第五話 富士幕府誕生!
二五章 ……別にざまぁする気はないんだが
「どういうことだ⁉ うちの連載作家どもが全員、よそに移っただとお⁉」
『ソーシャルコミック』編集長・
昼下がりのオフィス、『ソーシャルコミック』編集部でのことだった。
「誰が説明しろ! どういうことだ、一体、何が起こったんだ!」
灰谷は目を血走らせ、口から泡を吹いて叫ぶ。しかし――。
その言葉に反応しようとするものはいなかった。仮にも編集長が怒鳴り散らし、説明を求めているというのに誰も相手にせず、自分の仕事に没頭している。その反応だけでたいていの人間なら自分の立場を察することだろう。しかし、完全に頭に血がのぼっている灰谷はそんなこともわからない。
『編集長』という自分の立場はかわっていない。
そう思い込み、怒鳴りつづける。
「おい、聞こえないのか⁉ 編集長が聞いてるんだぞ、誰か答えろ!」
叫ぶ、
叫ぶ、
叫びつづける。
しかし、反応するものはひとりもいない。
その場にいる全員、灰谷のことを完全に無視し、黙々と自分の仕事に没頭している。
その編集部員たちの姿に、灰谷はその場にあるはずのないものを見ていた。
それは亀裂。
自分と編集部員たちを隔てる、決して飛び越すことの出来ない深いふかい亀裂だった。
灰谷はまさにいま、オフィスのなかにいながら深い亀裂に囲まれた孤島にひとり、立ち尽くしていた。
「見苦しいわね」
はじめて灰谷相手に声がかけられた。
それは紛れもなく相手を嘲り、負け犬とあざ笑う声。しかし、灰谷はそんなことにも気が付かない。
やっと、自分に反応するやつがいた。
そう思い、声のした方をみた。その途端――。
灰谷の表情が引きつった。
そこにいたのは三〇代半ばと思われるメガネにビジネススーツという格好の、いかにもやり手キャリアウーマンという印象の女性だった。服装も、立ち居振る舞いも、いかにも洗練されていて一分の隙もない。それはファッションモデルの完成度と言うよりも、試合前の格闘家の緊張感と言った方がいいものだった。
藍条森也と赤岩あきらの初代担当にして現『ソーシャルコミック』副編集長。つまり、灰谷の直接の部下と言うことになる。しかし――。
光子を見て明らかに気圧されている灰谷と、その灰谷を
「まったく、馬鹿な真似をしたものね。よりによって
「な、なに……?」
「もともと、出来がいいとは思っていなかったけどね。さすがにそこまでおバカだとは思っていなかったわ」
「あ、あいつは、藍条は売れないマンガ家だった! そいつを追放してなにか悪い⁉ おれは編集長として当たり前の判断をしただけだ!」
「目に見える数字しか理解せず、目に見えない部分を大事にしないから、こういうことになるのよ。藍条こそが『ソーシャルコミック』連載陣を支える頭脳だったことも理解していなかったなんてね。上の方も、そんな無能にはうんざりだそうよ」
「む、無能だと⁉ 部下のくせに上司に向かって無能とはなんだ、無能とは⁉ そんなことを言うやつは一生、日の目を見せてやらんぞ!」
灰谷はほとんどパニックに陥って唾を飛ばしながらわめき散らす。そんな灰谷を光子はますすま余裕たっぷりの表情で見下ろしている。
「そうね。たしかに上司相手に『無能』呼ばわりしたら、窓際でしょうね。『上司』相手に言ったならね」
「な、なに……?」
さすがに興奮しきっている灰谷も光子のその台詞に込められている意味は察した。察しはしたが認めたくない。いや、認めるだけの勇気も度胸もなかった。だから、あえて無視した。しかし、もちろん、光子は無視などさせてくれなかった。一枚の書類を取り出した。それは会社からの辞令書だった。
「はい、この通り。今日からわたしが『ソーシャルコミック』の編集長。あんたはもう用済みってわけ」
「な、なんだと……?」
一瞬の自失のあと、灰谷は再び叫んだ。
「ふざけるな! おれがお前の部下になるって言うのか⁉ ふざけるな、そんなことがあってたまるか! おれは、おれは男で、お前は女! 年齢だって、キャリアだっておれの方が上なんだ! それなのに……」
