第4章
1
第四から第六ゲームは見事全員クリアを果たし、そしてラストゲームのためにエンタに戻って聳(そび)え立つピエロ城に入る。ギミック満載で奇抜な城の中を遊覧し、扉を開けて部屋の中に入った。
子どもの寝室をモチーフにした、かわいい夢見るような部屋だ。ベッドメリーが天井にぶら下がり、ピエロを模した柱時計は時を忘れ、眠りたくなるようなオルゴールが優しく響いている。正面の壁に人数分余りのいろんな扉がある。
「きゃあ~! いよいよ最後のステージね! これをクリアしたら国頂けるんでしょう? ドキドキしちゃうわ~!」
「ああ、みんなでね」
エトワールも興奮気味にニコラに笑む。
「フ、明日は起きたらピエロがいるのか」
「ちょ、まだ早いでしょ色んな意味で!」
「ともだちって、しあわせだね。エイミー、みんなに会えて本当によかった。みんながいたから、ここまで来れたんだ。ゴールできなくても、ゴールをしても、ずーっとともだちでいようね!」
まぶしく彼女は輝いた。みんなを照らしてみんなをも笑顔にする。
「おう! 当たりメェよ」
威勢よく笑うギルベルト。フ、と笑い仕方ない奴だと眼鏡を押し上げる。
「僕も君に会えて本当によかったよ」
「俺も」
と、エトワールとセシルが言い、
「まあ、なんていうの、運命ってやつ?」
「地上に下りてもみんなで遊びたい」
「お、それいいな!」
「ピエロも一緒がいいな」
「お前は二人暮らししてろ」
「それはいいな」
マルクスのヲタクっぷりに豪快で、奇天烈な、普通の、可憐に囀る、十人十色の笑い声が合唱する。
「よし決めた! お前ら! ずーっと俺様の一生涯のダチにしてやる!」
ギルベルトは拳を前に突き出した。
「君が言うとなんか癪だな。まあ、君の愚かなビジョンに乗ってあげよう。これは慈善活動だ」
非常に遠回しに言いマルクスが同じく拳をやる。
「しょうがないから私も参謀してあげる」
「中二病はともかくツンデレは一人でいいよ」
ニコラ、セシル、そして子どもたち全員が輪になって一人ずつ拳を合わせた。ある子は無邪気に笑い、ある子は照れくさくて顔を逸らす。
絆を固く結び、心をひとつにして、八人の子どもたちは拳で誓った。
──ずっと、ともだち──
「やくそくだよ!」
エイミーは、この瞬間が忘れられないほどとてもしあわせだった。
「おう!」
ギルベルトは白い歯を豪快に見せる。
今までバラバラだった、全く個性の異なる子どもたちが、紆余曲折(うよきょくせつ)を経て互いを認め合い、一生の絆を誓って、笑顔を見せ合った──
彼らを観劇し、彼はひとり、胸の中の観客席でわくわくする。狂気の怪物と、ピュアな観客が隣り合い、過去最高に面白かった、過去最高に胸躍る、贄(にえ)と役者をそれぞれ観ている。
可愛らしい余興がようやく終わると、胸の中で無垢な拍手を送る。彼の中で開演ブザーが鳴る。やっと始まる──。極上たちを餌(え)に、夜の中に忍び寄る怪異のように、本編が刻々と間近に。
フフ──、仮面の裏も不敵に笑った。
「え、何八人で盛り上がってんの?」
存在感抜群とも言える彼を、「あ、いたの?」とすっかり忘れていたと笑って声を揃える。自然と輪をほどいて対峙する。彼は子どもたちひとりひとりをしっかりと見、心を込めて労った。
「ここまで本当によく来たね。マジで手はかかるし、個性を含めて色々なものに圧倒されたが、今まで私が見た子どもたちの中でも、実を言うと君たちが最も心動かされたグループだ。いちばん面白かった。その仲の良さも、惚れ惚れするほどに完敗だ。ここまでよく来た。ご褒美にハグを授与しよう」
腕を広げて迫ると半数に逃げられ、数少ない子を抱きしめる。そしてアクロバットをして最後の遊戯を説明する。
「さァァアアてえええ! ラストゲームは『キミのドリーム人生ゲーム』! ひとりずつ違う扉を開けて君たちには夢を見てもらう。どんな夢を見るのかはみんな違うよ? 内容は扉を開けてからのお楽しみだ! 無事、夢から覚めることができたらゲームコンプリート! 君たちの勝ちだあ!」
おおおおお! と歓喜する子どもたち。国というドデカい優勝景品に熱く沸き立つ。ピエロの目がたわみ、怪しく口を深める。
「制限時間は、無限」
「ムゲン?」
「終わらないってこと?」
至って軽快な感じで答える。
「ううん? 終わる終わる。夢は、いつかは覚めるものだ」
「よっしゃあああ! 絶対、全員で優勝するぞおおお! この国は、俺たちのモンだ!」
おおおおおお! と、彼以外の皆が大きな声を合わせた。それぞれの扉の前に行き、これからは別行動になるため、入る前に顔を見合わせる。
みんな落ちんなよ。何よ、あんたもね。
みんなおやすみ!
おやすみ! じゃあまたな!
「ピエロも入るだろ?」
エトワールが笑顔で聞き、とてもやさしい笑顔でピエロが答える。
「うん、お花を摘みに行ってからね」
笑声をこぼし、バタン──最後の扉が閉まる。日暮れまで思う存分遊んだあとみたいに、皆、ハウスの中へ。
……………………。
「どうか素敵な夢を、子どもたち」
キュ、ととんがり靴が明後日の方へ踏み出し、側面の扉を開けて後にする。尿意などまるでない。
暗い廊下。靴の音が悠々と刻み、男はくつくつと妖しく笑う。
「これからは大人の時間だ。お遊びのゲームは楽しかったかな? 本当の脱落ゲームは──これからだよ、子どもたち」
道中口笛を吹いて、映画館のロビーのような空間に入る。誰もいないオモチャ造りのお店に立ち寄り、あらかじめ用意していた偽ポップコーン+ドリンクのセットをカウンターからテイクする。
『キミのドリーム人生ゲーム──ここは、キミの夢が叶う場所』と、キャッチコピーまで描かれた映画ポスターを横切り、ホームサイズの上映場に入場し、一番前の特等席にどっかと座る。映画セットをセッティングし、脚を折って気ままにくつろぐ。
八人を分割して映す大型スクリーンを夢のように見上げる。その上に、子どもが描くような花の形をしたキュートなランプが壁に灯り、八枚の花弁が色とりどりに光っている。
──ずっと、待ち焦がれていた。今日を──この時を。奇跡を棚に上げ、劇場(ココ)では絶望さえ私の快楽(けらく)。今宵(こよい)は、どんなユメを私に見せてくれるのかな。
さあ、永遠の子どもたち。大人の欲望をぶちまけろ。
「生き残るのは、だーれだっ」
2
夢と現を彷徨(さまよ)うように、壁のランプがぼんやりと明滅(めいめつ)する、歪(いびつ)な薄暗い小径(しょうけい)を彼らは進む。遠くから調子っぱずれの汽笛が聞こえる。
「不気味ね……」
そしてどこからともなく、残響をたっぷり含んだ不思議な少年の声が路(みち)全体に響く。
〝ようこそ〟
「いやあ! なんだよ!」
〝ここは、キミの夢がなんでも叶う、ユメのせかい〟
その不思議な声は、進めば進むほど大きくなる。
〝さぁ早く、僕が叶えてあげよう。こちらにおいで〟
八人は俄然明るい部屋に出た。電車の車両の中を丸々オモチャにしたようで、壁に瞑目(めいもく)した人間たちのポップな浮き彫りがある。少年の姿はなく、代わりに洋風のエレベーターにも似た片開きドアが、正面に妙な存在感を放っている。ドアにゆるキャラみたくかわいい笑顔があり、ドアの頭上に車掌帽を被った色を示すメーターがある。
口を動かして車掌ドアが例の声で喋る。
〝キミの夢を、なんでも叶えてあげよう。ここにはキミと僕二人。遠慮はいらない。〟
どうやら不思議な声の正体はこのドアのようだ。
「うん!」
一人はすぐに喜んで信じ込み、ほとんどの子は訝しげに眉を顰(ひそ)める。
本当に? と、ルイスが訊いた。
〝本当さ〟
なんでもいいの? とエトワールが訊く。
〝もちろんさ。誰にも聞こえないよ。キミから見て、右側、僕の右耳に値するところにドアホンがある。それを押して、スピーカーに囁いてごらん〟
半信半疑、でも心臓はぞくぞくと欲望に高鳴って。スイッチを押すと実にオモチャらしいインターホンが鳴る。それに顔を近づけ、子どもたちは思い思いに囁いた。
「ともだち、いっぱいほしい」
「エイミーと付き合いたい」
「私はパプリカの女王よ! 新鮮界を耕して頂戴!」
「俺様を世界最強の男にしやがれ!」
「女の子にモッテモテのイケメン注文」
「会社を起業し、世界一有能な社長にしてください」
「エイミーを俺の女の子にしたい」
【OK!】
すると、返事をするようにお茶目なサウンドがスピーカーから返ってくる。メーターの下の電光掲示板に文字が流れ、女声アナウンスが流れる。
【あなたの夢を製造します(星)しばらくお待ち下さい】
