小さなおもちゃが転んでど真ん中に倒れ込んだ。猛烈に迫るラブ・メーカーに足がすくんで動けない。ラブ・メーカーは気づかず飛行を続ける。壁を全壊するほどの威力を持つ彼が通り過ぎれば、確実に壊死してしまう。

「危ない!」

 エイミーはギルベルトの手を打ち離した。

「エイミー?」

 全力で後ろを走り、飛び込むようにして小さな体を抱き、突き放した。巨大な怪物が一直線に正面から襲い掛かる。立ち上がることも叶わなかった。両の扉が刹那に大きく開いて、瞬きも許されずエイミーは飲み込まれた。

 

 真っ黒な場所。

 

 スポットライトが当たる。

 項垂れるエイミーと、中心に咲き誇る大輪の花に。

 彼女は震えた形相で、蝶の羽模様の、妖しく美しい大輪を見つめる。

 少女が来ないと悟ると、花は蜜のような甘美に満ちみちた光を散布(さんぷ)する。暗闇をじわじわと蝕(むしば)み、光が飽和(ほうわ)した。

 その輝きが最高潮に達し、白く満ち溢れると、彼女は別世界にいた。

 空は透きとおるように青く、色とりどりの花々が辺り一面に咲き溢(こぼ)れている。ふわりと風に乗って花びらが舞い散り、花の香りが鼻先に漂う。

 現実をふいに忘れるほどの既視感。

 立ち上がって、森の奥に隠された美しい花畑を、呆然と見渡す。視線を前に戻した時、心臓が飛び出そうになった。

 家族がいた。

 今はもういないはずの、今はもう向けてくれないはずの、マーシャ、ペティ、フレッドが寄り添って、慈しんで自分を見ていた。

 やさしく瞬き、父の赤髪が緩やかに風と戯れ、名を呼ぶ。

「エイミー」

 激情が、胸の奥を燃やす。

「パパ……?」

「こっちにおいで」

 手を上げて招き、無邪気な笑顔が誘う。涙が瞳の中で閃いた。足を踏み出す。

「パパ……」

「そう、おいで」

 花を踏み、涙がぽろぽろとこぼれる。そして勢いよく地面を蹴って駆けだす。

「フレッド!」

 彼の胸に飛び込んだ。すぐにたくましく抱き返され、渇望していた温もりに包まれる。残酷な恐怖から縋るように、愛おしさに、涙を止めどなく流し、父を呼び続ける。

 見上げる。

 フレッドは笑顔を殺していた。背筋が凍るような、おぞましい声で言った。

 

「お前など、誰も愛さない」


 言うはずのないその言葉を聞いた途端、心に鋭い痛みが走った。刃物に刺されたように目をひん剥き、おもむろに下を見る。

 胸に、槍のように大きい、透明な光の注射針が、奥深くまで突き刺さっていた。

 幻覚はあっさりと失せ、硬質な大輪の中央に立ち、めしべを抱きしめていた。さながら、蝶が花の蜜を吸うように。

 おしべがにょろにょろと伸びてきて、四肢に絡みついて拘束する。

 パン──茎の断面のような、手術室のような、円(まる)い天上の照明が酷烈(こくれつ)に灯る。

 心電図(しんでんず)の電子音、手持ち火花の音、唸るような機械音と、混沌としておぞましい不協和音を奏して、天井がぐるぐると回転を始める。まるで自分こそが蝶と悪女が高らかに歌うように、蝶模様の花が毒毒しく輝き出す。

 上下一面から苛立った白光に炙(あぶ)られ、心を物質的に炙りだす精神的な拷問にかけられる。

 ドクンと強烈に動悸(どうき)し、頽(くずお)れて、心臓が焼かれるような心の激痛に絶叫を上げる。猛烈な嘔(え)吐(ず)きが襲い掛かり、不可解な歓楽と嗚咽が気狂いみたいに込み上げる。笑いを湛(たた)えて泣き叫び、心をマグマのごとく溶かされ、泡を立てて攪拌(かくはん)される。

 苦しみ、しあわせ、楽しみ、嬉しさ、悲しみ、絶望──極彩色の万感(ばんかん)が脳令を黙殺して変わりばんこに押し寄せる。心が爛(ただ)れてどろどろの蜜状に溶けていく。熱い蜜はチューブのように針からそして絡みつくおしべを通り、地面の蝶の羽模様の筋の溝(みぞ)に根のごとく行き渡る。真珠母(しんじゅぼ)色の川のように蜜の光がきらきらと流れ、壁を這い上がり、ラブ・メーカーの体内を循環する。

