一〇章 男友達なアイツの涙

 ドン、

 ドン、

 ドン!

 と、森也しんやの家の玄関がまるで嵐のような勢いで叩かれた。

 もういい加減、夜も更けた頃。森也はマンガ家としての仕事に精を出し、さくらは新学期からの転入に備えてLEOレオの教材をそろえて予習をしているところだった。

 あんな勢いで分厚い木のドアを叩いたりしたら、手の方だってさぞかし痛むことだろう。チャイムはちゃんとついているというのに、それを鳴らすことにも気付かず、手の痛みも気にならずに叩きまくるなど、ノックの主はよほど切迫しているにちがいない。

 ――また、赤岩あかいわのやつがきたのか?

 一瞬、そうとも思ったがもちろん、そんなはずはない。これがあきらなら玄関を叩くような真似はせず、いきなり蹴破って押し入ってくる。

 森也は玄関に向かった。

 「どなたですか?」

 などとは尋ねない。玄関を叩く必死さからして、そんなことを尋ねてみたところでまともに答える余裕はないのは明らかだった。

 森也は玄関の鍵を開けた。強盗の類いがこんなノックの嵐を見舞って自分の存在を知らしめるはずがないのでその点では心配していない。それでも一応の警戒として、さくらには身を隠しているよう伝えてある。

 森也がドアを開くと、そこにはすっかり青ざめた顔の中年の女性が立っていた。

 「瀬奈せなのお袋さん」

 森也は呟いた。

 その途端、表情がかわった。

 「どうしたんです、一体?」

 そんな質問をして時間を無駄にするような真似は森也はしなかった。そのかわり、すっかり顔色をなくした女性に向かって叫んだ。

 「瀬奈は家か⁉」

 瀬奈の母親が必死にうなずくのを見ると、森也はさくらに向かって叫んだ。

 「さくら! ここは頼む。おれは瀬奈の所に行く!」

 「えっ? ちょ、ちょっと……!」

 いきなり見ず知らずの女性のことを押しつけられて戸惑うさくらを尻目に、森也は全速力で家の外に駆け出した。

 何かただならぬことが起きたことは瀬奈の母親の様子からわかる。しかも、瀬奈ではなく母親がきたと言うことは、若くて体力のある瀬奈でなければ対処できない事態と言うことだ。つまり、それだけ危険な事態である可能性が高い。

 それと察した森也は瀬奈の居場所だけを確認して駆け出したのだ。

 瀬奈の家に着くとなかから何やら意味不明の叫び声が響いてきた。そのなかに混じって、

 「おばあちゃん、落ち着いて!」

 必死に叫ぶ瀬奈の声が聞こえた。

 森也はなかに飛び込んだ。玄関のドアは閉じてはいなかった。つまりは、瀬奈の母親は飛び出したまま、玄関を閉める余裕もなく森也の家までやってきたと言うことだ。

 声のする方へと向かうとそこでは辞書的な意味での修羅場が繰り広げられていた。

 瀬奈の祖母である出穂ずいほばあさんが包丁片手に何やら叫びながら暴れ回っていたのだ。その叫びは何ひとつ聞き取ることができず、まったくの意味不明だった。本人としてはおそらく、きちんと何かを叫んでいるつもりなのだろう。だが、あまりにも興奮の度合いが強すぎてまともな言語になっていない。そんな様子だった。

 そんな暴れ回る祖母を瀬奈が必死に取り押さえようとしている。腕を押さえて包丁を取りあげようとしているのだが振りまわされるばかりでうまく行かない。本来、体力においても、腕力においても、瀬奈の方がずっと高い。いくら出穂ばあさんが頑丈で気も強いと言っても、結局は八〇過ぎの老人。二〇歳の瀬奈に体力で勝るはずがなかった。

 それなのに、瀬奈は一向に取り押さえることができず、逆に振りまわされている。それだけ出穂ばあさんが錯乱して、限界以上の力を出していると言うことだ。

 ――ヤバい!

 森也は心に叫んだ。

 瀬奈は何とか包丁を取りあげようとしているが、出穂ばあさんは孫の身などかまわずに暴れている。このままではまちがって瀬奈のことを刺してしまいかねない。

 森也はその場に跳び込み、出穂ばあさんの腕を押さえつけた。

 錯乱していると言っても相手は八〇過ぎの老人。強引に組み伏せたりしたら腕を折ってしまうかも知れない。しかし、この際は致し方ない。

 「森也!」

 瀬奈がホッとした様子で叫んだ。

 「瀬奈! 早く包丁を取りあげろ!」

 「あ、ああ……!」

 森也が出穂ばあさんの腕を押さえつけてくれたおかげで瀬奈は余裕が出来た。手首をつかみ、包丁の背をつかんで必死にもぎ取る。出穂ばあさんはそれでも騒ぎつづけ、暴れつづけた。そんな出穂ばあさんをふたりがかりで何とか取り押さえる。

 しばらく、そのままにしていると出穂ばあさんもだんだん落ち着いてきたようだ。暴れすぎて、さしもの火事場の馬鹿力も途切れたのかも知れない。静かになったところを見計らってとりあえず寝かしつける。もちろん、辺りからは危なそうなものをすべて取り除いた。

 「……ふう」

 森也と瀬奈は居間に戻った。森也が安堵の息をつきながら額の汗を拭う。瀬奈が申し訳なさそうに言った。

 「……すまない、森也。手間をかけたな」

 「そんなことはいいが……」

 何があった?

 森也がようやくそう尋ねようとしたときだ。

 「兄さん!」

 「瀬奈!」

 ふたつの声が同時にした。

 さくらと、瀬奈の母親が同時に駆け込んできた。

 「ああ、だいじょうぶだった、瀬奈⁉ おばあちゃんは⁉」

 堰を切ったような勢いで尋ねる母親を、瀬奈は何とかなだめながら説明した。一方でさくらは森也に説明した。

 「あの……あの人が『早く帰らなくちゃっ!』って叫んで、それで、止めようもなかったんで、とにかく付いてきてみたんだけど……」

 「ああ、よくやってくれた。すまなかったな。いきなり押しつけたりして」

 「それはいいけど……」

 森也の言葉にホッとしながらさくらは答えた。

 瀬奈の方を見るとようやく母親を落ち着かせ、説明を終えたところだった。

 「瀬奈」

 森也が声をかけた。

 「何があったか知らないが、家族で話さなきゃいけないことがあるだろう。おれたちは席を外すから、そっちの話が付いたら説明しに来てくれ」

 「あ、ああ、わかった。すまなかったな」

 「行くぞ、さくら」

 森也はさくらに声をかけ、居間を出た。

 「あ、うん……」

 さくらはあとに残る瀬奈たちの様子をうかがいながら、森也に着いていった。その背に声をかける。

 「あの……いいの? 瀬奈さん、放っておいて」

 「おれは瀬奈の家族じゃない。家庭の事情に首を突っ込む立場じゃない」

 冷淡とも言えるその態度に――。

 さくらは頬をふくらませ『もう一発、蹴り入れてやろうか』と思ったのだった。

 森也はその場は去ったとはいえ、自宅に帰ったわけではない。また出穂ばあさんが暴れたときに備えて二階の一室で待機していることにした。何と言っても瀬奈の『弟子』。家にもよく出入りしているので家の作りにはくわしい。さくらとしては訳のわからない状況だし、今日、会ったばかりの他人の家だし、その場に居着いているなど何とも居心地が悪い。とは言え、自分だけ帰ると言い出せる空気でもなかったので、仕方なしにその場にいた。

 瀬奈がやってきたのはもう真夜中を過ぎた時刻、ほとんど明け方と言ってもいい頃だった。さくらもいい加減、眠たくて目を開けているのも辛い状況だったが、瀬奈の方ははるかに憔悴していた。男友達系女子らしい溌剌とした表情も、生気に満ちた瞳もすっかり影を潜め、頬は落ち、目はくぼんでいる。ちょっと見ただけでは同一人物だとは思えないほど印象がちがっている。

 そんな様子の瀬奈を見て、さくらは胸が痛んだ。美人だけど溌剌としていて、サバサバした性格の瀬奈のことが好きになっていたのだと気付いた。

 瀬奈はふたりの前に座った。なかなか切り出そうとはしなかった。何から話していいのかわからない。そんな感じだった。

 森也はあえて話をせかそうとはしなかった。瀬奈が話しはじめるのをじっとまっていた。さくらは自分がこの場にいていいのかと思ったが、森也が何も言わないのでとにかくその場に座ってじっとしていた。

 「実は……」

 瀬奈がようやく言った。

 「親父が出て行ったんだ」

 「えっ?」

 さくらが思わず声をあげた。それから、あわてて口を押さえた。どう考えても今日、出会ったばかりの他人である自分が関わっていい話とは思えない。ますます居心地が悪く感じる。

 森也はかすかに眉をひそめて尋ねた。

 「あの親父が出て行ったのか?」

 「……ああ。いつの間にか外に女を作っていたらしい。その女と出て行くって。それで、おばあちゃんが『そんな下衆に育てたのは自分の責任だ、死んで詫びる!』って騒ぎ出しちゃって、あんなことになっちゃって……」

 「なるほどな。どうりで大騒ぎだったはずだ」

 ――そんな一言で片付けていいことじゃないでしょ!