がたんと地面が震動、がくんと体(たい)幹(かん)が傾いて急いで手すりに掴まった。唸るような機械音が箱中に湧き上がる。人間たちの目がかっと開いて、眼から伸びるレーザーを部屋中に上下させ、超科学で脳内から精神を分析する。メーターの針が苦労して右端に移動する。車掌の目が渦巻き状にぐるぐる回り、汽笛を奏してプシューと、扉の隙間から夢色の煙が溢(こぼ)れる。がたんごとんとフックが揺れる。
【あなたの夢を製造中です(星)しばらくお待ちください】
そのセリフを繰り返す。
「マジか……」
セシルだけでなく、子どもたちは呆気にとられる。
揺れの激しさを増し、特にドアは中で猛獣でも暴れているのか、上下左右に踊り狂う。
ポーン。エレベーターの到着音が流れた。一帯の動きは止まる。辺りの光は失せる。目は封印するように瞑る。ドアの輪郭をなぞるように、白い輝きが漏れている。
〝オーケイ! 準備は整った! キミの夢へ案内しよう。さぁ、僕の中へお入り〟
ドアが横向きに自動的に開き、白く輝く無限の世界が、姿を表す。
〝夢のような人生に、到着です──〟
3
はっと目を開けると、見知らぬ世界が広がっていた。クリーム色の地面の砂、抜けるように青い空、人工的な自然、点在する遊具──アビーは公園の中にいた。
愕然とした。すごい、本当に夢の中に来ちゃったんだ。白い雲も緑の陰影も本当に現実にいるかのようにリアルだ。賑やかな笑い声にはっとする。たくさんの人間の子どもたちが、周囲でグループをつくって楽しそうに遊んでいる。その光景がすごく新鮮でまたも愕く。怒られないのかな? 自分はぽつんと佇んでいて、ひとりぼっちだ。羨ましい……。やっぱり、夢なんか叶わなかったのね。
「アビー!」
胸が驚いて弾み、え、と思って顔を上げる。アビーに気づいた少女が何故か知っている名を呼び、続々と笑顔を弾けさせて子どもたちがジャングルジムやブランコから飛び降りて、押し寄せてくる。高学年や中学年、同じくらいの子に囲まれてひっと縮み上がり、勢いよく年上の少女がハグをしてきた。
「もう! やっときたのね! わたしと遊びましょう!」
ずるいと声が上がり、女の子に続いて多くの子どもたちが、あたしと遊ぼう! ダメ! 私と遊ぶの! 俺と遊ぼうと口々にアビーを奪い合う。
ぽかんと面食らって言葉が出ない。奪いっこしている。信じられない……半面、すごく嬉しく思いつつ、おずおずと声を引き出す。
「どうしてアビーの名前……知ってるの?」
そう言うと、みんなは一瞬目を見開いた後、口を大きく開けて愉快に笑った。
「アビーのことなら、みんな知ってるに決まってるわ」
「ここにいるみ~んなあなたのともだちよ?」
「みんなアビーが大好きなの!」
「ねぇねぇ遊ぼう遊ぼう」
彼らの目はきらきらと輝いて、本当に大好きなともだちを見る笑顔だった。うんとたくさんの子どもたちに親しまれ、愛され、同じ人間として必要とされている。こんなことをずっと、ずっと夢見ていた。
やっと──いや、またこんな気持ちになれるなんて。こんな、人気者になれるなんて。
じんじんと熱いものが胸に込み上げる。口角をそっと上げ、恥ずかしげに俯いた。
「みんなで遊ぼう……?」
「まぁ! アビーったら優しい!」
和やかな笑いに包まれて胸がいっぱいになる。
「何して遊ぶ?」
「かくれんぼ」
ほんのりと桃色に綻んでアビーが提案すると、全員がさんせーい! と元気に声を合わせる。早々鬼が決まり鬼の子が数え始め、仲間の子どもたちは笑声悲鳴を撒いてばらばらに散った。
「アビー、一緒に隠れよう!」
手を引っ張られ、最初に声をかけてくれた少女が眩しい笑顔を見せた。涙腺(るいせん)がつんと熱く軋(きし)む。
「うん!」
明るく、とびきりの笑顔を咲かせた。
空は青く澄み渡り、色とりどりの花が咲き乱れる美しい花畑にいた。訳わかんねぇと、しばらく彷徨っていると、
「ばぁ!」
後ろから脅かされた。
「うわぁっ!」
普通にいいリアクションをして、後ろを振り返る。
「なにす──」
心臓が飛び跳ねる。人生史上最高に焚(た)き付けられた、彼女の笑顔が圧倒的に咲いていた。声が萎(しぼ)んでいく。
「んだよ……エイミー……」
「セシル!」
彼女は相変わらず満開の花のような笑顔を絶やさない。花畑がよく似合う彼女は妖精のようにかわいい。自分を無邪気に見つめている。髪を掻いて目を逸らす。
どうしてここに……ってここは夢だ。じゃあこのエイミーは幻か? じゃあ、ニセモノ?
視線を彼女に戻す。
再び、心臓が割れそうになる。瞳も、笑顔も、雰囲気も、そっくり完璧につくられている。瞳の深淵を見入り、吸い込まれる。ラメを撒いたような、エメラルドのきらびやかな虹彩(こうさい)は彼女そのもので、作り物だと忘れるほどに綺麗だ。ホンモノではない。わかっている、それなのに……胸が焼けるようだ。
──たとえ、これがユメだったとしても、エイミーがほしい。
「エイミー……」
小雪のような手をそっと握って、その目を見つめて離さない。
「なあに?」
彼女はかわいらしく首を傾げた。その仕草ひとつで盲目にする、心臓をきゅっと締め付ける。
初めてその笑顔を見たときから、そうだった。一目惚れだった。ずっと隣にいてくれたら、その笑顔が自分のためにあったら、どんなに幸せだろう。彼女が笑うと、世界まで笑うのだ。自分も明るく照らしてくれる──小さな太陽のようで。ずっと、傍にいてほしい。
指を絡める。
「すきだ」
ずっと伝えたかったことを言い、目をまん丸と大きくさせ、瞬いた、そして花が咲いたように、彼女は当たり前のように笑い、当たり前ではないことを言った。
「エイミーも大好き!」
また、心臓が飛び出そうになった。ウソ……。夢じゃない? これは、ユメ──いや、現実だ。ユメなんかにしたくない。そうだ、このエイミーは、ホンモノだ。
「……本当に?」
「うん! エイミー、セシルの恋人さんに喜んでなる!」
絡めた指を、ぎゅっと無邪気に彼女の指が絡み、心が結ばれる。ハッと涙が出そうになって顔を隠して逸らした。本当に夢が叶った。エイミーと両想い。飛び上がるくらい嬉しい。
嫉妬し続けた、その笑顔が自分だけに向けられる。
「セシル、大好き!」
ぽろっと落ちそうになる涙に耐えながら、彼女に愛しく微笑む。
「俺も、大好き」
ころころと鈴を転がしたように笑い、その手を繋いだまま、瞳に魅入(みい)るままセシルが吸い込まれる。エイミーも彼に引き寄せられて、年端(としは)もゆかないカップルは、歴史上初めて交わされたような純粋なキスをした。
ニコラは跳ね起きて、「ここは?」と周囲を見渡し、別世界の情報を理解していく。
青い空……新鮮な空気、芽が痛くなるほどの眩しい太陽光!
急いで自分の身を見下ろせば、つるつると照り輝く魅惑の赤いボディ──なんと超絶新鮮なパプリカになっていた。
「え?」
頭に異物を感じて手をやるとティアラの感触、手の内にはフォークの棍棒を持っておりこれまた驚愕。周辺は鮮やかな彩りで繁茂(はんも)する野菜、さらさらの土を手をお椀(わん)にして掬(すく)い、栄養満点そうなそれに惚れ惚れとする。たくましい想像力で描いた自分の頭の中の通り、何もかも潤沢(じゅんたく)に揃っているではないか。彼女は勢いよく立ち上がる。そう、ここは──
「新鮮界!」
即座に振り返れば、凛々しくフォークを突き刺しているパプリカの女王の立派な石像が建っていて舞い上がる。先陣を切って王国を耕したため英雄扱いだ。
「まぁ! ベジタブル! あたしじゃない!」
腐った世界が新鮮界に耕されている! 自分の手によって! 夢が叶ってしまった! 彼女はぴょんぴょん飛び跳ねて大喜びする。
「僕のパプリカ! こんなところにいたんだね」
聞き覚えのない少年の声が後ろからした。まさかと思って振り返ると──。美しく輝く金髪に礼装姿の、これまた新鮮で見目麗(うるわ)しい、甘熟バナナの真のベジータ王子がいた。
「ベジータ様ぁ?」
「君は本当に自由な人だね。僕をまた独りにして。寂しかったじゃないか……」
ベジータに強く抱きしめられる。
「えぇ? そ、そんな、ベジータ様っ……」
「僕が悲しかった分、埋め合わせしてもらうから、覚悟しといて」
「はい……」
完全に妄想の世界である。
「さぁ、行こう。僕のパプリカ」
貴公子然と手を差し伸べた。
「はい。あなたとならどこへでも、パプリカは参りますわ……」
巨大な野菜の城に入り、連れて来られたのはベジータの部屋でもなく王室の高台(たかだい)だった。広大な地上で端から端までびっしりいるベジタブルたちが熱狂して、女王たちに手を振る。
パプリカ様ぁ! お美しい! パプリカ王女万歳!