 エイミーの、心臓を抉り出されるような絶叫が、純白の広場に轟く。

『エイミー!』

 子どもたちは彼女の名を悲痛に叫び、ギルベルトは恐怖しながらピエロに怒る。

「おい……エイミーは……エイミーはどうなってんだよ!」

 ロアに聞かされたことは、エイミーの身に危険が迫っていることだけで、詳しくは知らなかった。魅入られるように観ていた、ラブ・メーカーの華やかな光彩に照り輝くピエロは子どもたちを見る。

「おや、まだいたのかい、君たちはもうお呼びじゃない、回れ右だ。さっさとお家に帰りなさい」

 興味もなく冷然と言い放ち、視線をラブ・メーカーに戻す。

「ふざけんな! 俺たちはエイミーを連れて帰るんだ! エイミーを返せよ!」

「彼女は既に私のものだ。君たちのものじゃない」

 子どもたちは激怒し、エイミーを救おうとラブ・メーカーに駆け出す。しかし、

「ショーの邪魔をしないでくれ」

 ステッキを操り、手品のように七本のロープが柔軟に伸びて、彼らの体を縛って動きを封じた。

「躾けなさい」

 おもちゃたちは苦しい顔で彼らを拘束する。

「は……? ざけんなよオイ! 離せよ!」

 心の蜜は、元々流れていた光の脈をみるみるうちに上塗りする。全身を隈なく巡り、聖堂の精巧なパイプオルガンの鍵盤(けんばん)が踊って壮大な讃美歌(さんびか)を演奏する。可憐に壮麗に神聖に荘厳に、内側から溢れんばかりに万華鏡(まんげきょう)のような光が純白の広場を教会にして、輝き溢れる。

 ピエロは女神のように麗しいラブ・メーカーを前に、両腕を広げ、狂気的に打ち震える。

「美しい!」

 その場にいる全員が、残酷にも圧倒されていた。

 

 天井の回転の速度は模様と化すスピードになり、万感によって引き起こされるフラッシュバックが、エイミーの中で高速で巡る。

 

「将来はべっぴんになるぜ~!」

 フレッドに抱っこされながら、村のみんなの笑顔に囲まれていた。

「エイミー、大好き!」

 お花のかんむりをお姉ちゃんにあげたら、とびきりのハグをしてもらった。

「お前は甘えただねぇ」

 ママに抱きついて頭を撫でてもらった。

「愛している」

 ママが、本当は起きている自分の頭を撫でてささやいた。

「お前のせいだよッ!」

 ママに、見たこともない泣き顔で怒鳴られた。

「この人殺しッ!」

 お姉ちゃんにも憎まれ、ショックだった。

「お前は、愛の子」

 彼がくれた言葉を、絶対に忘れないと誓った。

「お前なんか、産まなきゃ良かったんだ!」

 その言葉が、何よりもいちばん傷ついた。

「見せないでおくれ! その顔も、その赤髪も……」

「大きくなったなぁ!」

 フレッドに抱っこされて、幸せだった。

「こんなものつくるんじゃないよ!」

 お花のかんむりをママにちぎられ、投げ捨てられた。

「たとえ世界に嫌われても──」

「天然なのね!」

 たくさんの友達と笑い合った。

「気持ち悪ぃんだよ!」

 男の子たちに暴力を受けた。

「火事が起こるじゃない」

 悪口も、慣れたふりをしていた。

「エイミー」

 家族みんなに名を呼ばれ、愛情いっぱいの笑顔を向けられた。

 そして、当たり前だった、もう当たり前ではない──渇している言葉を、かつてのフレッドの声が、言った。

 

「愛している」


 溢れる涙の雨は止み、表情は色を失う。

 瞳の光が玩具のように点滅する。世界はまるでガラクタのように取って変わる。

 ぱりん──ガラスが割れるような効果音を発して、視界の色彩の一片が、ゲームの中のように剥がれ落ちる。一気にヒビが増え、続々と破片が幻覚の中で落ちていく。

 

「色ガ、消えテく……?」


 そして一気に粉々に砕け、色彩に溢れた世界はことごとくモノクロに崩壊する。瞳は無機質になる。

 意識がぷつりと切れて、中心に咲く大輪の上で、力なく横向きに倒れた。半開きの目は虚ろで、生気の欠片も見当たらない。エイミーという人間の少女は、人形になる。

 心を奪い、ステンドグラスが燦々と煌めきだす。

「さァ──ラストスパートだ!」

 きらきらとした精霊の羽音のような音が尾を引いて、純粋無垢な白い光──美薬がステンドグラスに雪の妖精みたいに輝いて現れる。全身を循環し白く透きとおらせ、そしてラブ・メーカーは純白を全身に纏い、花嫁のように輝く。

