六章 兄妹になる。今度こそ
その日、森也は新しい田畑となる土地の前に立っていた。立ったままじっと目の前の土地を見つめている。そこはモザイクのような土地だった。ある場所ではきちんと手入れが行き届き、作物が作られているというのに、その隣は草ボウボウ。その隣はまた野菜畑で、しかし、まわりは荒れ野原。そんな土地だ。一ヘクタールばかりの土地を何人もの地主がわずかな範囲ずつもっているので、手入れの度合いが異なり、モザイク状になっているのである。
そんな土地をまとめて借り上げ、ひとつの田畑として作りあげる。さらに、新しい自分の家も建てる。返還を求められているいまの家と田畑にかわり、ここが森也の新しい拠点となる。
「ここが兄さんの新しい土地になるのね」
森也の隣に立ったさくらがそう言った。優しい微笑みを浮かべて兄の横顔を見上げる。
「そういうことだ。何人もの地主が少しずつもっている分、まとめるのには手間がかかったけどな。しかし、ここでの暮らしで得た信頼のおかげでうまくいった。いままでやってきたことは無駄ではなかったわけだ」
森也は目の前の土地からわずかも視線をそらすことなく答えた。他人が見ればぼんやりと目の前の風景を見つめているだけに見えるだろう。しかし、もちろんそうではない。頭のなかではイメージの奔流が走り抜けている。どんなデザインにするか? 自宅は? すさまじいスピードでデザイン画が描かれては廃棄され、新しいデザイン画が作られる。もし、森也の頭をのぞくことができたなら人間の思考というより高性能のAIの思考のように見えたことだろう。森也の思考能力はそれほどに速い。
「この場所は単にエネルギーと食料を生産するだけじゃない。生命の美を集めた庭園でもある。見ていろ、この土地にダ・ヴィンチのキリスト画を超える価値をもたせてみせる」
「……これでやっと、兄さんのやりたいことができるのね」
「ああ、そうだ。まさに『やっと』だ」
森也は両拳を握りしめ、ゆっくりとうなずきながら呟いた。まっすぐに前を見据える目は瞬きひとつしない。『やっと』という短い一言にどれほど深い思いが込められていることか。それは、ごく普通の生活を送ってきた中学生であるさくらにはとうてい想像もつかないものだった。
「……間違っているのはおれじゃない。間違っているのはあいつらの方だ。いつか、それを証明して見せる。それだけを思って生きてきた。そしてやっと、そのための戦いをはじめられるんだ」
さくらはゆっくりとうなずいた。誇らしい思いでいっぱいだった。彼女の兄は自分の不幸を他人のせいにしたりしない男、何度挫折しようともそのたびに立ちあがる強さをもった男、自分の価値を証明するために実績をもってしようとの気概をもつ男だった。
「兄さん、あたしも協力する。兄さんと一緒に、兄さんの価値を証明してみせる。あたしにできることがあったら何でも言って」
「もちろんだ。主要な読者である現役高校生とのつながりを得られるのは貴重だからな。当てにさせてもらう」
「うん」
兄の横顔をさくらは愛しさを込めて見上げる。あの日を境にやっと本当の兄妹になれた気がする。いまでは週末は泊まりにくるのが普通になっていた。畑仕事を手伝ったり、同じテーブルをはさんでさくらは勉強、森也は仕事に励んだりしている。すれ違いばかりで無駄にしてきた子供の頃の時間。その時間をいまようやく取り戻せたようで、さくらは本当に嬉しかった。
夕食用の野菜を収穫し、一緒に調理する。一口頬張る。途端に満面の笑みとなった。
「おいしい!」
やはり、『自分で収穫した』という思いはなにものにもかえがたい。ここに住めば収穫だけではなく、日々の世話も手伝うことになる。自分で育てた野菜はどんなにおいしいだろう。そう思い、いまから待ち遠しいさくらだった。
それからは同じテーブルの両向かいに座って森也は仕事、さくらは勉強に精を出した。いつの間にか一二時近くになっていた。森也が湯気を立てるカップをふたつ、もってきた。ほのかなレモンの香りが漂っている。安眠効果のあるナイトティーとして知られるレモンバームティーだ。
「今日はそこまでにしろ。お前の年齢では一二時前に寝た方がいい」
「あ、うん」
さくらはティーカップを受け取りながら答えた。森也はさくらの真向かいに座り、自分の分のレモンバームティーを一口飲んだ。それから、言った。