蝶よ花よとちやほやされて、にんまりといい気分。ああ、まさに思い描いていた通り。フォークを前に突き刺し、命令を下した。
「私はパプリカの女王よ! 全ベジタブル! その実が朽ち果てるまで私に傅(かしず)きなさい!」
全員が跪いた。
『イエス! パプリカ!』
喉がクククとほくそ笑んだ後、例の高笑いをした。
ギルベルトは〝最強〟の象徴である王冠を冠り、ヒーローのようなマントを翻らせ、暗い道を抜けて出口の光に包まれる。圧倒的な規模のコロシアムが彼を出迎え、観覧席を覆い尽くす観衆が熱狂の声を上げる。
「すげえええええええええ!」
実況席の人間の男が熱く実況する。
「さぁ今日も始まります、キングギル主催! 王様キングダム! この世界の最強は一体誰だ? 強者(つわもの)曲者(くせもの)ヤバイ奴が勢揃い。今ア! 拳がぶつかるウウ!」
ギルベルトは気合いを入れるように、拳を左手でがっちりと握る。
「しゃあ! かかって来やがれ!」
屈強(くっきょう)な剣闘士たちが彼目掛けて襲い掛かる。にやりと笑い、土埃を巻いて飛んだ。
「オラオラオラァ!」
運動神経は遙かに上がり、拳の雨の隙間を縫って、自分より大きい男の腹を深く抉る。周辺に回し蹴りをお見舞いし、四方の敵を白亜(はくあ)まで蹴り飛ばした。そして神速で遠くにいた男の前に現れ、指を結んだ両の拳骨で殴り落とす。
「我らが最強キングギル、バッタバッタとなぎ倒します! 鬼のような強さ! 鉄拳がまるで踊っています! これはキングの独壇場(どくだんじょう)オオオ!」
暴力で屠り、野太い雄叫びを上げると歓声が一気に爆ぜる。ハリボテのように敵を倒しまくり、会場は興奮の坩堝(るつぼ)と化し、キングキングと大きな声援が飛び交う。
「強い! 最強はいつだって」
キーーング! と一体化して会場が叫ぶ。ギルベルトは汗を光らせ活き活きと躍動する。やられた剣闘士たちも、このゲームをとても楽しげに笑っている。誰も自分に敵う者なんていない、ぶん殴る爽快さが病みつきになる、この世界の最強になって細胞全土がパリピになって気分上々。
まさにゴリラのように猛り狂い、絶頂の喝采を一身に浴びる。
時刻は十一時四十分。絢爛豪華なダンスホールで、貴族の少年少女が舞踏会をしているその時。大階段を下る、優美な靴の音がホールに響いた。
娘の一人が顔を向けると、ほうっと赤面してため息を漏らす。
「なんてステキな殿方(とのがた)……」
一人の少年に続々と視線が束ねられ、恍惚とした吐息が幾重に重なる。
元々備えていた抜群のスタイル、西洋系の漆黒の瞳、ワイルドに決めたオールバック。純白のタキシードをルーズに着こなした絶世の美少年、ルイスが舞踏会に色気を振り撒いて現れる。
「やぁ、ステキな夜だね。僕の姫君」
キャラまで美化している事態だ。
耳が痛くなるほど黄色い声を上げて、相手そっちのけで少女たちがルイスを我先にと取り囲む。黄色い嵐の声に王子然とスかして返答。
「ステキ!」
「ありがとう」
「お名前は?」
「ルイス」
「ルイ様。わたくしと踊ってくださらない?」
かわいい女の子たちに取り合うようにダンスを誘われてモテモテだ。内心にやにやが止まらない。
外れで恥ずかしげにもじもじしていた一際美しい少女を見つけると、迷いなく堂々と突き進む。自然と道が開き、群衆を抜けて、彼女の前に現れた。目を丸くしている。ルイスは手を差し伸べた。
「僕と踊ってくれませんか?」
美少女の顔は驚きと真紅(しんく)に染まり、強張って内気に返事をした。
「はいっ! よ、喜んで……」
そこで豪華なワルツがかかり、二人だけの舞踏が始まる。
全視線は自分が独占し、女子は皆自分に見惚れている。ヤバイ、こんなこと、マジで叶うんだ! 自己(じこ)顕示(けんじ)欲(よく)がたっぷりと満たされ、感じたこともない気持ちいい優越に浸る。楽しすぎる、見た目がいいだけで人生薔薇色ではないか。
──なんだ、やっぱりイケメンの方が得じゃん!
下品にも内面はにやけつつ、表の顔は優美に笑った。
マルクスは業界のトップに君臨する〝エリート社長〟という肩書を手にし、大成功を収めていた。活気に満ちたオフィスで、嬉しそうな笑顔を浮かべている大勢の社員に押しかけられる。
「マルクス社長~! 大手柄ですねぇー」
早速出来のよさそうなスマートな社員が腰を折って、揉み手で媚びてくる。
「は? 誰だ君は」
「社長自らが発案、開発なされた最新型モバイルが空前の世界的大ヒット! 今や持っていない人間など赤子くらいでしょう!」
力強くぶんぶん握手をして、マルクスの偉業を社員は口々に崇(あが)め称(たた)える。
「な、なんだと?」
親の反対を押し切って起業し、めきめきと世界的な企業にまで成長したという自分の未来のサクセスストーリーを、現に叶ったこの世界で三十路が熱く語らい、普段命令してばかりの大の大人が遜(へりくだ)って夢のような賛辞を口にするではないか。自分は心地いいレザーチェアに収まって、羨望と尊敬の眼差しをシャワーのように浴びている。企業、社長、大成功──目の玉がゆっくりと天へ浮上する。
「夢が、叶っ……た」
感極まって、白目に覚醒し卒倒した。『社長おおおお!』
エトワールは天使になっていた。衣服は神聖な装束(しょうぞく)に変わっていて、純白の羽根が背中に生えている。目の前いる、同じく天使姿の赤毛の少女に、虹のかかった雲上の美しい花畑よりも陶然と見惚れる。
「天使だ……」
楽しそうに歌いながら花の冠を編み、頭に被った。この世で最も可憐な花の妖精がふと自分を見つけると、百千(ももち)の花が霞むほどの笑顔を咲かせた。
「エトワール!」
羽があるのに飛ばないで、自分の方へ一目散にかわいい絹みたいな足が駆け出す。はっと我に返って、無邪気な笑顔をぱあっと浮かべ、飛び込んでくる小さな体を受け止めた。
「エイミー!」
ぎゅうっと力いっぱい抱きしめる。甘い温もりに包まれる。ああ──しあわせだ。なんていいユメなんだろう。今にも昇天できる。二人の天使は無垢に笑い合う。
「ねぇ、ここはどこ?」
「ここはね、エイミーとエトワールしかいないよ。ふたりだけのせかいだよ!」
ふたりだけ──? 目をまあるく大きくした。ひとつ瞬く。
──そっか。邪魔がいないんだ。
薔薇の棘のように鋭く、内なる妖艶な彼が毒めいて笑う。
エトワールは無邪気に言った。
「そっか。君は永遠に僕のものだ」
純粋にとても嬉しい。
「うん! エイミーはエトワールのものだよ!」
その笑顔も、もう別の誰かに向けられることはなく、どっぷりと自分だけに注いでくれる。快楽の心地に酔い痴れる。
「大好き! エトワール」
今度は勢い余って、涙が出そうになるほどの甘い暴力的な衝撃が貫く。グッと華奢(きゃしゃ)な体を抱きしめた。睦言(むつごと)のように囁いて。
「俺も好き。大好きだよ、エイミー」
チェリーのように甘やかな髪の香りも、柔らかい肌の肉感も、すべてがその通りで、感覚がリアルを享受し、真実として彼女を歓迎する。
ここがユメだということをすっかり忘れて、夢に溺れる、子どもたち。
大スクリーンに上映される、色とりどりのコメディを笑顔で観賞するピエロ。
かの寝室に響く、オルゴールの歓びの音色が、とたん、悲しみに濡れる。
ゴーン、ゴーン──。
ピエロの顔を象った、泣き・笑いの柱時計の針は、チクタクと走って涙を指す。
嘆くような、鐘の重たい音色を繰り返して。
ゴーン──。
十数分しか経過していないのに、空は夕焼けに染まって、鴉(からす)が環を成して鳴いている。
アビーは友達と一緒に、広場から外れた茂みに隠れていた。友達といっても初対面のため言葉のボールを受け取っても、ボソッとひ弱に返し、緊張して会話があまり続かなかった。彼女たちは笑っていて居心地はよかったが、まだ見つ,かってもいないのにどこかへ行ってしまった。一向に自分は見つからないまま、ずっと息を潜めてここにいる。けれど、もう我慢の限界だ。独りぼっちで、こんなの寂しい。
そろそろと茂みから離れて、広場の様子を、木の幹を盾にするように覗き込む。アビーは目を丸くした。
