九章 男友達なアイツの素顔
それに、耳元でささやかれたときの女性らしい様子はさくらを安心させるものだった。
――兄さん相手のときとは全然、感じがちがったけど……もしかして、あれが素なの?
さくらはガラス製の玄関からひょこっとなかをのぞき込んだ。隠れているつもりだったけど、たちまち瀬奈に見つけられてしまった。瀬奈は笑顔で声をかけた。
「あ、来てくれたのね、妹ちゃん」
――『ね』?
「こ、こんにちは……」
内心の驚きはどうあれ、見つかってしまった以上、そのまま隠れているわけにもいかない。さくらは挨拶しながら玄関をくぐり、店内に入った。瀬奈はほがらかに言った。
「もう少しで終わるから、悪いけどちょっとまっててね」
「はい」
さくらは素直に答え、邪魔にならないよう店の片隅に移動した。接客係らしい若い女性がソファに案内して、お茶を出してくれた。さくらは出されたお茶に口を付けるでもなく店内の様子を見回していた。
大して広くもない店内。だけど、掃除は行き届いていて、どこもきれいなものだ。工務店などと言うものはもっとこう、道具やらなにやらが散らばっていて乱雑な場所かと思っていたけれど、ここは事務所と言うこともあってそう言うわけでもないようだ。備品に至るまでみんな、きちんと収められていて、散らかっている様子はまったくない。
店内には三~四人の従業員しかいなかった。この地域一帯の建築業を一手に引き受けているという大手工務店。この程度の人数で回るわけがない。従業員の大半は現場に出ているのだろう。ここには事務仕事に携わる少数の従業員だけが残っているのだ、おそらく。それにしても――。
意外だったのはその従業員たちの年齢。みんなまだ若い。どう見ても瀬奈と同世代。高校出たての新人、といった感じの初々しさを残した従業員ばかりなのだ。
――こんな若い人ばかりでやっていけるの? ベテランの人はみんな現場に出ていて、新人だけが残ってるとか?
さくらが思わずそう疑うような店内の雰囲気だった。
瀬奈はその少ない従業員たちにテキパキと指示を出し、自分も何枚かの書類を確認し、ペンを走らせていた。その表情は仕事中だけあって真剣なものだったけど、従業員に話しかけるときはやさしい笑顔を忘れなかった。その笑顔と物腰の柔らかさ、女性らしさがまた、森也の相手をしていたときの『男友達』感とはまったくちがうものだったので、さくらはまたも意外な思いを禁じ得なかった。
就業時間が終わったらしい。瀬奈は店内にいた全員を集め、終業の挨拶をした。
「今日も一日お疲れさま! 明日もよろしく」
なぜかバスケットボールを一人ひとりとパスしながら、笑顔でそう語りかける瀬奈だった。 従業員たちを帰した後、さくらに『ごめん。もうちょっと待っててね』と言って、瀬奈は奥に引っ込んだ。数分して作業着姿から私服姿になって戻ってきた。
Tシャツにジーンズという飾らない格好。短くまとめた髪も相まってやっぱりボーイッシュな印象。でも、物腰や仕種は女性らしくたおやかでやはり、森也の前での男っぽい振る舞いとは全然ちがう。歩き方も女性的で『ズカズカ』と言った感じではない。
――もしかして、兄さんの前ではわざと男っぽく振る舞ってるの?
