第4章

 1


館内がすーっと明るくなる。

スクリーンは闇に変わり、エイミーは驚愕としていた。

二人が観ていたのは、十八歳までの記憶だった。映画とも言えない、たった三十分程度の凝縮(ぎょうしゅく)されたノンフィクション。ファンタジーのように楽しく見ていたが、衝撃的な事実を知り、幻想はリアルだったのだと悟った。

拍動は速く、鳥肌は立ったまま。言葉を発さない、隣にいるピーターへ恐る恐る顔を向ける。

「ピエロは……ピーターだったの?」

エイミーははっと目を剥いた。俯きがちな横顔は、音もなく暗く泣いていた。

今ではありえない、しあわせ過ぎた過去を観てしまったから。

口の端をぐっと持ち上げ、彼はエイミーに向いて明るく、悲しげな笑顔で答える。

「うん。そうだよ。でも、違う。僕は本当の彼ではない。ずっと、嘘をついていてごめん。僕はラブ・メーカー。………彼の、分身だ」

「え………」

彼、ピエロの分身。あの、ラブ・メーカー。エイミーは思わず一歩、少年から後ずさった。

映画の中はファンタジーのような現実であり、そして、ここの世界も嘘のような真実だった。

エイミーはショックを隠しきれず、だが優しい彼女は怒ることもなく、悲しげに目を伏せた。

「……そう、なんだ」

その瞳は愁いげに揺らぐ。記憶の少年と、大人になった彼を思い浮かべた。

──一体……どうして……。


  2


一体、私の何が間違えたというのだ。何がいけなかったというのだ……。


長針が半分を越しても、広場は打ちひしがれ、地獄めいた悲しみに満ちている。


──やっと、手に入れたんだ……それなのに、何故……。


ラブ・メーカーに背いて廃人になり、ピエロは失望の底に沈み込んでいる。

ロアは切望するような眼差しで、彼を見つめる。

──ピエロ……。

ねぇ。君は。どうして変わってしまったの。

君の中で、一体何があったの。

いつだ。君の中で……歯車が、狂い始めたのは。


  3


世界と初めて遊んだ以降、五年が経ち、世界はいい意味で壊れ、夢の計画は順調に進んでいた。

子どもたちの無邪気な笑い声が、夕焼けの空の雲の上に響く。

「ピエロ! バイバ~イ!」

彼らを見届け、今回もうまくいったと愛する仲間たちと喜び合った。

おもちゃとのしあわせに満ちた生活。子どもたちとの遊戯。永遠の少年のようにいつまでも無邪気で、国での生活もすっかり慣れた。夜でも楽しみは終わらず、虹と夢とに輝いて、毎日を謳歌していた。

家の中、一人の時間、遊び疲れたと言わんばかりにイスに腰を下ろした。今日あった楽しい出来事を思いふけ、酒を交わす人間もおらず、しあわせに酔っていた。

何の気なしにやや俯くと、下の方で碧(あお)い輝きがちらつき、その存在に気がついた。首元のそれを見やすいように指で持ち上げる。

──なんだこれ? 

碧(あお)い宝石のブローチだった。

いやに美しい。こんな精巧(せいこう)なオモチャ、いつ創っただろうか。衣装を変えても、毎度毎度、忘れないように惰性でこれを付けていた。

はっと記憶が擡げた時、頭をハンマーで殴られたかのような衝撃を受ける。脳裏の愚かな空白を強烈に、清く神聖な光に溢れて、あの存在が埋め尽くした。

心臓を鷲掴まれ、やおら仰げていき、唇がかすかに開く。

「──ロゼッタ……」

これは、母の形見だ

あんな大切な人を、なぜ今まで忘れていた。 

もう、この世にいない彼女を。

今まで、一心不乱になって夢を追いかけていた。回顧(かいこ)する暇もないほど、夢中に遊び、何年間も完全に忘れていた。

「そうだ、ロゼッタ。私の母、ロゼッタ……」

胸の奥を締め付けられ、熱くなった。

頭の中で姿が思い浮かんだ。

後光(ごこう)を差し、天女(てんにょ)然と微笑みを落とす高貴な美貌。美しく波打つ白髪。風が運ぶように、かぐわしく清楚(せいそ)な花の香りが自然とした。たおやかな女の曲線美。声も美しかった。瞳をたわめ、囀るように笑う。世界を愛していた……心から尊敬していた、深く愛していた。

描けば描くほど鮮やかに彼女は美しく蘇る。蘇れば蘇えるほど胸を激しく締め付ける。 

──美しい人。愛する人。かけがえのない人。忘れてはならない人。

引き裂かれるほどに切なく、痛いほど愛おしい女。

「母さん……」

──もう一度会いたい。でも会えない。もう二度と、永遠に。

胸の奥のもっとも柔(やわ)なところが、刃物に突き刺されたように痛んだ。その傷を慰めるように、灯った火の名は、純愛。油に注がれたように胸中を物凄まじく燃え移り、心臓まで焼き尽くすようだ。

愛の激痛に、仮面の中で、涙が零れ落ちる。

首元の、唯一本物に光り輝くブローチを強く握り締める。ブローチに彼女の心はない。その気持ちを潰そうとしても、潰れてはくれない。切なさは情を知らず胸を抉り続ける。仮面を取り、素顔の頬に涙が溢れ続ける。男は恋しさにむせび泣く。

──ピーター。泣かないで。だいじょうぶだから。

心象(しんしょう)から生まれた母が、心象のなかの彼の顔を、光のなかであたたかく持ち上げる。

その顔を見つめ、彼女の永遠の美しさに傷つく。

少年は大人になり、彼女の死後の美化と、死からの自由を受けて、一人の女として目を変え、天女に妖精に天使に美女に見える彼女を、恍惚と崇拝を宿して見上げる。

──母さん。もうその名は捨てたんだ。ピエロと呼んでほしい。

しなやかな手に頬をくるまれ、情熱的に見つめ返し──若い男女は夢の中で惹かれ合う。

細い腰を抱いて、のめり込むうち、息は徐々に荒く、体は沸騰する。赤い一線を超えて、愛は恋に堕落する。

崇拝するばかりに愚鈍で、愛撫(あいぶ)ひとつできなかった少年時代を憎む。

これほどまでに美しい人、この世にいるだろうか。

彼女は死んだ。だからこそ永遠に若く美しいままで、私の中でのみ生き続ける。

法律を超えて男も女も愛せるならば、法律も足蹴(あしげ)にして母を抱ける。

白い絨毯の芳香(ほうこう)に酔いながら、少女に淑女(しゅくじょ)に幼女に遊女に、紳士に低俗(ていぞく)に無法に淫乱(いんらん)に、共に踊る。

へその緒(お)を再現し、恍惚として笑った。

「ママ……」

初めて、燃えるような色恋を抱いた。


明くる日。

「おいで」

家の中。イスに座って、遊びに来たおもちゃの体を胸の中に収める。愛おしい。私にはこの子たちがいる。こんな思いはしなくていいのだ。おもちゃが自分を見上げて笑っている。優しく笑い返す。かわいい。愛おしい。そんな中でも母の顔はちらつく。いつまでも頭上で微笑んで見守っている。「大好きだよ」と言う、おもちゃとの視線は絡まない。