友達だと言っていた全員が群がり、腹を抱え、大きな笑い声を合わせて盛り上がっていた。胸の奥がちくりと痛む。何を話しているかは聞こえない。かくれんぼはもう終わったのだろうか。なら言ってくれればよかったのに。
あの輪の中に入りたい。話しかけたら自分も歓迎してくれるだろう、さっきもすごく喜んでくれたし、笑顔で、少し不安だけど輪の方へ足を進める。そして彼らの言葉が耳に届く距離に来た時、笑顔はするりと抜け落ち、足は止まる。行くべきじゃなかったのだと、今更後悔した。しかしここに来て逃げだすなんて体が悪い。変なプライドが邪魔をして、足の芯は震えながら、おずおずと前進を取り戻す。彼らは下品に爆笑していた。
「せっかく面白い奴だと思って好意的に接したのに。陰キャとかマジないわー」
「わかる。私アイツと隠れてたのよ? 全ッ然喋んないし、喋っても囁くだけ。ねえ、私は介護士なわけ? そしてアンタはババァ?」
陽気な中心人物の女子がきゃぴきゃぴと笑い、より笑いの騒音に包まれる。
「地獄! 死ぬレベルでつまんなかったわ。脱走してきてせいかーい」
「ねー」
「どっちが鬼だよ!」
「身の丈が合わなければ、波長も合わない。結論。ぼっちはぼっちなのがお似合いである」
「何それ名言すぎー」
「あはははっ、かっわいそー!」
足音に気づいたのか、ぽつぽつと振り向いた。女子のグループがくすくすと笑う。
「やだぁ、アビーよ」
全員の視線がアビーに集まる。最初の時みたいな、最高の笑顔も、とびきりのハグもなく、みんなが浮かべているのは、ゲテモノを見るような残酷な嘲笑(ちょうしょう)だった。今にも震え出しそうに怯え切って、アビーは勇気を振り絞って声を引き出す。
「ねぇ……あそぼ?」
「いこー?」
陽気な少女を先導に、くすくすと笑って集団が通り過ぎる。
血の気が引いて、氷になったように固まった。急いで振り返る。
「ま、待って!」
少女が止まると、操り人形のように皆が止まった。
なに、と冷え切った流し目を向ける。胸の底までその冷気がかぎ爪のように届いた。
「どうして、仲間外れにするの……? ともだちって、言ったじゃん……」
少女はわざとらしくきょとんとする。
「トモダチ? アンタが? ないないないない! ちょっ……マジないんだけど!」
大口を開けて彼女が大笑いすると、同じように嘲笑の合唱が起きる。少女は急に爆笑を止め、笑顔を剣幕に変えて怒鳴った。
「私たちをアンタみたいな陰キャと一緒にすんじゃないわよ! このクソぼっち!」
頭を鈍器で殴られたような衝撃を受ける。激しく傷ついて、身動きも、言い返すことさえできない。
少女は背いて仲間を扇動(せんどう)する。
「ねぇみんなぁ。ぼっちはぼっち。私たちは私たちで、遊びましょう」
アビーを中心に置き捨てて、全域に広がってグループを作って遊び、愉快に歌い出す。
『勝ーってうれしい花いちもんめ』
『負けーてくやしい花いちもんめ』
『アビーはいらない花いちもんめ』
公園が、子どもたちの明るい声で再び賑わう。たった一人だけ、少女が操る世界に爪で弾かれ、捨てられた人形のように孤立する。
俯いて、目をひん剥き、無邪気な残酷な合唱が延々と繰り返され、脳内を覆い尽くす。恐怖に飲み込まれて、暴挙なまでの孤独に支配されていく。
アビーはくずおれた。
全員が輪になって手を繋ぎ、孤独の童女をぐるぐると囲い回る。
『かーごめかごめ。ぼっちをかごめ』
ぼっち、ぼっち、ぼっち──その言葉を何度も繰り返し、楽しく無邪気に嗤い、子どもたちはアビーで遊ぶ。みんなに、悪口に囲まれて、うずくまる。合唱に耳を塞ぐ。
うるさい。うるさい。うるさい。もうやめて。アビーをいじめないで。ひどい。どうして、こんなこと望んでいなかった。
何故、この世でもっとも恐ろしい、望まない現象が起きているのだ。
優しかったみんなは悪魔に化して、夢が叶い、天国のようだった世界は悪夢に取って変わる。
「いや……こんなのいやああああああ!」
今まで言われてきた言葉の暴力の雨を一身に浴び、何十本のナイフの切っ先が、心の皮膚に無邪気に何度も突き刺す。
泣き虫──根暗──つまんない。
「消えて! 消えて! 消えて! ともだちなんていらない! もういらない! だからもう、やめて……こんな世界、もういたくない! こんな世界なら、もういらない! アビーを悲しませるもの何もかもぜんぶ! ぜんぶ消えろ! 消えてよおおおおおおおお!」
激烈に悲しみの限りを腹の底から叫び、一粒の雫が、頬に零れ落ちたとき。
望みが叶う。
喧騒は忽然と失せた。世界の何もかもを取り払ったような、完全な静寂に包まれる。
「え……?」
顔を上げ、辺りを見回す。子どもたちの姿はない。それどころか、公園も、太陽も青い空すらそこには存在しない。
「え…………?」
暗黒──。
一条の光もなく、誰もいない、果てもない闇が永遠を以て広がっている。酸素はある、地面もある、ただ、見渡す限りが暗闇だ。
慄然と立ち上がり、ふらふらと覚束ない足取りで彷徨う。そして弾かれるように彼女は走った。ただひたすらに走った。
嘘だ、嘘だ、ねぇ、誰か冗談って言ってよ。そんな馬鹿なはずはない、そんなことが起こるはずがない。だってここはユメ、ゲームの世界だ、絶対にゴールはある。皮肉な快適な温度。冷や汗をびっしょりとかき、血眼になって奔走しても、スイッチも出口も見つからない。
つ、と立ち止まった。じわじわと、絶望的な感情が心の
「はは……夢が、叶った……」
夢のように荒唐無稽(こうとうむけい)に、圧倒的なまでの現実感を伴って、無限の空間が、たった一つの情報を、頭の柔らかい童女に教える。
「永遠に、ひとりぼっち……」
唯一存在する二つの灯が、暗黒を宿す。悟った。ここは、ひとりぼっちの世界──
無。
永遠の闇、永遠の孤独に、閉じ込められたのだ。それまで、止めていた涙がぼろぼろと溢れだす。自分を傷つける者は誰ひとりいない、冗談を言ってくれる大人もいない、「大好きだ」と言ってくれる友達もいない、完璧なまでの孤独。神が全力のブラックジョークで彼女の心を嬲(なぶ)り殺すために用意したような、凄まじい恐怖に苛まれる。
「パパ、ママぁ! 助けて! だれか助けて! 助けて!」
声は掠れて、大声で泣き叫んで、何度も助けを求めても助けはこない。誰もいない。ここから逃げようとも、足は竦んで動かない。顔を覆い、目を瞑っても闇で、目を開けても闇で、どこへ逃げようとも光がない限り、闇は永遠に彼女を抱きしめる。
光を宿す双眸(そうぼう)を、鮮やかな絶望が塗りつぶす。
ゆっくりと頭を振る。
──助けて。ピエロ。エイミー、みんな……。
少女の慟哭(どうこく)も、誰にも聞かれることはなく、死んだ世界に葬(ほうむ)り去られる。
己の不幸を嘆き、惨めに泣きじゃくるばかりで抗う素振りどころか見所もない。悲劇|一辺倒(いっぺんとう)。心も世界も暗黒の大停電。立ち向かう意思を見せていたら、光は射していたかも知れない。
逃げてもいい、逃げ道があるのなら。
逃げてはいけない、もう何も残っていないのなら。
世界が絶望の暗闇に満ちていようと、心の中の光は、消してはならない。
絶望を叫ぶ彼女を、ピエロは画面越しに打ち据え、評決を下す。
「戦え」
まあ。もう遅いがね。この停電は、心の故障により一生直らない。
──ピエロたちが見限った時、八弁の光が、一つ散った。アビーは脱落する。
ずっとこの時が、続けばいい──。
エイミーと寄り添って、一緒に花の冠を編んだり、時々唇を重ねて、すばらしく甘美な幸福に満たされたひとときを過ごしていた。
しかし、
「エイミー」
透きとおるような美しい声。驚いて振り向くと、余裕に微笑んでいるエトワールが立っていた。一瞬ものすごく顔を苦くした後、セシルも余裕たっぷりにしたりげに笑う。お前の好きな女はもう自分と付き合っている。
「エトワール~!」
だが、自分が聞いたこともない甘えた声で、おまけにとびきりの笑顔を見せつけて、投げるようにセシルの手をほっぽり、エイミーはエトワールに抱き着いた。
「は?」