いまどき確実に『セクハラ!』の一言で断罪されるだろう台詞を口にして灰谷は叫ぶ。いくら灰谷でも普段であれば『そんなことを言ってはまずい』ぐらいのことはわきまえている。編集長としては能なしであっても、自己防衛本能だけは発達している。だからこそ、社内の勢力争いのなかを器用に泳ぎ回り、『編集長』の地位を手に入れたのだ。その灰谷にしてこんな致命傷となりかねない台詞を叫ぶ。それだけ追い詰められていた。
そんな灰谷に光子はさらに非情な現実を告げる。
「馬鹿言わないで。あんたみたいな無能を部下にもつなんてゴメンよ。あんたは今日を限りにクビ、解雇。連載作家の一斉流出を招き、会社に多大な損害を与えたと言うことでね」
「な、ななな……」
灰谷はもはや言葉も出せない。あまりの衝撃に全身が引きつり、ピクピク震えている。
光子はズイッと前に進み出た。編集長のデスクについたままの灰谷を押しのけた。こう見えて趣味はプロレス観戦、筋トレは欠かさないと言われる女傑。運動不足と不摂生でガリガリの男ひとりを押しのけるぐらいわけはない。
そして、光子は当然のように編集長の椅子に座った。まるで、何年も前から自分のものであったかのような態度で。
編集部員のひとりが自分の席からはなれた。編集長のデスクに向かってくる。脇に追いやられた灰谷の存在をあからさまに無視して光子に向かって言った。
「よろしいですか、金城編集長」
「ええ、どうぞ」
笑顔で部下を迎える編集長の脇で――。
灰谷は自分がすべてを失ったことを知った。
「灰谷さん、編集長を解任されたそうですよ。そけどころか、会社自体、クビになったそうです」
「わっはっはっ、愉快、愉快! これぞまさに王道のざまぁ展開。なあ、藍条。いい気味だな」
扇子片手に高笑いするのは
「……べつに灰谷に恨みがあるわけではないし、ざまぁ展開が好きなわけでもないんだが」
「何を言っている。お前を追放した愚か者だぞ。笑ってやるのが運命の神への礼儀というものだ」
「そうです! 森也先輩がどんなに連載作家の皆さんのお役に立っていたかも知らずに追放するなんて。クビになって当然です!」
あきらにつづき、やたら熱心に主張したのは
さすがに『現役JK』という無敵ブランドがなくなってからは世間の注目も落ち着いたが、いまだに美人女子大生空手家(兼マンガ家)として一部のマニアの間で絶大な人気を誇っている。
「しかし、灰谷にだって養っていかなきゃいけない家族がいるわけだし。何か、フォローしといてやるかな」
「もう。森也先輩、優しすぎます」
と、空がチョコンと小突いてみせる。と言うか、本人は『チョコン』のつもりなのだが、そこは何と言っても空手全国大会優勝常連者の突き。小突かれた側は『ドスン!』ぐらいには衝撃を感じる。
――な、なんか、すごい仲よさそうなんだけど。
森也に連れられて同席しているさくらが目をパチクリさせた。
例え『ドスン!』であっても、小突き方自体は『女の子のかわいらしい愛情表現』といった感じで、先輩後輩という枠を越えた親しさを感じる。むしろ、ラブコメマンガによくある幼なじみ枠という印象。
森也は顔をしかめた。と言っても、『突かれて痛かった』というわけではない。そんなことにはとっくに慣れっこだ。顔をしかめた理由は空の言葉遣いにある。
「『先輩』はやめろって言ってるだろ。もうお前の方が売れているんだ。そんな必要はないだろう」
森也はそう言ったが、空の方は『先輩』の言いつけに従う気はまったくないようだった。
「いいえ! 森也先輩あってのあたしですから! あたしがぜんぜんうまく行かずに悩んでいたとき、森也先輩に助けていただいたことは忘れていません。いまでも、これからも、あたしにとって森也先輩は森也先輩です」
空はそう断言する。
そのキラキラ光るまっすぐな瞳が、
――何だか、部活ガチ勢の男の子みたい。
さくらはそう思った。
さくらは中学では陸上部。エンジョイ勢と言うよりは優等生見せかけ勢に過ぎなかったのだが、なかには本気で全国を目指そうというガチ勢もいた。そんなガチ勢、とくに男子部員たちは憧れの先輩をこんなキラキラする目で見ていたものだ。