──母さん……。

「嗚呼、愛しているよ」

月の光に誘われるように、天をうっとりと仰いだ。

情愛は日ごとに膨らんでいく。食も手につかず、ふわふわと浮いたような心地だった。

日がな一日、頭の中は母のことでいっぱいだった。

止めどなく恋分を綴(つづ)り、誰もいない暗い部屋で妄想し、その顔を浮かべただけで狂うほど愛おしく、そして胸が張り裂けそうになる。名を繰り返して慰める。美しいゴーストの輝かしい微笑。ありえない月に儚く手を伸ばす。いつしかその手はラブドールの頬に触れた。

久しく誘いに応答し、外に出て遊園地をそぞろに歩く。

──ツマラナイ。

──楽しくない。

──幼稚だ。

馬鹿げたビートに乗って踊る人形、幼児にお誂(あつら)えのサーカス。アコーディオンと歌い踊る空気を吸っても、あんなに熱狂したはずの射精の後のように冷め冷めとした心地で、耽美(たんび)でアダルトな世界から抜け出して来たここは、見渡す限りが玩具ばかり寄せ集めた、場違いな幼稚園に思えた。笑い声、喧騒、すべての雑音が五月蠅く不愉快だ。  

母のいる家が恋しい。ここにいるくらいなら、彼女といた方がよほど楽しい。

大人の遊びに溺れ、熱狂し尽くす。絶望に近く興ざめする。私は一体どうしたんだ。このままどうなるのか。なぜこんなにも虚しい。病気になったと夜まで懊悩(おうのう)し、紙に書いても分からない。ふつふつと情念が戻ると弾け、また醒(さ)める。毎日会えば治ると思い、オモチャと毎日いてもなぜか孤独を覚える。その意味が分からず、また悩んだ。いつしか会うことが義務になり、部屋に閉じこもるようになる。冷たい孤独に身を震わせ、あったかい過去に身を寄せた。

空虚(くうきょ)な分を満たすように、毒毒しい妄想に溺れ、終わると、冷たい地面に熱(ほて)った体を冷やす。孤独の波がひたひたと押し寄せ、冷たく彼を呑み込んだ。

ロゼッタとの戯れでさえ、なんだかもう、義務のようだ。このままじゃマズい。焦燥感に駆られ、腹の底が気持ち悪くて、発狂したくなるほどもやもやする。気力が出ない。退屈で死にそうだ。楽しくもないのに笑いなんか出ない。だが、笑うから楽しくなるのだと、かつての自分が言っていた。

ピエロは人生を投げ出した人間のように寝そべったまま、ひたすら乾いた笑いを零し続け、顔を覆い隠して、孤独に爆笑した。

「おいで」

膝に乗せて、遊びにきたオモチャを抱きしめる。こうするのは、何だか久しぶりだ。素っ気ない対応をしていたが、こうしていれば、もしかしたらいい療(りょう)


………………………………………………………………………?


何モ。

感ジナイ。


冷たい、空虚の塊。温もりも、血も涙もない。

虚無感とショックが、彼を圧倒した。

ずっと解けなかった心の問題が、解けた音がした。

無機物な作り物。だから満たされず、慰み物にもならないのだ。所詮ヒトではない、ニセモノなのだから。じゃあこいつはなんだ? こいつは誰だ? ああ、コイツは、人を模した、人にもなれない役立たず──

ガラクタだ。

心の中の歯車が、轟音を立てて崩れ落ちる。

彼の中で、大切な何かが壊れた。

吊り上がった口の端がするすると沈み、一筋、涙が零れ落ちた。

玩具を抱っこするように持ち上げる。玩具は嬉しそうに笑った。

──俄然(がぜん)、絶叫マシンにも似て床に思いきり投げ捨てる。面白いくらい物凄い音を立てて部品が爆(は)ぜ飛んだ。玩具は壊死した。虫けらの死に際を見るように、面白がって見下していた。

「乙(おつ)な物だ」

それからは、ネジがひとつひとつ飛んでいくようだった。

ピエロは誰一人侵入を許さず、完全に城を閉め切った。

わだかまりがある時は、勝手に家に入ってきた玩具を好機と思って壊すことで、療養(りょうよう)する。吐いて捨てるほどいるのだからどれだけ壊してもいい。一時的にすっきりはするが、巨大な塊となって暗澹(あんたん)が心にのしかかり、無性に人と会いたくなって、遊戯を計画した。

子どもたちの天真爛漫(てんしんらんまん)な笑顔を見る。生命蘇る心地がした──この世でいちばん美しい者を初めて見たかのような衝撃だった。小さな体を抱きしめれば、渇いた身体を生身の温もりがたっぷりと潤してくれる。

みつけた。究極の慰み者。

仮面の下で涙の歓喜に打ち震えた。ピエロは子どもの虜になった。

子どもたちのあの鮮やかな笑顔が忘れられない。シリコン製のラブドールには飽き飽きだ。所詮ニセモノはリアルに弱く、頭の中の母(偽)はどこかへ羽ばたいて卒業し、母関連のグッズをすべて捨てて、むしろ彼女よりも活き活きと楽しんで子どもたちに心酔(しんすい)する。

ああかわいい子どもたち! ずっと私の傍にいてくれればいいのに! いっそのこと、私のモノになって、家族になってくれよ。しかしかわいい天使は、いずれ大人になって穢れていく。そんな人は置いていけない。どうしたものかと、とっさに立ち上がった。名案を思いついた。

