三章 おれが妹の付き添いだと……?

 森也のスマホに電話がかかった。

 「菜の花から?」

 軽い驚きを込めて呟くと、森也は電話に出た。たちまち脳天気な姉の声が天から降り注いだ。

 『やっほー、愛しのお姉さまですよお、愛する弟、元気してるぅ? あー、待ってまって、切らないで、大事な話なんだから!』

 最初の『やっほー』ですでに森也の指が電話を切るために動いているのを察知する当たり、やはり姉である。『だったら、言わなければいいのに……』と、誰もが思うだろうが、これが菜の花の『お約束』というものである。

 「大事な話? 萌えのネタでも尽きたか?」

 『わあ、それは一大事! って、ちがう! あんたはたったひとりのお姉さまを何だと思ってるの⁉』

 「言わせるな。一応、姉だ。そこまで残酷な仕打ちはしたくない」

 という不毛なやりとりをつづけた後、菜の花はようやく本題を切り出した。それは森也にとってこれ以上ないほどとんでもない内容だった。

 『実はさあ。明日、さくらがLEOに学校見学に行くの。あんた、保護者として付き合ってあげて』

 「ちょっとまて! 何でおれがそんなことしなきゃならんのだ」

 『そんな言い方ないでしょ。たったひとりの妹のためなんだから、それぐらいしなさいよ』

 「学校見学なんぞにいちいち保護者はいらんだろうが! もし、必要なら親が行くべきだろう。親と同居してるんだから」

 『あいにくだけど、あの子は親と一緒にはいたがらないの。誰かさんのせいでね』

 「ぐっ……」

 さしもの藍条森也も何も言えなかった。

 「だったら、お前が……」

 『あたしはアシスタントの特訓中。何しろ、しばらく就活ばっかりで描いてなかったから腕がなまっちゃってるのよねえ。早く勘を取り戻さないとアシスタント業に差し支えるし、そうなったらあんたも迷惑よねえ? と言うわけで、よろしくね。さくらにはもう話してあるから。明日、あんたのところに行くからね。それじゃ』

 「まて! 切るな、おい!」

 森也は叫んだが、菜の花がまつはずがない。無慈悲にも電話はあっさりと切られてしまった。

 森也は呆然と呆気を足して二を掛けた表情で沈黙したスマホを見つめていた。やがて、つぶやいた。

 「さくらの付き添い? 学校見学? このおれが?」

 突然――。

 狭心症の発作でも起こしたように胸が苦しくなり、激しい咳が立てつづけに何度も出た。最後には吐くときのように胸の奥から何かが込み上げてくる。森也は生まれつき、対人ストレスに極度に弱い。プレッシャーを感じるとすぐに胸にくる。激しい咳が出て吐き気を催すのだ。もっとも、実際に吐くまでにはならないが。

 ――子供の頃はよくあちこちで吐いていたが……。

 本当に吐き気を感じていたわけではない。『吐けば学校に行かない口実になる』と思い、半ば意識的に吐いていたのだ。

 ――おかげで、あちこち汚したなあ、あ~、情けない。

 まったく、昔のことを思い出すと恥ずかしいことばかりの森也であった。

 「……しかし、いまだにちょっとストレスを感じるとこの様か。かわってないな、おれも」

 そう言って、ため息をつく。そんな森也の頭のなかに菜の花の言葉が浮かび上がった。

 ――このままだとあの子、恋人も家族も作らずにひとりきりの人生、送っちゃうわよ。

 「……さすがに、そうさせるわけにはいかないか。ここは逃げられないな、しかたない」

 いかにも『気が重い、憂鬱』という表情で森也はつぶやいた。そう口にする顔がどす黒くなっている。そのまま寝室に入った。猫背気味でため息をつきながらのその姿が何とも重苦しく、見苦しい。あきらが見ていたらうっとうしさのあまり蹴り飛ばしていたにちがいない。

 寝室であるからにはもちろんベッドがある。しかし、あるのはベッドだけではない。大量の本も床に積んである。二〇冊ばかり積んだ本の山が二〇~三〇,ざっと見て五〇〇~六〇〇冊の本が寝室の床に無造作に積んであるのだ。ひとり暮らしには大きな家なので開いている部屋はいくつもある。それらの部屋を書庫としているので本来、寝室に本を積んでおく必要はない。ただ、ベッドの上に寝転びながら本を読むのが癖なので新しく手に入れた本や、よく読む本ほど寝室に積みっぱなしにしてある。