「素晴らしい! ああ……ようやく完成する! 永遠に美しいアイの子が! ようやく……」 

 一人の男の、けたたましい狂った笑い声が広場に響き渡る。

 ところが、ラブ・メーカーの純白に輝く肌に、嘆くような低く穢い汚濁音を発して、黒い斑点がぽつぽつと浮かび上がる。

「なんだ……?」

 斑点はみるみると増加し、インクの染みのように滲み広がっていく。やがて、全身が黒一色に、染まった。

 髪の毛一本が落ちても聞こえるような静寂。

 美薬は、蜜の熱に溶けたもののすぐに分離し、腐った。純白の美しさは醜く変貌(へんぼう)し、ラブ・メーカーを一身に包んだ。

 覚束ない足取りで、ピエロはラブ・メーカーに歩み寄る。

「何故だ……? 何故こうなった?」

 両手で押し倒すように触れる。

「……あり得ない。そんなはずがない。一切の粗がないよう完璧に創り上げたはずだ。完璧なプロセスを以て、成功するはずだった……。まさか、失敗したのか? ……私が? 何故……。一体どこで……何故だ……」

 猛烈な憤(いきどお)りが込み上げる。

「一体何故だ!」

 怒鳴り、ラブ・メーカーを乱暴に殴った。しかし、彼は死んだように動かない。

 まるで拒絶しているように。

「続けろ! 続けるんだ! 動け! 私の言うことを聞け! 聞いているのか? ラブ・メーカー!」

 怒号を浴びせ続けても、反応一つない。激怒し、この塵ほども役に立たないガラクタと罵倒し、ラブ・メーカーを乱暴に蹴った。そしてある考えが過ると、醜い怪物となった巨体を前に、絶望するように瞠目する。

「まさか……裏切ったのか? ラブ……」

 ラブ・メーカーは生きている。言語を話さずとも、全身を覆い尽くす沈黙が苦渋(くじゅう)を滲ませ、拒絶を語っていた。ステンドグラスが、今にも消え入るように弱々しく、点滅していた。

「お前が、止めたのか。お前だけは、愛していると言ったはずだ。……忘れたのか? 唯一私を受け入れ、従順だったお前が、今になって拒んだというのか? 私を無神経だと言う、愚かだと言う。そうか、お前もか……ラブ……──ラブ・メーカー!」

 その目に殺意を燃やし、ラブ・メーカーに思い切り蹴りを入れる。

「この裏切り者! 今さら良心だと? 何のためにお前を創ったのだ? お前も二心(にしん)を抱くというなら誰もお前など愛さなかった! この物も言えぬ怪物が! アッハハハハハハハハハハ! 滑稽極まりない! お前はもうガラクタという名に相応(ふさわ)しい!」

