二三章 もうすれ違いは起こさない

 「わっはっはっはっ! いやあ、今回もやりきったなあ。良い仕事だった、うん!」

 「かんぱ~い!」

 赤岩あかいわあきらが仁王立ちとなり、腰に手を当てた姿勢でカップの中身を一気にあおる。

 緑山みどりやま菜の花なのかがカップを高々と掲げて、後ろにひっくり返りそうなぐらい椅子を傾けて叫びをあげる。

 そのなかでひとり、藍条あいじょう森也しんやは苦虫を噛み潰している。

 赤岩あきらの自宅兼仕事場である高級アパート。森也たち三人は三日三晩、徹夜したあげく、ようやく一仕事、終えたところだった。森也自慢のティーセットにやはり、自慢の特製フルーツケーキを添えて、仕事あとの打ち上げをしているのだった。

 「……まったく。いつものこととは言え、余裕で〆切、ぶっちぎっておいて悦に入るなよ。しかも、おれまで呼びつけやがって」

 「何を言う。お前とわたしは同期の桜。この五年間、苦楽を共にしてきた戦友ではないか。我々のなかで遠慮は無用だ」

 「迷惑をかけた側が言うことか」

 森也は渋い表情のまま、紅茶を口に運んだ。高級茶葉を森也の技量で煎れたひと味ちがうその紅茶。本来ならば深いコクとほのかな甘味を感じられるはず。それなのに、いま飲んだ紅茶はやけに渋かった。

 「そんなことより、森也」と、菜の花。

 「あんた、また、さくらのケアを忘れてるんじゃないの?」

 「何のことだ?」

 そう尋ねたのは赤岩あきら。森也の方は何を言われるか予測しているような表情で、三ヶ月かけて作った本格フルーツケーキを口に運んでいる。

 菜の花は先日のさくらとの一件を語った。食い入るように聞いていたのはあきらであって、森也の方は眉ひとつ動かさずに静かに聞いている。その様子だけを見れば、誰でもあきらの方がさくらの身内だと思うだろう。

 「むうう~、いかん、いかんぞ! 健気な美少女にそんな悲しい思いをさせるなど! 例え、神が許そうと、この赤岩あきらが許さん!」

 ドン! と、音を立ててカップをテーブルに叩きつけ、声の限りに叫ぶあきらであった。森也がはじめて眉をひそめた。しかし、それは自慢のティーカップを乱暴に扱われたからであって、さくらの一件を聞いたからではない。

 「赤岩あきらさまの命令だ! 藍条! いますぐ妹のケアに行ってこい!」

 そう叫びながら、やけに楽しそうによろめいているあきらである。

 『酔ってんのか!』

 と、ツッコミを入れたくなる姿だが、実はその通り。酔っているのである。フルーツケーキに含まれるブランデーの香気だけでベロベロに酔っ払ってしまうぐらい、酒には弱いあきらなのだった。

 めっぽう酒に弱いくせに、めっぽう飲んで騒ぎたがるあきらは放っておいて、森也は菜の花に向かって言った。

 「忘れていたわけではないさ。さくらの反応をまっていただけだ」

 「どういうこと?」と、菜の花。

 「さくらが直接、おれに言ってくるかどうか。それを確かめていたんだよ。結局、おれに直接、言ってはこなかったわけだが……。まあ、仕方がないか。思ったことはお互いきちんと相手に伝えるよう取り決めしたとは言え、五年間、会っていなかったんだ。遠慮なしに何でも言えるようになるには時間はかかるな」

 「何を呑気なこと言ってんのよ。あの子、かなり落ち込んでたわよ」

 「あいつはおれのことを心配しすぎなんだよなあ。妹が兄のことを心配する必要なぞないと言うのに」

 そこまで言って森也は『はああ』と、溜め息をついた。

 「……まあ、そうは言っても、そうさせたのはおれなわけだが。実家にいる頃、さんざんいやな思いをさせたからなあ」

 「あれは、あんたのせいじゃないでしょう」

 「おれのせいだ。おれがきちんと人生を生きていなかったから、妹のあいつに余計な心配をさせた。だからこそ、『いまはもう心配いらない、ちゃんと自分の人生を生きている』と、そのことを見せてきたんだが……」

 「なんだ。あんた、それなりに気を使ってたのね」

 「当たり前だ。自分のことにも責任を負えなかったあの頃とはちがう。いまのおれは藍条森也。他人のことだってちゃんと見られる」

 「しかし、それで妹を悲しませていては意味があるまい」と、あきら。

 酔っ払って陽気になりこそすれ、なぜか、正体不明に落ちると言うことはないあきらである。

 「そうよ。あの子、あんたの役に立てない、自分はいなくてもいいって、ひどく気にしてたんだから。兄貴ならその点、何とかしてやりなさい」

 「おれの役に立てないと気にする時点で問題なんだが……」

 森也はもうひとつ、息をついた。

 「実のところ、『役に立たない』どころではないんだがな。さくらにはやってもらいたいことがあるし、実際に出来ることだ」

 「やってもらいたいこと? なに、それ?」

 「マネージャー役だ」

 「マネージャー?」

 「そう。マネージャー。どうにかこうにか世間と関わることができるようになったとは言え、おれという人間自身はかわったわけじゃない。出版社や編集との交渉、税金やら何やらの手続き、隣近所との付き合い……そんな、世間との関わりは面倒くさくて仕方がない。その点をかわってやってくれるマネージャー役がいてくれるとメチャクチャ助かる。実際、おれが昔から一番、欲しかったのは、『自分と世間との橋渡し役』だからな。そんな存在がいてくれればまともにやっていけるんじゃないか。ずっと、そう思っていた」