 森也は本の山をひっくり返して目当ての本を探した。数分かけて本の山をひっくり返し、ようやく目当ての本を見つけた。一〇冊ばかりの本を抱えてベッドの上に放り出し、自分もベッドの上であぐらをかく。普通の洋風ベッドではない。布団を上に敷いて使う和風ベッドだ。それも、そんじょそこらの工業生産のベッドとはちがう。黒芯のスギ材だけを使って職人が手間暇掛けて作りあげた特注品だ。接着剤には飯糊にトウガラシを混ぜたものを使い、釘も鉄製ではなく木釘を使用しているという徹底ぶり。金属も化学物質も一切、使っていない純植物製のベッドなのだ。ベッドの上に布団を敷いて、その上に座っていてもスギの香りが立ちのぼってくる。その香りに包まれていると何とも心地よく、リラックスできる。

 スギ材は抗菌・防虫効果が高く、カビやダニなどを寄せ付けない。シロアリにも強い。さらにリラクセーション効果があり、ベッドに使うには最適だ。ちなみに、同じ針葉樹であるヒノキにはまったく逆の覚醒効果かあり、ベッドや寝室にはまったく向かない。玄関などに使うのが適任だ。スギ材にはさらに、電磁波や有害化学物質を遮断する効果もあるらしい。おかげで毎晩ぐっすり眠れる。ちなみに、『黒芯』というのは文字通り、芯が黒いスギのこと。谷底や川に近い山裾などでよくとれるのだが、栄養分がたっぷり多いことで黒くなる。その分、生命力も強いわけでスギのもつ特性がひときわ強い。

 とある本で化学物質過敏症の顧客のために特別に作ったというのを読んで欲しくなり、注文した。三〇万ほどしたが、その甲斐はあったと思っている。もともと森也は量より質、安いものを大量に買い込むより、いいものを少しだけ買うタイプ。肝心なところには金をかける主義でもある。睡眠は人生の質を左右する重大な要素。寝具に関してケチるつもりはない。だから、ベッドだけではなく、布団や枕、寝間着に関してもいいものをそろえている。森也の唯一の贅沢と言ってもいいだろう。本を別にしてこれほど金をかけている要素は他にはない。

 その特製ベッドのリラクゼーション効果もいまの森也には届かなかった。相変わらず、見ている方が気持ち悪くなるぐらいに緊張した表情で本を手にとってはページをめくり、放り投げては次の本を手にとって、また放り投げ……を繰り返している。タイトルは家族や人間関係に関する本ばかり。これから親になろうという人間や、教師を志す人間が読むような種類の本だ。それを一冊いっさつ手にとって、ページをパラパラとめくっている。

 最後の一冊を放り出してため息をついた。髪の毛をかいた。ベッドに寝転がった。仰向けになってもうひとつ息をつく。

 「興味にあかせて家族関係や人付き合いに関する本もいろいろ読んではみたが……」

 重苦しい声でつぶやいた。

 「本を読んだだけで何かが解決するわけじゃないからなあ。本当に解決する気なら行動を起こさなくちゃならないわけで、その行動力のなさがおれの最大の問題だからなあ」

 そう呟いて、もうひとつため息。

 「だいたい、会うことはないだろうと思っていたのにどうしていまさら会ったり、同居したりなんていう話になるんだ。おかしいだろう。さくらの保護者は親であっておれじゃない。問題があるなら親が解決すべきだろうに、まったく」

 ぶつくさ文句を言って起きあがった。再びあぐらを組んだ。ため息交じりに髪の毛をかいた。

 「……とは言え、おれのせいで孤独な人生を送らせるわけにもいかないしなあ」

 ――別に、ひとりで生きるのが悪いと思っているわけじゃない。おれ自身、ひとりで生きるのが好きなタイプだしな。もし、さくらも同じタイプだと言うなら口出しする気はない。しかし、おれのせいで孤独な人生を送る羽目になるのは困る。それでは、さすがに兄として情けなさ過ぎる。それを防ぐためにはさくらに『家族がいてよかった』という経験をさせなきゃならない。そのためにはおれ自身がさくらを受け入れ、向き合わなきゃならない。そもそも、最初からちゃんとそうしておくべきだったんだ。なのに、おれの臆病さのせいでできなかった。おかげでさくらによけいな誤解をさせてしまった。このままにしておくわけにはいかない。さくらにきちんと『家族のよさ』を教えてやらないと。そのためにはまず、おれ自身がさくらときちんと向き合わないと……。

 長い思考を経て森也はため息交じりにつぶやいた。

 「仕方がない。気は重いが行動を起こさなくちゃいけないか。まずは明日の件を片付けないとな」

 そして、森也は目を閉じると、妹相手にどう振る舞うか、何を言うか、どう言うか、そのすべてを確認するために脳内シミュレーションを開始した。

 そして、翌日の昼過ぎ。

 さくらが森也の家を訪れた。さくらもかなり緊張している様子だった。表情は硬いし、胸はドキドキ言っている。姉さんに言われるままにやってきたけど、本当によかったの? 了解は取ったって言ってたけど、本当なの? 兄さんがあたしに会いたがるはずがないし、まして、学校見学の付き添いなんて……。

 そう思って不安でいっぱいだった。目の前に玄関のドアがあるのに体が動かない。とは言え、いつまでもこうして玄関先で立ち尽くしているわけにはいかない。誰かに見られたら変に思われてしまう。

 さくらは覚悟を決めた。気持ちを落ち着かせるために数回、深呼吸する。まったく、他人が見たらむしろ滑稽な姿だろう。血を分けた実の兄妹の間でこんなにも出会うことに緊張するというのは。それでもそれが森也とさくら、このふたりのリアルだった。

 「よしっ……!」

 気合いを入れる。手を上げる。森也自ら取り付けた無骨な木製のドアをノックする。

 やがて、ドアが開いた。姿を見せた森也を見て、さくらは、

 ――うわっ。

 思わずのけぞった。

 森也はいかにも疲れた表情で、目の下には隈ができていた。何より、全身からくたびれたオーラが発散されている。寝ていないのが一目でわかる姿だった。

 自分が緊張しているのはわかっていた。それも、生涯で一番と言っていいぐらいに。それでも、森也に比べればかわいいものだった。森也はさくらの一〇〇万倍も緊張している様子だった。

 「お、おはよう……」

 さくらはようやくそれだけを言った。

 「……ああ」

 そう返した挨拶にもやはり、生気がない。

 「あの……寝てないの?」

 「気にするな。この業界にいれば徹夜は当たり前だ。それよりあがれ。準備するから」

 「う、うん……」

 さくらは森也につづいて家のなかに入った。肩を落としたような後ろ姿が目に痛い。

 この業界にいれば徹夜は当たり前。

 森也はそう言ったが、さくらはそれを真に受けるほど鈍感でも、厚かましくもなかった。自分のせいで眠れなかったのだと言うことはいやでも気がつく。気がつかずにすめばよかったのに。

 ――やっぱり、くるんじゃなかった。

 痛切にそう思った。

 断りの電話を入れて、ひとりで行けばよかった。わかっていたのに。兄さんがあたしを歓迎したりするはずないって。恨まれてるんだから。憎まれているんだから。なのに、何できちゃったんだろう? お互い、いやな思いをするだけなのに。

 何だか自分までがひどく疲れ、惨めな気分になるさくらだった。

 森也はとりあえずさくらにお茶を出すと、ひとりでまたせておいて部屋を移った。その間、話した言葉は『少しまってろ』の一言だけ。

 ひとり残されたさくらの居心地の悪さは尋常なものではなかった。落ち着かない。胃がキリキリ痛む。兄の家でなければまちがいなく逃げ出していたところだ。出されたお茶に口をつける気にもなれず、とにかく、この時間が早く終わってくれることだけを願った。

 しばらくして森也が戻ってきた。スーツ姿になっていた。安物の吊るし服だが森也にとっては唯一のスーツだ。顔も洗ったと見えて先ほどまでよりはだいぶましになっていた。

 「別にスーツなんて着なくてもよかったんだけど……」

 「一応、礼儀だ」

 森也の答えはあくまで短い。そして、素っ気ない。根本的に会話をする気がないので必然的にそうなる。さくらもそれ以上何も言えず、押し黙る。気まずい沈黙がつづきそうな雰囲気だったが、それより早く森也が口にした。

 「すぐに行くか?」

 「あ、う、うん……」

 さくらは反射的にうなずいていた。とにかく、この気まずい雰囲気から逃れられるなら何でもいい。

 「車を出す」

 短く言って歩き出す。もし、彼女相手にこんな態度を取ろうものならまちがいなくその場で激怒され、フラれ倒す。それも、罵詈雑言のおまけ付き。彼女の友人間に悪い噂が流れるのは避けられない。そういう態度だった。

 さくらは森也の彼女ではなかったし、歓迎されるはずがないと思っているので何も言わなかった。あわてて立ち上がり、後を追った。

 「兄さん、車の運転できるの?」

 そう尋ねた。家にいた頃の姿からは車を乗り回してどこかに出かけるなんて想像も付かない。

 「神奈川の秘境暮らしだ。車がなければこの山奥からはどこへも行けない」

 納得。

 「お前も高校に入ったらスクーターの免許ぐらい、早く取っておけよ。でないと、どこにも行けないぞ」

 「あ、うん」

 はじめて森也の方から話しかけられ、さくらは反射的に答えていた。そして、気付いた。

 ――それって、ここに住んでもいいってこと?

 絶対に断られると思っていたので、この言葉はかなり意外だった。

 ふたりは車に乗り込んだ。森也はもちろん、運転席。さくらは後部座席に。とてもではないけど助手席に並んで座る気にはなれなかった。森也の方も助手席を勧めようとはしなかった。

 さくらがシートベルトをつけたかどうかだけは確認して、森也は車を発進させた。EV特有の低い発進音で走り出す。

 さくらは後部座席から声をかけた。

 「あの、LEOの位置は……」

 「わかってる」

 またしても切り捨てられる。言葉というのは本来、会話をつづけるためのもののはずなのに、森也の口から出ると会話を断ち切るための道具としか思えない。気の強い人間ならまちがいなく怒ってケンカになる態度だが、さくらにはそんな度胸も厚かましさもなかったので黙って座り直した。何だか、ひどく無愛想な警官にパトカーで連行されているような気分だ。やっぱり、居心地が悪い。悪すぎる。車に酔ったわけでもないのに吐き気を感じるさくらだった。

 森也の運転は性格そのままの安全運転。決してうまくはないが、少なくとも調子に乗って事故を起こす心配だけはなさそうだ。その点ではさくらもちょっとだけ安心できた。

 やがて、LEO前についた。『わかってる』と言っただけあって迷いもせずにすんなりついた。もっとも、LEOがあるのは最寄り駅のすぐ近く。地元なのだから当然と言えば当然ではある。

 手近なタイムズの駐車場に車をとめて、歩いて行くつもりだったが、保護者用の駐車場が学校の敷地内にあるとのこと。さすがに寮完備、日本各地から生徒の集まる進学校だけあって保護者の利便性も考慮されている。せっかくなのでそちらを利用することにした。

 車のまま校門に向かう。校門脇に詰め所があり、制服を着た中年男性の警備員が立っている。

 「……いまどきの学校は警備員まで雇ってるのか」

 「セキュリティーには気を遣ってるって」

 「となると、おれは入れるのか? 証明書か何かないと断られそうだが」

 「あっ、見学許可証、もらってるから。あと、保護者同伴の書類も」

 さくらはバッグのなかから二枚の紙を取りだした。森也は警備員の前で車を止めた。さっそく警備員が近づいてきて質問する。さくらは窓を下ろし、学校名と氏名を告げ、学校見学にきた旨を伝えた。それから、二枚の書類を渡す。警備員はさっと書類を調べると、はじめて柔和な表情になった。

 「では、どうぞ」

 言葉とともに校門を開ける。さくらが礼を言った。森也は車を校門内に乗り入れた。すぐそばの駐車場に止め、車を降りる。キョロキョロ辺りを見回した。

 「大きな学校だな。敷地もやたらと広いし」

 木々と花壇に囲まれた校内は学校というより公園のようだった。通路には芝生まで敷かれている。

 「維持費だって馬鹿にならないだろうに。豪華なことだな」

 通路を埋め尽くす芝生を靴先でいじりながら森也はつぶやいた。

 「一年の校舎はあっちになるらしいけど……」

 さくらがバッグからパンフレットを取り出しながら指差した。森也はそれを無視して勝手に別の方向に歩いていく。

 「兄さん?」

 さくらはとまどった声をあげた。森也は勝手にどんどん進んでいく。しかたなしにさくらもあとを追った。森也は人気のない校舎の裏のほうに歩いていく。

 「兄さんってば」

 さくらは不安に駆られて呼びかけたが、森也は答えない。勝手に進んでいく。さくらは不安を感じながら後についていった。

 森也が立ちどまった。辺りをキョロキョロと見回した。それからまた歩き出した。また立ちどまり、見回し、歩き出す。それを何度が繰り返した。

 行き先は決まって校舎の裏とか、緑地帯の片隅とか、あまり人目につかないような場所ばかりだった。

 「兄さん、どうしたの? 何でこんなところばかり……」

 「きれいな学校だな」

 「えっ?」

 「辺りにゴミひとつ落ちていないし、落書きの類もない」

 「そう言えば……」

 言われてさくらはようやく気が付いた。あたりに枯れ葉やちぎれた枯れ草などはあってもゴミの類は見当たらない。落ち葉や枯れ草にしてもそれほどの数はない。せいぜい今日一日分だろう。

 「木の数も多いが、イタズラされている形跡もない。花壇もきれいに整えられている。どこもかしこも手入れが行き届いているし、そもそも汚すような真似をしないんだろうな。さすがに有名な進学校だけあって品行方正な生徒がそろっているようだな」

 ――そんなところ、見てたんだ。

 さくらはおどろくやら、感心するやらだった。

 「でっ? 一年の校舎はどっちだって?」

 「あっ、うん、こっち」

 さくらはパンフレットを見て指差した。校舎に入り、受付に挨拶して、見学許可をとる。教室から各設備を見てまわる。そこでも森也は事細かに様子をチェックした。教室の片隅、椅子の並び方、机の裏……そんな、普通の人間ならまず注目しないようなところほど見てまわった。

 「何とも清潔な学校だな。掃除も細かいところまで行き届いているし、備品もきちんとしまわれている。『最初のひとつ』というやつだな」

 「なに、それ?」

 「ゴミひとつないきれいな広場があれば人はそこを汚したりしない。ところが、そこにゴミがひとつでもあるとたちまちゴミを捨てる人間がふえてゴミの山になる。だから、きれいなまま保つには、その『最初のひとつ』をこまめに取り除かなければならない。そういうことだ」

 「つまり、学校側がそういう管理をしているってこと?」

 「そういうことだな。単なる成績だけじゃなく、環境教育も徹底しているんだろう。どうやら、ここの経営者は『自分の学校』に対する明確なイメージがあるらしいな。おかげで、教師の意識も高いんだろう」

 さくらは舌を巻いた。まさか、校内の様子からそこまで判断するとは。

 「ただし、その分、管理はきびしいはずだ。人によってはさぞ窮屈だろうな。お前、その点は大丈夫なのか?」

 「あっ、うん、だいじょうぶ……だと思う」

 少なくとも中学の校則を窮屈だと思ったことはない。

 「まあ、お前は昔からキチンとしていたからな。けど、気をつけろよ。厳重な管理体制は規格品を作るのには有益だが、規格外の人材はスポイルすることになる。もし、お前が世間から外れて冒険することを望んでいるなら不向きな学校だ」

 「あたしはとにかく、安定した仕事について、ひとりでも生きていけるようになりたいだけだから……」

 「なら、適切な学校だな」

 森也はそう言うと見学をつづけた。

 さくらはあとをついて回りながら、森也がこの学校にきてから急によくしゃべるようになったことに気がついた。きらわれているから口数が少ないのだと思っていた。でも、どうやらちがうらしい。単に『必要がなかった』から、話さなかっただけのようだ。

 さくらは森也の背に向かって呼びかけた。

 「あの……」

 「何だ?」

 「ありがとう」

 「何が?」

 「あたしのこと、心配してくれて」

 その言葉に森也はさくらをマジマジと見た。ふいっと顔をそらした。それきり、一言もしゃべらなくなった。その頬にはかすかな赤みが差していた。

 一通り見学を終え、帰路についた。相変わらず、ふたりとも黙り込んでいる。微妙な距離もそのままだ。

 時刻はそろそろ夕方というところ。駅に差し掛かった。

 「あたしはここで……」

 さくらはそう言ったが、森也は思いがけないことを口にした。

 「時間はあるんだろう?」

 「えっ? ええ、それはまあ……」

 このあと、とくに予定があるわけではない。

 「なら、家によっていけ。夕飯ぐらい、ごちそうする」

 「いいの⁉」

 「まあ……兄妹だし」

 『兄妹だし』というその言い方がまるで、親の再婚で突然、兄妹になって三日目、という印象。

 「それじゃ……」

 と言う、さくらの答え方もまた、それそのものなのだった。

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