 壊れたように高笑いをする彼を呆然と見て、油断しているおもちゃたちの拘束を解き、子どもたちは急いでラブ・メーカーに駆けつける。

「開けろ!」と必死に繰り返して扉をドンドン叩くと、扉がうっすらとか細く開いた。破るように開け放ち中に入る。

 暗く丸い部屋の真ん中で、横たわっているエイミーがいた。

『エイミー!』

 皆が駆け寄り、エイミーを抱き上げて外に出る。

 傷つかないようにそっと体を置く。彼女を囲んで、皆が愁いげに見つめる。

 輝いていた目の光は死に絶え、虚ろな半開きになっている。ぴくりとも体は動かない。

 彼らの顔に絶望的な悲愴の色が浮かぶ。エトワールの指が、そっと頬をさする。

「エイミー……?」

 生温かく、血は通っている。それなのに、まるで死に顔を触っているような青白い感覚で、氷に触れたように指を離す。

「死んでるのか……?」

「まさか……やめろよ。そんなはずないだろ……?」

「心臓は動いてるもの……」

「じゃあ、どうして起きないんだよ……?」

 恐怖に満ちた沈黙に包まれ、動かないエイミーに視線が集う。

「そんな……ウソだろ? エイミー……」

 子どもたちの目に涙がこぼれる。ぽたぽたと、エイミーの顔に滴り落ちる。

「ねぇ、起きてよ。ねぇったら」

 エトワールが涙声でエイミーの体をさするが、無邪気な声も、笑顔も返さない。皆が震えながら口々に呼びかけても、エイミーは人形のままで──

 まるで死んでいた。

 残酷な恐怖と悲しみが、彼らの胸を覆い尽くす。

「いや……いや……エイミーが……死んじゃ……」

 アビーは目を見開いて顔面蒼白とさせ、涙が溢れ出す。セシルは上体をきつく抱きしめる。

「ごめん、ごめん……守れなかった……」

 地の底を這うような低い声が言った。

「ふざけるな……。私が失敗など…………ありえない」

 ピエロは懊悩と独り言を繰り返していた。

 セシルが涙を光らせ、烈しい憤りの形相を向ける。

「この人殺し! お前がエイミーを殺したんだ!」

 一拍間を置いて、彼は苛立った調子で答える。

「殺した? ハッ、私がか? 私はただ彼女の心を抜き取ったまで。眠ってるだけだろ?」

 ギルベルトが涙に濡れた声で怒り叫ぶ。

「死んでるも同然じゃねぇかよ! 心を抜き取ったって……なんだよそれ。訳分かんねぇんだよ。俺たちのエイミーを返せよ!」

 子どもたちがピエロに泣きながら憤慨(ふんがい)する。ピエロは嘆息(たんそく)し、舌を打った。見向きもせずに言い返す。

「口を閉じろ。穢らわしい」

 どす黒い声が、空気を凍(い)てつかせた。

 子どもたちは息を?み、傷ついたように黙り込む。

「七つの大穢──見るに堪(た)えない穢れた子。ゲームに切り捨てられた敗者がくだらない負け口を叩くな。穢い子に、アイの子は渡せない。美しい心がくすみでもしたらどうするんだ?」 

 彼らは要領を得ない表情で悲哀を浮かべ、ルイスが掠れた声で言う。

「アイの子? 七つの大穢? なんだよそれ……妄想か?」

 ピエロは目を侮蔑(ぶべつ)に細めて薄く嗤った。

「あー……何も知らなくてよかったのに。これでは、記憶を消した意味がまるでない。君たちには、きれいな思い出のまま帰ってほしかったのに……」

 戦慄(せんりつ)を帯びて驚愕する。ピエロは俄然、声を太く張り上げる。

「クラウン──一体誰だ? ここへ誘導した裏切り者は。子どもに真実を告げるな。お前たちは私の玩具。私の指示通り、その身が壊れるまでおどけ続けろ。あとで調教してやろう」  

 クラウンたちが俯いて青ざめる。ギルベルトは深く項垂れ、震えた声で問う。

「記憶を消したってどういうことだよ……俺たちは、最終ゲームをやったのか?」

「どうせ今の君たちは消す。まあ、憂鬱(ゆううつ)払(ばら)いの酒にはなるだろう。そうさ。君たちは夢を囁き、実際に叶ったユメの世界でリアルな人生を味わった。しかしオセロゲームのように百八十度悲劇に反転し、絶望……慟哭し、脱落したのさ。エイミーだけが勝ち残ってね」

 起き上がった時の止まらない涙、冷や汗、体に刻まれた恐怖……トラウマになるほどの壮絶な人生を味わったことに、跡形もなく記憶がないことに、彼らは青白い恐怖と疑念を覚える。

「なんのために……僕らを試した?」

 エトワールが凄まじい眼光を向ける。

「家族さ。強く、優しく、美しい──人間の、アイの子を見つけるためのね」

 セシルが金切り声を上げる。

「ふざけんなよ! お前のそんな身勝手な思いで、エイミーは……エイミーは……こんな人形になったんだぞ!」

「こちらこそふざけるな。穢れをわざわざ拭き取って洗いざらい流してやったというのに……ったく、便器の工場からやってきた外国人というのは糞(くそ)ほどに礼儀を知らないな」

 ピエロの別人のような残酷な嘲笑と暴言に、セシルは信じられないというような傷ついた顔を浮かべた。

「ンー、ごめんね? 悪い気持ちにさせたくて言ったんだぁ。──まあ感謝したまえ。おかげで楽しい思い出しか残らない──ハズだったがねえ」

 エトワールは涙の声に殺気を溢れさせる。

「エイミーに、一体どれだけの恐怖を与えた? 俺たちのエイミーを返せよ……」

「アッハハハハハハ! その台詞、君が言うのか? じゃあ君は初めてを返してあげなさい。これは視聴者の一介(いっかい)のアドバイスだが、君はもう少し、他の髭(ひげ)を生やした方がいい」

「は……?」

「君はエイミーを守れたのか? 人は信念があるから人やものを守れるんだ。自分の童貞も守れないような男が、一体何を守れるんだ? ──まあ、夢の中の君はすごかったよ。服は着て欲しかったがね」

「……っ?」

 彼女を、凌辱(りょうじょく)したようなことなど絶対にしていない。なのに、虚(きょ)を衝(つ)かれたように訳もなく動揺した。

「さっきから何言ってんだよ……? 戯言を言うのもいい加減にしろよ!」

「ハハハ、君は可愛すぎたね。君の落ち度は恋に堕ちてしまったことだ。まぁ失恋しても、童貞は誇りに思いたまえ」

「……? 俺が、ゲームで何したってゆうんだよ……」

 記憶にないはずの、彼の言葉は胸の核心をなぜか痛く突いてくる。

「何が不服かね? 子どもの頃から大人の酸(す)いと甘みを、体と心に刻みつけておいたんだ。──いずれ人は穢れる、いずれ子どもは学ぶ、いずれ君たちは知る──人生を予習したんだよ? これぞ英才教育だ」

