一一章 赤葉の誇り

 瀬奈せなが一応の睡眠を取り、森也しんやの家を訪れたのはまだ朝も早い時刻だった。

 森也に言われたとおり、たしかに疲れているとは感じる。何しろ、夕べは包丁片手に暴れ回る祖母を押さえつけ、母とふたり、なかなかに深刻な親子会議を開いていたのだ。疲れていないはずがない。

 頭のなかに靄がかかっているような気がする。体の芯がどんよりと重い。まるで、背骨のかわりに鉛の棒を入れられたような気分だった。

 ――頭の方はともかく、体の方にこんな風に疲れが溜まるなんて、いままでどんなにハードに働いてもなかったんだけどな。

 瀬奈はぼんやりした頭で思った。頭の靄に関しては数学や物理の授業でおなじみだが、こんな体の重さはいままでに感じたことがない。

 ――出来事によって、使う体力の質ってちがうんだなあ。

 そう思う瀬奈であった。

 とにかく、瀬奈は森也の家へとやってきた。森也はそんな瀬奈を寝室へと招き入れた。

 ――寝室? いきなり?

 瀬奈は目をパチクリさせた。普通なら居間に通すはずだ。実際、いままで寝室に入れられたことなんてない。補修工事の指導に当たるときは別としてだが。

 いくら、森也とは『男友達』として接してきたとはいえ、妙齢の女性。同世代の男に寝室に招き入れられるとなれば警戒はする。とは言え――。

 ――まあ、あの森也がいきなりどうこうなんてあるわけないしね。

 森也の性格はよく知っている。もし、森也にその気があればいきなりではなく、きちんと手順を踏んでからにするはずだ。その点で瀬奈は森也のことを信用している。

 ――なにより、妹も一緒だし。

 森也は瀬奈と一緒にさくらも寝室に呼んでいた。いくら何でも実の妹を前に不埒な振る舞いに及ぶ男はいないだろう。オタク妄想が爆発したエロ小説の世界ではあるまいに。

 と言うわけで、瀬奈はさして緊張するでもなく寝室に入った。さして広くもない寝室には、森也の持ち物としては車に次いで高価なスギ材の和風ベッドが置かれ、いつでも手に取れるようにと床に積んである本が山となっている。

 森也たちは床の空いている場所に適当に座った。もちろん、森也と瀬奈は面と向かって。さくらは邪魔にならないよう森也の後ろにチョコンと遠慮がちに座っている。

 自分は部外者だからと遠慮しているのだ。

 部外者という自覚があるのにこの場にいるのは、森也に同席するよう言われたからでもある。しかし、それ以上に自分自身でこの場にいたかった。

 ――兄さんをこの目で見ていよう。

 自分は兄さんのことを何も知らない。そのことを思い知らされ、そう決めたのだ。失われた五年間を取り戻すそのために。

 最初から、頼み込んででも同席させてもらうつもりだった。自分の知らない五年間を過ごした森也が瀬奈を相手に一体どんな態度をとり、何を話すのか。それを見るために。

 幸い、森也から同席するよう言われた上に瀬奈からも文句は出なかったのでよけいな手間はかけずにすんだ。五年間の空白を埋めるため、さくらは森也の背をじっと見つめていた。

 「さて」と、妹の視線と思いを知ってか知らずか、森也は瀬奈に向かって言った。

 「まずは、確認しておこう。瀬奈。お前の目的はこの赤葉の地を大勢の人がやってくる場所、赤葉を捨てて出て行った人間たちが悔やむような場所にすること。それでいいんだな?」

 「ああ、その通りだ」

 すっかり森也の前限定の『男友達系女子』の様子を取り戻した瀬奈が力強くうなずいた。元々くっきりした凜々しい顔立ちだけに、そうして決意を込めた表情をしているとまさに『イケメン女子』。この顔を見たら年下の女の子などさぞキャアキャア騒ぐだろう。さくらもちょっとドキリとしてしまったぐらいだ。

 森也はつづけた。

 「では、聞こう。この限界集落をお前の望む場所にかえるために必要なものはなんだ?」

 「そりゃあ、魅力だろう。魅力のないところには誰も集まらないんだからな」

 「では、魅力とはなんだ?」

 ――仕事でしょう?