「ないものは創ればいい。家族を創ろう!」

昔なにかを夢見たように、すばらしい笑顔にあふれて、心が狂い躍る。対象はむろん子どもだ。誰もが「無理」と言った大きな夢を叶えた自分にできないことなどない。絶対的な自信があった。完璧でないと嫌だ。絶対理想通りがいい。子どものように我儘に、大人のように欲望のままに、狂気的に耽美(たんび)の夢へ漕ぎだす。

さぁどんな子にしようか? 優しい子、明るい子、美しい子──そう、美しい。いつまでも、子どものように純真無垢な美しい心を持つ子だ。

たとえ大人になったとしても、ゆめゆめ穢(けが)れることのない、永遠に美しい子がほしい。

だが、そんな子は存在しない──。

心を永遠に美しくするマシンを創るのだ。今は亡き母のように、強く、優しく。美しい。

──そんな子どもを探し出し、家族を創るのだ。 

硝子(がらす)のなかの一輪の美しい花のように、君を大切に愛(め)でよう。

まだ顔も名前も知れない家族を、〝アイの子〟と名付けて。

今までの涙がまるでウソのよう。かつて契(ちぎ)った夢は打ち忘れ、新たな夢を見つけたことで、ひどく夢心地。嗚呼(ああ)なんて楽しいのだ! 笑いが止まらない! 腹を抱え、狂った声で爆笑する。


遊戯の脚本を毎回自らが書き、役割を厳正なオーディションで決め、ステージの設定も彼によってそつなく創り出される。


『かけがえのないお前たちへ。世界のためにも共に楽しもう!』

気を遣ったマニュアルがのちに億劫(おっくう)になり、文(も)字面(じづら)は変化した。

『君たちに楽しいお知らせがあります』


『子どもが泣いた時の処置と、子どもを泣かした場合の君たちの処置』

『そして、私に反逆した場合の処置』


毎月それが刊行(かんこう)され、クラウンたちは嫌な顔ひとつせず、彼のためなら──あの人のためなら──あの方のためならと、だんだん変化し、配布される書類を受け取り、優秀な企業のように誰もが従順に踊る。 

ドリーム人生ゲームはテクノロジートイと協力して創った。子どもたちの生々しい悲惨たる映像を観ても、一旦アの子は棚に置き、所詮忘却されるファンタジーに過ぎないため、ノンフィクション・悲喜(トラジコメ)劇(ディ)映画は楽しみになるほどリラックスして娯しめた。余興のゲームで、子ども同士でドラマが起こることもあり、彼らの化学反応も娯楽のひとつとして楽しく観劇した。

夢の燃料が切れた時は孤独に苛まれる。そこで愛の巣を創った。物言わぬ人形にテーブルマナーを教える。かわいい子どもに囲まれ、愛としあわせに満たされる。

「ピエロ、遊ぼうよ!」

会いたさに城に侵入したおもちゃは、愛の巣に顔を出して笑顔で言った。

「……誰が来ていいと言った?」

ガラクタなぞに用はない。少年時代から一番嫌いなのは、ひとりの世界に没頭している時に邪魔が入る時。楽しい妄想に浸っていたというのに、興醒(きょうざ)めだ。

きらきらと無邪気な眼差しを向けるおもちゃに歩み寄り、部屋を出て、ゴミ箱にぞんざいに放り投げた。

溜まっていく溜まっていく。中でばんばんと暴れてうるさい。アームが飛び出し、ついには溢れてしまった。逃げ出したおもちゃを一匹残らず捕まえ、粗暴に面白がりながら破壊して、投げ捨てる。阿鼻(あび)叫喚(きょうかん)するおもちゃの顎を杖で持ち上げた。

「愛してほしい? なら、泣いてみせなさい」

蹴り立てる。粉々になった。見下ろす。

「ほら見ろ、血も涙も出ない……ガラクタだ」

牢屋のごとく城には鍵をかけており、おもちゃは外に出られない。悲鳴と破壊が轟く鬼ごっこ。不法侵入者が増えると困るため、数多く仕掛けたトラップを利用して駆除する。その時は彼自身も参加して、ようやく掃除を終えた直後に警報ブザーがけたたましく鳴った。 

おもちゃが一揆(いっき)みたく集団でやってきたのだ。舌打ちをしそうになったが、破壊という形であれ、何よりも心がけていることは、自分が楽しむことだ。

「ほぅ……私とゲームをしようというのか。ならば歓迎しよう。私の城。否──エンターテインメントの地獄へ」

 おもちゃたちは散り、ピエロを探し求めて一心不乱に通路を駆ける。壁、床、天井に潜む破壊マシンたちの出動音がひっきりなしに鳴り響き、愛と命を天秤にリアル鬼ごっこは始まる。

小さなおもちゃが、一見優しい顔をしたロボに壁に追い詰められ恐怖する。

「侵入者を、発見ナノ! 直チニ、掃除を開始スルノ!」

右アームがドリルに変わり、殺人的に回転して、やがて悲鳴が響き渡った。トラップにはまったバービー人形は食べられるか、壊れるまで舞台で糸に操られて踊り続ける。速い機関車が全力疾走し、右に折れた時はたとピエロと対面し、ぱっと笑顔が輝いた。

「ピエ──!」

しかし寸前でラブリーマシンがばっと横合いから飛んできて、彼は即死で食べられた。

 壊れたピアノの悲鳴。オレンジの飛沫が飛び散る。ハートのガラスが粉々に割れる。命がポップに弾ける、多様でかわいい破壊の合唱。

 嵐のような仕事を終え、破壊マシンは巣に戻る。心を持たないお掃除ロボットたちが笑顔で忙しく右往左往(うおうさおう)して、散乱する部品を掃除していく。

パーツを踏み、清々したように口笛を吹いて、愉快に腕を広げてピエロは罷(まか)り歩く。

「ホーム・アローン」

おもちゃに強制し、奈落の地下にゴミ捨て場を創らせた後、「絨毯を敷くのを忘れたね」と笑顔で言い残し、全員破壊した。


高い塔の屋根に立ち、風に吹かれる。身を投げ出せば粉々になるような、きらびやかな夜景を見下ろす。ジオラマで出来たこの世界に、たった一人しか存在しないかのような疎外感(そがいかん)。

──お前は、私の最大にして最低な作品だ。

 自分という莫大な財産。国という既得権(トロフ)益(ィー)。死ねない。もったいなくて死ねない。

顔の一部になりかけた涙が伝う。そして生気のない笑いをニタリと浮かべた。法律のない空の自由を吸い込み、巨大なエゴでできた黒い塊になった。


彼らは、皆知っている。

破壊、殺戮、堕ちた皇帝。そして恐らく、地獄を。

おもちゃたちは朝も夜も天国のように楽しい日々を送り、社会現象的にピエロをデフォルメしたグッズが飛ぶように売れていた。女子高生の姿をした少女人形たちは、彼のキーホルダーの束をバッグにぶら下げている。それは愛する者に異常に執着する個で出来た集団が、一人の人間を渇(かっ)する病的な図であり、おもちゃが玩具に慰みを求めている珍奇な悲喜劇のようでもあった。

完璧に見える幸福のパズルは、絶対的な愛する存在のピースが欠けていた。笑顔の裏は、虚しかった。

──ねぇ。僕らを忘れてしまったの?

