二四章 架け橋になる!

 「さくら」

 ある日の昼下がり、仮の自宅――大家からの命令でもうじき、出て行かなければならないので――にて、森也しんやはさくらに話しかけた。

 話しかけられたのが相当、意外だったのだろう。さくらは驚いたように目をパチクリさせた。

 「えっ? なに、兄さん?」

 「ちょっと付き合え」

 「付き合えって……あたし、兄さんの役に立てるようなことなんて何もないし」

 「お前、陸上部だったんだろ?」

 「えっ? うん、まあ。速いわけじゃなかったけど……」

 話がコロコロかわるのについていけず、さくらは戸惑った様子になる。

 『速いわけじゃなかった』と言うのは嘘ではない。ただし、正確には『本気ではやっていなかった』と言うこと。身体能力は決して低くない。もし、本気で打ち込んでいればそれなりの成績を残せていたかも知れない。

 でも、そこまでやる気がなかった。優等生を演じるうえで『部活も一所懸命』という振りをしなければいけなかったから所属していただけのこと。陸上部を選んだのも『駆けっこしていればいいんだから楽だろう』と思ったから。本気で打ち込むつもりなんて最初からなかった。

 まあ、実際に所属してみると思っていたほど楽なわけではなかった。練習はそれなりにキツかったし、大会への参加やら、部の運営やら、面倒なこともいろいろあった。それでも、もともとがとくに歴史があるわけでもなければ、輝かしい実績があるわけでもないごく平凡な中学校の平凡な陸上部。弱小なのにひとり『目標、全国制覇!』なんて叫んで自分の思いを押しつけてくる傍迷惑な熱血部員がいたわけでもなかったので、外面を取り繕おうとの半端な気持ちでも三年間、やってこられた。

 去年の夏、三年生が引退してからは一年の頃から生徒会役員を務めている実績を買われて副キャプテンに選ばれた。キャプテンでなかったのは『生徒会役員との掛け持ちでキャプテンはさすがに忙しすぎるだろう』という顧問の配慮から。

 どちらにしても、さくら自身にはやる気なんてなかったけれど、優等生を演じるうえでは都合がよかったので務めてきた。自身が三年になって最後の大会を終えて引退したときには『やっと解放された』と安堵の息をついたものだ。

 その程度の思いだったので当然、強くもならなかったし、成績と言えるほどの結果も残していない。『陸上部だったんだろ?』と言われても正直、ピンとこない。

 しかし、森也はかまわずつづけた。

 「だったら、走ることには慣れてるだろ。トレイルラン、付き合え」

 「トレイルラン?」

 さくらはもう一度、目をパチクリさせた。


 神奈川の水源。

 神奈川の秘境。

 そんな風にも謳われる相模国市赤葉の山のなかを、森也とさくらはふたり並んで走っていた。

 着ているものは陸上部員のようなタンクトップとショートパンツではなく、固い木の葉や鋭い草がふれても身を切らないように丈夫なジャージ。

 履いているのはランニングシューズではなく、トレイルラン用シューズ。

 背中には体にぴったりフィットして揺れを防いでくれる小型のバックパック。ドリンクボトルと行動食、ファーストエイドキットを詰め込んで、自然のなかを駆けている。

 トレイルとは未舗装路のこと。つまり、未舗装路を走るのがトレイルラン。通常は自然の野山のなかを走ることが多い。整地されたフィールドを走るロードランニングとちがい、起伏の激しい自然のなかを走るものなので、一般的なペース配分では計れない。事故や遭難、野性動物との遭遇など、自然のなかならではの危険も多い。

 それでも、自然のなかを走るのは気持ちがいいし、決まり切ったコースをグルグル『ハムスターする』だけの陸上競技では決して味わえない開放感と爽快感とがある。

 「兄さん、トレイルランなんてしてたのね」

 さくらが森也と並んでゆったりペースで走りながら言った。

 さくらの知る兄はスポーツとはまったくの無縁だった。いつも、ひとりで部屋に閉じこもっていたのだから当たり前だ。それが、いまでは野山を駆けまわっているだなんて。

 ――やっぱり、あたしの知る兄さんとはちがうんだ。

 さくらはそう思わずにはいられなかった。

 さくらも陸上部員としてトレイルランのことは知っていた。ただし、実際にやったことはない。陸上部の活動でさえ優等生を演じるための振りに過ぎなかったのに、わざわざ自然の野山のなかを走る理由などなかった。