 マルクスは目を剥き、豹変した彼を絶望的に見ている。

「これは……犯罪じゃないのか」

「国家ぐるみの場合は犯罪にはならない。それとも、君はお空には法律があると、冗談を言っているのかな?」

「ふざけんじゃないわよ! あんたなんか……ッ、傲慢で最低なクソクズ男よ!」

「『こちらこそふざけるなパート2』だ。王国も民衆をも喰った、傲慢で最低なクソクズ女はだーれだ? 君だよ。元女王様」

「え……」

 ニコラは覚えのないトラウマを刺激されて傷つく。ひどくショックを受ける彼らを、ピエロは鼻で笑い、たっぷりと差別に満ちた嘲笑で見下す。

「退屈という牢獄から仮釈放(しゃくほう)できた哀れな無道楽(むどうらく)ども。世界(きみ)たちの人生は、便器の上に座って熱心に何かを作るのが精々だ。苦しい辛い悲しいと嘆くだけの毎日(笑)。何故、君たちが便器の個室から一歩も出られないのか解かるか? 皆自分の目より集団を信じるからだ。自分が生まれた由(よし)も考えもしない、叩かれるのが嫌だ、人目が怖い、つまずくことより立ち上がることが恥ずかしいのだよ。まあ── 

 賢い私は、

 か し こ い わ た し は、

 か   し   こ   い   わ   た   し   は、

 扉を開けて世界に抗い、空に国まで創ったのだよ? 凡人(きみたち)とは違う! 少しは私のように前衛的(アバンギャルド)な大人になってから、先人に物申すんだな」

 蒼白する彼らを、ピエロは悪びれる様子もなく、丸い目で瞬(まばた)きをして、にっこりと嗤った。

「──失礼?」

 アビーは真っ白になって言う。

「ひどいよ……。こんなの……きいてないよ」

「そうだねえ~、完璧なおとぎ話のようにはいかない。そもそも国(ここ)がいつ子ども向けだと錯覚してた? 本音と建前(たてまえ)はもう判(わか)る? (子どものための)大人による──、大人のための──、大人の国だ。そうさ、これがアンダーグラウンド! なぜ、絶望する? 仮面に惑わされたのは、君たちじゃないか?」

 子どもたちの目に映っているのは、狂気に取り憑かれた魔物だった。湧き水のようにあふれる悠揚な罵倒が、彼らの心に傷をつけていく。

「悲しみに蹲らず戦うことができた? 好きな子を想って背中を向けられた? 物欲だいじょうぶ? 人殴ってない? 押し倒してない? おい嘘だろ? 非力で未完成な未熟な餓鬼(がき)が、大人になんか出来るの? アの子は信じていたんだ、笑われても己を信じる強い芯を持った美しい子だ。君たちには渡せられない。まあ、もう元も子もないがね……」

 ギルベルトはバッと立ち上がり、刺すようにピエロに猛スピードで殴り掛かる。

「ざけんじゃねェッ!」

 飛んでくる彼の拳を、さっと身軽によけて、

「憤怒──君が堕ちた要因だ」

 嗤い交じりに言い、杖を足に引っかけ、ギルベルトは盛大に倒れ込んだ。

「まじもんのゴリラだな」

 痛みに悶えて「クソッ!」と地面を殴り、嵐のような暴言をまき散らす。

「世の中に人の来るこそ嬉しけれ……とはいうものの君たちではなし」

 彼は嗤笑を浮かべて腕を曲げて背いた。ルイスは絶望的に瞠目し、俯いて言った。

「あの言葉も……ぜんぶ、嘘だったの」

「嘘じゃないよ? 君と一緒にするな」

「何度も……それを、繰り返していたの……?」

 ゆっくりと泣き顔のアビーに顔を捻り、当たり前のようににこやかに笑った。

「ああ?」

 アビーは真っ青にゾッとして、セシルは激昂する。

「このペテン師! お前は道化師なんかじゃない! 悪逆非道の極悪人だ!」

 痛くも痒(かゆ)くもないと言わんばかりに、どうでもいい様子で鼻で笑い、腕を折った。

「僕たちを騙してたのかよ……? ただ、それだけのために……」

「じゃあ……おもちゃといる時のピエロは……」

「弄(あそ)ばれていたの? 玩具みたいに……」

 もう見ていられない。ロアが、ピエロに恐る恐る歩み寄る。

「ピエロ、お願いだ。こんなこと……もうやめてくれよ」

 ピエロは目線だけで彼を見下ろした。皇帝のように言い放つ。

「誰だ? お前は」

 ロアの両目が傷ついたようにひどく見開かれた。顔色を失って俯き、力なく後ずさる。

 ギルベルトが、おもちゃをどす黒く睨み付ける。

「こいつらはなんなんだよ……」

 ピエロは腕を曲げた。

「私のかわいい玩具さ」

「グル……?」

 アビーが悟り、より濃い暗黒を内包する。

 玩具のように騙されて、遊ばれて、終いには捨てられて……。セシルが涙を流しながら痛烈に怒り叫ぶ。

「お前らみんな嘘つきだ! クズで最低のゴミクズ野郎だ! この国はおびただしいほどの嘘に塗れてる! なにがおもちゃの国だ! なにがゲームだ……俺たちは、ただ……生贄(いけにえ)になるために誘拐された、ただの犠牲じゃねえか……。ぜんぶ、ぜんぶ……嘘だったのかよおおお?」

