二六章 富士山は……神奈川のものだ!

 「どういうことよお、一体⁉」

 そんな、脳天を突き抜けるようなキンキン声と共に部屋に飛び込んできた人物。それは、三〇代後半とおぼしき女性だった。一目で『中学時代のお古』とわかる名札の付いた古いジャージを身にまとい、色気のかけらもない実用一点張りのメガネをかけている。

 髪もボサボサでろくに手入れしていないのは一目瞭然。体型のほどはジャージを着ているのでわからないが、ぷっくりふくらんだ頬を見ればおおよその察しはつく。

 総じて典型的な『女ヲタ』と言った印象で、色気とかリア充とか言った言葉からはこの世でもっとも縁遠い生き物であることが知れる。

 「だ、誰……⁉」

 あまりの勢いにさくらが驚いて尋ねた。

 森也しんやは『いつものこと』と言わんばかりの態度で答えた。

 「紫条しじょうトウノ。赤岩あかいわの『海賊ヴァン!』と並ぶ人気作、『最弱女勇者のよろいに転生したおれの意外と真面目な退魔録たいまろく」、略して『よろてん』の作者だ」

 「……タイトル、長い」

 いまどきはそんなもんだ、と、そう答えておいてから森也は説明をつづけた。

 「おれや赤岩の先輩に当たる人でな。デビュー当時はアシスタントとして使ってもらったり、奢ってもらったりと色々、世話になった」

 実はまだ三〇を過ぎたばかりなのだが身なりにかまわないヲタ気質のせいで歳より五歳以上、老けて見える。

 「へえ。じゃあ、恩人ってこと?」

 「……まあ、そういうことになるんだが」

 なるんだが……と、森也は言葉を濁した。

 森也がこんな風に言い淀むのはめずらしい。その返事でさくらは、かの人が『恩人』と呼ぶには微妙な人物であることを察した。

 その微妙な人物は森也とあきらを見つけるとキンキン声で叫び倒した。

 「あーくん、あーちゃん! 何でこんな面白いことにあたしを呼んでくれないのよ⁉」

 その叫びに――。

 森也はジロリ、と、あきらを見た。

 「……呼ばなかったのか?」

 あきらは憤然と胸を張って答えた。

 「当たり前だろう。なぜ、我が天敵を呼ばなければならん」

 「天敵とはなによ、天敵とは⁉」

 「天敵だろう。互いの生まれた土地によって定められし宿命だ」

 「……ねえ」と、ふたりのやり取りを聞いていたさくらが森也にそっと尋ねた。

 「あの人、あきらさんにとっても先輩で恩人なんでしょう? なのに、ずいぶんな態度じゃない?」

 ああ、と、森也は答えた。

 「トウノ姐さんは堅苦しいのがきらいだそうでな。変に先輩扱いしたりすると怒るんでな。昔からずっとあの調子だ」

 「ああ」と、さくらは納得した。

 たしかにそう言うタイプもときにはいる。

 「それに」と、森也は付け加えた。

 「あのふたりの場合、たしかに『宿命』と呼ばれる争いがあるしな」

 「宿命?」

 さくらは思い掛けない言葉にキョトンとした。

 トウノは忌々しげに声を張りあげる。

 「ああ、もう! ほんとに陰険なんだから。この富士山泥棒!」

 「誰が富士山泥棒だ!」

 「泥棒でしょ! うちの富士山を自分たちのものみたいに言うんだから」

 「我らが富士山がいつからお前のものになった⁉」

 ふたりは口角泡を飛ばしてギャンギャン言い合う。

 困ったのはその場に集まった『ソーシャルコミック』の連載陣。放っておいてはまずいとは思うのだが、何しろこのふたりは『ソーシャルコミック』内においてダントツ人気で一位を争う看板作家。看板作家同士の言い合いに有象無象の下っ端連中が口を出せるはずもなく、遠巻きにしながらオロオロするばかり。止められるとすればふたりと関係の深い森也だけなのだが、その森也には他人の喧嘩をわざわざ止めるつもりがない。

 その森也に盛んにマウントを取っていた兼人勝利もふたりの争いには関わる気がないようだ。と言うか、はっきりと逃げている。格下相手にマウントを取りたがる人間の常として自分より上位者相手には逆らえない。トウノがきたときから押し黙り、コソコソと他のみんなの後ろに隠れている。