「ところで、お前にいくつか話しておくことがある」
「話?」
いきなり言われてさくらは目をパチクリさせた。森也は軽くうなずくと真剣な表情で話した。
「中学を卒業したらここに住むという件、親に話して了承を取っておいた」
「兄さん、あの人たちと話したの⁉」
さくらは驚いて叫んだ。この五年間、面と向かって話したことはおろか電話一本したこともない相手なのに。
「必要なことだからな。お前はまだ未成年で保護者が必要な立場だ。その保護者はあくまでも親であっておれじゃない。それなのに、親に言っているのとちがうことをしていたら後々、手続きなどで面倒になる。きちんと了承を取っておかないと」
「でも、兄さんの所に住むなんて……よく許したね?」
「グチャグチャ文句を言うようなら児童虐待で訴えると脅したからな」
「へっ?」
「ついでに、マンガにあの頃のことを描いて世間に広めると言ったらおとなしく認めたよ」
――うわっ、兄さん、けっこうえげつない。
そうも思ったけれど自分のためにそこまでしてくれたというのは素直に嬉しかった。
「さて、ここからが本題だ。知っての通り、おれと親父はとことん相性が悪い。だが、一度だけ、親父の言葉に感動したことがある」
「感動?」
「そうだ。まだマンガ家になる前、家にいた頃だ。親父はおれにこう言った。『学校だけは行っておけよ。勉強はどうでもいいから』。それを聞いた瞬間、おれは感動とともに思った。『ここまで他人のことを理解せずにいられるものなのか!』と」
と、森也はまるで稲光でも背負うかのように拳を握りしめて力強く語った。そのマンガの一シーンのような姿にさしものさくらも言葉を失った。こめかみの辺りに一滴の冷や汗を流しながら『え~と……』などと呟いてみる。
兄は妹の困惑などお構いなしに話をつづけた。拳は握りしめたままで相変わらずの熱血モードである。
「そのときまで、まさかこのおれに向かってそんなことを言う人間がいるなんて思ってもみなかったからな。つまり、親父はおれが学校に行かないのは勉強がいやだからだと思っていたわけだ。学校には行かなかったが勉強はしていたし、毎日のように図書館通いをして学習の鬼になっていたと言うのにな。よりによって十何年間も一緒に暮らしてきた相手がそんなことをまるで知らなかった。その一言でおれは生涯の教訓を得た。親子であろうと、一緒に暮らしていようと関係ない。他人を理解するためには常に理解しようとしなければいけない。でなければ決して理解することはできないと言うことをな。まさに、感動の瞬間だった」
握りしめた拳にぐっと力を込めて力説する森也である。さくらはさすがに口をはさんだ。冷や汗などを流しつつ、おずおずと片手を挙げた。
「え、え~と、兄さん?」
「何だ?」
「あの……何で、そこで感動するわけ? 普通、『理解されていない』ってショックを受けるところじゃない?」
「そんなこと言ったって実際に感動したんだから仕方がないだろう。おれはそういう人間だと言うことだ。だいたい、生まれてこの方、親と思ったことなどない相手だしな。ショックを受ける謂れもない」
わざわざ胸を張って自慢するかのように言う森也である。これにはさすがにさくらも頭の周りに『理解不能』の信号を漂わせた。
「まあ、とにかくだ。人と人が理解し合うのはそれだけ大変だと言うことだ。別に親父だけが悪いわけじゃない。向こうがおれを一切、理解しようとしなかったのは確かだが、おれだって理解されようとしたことなんて一度もないからな。その点ではお互い様だ。もっとも、おれが何も言わない人間になったのは、何か一言、言うたびに怒鳴られて、悔し泣きする羽目になったからだけどな。ともあれ、いまさら、あの親と関係を修復する気もない。だいたい、親子関係がどうとか言う以前におれはああいう人間が嫌いだからな。他人の言うことは聞かない、自分ひとりの勝手な思い込みで行動する、それで相手が従わないと不機嫌になる、気に入らないことがあれば怒鳴ればいいと思っている、自分は何もやらないくせに他人にやらないと文句をつける、親だからと言って命令して当たり前だと思っている、何ひとつ学ぼうともしないくせになぜか、いつも自分が正しいという面をしている、いつだって他人に言いたい放題言っておいて、何を言ったかなどケロリと忘れる、他人の気持ちなどそもそも存在しているとさえ思っていない……二次元美少女だったら許されるかも知れないが三次元、それも、いい歳したオヤジがそんな性格だったら迷惑なだけだ。あんな人間がどうして普通に会社勤めなんかしていられるのかいまだに理解できん。まあ、家庭内暴君というものは外面はいいものと決まっているわけだがな。とにかく、おれはああいう人間が嫌いだ。あんなやつが好きという人間がこの世にいるかどうか知らないが。おれにとってあんな人間と関わるのは人生の無駄以外の何物でもない」