『国は主人を探しています』

 そんな自分たちを嘲笑うように、国全体が描かれた迷子ポスターのブラックユーモアに百万いいね。バービー氏はそれからも数々の風刺画を投稿して人気を博(はく)し、勢いに乗って城に行くが、ホーム・アローンに遭う。

──ねぇ、会いたいよ。

寝る時間に、ピエロのグッズが埋め尽くす暗い部屋で、お姫様の姿をしたドールは小さなピエロを痛ましげに抱きしめる。

城は遊戯の日以外ずっと閉まっていて、彼と遊ぶことも会うこともできない。呼びかける者がいたが、扇動(せんどう)した者に続いて城に行った者たちは二度と帰って来ないため、賛同するおもちゃは滅多にいない。会えるのは遊戯だけで、それが演戯(えんぎ)だと分かっていても、彼と会えるのがひどく待ち遠しく、すごく嬉しくて、切なかった。

おもちゃたちの心は、同じだった。

──寂しいよ。

一部は、恋しさに我慢することができず、文通という形を取った。

 彼が窓際で本を読んでいる時、開いた窓の隙間から、一枚の手紙が塔にある彼の部屋にひらりと舞い落ちた。

『──離れ離れになってしまったけれど、前のような君ではなくても、君に会いたい。どうか心をもう一度開いてくれないだろうか。クラウンは、ピエロを愛しています』

 ──forever(永久に).


殴り書かれたものの、高貴な字形は崩していない紙切れが、塔の窓からはらりと投げ捨てられた。


『私たちは月と太陽だ。極まれに、仲良く重なって見えるだけの。彼らは結ばれることはない』

 ──forever(一生)!


彼から返事がきたことは国中が騒然となり、「神の紙対応」とさえ言われた。

後日、天候は荒れていないのに、彼の部屋の窓が嵐に叩かれるような音を立てる。彼は読書を止め、不思議に思って立ち上がり、窓を開けた。

すると、どっと滝のように大量の手紙が猛烈に降り注ぎ、白い頬を擦り切った。

ピエロは立ち尽くす。そのすべてはラブレターであり、億の愛であり、努力であり、クラウンぐるみが工作的に送ったものだった。それを悟りながら、カラフルな中でどこか異彩を放つ、一枚の白い紙片(しへん)を拾った。それは、彼らの極彩色の想いを、一文で統括(とうかつ)できたものだった。



『  WE  LOVE  MONSTER  』



 ──無駄だ、クラウン。

 ラブレターは、どしゃ降りを続けている。

 この狂気的な紙吹雪が、まるで自分と孤独が結婚し、祝福の嵐を浴びせているかのようだ。

 たとえ離れていても、私たちの間には冷たい鏡があり、触れ合えど硬く無機質で、互いに悲しいのだ。

 道化は悲しい生き物なのだ。

本当は寂しい生き物なのだ。

しかし、いかなる闇、いかなる悲劇も、コメディの輝かしい表舞台に隠蔽される。

お前たちが、私を愛しているだと?

──至極(しごく)、ジョークだ。

 号泣の涙と混ざり合う、気狂いめいた高笑い。

 孤独の嵩(かさ)は変わらず、膝から崩れ落ち、両手に覆われた泣き笑いが、天を仰(あお)ぐ。

世界を変えるために、すべてを与えられた完璧な男は、天使と呼ばれた少年だった。使命を大いに逸脱(いつだつ)し、神と呼ばれた最高傑作は底知れぬ闇に堕ちていく。

クラウンのひたむきな愛も、ピエロの心には何一つ響かない。


──ねえ、僕の声、聞こえる? ねぇ、ピエロ。僕だよ、ロアだよ。


もうずっと、何度呼びかけても、ピエロの心の声が聞こえない。

このままにしてはならない。ロアは反対を押し切って城に侵入した。破壊マシンたちを搔(か)い潜(くぐ)り、数ある扉を開けて螺旋(らせん)階段を下り、ドアを見つけた。ぴょんとジャンプしてドアを慎重に開けて、中を覗き込む。心が飛び跳ねる。ピエロがいた。暗闇の部屋の隅で、イスに腰掛け、ぽつんと電灯が照る机と向かい合っている。今日は遊戯があったから、機嫌がいいのか、鼻歌を歌って子どもの人形を作っている。心がきゅっと痛んだ。

恐怖を振り切って迷わず進んだ。小さな足音に気づくと、彼は見向きもせず深いため息をついた。

「今度は、誰だ……?」

怪物のように冷たい声だった。足が、彼と三メートルほど離れたところで止まった。今度の意味を理解した時にゾッとする。ピエロは億劫にも顔を捻った。

「……お前は」

背筋にぞわりと悪寒が伝う。

「……ロア」

ほっと、胸を撫でおろす。彼は姿と名はかろうじて覚えていた。ちっぽけな人形を見やり、薄く嗤う。

「ほぅ……私と楽しむために来た訳ではなさそうだが。……なるほど。──反逆か?」

言葉を誤ればきっと、自分の命はない。ロアはにっこりと笑って返す。

「いや。どちらかと言うと、家庭訪問だよ。話をしにここに来た」

鼻を鳴らし、嗤いを浮かべながら彼は人形を編む。

「イエスかノーの二択でいいかな」

それにしても、厳重なトラップを掻い潜り、荒れ狂う破壊マシンたちを巻いた挙句に自分にしか解からないと思っていた難解な暗号まで解いた。そもそも命を賭(と)してまで要塞(ここ)に来るなど、正気の沙汰(さた)ではない。自分という処刑台の前で日常的に佇(たたず)み、それが演技だとしても見事だ。こいつは他の玩具とはやや違う。骨太(ほねぶと)なところ、憎らしいまでに似ている。