 さくらはそう思ったが、口出しできる立場とは思えなかったので黙っていた。

 森也が尋ねた。

 「それで? 今後はどうするんだ?」

 「……別に。特に何がかわると言うことはない。工務店の方はオレが社長としてつづけていくし、母さんも出て行くとか、そう言うことはないから」

 瀬奈の母親もこの赤葉あかば地区の出身で、出穂ばあさんとは生まれたときからの顔なじみ。というより、出穂ばあさんにとって、この赤葉地区に生まれた子供はみんな自分の子供のようなもの。いつもそうして接してきたから結婚前から実の親子のように馴染んでいた。だから、結婚相手が出ていったからと言っていまさら関係がかわると言うことはない。

 瀬奈はそう説明した。

 「……親父が出て行ったのはいいんだ」

 ぽつりぽつりと瀬奈は絞り出すように呟きだした。あのいかにも溌剌とした印象の瀬奈からは考えられないような苦渋に満ちた態度だった。

 「親父には、いまさらなにも期待していなかったし、正直言って、いなくなったからって困ることなんて何もない。だから、出て行ったのはいい。でも……」

 瀬奈は両拳をギュッと握りしめた。両目から大粒の涙がこぼれ落ちた。

 悔し涙だった。

 「……親父はこの赤葉を嫌っていた。だから、外に女を作って出て行った。赤葉を捨てたんだ。オレが生まれ、オレが育ったこの赤葉を、オレが大好きなこの赤葉を。オレの大好きな赤葉がそんなに嫌われているなんて……それが悔しいんだ」

 瀬奈は涙をボロボロと流しながらそう語った。

 さくらは何も言えなかった。

 ――会ったばかりの他人である自分が口を出していい問題じゃない。

 そう思ったからではない。『横浜』という、日本でも最も人気の高い地域のひとつで生まれ育ったさくらにとって、限界集落に生まれ育った人間の思いはとうてい、理解できるようなものではなかったからだ。ただただ戸惑うばかりで、言うべき言葉など何も見つからなかった。そのとき――。

 森也がそっと動いた。

 何も言わずに瀬奈に近づくと、そのまま泣き崩れるかの人を黙って抱きしめた。その光景にさくらは目を見開いた。

 ――兄さん、こんなことする人だったんだ。

 信じられない思いだった。実家にいた頃の森也、誰もかれもを避けていて、ひっそりと消え入るようにして暮らしていた森也からは想像も付かない姿だった。家を出てからかわったのか、それとも、元々こういう人間だったのに実家にいた頃はその本当の姿を見せる機会がなかったのか。いずれにせよ、

 ――あたし、兄さんのこと、何も知らない。

 改めてそう思った。

 血を分けた実の妹なのに兄のことを何も知らない。そして、この五年間、森也を見つづけ、いまの森也を知っているのは赤岩あきらや茜瀬奈なのだ。実の妹である自分ではなく。

 その事実にさくらはふたつの拳を握りしめ、唇を噛みしめた。

 森也に黙って抱きしめられているうちに瀬奈も落ち着いたらしい。顔をあげた。涙を流しながら森也を見た。そこには、さくらがいままでに見たことのない必死さがあった。

 「頼む、森也! お前なら出来るはずだ。この赤葉の地を誰もが住みたがるような土地にかえてくれ! 親父を、いや、この赤葉を捨てて出て行った連中全員を見返してやれるように……!」

 「おれにこの赤葉をかえろと?」

 「そうだ」

 「本気で言っているのか?」

 「もちろんだ」

 「おれが関わったらどうなるか。お前ならわかっているはずだろう。おれがやるとなったら半端なやり方じゃすまない。何もかもがすっかりかわることになる。下手をしたらこれまでの住人がまるで付いてこれない事態に陥るかも知れない。それでも、おれにやれと言うのか?」

 「そうだ」

 瀬奈は目に力強い輝きを宿しながらうなずいた。憔悴しきっていた表情に少年らしい溌剌さが戻ってきている。いや、いっそ、漢らしい覇気と言うべきか。何としてでも屈辱を晴らそうとする戦士の顔だった。

 「どうせこのままじゃこの赤葉は滅びるんだ。いままで目をそらしてきたけど……もう覚悟を決めた。どうせ滅びるんならやれるだけのことをやって滅びたい。結果としてどうなろうとかまわない。お前のやりたいように存分にやってくれ」

 「わかった」

 瀬奈の訴えに――。

 森也はそう答えた。

 「お前が覚悟を決めたと言うなら応えよう。この藍条森也、全力をもって取り組もう」

 「あ、ありがとう、森也! 恩に着る……!」

 瀬奈の表情がパアッと明るくなった。

 ――この人、やっぱり兄さんのこと好きなんだ。

 その表情を見てさくらはそう確信した。

 森也はその思いに気付いているのかいないのか、瀬奈に向かって言った。

 「だが、とにかく今日のところは寝ろ。疲れているはずだし、夜の闇のなかでは健全な判断力は保てない。明日……と言っても、もう明け方だな。とにかく、太陽が出てからのことだ。混乱した頭には日の光が一番の薬だからな」

 そう諭しておいてから、出穂ばあさんの様子を確かめ、それから森也とさくらは家路に就いた。何かあったらいつでも呼んでくれ。そう言い残して。

 帰る途中、森也がニヤリと笑って見せた。

 「聞いたか? 『お前なら出来るはずだ』だとさ。おれはまだ二三だぞ。この年齢でひとつの地域の命運を託される。そんな人間が世のなかにどれだけいる?」

 その呟きにさくらは答えなかった。自分に対して言っているのではないことははっきりとわかったからだ。

 「おれは学校なんぞには行かなかったが、ここまで頼られるほど自分で自分を育てあげた。見ているか、世間? 正しかったのはこのおれだ」

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