 当然、トレイルラン用の装備なんてもっていない。いま身に着けている服も、シューズも、バックパックも、すべて森也からの借り物。そのためにサイズが合っていない。すべてが大きすぎる。

 もともと、『自然な会話が出来る』程度のペースでゆっくりめに走るのがトレイルランのコツだが、サイズの合わない装備品のせいでなおさらゆったりペースになっている。

 トレイルランと言うよりトレイルウォーキングといった方が近い。それぐらいのペース。それでも、森也に先導されるままに走って行く。

 「『BORN TO RUN 走るために生まれた』っていう本を読んでな」

 さくらよりもわずかに前を走りながら森也は答えた。

 「『読むと走りたくなる困った本』って言う触れ込みなんだが、読んでみたら本当に走りたくなった。でっ、実際に走ってみた。そのときにはもうここに住んでいたから走る場所はいくらでもあったしな。それ以来、時々走っている」

 「へえ」

 さくらは感心したように答えた。

 『読むと走りたくなる困った本』なんてはじめて聞いた。真剣に陸上に打ち込んでいたわけではないけれど、兄にそんな影響を与えた本なら読んでみたいとちょっと思った。

 「とりあえず、手近の山頂まで走るぞ。あわてず、急がず、ゆったり着実なペースでな。そこで一休みして帰る。いいな」

 「うん」

 さくらはうなずいた。

 そして、ふたりの兄妹は山頂目指して走りつづけた。


 そこからは眼下の自然が一望できた。

 清らかな渓流が、そこにかかる大きな橋が、広大な杉林が、人々が長い歴史のなかで作りつづけてきた棚田が、そのすべてが一目で見渡すことができた。町で暮らしていては絶対に見ることの出来ない絶景。

 さくらはその光景を生まれてはじめて目にしていた。

 「……きれい」

 思わずそう呟いていた。

 山頂にたどり着き、ドリンクを飲み、行動食を食べた。ドリンクも、行動食も、市販品ではない。ドリンクは水にハチミツと塩とレモン果汁を加えたお手製のもの。行動食も小麦全粒粉、オートミール、ひよこ豆の粉をメインにしたお手製ビスケット。市販品のようによけいな砂糖や油が入っていないので体に負担をかけず、豊富な栄養を吸収できる。

 その森也の心づくしのドリンクと行動食とで水分と塩分、それにカロリーとを補給して、一息ついた。そして、気が付いてみればすぐ目の前に絶景が広がっていたと言うわけだ。

 「たしかに、見事な風景だよな」

 森也がさくらと並びながらうなずいた。

 「さくら。天国っていったいどういう場所だかイメージできるか?」

 言われてさくらは戸惑った。

 さくらでなくても戸惑わずにはいられなかっただろう。どうして、ここでいきなり『天国』なんて言う言葉が出てくるのか。場合によっては嫌な予感しかしない言葉だ。

 「いきなり、どうしたの、兄さん?」

 「いいから言ってみろ。天国ってどんな場所だと思う?」

 「どんな場所って言われても……」

 さくらは首をひねった。

 イメージしてみようとは思ったけど、具体的な風景が浮かんでこない。

 意外な気がした。『天国』なんて物心付いたときから聞いているし、現実ではなくてもごく自然に馴染みのある場所だと思ってきた。それなのに、具体的にどんな場所かと問われるとまるでイメージできないなんて……。

 「……わからない」

 さくらは正直に答えた。

 「言われてみると『天国とはどんな場所か』なんて聞いたこともない気がするし……」

 「そう。天国だの、極楽だの、人類の理想郷とされる場所は古くから語られてきた。ところが、そのイメージときたら貧弱もいいところ。地獄や魔界が古くから絵画や物語の題材となり、様々な姿で描かれてきたのに対し、天国ときたら具体的なイメージなんてほとんどない。せいぜい『光に満ちた』ぐらいだ。なぜだかわかるか?」

 「なぜって……」

 「なぜなら、この世界、この現実の世界こそが人間にとって最も美しく、魅力ある世界だからだ。だからこそ、歴史上の誰ひとりとしてそれより魅力ある世界として天国を具体的にイメージすることは出来なかった。当然だな。人間は自然のなかに生まれ、自然のなかで育まれた。どう粋がってみたところで自然の一部にはちがいない。その人間にとって自然ほど魅力的な世界があるはずもない。それなのに……」