あまりのちがいにさくらはそう疑った。
「お待たせ、妹ちゃん」
言われてさくらは立ちあがった。
「いいえ」と、短く返事を返す。
瀬長が店内の戸締まりすべてを確認してからふたり並んで外に出る。瀬奈は玄関に鍵をかけた。それから、桜に話しかけた。
「ちょっと歩こうか。付き合ってくれる?」
「あ、はい」
さくらは瀬奈の後について歩きだした。
すでに夕方。山全体が夕焼けを浴びて赤く色づいている。数百年の時をかけて整備されてきた棚田が夕陽を浴びて息を呑むほど美しく輝いている。
「う~ん」と、瀬奈は大きく伸びをした。
「森也は横浜育ちだって言っていたから、妹ちゃんも当然、横浜育ちなわけよね?」
「え、あ、はい……」
「ハマッ子からしたらこんなところなんて、信じられないぐらいのど田舎なんでしょうね」
「そうでもないです。うちは横浜って言っても内側の端っこでしたから。港を見たことなんて数えるほどしかありません」
「ああ、そうか。そう言えば森也も言ってたっけ。『港を見て育ったわけじゃないし、ハマッ子と言えるようなものじゃない』なんてね」
そう言ってから瀬奈はつづけた。
「あたしはずっとここ。高校だけは相模原の林業高校に通っていたけど、それ以外はずっとこの赤葉の地で育ったの。あたしはここが大好き。都会の人から見たらとんでもないど田舎なんだろうけど、あたしにとっては思い出の詰まった大切な場所だものね」
「はあ……」
家での暮らしにいい思い出がないせいだろうか。『地元愛』などと言うものは持ち合わせていないさくらにはわからない心情だ。失礼にならないよう曖昧に答えるのが精一杯だった。
瀬奈はそんなさくら見て『クスッ』と笑った。
「驚いてる? 森也の前での『オレ』とのちがいに」
「あ、いえ、そんなこと……」
さくらはあわてて否定したが瀬奈はすべてお見通しのようだ。ヒラヒラと手などを振って笑ってみせる。
「いいのよ。全然ちがうのは自分でもわかってるから。森也とはじめて会ったのはまだ高校に入ったばかりで、あの頃はいつもあんな感じだったから。でも、成人してまで『オレ』なんて言ってるわけにはいかないものね。社長を継いだ以上、従業員やお客さまの手前もあるし。きちんとした立ち居振る舞いを身につけなくちゃって、マナーやらなにやらずいぶん勉強したのよ」
――先代社長のじいさんが死んだ後、親父が全然、仕事をしなくなったんで急遽、社長を継いだ。
さくらは森也のその言葉を思い出していた。
――苦労した分、成長したんだ。
そう思うと瀬奈を見る目がかなりかわった。
「もっとも、森也とはずっとあんな感じで付き合ってきたから、いまさらかえられなくてね。あいつの前だとついつい『男友達』になっちゃうのよね」
瀬奈はそう言ってケラケラと笑った。
瀬奈は笑いをおさめるとさくらを見た。ドキリとするぐらい優しい微笑みだった。
「あたしの所に来る前に、おばあちゃんとは会ったんでしょ?」
「えっ? あ、はい」
「そうよね。森也のやつはあれで礼儀にはうるさいから。ここに住む以上、まずはおばあちゃんの所に行くはずだと思ったわ。ごめんね。おばあちゃん、また森也のことを『婿どの』とか言ってたでしょ?」
「あ、はい」
瀬奈は困ったような、嬉しそうな、『嬉しながら困る』と言うのがふさわしいような様子で息をついた。
「おばあちゃん、いつもあんな調子だから。誤解されないように妹ちゃんにはちゃんと話しておきたかったの。だから、付き合ってもらったってわけ」
「そうだったんですか」
「ごめんね、急に誘っちゃって」
「いえ、気にしないでください」
「ふふ」と、瀬奈は笑って見せた。
「そう言うところ、会ったばかりの森也にそっくりだわ。礼儀正しいけど世慣れしてなくて、ついつい素っ気ない感じになっちゃって。馴染めばよく話すようになるんだけどね」
「兄さんと……」
似ている、と言われてさくらはちょっと嬉しいというか、くすぐったいような気分になった。
「森也からある程度は聞いていると思うけど……うちの親父には会った?」
「ちょっと、見かけただけですけど」
「ひどい親父でしょ」
「い、いえ、そんなことは……」
ありません、と、断言することは出来なかった。昼間っから酔っ払っているあんな姿を見せられてしまっては。瀬奈はそんなさくらの内心を見透かしたように言った。