「ちょ、ちょっと待ってまって」
立て板の水で語られる言葉の洪水にさすがに窒息寸前になってさくらがあわてて止めに入った。水面で口をパクパクさせる金魚のようにあわてて両手を振る。
――こんなに喋る人だなんて知らなかった。
実家にいた頃の、いつもどんよりとしてろくに口を開かなかった頃のイメージが強い分、こうも勢いよく言葉を吐き出す姿は衝撃的だった。
――でも、兄さんの本当の姿を知れてちょっと嬉しいかも。
そうも思ったけれど。
「そ、そこまで勢いよく言われるとさすがにつらいんだけど……」
言われて森也はようやく我に返ったようだった。表情を改め、わざとらしく咳払いなどしてみせる。その頬はかすかに赤くなっているようだった。
「……失礼。少々興奮したようだ。とにかく、おれはああいう人間は嫌いだから今後とも関わる気はない。だが、お前とはうまくやっていきたいと思っている。だからこそ、この教訓は大切だ。もし、お前が『何も言わなくてもわかり合えるのが家族』などと思っているならそんな思いはキッパリ捨てろ」
「……兄さん」
「なぜか、日本人というやつは家族に対してとんでもない幻想を抱いている。『何も言わなくてもわかり合えるのが家族』だとか『傷つけあっても絆を保つのが真の家族』とかそんなことを思い込んでいる。ドラマのなかでも何かというと怒鳴るわ、殴るわ、それでも関係は変わらない。むしろ、殴られて育ったやつほど親思いだったりする。そんなわけねえだろ! 殴れば憎まれる、言わなきゃわからない、その当たり前のことをいつになったら学ぶんだ、日本人というやつは!」
またも興奮が先走り、言葉の奔流があふれ出す。さくらは呆気にとられて兄の顔を見つめている。その視線に気付き、森也はまたもやってしまったことに気がついた。頬を軽く朱に染めて、咳払いをひとつ。
「……とにかくだ。親子だろうと、きょうだいだろうと、その他だろうと、何もせずに『いい関係』をつづけることなどできはしない。世の中のいわゆる『結婚本』はまるで、結婚がゴールであるかのように思っている。『いい相手』を見つけることの重要性は強調するが、『いい関係をつづけるための努力』に関してはほとんど語らない。だが、重要なのはそこなんだ。結婚はゴールではなくはじまりに過ぎない。それから何十年もの間、ともにすごし、人生を築いていく。そのためには常に『いい関係をつづける努力』をする必要がある。最初の段階でどんなにいい関係を築いていようと、そのことに甘え、『いい関係をつづける努力』を怠れば、徐々にすれ違いが積み重なり、最終的に破局する。これは夫婦に限らず、親子でも、きょうだいでも、友人間でも、人と人が関わる限り、どんな関係でも同じだ。いい関係をつづけていこうと思えば、『いい関係をつづける努力』をつづけていかなくてはならない。そうでなければ人間関係なんてすぐに壊れる」
「……それって、『いい家族』であるために演技しろってこと?」
さすがに嫌悪感を感じたのだろう。さくらは不満げに口にした。森也は首を横に振った。
「演技とはちがう。『望みを叶えるためには努力が必要』だと言うことだ。実際、おれとお前はすでにすれ違いを起こしている。おれはお前を避けている理由を説明しなかった。お前は自分が避けられている理由をおれに聞かなかった。結果として、おれはお前に誤解させてしまったし、お前は勝手に『自分は憎まれている』などと思い込む羽目になった。すでに重要な教訓を得ていたのにお前にそんな思いをさせてしまったのは、お前ときちんと向き合う勇気のなかったおれのせいだ。本当に申し訳ない。すまなかった」
そう言って森也はさくらに向かって頭をさげた。さくらはあわてて両手を振った。
「そ、そんな……! 兄さんが謝ることなんて……」