ばっと立ち上がる。抱き返すエトワールは、エイミーの頭に乗ったセシルとの思い出を放り投げる。エイミーは平然と笑っている。ひどくショックを受け、あ然とする。
熱く見つめ合う二人は、心から愛し合っているカップルにしか見えない。
そして、顔を近づけ合い、自分の前でキスをした。
はっとして我に返る。怒りの炎がうねりを上げる。セシルは舌を打ち、怒声を飛ばした。
「エイミー!」
花々を蹴り、エイミーの腕を力ずくで奪い取る。
「こっち来いよ!」
やっ、と悲鳴を上げ、感情を素直に出す彼は怯える彼女を怒鳴る。
「なんでアイツとキスなんかしてんだよ! お前、俺が好きっつったろ?」
エイミーは斜めに俯く。
「なぁッ……!」
何も答えようとはしない。それが余計火に油をかける。
「エイミー!」
「やめろ!」
エトワールがエイミーを守るように胸に抱き寄せ、彼を鋭く睨む。
「エイミーは僕の彼女だ。君はただの友達だろ?」
「お前が見ていない間に意思|疎通(そつう)して成就(じょうじゅ)したんだよ! そいつにそうやって触れる権利は俺にある! 俺の女だ! 返せよ!」
「何言ってるんだ? なぜエイミーが好きでもない君に渡さなきゃならないんだ? 彼女が心底可哀想だ」
セシルは薄ら笑う。
「可哀想? 笑せんな。そいつは俺が好きだって、俺の恋人だって自分から言ったんだ! だろ? エイミー」
エイミーは、エトワールの胸に埋めて、こちらに見向きもせずに言った。
「エイミー。セシルよりも、エトワールの方が好き」
「は……? 今、なんて」
「聞いたろ。エイミーは、君のことなんか好きじゃないんだ」
「エトワールの方が優しいし、背が高くてカッコいいもん!」
背の高い彼を、彼女は恍惚とした笑顔で見上げる。
「ほらね。やっぱり君は、二番目なんだよ」
セシルは、見たこともない、彼女の蔑む顔を見た。
「セシルなんて大っ嫌い!」
「……!」
怒りさえ潰(つい)えるほど、ひどく傷ついた。呆然とし、二人は自分たちの世界に戻り、口づけを交わす。堂々と不倫を行う。それは自分がしたような愛らしいものではなく、熱く?み込まれていくような、そんな、ものだった。
「やめろ……やめてくれ……」
みるみると深く絡み合う、ふたりの不倫を傍観することしかできない。好きだった彼女に裏切られ、間近にあったはずの温もりは、違う男が貪り、奪われた。花々は一気に醜く枯れ果て、美しかったはずの世界は腐敗していく。後ずさり、力が入らず膝を折った。
「嘘、だったのかよ……?」
一筋の涙が頬を濡らす。エイミー、お前はそんな奴だったのか……? 結局顔なのか。やっぱりエトワールなのか。目の前の女は、節操(せっそう)もクソもない、軽蔑(けいべつ)罵倒(ばとう)に値するあばずれ女だ。
ふざけるな、お前なんか大っ嫌いだ、クソビッチと怒り叫んだ。濡れた罵詈雑言も届きもしない。平凡で、二人のように華やかな容姿もない自分は場違いで、どこまでもモブだ。セシルは地面を殴って項垂(うなだ)れる。歯の根を食いしばり、失恋の涙が溢れる。
「腹黒同士で、お似合いなカップルだな……」
負に満ちみちた焔(ほむら)に焼かれて、悪の華を睨むことしかできない。
男を無自覚に無慈悲なまでに魅惑する、彼女という魔性の花。
他の男といた方が幸せで、笑顔ならそれでいいと割り切る潔(いさぎよ)さ。大人でも難しい、未熟な少年ならもっともな、至難の愛だ。
また一つ、灯が消えた。セシルは脱落する。
「花を、背中で咲かすが男の華」
ニコラは玉座にふんぞり返り、額(ぬか)づく召使いたちを退屈そうに見下ろしている。
「パプリカ様。今王国は……王族の独占的な収穫により食料難に陥(おちい)っております。緑(りょく)黄色(おうしょく)野菜は収穫期に入りましたが……民衆にも恵んで頂けないでしょうか」
「は? インテリアに観賞用に食料にドレス用に髪飾りに、ただでさえ収穫が少なくて焦(じ)れてるってのに、あんた、この私に節約なんてさせるつもり?」
「で、ですが……!」
「ぜんぶ頂くけど、文句おあり?」
「そんなバナナ! 腐敗者が昨今(さっこん)後を絶たないのですぞ?」
「野菜の種でも植えれば? 殖やせばいいじゃない」
「それができればどんなにいいことか……」
「もう新鮮界は腐り始めていナス! パプリカ様、我々にどうか──」
「お黙り!」
怒鳴り、フォークの棍棒を地面に激しく突いた。
「今国があるのは誰のおかげ? 今収穫できるのは誰の活躍? この世でいちばん偉い女王は誰? 私でしょ?」
彼女は世界にもてはやされた結果、美しく可憐で、まるで世界を食うような暴君になっていた。
「で、ですが!」
「なぁに? 口答えはフォーク裂きよ。それとも、ミキサーにかけて野菜ジュースの方がよくて?」
「我々の命が危ないのですぞ! パプリカ様!」
「『イエス、パプリカ』でしょ? この無礼者! アンタたちの取り柄は食物を作ることで、自らが食料になれる野菜ってことよ! そこのアンタ、コイツらをミックスジュースにしてちょうだい! もちろん蜂蜜をかけてね?」
次の召使い。
「パプリカ様……世界規模で飢(き)きんが大変流行しております。どうか速やかなる処置を──」
「ねぇあんた。最近おやつの野菜スティックがなくて口が寂しいの。全員お菓子になりなさい」
と、とてもかわいい笑顔で言った。
今度は大勢が押し掛け、御前(ごぜん)で這いつくばる。
「首都も地方も、どこを歩いても腐敗臭が漂っています! 新鮮なのはお城ぐらいです」
「今にも世界は腐っていく一方なのですぞ!」
雨のような注文を聞き捨てた後、ため息を吐く。彼女は気怠げに口を開いて、こう言った。
「野菜がないなら、心臓(たね)を喰べればいいじゃない」
この暴言が端を発して、王国が団結して反逆が起きた。ベジータ王子まで敵に回り、ニコラは王冠を剥奪(はくだつ)され、牢獄に放られる。
まともな食料は与えられず、劣悪な衛生環境で、みるみるうちに実は醜く腐っていく。自分が作った新世界も、地位も、美しさも、なにもかも失った。
「ねえ誰かここから出して! ねえったら!」
涸(か)れ果てるほど涙を流し、やがて自分が虐げた奴隷と同じ腐敗者となり、脱落する。
「高慢ちきは破滅|種(だね)」
ギルベルトはイジメの王国に君臨する最恐の王様であり、闘技場の誰もが王様の支配下に属するいじめられっ子たちであった。ゲームと銘打(めいう)ったイジメに、剣闘士たちは暴力を泣き笑いで耐えていたが、ついに笑うのを止め、ただただ顔に涙を流す。一人の男の叫びがコロシアムに響き渡った。
「もうやめてくれ……俺たちをイジめないでくれぇ!」
その時、全ての声援が、会場の作り笑顔がウソをやめた。
観衆も、剣闘士も、ギルベルト以外全員が涙を流す。
急に会場が静けさに包まれ、彼は暴力を中断する。
「は? イジメ? これのどこが。みんな楽しんでんだろ?」
辺りを見渡す。右から左まで、会場にいる誰もが泣いていた。
「は? 何全員泣いてんだよ! ただのゲームだろ! お前ら大丈夫かよ!」
一部の客席からブーイングが飛び、「暴力反対!」とヤジが飛ぶ。どんどん数が大きくなり、次々と立ち上がり、〝暴力反対〟というプラカードを続々と掲げる。四方八方からブーイングとヤジの嵐が彼を囲う。さっきまで楽しそうにしていた奴らが居直ってきたため、狼狽(うろた)えて困惑した後、舌を打って逆上した。
「ああ? ざけんな!」
彼以外の全員が声を合わせる。
『イジメの王様反対!』
客席を乗り越え、足並みを揃え、人々は隊を成してデモ行進をする。王様反対、暴力反対と連呼する。伏した者を立ち上がらせ、舞台が小さくなるように中心のギルベルトに徐々に向かう。
焦りと共に彼は怒り狂い、言葉の暴力の嵐を浴びせ、真っ先に感情を先頭の者に拳でぶつける。ハリボテのように倒れ、商品のように後ろの者が詰めてすぐに埋まる。声を荒立ててもデモにかき消され、何をしても全く響かない。自分を恐れてくれない。
世界が敵になれば、まともに太刀打ちできなかった。
声は威勢を失くし、やがて黙る。ゆっくり、後ずさる。