 地べたに崩れ落ち、悲痛の限りを泣き叫ぶ。

「エイミーを返せ! エイミーを返せよぉぉぉ……!」

 偽善者! とロアにも他のおもちゃたちにも怒号が飛び散り、彼らは激しく傷つく。

 子どもたちの涙に関心すらなく、ピエロは再びラブ・メーカーに歩み寄り、肌に触れ、舌を打つ。背中合わせに、崩れるように沈んで頭を落とした。

 

 少女は顔を覆い、少年は溢れる大粒の涙を噛み続け──

 

 純白の広場は、地獄のような沈黙に包まれた。

 

  6

 

 はっと、緑の目を開ける。

 

 眠っていた上体をゆっくりと起こす。

 空気は美味しく澄み渡って、ちゃんと息ができる。

 春の日向(ひなた)のように、ぽかぽかとあったかい。

 目をまん丸にして、世界を眺め回す。

「ここは……?」

 青い空、白い雲、光り輝く太陽、無限に広がる花畑。

 多彩なクレヨンで園児が粗雑(そざつ)に描いたような世界。

 戯画(ぎが)の太陽は日光を注ぎ、雲はゆったりと動いている。穏やかな風が吹き、花々はいい香りを放って、赤髪をふんわりと撫でる。超現実的だが、この世界は生きている。

 夢でも見ているのだろうか。ついさっき、ラブ・メーカーに捕まって、死んでしまうような苦しい思いをして……意識が途絶えた。あの時の記憶はちゃんと残っている。

 思いだすだけで心臓が抉られるような過去だが、この愛らしく美しい世界に包まれたときは、それを忘れられた。

 ぼーっと空に見惚れていると、突然、電子レンジみたいなチーン、という大きな音が空のドームに響いて、刹那、青空は満天の幼い星空に移り変わった。

 驚いて瞳を磨く。数多の星屑(ほしくず)に囲まれて、お茶目な寝顔の三日月がネイビーブルーの空に横たわっている。感嘆の息がこぼれた。

 ぴかんと閃いて、一筋の流れ星がこっちに向かって走ってくる。勢いよく目の前に落ちると、きらびやかな星の光彩がほとばしった。

 まぶしくてエイミーは思わず目を瞑った。

 恐る恐る目を開けると、きらきらと光の粒が輝くなかで、ズボンが見えた。

 ゆっくりと視線を上げ、瞳孔が大きく開く。

「きれい……」


 満月と太陽を髣髴(ほうふつ)とさせる、神秘的な黄金の瞳だった。

 

 波を打つ美しい白髪(はくはつ)が、きらびやかに星の名残と幻想的に揺れ、雪の睫毛がふさと音を立てそうなほどひとつ瞬く。

髪と同様肌も透けるように白い。天使すぎる美形で、まるで生きるスーパードルフィーだった。

 エイミーと同じ十の齢(よわい)で、サスペンダーの服を着こなしている。

 ──紛れもない、ピエロの少年時代の姿である。

 少年は彼女と同様ぽかんと口を開けていた。予想していた生き物と違ったのだ。彼は、ゴキジェットプロを二刀流で持っていた。

「あ──」

 害虫|駆除(くじょ)スプレーを急いで後ろ手に隠し、美しい顔を豊かに崩壊させて慌てて弁明(べんめい)する。

「あああ違うよー!? 別にGだとか思ってないしい!? 珍しい害虫があーいや外客が来たからGとウハウハ修学旅行とか思って来たわけじゃないし!? そう僕は! 君をゴキブリと思って迎えに来たんだ!」