空がまた、大学生とマンガ家というハードな二刀流でありながら、さらにいまなお全国大会優勝常連の空手家と言うこともあって、艶のある髪の毛を短くまとめたボーイッシュな風貌だけにそう思えるのかも知れない。
そんな空が全力で放つキラキラビームに――。
森也は『はあああっ』と、息をついたのだった。
赤岩あきらの住む高級アパート。自宅兼仕事場である一室でのことだった。
この日、あきらの呼びかけに応じて『ソーシャルコミック』から森也たちの作る国へと作品ごと移ってきた元『ソーシャルコミック』連載陣がこの場に一堂に会していた。
森也とあきら、それに、『これからおれのマネージャー役になるんだから顔を売っておいた方がいい』という理由で連れてこられたさくらが同席している。
「おい、お前たちだけで勝手に盛りあがるな!」
ひとりの男が苛立った、と言うより、嫉妬したような声をあげた。
ガリガリに痩せた体、見るからに顔色の悪い顔立ち、中途半端に伸びた髪といかにも『不健康なマンガ家』と言った印象の神経質そうな男。その男は森也に向かって指を突きつけて叫んだ。
「いいか、藍条! おれは何もお前のために来てやったわけじゃないんだからな! おれの才能を証明するためにきたんだ。それを忘れるなよ」
誰も聞いていないことをやたら熱心に主張する。
さくらは森也にそっと耳打ちした。
「誰?」
森也はさくらを見た。それから男に視線を向けた。しばし、じっと見つめた。そして、言った。
「あんた、誰だっけ?」
『ソーシャルコミック』の連載陣にいたか?
真顔でそう尋ねる。
言われた男の表情は……まったくもって見物だった。
あきらは遠慮なく、空も必死にこらえようとして口元を押さえながら、それでもこらえきれずに身を屈めて笑っている。
「わ、忘れたとは言わせんぞ、このおれさまを……」
「いや、忘れたとは言っていない。最初から知らないだけだ」
「何度も会ってるだろうが! 『先咲きこう』の
「先咲き……ああ、『ソーシャルコミック』人気ナンバー3のサイコ・サスペンスか」
「そのとおり! やっとわかったか」
「これは失礼。いつも言っていると思うが、人の顔と名前だけはどうにも覚えられない質なもので」
「香坂のことは覚えてるだろうが!」
言われて森也は『当然』とばかりに答えた。
「男より、かわいい女の方が覚えやすいだろう」
さりげなく、しかし、はっきりと『かわいい』と言われて、空はたちまち赤くなる。
さくらは今度はあきらに耳打ちした。
「……兄さんって本人を前に『かわいい』なんてあっさり言えちゃうキャラなんですか?」
家にいた頃の森也からは想像も付かない姿だけに、そう確認せずにはいられない。
あきらは真顔で答えた。
「……あいつは実は無自覚危険人物だからなあ」
「……たしかに、危険ですよね」
と、さくらも心からうなずいたのだった。
兼人は相変わらず森也に突っかかっている。
「そおだ、この兼人勝利さまは『ソーシャルコミック』人気ナンバー3の大作家! ひれ伏せ、底辺作家め」
「と言ってもなあ……」
森也はむしろ、困ったように言った。
「ナンバー3とは言っても、一位を争う二作品からは大きく引き離された万年三位だし。東京・神奈川に対抗する気もないまま三位争いをしている千葉・埼玉みたいなものでむしろ、惨めなだけだと思うぞ」
「底辺作家の分際でナンバー3作家さまを愚弄する気か、身の程知らずめ!」
「ナンバー3と自慢するなら底辺作家相手にムキになるなよ。みっともない」
言われて兼人は全身を引きつらせ、ピクピクと
その姿に空はまたもや笑いを押し殺しながら全身を震わせている。
森也がふと、首をかしげた。
「一位争いで思い出したが……肝心なのがひとり、きていないんじゃないか?」
言われてあきらは視線を宙に巡らした。ふれて欲しくない話題だったらしい。
「あ~、あいつはなあ……」
あきらがそう言い淀んだときだ。
「ちょっとお、どういうことよおっ!」
天をつんざくキンキン声が降りかかった。
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