無力。その二文字を悟ったとき、怒りは恐怖に塗りつぶされた。
とたんに自分が小人のようにちっぽけな存在に思え、周りが巨人に見えてくる。血の気がゆっくりと引いていき、顔面蒼白する。息の揃った巨人たちの強大な足音がどんどん迫ってくる。揺れがどんどん激しくなる。感じたこともない、される側の恐怖に、身体(からだ)はがたがたと震え始める。
彼は膝を屈した。落ち武者(むしゃ)の剣(つるぎ)のように王冠が地面にずれ落ちる。蹲り、小動物が身を守るようにして頭を抱え、泣き叫ぶ。
「頼むよ……頼むから、俺をイジめないでくれぇ!」
巨大な軍団の足音が耳元まで迫った時、本気で殺されると思い、一際号泣する。
精神が崩壊し、再起不能。ギルベルトは脱落する。
謝罪の王様になれば、少しはマシだったかもしれない。『暴力で世界のトップに立ちたい』など、そんなゴリラは端(はな)から御免(ごめん)だが。業の深い君は、特に痛みを以て魂に刻んだ方がいい。
人は人を傷つけた時、必ず出会うものがある──
「カウンター」
カーン、カーン──
十二時の鐘が鳴る。それは魔法(メイク)が溶ける時間。美しい王子は素顔に戻る。
「イヤァッ!」
ワルツに悲鳴が重なった。何事かと演奏は止む。ルイスと踊っていた少女は急に離れる。
「貴方どなた?」
輪舞(りんぶ)も中断し、ルイスは一身に注目を浴びる。少女たちは彼を見るや悲鳴を上げる。
「なんなの? あの不細工!」
「あれがルイ様なんて信じられない!」
「ずっと私たちを騙してたの? このウソつき!」
「そんなバカな! だって僕は──」
あ。顔を触った時、言葉が切れる。あんなに大きかったはずの目は、半分以上小さくなっていた。顔から火が噴(ふ)き出そうになる。
踊り手だった少女を急いで見る。
「イヤ! こっち見ないで!」
「ち、違う! これは違うんだ!」へらっと苦く笑う。「これはマジックさ。みんなを面白がらせるために……やったんだ、わかるだろ? ね?」
嘘を言い、さらに会場に気味がられる。ゲテモノを見るような目で見られ、避けられ、罵しられ、笑われ、逃げ出したいくらい恥ずかしい思いをする。醜い自分が心底嫌になる。心の底から激しく傷つき、顔を覆い隠して女々しくぺたんと座り込んだ。
勝手に言ってろよ。
そう堂々と笑顔で言い返せたら、不細工でも魅力的に見えるものだ。魅力は表情で出る。笑顔と自信。これほどの優れたブランドはない。
少年は一重を割り切ったが、二重の軽い憧れはまだ深層心理にあった。心は優しく美しく、抗う強さもあったが、容姿の誹謗(ひぼう)中傷(ちゅうしょう)で古傷(ふるきず)を抉り返し、弱さに繋がった。もっとも、虚言癖(きょげんへき)が脱落点だ。自信を削られ、せっかくの素顔も形無(かたな)しである。
「仮面の下こそ誇れよ乙女」
「申し訳ございませんでした!」
社員は深々と頭を下げる。
マルクスはレザーチェアにどっかり座り、書類をいらただしげにはたく。
「君は一ミクロンも僕の役に立たない。分かってるのか? 君のミス一つで僕の価値まで下がるんだ。完全な企業に能無しはいらない。君の代わりなんていくらでもいるんだ。君、クビね」
社員が丹念に作成した書類を乱暴に放り投げ、ひらひらとそれが地面に舞い落ちる。
「そんな……!」
「それ、拾って捨てとけよ」
いつも部下を冷酷に扱い、些細なミスでも「そんなこともできないのか」と嘲笑う。残業過多で売上は自分の利益を優先し、気に入らなければ容赦(ようしゃ)なくリストラを命ずるため、彼の機嫌を損なわないようにするのも仕事の内の一つだった。
裏では、社員の目は彼の瞳より冷たく、〝ブラック企業〟〝パワハラ社長〟と陰で囁かれ、オフィスは常にぴりぴりした空気に包まれていた。社員の意欲はどんどん下がり、売上は激減。立て続けに退職していき、労働者がいなければ経営は成り立たず、大赤字を背負った。莫大な借金を抱えたまま、ついに企業は倒産する。
「そんな……馬鹿な……」
気絶し、心配して寄ってくれる者は一人もいない。
「愛し、愛される」
天国──いつまでも蕩(とろ)け落ちるような体を抱きしめ、愛を囁く。彼女はくすくすと天使みたいに笑う。彼女が背伸びをして、可憐なキスをエトワールにした。
体が火を点けたように熱くなり、疼いた。
きらきらと可憐な上目遣いで、誘惑的に笑む瞳で、彼女は純潔を裏切ってお願いする。
「エトワールもして?」
──は……?
見たことのある色を彼女が宿し、稲妻に打たれたように驚愕する。かつてないピンとした主張に気づいて、思わず突き放そうとしたができなかった。体の悦(よろこ)びと同時に……ひどく、ショックだった。エトワールは顔を歪めた。汚物を見るような、激しい軽蔑を湛えて。
──穢(きたな)いよ、エイミー。
自分の知っている透明なあの子は、こんな色をした目で自分を見ない。
純真だったはずの彼女が、自分のせいで穢れてしまった。
別人のようなリアルな彼女を心が拒絶する、しかし、体はこの子を食べたくてしょうがないと涎(よだれ)を垂らしている。
絆(ほだ)されるように彼女の瞳に囚われ、自分を甘く苦しめるそれが、どんなに見ようと色欲なのだと思い知り、ずるずると失意に落ちていく。
──そんな……。
エイミーも、あの彼らと同じになってしまったのだ。
誰だ、君は。君はエイミーだ。僕の大好きなエイミーだ。永遠を誓ってもいいと思った人だ。
それなのに。
──穢らわしい。
〝まだ童貞なのか?〟
──穢らわしい。
〝付き合ってほしいの〟
──穢らわしい。
〝そんな人だとは思わなかった〟
──……やめてくれ。
見かけばかり愛され、色、恋愛は自分の心を照らすことはなかった。
自然と動物に癒しを求め、家に帰れば、耳を塞ぎ、逃げるように部屋へ戻る。孤独に支配され、家族と接することに嫌気を差し、誰もいない寝台の上で濡れていた。
「くだらない! 容姿がなんだってんだよ! お前のせいで俺の心は誰にも愛されない!」
全身を映す鏡を見ては自分を蹴り飛ばし、激昂した。そんな自分が虚しく、卑しく、崩れ落ち、濁った涙を流した。
「心を、抱いて……」
そして君に出会った。
「エトワール!」
誰も見つけることのできなかった洞窟を、あの子は一面に真っ白に照らした。
寂しい、冷たい僕の魂を、抱きしめてくれた。
やっと出会えたことが嬉しくて、涙が出るほど嬉しくて、僕は君に恋をした。
──やめてくれ、エイミー。
そんな彼女は、今、自分を誘惑している。
エイミー、やめてくれ。
背中に腕を回され、触れられた箇所が異常に熱を持つ、体が燃えるように熱い、この子が、ほしくてたまらない。
うっとりと自分を映す瞳は狂うほどに可憐で、淫靡な夢を歌っている。魅惑の双眸から逃げ、桃色の唇にくらりとし、柔らかそうな処女雪の肌に釘付けになる。
熱い吐息がかすかに漏れ、極上の皿に揺らぎかけるが、理性が絶叫を上げて食い止める。飴玉のように乾いた舌を転がしては処女の瑞々(みずみず)しい味を想像し、今にも柔肌(やわはだ)に牙を突き立てて、自由淫らに接吻(せっぷん)したい。痴態(ちたい)のメタルが五月蠅く、涎を飲み干して圧倒的な痴情(ちじょう)に悶える。
グッと目を瞑り、落ち着けるようにゆっくりと真剣に吐息を繰り返す。
心は清らかに、彼は彼女の瞳をまっすぐに見て言った。
「僕は。君を、穢したくない」
この子には綺麗なままでいてほしい。出会った時のような、透明なままで。
自分が犯すなど、冒涜(ぼうとく)に他ならない。
彼女を拒絶するなんて、胸が引き裂かれるようだが、振ることを決意する。
「ごめんね、エイミー」
ゆっくりと、その体を離す──そのときだった。
──本当に、それでいいの?
胸の中で、妖艶な、魔性の女神のような声が鮮やかに響き渡った。
本能を代弁する、母──ヴィオレッタの声だった。
エイミーは姿を消し、天国はかつての母の寝室に手品のごとく変わる。暗黒をベールに紅紫の照明が照らす、華の男女が咲き乱れる大きすぎる寝台を領する女王が、エトワールをまたぞろ誘(さそ)う。
「いらっしゃい、エトワール」
彼は激しく、瞠目した。
──記憶……?