「とにかく、おれはそんなすれ違いを繰り返す気はない。これからはうまくやっていきたいし、そのために必要なことをする気でいる。お前はどうだ? おれとうまくやっていきたいと思うか?」
「も、もちろん! あたしは……兄さんのいい妹でいたい」
――そう、今度こそ……今度こそ支え合える『家族』になりたい。
それが嘘偽りのないさくらの本心だった。
その思いが伝わったかのように森也はうなずいた。
「だったら、お互い、そのために必要なことをしなければならない。相手を理解しようとしなければいけないし、自分を理解してもらおうとしなければいけない。はっきり言って面倒なことだ。本気で相手とうまくやっていきたいという思いがなければできることじゃない。だが、逆に言うと、それができる限り、相手を本気で思っていると言うことだ」
「でも……具体的にどうすればいいわけ?」
「そうだな。お互い、相手に対する要望をはっきり伝えるとか、納得できないことがあればきちんと話し合って解決するとか、いろいろあるわけだが、とりあえず、『愛してる』の一言を言うことからはじめようか」
「あ、愛してる……? そんな恥ずかしいこと、いちいち言うわけ?」
さくらはたちまち真っ赤になった。まともに兄の顔を見られない。思わず顔をそらし、片目を閉じてしまう。残った片目でどうにか横目で森也を見る。
森也も森也で頬を真っ赤に染めている。両目をつぶり、ポリポリと頬などかいている。
「……照れくさいのはわかる。おれだってそうだ。しかし、とにかく『言わなきゃわからない』というのがあるんだ。ちゃんと言葉にして気持ちを伝える習慣をつけなくちゃいけない。『愛してる』なんて恥ずかしい言葉を言えるなら他の言葉だって言える。だろう?」
「そ、それはそうかもだけど……」
『愛してる』なんていう言葉、いままで誰にも言ったことはない。まして、兄妹の間柄で言い合うなんて……何だか、イケナイ世界に入り込んでしまったような気のするさくらだった。
「とにかく、ものは試しだ。言ってみろ」
「え、ええ、いま言うの⁉」
「いま言えなかったら、いつまでたっても言えないだろう」
「そ、そうかも知れないけど……だったら、兄さんから先に言ってよ!」
「おれが課題を出したんだからお前から言え」
「ずるい! だいたい、こういうことって親が子供に対して言うものでしょ。兄から妹に言うべきよ」
「……わかった。では、同時に言おう。いいな?」
「う、うん……」
「では……」
森也の合図につづいてふたりは同時に言った。
「愛してる」
そう口に出して言った直後――。
ふたりはそろって火を吹いたように顔中を真っ赤にした。思わず視線をそらし、意味なく手など振ってみせる。
「な、なんかこれ、すごい照れるんだけど……」
「……まったくだ。アメリカ人はすごいな。思わず尊敬してしまった」
さくらが耳まで真っ赤にしながら言うと、森也も劣らず赤い顔でそう言った。ふたりともパタパタと手で顔を扇いでいる。
「しかし、これではっきりわかった。『愛してる』なんて恥ずかしい台詞、実際に愛していなければとても言えるものじゃない。つまり、『愛してる』というその瞬間は本当に愛しているんだ。例え、関係がギクシャクしても、この言葉を言い合うことでその瞬間は愛し合う関係に戻ることができる。それができる限り、『良き家族でいるための努力』もつづけられる。もし、『愛してる』と言い合うことができなくなったらそのときは別れの時だ。そんなケンカ別れにならずにすむよう、お互い精進するとしよう」
「う、うん……」
頬の火照りを残したまま、さくらはうなずいた。
「では、この言葉を言うときを決めておこう。そうだな。寝る前に必ず『お休み、愛してる』と言い合うことにしよう。人間、最後の瞬間を一番強く覚えているらしいからな。一日の最後に言い合えばその瞬間が記憶に残り、本当に愛し合ってる気持ちになれるだろう」
「う、うん、わかった。それじゃ、改めて……」
さくらは居住まいを正した。何とも緊張してしまう。見合いの席のように縮こまった正座姿になってしまう。見てみると森也の方も似たり寄ったりの姿。その姿にさくらはちょっとホッとしてクスリと笑いをもらした。
「お、お休みなさい……愛してる」
「ああ、お休み。愛してる」
第一話完
第二話につづく
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