「いいのよ。実の娘のあたしから見てもひどい親父だもの。昔から仕事する気なんて全然なくて、おじいちゃんの目の届かないところでは酒飲んでサボってばっかり。いくら、若い頃に都会に出る夢を無理やり絶たれたからって、いい歳してどうよ、って感じよね。娘の前でそんな姿を平気でさらすんだから、親の責任をなんだと思っているのやら」
「はあ……」
瀬奈の容赦ない父親評にさくらは曖昧に答えるしかなかった。
「おじいちゃんが死んで、普通なら親父が跡を継いで社長になるべきところだったんだけど、本人、そんな気はまったくなくてね。それどころか『これで怖いものはなくなった』とばかりに毎日まいにち酒飲んでゴロゴロし出す始末。おばあちゃんや母さんが何言っても聞かずに寝転がってばかり。とても任せてられないって言うんで『オレが社長になる!』って宣言しちゃってね。勢いで高校やめて社長になっちゃったわけ」
いま、考えれば別に高校を中退する必要はなかったんだけどね、と、瀬奈は苦笑して見せた。
「卒業まであと半年もなかったし、必要な単位はもう取れていたから。あとは出席日数を切らないよう適当に出席していれば卒業できたんだから、社長業しながらでも卒業できたんだけど、あのときはもう『オレがやらなきゃ会社が潰れる!』ってなっちゃってね。でまあ、社長に就任したはいいけど、やっぱりしょせんは高校生じゃない? なにをどうしていいのか全然わからない。おまけに当時は雰囲気、悪くてね。親父のだらけた雰囲気が他の従業員にも伝染しちゃってて、やる気のあるやつなんてひとりもいない。事務所はタバコの吸い殻と酒瓶とエロ本の山。何のことはない。三流男子校の部室並よ」
「そ、そうだったんですか……」
さくらは意外さを禁じ得なかった。先ほど見たきっちりと整理整頓された事務所からは想像も付かない姿だ。
「そのとき、色々と助けてくれたのが森也だったの。やる気のない従業員を一喝して全員、叩き出して、あたしの学校仲間たちを誘って新しい従業員にして。それじゃあ、技術も経験も足りないって言うんで、よそから現役引退したベテランを連れてきてくれてね。『マンガ家だから編集部さえ通せばツテはいくらでもある』って言ってね」
なるほど。それで、事務所にいたのが瀬奈と同世代の若い人間ばかりだったのか。さくらはようやく納得した。
「事務所がしっかり整理整頓されてきれいになってるのは見たと思うけど、あれも森也が言ったことなの。『整理整頓を徹底しろ。使ったものは必ず、使い終わった時点でもとの場所に戻せ。出しっ放しにしておくとどんどん汚れる。汚れた事務所じゃ客なんて寄りつかないぞ』ってね。その方針を徹底させるための訓示の仕方や、モチベーションを高めるためのスピーチ方法……全部、森也に叩き込まれたわ」
「そうなんですか……」
――兄さん、そんなことできるんだ。
人前での訓示やスピーチなんて、家にいた頃の森也からは想像も付かない。いったい、どこでそんなスキルを身につけたのだろう。その疑問には瀬奈が答えてくれた。
「『もと引きこもりのマンガ家がこんなこと、どこで覚えたんだよ』って聞いたら『本で読んだ』だって。『本で読んだぐらいでできるようになるなら誰も苦労しないだろっ!』って、思わずツッコんじゃったわよ。でも、それができるのがあいつなのよね。本を読んだだけでたいていのことはできるようになっちゃうんだもん。ほんと、能力に関しては化け物だわ」
――兄さんってそんな人だったんだ。
自分の知らない兄の姿を他人から聞く。嬉しいような、悔しいような、そんな気のするさくらだった。
「ペレットを販売することを考案してくれたのも森也なのよ。ペレットってわかる?」
「木くずやオガクズなんかを固めて燃料にしたものですよね。おばあさんがペレットを積んだトラックで配達に行くのを見ました」
「そう。『工務店なら木くずやオガクズは大量に出るんだからそれを商品にしない手はない。幸い、昨今のエコロジーブームで薪ストーブの人気は高まっている。ペレットストーブを無料レンタルしてあちこちに置いてもらえればペレット代だけで充分な収益になる』ってね。エコ先進国のオーストリアから高性能のペレットストーブを取り寄せたり、あちこちの店や区役所を回って置いてもらったり……そんなことも全部やってくれたの。おかげで仕事のない時期を支えられたわ。いまも大切な収入源だし。もちろん、ペレットに加工するための設備投資にはかなりの額がかかったんだけど、それも森也が赤岩さんに頼んで無利子で都合してくれたしね。森也の前では師匠だの兄貴分だの言ってるけど……本当は、あたしの方こそあいつには全然、頭あがらないのよね」