 森也はそこでいったん、言葉を切った。

 悲しそうに、悔しそうに言葉を継いだ。

 「昔、モアの剥製はくせいを見た」

 「えっ?」

 またも話が飛んだことについていけず、さくらは声をあげた。森也が何を言いたいのかまるでわからない。

 森也はかまわずにつづけた。

 「こんな大きな鳥がかつては現実に生きて、動いていた。先人たちが滅ぼすような真似さえしなければ生きて、動いているのを実際に見ることができた。そう思うとたまらなく悔しかった。モアだけじゃない。世界中に滅び去った動物が、失われた自然が広がっている。それらの自然が残っていればどれほどの驚きと感動を得ることができたか。おれたちは本来、得られるはずだった多くの驚きと感動を先人たちに奪われた」

 「兄さん……」

 「だから、おれはそれをかえることにした。地球を食い物にしない文明。人類が人類同士で争ったりせず、その可能性を極限まで引き出せる文明。そんな文明を作ることにした。基本となるデザインはすでにできている。あとは実現するだけだ。だが、もちろん、おれひとりでそんなことが出来るはずもない。多くの協力者が必要だ。だが……」

 森也はそこで息をついた。

 「そこが、おれの足りない部分でな。結局、おれは社会性が低い。いくら、昔に比べればマシになったとは言え、本質的な部分がかわったわけじゃない。社会生活に向かない人間であることにかわりはないんだ。行動力には欠けるし、他人と関わるのはうっとうしくてたまらない。だからこそ、昔からおれと社会との架け橋になってくれる相手が欲しかった。だから、さくら」

 「は、はい……!」

 いきなり――。

 あまりにも真剣な目で見られ、あまりにも真剣な口調で言われ、さくらは思わず直立不動の姿勢になってしまった。まるで、不意打ちのプロポーズをされたかのように。

 「お前にその役割を果たして欲しい」

 「あたしが⁉」

 「そうだ。やってくれるか?」

 「ま、まってよ! あたしにそんな……あたしは瀬奈せなさんや、つかさんとかとちがって何の取り柄もないし……」

 「たしかに」と、森也はうなずいた。

 「いまのお前は何者でもない。だが、だからこそ、頼むんだ。瀬奈やつかさにはそれぞれの人生がある。おれに付き合わせるわけにはいかない。だが、いまだ何者でもないお前なら、どの道でも選ぶことが出来る。その道を進み、その道に沿って成長していくことが出来る。だからこそ、お前に頼むんだ。それに何より、お前相手ならおれも遠慮せずにすむからな。お前にはこれから先、広く世界を見て、歩いて、おれと、おれが求める存在とを繋ぐ役割を果たして欲しい。どうだ? やってくれるか?」

 世界を見て、歩いて、つないで欲しい。

 それが森也の出した答え。

 さくらが自分のことを価値ある存在だと思えるように、それでいて、自分との関係に執着しすぎてしまわないように、さくらが自分の世界を広げ、成長していけるように。

 そのために出した答えだった。

 さくらにそこまでわかったわけではもちろんない。それでも、森也の表情を見ていれば本気で言っていることはわかる。架け橋となってくれる人間を本当に欲しがっていること、そして、その役割を自分に期待してくれていること。

 それははっきりとわかった。

 必要としてもらえている。

 兄さんの役に立てる。

 その思いが満ちあふれ、喜びとなって爆発した。

 「うん、わかった。あたし、その役を果たす。必ず、兄さんのための架け橋になってみせる!」

 「ありがとう」

 笑顔でそう言う森也に対し――。

 さくらは思い切り破顔して答えたのだった。


 そして、夜。

 一日が終わり、眠りに就こうとする時刻。

 ふたりの兄妹には一日の最後の約束の儀式が残っていた。

 「あの……兄さん」

 「……ああ」

 「お休みなさい。その……愛してる」

 いまだ慣れることができず、顔を真っ赤にしてうつむき加減にやっとの思いでそう言う妹に対し、森也は思わず照れ笑いを含めて返した。

 「ああ。お休み。愛してる」

  

               第四話完

               第五話につづく

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