 と、満面の笑みで言った。

「って違う! マジで間違えたうわ」

「天使さんですか?」

「はへん?」

「お空からおっこちてきたんだよ! お羽はどうしたの? エイミーを迎えに来たんですか? エイミー……やっぱりしんじゃったの?」

 とても悲しそうな顔をして少年を見上げる。彼は大きな瞳をとても丸くして、そして腹を抱えて大笑いした。しゃがみ込んで、天使みたいに、ふふふと薔薇色に綻んで言った。

「天使の方は君じゃないの?」

 ぱちぱちとエイミーが瞬く。

「お前……何言ってるの?」

「君はとても可憐だねって意味さ!」と、ウインクをした。「かわいい! 君はなんてラブリーなんだああ!」

 ぎゅーっとハグして、ちょっと離れて少年が言った。

「僕は君を迎えにきた天使じゃないよ。ただ、君に会いたくてここにやってきたヒトさ」

「ヒト?」

 エイミーの澄んだ目を覗き込むように、奇麗(きれい)な瞳がじっと見る。

「そう、ヒト。あはは! 君、無垢でかわいい」

 彼女は少年をぼーっと見つめ、みるみると悲しい顔をした。

「どうしたの?」

 この少年を見ると、過去を思い出す。少年と同じ髪色をした男の、つい先ほどあった残酷な拷問を。胸の奥が鋭く痛み、全身がトラウマに粟立って、思わず少年に抱き着いた。

「え?」

 少年はちょっと下心に染まった頬を緩め、困惑しつつもそっと抱き返した。

 かわいそうに……。体が震えている。何か、よほど怖いことがあったのだろう。彼女はとても儚く怯えている。

 少年は目を瞑り、やさしく微笑んで、そっと抱き返す。

「だいじょうぶ。だいじょうぶだよ」

 聞いたことのある言葉。その優しい声が、血と傷だらけの心を癒やす。

 しばらくして、彼女が「ありがとう」と言うと、少年は「こちらこそありがとう。天にも昇る気分で危うく天使になりかけたよ」と笑った。特に深掘りせず飄々と寝っ転がる。腕の枕に頭を乗せて、きらきらした目で空を眺める。そよ風が、少年の白い髪をいじる。

「かわいくて、とってもきれい」

 顔を捩じり、とても無邪気に白い歯を見せた。

「君の心!」

「心?」

「遠くですっごい音がしたからさ、誰かきたのかな? と思って、気になって僕の世界から飛び出してきたんだ。そしたらラッキー! Gでも怪獣でもなく、こーんなかわいい子に巡り逢えた!」

 上体を身軽に起こして、少年は弾ける笑顔で彼女の手を握った。最初は少し警戒したけれど、心を許して、エイミーもふわりと笑い返す。

「お前だれ?」

「僕はピーター・パンツァニーニ! って言いたいところなんだけど、まぁピーターでいいや。君は?」

「エイミーだよ」

「エイミー? かわいい名前! 君にピッタリだね! そうだ!」

 ピーターが勢いよく立ち上がった。

「ねぇ! 僕とデートしようよ!」

 エイミーは目を丸くし、破顔した。

「うん」

 ピーターはやったーと大ジャンプした。おいで! 僕がエスコートする! エイミーの手を引っ張って駆け出す。

 きらきらと光りながら少し前の方に扉が現れた。ドアノブを握って扉を開け、エイミーの世界から飛び出して、ピーターの世界にやってくる。

 エイミーは明るい大歓声を響かせた。

 空はサファイアみたいに輝き、お日様があっかんべーをしている! 空気は澄み切り、心地よくあたたかい。花々が乱れ咲き、遊園地みたいにアトラクションがたくさんある! 不思議なオブジェもいっぱい。本物か分からないけど、おもちゃたちがそこら中にいる。笑い声に溢れ、愉快な音楽を奏で、果てしなく壮麗(そうれい)雄大(ゆうだい)。夢心地な楽園だ。

 ピーターは走りながら微笑んで振り向く。

「ここは心(しん)世界(せかい)! 心の世界だよ!」

「心の世界? ピーターの心?」

 お花がいっぱい! と花が大好きなエイミーはとびきりの笑顔を浮かべる。

「きれいな心には、花がいっぱい咲いているものさ。君の心にもあったみたいに! そしてほら! 見て! 虹がある!」

 まさに絵に描いたような、両足が雲に乗った半円形のレインボーがある。

「きらきら輝いていて、すーっごく広いんだ! 宇宙みたいに!」

 二人は歌と踊りの中に紛れ、弾ける笑顔でおもちゃたちと踊りながら突き進む。そして水溜りを見つけると、ピーターがひゃほー! と飛び込んで、エイミーは引っ張られ、息を止めてぎゅっと目を閉じて中に潜り込む。

 ばしゃん! 水泡(すいほう)が体を包んで浮上(ふじょう)する。恐る恐る目を開ける。驚いた。息ができる。目も普通に開けられる。すごい! どうして? しかも喋れる! 二人は手を繋いだまますいすい泳ぐ。おもちゃもたくさん泳いでいて手を振った。