 さくらは心のなかだけで答えた。

 『地方には仕事がないから』という理由で人が都会に集まる、というのは何かとよく聞く話だ。瀬奈も同じことを口にした。

 「仕事だろう。ここを出て行く人間はたいてい『赤葉にはやりたい仕事がないから』と言っていたからな」

 実際、いまの赤葉で仕事と言えば農業に牧畜、林業、建築業、あとはちょっとしたお役所仕事ぐらいしかない。赤葉で生きていこうと思えば、この数少ない職業に縛られることになるのだ。

 森也はうなずいた。

 「たしかにその通りだ。人が人として暮らして行くには安定した収入が得られる仕事が必須になる。それに加えて、教育、医療。この三つがそろわなければ人間としての暮らしは成り立たない。だが、それだけでは足りない」

 「足りない?」

 「そうだ。仕事、教育、医療。それはどれも大切なものだ。しかし、それは『なければならないもの』、つまり、最低条件であって必要条件ではない。恋愛に例えれば、『性格の良さ』とは『これがなければ無理』という前提条件であって、プラスポイントにはならないと言うのと同じことだ。仕事、教育、医療をそろえたところで、それだけでは人は集まらない。そもそも、人の数が増えなければ教育と医療を充実させるなんて不可能だからな。だから、まずは人を呼ぶ。人を集める。そのためにはどうしても必要なものがひとつある」

 「必要なもの?」

 「ロマンだ」

 ――ロマン?

 「ロマン?」

 さくらは胸のなかで、瀬奈は口に出してそう言って、ふたりとも目を丸くした。いま、この場で聞くにしては意外すぎる単語だった。

 「そうだ。なぜか、言われることはないが、人は実のところ、実益よりもロマンで動く。人が都会に集まるのも『都会に行けば何とかなる、成功できる』というロマンがあるからだ。実際には、競争の少ない地方でさえ成功できないやつが、競争の激しい都会で成功できるはずがないけどな。それでも、都会に惹かれるのはロマン、言い換えれば『成功のイメージ』があるからだ。だから、人を集めるためにはまずイメージを作ることだ。

 『赤葉に行けば成功できる、幸せになれる』

 まずはそのイメージを作りあげることだ」

 「どうやって作りあげる?」

 「世界とつながれ」

 「世界と⁉」

 「そうだ。限界集落と呼ばれるような地域こそ、世界とつながり、世界を相手に活動するべきなんだ。いまはネットを通じて、地球上のどこにいたって世界を相手に活動できる時代なんだからな。そのイメージさえ作りあげれば『世界を相手に活躍したい』と思う人間が集まってくる。そんな人間が集まれば仕事も増え、教育・医療も充実する。そうなれば、もっと多くの人間が集まる。一定以上の人口密度があれば独自の文化を創りあげ、『自分たちの世界』を生み出すことができる。瀬奈。お前の望む『赤葉を捨てて出て行った人間たちが悔やむ世界』を作りあげることが可能になる」

 「そ、それはそうかも知れないけど……」

 瀬奈はなんだか息苦しそうに口を挟んだ。実際、滔々と述べられるスケールの大きすぎる話に窒息させられる気分だった。

 それでも瀬奈は大きく口を開けて空気を取り込むと、言葉をつづけた。

 「だけど、どうやって世界とつながれって言うんだ? ここには世界を相手にできるようなものは何もないぞ」

 悔しいけど、と、瀬奈は無念の思いをにじませて答えた。

 ――どう答えるの、兄さん?

 さくらはその思いを胸に兄の背中を見つめていた。

 そんな妹の視線を受けながら、森也は答えた。

 「そのことを説明するためにわざわざ寝室に通した。まずはそこのベッドで一眠りしろ」と、森也は自分のベッドを指さした。

 「お、お前のベッドで……?」

 瀬奈はさすがに驚いた様子だった。さくらも意外な言葉に目を丸くしている。

 「だ、だけど、おれはいままで寝ていて、起きたばっかりだし……」

 森也に下心があるとは思わない。真剣な話の最中にそんなものを差し込むような人間であるはずがなかった。瀬奈はそのことを確信している。

 「いいから、まずは眠れ。おかしな意味で言っているんじゃない。お前ひとりで眠って寝心地を確かめろと言っているんだ。布団の手入れはちゃんとしているから衛生面での心配はしなくていい」