瀬奈はそう言うと照れたような笑みを浮かべながら自分の頭をコツン、と、叩いた。
それからふと、表情を改めた。少しばかり深刻な表情になってつづけた。
「……それで、本題とも言うべきおばあちゃんの件なんだけど。おばあちゃん、自分の息子のせいで孫のあたしが高校を中退したってすごく気に病んじゃったのよね。あたしの将来を異常なぐらい気にかけるようになっちゃって。『何としても幸せになってもらわなきゃあの世になんて行けやしないよ』なんてね。それで、森也をあたしの婿になんて言い出したの」
「兄さんを……」
「そう。森也があれこれ世話を焼いてくれたから、森也と結婚すればあたしが幸せになると思ったんでしょうね。でまあ、あたしもつい『それもいいかな』なんて思っちゃってね。何しろ、あの頃はいつも心細かったから森也が助けてくれて本当に心強かったし。森也のことは元々好きだったしね。あ、この『好き』はあくまで友だちとしての『好き』だからね? その点、勘違いしないでね」
相手が森也の実妹であることを気にしたのだろう。その点をひどく強調する瀬奈だった。
「……でも、やっぱり、あいつはあたしの手に負えるような相手じゃないわ。あいつは才能もスケールも大きすぎる。人類の歴史のすべてを俯瞰して見られる男だものね。ど田舎の工務店の跡継ぎなんかじゃついていけない。だから、おばあちゃんにははっきり『それはない』って断ったの。でも、おばあちゃんはどうしてもって聞かなくてね。いまだに森也のことを『婿どの』なんて呼んでいるのよ」
「そうだったんですか」
「そう言うこと。だから、心配しないで。『お兄ちゃん』を取ったりしないから」
「い、いえ……! そんなこと気にしてたわけじゃ……」
「ふふ。そういう人に気を使う優しいところも森也そっくり。実際、あいつの優しさ、というか愛情深さは反則だものね。正直、気の迷いがないわけじゃないの。あいつの前だと『男友達』になっちゃうのも、そうしていないとついついその気になっちゃうからかもね」
瀬奈はそう言ってちょっとさびしそうに微笑んだ。
「実の妹相手に他人のあたしが言うのも変だけど……森也をお願い。あいつの生い立ちに関してはあたしも少しは聞いているわ。あいつ自身は『人付き合いに興味ない』なんて言ってるけど、あたしはあいつほど『愛する対象』を必要としている人間はいないと思う。あたしはそうはなれなかったけど……実の妹ならなれるかも知れない。って言うか、なってほしい。そして……森也のやつをひとりにさせないで」
「はい」
さくらは心を込めてうなずいた。
「ありがとうございます。兄のことをそんなに想ってくれて」
その言葉に――。
瀬奈は一瞬、驚いたように目を見開いた後、とびきりの微笑みを返したのだった。
瀬奈と別れ、家に帰った。家では森也が夕食の準備をしているところだった。
「お帰り。遅かったな」
「うん。瀬奈さんとちょっとね」
「瀬奈と?」
「うん。ねえ」
「なんだ?」
「瀬奈さんのこと、どう思ってるの?」
「どう、とは?」
「だから。瀬奈さんと結婚話があったんでしょ?」
ああ、と、森也は納得顔で答えた。
「あれはあくまで血迷ったばあさんの言い出したことだ。おれにも瀬奈にも関係ない。瀬奈だってばあさんの前ではっきり断ったしな。『結婚話』なんて言えるものではないさ」
「兄さん自身はどうなの? 瀬奈さんと結婚したかったとかないの?」
よしてくれ、と、森也は大げさに手を振って見せた。
「おれは藍条森也だぞ。結婚なんて有り得んよ。大体、あいつは男友達だからな。結婚なんてとてもとても」
その返事に、さくらは――。
「てい」と、声をあげて森也の脛を蹴りつけたのだった。
「何をする⁉」
「別に」と、それだけを言ってその場を去るさくらであった。
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