 海底に横たわる鏡へ、水みたいにすり抜けて船場に出た。打って変わって静寂の夜に包まれ、泉を染めて、幻想的な満点の星々が空に広がっている。

 デッキチェアに寛いでいたハードボイルド風のおもちゃが少年少女を見るなり、木製の看板に親指をさす。

〝カップルにおすすめ〟

 かわいいともだちさ! ピーターはエイミーとはしゃいで三日月型のボートに乗り込む。

 ピーターは身を乗り出して、淑(しと)やかに微笑む三日月をらんらんと見上げる。

「僕、三日月が大好きなんだ! あの形、まるで口が笑ってるみたい!」

「エイミーはお日様が好き! まぶしくて、大笑いしていて、エイミーのパパみたいだもん!」

「パパ! あっははは! いいね! それに比べてお月さんは微笑んでる! 僕の寝顔を見つめるママみたいに!」

 エイミーにつっと顔を近づける。

「ほんとぉ? エイミーもそう思ってた!」

 エイミーももっと近づく。至近距離で見つめ合い、声高々に笑い合った。

 岸辺に着いて、大きな穴に落ちて花畑の中を手を繋いで歩く。いろんな話をする。二人称は「お前」だけじゃないよ、「あなた」とか「君」とか、と笑いながら教えてくれた。

「知ってる? 心は最初は真っ白なんだ。生まれた時、特に赤ん坊の時とか、子ども時代とか。誰しもが、最初は美しい心を持っているんだ」

「へぇ~」

「楽しみ、歓びを感じて、知って、この世界はどんどん彩られていく。時を経て、破壊、創造を繰り返していく。小さかった根は奥深くまで這って、嵐に負けないように、双葉から大樹になるように成長していく。誰もが大人になっていく。時として、穢れていくものもいる」

 ピーターは立ち止まる。目を瞑り、想像して、見開いた。

「その世界は──」

 花は枯れ、空気は澱み、世界は廃墟になっている。陰鬱で、地上には灰塵(かいじん)が舞っている。

「寒くて、殺風景で、ひどくつまらない」

 エイミーはゾッとして、ピーターの腕に巻き付いた。ピーターは微笑んで、鼻をつまんで彼女を見下ろす。

「それにくさい」

 エイミーは不安げな顔をして問うた。

「大人になっちゃうと、忘れちゃうの?」

「どうだろうね。子どもの僕たちには、大人の気持ちなんてわかんない」

 人差し指を立てて、ナンセンス、と言わんばかりに臭い世界を吹き飛ばす。

「まっ、そんな臭いこと考えなくたって、僕は楽しく生きればいいと思う! その方が健康にも美容にもいいっ!」

 最後に蛇足(だそく)を付け、さらさらの髪を撫で上げて、「だろ?」とエイミーに笑いかける。

「うん!」

 エイミーはいたずらっぽく笑って、「タッチ!」と、ピーターに触って走り去った。あぁ! 待ってよ! 高らかに笑ってふたりで鬼ごっこをする。

 フィルムを象った扉を開けて、急いで中に逃げ込む。映画館のようで、所々におもちゃとすれ違いつつロビーを通り過ぎ、薄暗いホワイエを走る。

 壁に映画のポスターがずらりと飾られ、〇ー五、などのナンバーが入口の電灯に書かれてある。ピーターは足が異様に速くてすぐにエイミーに追いついた。

「足はやぁい!」

「君もなかなかだったよ」

 ふと、エイミーは壁に好奇心がいく。なんだろう! と走って覗き込んだ。一コマごとに異なる映像の収まったフィルムが、一繋ぎの壁掛け絵画みたいな感じで曲がり角まで飾られている。

「それは心の記憶」

 ピーターは後ろからそう言って隣にやってくる。眠ったときに見た夢や思い出がフィルムという形になって残されているんだ、と説明する。

「記憶は、頭では忘れていても、心は覚えているんだ。夢の記憶も、昔の記憶も」

 ふ~ん、とにこにこ顔のエイミーに笑いかける。

「せっかく映画館に来たんだし、なんか観る?」

「ほんと? これ観たい!」

 映画なんて初めてですごくワクワクする。すぐ左にあった入口に元気に指をさした。

「これかい?」

 この世界も、この映画も熟知しているピーターは、嬉しそうな、悲しそうな笑顔を浮かべたが、憂いを吹き飛ばして破顔した。

「うん! そんじゃ観るかあ!」

 十‐十八番スクリーンの部屋に入った、

 中は現実とそう変わらない上映場の空間で、エンジ色のシートが並び、スクリーンは古紙(こし)風に褪せている。ふたりは中央の一番見やすい席を選んだ。楽しみだね、映画初めて? おしゃべりをしているうちに、館内がゆっくりと消灯する。

 今にも壊れそうな、映写機の音がカタカタと動き出す。

 ムービーに、カウントダウンが数字を切り──

 

 記憶が、上映する。

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ああああああああ ムーン @0930da

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