客観的な夢を見るように、自分の実体も消え、九歳の幼いエトワールが血筋(ちすじ)で戯(たわむ)れる家族に怒り叫ぶ場面を観る。
「どうかしてるよ! 家族同士で、みんな……みんな……まるで色欲の奴隷だ!」
胸の底に淀んでいた本音を初めて吐き尽くした。
ふっふふ──沈黙を、美しい艶笑(えんしょう)が溶かし、ヴィオレッタが諭す。
「そうよ。私たちは色欲の奴隷。本能の信仰者──あなたもそうよ」
キャミソールは萎(しお)れ、華奢な肩(けん)甲骨(こうこつ)を露(あら)わに、姉の一人は無表情に流し目で、仰(の)け反(ぞ)った途中の体勢で、胸筋のはだけた兄の一人がうぶな弟を笑って見ている。
「人間は、獣に飼われた獣。私はあなたの裏を見抜いてる。あなたはまだ本当の姿になりきれていない、真の魅力を、鎖が邪魔をしてる飢えた孤(こ)狼(ろう)なの。本当のあなたを待ってる人がいる。私たち家族と、あなたの惑わす才能よ──もったいないわ──その鎖を放ったら、百獣の王も靴を舐め仰向(あおむ)けになる、その鋭い牙に突き立てられたら、一体どんなにすばらしく肉が喘いで麻痺させるのかしら。荒れ狂う淫らな肉欲で身体を揺さぶり、妄(みだ)りに狂わせ、心までしゃぶり尽くし、色欲の権化(ごんげ)として! 魑魅(にん)魍魎(げん)を餌(え)にする獣の王になれるのに!」
恍惚として語尾までエスカレートするように狂気を叫び、エトワールを失意の底に落とす。
──ほら見て、エトワール。とても綺麗ね。
……どう、して。
目の前にいるこの女は誰だ。僕の母親だ。最愛の家族だ。
主体は十一のエトワールに挿(す)げ替わり、かつて振り払ったヴィオレッタの腕が、ねろりと後ろから首元に絡みつく。艶笑が鼓膜(こまく)を愛撫(あいぶ)し、あの時、彼に言った見透かした妖艶な声が、再び耳元で囁く。
「ふふ、あなたのことだもの。好きになるのは純真な子でしょうね。誰が見ても魅力的で……可愛らしい子だわ」
鮮やかに赤髪のエイミーの笑顔が浮かぶ。
「でもその子には好きな人がいる。その二人はお似合いで、勝ち目がないと思うほど。負け戦(いくさ)だと知っていても、諦めることができないでいる」
「……!」
ひっきりなしに他の少年に抱き着いて、本当に幸せそうに笑うエイミーを、遠くから見ていた。
──仕事場で一目惚れをした、あの人が、他の女性と幸せそうに笑い合うのを、遠くから見ていた。
今までしてきたように科(しな)を作っても、あの人は彼女を横切った。
「自分には、振り向いてはくれない。自分のものに、なってはくれない」
そしてヴィオレッタは、瞳の色を変えて、獣になった。
「奪うの」
女体が男を組み敷き、拘束(こうそく)して、艶やかに笑った。
「私が、お前の父親を喰らったように」
何故と叫ぶ指には、銀色が光っていた。
「お前を、産んだように」
エトワールは過去と同じことを彼女に言う。
「で、でも! 結局父さんは母さんのものにはならなかった!」
「あなたがいるから寂しくないわ。私と、あの人との紲(きずな)のあなたに、夫(アナタ)がいるから」
彼女はよく似た美しい顔に、上気して恍惚を浮かべる。
この世界のまま、エイミーの実体が甦り、離しかけたエイミーは愛欲を浮かべて自分を見上げている。
「さあ、媚びるように焦らして見つめるの。そうしたらインスタントにはじまるわ」
彼は今動揺し、彼女に言う。
「人として、こんなの……」
「このままだと……とられてしまうわよ?」
亜麻色の髪の少年が脳裏に浮かぶ。
「や、やだ……!」
彼を本当に心から労わって言った。
「かわいそうなエトワール。今まで辛かったわね。あなたはもう苦しまなくていいの。ここで楽しめば、心は楽になるのよ」
洗脳的な愛に満ちた言葉が、天秤(てんびん)の傾きに拍車をかける。
「奪え」
力強く言葉が背中を押す。
「喰らいつけ」
獣の声が、眠れる獰猛な獣を呼び覚ます。
「喰、ラ、イ、ツ、ク、ノ」
魔性の悪女めいて艶に笑む彼女は、錯乱する何時(いつ)かの少年を、そっと白く慈悲(じひ)する。
──エトワール……。
リンゴの実は、リンゴの木から遠くには落ちない。でも、私たちは結局|齧(かじ)って堕ちる。私には、あなたの宿命が直感的に視(み)える。あなたが本当に幸せになるには、私たちと同じように……
冒涜するしか、ないのよ。
「もう。ひとりぼっちじゃ……ないから」
家族は消え、他に誰もいない世界で、少年少女は二人きりになる。ただ、暗黒の世界で、紅紫の照明が彼らに当たっていた
エトワールの儚く白い頬に、一筋の雫が流れた。少年は笑(え)んだ。己の宿命を俯瞰(ふかん)したかのような、悲しげな自嘲(じちょう)だった。
「血は、争えないんだね……母さん」
ゆっくりと目を瞑り、ゆっくりと、色の違う瞳が現れる。
色欲の悪魔が、暴力的な色気を振り撒いて、その目で彼女をとらえる。逃げないように強引に抱きしめて、新鮮な処女の香りを楽しんで吸い込む。
「ごめんね、エイミー」
獣が惚れ惚れとするような、天才的な男の剣力(けんりょく)を振りかざした。
ピ──リモコンのボタンを押して、ピエロは、観ているこっちが恥ずかしくなるくらいの音声を消音にして、一面モザイクをかける。鼻からため息を吐き、片肘で頬杖をついた。
「あきれた、ベジータ……」
寒くて暗い地獄で冒涜が行われ──エイミーは白い羽でばさりとエトワールを突き飛ばして立ち上がる。奪われ、嗚咽(おえつ)と罵りに満ちみちた形相で怒鳴る。
「もう二度とエイミーにさわらないで! エトワールなんて大っ嫌い! やっぱりセシルの方がいい!」
その言葉にハッと我に返る。
「エイミー! 待てよ!」
飛んで天に帰る彼女の背に手を伸ばすが、虚空を切る。翼は漆黒に変わり、悪魔と化して堕天した少年は、もう二度と彼女に会うことは叶わなかった。
永遠の人を失い、生きる意味を永遠に失う。ショックのあまり病み、エトワールは脱落した。
大画面に、色とりどりの悲劇の人生が上映されている。
ある者に、強烈な汚いものを見るように、変顔の域で顔を歪ませる。
ある者に、馬鹿にするような笑顔で、ないないと顔と手を振る。
全員に、黒幕の悪辣(あくらつ)で歪んだ笑みを、じわじわと強烈なまでに浮かべる。
愚かで、未熟で、救いようもなく哀れで、硝子のように脆い、ケダモノの本性を暴き、丸裸。
膝の上に頬杖をつき、ピエロは彼らをこう名付けて、噛むようにパロディを口にした。
〝七(なな)・つ・の・大(たい)・穢(あい)〟
「怯懦(きょうだ)・嫉妬(しっと)・強欲(ごうよく)・憤怒(ふんぬ)・欺瞞(ぎまん)・傲慢(ごうまん)・色欲(しきよく)」
腕を曲げ、とてもシンメトリーに言った。
「ぜんぶ、いーらないっ」
同時に別劇場で、スーツを着たメガネの異形頭(いぎょうあたま)が足を組み、嫌なものを観るようにロボが眉を顰め、退屈そうにトイが居眠りしている。多くの
ピエロはもたれかかって大儀(たいぎ)そうにマンネリの人生を観る。しかし、最後の子がいよいよターニングになると、急に怠惰(たいだ)な背を張った。その子の画面を一面に拡大し、興味津々に彼女を逸らすことなく見つめる。首をかしげ、子どものように問いかけた。
「君は、なぁにかなー?」
あの時。いたずらっ子のようにくすくすと笑い、歌う前のように息を吸って、その子は無邪気に囁いた。
「みんなと、ずっとずーっと、ともだちでいたいです!」
明るく清らかな青空の下で、エイミーは七人のみんなと楽しそうに笑っていた。
──ねえ。もし、キミの夢が叶って
しかし、陰鬱(いんうつ)な黒雲(こくうん)が唸りながら蒼穹(そうきゅう)を馳せて覆い、急に彼らの首が操り人形のように滑稽な音を立てて、かくんと落ちる。
──もし、その逆のことが起きたら
何者かに憑かれたように静止する彼らと、突然変わった不穏な雰囲気に胸が悲鳴を上げ、彼女は愕然と怯える。
──キミは、どうするの?
俯いているセシルが口を開く。
「お前、キモいんだよ」
「え……?」
エトワールが顔を上げ、続けて言う。
「分からないの? バカで、幼稚で、面白くもないのにいつもヘラヘラしててさ……気持ち悪いんだよ。君を見るとね」
嫌悪と蔑みを湛えた彼の顔に、彼女は目をみるみると剥く。顔を上げた他の子も同じように、彼女を侮蔑(ぶべつ)している。
「トマトのヘッタヘタだし、臭くて鼻が耐えられないわ」
「君がトモダチなんて、心底|恥辱(ちじょく)に苛まれる」
「相手すんのもめんどくせぇし」
「君といると疲れるんだよ」
「アビー、エイミーきらい」
ニコラ、マルクス、そして双子も、全員の口から、信じられないような愚痴が言葉を繋ぐように吐かれる。さっきまでのみんなとは全然違う、豹変した彼らにショックを受け、言い返す。
「なに言ってるの? みんな、エイミーのともだちだよ。ともだちだって、あの時みんなで言ったよ!」
そう言うと、彼らは口元を吊り上げてゲラゲラと哄笑した。
「トモダチ? そんなの嘘に決まってるだろ?」
「気持ちわりぃ」
「バカにも限度がある!」
「あんたなんか、ともだちでもなんでもないわ」
「みんな、お前が嫌いなんだよ」
裏切られたような言葉に激しく傷つく。ウソだ……信じたくない、そんなはずはない、怯えた足取りで、彼らの方へ足を進める。
「セシル……?」
彼の手を、そっと握ろうとするが、「触るんじゃねぇ!」と乱暴に打ち払われた。痛くて、傷ついた顔を浮かべて後ずさる。憎しみとさえ思えるほど彼に睨まれ、初めて虐待を受けた幼子のように彼を見つめる。
セシル……どうして……?
あの時のセシルは、どこに行っちゃったの?
ねぇ、みんな……どうして……?
