二二章 自分だけが蚊帳の外
大地を駆けまわるふたつの足音とバスケットボールの弾む音が連鎖している。
コートのなかで対峙するふたり、
ボールをもっているのは瀬奈だ。足をとめてドリブルをつづけながら、腰を落とした姿勢で守りについている森也の隙をうかがっている。ふう、と、息をついたその直後、きらめく汗に包まれた顔に会心の笑みが浮かんだ。
「お前にオレはとめられないぜ!」
叫びと共に全身が躍動し、森也目がけて突進する。力強いドリブルで森也の脇を抜き、ゴールに向かう。物心付く前から大工仕事で鍛えてきたしなやかな肢体が跳躍する。決して素人ではない、きれいなフォームからのレイアップシュートが放たれ、ボールが天高く空を舞う。放物線を描いて落下したボールがリングの縁に当たって回転する。そのまま内側に向かって回転しながら落下をつづけ、ゴールをくぐって地面に落ちる。
「うし!」と、瀬奈は妙齢の女性には似つかわしいとは言えない叫びをあげる。
茜工務店の事務所裏。純粋に瀬奈の趣味で作られた1on1用のコート。
そこで、森也と瀬奈は約束の1on1に興じているところだった。
全身に透明な汗を浮きあがらせた瀬奈がビッと、森也を指さす。ジーンズにTシャツというラフな格好。汗でTシャツがピッタリ張りつき、引き締まった体の線が露わになっている。
「見たか、森也! 1on1じゃオレには……」
勝てねーよ、と、指を突きつけながら会心の笑顔で宣告する。
言われた森也は別に悔しそうでもなく、飄々とした態度で地面に落ちたボールをひろう。手のひらの上で回転させながら答える。
「1on1もオフェンスの選択肢のひとつに過ぎねえ。それがわからねーうちは……」
おめーには負ける気がしねえ。
わかる人間にはわかる台詞の応酬。
ふたりの勝負を見物していたあきら、
「現に負けてるくせに何を言ってる。お前、1on1でオレに勝ったこと、一度もないんだからな。1on1の覇者・沢北こそ最強」と、瀬奈。我がことのように自慢する表情が印象的だ。
森也は『ふん』とばかりに鼻を鳴らして瀬奈の主張を一蹴した。
「流川のにわかパスワークに翻弄される素人が最強のわけないだろ。仙道とやりあったら変幻自在のプレイに翻弄されてボコボコにされるだけだ」
「沢北? 仙道?」
話がまったく理解できないさくらが、いきなり出てきた名前に戸惑い、目をパチクリさせる。瀬奈がさくらに説明した。森也相手のときの男前な表情とは打って変わった女性的なたおやかな表情だ。
「『SLUM DUNK』って言うレジェンド級のバスケマンガに出てくるキャラの名前よ。どっちも作中屈指の強キャラでね。このふたりのどっちが上かは『SLUM DUNK』ファンの間では永遠の論争テーマなの」
「まあ、『たけのこの里・きのこの山』論争みたいなもんだ」と、森也がわかる人間にはわかるが、わからない人間にはよけいにわからなくなる例えを使った。
さくらはわからない派だったようで頭の上に『?』マークを乱舞させている。
「きのこの山とたけのこの里なら、きのこの山に決まってるだろ」と、瀬奈。腕を組んで胸を張り、『こればかりは譲れない!』と、鼻を鳴らしている。
森也はその主張を鼻で笑った。
「食感が違うわ。たけのこの里の方が上だ」
「きのこの山のカリッとクラッカー食感がいいんじゃないか!」
「笑止。たけのこの里のしっとりクッキー生地こそが至高」
さくらにはわからないマニアックな言い争いがつづく。そこへ、赤岩あきらが例によって例のごとく、ふんぞり返って乱入する。見た目ばかりはお人形のように可愛らしいのになぜ、そこまで偉そうでデカい態度を取れるのかはあきらを知らない人間にとっては永遠の謎である。
「まてまてまて~い! さっきから聞いていれば仙道だの沢北だの、きのこだのたけのこだのと勝手なことを! スラダン最強は帝王・牧! チョコ菓子の帝王は小枝に決まっておろうが!」
「出たわね! 牧派&小枝派!」と、瀬奈がまるで親の仇! とでも言わんばかりの口調で叫ぶ。一方の森也は冷静に指摘した。
「仙道・沢北論争に牧をぶち込むのはいいとして、たけのこの里・きのこの山論争に小枝をもってくるのはカテゴリーエラーだろう」
言われてあきらは腕を組み、憤然とした表情になる。
「何を言う。小枝も立派なチョコ菓子。並べたところでおかしくあるまい」
「メーカーがちがうでしょ。完全にアウトじゃない」と、瀬奈。
すると今度はつかさが『もう我慢できない!』と言わんばかりの勢いで口を挟んだ。
「ちょっと! なんで流川君が出てこないの スラダン最強はどう考えても流川君でしょ! あと、チョコ菓子最強はポッキー!」
「流川? だってあいつ、体力ないし」と、あきら。両手を肩の高さで広げ、小バカににした表情をして見せる。
その態度につかさはますますヒートアップ。頭から湯気を噴きあげ反論する。
「流川君は体力がないんじゃなくて限界以上の力を出せるタイプなんです! 牧なんて流川君のダブルダンクにあっさりやられたくせに!」
「むっ? それは聞き捨てならんな。よし、いい機会だ。牧のすごさをじっくり教えてやろう。まずは……」と、あきらとつかさのふたりは森也たちそっちのけて勝手に牧・流川論争をはじめてしまった。
真剣勝負に突入したふたりは放っておいて、瀬奈が森也に話しかけた。というか、命令した。
「とにかく。今度の映画はすぐに見に行くからな。お前も絶対に付き合うんだぞ。『列に並ぶのはゴメンだ』なんて言って渋ったら承知しないからな」
「……付き合うのはいいが、何も混雑する初日に行くことはないだろうと言ってるんだ。客の少なくなる終盤に見に行ったって間に合うだろう」
「初日に見に行ってSNSで盛りあがるのが楽しいんじゃないか。見てろよ。映画館では沢北のすごさをたっぷり見せつけてやるからな」
「映画が山王戦だなんてまだ、明かされてないだろうが」
「他に何があるって言うんだ。山王戦以外にあり得ないだろう」
「それはまあ、そうなんだが……」
「あ、その映画ならあたしも行く!」
と、つかさが叫びをあげる。
呆気にとられた瀬奈が声をあげる。
「えっ? くるの? あ、ああ、そう。うん、まあ……別にいいけど」
盛りあがる四人を前に、ただひとり話について行けないさくらはそっとその場を離れた。
そのことに気付いた菜の花がなにげに追いかける。普段はどうあれ、こんなときの菜の花の表情は――。
たしかに『お姉ちゃん』なのだった。
さくらは事務所から離れた山道でひとり、さびしそうにうなだれていた。
町中でそんな姿をさらしていたらたちまちよからぬ男に目を付けられ、連れ去れれてしまう。そんな危険さを感じさせる姿だった。
幸い、と言うべきだろう。そのときのさくらに声をかけたのはよからぬ男ではなく実の姉だった。
「どうかした、さくら?」
「あ、姉さん」
さくらは驚いた様子で振り返った。声をかけられるまで姉にあとを付けられてることに気がついていなかったのだ。
「別にどうってことじゃないけど……」
さくらは口ごもった。
暗く沈んだ表情でうつむいたままだ。
「……兄さん、楽しそうだなって」
「悔しい?」
菜の花はそう尋ねた。
森也が家を出てからの五年間、さくらがどんな気持ちで過ごしてきたかを知っている菜の花である。気持ちは手にとるようにわかる。
「……悔しい。うん。悔しいのかも知れない。あたしはこの五年間ずっと兄さんのことを気にしていたのに、兄さんはちゃんと自分で自分の世界を作って生きていた。もちろん、兄さんが楽しそうにしているのは嬉しいけど……」
さくらはそこでいったん言葉をとめると絞り出すように言った。
「……あの人はもう、あたしの気にしていた兄さんじゃないんだなって。あたしはここに来る必要なんてなかった、あの人にあたしは必要ないんだって……」
「なあに言ってるの! この健気すぎる妹は!」
「きゃあ!」
いきなり首根っこをつかまれ、強制的に頭を『良い子、良い子』されて、さくらは悲鳴をあげた。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。このきれいで、美しくて、気品あふれる頼もしいお姉さまがいますからねえ。そんな心配しなくてだいじょうぶよお」
「は、はなしてえっ!」
神奈川の秘境。
そう呼ばれる山のなかに健気な女子中学生の悲鳴が響いたのだった。
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