ピエロは悠然としているが、溢れ出る威厳は冷酷な皇帝のものだった。ロアは牽制(けんせい)するように受け身で佇んでいる。

「久しぶりだな」

「そうだね」

「楽しいか、そっちは」

「うん」

気まずい空気。ピエロは一拍を置いて言った。

「……死ぬほど退屈でね。お前は特別だったな。お前も、こっちにくる気はないか」

「ない」

手を止め、ゆっくりと人形を見やる。昔のような友愛に輝く光の欠片もない、英雄からモンスターに成り果てた男を見るような目だった。所業を知っている故の。

 ピエロは鼻で笑った。

「お前はラスボスと話すゲームの主人公か? お前が言わんとしていることは分かる。私は、狂っているかね?」

 ロアは間を置いて答えた。

「そうだとも」

 ピエロは笑った。

「案ずるな、こちらこそお前が狂気的だ。まあ、お前になら、見せてやってもいい」

「見せる? 何を」

久方(ひさかた)ぶりの挨拶は終わり、静かに彼は言った。

「ご覧」

机に置いてあったリモコンを手にとり、スイッチを押す。と、部屋の中心から暴力的に眩しい光彩が広がり、思わず目を瞑る。恐る恐る開け、光源を見ると、目をとても大きくした。それは見上げるほどに大きく、子どもから大人になったように、残酷なまでに美しく成長したラブ・メーカーだった。

「ラブか……?」

「そうだ。美しいだろう? 新たにカスタマイズしたんだ。いつかくる、その時のためにね」

ラブ・メーカーや、彼の目的の詳細は知らされていなかった。圧倒されたまま、彼に問いかける。

「一体……何が目的なんだ?」

多数の侵入者には門前払いを食わしていたが、コイツになら、話してやってもいいだろう。

ギシ、とイスの軋んだ音を立てて、気だるげに足を組みロアに体を向けて、興奮気味に夢を語る。

「家族を創るんだ。私は家族が欲しい」

「家族って……そんなの僕たちがいるじゃないか」

ピエロは吹き出した。けたたましい声で爆笑し、嗤いを含んで罵る。

「ふざけるな。お前たちなど慰み物にもならないただのガラクタだ」

生身に言われると、ひどく傷ついた。

「ガラクタ……」

「私は探している。強く、優しく、美しい──アイの子を」

うっとりと、白い指が人形を愛撫する。

「……アイの子? 探してるって……その子を? 一体なぜ? 一体どうやって………」

マリオネットのごとく掌で踊らせる。

「滑稽なほどに単純さ。世界から、子どもたちを拝借(はいしゃく)するんだよ」

「……遊戯を利用するのか?」

「ああ、そうしている。それでお前たちとママゴトだ。実際に触れ合い、最終ゲームで強制的に全員にテストする。美しい子。醜い子と選りすぐるのさ。ま……トラウマを味わうが、その記憶は消す。楽しい思い出しか残らないようにね。当座は呆れる結果ばかりだが、必ずアの子は現れる。それでいつか必ず、邂逅(かいこう)を果たした時──」声を張り上げる。

「コイツで心を永遠に美しくするんだ」

そういうことだったのか。心がわなわなと震える。まさかこんな恐ろしい事態に陥(おちい)っていたなんて……。ロアの小さな拳が、小刻みに震える。ピエロをキッと睨む。

「なんだよそれ……。その子の家族はどうなるんだ? その子が笑って君の願いを引き受けてくれると思うか? そんな掃いて捨てるほどウソを吐いて、子どもたちを傷つけて、君を許してくれると思うか? そんなの子どもたちがかわいそうだ! ピエロ、君は間違ってる! 今すぐそんな計画やめろ!」

「何をむきになっている。私は素晴らしい夢を語っているのだ。お前も私に逆心を抱くのか?」

「君が歩むべき道はそんな道じゃないだろ! 僕は──おもちゃとピエロは、誓ったんだ! あの日、世界を笑顔にするんだって……! それが僕らの本当の夢だ! ふざけるなよ! 本末転倒だ!」

ピエロは鼻で笑う。

「馬鹿馬鹿しい。そんな幼稚な戯言」

「は……?」

沈黙が流れる。

「あの約束も……戯言だって言いたいのか」

「約束? ああ……」あの下らない。「もちろんホントさ。私たちは、ずっとともだちだよ」

「なら──!」

「そう、お前たちはずっとともだち。ずっと家族じゃない」

ロアは呆然とする。まるで理不尽に頭を殴られたかのようだった。

「家族が欲しくともセックスも出来ず、笑う真似は出来るのに泣くことは出来ない、人生を演じる珍奇な役者──それがクラウンだ」

ロアはショックを色濃く浮かべる。彼は幼児に話しかけるように、にっこりと言う。

「何故悲しむの? 真似ができなかった?」

仮面を隔てて、退屈で生気を失った死んだような目が見える。人間性を失った怪物が。

──ロア。お前は所詮、ニセモノなのだよ。

嗤い交じりの声が、心の闇の世界に呪うように響いた。

おぞましい寒気を覚える。分かっていた……。洞窟の最奥のように、城から心を澄まして聞こえる絶望の心の声や……呻き、阿鼻叫喚。分かっていたが、ロアはきいた。

「いなくなった、おもちゃは……やはり君が……壊したのか」

壊した──それは、殺したという言葉と同じ意味。

なのに彼は実に拍子抜けするほど、あっけらかんと返した。

「そうだが?」

そして恬(てん)として笑う。

頭が真っ黒になった。

「信じられないのだよ。無躾(ぶしつけ)にお家に入ってきてね。私のプライベート侵害の罪だ。マナーが悪い子にはお仕置きが必要だろ? ああ、後、むしゃくしゃする際の玩具(がんぐ)に使わせてもらったよ。玩具(おもちゃ)とは多少便利なモノだ。さりとて服従皆無、複(ふく)重(じゅう)必須の役にも立たない役立たず──ガラクタは捨てて当然だ」

世界が無様に崩れていく。失望と絶望感が全身に覆い被さった。男を見据える。

「君は……誰だ?」

「ピエロ・ペドロニーノさ」

心底訳が分からないと言った様子で、ン? と腕を曲げる。

ロアは小さく震える。「どうしてそんなことしたんだよ……」

燻(くすぶ)っていた巨大な塊が口からいよいよ出る。

「それでもおもちゃはともだちだろ⁉ あの頃の君はどこに行ったんだ! どうしてそこまで落ちぶれたんだ⁉ 君はピエロじゃない……道化の仮面を被った化け物だ!」

「お前のダンディズムは滑稽だな。ガラクタが何を逆上する」

「ふざけないでくれ! この国はなんのために存在しているんだ? 君はなんのために道化師になって、この国を創ったんだよ! そんな馬鹿げた計画のために存在意義まで殺さないでくれ!」

ピエロの声が怒りに変わる。

「馬鹿げた計画だと? お前たちも、この国も、一体誰が創ってやった? この私だ。私の才能があったから実現できたモノだ。所詮ゼロから生み出したヒトならざるスマートフォンに、命令される筋合いなどない!」

「見損なったぞピエロ! おもちゃも人間もそれぞれ違うが、上も下もないだろう⁉ 僕らはともだちなんだ!」

「ここは自由の国だ。私が創った国だ。創った命だ。お前も国もどう操るのも私の自由。何故なら此処(ここ)は玩具の国なのだから!」

「何もかもうまくいって王様気取りか? 気に入らない者は次々と壊して僕たちを操ってまるで暴君そのものじゃないか! 君の方がよほど人じゃない! 人でなしだ!」

「人間に抗うな! 馬鹿げた計画という言葉を訂正しろ! 道化の分際でおどけられないのか? さぁ笑え!」

「誰が笑うか! 訂正なんてしない! こちらこそ言い返すが君の計画は悲劇だ! どれだけの人が犠牲になって、傷つき、涙を流すのか……そして考え直せ!」

「すべての権利権力は私にある! お前たちに与えられた自由は、死の形を選ぶことだ!」

「君は偉大な人だった! それなのに何故我を失い友人を殺(あや)め、暴君に成り果てる!」

「ゴミが喧(やかま)しいんだよ!」

「僕がゴミなら君はクズだ!」

ロアからすばやく目を逸らす。

「掃除しても掃除してもまた新しいゴミがやってくる。ああ、お前はちゃんと埃に思っているよ。もちろん、ゴミの方のな」

「僕だって、君を誇りに思っていたよ。もちろん、高潔(こうけつ)な方のね」

ピエロは舌打ちし、落ち着けるように憤然と額に片手を添えて項垂れ、嘆息する。束の間、沈黙が降りる。

「君はピエロだろう? 無限の愛で物だった僕たちに命を授けた。僕たちは誓い合い、国を創り、空を飛んだ。国(ここ)にいるのは、君が教えてくれたんじゃないか。笑いは愛だ、僕たちは愛で出来ていると、生きる意味を教えたのは誰だ? 世界を笑顔にすると言ったのは誰だ? 僕らの命を、人間同等の価値にしたのは誰だ⁉ 君なんだよ!」

「ロア……お前はいつも面白くない話ばかりする」

どす黒い声で言下に言った。ロアは泣きそうになりながらも拳を固め、悲鳴のように怒り叫ぶ。

「ドミノを押したのは君じゃないか!」

ピエロは机を乱暴に蹴った。素材が落ちて甲高い合唱をした。沈黙が流れ、彼は、全身を絶望に溢れさせる。

「夢は、いつかは醒めるものだ。子どもから大人になり、忘れていくものなんだ……」

ロアは失望を顔に満たした。

「ピエロ………」

嗚呼。こいつも、結局変わらない。人のデリケートな心を土足で入り込んで、吠え立て、同情する。煮え滾るどす黒い怒りが部屋に充満する。漆黒の殺意が、呟くように言った。

「……出ていけ。私の人生から、出ていけ」

ロアは息を吞んだ、ひるまない。

「君は……悲劇を繰り返すんだろう? 考え直してくれるまで僕はここにいる。どうして何も教えてくれないんだ。急に城に閉じ籠(こ)もって、心の声だって聞こえなくなった。なあ……一体君に何があったんだ?」

切実にロアは言う。

ピエロは、底の見えない深淵のような暗闇を絶望的に見る。「もう……」

彼は泣くように怒り叫んだ。

「もう飽きたんだよ! 何もかもつまらない! 世界も、この国も、お前たちも……みんなガラクタだ! 私の世界は色を失った! まるで私がガラクタになったよう……ハ! 世界がガラクタになったのだ!」

そっくり返り、常軌を逸した声で大笑する。ロアは憮然(ぶぜん)とそれを見る。

「君は、壊れてしまった……」

ピエロは顔を隠して、精神病者のような乾き切った笑い声を漏らす。天使でも見るように恍惚する。

「アイの子……ねぇ、君はどこにいるんだい?」

「ねえ、壊れないでよ……」

「君だけを愛している」

「忘れないでよ」

ピエロは自分の世界に浸りだす。ロアは胸を切り裂かれ、まるで泣き叫んで呼び覚ます。

「ピエロ・ペドロニーノ! 君は愛を忘れた! 僕たちを忘れた! 欲望に目が見えていない……まるで別人だ! それでも僕は……僕たちは君を愛してる! ねぇお願い。目を覚ましてよ……?」

「……私が愛しているのはアの子だけだ。お前たちなぞ愛していない」

「じゃあ君が……僕らに『大好き』って言ったのは、あれは嘘だったの?」

「嘘だとも」

ロアの顔がさらに悲痛に歪んだ。

「嘘じゃない! 君の笑顔は本物だった……」

嗤い交じりにピエロは言った。

「なんの話だ? 私がお前にいつ笑いかけた?」

「……この時間も、君の言う嘘になるのか?」

「お前もいずれ忘れるね」

「君は……僕らのこと、本当は愛してるはずだよ」

ピエロは俯いて低く呟く。

「血は油よりも濃い」

「っ、僕は大好きだ! 君が大好きだ! 壊れるくらい好きだ! 僕だけじゃない! みんな君を心の底から愛してる! みんな、君をともだちとして、家族として……」

「失せろ」

息を吞む。死のような声だった。でも、絶対に逃げない。

「君は僕のともだちだ……僕たちの家族じゃないか!」

ピエロは嗤う。

「嗤わせるな。血も繋がっていないガラクタとか? 私はニンゲンがいい! ニンゲンが欲しいのだ! 生身の温もりが欲しい!」

「大好きだよ!」

「愛してなどいない!」

「大好き!」

「黙れ!」

ピエロはため息をつく。

「ねぇ……お願い。抱きしめてよ……?」


…………………?


昏(くら)い過去を思い返す。胸に穴が空いたあの日。クラウンが、物体に変わったあの時。

「抱きしても……」


──虚空(こくう)。無の温度。まるで空気を抱きしめていた。グラスの心が、冷たい陶器とぶつかり、氷の孤独がグラスに注がれて、溢(こぼ)れ、身を浸した。


結局、何も変わらなかった。幽(かす)かな希望は消え、暗闇が世界を覆い──涙が頬を伝った。

ピエロは哭(な)いて怒り叫ぶ。

「抱きしても何もないじゃないか! 血も涙も、温もりもない空っぽだ! お前も所詮人の形(なり)をしたニセモノ! ニセモノなんだよッ! ニセモノの家族など、私には必要ない!」

乱心し、落ち着かせるように黙るが、憤然と仮面を取り、素顔に大量の涙を溢れさせる。彼は泣きながら言う。

「私は……朝も、昼も、宵も、まるで永遠の闇を彷徨っているよう。お前たちのように、メリーゴーランドなどに乗っていられないのだ。私は……いつも、孤独に弄(あそ)ばれている」

孤独という吹雪に吹かれ、荒れ狂う悲しみの奔流に流れる。

大人の彼が、泣いているところなど見たことがなかった。

「ピエロ……」

ロアは言った。

「おもちゃには……心がある」

「黙れ!」

涙の雨が人形をひた濡らす。強く握り締め、人形の心臓部が破れて綿が隆起(りゅうき)する。落雷の前の不吉な闇夜(やみよ)のような、そんな沈黙が続く。

「お前たちに……一体、私の何が分かるというのだ……」

顔をロアに向け、雷(いかづち)のように泣き叫ぶ。

「涙を知らない、クラウンに!」

とどめのような弾(たま)を浴びて、心に血しぶきが舞う。人間だったら、涙が出ていた。

ガタン! イスが勢いよく倒れ、ピエロは立ち上がる。反射的にロアは後ずさる。

「やめろよ……こないでくれ。お願いだよ……おねが………やめて! あァっ!」

乱暴に襟(えり)を掴まれ、世界が反転する。怖いくらい速足でロアを強引に連れて行く。喘ぎ、叫び、手足を千切(ちぎ)れるくらい振り乱す。死にたくない。死にたくない。死にたくない。発狂するような死の恐怖。そんな道化を見上げる世界は笑い転げるように踊り狂う。ロアは叫ぶ。阿鼻叫喚をする。

「離せ! 離せよ! やめろよ! なぁッ!」

「この汚らしい反逆者。お前を処分する」

足音を立てて、地獄が迫る。

「また抱きしめてくれよ! 愛してくれよ! 捨てないでよぉ!」

泣き叫んでも、命乞いをしても、断末魔さえ彼は何も思わない。

ピエロが急に立ち止まる。絶頂の恐怖に、ロアの動きも止まった。断頭台に乗った囚人のように、ロアは最後の言葉を絞り出した。

「捨てないで……」

最後。ピエロは鼻で笑って、言い捨てた。


「愛してるよ。ロア」


同時に、真っ黒な穴に、放り投げられる。

「ピエ……」

まるでゆっくりと流れる映写機のように、彼が遠のいていく。

短い両腕を伸ばす。

「ロ」

嘲笑の目が流し見、背を向けた。

──ザン! ギロチンのように黒い壁が視界を覆い隠す。

首が落ちたような惨(むご)い音を立て、冷たい地面に頭逆さに落ちる。暗闇に包まれた滑り台を、くるくるころころと勢いを増して、やがて恐ろしい速さで転がっていく。永遠に続くようだった。

「お前など、もういらない」

そう、本心に言われるように、出口から吐き捨てられる。

空を舞い落ち、ごつごつした地面に、ぼすんと嵌った。


痛い、暗い、冷たい。


関節を軋ませながら、よろよろと起き上がる。目をうっすらと開けると、全身に戦慄が走った。

棺(ひつぎ)を満たす蛇のような陰鬱なおぞましさで、生気のない固まった笑顔が、地面に埋め尽くされている。

「みん、な……?」

全員、おもちゃだった。

震える手で、救いを求めるように地面から露出した手を握る。小枝のように、簡単に取れた。

皆死んでいた。

「嘘……だろ……」

ああ、あぁあああぁあぁぁぁあ………。

呻きとも泣き声ともつかず、燃え上がる絶望の炎に焼かれる。

最愛の者に裏切られ、地獄の底に捨てられた者でしか出せない憎悪を湧き上げて、哭き叫ぶ。

「ピエロ・ペドロ二ーーーノォォォオオオオオオオオオオオオオ! 何故裏切った! お前に捨てられるくらいなら、お前に創られない方がマシだった! どうせ捨てられる運命なら、愛されない方がマシだった! 何故僕たちを創った! ならば何故僕たちを愛した⁉ 許さないッ! 僕はお前を憎む! アルツハイマー! 童帝! 馬鹿の押し売りめ! クズのパーフェクト! まだ人間の汚物の方が綺麗だ! 死ねええええええええええええええええええええええええ!」

憎悪の嵐を天井に吐き尽くし、小さな体は疲れて、顔を覆ってうずくまり、灰になる。

「あいつらもなんだ……立ち上がった僕たちは捨てられて、立ち上がらない奴らはバカみたいに遊んで、暮らして! 利用されて……喜んで悲しんでまた繰り返して! 主人に捨てられた小道具がバカみたいに笑って! 地獄を楽しんで……ウソをつき続けて……どいつもこいつもイカれてやがる……。ざけるなよ! ……ざけんな……っ、あぁぁぁ………ぁ、ぁ……。……もう。終わってるよ……この国……」