「みんな、一体どうしたの? エイミーのこと、忘れちゃったの?」
一言も聞いていなかったかのように、ギルベルトはにやりと冷酷に嗤う。
「なぁみんな。こいつの泣き顔、見たくね?」
背筋が青白く凍る。
『異議なーし』
全員がゲタゲタと笑って賛同する。
肩を並べて、ニヤニヤと残酷な嘲笑を浮かべ、間合いを詰めてくる。
「セシル。ニコラ。マルクス。ルイス。ギルベルト。アビー。エトワール……?」
一歩、二歩、彼女は後ずさる。恐怖に膝が力を失って、無様に尻餅をついた。七人に囲われる。逃げ場はない。
エトワールが悪魔的に嗤って、美しい声を突き落とす。
「精々、泣けよ」
悲鳴が、陰鬱に満ちみちた世界につんざいた。
四方から引きちぎる勢いで赤髪を引っ張られ、体躯を蹴られ、叩かれ、不吉、きもい、笑うな──暴言の豪雨を浴びる。
「やだぁ! 痛い! やめてッ!」
エトワールの足が、アビーの手が、皆の手足が心も、体をも痛めつける。誰かが綺麗に編んでくれた髪は無惨に乱れる。
心と体がぼろぼろになるまで暴力は止み、その場に力なく倒れ伏した。嗤いの嵐が起きる。
心は血の涙を垂らし、悲しみと苦しみに満ちた湖に波紋を作る。
エイミーは虚ろな目で、深く失望する。
──うそつきだ。
痛いよ。ひどいよ。どうしてこんなひどいことするの。
エイミーが何をしたの。どうしてエイミーばかりいじめるの。
ミンナエイミーノコト嫌イニナッタ。
嘘つき嘘つき。嘘つき?つき?つきみんなの嘘つき。
信じてたのに。ともだちって、言ったのに。
「約束、したのに……」
みんな、人が変わってしまった。
これが……みんなの本当だったの?
──……いや、違う。
こんなの、おかしい。違う。間違ってる。
確かに、傷つけられたこともあった。でも、今は手を伸ばして、腕を回してくれる。
確かに、エイミーはバカだよ。そんな自分をしょうがないと笑ってくれる。
本当のみんなは、ここにはいない。いるはずがない。
「守るよ」
セシルの強い言葉が、心をたくましく抱いてくれた
「ずっと、ともだちだよ!」
あの時、みんなで笑顔で交わした約束が、すごく嬉しかった。
「エイミー!」
無邪気に名前を呼ぶ。それぞれ全く色の違う、だけど優しい彼らの目。
みんなと繋がった手は、大きくて、小さくて、熱くて、不器用で、それぞれ違かったけれど、あの温もりがぜんぶ大好きになった。
自分に向けてくれた、弾けるような笑顔、言葉。
あれは、嘘なんかじゃない。
セシル。ニコラ。マルクス。ルイス。ギルベルト。アビー。エトワール。
みんなを考えただけで、あの笑顔を思っただけで、胸がぽかぽかと温かくなる。それだけでわかる。
みんなが大好きだ。そしてみんなも、自分が大好きなんだ。
みんなは嘘つきなんかじゃない。
みんなの笑顔も言葉も、ぜんぶ本物だ。
あの時、拳を突き合わせて笑い合った。だって、自分たちは、
──ずっと、ともだちだ。
軋む上体を徐(おもむろ)に起こし、顔を上げる。嗤う人たちの、一人一人の顔を見つめる。顔も声もそのまま、本物そっくりに嗤っている。
「ちがう……」
怒りが、ふつふつと、そして轟轟(ごうごう)と、激しく胃の腑(ふ)を焼き尽くす。小さな拳を、ギュッと握りしめる。
「あ? オラ泣けよ」
ギルベルトに蹴りを腹に入れられ、うっと冷たい地面に這いつくばる。また嗤い声が上がる。拳は固く結んだまま、勢いよく地面を蹴り、むっくと立ち上がる。
エイミーは、戦う。
睨みつけ、怒りを滾らせる腹の底から湧き上がるように雄叫びを上げ、嗤っている彼らを一人残らず全力で体当たりする。悲鳴が重なり、呻きを上げ、全員が突き飛ばされる。
三角巾は取れ、乱れてもなお美しい長い赤髪は下ろされている。その瞳は濡れているが、決して涙を落とさず偽者(にせもの)を射抜き、凛々しく言い放った。
「お前は、誰だ?」
全員は目を剥いてエイミーを見上げる。彼女は凛とした口調で続ける。
「エイミーはエイミーだ。エイミーの知るみんなが、こんなことするはずがない! もう騙されない! 嘘つきなのはお前だ! お前たちは──ニセモノだ!」
驚愕から返り、ギルベルトが舌を打って激昂する。
「天下無双の、ギルベルト様だよ!」
飛び掛かり髪をまた引っ張ってきたが、髪を引っ張り返す。
「イッ! 離しやがれ!」
「離さない! みんなを返してくれるまで離さない! みんなをどこにやった? エイミーのともだちを返せ!」
「お前にダチなんていねぇんだよ!」
「お前はッ……友達になろうってエイミーに笑ってくれた! 大好きと言ってくれた仲間がいる! お前はニセモノだ!」
「テメェなんか誰も愛さねェ! 俺たちはテメェなんか大ッ嫌(キレ)ェなんだよ! ぜんぶ嘘だ!」
「嘘なんかじゃない! 嘘つきなのはお前の方だ!」
「ガチできめぇんだよ! お前ら早くやれ!」
大柄のギルベルトと唾(つば)を散らして怒鳴り合い、口を開けて傍観していた仲間は我に返って数人がかりでエイミーを強引に引き剥す。暴れ回る彼女を暴力で平伏せ、地面が彼女の熱い頬を抉って冷やす。
「エイミーは負けない……エイミーはあきらめない」
白い肌は痛々しい傷に塗れ、痛みに悲鳴を上げる体を呵責して、よろよろと立ち上がる。
「エイミーはいじめられっ子……守られっ子だ。でも、今は守りたいものがある。戦わなきゃいけないんだ。それが、大好きな姿をした人たちであっても!」
その目を打ち据え、全身全霊をかけて怒りの咆哮を上げ、彼らに踊りかかる。
地面に投げ飛ばされ、達磨(だるま)のように立ち上がる。取っ組み合い、蹴とばされ、起き上がって押し倒す。セシルに殴られ、躊躇(ためら)う悲しみを怒りに代えて大好きな顔を殴る。どんなに痛くても耐えられる。大好きなみんなのためなら、大好きな姿をした人たちに立ち向かえる。
現実では決して起こることのない、集団と少女が入り乱れ、醜く、凄惨に暴力の祭りを繰り広げる。
野獣のように揉み合い、敵の一人が興奮のあまり仲間に過って暴行し、仲間同士で縺(もつ)れ合い、彼らの勢いは崩れていく。全身に怪我を負う激しい乱闘の末、一人で皆を突き飛ばした。彼らは肩で息をし、苦痛の面相で自分を見上げている。
エイミーは荒んだ呼吸を整え、鋭く見下ろし、怒気に満ちた低い声で言い放つ。
「お前は、誰だ?」
セシルが一瞬怯み、罵詈を言い返そうと血相(けっそう)を変えるが、エイミーが射殺すように睨み、ひっと喉に引っ込ませる。
怒れる英傑のような彼女の圧倒的な圧迫感に、誰もが怯む。セシルがきらりと涙を落とし、蒼白して、やっと言い返した。
「お前こそ……誰だよ」
エイミーが喉を引き絞る。
「返せ……」
全員が青ざめ、恐怖を顔に塗る。
「返せ……」
ぶるぶるとアビーが涙を流す。
エイミーの脳裏に、みんなの笑顔が浮かび、涙を光らせて怒り叫ぶ。
「エイミーのともだちを────返せよオオオオオオオオオオオ!」
彼らは完全に怖気づいた。
「い、行くぞ!」
背を向けてギルベルトを先頭に走り去り、闇に消える。
辺り一面、今や暗黒に包まれた空間の中で、彼女は闇と化した彼らを美しく射続ける。
ただ一人生き残った王者のように。
一弁だけ、赤く灯り続けている。
「…………」
画面一面に凛々しく佇む少女を、ピエロは石にされたように瞠目して見続ける。
仮面の下で、涙がひとつこぼれ、号泣の勢いでそれはあふれ出す。凄まじい感動に打たれたまま、ゆっくりと仮面を取り、網膜(もうまく)に少女の姿を焼き付ける。そして、「ハッ」と笑いの息を零し──
「ブラボー!」
勢いよく立ち上がり、拍手喝采を送った。
ロボは右目を○、左目を×にして、異形頭は顔を両手で挟み、インテリジェントトイ一同の頭に「?」の文字が見えるほど、分かりやすく滑稽なまでに驚愕の稲妻が走る。目を剥いていくロボは、突然顔画面に涙を流し、項垂れ、悲劇的に顔を覆い隠した。
そして一同がビジネスライクに一斉に立ち、出口へ続々と退場していく。最後のロボは振り返って、少女を尻目に悲しんで、罪悪感を残して出ていった。
光の粒が、少し遠くの闇の上方できらきらと浮いて現れて、光の階段を形作った。
その先には扉が待っている。
きっと、あの扉を開ければ本物のみんながいるはずだ。エイミーは希望を灯して強かに笑う。
「みんな、待っててね!」
光り輝く階段を、エイミーは駆け上がる。
ピエロは爆笑し、その子を大画面に魅入られるように捉え、仮面の下は狂喜の笑みを象った。
「みーつっけた」
少女は扉を開け放つ。視界全体が、白い光の洪水に満ちる──
悠揚に腕を大きく広げ、ピエロは終止符を打った。
「ゲームセット」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます