五章 妹が自慢できる兄となるために
「おれたちの国を作る」
「国を作るだと⁉」
森也の突然の言葉に赤岩あきらは素っ頓狂な声をあげて飛びあがった。その隣では姉の菜の花が『ポカン』とばかりに口を開けて、呆けている。
場所は森也の家。その居間。森也は突然、ふたりを呼び出すと、お茶も出さずにいきなり、言ったのだ。
――おれたちの国を作る、と。
飛びあがるのも、唖然とするのも当たり前だった。しかし、森也は動じない。この程度の反応は予想済み。何も、いきなりこちらの思いを汲み取って『よし、国を作ろう!』などと盛りあがってくれることを期待していたわけではない。ゆっくりと、しかし、重々しくうなずくと、もう一度繰り返した。
「そうだ。おれたちの国を作る」
「国を作るだと? どういう意味だ?」
「そのままの意味だ。おれたちの生きていく国を、おれたちの暮らしていく国を、おれたち自身の手で作る。そういう意味だ。と言って、何も既存の国家と対立しようと言うわけじゃない。法は守る。税金も払う。だが、その国のなかでどう暮らしていくかはおれたち自身が決める。文句を言う奴は札束で横っ面を引っぱたいて黙らせる。
なぜ、そんなことをするのか?
どの場所に生まれたかで人生が決まってしまう。そんな世界を終わらせるためだ。世界中のどんな場所、どんな親のもとに生まれようと、誰もが自分の望む暮らしを手に入れられる。そんな世界を作りあげるためだ。
なぜ、そんなことを望むのか。そのことを説明するためにまず、改めて、おれのことを話させてもらおう。
このおれ、藍条森也は『学校に行かない』という理由で世間に殺された人間だ。おれはおそらく、他の人間に比べて精神の成長が遅い。一般的な人間の半分以下と言うところか。幼稚園に上がる年代になった頃はまだまだ赤ん坊同然。幼稚園で知らない人間たちと過ごす精神的な準備なんてとてもじゃないが出来ていなかった。いつも、ひとつポツンと過ごし、毎日のようにウンコや小便を漏らしていた。幼稚園の担任がパンツを洗っている間、おれはいつも下半身むき出しでトイレのなかにいた。そのたびにクラスの連中がのぞきにきてドアを開けようとした。おれは必死になってドアを内側から押さえていたもんさ。
だが、おれが幼稚園でどんな思いをしているかなど、世間にとってはどうでもいいことだった。大切なのはただひとつ、幼稚園に行かせる。ただそれだけ。親も、幼稚園も、よってたかっておれを幼稚園に行かせよう、普通の暮らしをさせようと躍起になった。父親は泣き叫んで抵抗するおれの腕をつかんで無理やり幼稚園に引きずって行こうとした。『男だろ!』といつも怒鳴られた。母親は半狂乱になって足が痺れて立てなくなるまで説教し、物置に閉じ込め、線香の火を押しつけ、布団蒸しにした。毎日まいにち『殺される!』という思いをさせられた。おれにとって父親との一番、古い思い出は幼稚園の制服を着て足を引っぱたかれているところだし、母親とのそれは正座させられて怒鳴り散らされているところだ。
誰かに助けを求めることなどできなかった。そんな相手はどこにもいなかったし、そもそも、おれには『助けを求める』という発想がなかった。『学校に行かない悪い子』を助けようなんて変わり者はどこにもいなかった。誰も彼もがおれを責め、ただひたすらに学校に行かせようとするだけ。それがわかっていたから誰にも助けを求めることなどできなかった。幼い子供にとってはまさに『世界のすべてが敵』だった。
小学校に上がっても状態は変わらない。おれは相変わらず通えなかったし、親も変わることなくおれを痛めつけた。幼稚園の頃より悪くなったかな。小学校になるとお節介な教師たちがクラスの連中を家に迎えに来させるようになったからな。それでもおれはいかない。おかげでクラスの連中にもずいぶん責められた。おれが学校に行こうが、行くまいが、連中には何の関係もないことなのにな。『学校は自分のために行くところなのだから行きたくないなんてワガママはいけないと思う』なんて言ってきた奴もいる。そいつだけはいまでも八つ裂きにしてやりたいと思っている。顔も名前も最初から覚えていないから無理だけどな。
『学校に行かない』からと言って幼い子供に死の恐怖さえ味合わせる。そこまでして学校に行かせようとする。それは正しいことなのか。冗談じゃない。そんな扱いが正しいなどと認めてたまるか。まちがっているのは自分じゃない。あいつらの方だ。父親に叩かれながら、母親に足が痺れて立てなくなるまで怒鳴られながら、おれは歯を食いしばってそう思った。
だから、そう証明することにした。学校に行くことなく自立できれば、まちがっていたのはあいつらの方だと証明できる。そう思った。
だから、おれは殴られようが、どうしようが、学校には行かなかった。
いつかおれが殺す側になる。
それだけを思って生き延びた。
もちろん、リスクはわかっていたさ。それで成功できなかったら野垂れ死に。『見ろ、学校にも行かなかった奴はこうなるんだ』と嗤われて人生、終わるだけ。それでも構わなかった。学校に行って周りの連中に『やっぱり、あれで正しかったんだ』などと思わせることだけは出来なかったからな。そんなことを思わせるぐらいなら人生を棒に振った方がましだった。
学校には行かなかったが図書館に通って本を読み、絵を描き、マンガを描き、小説を書き、作詞をして、彫刻をして……とにかく、ひとりでできて金になることは何でもやった。手当たり次第に作品を作ってはあちこちの賞に応募した。
すべてダメ。何ひとつ認められない。当然だな。おれには誰もいなかった。作品を見てもらう相手もいなければ、意見を聞ける相手もいない。ただでさえ賞を取るなんて簡単なことじゃない。まして、たったひとりでやっていたのでは取れるわけがない。
おれは、おれの正しさを証明することさえ出来ないのか。このまま何もできず、あいつらが正しいのだと証明してしまうのか。
そう思って何度、布団のなかで悔し涙を流したことか。夢のなかで賞を取り、目が覚めてから何の成果も出せない現実に直面し、泣いたことだって一度や二度じゃない。
何の成果も出ないまま時だけが過ぎた。定時制の高校には入学したものの、そこも結局、耐えられずに中退。バイトひとつできず、ニートの引きこもり状態。さすがに恥ずかしくて世間の目が怖かった。部屋中のカーテンを閉め、片隅にポツンと座り込んでいたこともある。一番、怖かったのは妹の存在だった。ずっとこのままで妹に軽蔑されるのか……さすがにゾッとしたよ。
それでも何とか、かろうじて、マンガ家としてデビューした。そのときには『自分の人生がはじまる』と思った。自分の正しさを証明し、世間に対して言いたいことが言えるとな。
家を出てひとり暮らしをはじめ、マンガ家家業をはじめた。対人経験が致命的に欠けていて、世間での振る舞い方なんて何も知らない。そんな人間にとって、編集や出版社と付き合ったり、アシスタントをこなすのは相当にキツかった。ストレスが胸にきていつも咳き込み、吐き気を感じていた。
だが、何しろ、他に道はない。ここで成功できなければ一生、日の目は見られない。だから、適応しようと必死だった。この頃には、おれもどうにか『内気な小学生』並には社会性が発達していたし、なにより、きちんと仕事をもつ社会人であり、誰に責められる謂れもなかったからな。生まれてはじめて、怯えることなく他人と会えるようになっていた。
編集にダメ出しをされながら作品を描きつづけ、何本かの読み切りを経てついに連載にこぎ着けた。正直、嬉しかったさ。やっと、自分の価値を証明できる。そう思った。
だが、おれの最初の連載はまったく人気が出なかった。半年ともたずに打ち切り。その後、半年間、仕事なし。必死に新作を描きつづけ、持ち込みをつづけたが、すべて没。当たり前だ。最初の連載であっさりコケたおれの評価は、編集部内で地に落ちていた。セカンドデビューを果たすのはファーストデビューするより難しい。
おかげで、すっかり失業者。貯金があるわけもなく、すぐに生活に困るようになった。家に帰れるはずもなく、助けを求められる相手もいない。他のマンガ家のアシスタントをしてどうにか日銭を稼いだ。
さすがにこの時期は苦笑するしかなかったな。『このまま野垂れ死にしても葬式に呼ぶ相手のひとりもいないな』とな。
そんなとき、『神奈川の秘境』と呼ばれるこの限界集落に越してきた。当時からすでに空き家と耕作放棄地でいっぱいだった。おれは『畑をきちんとやる』という条件で月二万で管理人として雇われた。家はボロボロだし、畑は草でボウボウ。それでも、直せば暮らすことはできたし、畑も手入れすれば充分、使えた。収入の乏しい次期だったから自分で食料を作れるのはありがたかったし、わずかとは言え月々の収入があるのは心強かった。
そうこうしているうちに『罪のしきよめ』で二度目の連載を勝ち取った。このときは思わず泣けるぐらい安心したよ。
まあ、人気が出るわけでもなく、最低限の金を稼ぐのがやっと。それでもとにかく、自力で稼ぎ、自力で暮らしてきた。やっと、堂々と人前に立てるようになったんだ。
二度と会うことはないだろうと思っていた妹から言われたよ。『自分で自分の道を切り開いた兄さんを尊敬している』とな。
思わず泣いたよ。
幼稚園や小学校でいつも糞小便を漏らしていたおれが、妹に軽蔑されるのが怖くてまともに前に立つこともできなかったこのおれが、そう言われるまでになったんだ。
人並み以下の状態からはじめて、自分で自分をここまで育て上げた。それは、なによりのおれの誇りだ。おれは誰が相手であろうと、胸を張って自分の人生を誇ることができる。だが――。
そもそも、なぜ、おれはあんな目に遭わなければならなかった? たかだか『学校に行かない』というそれだけの理由でだ。おれはただ、ひとりでいたかっただけだ。他人と関わりたくなかっただけだ。自分の望む暮らしを求めて何が悪い。それをワガママというのならワガママこそは正義だ。
おれは『自分の幸せを望んだ』という理由で世間から否定され、殺されたたんだ。
もし、『学校に行く』以外の道が用意されていれば、ちがう道を選ぶことが出来ていれば、おれはその道で自分の能力を存分に発揮できた。そうなっていればあんな目に遭わずにすんだ。人生で一番伸びる時期を世間との争いに浪費することもなく、いまよりずっと成長できていた。なのになぜ、あんな目に遭わなくてはならなかった?
そういう場所に生まれたからだ。
普通とちがうことを認めない社会に、ひたすら子供に普通であることを求める親のもとに生まれたからだ。条件がちがっていればおれには別の人生があった。自分に合った道で存分に学び、成長するという道がな。
そして、いま、世界中の多くの人間が自分の生まれた場所によって人生を決められている。生まれた場所によって自分の望まない文化を、自分の望まない法を、自分の望まない慣習を押しつけられ、人生を失っている。
貧しい国に生まれたために未来を描くことさえできない人間がいる。
無法地帯に生まれたために安心して暮らすこともできない人間がいる。
恋をしたことを理由に親に殺される人間がいる。
そんな時代を終わらせる。
生まれた場所によって人生が決められてしまう。
そんな世界を終わらせる。
誰もが自分の望む暮らしを自分で作れるようになる。そういう世界をはじめるんだ。
そのために手作りの国を作る。ここには何でもあるんだ。光があり、空気があり、水があり、大地がある。太陽電池と燃料電池、それにバイオガスプラントがあれば必要なエネルギーはすべて賄える。山があり、畑があり、田んぼがある。綿や麻を栽培し、ヒツジを飼えば服を作れる。ウシの皮からは靴が作れる。脂と灰があれば石鹸も作れる。木はいっぱいあるから木製の食器に椅子やテーブルだって作れる。生きていくために必要なものはなんだって作れるんだ。
そして、おれたちはマンガ家だ。出版社や書店を通すことなく自分で直接、自分の作品を売ることで稼ぐことができる。経済的な独立を果たせば誰に支配されることもなく勝手にやっていける。暮らしていくための決まりだって何だって自分たちで作れる。他人の作った決まりに無理やり従わせられる必要はなくなる。それがどういうことかわかるか? おれたちは自分の望む文明を築くことができるんだ。
それは言わば文明のハッキング。
古来、文明とは一握りの、特別な力を持つ人間が作りあげるものだった。だが、おれたちはクリエイターだ。どこかの偉い人間が『これが正しいんだ』と、単一の価値を押しつけるよりも、それぞれの作家が好きなように創作し、自由競争によって淘汰と選抜を繰り返した方が魅力的な作品が生まれることを知っている。
ならば、文明も同じ。多くの人間が生み出し、自由競争にさらされた方が魅力的な文明が生まれる。
それぞれの地域が自給体制を整え、独立したなら。
各地域ごとに自分たちの望む暮らしを生み出したなら。
そんな地域同士がネットを通じてつながり合い、交流したなら。
そして、人々は選ぶようになる。自分が生きていきたい文明を。魅力的な文明は大勢の人間に支持されて広まり、魅力のない文明は淘汰され、消えていく。生き残った文明同士がさらに影響し合い、混じり合い、さらに新しい文明を生み出していく。やがては、いまのおれたちには想像もつかないようなまったく新しい文明が生まれるだろう。
こんな面白いことが他にあるか? おれたちはそれができるようになった人類最初の世代なんだ。
技術的にはすでに必要なものはすべてそろっている。あとは実際に実現してみせるだけ。誰かがどこかでやれば後につづく者は必ず現れる。
だから、その最初の一歩をおれたちが踏み出す。関わる人間たちはコミュニティの一員として迎え入れる。永続的な関係を築くことで広めていき、新しい参加者が次の参加者を増やしていく。やがては、世界の主流となる。そのとき、おれたちは世界を征服するんだ。
単一の価値観に支配された単一の世界、そのために異なる価値観をもつ者の間で争いが繰り広げられる世界じゃない。
誰もが自分の望む暮らしを実現し、争うことなく暮らしていける。そんな世界、八百万の世界が生まれるんだ。
おれたちはそれができるようになった人類史上、最初の世代だ。さあ、はじめようじゃないか、世界征服」
「ふっ、世界征服か」
あきらは両腕を組んで森也を見た。ニヤリと笑う。その表情が特撮ヒーロー物に出てくる悪の組織の幹部そのもの。様になりすぎている表情だった。
「その顔付き、本気と見た。どうやら、お前もようやく、その気になったようだな」
「本気になるべき理由が出来たんでな」
「ふっ。偉大なり、妹の力」
あきらは両目を閉じ、静かに言った。森也の言う『本気になるべき理由』など、わざわざ聞いてみるまでもない。そして、あきらは両目を開けた。そのときにはすでに、その目は燃えたぎる野心に赤く染まっていた。
「よかろう。その話、乗ったぞ。共に世界を征服しようではないか!」
「おお、世界征服! 燃えてきたあっ!」
と、菜の花も吠える。この辺りはさすがに森也の姉と言うべきだった。
菜の花の叫びにあきらが『うんうん』とうなずく。
「そうだろう、そうだろう。世界征服と聞いて心を動かさないやつは人間じゃない! よし! まずはみんなでここに越してくるぞ。赤岩あきらと藍条森也が手を組んだとなればソーシャルコミックの作家はみんな、こちらにやってくる。自分たちの出版社を興せる。この赤葉の地をベースに我々の世界征服をはじめるのだ!」
右腕を天高く突き上げてそう叫ぶ。それから、真顔になって森也に尋ねた。
「しかし、お前、よくそんなことを考えついたな。どうして、そんな大胆な発想がペラペラ出てくる?」
あきらの疑問に森也は迷いなく答えた。
「この地に来てから読破した本、およそ五〇〇〇冊。同等の時間を思考に費やし、知識を蓄え、知性を磨き、『新しい世界』をデザインしてきた。おれという存在の価値を証明する、そのためにな。その成果だ。おれが人生を無駄にしたとは誰にも言わせない」
そう断言する森也の姿は崇高なまでの誇りに満ちており、あきらも菜の花も思わず圧倒されてしまった。
「そうさ。おれは証明する。おれの価値を。おれの正しさを。まちがっていたのはおれではない。まちがっていたのは世間の方だとな。これは、そのための第一歩。そして、おれが、おれの正しさを証明すれば、同じ境遇にある世界中の人間の希望となる。
おれたちの作る『手作りの国』が発展し、そんな人間たちを支援できるようになれば、世界中に『手作りの国』ができる。ひとつのコミュニティが発展し、その回りに新しいコミュニティが生まれ、育っていく。魅力ある暮らしはどんどん真似られて広まっていき、魅力のない暮らしは見捨てられ、消えていく。生き残った暮らしが互いに影響し合って新しい暮らしを生み、やがてはおれたちの想像したこともないような新しい暮らしが生まれる。文明という名の生態系がこの地球上に新しく生まれるんだ。
それこそが樹木型文明の定義。いままでのように他人を犠牲にして自分だけが発展する、そんな無様な文明じゃない。ただ一本の木が住み処と食料を提供し、多くの生命を育てるように、自分が成長することが回りの成長につながる。そんな文明世界の幕が上がる。おれたちは人類文明を新しいステージに押し上げることができるんだ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます