第5章

 1


国は深い静寂に満ちている。おもちゃたちは痛ましい悲しみを浮かべ、人形になった少女をゆっくりと囲っていく。開かない瞼を見つめてショックを受け、自分たちがした過ちに自責し、心を引き裂かれそうになる。

ロアが静かに歩み寄り、すぐ傍まで来て膝を落とす。そっと、ちっぽけな手を伸ばして、エイミーの片頬に触れる。頭を寄りかかり、目を悲痛に瞑った。

「ごめんね」

もっと、ぎゅっと縋りついて、さっきよりも悲しげに言う。

「ごめんね」

泣きたくても泣けず、抱きしめたくても抱きしめることもできず、ただただ泣き顔を浮かべて、心が涙する。

ロアに続いて、他のおもちゃたちも続々と、エイミーに寄りかかる。

──ごめんね。

嘘をついていて、ごめんね。

その場にいない者たちも心を感じ取り、エイミーに、おもちゃたち全員が心を痛め、涙する。

ロアは俯いたまま、掌に覚悟をのせて、ぎゅっと、力強く握り固める。

意識を集中させ、心の奥まで潜り込ませる。深くいけばいくほど声は皆に伝わる。泉(いずみ)のように静まった、澄んだ深奥(しんおう)へ辿り着き、キーン──と、ハウリングするような神秘的な音が心中で響き渡る。その音を合図に、皆に話しかける。

──みんな、聞いてくれ。

伝えたいこと。ロアはぜんぶ伝えた。

籠もり、途切れ途切れの、傷だらけの泣き声と消え入りそうな涙声が、たくさん返ってくる。

──う、うぅ……。


──かな、しい。


──もう、二度、と……?


──ピ、ポ、ポ?


──ヤダよ……。


──わかってる。わかってるさ。


──大好き、なのに……?


──うん……。


──こわい。


──うん……。


──君は……本当にそれでいいの?


──もう、決心したんだ。


──……わかった。


──だいすき。


──うん。大好き。


この子を、助けるために──


彼らは、心をひとつにする。

ロアは顔をゆっくりと上げた。その据えた目には、決然とした光が宿っている。

彼に続くように、他のおもちゃたちも、続々と顔を上げた。少年人形と同じように覚悟を浮かべて。

ロアは足を踏み出す。ピエロを通り過ぎ、ラブ・メーカーの前に立つ。寄り添い、そっと頭を傾けた。

「何をしている」

後ろから、ピエロの深く沈んだ声がする。ハッと見開いた後、急いで目を瞑った。

痛い、痛い。心に血がぽたぽたと落ちる。


──ラブ。ラブ……。

名を切なく何度も呼ぶ。しばらく待っていると、神秘的な儚(はかな)い音が心中で木霊した。そして昔の彼にそっくりな、少年の深い悲しみに擦(す)り切れた声が返る。 


──ロア……? 


──ラブ……。お願いがあるんだ。 


──おねがい……? 


──君は精通(せいつう)している。教えてほしいんだ。すべてを、終わらせる方法を。


沈黙が流れる。ラブ・メーカは傷つきつつも了承した。ゆっくりと話してくれる。


──うん。うん……。


相槌を打つその声は掠れて、濡れていき、泣きすがるようにしがみつく。食いしばり、悲しみを噛み潰す。


──ありがとう。


拳を固く、握り締める。


──もう、ウソはつかない。


僕は、涙を知らないクラウン。

君は、愛を忘れたピエロ。

この国は、ピエロとクラウンが踊る、笑劇(しょうげき)な悲劇のサーカス。

それが本性だ。


ずっと、僕らは笑っていた。笑うことしかできないから。

心の隅っこで泣いていた。涙はこぼれてくれなかった。

たとえもう二度と、名前を呼ばれず、君の胸にいなくても。

たとえ君が大人になって、僕たちを忘れて、変わってしまっても。

それでも──

大好きだよ。君が、壊れるくらい好きだよ。

ずっとともだち。そう笑い合った。世界を笑顔にする。そう約束した。

君は僕らにとって、最高のともだちで、最高の家族なんだ。

君は覚えてないだろうけど、あの頃が、ひどく愛おしい。

君の奪い合いをして、一番が誰だか争って。

君に怒られて、下らないことで喧嘩して。

寝顔がかわいくて、みんな微笑んで見つめてた。君の寝相でみんな死にかける。君が面白すぎるから、みんな笑い過ぎて壊れる。天才過ぎて何言ってるのか分からないときがある。集中する君の顔はすごくかっこいい。邪魔をすると誰にでもぶちギレる。元気でドジで天然で、見てるだけで面白い君に、目が離せなかった。憧れてた。笑顔が大好きだった。たくさん笑って、泣けないけど泣いて……また大きな声で笑って。

ありきたりな言葉だけど、君との思い出は、僕らの宝物だった。

君が向けた笑顔、君がくれた夢は、宝石みたいに、いつまでも僕らの中で輝いてる。


見たかったなぁ……。笑顔の花が、世界でいっぱい咲いているところ。心奪われるほど綺麗な黄昏(たそがれ)の空を飛んで、隣に君がいて、「やったね」って、笑いあってさ。未来の話に花を咲かせて。

絶対に忘れたくない。忘れたくないよ……。君を、君との思い出を。

ごめんね、ピエロ。


それは、絶対にしてはいけないことだった。


──君との約束を、破る。


あの時にひどく似た、心に残酷に刻まれた、忘れもしない雰囲気。

何かを悟ったピエロは、ロアを見て、呼び止める。

「やめろ……」


いま、すべてを壊す。


「ピエロ」


最後に、ロアは振り向いて彼を見る。

今にも消えてしまいそうな顔をして、視線が合う。

切ないくらい愛おしい。

絶対に、子どもたちの前では見せてはならない顔で、甘く微笑んだ。

「好きだよ」

背き、永遠を匂わせる。

「やめてくれ……」

ピエロは、血のすべてが引いていくようだった。

ラブ・メーカーを見上げ、哀(あい)を浮かべて、ロアは透き通るように微笑む。


──さぁ、お内(うち)に帰ろう。


ピエロの全身が粟立(あわだ)ち、魂が戦(おのの)く。

ロゼッタの時と重なった。

彼は、悲鳴のように泣き叫んだ。


「逝かないでくれ!」


すべての心と繋がった、心の源泉(げんせん)であるラブ・メーカーの中心から、凄まじい銀河の光彩が燃え上がるように爆発して広場を吞み込み、子どもたちは目を瞑る。

燦然たる光は、圧倒的な樹枝(じゅし)のように国の隅々(すみずみ)まで繰り広げる。ひとりひとりの心を溶かし、吸収し、体の型から分離していく。彼らの世界の輪郭線が、ぐにゃりと歪みだす。

頭の中で、きらきらと輝いて、宝物の日々がいっぱい、いっぱいあふれる。心が黄金色の光に包まれる。おもちゃたちは、哀らしい笑顔をこぼした。

心を吸い尽くした光がラブ・メーカーへと帰り、収納された。

意識が切れる。

重力のまにまに、空っぽの体が傾いて、地面に叩き付けられる。おもちゃたちが次から次へと倒れていく。固い肌と、固い地面とがぶつかる音が、機械的に永遠のように繰り返される。

 ピエロは最前線で、それを眺める。

世界が終わりを迎える、映画を見るようだった。


「何故だ……」


倒れていく。


「何故、お前たちも……」



全員、死んでいく。



「私から、離れていくんだ……?」


仮面の裏の暗闇に、雫がきらりと光って滴る。

永遠に続くような地獄の光景を、ただひたすらに憮然と眺める。

バタン──。

最後の一人が倒れた。

死のような静寂が場を支配する。

子どもたちは異常な光景に息を詰め、濡れた目を残酷なまでに見開いていた。

今まで従順だったはずの玩具全員が、自分に抗い、死んだ? 絶望的な衝撃に吞み込まれ、長らく不動する。

「ガラクタ揃って心中(しんじゅう)だと……? 何故……一体何故だ……」

疑念が渦巻き、悲しみを巻き込んで、どす黒い炎が腸(はらわた)で燃え上がる。

「ふざけるな……ふざけるなよ! 何故私を裏切った⁉ 何故私を捨てた⁉ 何故私を独りにするのだ⁉ おい……ッ、目を覚ませ! 目を開けろ! 聞けないのか⁉ この裏切り者! 役立たず! ガラクタども!」

玩具を蹴り飛ばし、罵倒と蹴りを一体一体に浴びせて泣き叫ぶ。

「ガラクタ! ガラクタ! ガラクタ! ガラクタ! ガラクタ! ガラクタ! ふざけるな! ざけるな……! 私を独りにするな! 私を捨てるな! 捨てるなアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」

涙混じりの発狂を上げ、地面を思いきり蹴る。嗚咽して顔を覆い、力が抜けていき沈んでいく。燃え上がる絶望は冷めていき、圧倒的な虚無感の世界で独りになる。

微動だにせず固まる。生気をなくした廃人同然となり、呟く。

「終わった……」

暗闇の中で彼でさえ玩具になり、生きることを忘れた。

おもちゃは、自分の心と引き換えに、エイミーの心を呼び戻した。


エイミーの体から、黄金の光の粒が溢れ出す。体が透けている。向かいに立っていた分身の少年は、どこか悲しげに微笑んだ。

「これで、僕とお別れだ」

これから何が起こるのか怖くて、エイミーは痛ましく名を呼ぶ。

「ピーター!」

「だいじょうぶ。元に戻るだけだから。君は元の世界に帰るんだ」

「え……?」

少年の笑みはすっと消え、じっと彼女を見据える瞳は、儚げに揺れている。外の事も、エイミーの経緯も、自身の事も彼は知っている。何も知らないフリをしていた。

「ごめんね──。そしてありがとう。君と出逢えて良かった。君と過ごした時間は僕の宝物だ。きっと、君は僕の事、いずれ忘れてしまうだろうけど、僕は君のこと忘れないよ」

少年は、エイミーに歩み寄る。

「君に、永遠(とわ)の幸福があらんことを」

白い睫毛を瞑り、少し背の低いおでこにキスをした。

エイミーの視界がどんどん白(しら)んでいって、ピーター、否、ラブ・メーカーが霞んでいく。輝いて見える彼は、今まで見た中で一番きれいな笑顔で言った。

「さようなら」

彼女は、やわらかい光の洪水に抱きしめられる。



目をさます。

現実と夢が融合したような、不思議な夢を見ていた。

上体を起こす。辺りを見渡すと、恐怖に心臓が凍(い)てついた。死んだ笑顔を永遠に浮かべて、辺り一面、魚のように玩具の海で埋め尽くされている。地獄めいた沈黙に支配され、ピエロは廃墟になっている。子どもたちは起きたエイミーに気づく。

『エイミー!』

エイミーは顧みず立ち上がる。一直線にピエロに歩み寄る。

少し前で止まった。ピエロは鉛のように顔を持ち上げる。悲壮を帯びるエイミーを、永遠に美しくない少女を目にすると、砕けた夢を突き付けられると共に、瞠目する。

「エイミー……」

痛ましげな自嘲(じちょう)を浮かべ、涸れた声で機械のように言う。

「ラブ・メーカーは壊れた。ガラクタどもは死んだ。そして君は何も変わらず目覚めた。私の夢は、片鱗(へんりん)も許さず砕け散った。終わった。私は終わったのだ。何もかも失った。私が手にした物は、握った砂のように零れていく。誰もが私を見捨てる。嘲笑う。君も、私を見捨てるのだろう? いいだろう。さぁ遠慮はするな。指をさせ。そして笑え」

エイミーは瞳の中の涙を光らせ、凛として返す。

「笑わない」

「嘘を言うな。誰もが私に指をさして嗤った。そして今もそうだ。君もそうだ。たった今、玩具がいなくなった時。この国はもう機能しない。この国は……墜ちる。地獄に墜ちるのだ。私は世界のピエロになる。世界が嘲笑う」

悲痛に満ちて乾き切った、自らへの嘲笑を高らかに上げる。

腕を悠揚に大きく広げ、笑い、余裕さえ浮かべて命令する。

「笑いなさい」

エイミーは、毅然として返す。

「笑わない」

「笑いなさい」

「笑わない」

「笑いなさい」

「笑わない」

「笑いなさい!」

「笑わない」

怒鳴る。

「笑えよ!」

「笑わない」

据えた眼が、濡れて光って、歪んだ。

「笑えない……」

脳天がかっとなる。

「ふざけるな! 何故君も私に従わない⁉ 何故私を裏切るのだ⁉ もうお前など家族じゃない! お前もガラクタだ! 役にも立たないなら死んでしまえ! 死ねよッ! 君が死んだら私も死んでやる! できないなら殺せ!」

笑みが歪む。

「ハッ、そうだ、死んでしまおう? エイミー。私と死のう。私たちも心中するのだよ。手を繋いで、空に落ちるんだ。そうだ……それがいい。何もかも失った、不幸せな私と、家族に見捨てられた、不幸せな君。アハハハッ! 最高の組み合わせだ……! なぁ……? 世界を捨ててしまおう。エイミー、私に笑顔を捧げろ! 頷け! 従え! そして死ね! 私と共に!」

壊れた笑い声をけたたましく上げる。

「本当の天国で笑い合うのだ! 君は本物の天使になる! 私と永遠に戯れるのだ! そこには母もいる! 素晴らしい! 最高だ! 天国へ逝こう! こんな地獄…………もう散々だ……。もう死にたい…………できるなら君と死にたい……。死ぬのだよ! そしたらこの苦しみも地獄からも解放されるのだ! アハハ。エイミー、死ね」

涙がぽろぽろと彼女の白い頬を濡らす。

「ピエロ……」

「何故泣いている? そんなに嬉しいのか? 物分かりのいい餓鬼(がき)だ」

「ピエロ!」

泣いている大きな体に、強く抱き着いた。小さな両腕を精一杯回して。

ピエロが止まった。中の目をひどく見開いて、抱き返すことはなく、心を震わせる。

彼のすべてから、凍った孤独が、骨にこたえるほど伝わる。震えるような悲しみが、傷(いた)むほど心に聞こえる。

エイミーは、濡らさないように頭頂部を胸に預けて、泣きながら言う。

「あなたは、かわいそうな人。寂しくて、とても悲しい音がする。あなたは、きっと寂しいんだよね。エイミーだって、そうだよ。ずっと独りぼっちで、ピエロみたいに笑ってる。夢をみたの。エイミー、本当のピエロを知ってるよ。世界のために、おもちゃと約束した。夢のために、世界と戦った。エイミーが悲しい時、ピエロは笑顔にしてくれた。『だいじょうぶだよ』って言ってくれた。あのピエロは、ウソじゃない。あなたは、本物だった。ピエロは、本当は優しくて、とても愛がある人。おもちゃだって同じだよ。おもちゃたちはみんな、ピエロのことを想ってる。あなたには、家族がいっぱいいるよ」

「……血も涙も出ないガラクタがか」

「あなたはいろんなことを忘れてる。おもちゃは涙はないけど、心がある。寂しい気持ちなんてふきとばしてくれる笑顔がある。悲しみがある。人間じゃないけど、温度はないけど。おもちゃたちには本物の愛がある。愛が、温もりなんだよ。それがないのは、今のピエロだよ。自分で、自分の目を隠してる。ねぇ、お願い。エイミー、上手じゃないから、うまく言えないけど──本当のピエロに戻って。もう一度、おもちゃを抱きしめて。目隠しを、ほどいて」

盲目になった男を、エイミーはより強く抱きしめる。同情ではなく、共感で──、

「お願い」

本当の彼を信じる。


「だいじょうぶ。だいじょうぶだよ」


渇(かっ)した誰かの言葉。優しい声。でも違う。いま目の前に実在する、少女の声。

悲しく燻(くすぶ)り、孤独に凍り切った心に、慈悲(じひ)という名の金色の日の粉(こ)が落ちる。涙の大きさもなかった。矮小(わいしょう)に周囲がぬるく溶け、亀のように光の波紋をつくる。

誰にも見つけられなかった、悲しい洞窟にうずくまる迷子の、柔(やわ)で傷だらけの赤裸(せきら)の核心が、幼(いたい)気(け)なやさしい太陽に抱かれ、慰められ、涙する。

沈黙が続いた。

エイミーの後頭部に、そっと、手が回る。幽かに言った。

「すまない」

仮面の裏で、違う色の涙があふれだす。

長く、時が過ぎていく。

もういいよ、とでも言うように、後頭部を優しくひとつ叩き、エイミーは彼から少し離れた。

心配する幼気な眼と、愁(うれ)う大人の目が絡む。

ピエロは少し俯いた。額縁(がくぶち)通り言葉を受け取り、大きな白い手が、仮面に伸びる。

そっと、片手の指で頬(ほお)骨(ぼね)のあたりを持ち上げる。仮面を徐々に傾け、雲のように素顔に移ろう影を落とした。静かに投げ捨てる。床に落ちた仮面は孤独に音を立てて、独楽(こま)のようにじたばたと踊り、かたん──と、倒れた。


男は、月が昇るように、顔を上げた。


白い睫毛がゆっくりと上がり、見開かれる。

暗い彫りの中で際立つ、神秘的な金色の美しい双眸(そうぼう)が、少女を映す。


空気が凍りついた。少年少女は息を忘れる。


帽子は床に落ちている。

染みひとつない、白磁(はくじ)のような肌。

長い睫毛に縁取られる切れ長の目は、波打つ前髪の美しさも手伝い、耽美(たんび)的だ。

少年時代より精悍に彫りは窪み、完璧な骨格が、高貴な絶世の美形を形作っている。

彼が、真の姿で地上に落ちた時、ある者は彼を奇跡だと、人知を超えた美しさだと神聖化し、今までの罪を帳消しにした割に、なぜ隠すのだと問いただすだろう。ある者は非人間だ、自身を細工したスーパードルフィなのではないかと疑い始め、無宗教は、神のような美貌とさえ畏れるだろう。

神という偉大な芸術家が、歳月をかけて生み出した最高傑作のような──、

この世でもっとも美しい男だった。

世界をひれ伏すこともできるおぞましさだった。


「え……」

対比もあり、震えるような美貌に恐怖して、亜麻色の髪の少年の頬に涙が一筋零れる。

絹のような睫毛が儚げに、静かに伏せる。

男は立ち上がる。横たわる、一体の人形へ足を進める。

目の前にやってくると、膝をつく。両の手袋を丁寧に外し、しなやかな長い指が露わになる。道化姿の薄汚い、笑顔の少年人形を素手でおもむろに拾い上げる。無感情でしばらく見下ろす。

目を瞑り、そっと、ロアを胸に抱きしめる。


己の心音だけが響く、孤独の世界。

数秒、数十秒が経過する。


鼻から息を吐いた。

目をうっすらと開けるが、我慢するように目を瞑り、座り込んだまま、作業を続ける。


……こんなことをして、一体何になるというのだ。


何も変わらない。

何も感じない。

ゼロの温度。滑稽なほどに空っぽだ。

当たり前だ。あれほど深く失望して分かっているのだ。変化などあるはずがない。

大の大人が、血も涙はおろか、心すらないガラクタを長い間、意味もなく抱擁している。その様(ざま)に、だんだん虚しささえ覚え、馬鹿馬鹿しく思えてくる。

退屈だ。思い返す。

あの子の言葉──。

忘れた……。一体、私は何を忘れたというのだ。無垢──夢──それとも愛。確かに、昔は、子どもの時はガラクタどもを愛していたかもしれない。だが永遠などない。ヒトならざるモノなら殊に。忘れたとは違う。変わったのだ。子どもから大人へ──

飽きた。どうでもいい。つまらない。愛してない。いらない……そう然(しか)るべく変化しただけだ。ずっと素晴らしい夢を、少年の頃戯れ程度に創ったこの国を利用して追いかけてきた。私はなにも忘れてなどいない。──戯言だ。

自分はそれの言いなりになり、この退屈なママゴトに付き合っている。


ずっと、孤独を抱えていた。君よりも長く、君とは比べものにもならない孤独を。

君に解(わ)かるのか。世界に捨てられたような孤独が。易(やさ)しい君に解かるのか。

こんな物で、癒えるものではない。

心の限界まで、辛抱(しんぼう)強く抱きしめる。

しかし。

いよいよ下らない。愚(ぐ)の骨頂(こっちょう)だ。こんな意味もない作業……。

離そうとした。

──離そうとしたはずだった。


ドクン──。

心臓を、激しく掴まれるような動悸(どうき)。

泣き叫ぶように、必死に呼び止めているように。

──なんだ……。


ドクン──。


──誰だ。


ダメだ──そう言わんとするように、念を押して、心の中の遠い誰かが叫ぶ。自分自身が叫ぶ。繋がった誰かが叫ぶ。皆が叫ぶ。

心が叫ぶ。


ゆっくり、流されるように、再び人形を胸に仕舞う。


ドクン。ドクン。ドクン──。


心の扉を壊すノックのように。

眠るように、静かに、瞼を閉じた。

ひっそりと静まり返る、闇の世界。身も心も素直に委ねる。揺すられるような安らぎがあった。心音もだんだんと溶けていって、なにもきこえなくなる。自分自身もひたすらに闇に溶けていく。思考が透きとおっていく。

どこか遠く、だけど自分の中で、無邪気な笑い声が遠い心のどこかから聞こえる。リビングだろうか。暖炉の音や、あたたかい光の灯る安らぎの場所。家族の部屋。そこに行きたい。心を澄まし、集中する。透明になり、錆びついた心の部屋まで沈んでいく。笑い声は大きくなり──そして。

セピア色の、温かい光の世界に入った。


  2


──バン!


ピエロ! ピエロ~!

暖炉が燃えるリビングで、小さな集団が突入し、おもちゃたち全員が無邪気に名前を呼ぶ。

「なんだよ」

不貞腐(ふてくさ)れたように答え、十六歳のピエロが絨毯にくつろいでおり、本から顔を上げる。あれだけ話しかけるなと言ったのに。

「遊ぼう!」

おもちゃたちはぴょんぴょん跳ねて、元気はつらつに連呼する。

遊ぼう! 遊ぼう! 遊ぼう! 遊ぼう! 遊ぼう!

ピエロはしかめっ面で耳を塞いで怒った。

「あーうるさいな! 今! 私はな! 大人の勉強に集中しているんだ!」

水着姿の若い女性が載(の)っている雑誌を押し付けるように見せた。おもちゃたちは一瞬真顔で黙った。

「私」

人間の性的魅力など眼中になく、一人称に幼稚園児のごとく大笑いした。

「オカマ!」

『オカマ~!』

「だーーー! 笑うな! 黙れ黙れ黙れ黙れ―! シャラアアアアアアアップ!」

急に一人称を「私」に変え、オカマだと口々にいじられて、最初は「まぁ笑うがいい」という態度であしらっていたが、口酸っぱく言われるので拗ねた。

「おままごとしよ~! ケーキは何味がいい?」

「そんなの苺ショートケーキに決まってるだろウエディングケーキ並みのな! あああああ! あっち行け! どうでもいい! どうせ私はオカマだよ! 紳士でオカマだ!」

「国つくろうよ~!」

『つくろう~?』

「後で!」

「後でっていつ!」

「さあ、永遠かもな。お前たちなんか興味ないし! 少しはこのグラマラスなボディを見習え!」

『えぇーーー!』

おもちゃの男の子が笑顔満点に彼に駆けるが「フンッ!」とぶん投げられた。レオが痛いところを押さえて泣き叫ぶ。

「なんだよ! 急にオカマになるし、投げられるしい!」

「ロア! お前が切り札だ! 行け!」

「わかった!」

しかし、いつも贔屓(ひいき)される彼でさえ投げられる。

『えぇ⁉』

「お前たちなんか嫌いだ!」

一人のおもちゃが神妙な顔をして言った。

「あれはきっと、反抗期だ……」

みんなが口々に驚く。反抗期⁉

みんなが固まり、こそこそと話し合っているところをピエロは複雑な顔で見る。「まあいいや、行こー」と女の子を先頭にゾロゾロと出ていく。

「⁉ え、マジ……いや別に寂しくないし。寂しくないし?」

へらりと笑い、おもちゃは彼のもとに夜になっても一人も来ず、

「寂しくないしいいいいいいいいいいいい!」

ゼノの膝の上で伏せて泣いた。

寂しくないし……寂しくないし……寂しくないし……と、羊を数えるように言い、ロアが一匹……ロアが二匹……みんなが千匹……と、ひとりぼっちのベッドで、素直になれず泣いた。

翌朝。パジャマ姿でピエロが眠そうにリビングに入る。──と、

パン! パン!

カラフルなクラッカーが目の前で弾けて、ピエロは目を丸くした。

「ピエロ! 十七歳の誕生日おめでとう!」

全員のおもちゃたち、しっかりと隅でゼノ、苺やクリームが贅沢に盛られたウエディングケーキ級の大きな大きなショットケーキが彼を待っていた。

目をぱちくりする。

「お前たち……もしかして、ずっと?」

満面の笑みをきらきらと皆が浮かべている。言葉を介さずとも、彼らの愛情が胸のコップいっぱいに溢れる。

──最初は全然わからなくて、ゼノも手伝ってくれたんだよ。

女の子が心の中でそっと教えてくれる。あの時さりげなく聞いたのは……。そっくり完璧に……。こんなに大きなケーキ、つくるの大変だったろうに。

──アルルがクリームの海に落ちて大変だったよ。

──それは言わないでください。

──夜鍋(よなべ)しちゃった。

──しーっ。

ピエロは急いで背いた。震えている。おもちゃたちは心配そうな顔をする。

「まだ、きらい?」

ゆっくりと振り返り、涙を浮かべて、彼の顔が困ったようにしあわせに美しく崩れた。

「好きに決まってるだろ? バカ」

ぱあっとおもちゃたちの顔が輝き、ピエロ! ピエロ~! と彼の胸に一斉に飛び込んで、高らかに笑い合った。

すばらしい時を過ごし、夜。ロアと一緒のベッドで横になり、小さな頬をくるみ、二人きりの世界でとろんとした黄金の目を細める。

「お前が……何よりも大切なものだよ」

ロアは愛くるしくはにかむ。

寝ようと思えば寝れるが、睡眠のいらないおもちゃにとって、眠る時間はだいすきな人の寝顔をずっと見つめられる、あたたかい胸にずっといられる、静かなる幸福の時間。

だというのに、あいつがまた独占している。彼のバースデーの時でさえ。たくさんのおもちゃたちがムスッとしてベッドの隅々や、縁にちっこい手で掴まって囲っている。

あまりの棘棘しい視線にピエロは失笑した。

「みんな大切だ。みんな大好きだ!」

するとみんながわーっと喜んで、腕を広げる彼にハグの嵐を浴びせる。大家族みたいに笑い声が高らかに上がった。

ひとつのベッドで、ひとつの部屋で、誰かが寝たフリ。しあわせのひとときを一緒に過ごした。


  3


──くだらない。

幼稚で……馬鹿馬鹿しい記憶だと思った。

それなのに、胸の奥の柔肌(やわはだ)が、訳も分からず針に刺されたように痛んだ。

本当にそうだろうか──誰かが、何かが、心が強く彼に聞き返す。

 ──違う、私は何も忘れてなどいない。

だが心が痛い、締め付けてくる。心が何か覚えている。噛みついてくる。

お前は忘れている──痛いほどに訴えてくる。

──寝室……。

思い出の欠片を繋いで、断片(だんぺん)的に映像が浮き上がってくる。

白い光。儚い香り。死の匂い。指の感触。淡い靄(もや)……。

忘れてはいけなかったもの、忘れてはならなかった何か。

──寝室。

そして。はっとした。


──家族。


 記憶のパズルが完成し、あの時の映像が、脳裏に浮かんだ。


  4


無垢で痛ましい、少年の咽び泣く声。

窓から白い光が射し込み、レースのカーテンが風に揺れている。壁掛け棚に、宝物として、物言わぬおもちゃたちが笑顔で並んでいる。


「だいじょうぶ。だいじょうぶよ」


彼女の優しい声。それでも大丈夫なんかではなく、少年が宥められることはない。

「愛してるわ、ピーター」

絶望に震える息子の名を、ロゼッタは切なく、深い悲しみに耐えながら、呼びかける。

やがて、悲しみは、ふっと透明になる。ただひたすらに、彼を純粋に想う温かな光に、心が満たされる。彼の未来を、光のなかで想像する。彼女は透きとおるように微笑んで、そして、一語一句を大切にするように、ゆっくりと言った。


「愛しなさい。あなたの、周りにいる人たち。かわいいおもちゃたちも、みんな愛しなさい。だいじょうぶよ、だいじょうぶ。いつか必ず、あなたを助けてくれるから。いつか必ず、あなたの愛を、返してくれるから」


少年は泣いている。


いずれ、あなたは大人になって、物質、言葉に汚され、忘れ去り、そんなものは、綺麗事のように思うのかもしれない。もっとも、あなたのなかに、それがなくなってしまったら。

わたしと似た子。彼に似た子。いずれ、取って変わってしまうのかもしれない。

未来のピーター。たとえ道を誤り、盲目になり、世界を信じられなくなっても。

わたしは、あなたのしあわせを信じる。

優しい子。かけがえのない子。愛おしい子……。


「ピーター」


月下美人の涙のように、彼女は微笑んだ。


「愛を、忘れないで」


あたたかな白金の光が、世界を抱きしめるように、満ち溢れる。

それまでずっと忘れていた、母親の最期の愛を、心の中で見る。


  5


一筋の透明な雫が、頬を伝う。

「ハハ……何だ。これは……」

動揺し、涙に触れ、要領を得ない笑みを浮かべる。見下ろす先には物言わぬ人形の姿がある。

「馬鹿な……私が? そんなはずはない……」

これは母親に対するものだ。たかが言葉を思い出しただけで。だが、涙は止まらない。とどまることを知らない。

 ガラクタを離そうとする。心が全力で拒絶する。離せない。離すことを、自分が許さない。

 ──胸が痛い、苦しい、引き裂かれそうだ。

 鋭い棘が何本も心に刺さるようで、正体不明の感情に、死ぬほど胸を絞めつけられる。

 慰みを求めて、ロアを再び胸に仕舞い込んだ。

胸に穴が開く。みるみると巨大に広がっていく。何故だか分からない。だが、それは間違いなく喪失感だった。灼(や)けるように、胸の中が痛くて、痛くて、無言の呻きを上げて身を沈ませ、人形と、激痛に喘ぐ心臓を抱きすくめる。

 ドクドクと心臓が脈を打ち、そのままに身を任せた。

 ──約束だよ。僕たちは、ずっとともだちだ。

「……………」

悲しみ、虚しさに震えながら、切なく、激しく、ロアを抱き締める。

忘れてはいけなかったもの、忘れてはならなかった何か。

涙がとめどなく溢れていく。思い出が、溢れていく。


  6

 

年や季節を超して、彼は少年から青年へと成長していく。やがて燕尾服と仮面を飼いならし、同胞(どうほう)たちと新たな仲間を創る。

「私たちはひとつになることで、世界をひとつにすることができる──。世界を笑顔にしよう。ともに国を創ろう!」

発明品が並ぶ巨大な工房の中で、神のみぞ知るような科学で、歯車仕掛けの圧倒的な内臓機構を共に創る。志高くアイデアを情熱的に交わし合い、ぞくぞくするような高揚感の中で彼らは精彩を放つ。

技術を惜しみなく伝え、ピエロは監督して活き活きと四方に指示を下す。歯車の動力で重い物体がゆっくりと浮遊した。

「いいぞ! やったなあ!」

発明に成功すると歓喜して、サイエンストイと手を合わせた。

巣立ちが迫り、崖の上で、心奪われるほど美しい地上の落日を、仲間たちと感慨に耽って笑顔で望む。

太陽を結ぶように、人間の手と、ロボットの手が固く繋がれる。

そして、飲み込まれそうなほど大きい、沈んでいく太陽を、国の地で眺める。

──やったな。

自分たちは、ひとつ夢を叶え、笑い合い、手で絆をつくった。

少年時代から温め続けてきた、ひとつの心をともに抱いて。


  7


──ドクン、ドクン、ドクン。


心臓が、強烈な余韻を残して脈を打つ。


「……………ア」


か細く、微かに開いた口から、小さく、はっきりともう一度その名を呼ぶ。


「……ロ、ア?」


胸から離し、涙に満ちた目を見開いて、人形を見つめる。


「お前は、ロア……」


当然のように、少年人形は永遠の笑顔を浮かべている。当然、なんかではない決定した現実に暴力的に叩きつけられ、心臓が切り裂かれる。

蘇る。覚えている。

命をかけて自分に会いに来たロアを、罵倒、激昂、放擲(ほうてき)し、そして、情もなく名も存在も忘れた。ロアだけでない。おびただしい数の、おもちゃに、数え切れない罪を。

涙がぽたぽたと笑顔に落ちる。限りなく目を剥く。

呼吸がどんどん乱れる。心臓が狂ったように早鐘(はやがね)を打つ。孤独の柵に貫かれ、喘ぐ少年の姿が見える。毒毒しい愛欲の穴に沈んでいく奴隷が見える。人形に囲まれ、狂気に憑かれた病人と、踊り狂うように暴力を振り撒く野人が見える。壊れた自分の笑い声が聞こえる。

胸が痛い。肺が苦しい。胸をギュッと掴む。冷や汗が溢れ、脇に滲む。部品が爆ぜ飛ぶ合唱が聞こえる。激しい嘔(え)吐(ず)きを覚えて口を押さえる。子どもたちの泣き叫ぶ声が聞こえる。ピエロと呼ぶ声がする。滂沱(ぼうだ)と涙が溢れ、パニックになる。

命を創り、その命を人間同等の質量にしたのは自分自身だ。破壊。嘘。支配。罪の合唱が頭の中にとどろく。圧倒的な罪悪感。自分が憎い。殺してしまいたい。どす黒い殺気を過呼吸と吐き出す。低く唸り、絞め殺すように胸を掴む手に力を入れる。唇を噛み締める。涙が滝のように溢れる。

さまざまな激情の嵐が彼を圧倒する。

──最悪だ。

クズだ。生きる資格もない。地獄の業火(ごうか)に焼かれろ。灰になれ。

全身の力が、感情とともに砂のように抜け落ちる。

ピエロは、脳天が着きそうなほどにぐったりと項垂れる。ただ、悲しみが支配した。涙が頬を静かに流れる。


孤独に、泣いていた。家族を、探していた。エゴに目を覆い隠し、大切なものを物にした。しかし、私の探していたものは、こんなにも容易(たやす)く、身近にあったものなのだ。


愛と悲しみが胸に洪水し、彼は、目の下のロアに言った。


「愛、して…………いる……」


少女の言った愛が、この上なく心を熱く燃やす。

「家族は、お前たちじゃないか……」

今気づく。覚束なく立ち上がり、最も手前にいる玩具たちの元へ崩れるように座る。

「覚えている……全員、覚えている……」

ひとりひとり、大切に手に取る。

「お前はピノ。動物好きなのにいつも肉を食べたがっていた。お前はメルレット。ママゴトが好きで、いつも気弱な男子を従えていた。お前はピューバ……悪戯好きで……ニップルワート……ティロワール……イグレシア」

額(ぬか)突(ず)くように玩具を一杯に抱え、涙の雨が彼らの笑顔を濡らす。実在した彼らとの思い出が彼を打ち殴る。震える胸を切り裂く。

「覚えている……覚えているんだ………誕生日も、交わした言葉も……ぜんぶ」

性格も、名前も、声も、些細な思い出も、今なら五感をもって鮮やかに目に浮かぶ。懐かしさ、愛おしさが狂おしいほど込み上げてきて、悲しげに笑みが広がる。

忘れていた。こんなにも、大切なものを。

目を瞑り、玩具の額にキスをする。位置を挿げ替え、少年人形を見下ろし、胸を抉る。

「ロア…………」

彼の顔がいたく歪み、数個の涙が人形の頬に落ちる。悲痛の限りに抱き締める。

醜く堕ち切った私に対しても、お前は愛していると泣きながら言った。私は分からなかった。お前たちが愛の塊だということを。愛に囲まれていたことさえも。

ロア……お前たち……たとえ、お前たちが壊れ、永遠に物を言わなくなったとしても。もう、遅すぎたとしても。

「愛している………一生…………愛してる」

ロアは何も返さない。もう、遅すぎたのだ。あまりにも愚かだった。

「すまなかったっ………」

許されるはずがない。どれほどの罪を重ねた。もう取り返しがつかなく、ここまで堕落した今になって、すまないなどで済まされない。あまりにも遅く、度し難く愚かだ。 

鉛のように顔を擡げ、果てしなく広がる玩具の海を最前で眺める。

欲に囚われ、我を失い、愛したはずの者たちを虐げ、破壊した。自分の人間が目を覚ました時、友、家族は皆死に、無限に横たわっていた。

何もかも、引き金を引いたのはこの手だ。

数え切れないほどの家族を殺めたのは、この自分だ。

強烈に自覚し、思い出す手先が震えて、全身の血が熱くなる。愛が心臓を焼き、罪が首を絞め、呼吸が苦しくなる。涙が激流をつくる。激しい動悸と共に、世界が震え、息が病的に荒くなっていく。

「はあ……はあ……はあ……! はあ! はあ……はあ! あぁぁあ……あぁあぁぁあ!」

おびただしいほどの愛が体内にかっと燃え立つ。巨大な喪失感と、絶望の竜が、濃密なとぐろを巻いて片結び、悲しみが心臓を突き刺す。

笑った顔。笑った声。万華鏡のように蘇る。心がグッと熱くなる。真の虚しさを教える。

すべてを失った。

壊したものは、蘇らない。

心が叫ぶ。悲しみを叫ぶ。絶望を叫ぶ。愛を叫ぶ。ピエロは玩具を抱きしめて、泣き叫んだ。

命を吐き出すような慟哭の声。もう永遠に動かない家族を、男はきつく抱き締めて哭く。喉を引き裂いて叫ぶ。

死屍(しし)累々(るいるい)と積み重なる残骸の山。『だいすきだよ』と書かれた首のネームプレート。おびただしい罪の数。愛したはずの家族。言葉、約束、思い出。かなぐり捨て、失ったあとに人は気づく。男は気づく。すべてを失い、泣き叫ぶ。その声が枯れるまで号泣する。

抱いている彼らを、泣き顔で見下ろし、それが永遠だと決定的に悟ると、彼は絶望した。

「お前たちがいないのなら、何もいらない……」

命と同じくらい大切な家族を失った。ゆっくりと身を沈めていく。許されざる罪を犯し、生きる意義もなく、心は沈黙の、永遠の闇の地底(ちてい)に落ちていく。鼻先が、そこにたどり着いた。

その時。


ラブ・メーカーの心臓から白金の光が壮大に輝き溢れ、国を呑み込む。


「バーカ。何、泣いてんだよ」


ハッと体を起こし、目を開けて見下ろす。ロア。全身が金色の光に溢れて、ロアが、頬に自分の涙を浮かべて、まるで泣いているように笑っている。喋っている。目の前の現実を疑い、ピエロは固まる。

神秘的に光り輝くおもちゃたちが、眠りからゆっくりと立ち上がろうとして、ピエロに儚く笑いかける。

「ラブは生きているんだ。心を戻すことも、心を還(かえ)すこともできる。そんなことも、忘れたのか?」

ラブ・メーカーの体内には、元の体に還る道があり、外部からやってきた異質な人間の心が通るには詰まるリスクがあった。そこで、光のごとく高速で彼らが戻ることによって、道を大きくして勢いが出来、潤滑油の役割を果たして少女の心を後押しした。自決する気持ちでいたが、のちにその道で元の体にも彼らも還れることがわかった。そのことを、ラブ・メーカーの性質をいちばん理解している開発者が忘れていた。

ピエロはみるみると目を広げる。黄金の瞳が激しく震え、雫が落ちたと同時に、微笑んだ。

心の奥で、突然電話と繋がったような微かなノイズが入る。心の温度がふわっと上がり、懐かしい、どこか、くすぐったい妙な感覚を覚える。


──ピエロ。だいすきだよ。


あどけない、儚く優しい声たち、おもちゃたち全員の声が、心のなかに響く。はっと胸が震えた。心を丸ごと抱きしめるように、しあわせの熱に溶かす。

グッとなり、震えながら目を見開き、そして目をやわらげ、きれいな涙が落ちる。

ロアを離さないように抱きしめる。心の中で、彼は言い返す。


──大好き。


彼らの心はひとつになり、声を合わせた。


──大好き……。


やさしい光に包まれる広場。今、彼らの中にすばらしい奇跡が起こっている。しあわせをたたえあい、彼らはいま幾年の大きな壁を超えて繋がっている。温もりを溶かし合い、彼らは強く結び合う。

蘇る深い紲(きずな)を見て、エイミーは笑みを弾けさせた。


  8


セシルが構え、ピエロの麗しき顔面に一発強烈なパンチをお見舞いし、続いて子どもたちが一人ずつキック、腹パン、ビンタ、アッパー、頭突き、「えいっ」とかわいらしくデコピン、物理的な制裁を与える。アビーが深く息を吸い、華麗なる回し蹴りをするとおーっと感嘆の声が上がった。

KO。ギタンギタンにされたピエロは勢いよく頭を落として土下座した。

「本当に、申し訳ございませんでしたああああああああああああああああ!」

その前までは、真剣な空気の中ピエロたちが謝罪し、当然のように子どもたちは悲怒(ひど)の限りを彼らに浴びせた。ロアは仲間たちとピエロを殴るという念願の夢を果たし、禊(みそぎ)を実行し尽くしても、ほとんどの子どもたちは発狂するように号泣している元凶のクソ野郎を半目で見下ろしている。

「あぁぁああああ! 私は……ほんとうにッ、とんでもない過ちをアアアアアアはァァァァァァァァァァあぁぁああぁあ……犯しヒィイィィヒ非非非イイイイヒイイイイインッ!」

決して道化ていないのだが、癖の強すぎる号泣にセシルたちが呆れながらもにやけるように背いて吹く。

「お前何しても面白いよな! 褒めてねえぞ⁉」

「なんでこうも道化っぽくなっちゃうのかしら……褒めてないわよ⁉」

「身も心も、あなた様に捧げます……」

上を脱ぎ始めるのでニコラがまっ赤になって怒る。

「脱ぐなっちゅの! 体はいいわよヘ,ンタイ!」

何気にいい体してるのがムカつくとぼやき、「天然なんだ。許してやってくれ……」と、ロアが心底罰が悪そうに保護者の顔で言う。

「過ちイッ!」

「喋んなああ! 喋ると面白くなるから喋んな! 喋んなくていい!」

『本当に申し訳ございませんでした』と、土下座と空気だけで謝る。

「ほんとゴミだわ」と、半目のニコラ。

「まだゴミの方が綺麗だよ」と、同じくエトワール。

「くーずくーず」ジト目のアビー。

「まあ、少しはスカッとした的な?」と、ルイスがへらっと頭の後ろに腕を組む。

「クソイケメンだから余計力が入ったぜ!」

それなーと双子が大笑い。

マルクスは嘆息し、眼鏡を押し上げて低い声で言う。

「君の腐った性根(しょうね)には心底絶望したが、もう二度と僕を失望させないくれ。一生、僕は君を許さないだろう」空気が震える圧倒的な目力──。

「なんてな」

「なんだよ」

「でも、ピエロの心、ちゃんと戻った。よかった」

「これ以上は僕が法律に触れるからしないけど……君の命、法律に助けられたね」

「こえー」サイヤ人並みの闇の迫力に、セシルもビビる。

上体を起こして座り直し、ピエロが沈痛に目を伏してまた謝る。

「本当に、すまなかった。子どもたち。お前たちも……本当に、みんな、すまなかった」

罪の名残の空気が重たく漂う。傷つけられた悲しみや怒りが静かに滲み渡る。けれども、少女の明るい声が静寂を破った。

「いいよ。ピエロはちゃんと謝れた! お仕置きも受けた! ピエロもおもちゃも元に戻った! 心の傷は、かんたんには直せない。けど、これからまた新しい思い出で、ひとつひとつ、縫っていけばいいんだよ」

彼女は、しっかりとした眼差しで彼を見つめる。

「エイミーは、お前を許します」

あんなに酷いことをされたのに、信じられないといった表情を子どもたちやおもちゃは浮かべた。感動にアイを揺らす者もいる。なんていい子なんだ……。親の教育がすばらしいんだろうな(彼女は自分で自分を躾けた)とおもちゃたちが言い合う。

彼女の笑顔は優しく、嘘という概念を知らない。最も、驚愕としてピエロは目を見開き、濡れた瞳を歪めて震わす。彼女にしたことを思い返すと、胸が激痛に張り裂ける。

「エイミー……私は、本当に……君を……」

エイミーは目線を合わせるようにしゃがんで、言葉を奪って、強かに笑う。

「いいよ。『ごめんなさい』の涙より、『ありがとう』の笑顔の方が、エイミーは好きだ」

ピエロは顔を上げ、違う色で潤んだ目を広げる。光り輝く太陽の笑顔。彼の心に愛の音色が響く。知れば知るほど輝く、太陽のように届かない、彼女にはもう届かない、恋の音色が高く切なくまた響いて、聞き流した。虹のように彼の瞳がきらめき、美しく和らいで、真珠のような雫が微笑む唇の隣に転がる。

「ありがとう」

二回瞬きをして、エイミーは笑顔を弾けさせた。不覚にも、彼の笑顔の美しさに見惚れている者が多数。

呆れた、困ったような、エトワールが優しく笑って言う。

「まったく、君はどこまで僕を突き落とすの? 君のせいで怒りも空から落ちちゃったよ」

「君は奇跡のバカだが、心は奇跡の天才だな」

マルクスも優しい目で同じような笑みを浮かべる。長い謝罪の儀式は終わり、ピエロが立ち上がると、他の子どもたちはスイッチを入れたように彼の素顔に対して騒ぐ。

「いやマジで信じらんない! なんで仮面つけてんの⁉ バカなの⁉ 童貞もどうせ嘘だろ!」

「やりたい放題じゃねえか!」

『なあ(ねえ)⁉』

ピエロは笑う。

「それは、私のたったひとつの誇るべき真実だ。自虐じゃないぞ?」

(超)黒歴史をネタにして笑いが上がり、夜を蹴散らす真夏の太陽みたいにぐんぐんと晴れやかな空気に戻る。ピエロはおもちゃと目が合うと、思いきり破顔した。おもちゃたちがわあっと輝いて、歓声を巻き上げてひとりずつどんどん胸に飛び込んでいって、彼が大人数にどっしーんと倒れる。

バカ野郎! 反抗期が長いんだよ! 久し振り~! だいすき! 大きく口を開けてお腹の底から笑い合う。家族を腕いっぱいに抱きしめる。てんこ盛りに増えて絨毯になりかける。 重い重い重い! 重いって! 仕返しだバーーーカ!

あっはっはっはっはっは!  やめろ! くすぐるなあ! 弱いんだぞお! くすぐりの刑だ!

「お前ら仲いいな~!」とエイミーが仁王立(におうだ)ちで豪傑笑い。そうだ! とひらめいた。

「ねえ! 『けいひん』なんてなくてもいい! みんなでまた、おもちゃの国で遊ぼうよ!」

両腕を上げてすばらしい提案をした。

ピエロもおもちゃも子どもたちも、元気いっぱいに広場から踊り出る。

遊戯では乗れなかったジェットコースター、ずっと行きたかった野菜のアイランド、ゲームセンター、みんなでプリを撮ったり、お茶目過ぎるミニラブと遊んで、へんてこなおもちゃたちと、ひとりの道化師と大笑いして、心からこのひとときを目いっぱい楽しむ。

ピエロ! ピエロ! ピエロ~!

新たなアイランドに行っても人気者のピエロはおもちゃたちにあれよと囲まれる。冗談を言い合い、輪の中心で穏やかに笑っているピエロを、ニコラはまじまじと見る。

「よくよく見れば……いえかなり、いえあれは!」

神秘的な髪と瞳。光り輝く美貌。ムダだと思っていた抜群のスタイル──時代のねじれから生まれたこの世の寄生虫だとしか思わなかったけど!

乙女極まりなく両手を組み合わせた。

「絶世の、色男ぉ……!」

面食い、恋に落ちる。

「ハァン……私の王子様! どうかその美しいお顔を向けてくれないかしら……」

「エヒ! エヒ! エフィフィフィフィフイイイイイイイイイイイイイ! プリンたべたいおー」

世にもきもい顔芸できもい奇声を発する。

「ないわ……」

真顔になり、ものの三秒で冷める。

ピエロキャッスルのエンタを一望できる高台で、ヒューヒューとはやし立て、何やら話をしていたおもちゃを含める男子たちがセシルの背中を力強く押す。

「エイミー! セシルが話があるんだってさあ!」

ルイスが特段大きな声でエイミーに言う。女子グループで望遠鏡を覗いていた彼女は首をかしげて「なあに?」とセシルの前にやってくる。二人のためにみんなが距離を開ける。アビーとニコラがきゃあと歓声を上げる。

きらきらと輝く大きな緑の瞳に見つめられ、心臓がバクバクと暴れる。ずっと、ここにいれる訳じゃない。こいつと別れる時は今日必ず来る。何も言わずにサヨナラするとか、マジで一生後悔する。明日じじいになったとしても死んでも死にきれないだろう。

セシルは拳をぎゅっと固め、肺に勇気と空気を吸い込む。トマトみたいに赤い顔で彼女をきっと見つめ、叫ぶように言った。

「好きなんだよバーーーーーーカ!」

エイミーは目をきょとんと丸くする。絶対に解からないと思ったので分かりやすく説明する。

「俺がバカなお前にわかりやすく説明してやる! 俺は今、お前に『こくはく』した! こくはくっていうのは恋をした相手に『好き』だって伝える男女の儀式のことで、お前が『エイミーも!』って言ったら俺たちは『彼氏』と『彼女』になる! うまくいけば『結婚』して、永遠の愛を『約束』して『夫婦』になるんだ! お前の父さん母さんみたいにな!」

エイミーは面白いくらい口も目もぱっくりしている。

「俺は! お前がバカみたいに好きなんだよ! わからないならもういっぺん一句漏らさず言ってやってもいいぜ! 俺は、お前が、女として! バカみたいに! 好きなんだよおおおお! わかったか⁉ バーーーああああああカああああああ!」

彼の言葉の嵐を一句漏らさず聞いて、分かりやすかったのでちゃんと大半を理解して、顔中が目の二つになるくらい聞いていた。

好き──セシルが、エイミーを……。将来の、お嫁さんにするって。

「え……」

五秒かかり、エイミーの白い顔がかあっと赤くなって、どくんと心臓が急に飛び跳ねる。手をそぞろに合わせてやや俯いた。上目で、彼をじっと見つめる。

セシル──怖くて震えていたときに、助けてくれたセシル。「守るよ」って言ってくれたセシル。おもしろいセシル。かっこいいセシル。ちょっと背が高いセシル。

初めはただ面白い子だなと思った。面白い彼と話したくて、一目散に抱き着いた。ただ彼といるのが楽しいから。

けど、あの時。へたり込んでいた時に見上げた彼が、誰よりも強く輝いていた時から、抱きしめてくれた時から、自分の中で名前も知らずに変わっていた。

セシルが、自分に初めて投げかけてくれた言葉が、行動が、どれだけ嬉しかったかなんて、言葉にできない。髪の毛、さらさらでいい匂いがした。瞳の色や、声が好き。みんなを思い浮かべるときに、必ずセシルが最初に浮かぶのは。みんながいたら、必ずセシルに一目散に飛びつくのは、目が合うだけですごく嬉しいのは、高鳴るのは、しあわせなのは……横顔がかっこいいと思い始めた頃から──。

名前の知らなった鼓動の名前を、彼が今教えてくれた。

心臓がすごくドキドキする。しあわせの脈を打っている。全身に深い喜びがうたって流れている。彼を映す瞳がどんどんきらきらと輝いていって、パッと大輪の愛の花が咲いた。

「エイミー! セシルのお嫁さんになる~!」

ニコラがぱっと歓喜の息を吸って輝き、エイミーが思いきり彼に抱き着いて、一緒に地面に倒れる。「え……」セシルは赤い顔でびっくりしている。

「エイミーも好き! セシルが大好き! エイミーのお婿さんにする! ぜ~ったいぜ~~~~~ったい『けっこん』しようね! 約束だよ! セシル!」

見守っていたおもちゃが目を丸くして呟く。

「つまり……」

うおおおっと熱狂的な拍手喝采に包まれた! マルクスはほうれい線鮮やかに面白いくらいにやけ、まるで自分のことのように誰もが歓び、一同がかわいらしい小さなカップルの誕生を祝福する! なんという事だ世紀の瞬間、リア充が誕生した瞬間です! と双子が陽気に実況し、高台の窓の方へ笑顔へ行くと、『爆発しろおおおおおおおおおおおおお!』と共に叫んだ。

カップルを囲み、セシルが双子に「やりやがったなお前!」と優しく蹴られ叩かれ、笑いに満ちみちて、ヒューヒューと冷やかされまくり、同時に背中を押されて向かい合わされる。

なんともあどけなく、上目遣いでじっと小さな恋人たちは無邪気に、照れて、見つめ合い、エイミーはにこりと笑ってセシルのほっぺにキスをした。された方はかっとトマトになって、周囲はわっと祝福と笑いの渦に沸いた。

「セシル」

紅潮しているセシルの隣にエトワールが来る。穏やかな笑顔で彼は言った。

「おめでとう」

切ない針が胸を刺したが、彼は素直に純粋な笑みで返す。

「ああ」

彼が背を向け、祝福の輪から共に抜ける。窓際に彼らは並ぶ。

彼は俯いて、笑みを殺して静かに震える。そして、泥濘(ぬかるみ)を一度断ち、涙を流して彼に微笑み、震えた声で言った。

「セシル。約束しろよ」

表情の機微(きび)で、人の感情が読める自分は、彼女の想いも、報われないことも解かっていた。ひょっとしたら、何かをきっかけに風(かざ)向(む)きが変わるかも知れないと期待していたが、今しがた潰えて、永遠に変わってしまった。取り返しがつかないところまで膨らんだこの心が変わる日は来ないだろう。彼女の純白の姿も、彼女とよく似た子どもを見ても、自分は彼女に対して、嘘をつき続けるだろう。彼女の幸せを描き続けるだろう。だから──。

エトワールはセシルに詰め寄り、後頭部を引き寄せて抱く。押し殺すようにして震え泣く。灼けるような嫉妬も悔しさも殺し、恋を愛が勝り、声を絞り出した。

「あの子を、僕が死ぬまで幸せにしてくれ……。破ったのなら、……是が非でも奪うぞ」

愛と殺気。震える彼を、セシルは抱き返した。

「約束するよ。お前の想いも。俺は必ず守るよ」

男同士の約束を交わす。エトワールは失恋に濡れて、たとえ泥の中でも、蓮の花のように綺麗に笑った。

セシル! 彼女が彼を呼ぶ。エトワールの胸が張り裂ける。

「行けよ」

セシルの背が離れる。勇敢に、彼女の心を大切に持っていくように。自然と伸びた手は、愛に呻き、信念をもって沈む。恋人たちは、しあわせそうに並んで笑う。

君たちは、嫉妬するくらい、とてもお似合いだよ。

「おめでとう。エイミー」


ちょうどその時、しあわせに酔う国の遥か底で、ピエロはロアに自ら案内してもらい、圧倒的に積み重なる玩具の山の麓(ふもと)で並んで座っていた。

死に満ちた静寂の中に、男の咽び泣く声が響いている。地面に額が当たりそうなほど玩具を悲痛の限り抱きすくめ、深謝(しんしゃ)する男の隣で、ロアは彼を見ず、正面を聖者にも似た顔で見ている。

長い時を経て、深い傷は消えることはないが、彼は下流に落ち着いた。

「お前は大人になるのが遅すぎる。この三十八歳児」

呆れや、怒りを込めてロアは言った。ピエロは項垂れたまま返す。

「………ロア、私はまだ二十代だ。たぶん……」

ムスッとして言い返す。

「ゴミ箱にいる時間が長くて」

「すまなかった……。だが、さっきの発言はゴミ箱に放り投げたいね……」

「もうゴミ箱にいるよ。一緒に。君のつくった。つくらせた」

「……何回謝っても報われないだろう」

あの子たちは許してくれたが、自分の罪のように、傷は消えないだろう。おもちゃたちも同じように。深い罪の意識が己の中に残る。

ピエロ。ロアは真剣な面差しで言った。

「覚悟はあるのか? ──覚悟は、あるのか?」

目を瞑り、業(ごう)の暗闇を見つめる。ピエロは静かに、確固たる芯をもって答えた。

「ああ。あるとも」


ピエロ城の広場。空をいっぱいに映す大窓があり、ピエロもいるということで大勢が賑わっている。戻ったピエロや遊びまくった子どもたちが会(かい)して、おもちゃたちも交えて歓談していた。

──幸福の絶頂のなか、魔の影は忍び寄っていた。

人知れず忘れられて、国の内臓部で、歯車の回転が規律正しく止まっていく。幸福の絶頂を切り裂くように、破壊の序章を鳴らす。

突然、国全体の地盤がおよそ震度九ほど激しく揺れて、全国のおもちゃたち、広場にいた一同も転倒し、悲鳴の嵐が巻き起こった。

「いやあ! なんなの⁉」

ニコラが頭を押さえて恐怖に震える。叫び声が飛び交う。

「地震だ!」

「地震って! ここは空だろ⁉ 雲の上だろ⁉」

おもちゃが叫んだ原因不明の災害にルイスが怒り叫んだ。一瞬ここが日本ではないかと疑う。地震は猛威(もうい)を振るってやがて微弱な余震に落ち着くが、大変な悪い予感を匂わせる。

混乱して場はどよめき、子どもたちも恐怖を浮かべて騒いでいる。そして畳み掛けるように、警報アラームが国中にけたたましく鳴り響いた。『エラー』と書かれた赤く不吉な画面が全国に無数に浮上して、女の機械音声が繰り返す。

『機構部(きこうぶ)で、エラーが発生しました。直ちに、避難を始めてください。繰り返します──』

『機構部で、エラーが発生しました。直ちに、避難を始めてください。繰り返します──」

点滅する赤い光に一同が照らされて、当惑(とうわく)する。

「一体、何が……」

そこで全国の至るところに、巨大な画面が広場の空にも突然浮上し、泡を食ったシモロンが目をバツや星や四角にして喋る。国を操っている形なきクラウンだ。

「大変です一大事です緊急事態です~! ピエロさん! 皆さん! 今すぐ避難してくださーい! これは自然でありながら、致し方ない災害です!」

シモロンは慌てて説明した。あの時、一度心は本体から離れてラブ・メーカーに収納され、彼女の心も一時的に分離した。国を操っている、国自身ともいえる彼女がだ。国も心を持つおもちゃであり、おもちゃたちのように心を原動力としている。分離時にあらゆる機能が停止し、歯車はゆっくりと止まっていった。還元(かんげん)後も、シモロンを含めて平和ボケして気づかぬうちに、着々と破壊のギアはすでに修繕(しゅうぜん)不可能なところまで進み、本物の滅亡的な災害となって降りかかった。エンタだけではない、国はひと繋ぎで出来ており、中心の島が崩れれば、全国は瓦解(がかい)する。よって、国は墜落(ついらく)する──。

え⁉ なんだって⁉

億を超える国民の叫びを一身に浴び、シモロンは画面上で泣く。

「ごめんなさい。シモロンが悪いんです……。とにかく皆さん避難を開始してください!」

「避難たってこの人数どうやって避難すんだよ! 宇宙にでも行くのかよ!」

ギルベルトが激昂し、続いて他の者たちが続々と騒ぎ立てる。

国が墜ちる……。億の国民を乗せた列島、創造物の集大成が、世界に墜ちる。悪寒がピエロの全身を襲う。彼は自分の死や作品よりも、仲間の命を案じて独りごちる。

「いや、これは私の責任だ……」

ギルベルトはキッと彼を見るが、叱咤(しった)しても変わらないと奥歯を噛み締め、「クソ!」と地団太(じだんだ)を踏んだ。

ルイスが青白い顔で言う。

「じゃあ……僕たちこのまま墜ちて死ぬってこと⁉ イヤあああああああああああああ! 無理無理そんなのひどいって!」

頬に手を挟んで甲高く発狂し、刻々と迫る死を自覚した途端に、「死にたくない!」「誰か助けて!」「神様!」などと発狂の連鎖が起こって、広場は火事場のような狂乱に包まれる。窓から飛び下りようとする者を仲間が必死に食い止める。悲鳴飛び交い大群が右往左往して、子どもたちもゾッと青ざめている。そんな広場の光景を意味もなくデジタル画面が音声付きで全国で流しているが、映像と全く同じパニック状態で見る者などいない。

「お前たち……! 落ち着くんだ!」

踏み出した足がおもちゃとぶつかってつまずいた。……この状態がずっと続けば、確実に国は最悪の一途を辿ることになる。なんとか、この騒ぎを鎮めなければ。子どもたちを見ると、少年は少女を守るように抱き締め、絶望を浮かべる子までいた。もう、そんな顔はさせないと決めたというのに。心が凛と震える。──守らなければならない。あの子たちを、家族を。

ピエロはすっと、真っ直ぐに立ち上がる。乱れ交う集団の中孤立し、空気を肺満タンに吸収する。驚異的な肺活量をもって、巨人のような渾身(こんしん)の太い声で叫んだ。


「鎮(しず)まりなさい!」


警報、喧騒を引き裂き、その声は余韻を引いて、国中に雷鳴(らいめい)のごとくとどろき渡った。大衆の動きがぴたりと停止し、たちまち静寂に取って代わった。王のごとく威厳を放ち、全国民は生身を、または画面越しに彼を見つめ、子どもたちも彼を不安げに見る。

全視線を浴びて、ピエロの真剣な声が、全国に響く。

「お前たちに、今しか言えない、今だからこそ、言わなければならないことがある。心して、聞いてほしい」

その言葉が、大衆の胸を絶望的に切り裂く。真剣な顔と雰囲気から、遺言だと、誰もが悟った。

大衆の顔は真剣に変わり、恐怖に強張っているが、王が彼らを高潔にして、彼の次の言葉を待った。

深い沈黙の中、ピエロの気高く言い放った言葉が、国にあまねく響いた。



「世界は、パンツでできている」



広場のおもちゃたちが、真剣な顔で彼を見ている。

子どもたちも、大真面目な顔で彼を見つめている。

外のおもちゃたちも、神妙な顔で画面の彼を見上げている。ある者は衝撃を受け、ある者はアホ面で、ある者は哀れみさえ浮かべている。

国の誰ひとりが喋らない、笑わない、身じろぎもしない、きっと後にも先にもない沈黙だった。完璧なまでの沈黙だった。伝説的な沈黙だった。災害レベルの沈黙だった。黒歴史確定の沈黙だった。

死迫る聖なる沈黙の中で、何か、胸を打つ素晴らしい言葉を言うのかと彼らは思ったのだが、彼は言ったのだ。「世界は、パンツでできている」と。「世界は、パンツ」なのだと。「パンツ」なのだと──。「パンツ」──なの、だと────。

素晴らしい沈黙で、そして、素晴らしい言葉だった……。

かつて、こんな沈黙があっただろうか。

ピエロは堂々と威厳さえ放って佇んでいる。全国民が真顔で彼を見ている。

「さむ」

アビーが最初にそう呟いた。

「ないわ」

ややあってセシルが真顔で続いた。

「引いた」

ニコラがマジな顔で言った。

「滑った……」

同じく間髪容れずにおもちゃも呟く。

「それはない……」

「いやそれはちょっと……」

「うん……」

「ねえ……」

立て続けにドン引き発言が子どもたちの一部を中心に起こり、国は、沈黙により滅亡するかと思われた。

が。

「ぶっ……」

ひとりのおもちゃが突如吹き、そして──!

なんということだろう。まさか「沈黙」に、おもちゃたちが一斉に笑い転げた!


『ギャッハッハッハッハッハッッハッハッハッハッハッハッハッハッハ!』


滅亡アラームを吹っ飛ばし、誰も彼もがひっくり返り、それこそまさに国が崩壊するほどの未曽(みぞ)有(う)の大災害──大爆笑が起こった。もはや悲鳴に近い笑いを上げて、「滑り過ぎ!」またバネがびよんと弾け、「沈黙!」また煙を噴き、「経綸(けいりん)!」放電を散らして故障する。

ピエロは真顔で腕を組み、直立不動。その様は王であり、英雄であった。

ギャグ未満の言葉を発し、あえて滑り、「沈黙」で爆笑させ、想定通りなのだから、とんでもなくヤバイ男である

限界まで耐えていたが、ぶっと吹きだし、気狂いという形容にふさわしく笑い転げる。

双子ものたうち回り、エイミーは「おもしろ~い!」とぴょんぴょん笑いながら跳ねている。

「イカれてる……」

驚き、同時に呆れて、エトワールが言った。

広場はしきりに赤く点滅しているが、おもちゃたちはのたうち回るのにそれどころではなく、ぶーぶーうるさい警報もまるで爆笑で聞こえない。狂気的で、異常な光景だ。

他の正常な子どもたちも、心の中で共鳴した。

──やっぱり、こいつらはイカれてる……。

長らく続いて徐々に収まり、まだ悶える声が多少ある中、ピエロが笑いに苦しみながらよろよろと起き上がり、笑い交じりに声を張り上げる。

「みんな! 一体何をそんなに怯えているのだね? 国が墜ちるんだぞ? 国が墜ちるのだあ! こんなにスリルある楽しいサーカスが、かつてあっただろうか! 我々道化はスリルと珍奇を渇望する魂である! 狂気こそ! 我が心の美学! 同胞よ! 友よ! 我が家族よ! このスリル! このサーカス! 我がピエロ・ペドロニーノと共に、このかつてない『死』へと続くパレードを楽しもうではないか! 道化此処(ここ)に在る時!」

地面は激しく揺れ始める。破滅の警報と、点滅の赤を紙吹雪のように浴び、腕をばっと広げ、まさに狂気と笑う。

「──サーカスは、終わらない」

国民は火が噴き上がるように熱狂する。ピエロはキャビンアテンダントの声で片脚を上げ可憐に言う。

「さあ! 『生』へとご案内して差し上げなさいっ」

ハイハーイ、『生』はこちらでーす、赤い棒を持った警備員が誘導し、開放された大窓の外に合体式の列車のおもちゃが笑顔で待っている。

「さあ、子どもたち。君たちは生きなさい。人数的に無理があるし、空に飛び込む訳にもいかない。私たちはここに残るよ」

しかし子どもたちは動かない。「ふざけんなよ……」ギルベルトは泣いて怒り叫ぶ。

「ふざけんなよ! 本当はクソ怖えくせに、嘘ついてんじゃねえよ! 心、見え見えなんだよ……っ、バカ野郎ども! テメェらもここから逃げるんだ!」

確かにイカれているが、自分たちを安心させるためにそうしていることも知っている。ルイスも泣き叫んだ。

「そうだよ! 死ぬんだぞ⁉ 知ってんだよ! 仮面の裏が涙でぐっちょぐちょなことくらい! 綺麗な顔もブッサイクになってんだろ! やっぱり嘘つきだ!」

子どもたちが続々と悲痛に叫び、一緒に行こう、嘘つきだと言う。ピエロは優しく笑う。

「だいじょうぶ。嘘じゃないよ」

「嘘つけよ!」

「嘘じゃない」

ピエロはやや俯き、仮面に手を付ける。

「嘘だ……!」

仮面の影が輪郭の外へ去ると、きらきらと輝く金色の目をぱっちりと開けて、涙ひとつない顔でにっこりと優しく笑う。

「ね? 嘘じゃない」

息を吞むような美貌も手伝い、子どもたちは言葉も飲んで押し黙った。彼は素顔のまま、帽子の鍔(つば)を傾け、唇は弧のまま、涙に目を伏せる。

「私たちが一番怖いのは、君たちの涙なんだ」

影の中で、金色が凛と見開いて、際立って輝く。

「私には、愛する仲間たちが傍にいる。それだけで、しあわせなんだ。それを教えてくれたのは、君たちなんだ。だから、それはできない。私たちは、ここで笑うよ」

おもちゃたちも、子どもたちに慈愛の笑顔を浮かべている。ピエロの言葉を真剣に耳を傾け、目を奪われている彼らを、優しく、さりげなく、おもちゃたちは窓の方へと誘導する。子どもたちは空を背景に、ピエロを先頭とする道化師たちは、破滅を背景に向かい合う。

セシルがゆっくりと頭を振る。ピエロの下瞼が微かにひくついたが、彼の口角はびくともしない。

「紳士は、何があっても動じたりはしないよ。それは道化師だってそうだ。彼らは、どんな事があっても、いつだって笑っているんだ」

『これが僕らのダンディズム』

道化師たちは、にっこりとそう口を揃えた。

セシルは悲しみに顔を歪ませ、震えた声で言う。

「嫌だ。そんなの……俺たちも嫌だよ! お前たちがいないとかクソつまんねぇんだよ! お前たちがいない世界なんてゴミだ! ガラクタだった俺たちの世界を、宝物にしたのはお前たちじゃねえか! その罪を償えよ! 行きたくない! 誰が帰るか……ざけんなよぉ……!」

涙が溢れ、彼は鼻を啜って袖で涙を拭く。痛ましい姿に、ピエロはゆっくりと歩み寄り、泣く彼を抱きしめた。激しく痛む胸を忍び、ピエロは笑顔を歪ませ、少年に言った。

「セシル。君は守るべき人を守り、愛すべき人を愛し、地面の上で、愛する女性としあわせな家庭を築いて、私を嫉妬させるんだ。君には、君だからこそできる、果たすべき命がある。元恋敵(こいがたき)の男の命なんて気にするな。私は十分羽ばたいた。今度は、少年少女──。君たちが羽ばたく番だ」

少年から身を離し、深く光る目と切なげな笑顔で優しく首を傾げる。もう二度と会えないと分かっている母親のように柔らかく、父親のように強く、彼は少年少女に言った。

「生きなさい」

濡れた幼気な瞳を限りなく見開き、惜別(せきべつ)の中で子どもたちは固まる。

揺れが一層激しくなり、彼らは悲鳴を上げてよろめく。止まった大小の歯車が崩れ落ち、おもちゃたちが逃げる。居続けるのがいよいよ難しくなり、子どもたちは慌てて列車に飛び乗った。

列車は汽笛(きてき)を上げて至急に出発する。エイミーは最後(さいこう)尾(び)の車両で振り返り、流れ星を散らして叫ぶ。

「ピエロ!」

ゴゴゴと地響きを鳴らし、部品が激流のごとく雪崩れて破壊音を乱舞する。おもちゃたちを背後に、ピエロを先頭とする道化師たちは破滅の中でも笑っている。大切な人がまた、失われようとしている──。手を伸ばすが、「エイミー!」と、セシルに止められた。彼女は泣き叫ぶ。

「ピエロおおおおおおおおおおおお!」

彼らの周囲を瓦礫(がれき)の雨が激しく崩落する。ピエロは仮面を被り、「せーのっ」と言うと、道化師たちは笑顔で子どもたちに手を振る。

『バイバ~~~~~~イ!』


そして、破壊の幕が落ちたことによって、彼らの姿が見えなくなった。エイミーはかっと目を剥き、慟哭の声を上げた。


──君たちに出会えて、本当によかった。君たちのこと、忘れないよ。たとえ、違う世界に行ったとしても、私たちは、ずっと友達だ。ありがとう。子どもたち……。


仮面の裏で涙して、しあわせに微笑んだ。

「お前たち……!」

弾かれるように踵(きびす)を返す。滑るように膝を突いて、勢いよく胸に飛び込む家族をきつく抱きしめる。彼らは胸の痛みに耐えるように、運命を受け入れるように、目を瞑り、優しく微笑んでいる。その胸に溢れるほどの愛情が彼らを結んでいる。

「ああ、分かっているよ……。そうだね。私も、そうだとも……。──離れ離れになったとしても、私たちの心はずっと一緒だよ。いつでも、そしてどこだって、私たちの心はひとつだ」

警報は二重になって高速化し、同時に赤い点滅を繰り返して、揺れは発狂するように激しくなる。

ピエロは家族に囲まれて、心を温もりでいっぱいにし、愛おしげに、切なく、しあわせに笑う。警報は間髪なく鳴り響き、いよいよ破滅する。

「さよなら、友よ…………」

そして、真っ赤な光に包まれた。


 9


夕暮れ時の、遥か高い空から、地獄めいた破壊音が絶えることなく世界にとどろく。

空の大国が砕け散って、一部で爆発し、億の瓦礫となって海洋に崩れていく。

家屋の窓から、ビルの前のゴンドラから、オフィスから、砂漠の上から、時刻も国境も関係なく、世界が呆然と国を見上げていた。

轟音と、異様な静寂を聞いて母親がゆっくりと門扉(もんぴ)から現れる。路地に座り、肩を並べる老人たちは、煙草(たばこ)の煙を忘れたように透かして見上げ、都会のスーツの人々は皆足を止めている。

眼をこの上なく見開き、彼らの瞳の芯が震える。そして、世界は思った。


──何故。失ったあとに、気づく。


秩序を乱す、幼稚で、不道徳な巣窟だ。最初はそう思っていた。千代(ちよ)に続いたさだめから、革命のうねりを恐れ、常識を頑(かたく)なに守ろうとして、我を失い激昂し、排斥しようとしていた。繰り返す遊戯を迷惑がり、彼らの言う夢など「どうでもいい」と、口はそう言った。

しかし──私たちの瞳孔は、開いていた。

日曜の晴れた日になれば、国のある青い空をしきりに眺めた。空の青さに驚き、こんなに広いものなのかと初めて感動したりもした。国の圧倒的な規模には舌を巻き、一体どうやって創られているのだろうと好奇心も覗かせた。

常識から生まれた意固地(いこじ)な恐怖と。頑なに否定した裏腹の楽しみと──。

私たちはあの声を待っていたのだ。

君たちは諦めもしないで、ノックもせず、堅物の扉を隔てて「愛している」と言い、私たちは扉に背中を預け、変なところを見て、どこかで笑って聞いていた。

彼らの色彩に、いつしかこの心の裏側は染まっていった。

たった今、彼らが「愛の塊」でできていたことに気づく。教えてくれた「楽しみ」の彩りを素直に受け止める。

女は力を失って、茫然と膝から崩れ落ちる。

褐色の肌の少年の美しい瞳から、涙が伝う。

煙草が落ち、老人の瞳が大きく見開いて歪み、呻きを漏らした。

たった今、国が滅亡した時。


──愛していたということを知る。


ずっと、否定していた、大人たちの心が灼けるように痛んだ。巨大な空洞が胃に空いて、喪失感という冷たい空気が中に満ちた。

かけがえのない、絶対的な存在を失い、まるで太陽を失ったように世界は昏く沈む。

古い価値観は消えた。扉もなくなった。もう、この世界は労働だけではない。ようやく呪縛(じゅばく)から解き放たれたのだ。だが、空を見上げても、虚しさしかそこにはない。

楽しみを知ってしまった、楽しみのない世界で、一体何を明かりにして生きていけばいい。

絶望が、世界の隅々まで満ち渡る。

ひどく愛おしい。切ないくらいに恋しい。もう二度と出会うことはない。

年増の女性の目から涙が溢れ、泣き崩れる少女を母親は宥める。

この世の終わりのような悲しみが世界を飲み込み、彼らの心が号泣する。


八人の子どもたちは、名も知れない開けた地に降り、深い悲しみを浮かべて空を見上げていた。

「ピエロ……」

誰よりも顔を泣き濡らしたエイミーの手を、セシルが隣で握っている。マルクスはこれから何を生き甲斐にすればいいのかと絶望する。固い絆を結んだ彼らの死のショックが、子どもたちにはあまりにも大き過ぎた。

彼らは悲痛の面持ちでひとりひとり俯いていく。人々は悲しみに項垂れ、世界が下を向く。


世界が終わる夜のような沈黙が、この世を支配した。


時は無情に流れ、大きなつぶらな目で、じっと空を見つめていた赤ん坊は、急にきゃっきゃと笑い出した。人差し指で空をさす。抱いている母親がつられて空を見る。

「おい……! 見ろよ! あれ!」

ギルベルトが同じく空を仰ぎ、大きな声で指をさす。子どもたちが次々と重たい頭を擡げる。全員が目を丸くする。

「え⁉」

エイミーの大きな瞳が、きらりと輝く。


カラフルな風船が、空を覆い尽くすほど、とんでもない数で降ってくる。

風船と繋がったプレゼント箱が、降ってくる。

大小無数で、それはまるでカラフルな雨のように、世界にやってくる。


悲しみの瞳が輝きに彩られ、世界の誰もが空を見上げ、あんぐり。


泣き崩れていたエイミーは落日の中、黒いシルエットとなって、膝立ちで落ちてくるプレゼント箱に両腕を伸ばす。すると箱からビックリ箱みたいにおもちゃが飛び出して、彼女の胸に飛び込んだ。

鎧(よろい)窓(まど)から女の子が、飛び出してくるおもちゃを受け止め、涙を浮かべて笑う。

「会いたかった! 会いたかった…………っ」

大人の女性もおもちゃを胸に抱きしめ、頬を擦り寄せ合い、心から泣いて喜んだ。

「よかった……っ、本当に……」

山暮らしの長身の男は、彼方の空がカラフルに彩られている光景を眺めている。たったひとつ、意思を持ったように落ちてくるプレゼント箱を目にした途端、顔を一気に歪ませ、駆け走り、慌てて腕を伸ばした。

箱からクリッぺが星の音と共に飛び出して、ゼノの胸に飛び込んだ。涙が溢れ、きつく小さな家族を抱きしめ、ゼノは愛と喜びに泣く。

「あのッ…………クソ野郎ぉぉぉぉぉッ……」

ふっ、と彼の顔が優しく綻び、クリッぺの体内から黄金の光が輝き溢れる。


彼らだけではなく、世界はきらきらとゴールドに輝いている。


老若男女は腕を伸ばしておもちゃと抱き合い、愛と涙を浮かべる。微笑みに変わる瞬間の涙が世界に溢れる。大人は子どものようにおもちゃを抱き締め、「大好きだよ」と心と心が響き合う。大人も子どもも無邪気なギミックに心から笑い、頬と頬を合わせてかわいらしさに笑う。主婦の女性がおもちゃを胸に抱いて、空に向かってくしゃくしゃの泣き顔で輝いた。

「ありがどう……!」

年増の女性も、笑顔のおもちゃを抱きながら泣き叫ぶ。

「ウイルスなんて言ってごめんなさあああああああああい!」

女性リポーターが、空の光景を意気揚々と中継する。

「なんとご覧ください! 空から、笑顔の雨が降っています! 天からのギフトです! 人とおもちゃが手を取り合い、街中が笑顔に溢れています! きゃあ! 私の所にも来ました!」

元気すぎる妖精のおもちゃと戯れて笑い、にっこりと言った。

「傘の心配は、必要ありません!」

夜の雪国の地域、片田舎の村落、どこにでもあるような住宅街でも、愛の雨が世界にあまねく降り注ぐ。世界に笑顔が咲き乱れる。

青い空はポップに彩られ、舞い散る桜を浴びるように、遊女が崖の上で両の腕を広げる。

くしゃ、くしゃ、と空き地の土に、とんがった靴が現れる。

「リャハハハハハハハ! すげ~! アイツ、ついにやりやがったな!」

サーカスから急遽此処にやってきた、奇抜な衣装を着た赤髪の男が、きらきらと赤い瞳を輝かせて手を翳し、天を仰ぐ。隣には同じく衣装姿の金髪の女性が仲睦まじい距離で笑っている。

アビーが彼らに気づくと、ぱっと輝いた。

「パパ~! ママ~!」

「アビ~!」

ジャックは彼女に気が付くと一気に破顔して、腕をいっぱいに広げ、胸に飛び込む愛娘をくるくると抱きしめる。

「へへっ。どうだ? 俺たちが言った通り、アイツは最高の道化師だろう?」

彼の昔話を、二人は夢中になって話し、アビーも夢中になって聞いていた。実際話していた通りだ。

「うん。最狂(さいきょう)。クレイジーな方ね」

夫婦は目を皿にし、口をワニみたいにぱっくりと開けて大笑いする。そして、感慨のある深い笑顔で、もう一度空を眺める。

「ついに、夢が叶ったのね」

「ああ。あいつなら、きっとやり遂げると思ったさ。本当に、創っちまったよ。俺たちが望んだ、新しい世界をさ」

彼らの瞳は涙が出そうになって輝いて震える。ジャックは吹き飛ばすようにくしゃりと笑った。

「すげえ奴だよな。俺たちも、負けていられないぜ。これは、まだ始まりさ」

「パパ」

抱かれたまま、アビーが彼を真っ直ぐに見上げる。

両親は二人ともサーカスのスターであり、あまりにも偉大な人で、彼女には眩し過ぎた。六歳にして後継者としてのプレッシャーに押し潰され、臆病で綱渡りも怖くて渡れない自分なんかが後なんて継げる訳がないと悲観的になり、「お前は天才だ」とお気楽に笑う両親に溜っていたものが爆発して、朝家をおん出てしまった。でも、今なら、自信が持てる。新しくできた友達が臆病な心をほぐしてくれた、一流の道化たちをこの目で見て、自分もこんな風になりたいと強く思った。弱い心を、強い思いが超えた。

「アビー。サーカス、継ぐよ」

彼らは驚いた顔をして、そして笑った。

「おう!」

「あなたを信じてるわ」

胸をいっぱいにして笑い返す。自分はもう孤独の童女じゃない。休日エイミーたちとまた今度遊ぶように、好きなお洋服を着て、両親に受け継いだ才能を誇りに思って、バカにしてくる教室のあいつらにも笑顔で冗談を言い返してやろう。

「ピエロ、心を取るのも上手だったけど、アビーを泣かせるのも上手だったよ」

「ハハ、だよなー」

『なんだって(ですって)⁉ 』

ゴールデンチケットを引いた時、汽車が来る前におもちゃは子どもたちの家まで密(ひそ)かに案内してもらい、送迎(そうげい)のために記憶した。そのおもちゃも帰りの汽車に乗って家まで送り届けようとしたのだが、彼らの離れがたい雰囲気や、絆もあり、引き離すことはできなかった。

夕方の到着時にはおもちゃたちはすぐ分散し、保護者に喚起(かんき)して、分離した個の車両に乗せて空き地に迎えに来てもらった。

「エトワール! もう、心配したのよ?」

「母さん! ごめんなさい……」

最初にヴィオレッタがやってきて、「誰だあの美女」と双子がフィーバー。

「ギル! ルイ!」

巨人のような地響きが二回。腕を組む女三人組が現る。

『げ、母ちゃん(さん)!』

「怪我はないか⁉」

『ありません!』

「マ~ルクス~~~~~~」とほんわか系のマルクスの母ルーシーとツンデレや、ニコラの親バカ夫婦、セシルのどこか安心する家族まで、みんなが名前を呼ばれて家族の元に戻っていく。

エイミーは笑顔を浮かべているが、寂しげな尻目を流して家庭の輪に背を向ける。

「エイミー!」

まさか、呼ばれるとは思わなくて、心臓が高鳴った。振り向くと、切羽詰(せっぱつ)まったような面持ちのマーシャとペティが車両を前に並んで、赤い顔で彼女を見つめていた。

「ママ! お姉ちゃん! あ……」

家事も放棄して、それも国に遊びに行っていたなんて、怒るに決まっている。

「ごめんなさ──」

「どこに行っていたんだよ!」

涙声で怒り叫び、マーシャに力強く抱きしめられる。エイミーはかっと目を見開く。彼女は微かに震えており、悲しみに満ちて言った。

「お前が村のどこにいってもいないから、探し回って、心配したんだよ……」

エイミーが村から姿を消した時、彼女たちはひどく取り乱した。そんなことしなくていい、急に心が変わったと嘲笑されながら必死に探した。なぜそこまで探す必要がある、愛していないくせにという男の胸倉をマーシャは掴んだ。

なんでかって……そうさ、私をバカにしてこき下ろすといい。「愛してる」さえ素直に言えないバカな母親をね! なぜ探す? 言うまでもないだろ⁉ これでも目ぐらいずっと前に冷ましてるんだよ! バカ言ってないで、お前たちも頭冷やして手伝いな! また家族を失いたいのかい⁉

「ずっと、素直になれなくて……ごめんね。お前を……──愛してるよ」

ペティも、マーシャごとエイミーを抱きしめた。

「私も……。ずっとずっと酷いこと言ってごめんね。本当は、大好きよ、エイミー。また、お花の輪っか、作りましょうね」

ペティは顔を上げ、エイミーに向けて、あの日のように優しく笑った。

大きく開いた目を潤ませて、エイミーはとびきりの花束みたいに笑った。

「うん! また、みんなにつくってあげるね!」

そこでおもちゃが愉快に輪に加わって、リビングで響くような和やかな笑いが上がる。

「そういえば、ピエロは?」


──一方、雲の上では。

ロアとピエロは笑い転げ、ミニラブまでのたうち回って爆笑していた。

「アヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャ! 『さよなら。友よ……』 え、死ぬかと思った⁉ な訳サプライズの一環でしたギャヒャヒャヒャヒャヒャ!」

サプライズではあったが、あの時の心は本物で実質死と隣り合わせであり、一歩間違えれば滅亡だった。まあ、ある種の史上最大のサーカスだったよと、彼は笑顔で言うだろう。

子どもたちと向かい合う時から、彼は心の中でおもちゃ全員に避難するべく城に集まるように促していた。そして子どもたちと別れ、すぐにステッキに付いている極小のつまみを操作し、金庫級のパターンからひとつを秒速で導き、万が一のために創っておいた(絶対使う日は来ないだろうと思っていた)緊急離脱スイッチを押した。直後に国から城の上部が別個体として切り離され、地上に全国民を包装して送れる形に変形した。城の一部が強制的に分離を始めるため、滅亡警報とクロスするように緊急離脱警報が二重に鳴り響き、おもちゃたちは障害を掻い潜り、均一に分かたれて、最上階に無数にあるラッパの口に漏れることなく雪崩れ込んだ。

ピエロとロア、そしてミニラブ、心を引っ越したシモロンは離脱用の乗り物に乗り、それを彼女が操作して、避難を兼ねておもちゃたちはラッパの中で流れるように包装された。

何憶のおもちゃたち全員の命が助かり、奇跡の脱出ショーを果たしたと同時に世界にプレゼントという形で舞い降りたのである。箱の中は不思議な作りでできており、マジックミラーのように外界を四方見ることができ、意図で操縦できる。

思わぬ形ではあったが、世界にサプライズを贈るシナリオは変わらない。滅亡せずそのまま遊戯で掻き乱していれば、現在の子どもが大人になって自然的に楽しみが常識に変わり、絶好のタイミングでギフトを降らし、世界を笑顔にするというシナリオもあったが、まさに異例の形でそれは起きた。緊急離脱スイッチを創ったり、避難訓練はしておくものである。墜落先が太平洋だったのは不幸中の幸いだった。

元城の一部といえど、超ド級のおもちゃの花が空に咲いたように浮かんでいる。口からプレゼントが出てくる幾(いく)千(せん)のポップなラッパを花弁とし、花の中心に位置するところで、ピエロたちは空調システムもあるスチームパンクな乗り物で快適に過ごしている。

世界は楽しい、しあわせだと教えてくれる愉快な心の声の嵐を聞く。

言葉にもできない素晴らしい心地に満たされて、雲の下を飛び、彼らは笑顔に輝く世界の絶景を眺めている。

「ロア。私は今、何をしている?」

「君は今、夢を叶えて、世界の笑顔を目の当たりにし、家族としあわせに笑っている。君が愛した世界に愛されて、泣いている」

おもちゃと早速ともだちになった子どもたちは、興奮冷めやらぬ様子で母親に聞く。

「ねえ! 遊びに行っていい⁉」

エプロン姿の母親は腕を組み、困ったような仕方ないという顔で、「行ってらっしゃい」と優しく笑った。子どもたちは大喜びしておもちゃたちと元気に駆け出す。老若男女がおもちゃにハグして癒されて、愛し愛され、笑っている。空の花に指をさし、大人も子どもも歓声を上げ、手を振っている。

世界は輝いている。愛に輝いている。笑顔の花が乱れ咲いている。

「やったな」

「しかし、少女誘拐に破廉恥罪に、罪を数えたらキリがない」

「受け容れるさ。嵐はやがて過ぎ去る」

「次はどこへ行くんだ?」

「一度は里帰りしないとね」

「そうだな。今頃寂しくて泣いてるぞ」

一方は泣き笑いで、互いに顔をくしゃりとして笑い合う。

「ちょっと! ピエロさん! ロアさんばっかりでシモロンの存在も忘れないでください!」

モニターのシモロンがふくれっ面をして、ラブも激しく共感するばかりに怒ってるんだからねと言いたげに腰に腕を組んでいる。ピエロは穏やかに笑う。

「ああ。お前たちも大切だよ。シモロンも大好きだ。ラブも大大大好きだ」と言うと、ラブは発狂して扇子を出して踊り狂った。みんなが大笑いする。

ピエロは世界に目を向ける。

「ご覧。世界は、こんなにも美しい」

魂が熱く震える。胸が喜んで輝いている。描いていた夢とそのままに、宝石箱いっぱいに溢れる財宝みたいに輝く世界に、きらきらと見惚れる。ロアに大切に触れ、愛おしげに目を瞑って頬と頬を擦り合わせる。

「それで? 彼女はいつつくるんだ?」

「もうお前でいい気がしてきた。結婚する?」

「突き落とすぞ」

心奪われるほど美しい黄金色に輝く空。大きな花と小さな家族のシルエット。彼らは、声高々に、しあわせに笑い合った。

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ああああああああああああ ムーン @0930da

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