 マットレスを使った洋風のベッドではなく、上に布団を敷いて使う和風ベッドなので布団は毎日、干している。除菌スプレーも定期的に使っている。日々の手入れは怠っていない。

 「……ま、まあ、お前がそう言うなら」

 言葉の意味は理解できないけど、森也の言うことだ。それだけの理由があるんだろう。

 瀬奈はそう思い、承知した。

 「では、しっかり眠って寝心地を確かめろ。眠るだけねむったら居間にこい」

 森也は一方的にそう言うと、さくらを連れて寝室を出た。

 瀬奈はベッドに上がり込んだ。横になった。するとどうだろう。たちまちのうちに眠気が襲ってきた。たしかに、疲れているとは自覚していた。寝たりない気分はあった。でも、だからと言ってこんな急に眠くなるなんて……などと考えるいとまもないほど急速に、瀬奈は健やかな寝息を立てて寝入っていた。

 結局、瀬奈が起きてきたのはもう昼も過ぎた頃だった。

 瀬奈が恥ずかしさをこらえて居間に行くと、森也は昼食を用意してまってくれていた。いくら『弟子』とは言え、他人様の家で何時間も寝入ってしまうなんて。しかも、それを見越されていただなんて。ますます恥ずかしくなる瀬奈だった。

 それでも、昼まで寝ていれば腹も減る。それに、今朝は食欲がなくて朝食を取っていない。そこに来て、目の前には森也特製ランチメニューの山と来る。これだけ条件がそろっては腹の虫の鳴らないはずもない。

 グウゥ~、と、たちまち健康的な音が鳴り、瀬奈は真っ赤になった。

 「腹が減っては戦は出来ん、だ。まずは腹ごしらえしろ」

 森也に言われて、

 ――た、たしかにそうだよな。戦の前なら仕方ないよな。

 と、自分を納得させて瀬奈は森也特製ランチメニューの征服に取りかかった。若さにふさわしい旺盛な食欲を発揮して、瀬奈はあっという間にランチメニューを平らげた。恥ずかしさもどこへやら、二回もお代わりしたほどだった。

 食後のお茶を飲んで人心地ついたところで、森也が改めて切り出した。

 「さて。あのベッドの寝心地はどうだった」

 「あ、ああ。驚いた。あんな簡単に眠ったのははじめてだ。あんなに気持ちよく眠れたこともはじめてなんじゃないかな。なんだか、やけにスッキリした気分だし。まるで、魔法のベッドで寝たみたいだ」

 「ある意味、魔法のベッドだな。あのベッドはスギの黒芯で出来ているからな」

 「スギの黒芯? ああ、どうりで」

 さすがに建築屋。木材には専門家だけあってその一言ですべてが通じた。しかし、木材のことなんて何も知らないさくらにはなんで納得しているのかわからない。森也が説明してくれた。

 「『スギの黒芯』というのはその名の通り、なかが黒くなっているスギのことだ。木の栄養分がたっぷりつまって濃くなっているから黒ずんで見える。マグロで言えば大トロだな」

 「栄養分が豊富なのはいいんだけど、その分、乾きにくくてね。家を建てるのに使うと長い年月のうちにどんどん狂っていっちゃう。だから、建築家の間ではずっと邪魔者扱いされてきたんだ。だけど、いまは良い乾燥機ができて、わりと簡単に乾かせるようになったから、価値が見直されているんだ」

 「はあ……」

 瀬奈が途中から引き取って説明してくれた。さくらはピンとこなかったので曖昧に返事をした。

 「でっ、スギって言うのは香りが良くて、抗菌・浄化作用があって、おまけに、リラクセーション効果も強い。特に、黒芯は栄養分がつまっている分、その効果も高くてね。それでベッドを作れば安眠効果抜群って言う訳」

 「はあ、なるほど……」

 どうしてもピンとはこなかったけど、さくらはとにかくそう答えた。

 森也が再び口を開いた。

 「そして、スギの学名はクリプトメリア・ジャポニカ、『隠された日本の財産』という意味だ。つまり、スギは日本の特産品。日本中、いたるところにある。これを生かさない手はない。スギを使ったベッドを作れ」

 「スギのベッドを?」

 「そうだ。そして、世界を相手に商売しろ。狙いは観光業界だ。世界の富裕層をターゲットとする高級ホテルは調度品も高級でなければならない。高級即ち高価。高級ホテルを顧客として取り込めばどんなに高価なベッドでも売れる。熟練した職人の手による贅を凝らしたベッドを売りさばけるようになる。家具デザイナーとして世界を舞台に活躍する場を提供することができるようになるんだ。『世界を舞台に活躍する』というロマンをな。そのロマンがあればやる気のある人間が集まってくる」

 「ちょ、ちょっとまってくれ……!」

 瀬奈は泡を食って口を挟んだ。

 「なんだ?」

 「それはその通りかも知れないが……外国の高級ホテルになんてどうやって売り込む? うちの工務店にそんなツテはないぞ」

 赤葉地区そのものにだってないし……。

 瀬奈は情けなさそうにそう付け加えた。

 森也は動じなかった。瀬奈がそう言ってくるのは折り込み済み。そういう態度だった。

 「向こうからこさせる」

 「どうやって⁉」

 今度はさすがにさくらも口に出して叫んでしまったので、瀬奈と見事にハモってしまった。あわてて口を閉ざし、顔を赤くする。森也はそんなことは気にしなかった。黙って立ちあがった。

 「その説明の前に、まずは棚田でも見に行ってみようか」

 その言葉に――。

 さくらと瀬奈は顔を見合わせたのだった。

 赤葉あかばの地に連なる棚田。代々この地に住み続けた祖先たちが一鍬ひとくわ汗水たらして開墾し、作りあげ、管理されてきた棚田。その棚田がいま、昼の日差しを浴びて美しく輝いている。

 「さて、瀬奈。この赤葉の地を愛するお前に問おう。この赤葉の地の存在意義とはなんだ?」

 「そ、存在意義?」

 いきなり問われて、瀬奈は首をひねった。さくらも考えてみたけれど地元民の瀬奈にわからないことが、さくらにわかるわけがない。せいぜい『緑豊か』という答えるのが恥ずかしくなるぐらいありきたりな答えしか思いつかなかった。

 森也は辺りを流れる水の流れを指し示しながら言った。

 「この赤葉の地は神奈川を流れる多くの川や湖の源流。つまり、神奈川の水源だ。赤葉の存在意義と言えばその一点に尽きる。

 『神奈川の水を守る』

 その使命を強調し、河川流域も巻き込んで一大プロジェクトを展開する。ヨーロッパ人は環境問題に敏感だ。特にミネラルウォーターを愛する民族らしく、水資源の保護には熱心だ。ミネラルウォーターのメーカーが広大な水源地を買い取り、保護区としているのはめずらしい話じゃない。水源保護の取り組みを行い、その取り組みが充分に革新的で効果的なものであれば必ず興味をもって視察団がやってくる。視察団に入るような人間はその国でそれなりの影響力をもっている人間だ。視察団にスギのベッドを体験させ、その価値を知らしめ、国に帰って売り込んでもらう」

 「でも、『水資源を守る取り組み』ってどんなことするの?」

 黙って聞いていよう。そう決意していたさくらがつい口にして尋ねた。瀬奈にしてみれば横槍を入れられたような格好たが気にするふうもなく『そうだ、そうだ』とばかりにうなずいている。

 「それに関してはクリエイターズカフェと連動する」

 「カフェと?」

 「そうだ。カフェが必要とする水、食料、電気、ガス。そのすべてをこの地で生産する。カフェで買い取るという条件で環境を守る仕組みを導入してな。そうして、大々的に取り組み、その様子をネットで流す。そうして世界中に伝え、向こうからやってくるように仕向ける」

 「つまり、兄さんたちの作る『国』がその取り組みを行うって言うこと?」

 「そう言うことだ」

 さくらの質問に森也はうなずいた。

 「なるほど。わかった」

 瀬奈が力強く笑いながら言った。

 「だったら、オレもお前たちの作る『国』に参加する! そして、この赤葉の地を世界に向かって誇れる場所にして見せる!」

 瀬奈はそう宣言した。ここに――。

 赤葉の地は『おれたちの国』の一部となったのだった。

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