 「レンタルお姉さんみたいなものか?」と、あきら。

 引きこもり支援のため、本人のもとを訪問し、第三者としての距離感を保ちつつもやんわりとお節介をして、本人と世間をつなぐ。それがレンタルお姉さん。そんな存在が欲しかった。そういうことか。

 そう問われて森也はうなずいた。

 「そういうことだ」

 「なによ、それ! だったら、そう言いなさいよ。レンタルするまでもなく実のお姉さまがここにちゃんといるんだから、甘えなさいよね」

 「お前みたいな騒がしいやつに側にいられてたまるか」

 「何それ、ひどい!」

 と、菜の花が両腕を組んで頬をふくらませたのはまあ、仕方のないところだろう。

 「でっ? 妹にその役を果たして欲しいと?」

 「『妹に』ではなくて、『さくらに』だけどな。あいつはお前たちみたいに騒がしくないから側にいられてもうっとうしくないし、真面目な優等生だから事務的な役割は向いているだろう。その意味ではぜひともマネージャー役に欲しい人材だ」

 「それなら、そう言ってあげればいいじゃない」と、菜の花。先ほど腹を立てたことはもうすっかり忘れているようだ。

 「そうすればあの子だって『役に立てる』って喜ぶのに」

 「うむ。あんな健気な妹を悲しませるなど許されん。赤岩あきらが命令する。即刻、すぐに、速やかに、その意を伝えよ」

 いまだ酔いが残っていると見えて、そう言い放っては湯気を立てる紅茶を一気に飲み干すあきらであった。

 森也は静かに答えた。

 「そりゃあな。相手が同世代の社会人で正式にマネージャーとして雇えるというなら迷いはしないさ。しかし、さくらはまだ中学三年生。来年、ようやく高一になるという年代。まだ子供なんだ。そんな子供にマネージャー役などやらせて学生生活をおろそかにさせるわけにはいかんだろう」

 森也はいったん、言葉を切ってからさらにつづけた。

 「もちろん、ある程度なら社会勉強という意味で有益だろう。しかし、おれはマンガ家だ。どうしたって仕事時間は不規則になる。しかも、これからはカフェの経営もある。おれに付き合っていたらまともな学生生活なんて送れなくなる。それでなくてもあいつはおれのことを気にしすぎだしな。そこに加えてあの真面目さ。マネージャー役なんて任せたら『きちんとやらなきゃ』と思い込んで自分の生活そっちのけで没頭しかねない」

 そのことは各務に行ったときに確認済みだ。

 森也はそう付け加えた。

 「あんた、あれ、マネージャー役のテストだったの⁉」

 菜の花はさすがに舌を巻く思いだった。

 ジロリ、と、森也はそんな姉に視線を向けた。

 「おれを誰だと思っている? 藍条森也が意味のない行動をすると思うのか?」

 「はあ……」と、目が点になる菜の花であった。

 「だからこそ、『心配いらない。おれはちゃんと暮らしている』というのを見せて、距離を置くつもりだったんが……」

 はああ、と、森也は三度、息をついた。

 「しかし、そのせいで妹は悲しむ結果になったわけだ」

 「そういうことだ。それはそれで困る。しかし、学生生活を奪うわけにはいかないし……」

 「そこにこだわるのね、あんた」

 「当たり前だ。一〇代の頃には一〇代の頃にしか経験できないことがある。それを失うのはどういうことか。おれは身をもって知っている」

 その言葉に――。

 あきらも、菜の花も押し黙るしかなかった。

 精神の成長が人より遅く、そのために世間に適応できず、人並みのことなど何も経験できない人生を送ってきた森也である。

 「まあ、そう言うわけでだ。おれとしても困っている。何か良い考えはあるか?」

 森也はふたりに尋ねた。

 日頃、『地球生物史上最強の知性』を自認している森也である。そして、それは完全なる事実だと信じている。とは言え、全知全能でないことも承知している。他人の教えを受けることを恥と思うような類いの狭量さは持ち合わせていない。より正確に言えば、

 ――書物を読む、という形で他人の教えを受けてきたからこそ最強知性となった。

 そのことをよくわきまえている。

 他人に教えを請うことへの抵抗はない。

 「ふむ……」

 言われてあきらは腕組みした。菜の花も首をひねっている。

 やがて、あきらが言った。

 「お前の言うこともわかるが……やはり、この際は頼った方がいいと思うぞ」

 「そうね。このままじゃあの子、自分の存在価値を信じられないわ」

 「……まったく、真面目すぎるのは不真面目より問題だな。役に立てなければ存在価値がないと思い込むなど。お前みたいに根拠もないのに自信にあふれていればいいものを」

 「あんたはあたしをなんだと思ってるの⁉」

 「言わせるな。おれにも気遣いはある」

 という、姉弟の不毛なやりとりを尻目に、あきらが言った。

 「藍条。ここはやはり、妹にマネージャー役を任せろ。わたしもフォローする。妹の負担が大きすぎるようなら警告はする」

 「そうね。あたしも気をつけておくわ」

 「……ふむ。まあ、現状ではそうなるか。実際に高校生活がはじまればそっちに興味が移るという可能性もあるわけだしな。時間制限をかければ有意義な社会経験ともなるし……」

 森也はそう言うと、何かを決意したような様子で紅茶をあおった。空になったカップを置いてからつづけた。

 「……かつてのようなすれ違いを繰り返すわけにはいかない。もう、さくらから逃げはしない。きちんと向き合う。というわけで、フォローの方は頼むぞ、赤岩。それに、さくらの姉」

 「あんたのお姉ちゃんでもあるんだけど?」

 「騒がしいだけの姉なぞいらんわ」

 「あんたは、あたしをなんだと思ってるの⁉」

 菜の花の叫びがあきらの自宅兼仕事場に響いたのだった。

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