 隠れるぐらいならいっそ帰ってしまえばいいと思うのだが、そこまでの思い切りもつかないらしい。そんなところが、

 ――なんか小物っぽい。

 と、さくらに思わせるのだった。

 とは言え、そのさくらも兼人のことなど気にしている場合ではなかった。

 森也に尋ねる。

 「なんで、いきなり富士山が出てくるの?」

 「……そこが、宿命の争いというやつだ。赤岩は山梨出身、トウノ姐さんは静岡出身なんだ」

 ああ、と、さくらは納得顔でうなずいた。

 「山梨静岡対決ってやつね。聞いたことある。テレビのネタかと思ってたら本当にあるんだ」

 「当たり前です!」

 やたら勢い込んでそう叫んだのは香坂空。

 あきらのいとこ、つまり山梨出身と言うことで黙っていられないらしい。

 「富士山は山梨から見た方が圧倒的にきれいです! だから、富士山は山梨のものに決まってます」

 「は、はあ……」

 さくらは空の勢いに押されてそうとしか言えなかった。

 こんなかわいらしい美少女然とした女性までもがこんなにエキサイトしてしまうとは。

 ――もしかして、とんでもない修羅場に巻き込まれてる?

 富士山論争の根深さを知らないなりに不吉なものを感じるさくらだった。

 その間にもトウノとあきら、二大人気作家のまわりの迷惑を顧みない言い争いはつづいている。

 「富士山は静岡のものよ! 『富士山記』にも『日本霊異記』にもはっきりと『富士山は駿河国のもの』つまり『静岡のもの』って書いてあるんだから」

 「それがどうした。日本国発行の札の裏を見たことがないのか。札に印刷されるのは常に山梨側から見た富士山。これぞ国が『富士山は山梨のもの』と認めた証拠」

 双方一歩もゆずらずの言い合い、にらみ合い。

 互いの視線が空中でぶつかりあい、帯電し、稲妻が発生している。

 まわりの連載陣は突然の対決に巻き込まれ、帰るにかえれずオロオロするばかり。その視線はいまや森也に集中している。

 ――なんとかしてくれ!

 泣きそうな視線でそう懇願してくる。

 このふたりの争いをとめられるのは森也だけ。

 そうと知るからこその必死の視線。

 ――仕方がない。

 森也はそう言いたげに溜め息をつくと、立ちあがった。

 それだけで、まわりの連載陣から安堵の息が漏れる。

 森也はふたりに近づいた。表面ばかりは諭すように、しかしその実、面倒臭そうに声をかける。

 「いい加減にしろ。人気ツートップのお前たちがやり合ったら他の連載陣が迷惑するだろう」

 「黙れ! 他人の迷惑なぞ知ったことか!」

 「そうよ! この命題の前には他人の迷惑なんて関係ないわ」

 あきらとトウノは異口同音に叫ぶ。

 よく考えるとかなりどいことを言っているのだが、すっかり頭に血がのぼっているふたりはそんなことに気が付かないらしい。

 「それより!」と、ふたりの声が見事にそろった。

 「藍条あいじょう! 貴様はどっちだと思ってるんだ、富士山は山梨のものか、静岡のものか⁉」

 「そうよ、あーくんはどっちに味方するの!」

 「答えろ!」

 「答えて!」

 ふたりはそろって詰め寄る。

 男ひとりに女ふたり。内容はまったくちがうが外見だけ見ればれっきとした男女の修羅場。さくらは口出しするわけにも行かず、距離を取って眺めているしか出来なかった。

 ――なんか、下手な修羅場しゅらばよりすごいことになってる気がする。

 以前、二股かけていたお調子者の男子がふたりの彼女から同時に詰め寄られているのを見たことがある。あのときよりさらにすごい緊迫感。唯一の救いと言えば修羅場に巻き込まれたはずの森也がうろたえる様子ひとつ見せずに堂々としていることか。

 ――でも、どうやっても納まらない気がするんだけど。

 富士山論争のことなどほとんど知らないさくらでさえそう思う。

 それぐらい、あきらとトウノ、ふたりの間の緊張感はすさまじい。しかし、森也はそんなふたりの前で堂々と言ってけた。

 「いいだろう。それでは、この地球進化史上最強の知性、藍条森也が決めてやろう。果たして、富士山は誰のものか」

 「おお、望むところだ!」

 「言ってやって、あーくん!」

 「富士山は……」

 「富士山は!」

 森也の言葉にあきらとトウノ、ふたりがまたも見事に声をそろえて詰め寄った。ふたりだけではなく、その場にいる全員が息を呑んで森也の次の言葉をまった。とくに、『ソーシャルコミック』連載陣は切実だった。

 森也の一言によって雲の上の存在の人気マンガ家ふたりの対立に終止符を打たれるか、それとも、さらに激しくなるか、それが決まるのだ。

 どちらに味方してももう一方が納まるわけがない。

 それを知っているだけに見守る側の緊張感もいや増していく。

 果たして、自称・地球進化史上最強の知性、藍条森也はいかなる答えを示すのか。

 その場にいる全員が息を呑んで見つめるなか、森也はついに答えを告げた。

 「富士山は……神奈川のものだ!」

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