堆(うずたか)い残骸(ざんがい)の山のてっぺんでひとり、声が咽(むせ)び泣き、絶望して──。

ひとつ知った。

ロアは諦めなかった。まだ生きているおもちゃを見つけ、悲しげに励ます笑顔で細いアームを掴む。

「だいじょうぶだ。どん底は終わりじゃなくて、始まりだろう? みんなであいつを殴りに行くんだ。僕と一緒に生きよう」

だが、仲間は打ちひしがれ、老けて下を向いた。

「玩具に人生なんてない。俺たちの寿命は人間の愛が尽きた時。彼に愛されないなんて、命が失ったと同じことだ」

ロアはひどく傷ついた。

それでも毎日彼を励まし続け、やがて掴んでいたアームは脆く折れて落ちた。

心を裂かれ、またひとつ失った命を、悲痛に抱きしめる。

人間と同様おもちゃにも老いや終焉(しゅうえん)はある。充分な愛情をもらい、必要な時に入念な修理を施せば人間よりも長く生きることもできる。しかし殊(こと)に愛されなくなった時、孤独、命の活力ともいえる笑顔が消えた時、油のない不衛生(ふえいせい)な環境も要因し心の年齢が老けると、たとえ若いおもちゃであっても急激に老けてガタが起き始め、それは黴(かび)や細菌のように浸食し、破壊の一途(いっと)を辿(たど)る。彼らの命は心であるから。寿命はなく、人間よりも強烈に、心は体に影響する。

違う、違うんだよロア。俺たちは脱獄したんだ。やっと解放されたんだよ。誰だってここに行き着く。俺たちはただ早かっただけで、抗(あらが)わなくていい。ここが、みんなのゴールじゃないか。

生まれた時点で約束されていたのね。同じシナリオ、同じ結末。彼の書いた脚本みたいに。

ゴミっていいよな。もう誰にも命令されることはなく、ひっそりとありのままでいられるんだ……。真の自由じゃないか?

脱獄しても、地獄に戻るだけだね……。

生きているおもちゃたちは少なからずいたが、ある者は悲観し、ある者は死んだ目で楽観的に諦め狂って目が急にきらきらして、ある者は自虐(じぎゃく)し、皆腐っていく。新しく落ちると、とても話しかけるような状態ではなく、誰もが患者になり、薬のない精神病棟のようだった。絶望する者たちは、死の海へと沈んでいく。

ゆっくりと頭を上げ、悲壮を浮かべて天を見据える。

負けてはならない。僕らにとって心は生命線だ。何があっても命は守らなければならない。

たとえひとりになったとしても。

絶対にここから出てやる。脱獄するように、絶壁をよじ登って落ち、よじ登って落ちる。

朝なのか夜なのかも分からず、年月日も不明のまま、数年が経過した。


高い高い、ガラクタ山のてっぺん。独り座って、ありもしない空を見上げる。

多少腰にガタが来ているが、惨状を鑑(かんが)みれば彼は異常ともいえるほど健康だ。

一途を辿るおもちゃたちは、彼の頑張りを狂人でも見るように見上げ、成就(じょうじゅ)を見ることもなく朽ち果てる。

夢の成就(じょうじゅ)において、狂気は潤滑油(じゅんかつゆ)だ。それは神によるあいつの教えだが。

家に帰りたい。それが夢。

うちに帰ったら、まずあいつがペースト状になるまで殴る。ゴミ箱から脱獄を果たした暁(あかつき)には、猛烈なフラッシュを浴びることになるだろう。

〝ゴミ箱を通して、最大のアンチエイジングはやはり笑い(狂気)だと悟ったよ。下に死骸(しがい)の山とかあって、人間臭い絶望の合唱や死臭の中今のことを想像して笑ってた僕は常にぴちぴちだった。不老不死も夢じゃないよ。狂気なら、おもちゃなら髪の毛みたいにみんな生まれ持ってるから、禿(は)げないように心がけること。あ、人形以外みんな元々禿げてたね〟

その発言に大体が笑い、一部の層で炎上するだろう。(ピエロが遊戯の面で人形を優遇するため、ドールへの劣等意識を持った)一部の皆々が笑顔で確実に言う。「さすが、かつてもっとも愛玩(あいがん)された『あの方の特別』。彼の心にもっとも近い側近! 最長老! 心の大きさが違う」

なんて、なんて、しあわせな空想。

水面上に努力のポジティブが向日葵を真似、

〝そもそも僕らには笑いしかない。それが仕事だ。配給された着ぐるみを着ておどける、壊れても糸とおどける。実際にブラック企業の奴隷だろ? 夢? 天使? なんでもない。社畜(しゃちく)〟

水面下に卑屈(ひくつ)な声を持つネガティブの豆の木が、おとぎ話とは真逆の方に伸びている。

孤独の時間が、考える時間を与え、生き物に悟りを教える。

その目はあどけないユーモアの光が際立つが、諦観(ていかん)し、奥の方に凛々しい皺が覗く。

──人とおもちゃは同じだ。


絶望という穴に落ちた時。

ひたすらに上を向いた者は、生き残り、

ひたすらに下を向いた者は、死ぬ。

人とおもちゃは違う。

人には涙があり、

おもちゃには涙はない。


おもちゃ、なんていうかわいい名前飾ってさ。

涙を知らないクラウン。

それが僕らの本名だ。


壊れていく。

忘れられていく。


僕らの悲しみの分だけ、おもちゃの雨が降る。


──僕らは、落ちていく。


「それが……僕らの運命だというのなら──」


絶望の暗闇に、ゆっくりと沈むように項垂れ、何度目か分からない号泣をする。

泣き声が、誰にも聞かれることなく、静寂を打ち壊す。

また、知ってしまったから、しゃっくりするみたいに間抜けに声を引っ込める。

何度も、知っているのに、そうする度に傷つくのに。

ちっぽけな笑いしか零れなかった。


「泣けないよ」


てっぺんに座りながら、かつての人間の夢見る少年にも似て、星を見るように少年人形は天を見上げる。

足を揺らしながら、哀しい歌を口笛でうそぶいた。


  4


今回も裏切り、裏切られて、遊戯は幕を閉じる。


今日はどんな子だった? 思い出に酔いしれて、孤独の傷を人形なんかで繕い、赤い糸で吊るす。

子どもたちがまた一人、何十人、何百人と増えていく。

カゾクにいっぱい囲まれて、楽しいママゴトをして、現実に帰って、涙する。

アの子はいつまで経っても現れない。

ずっと実らない恋をするように、身を焦がしている。

色のない世界。ガラクタの毎日。無機物な時が流れていく。

楽しい夢を見たはずなのに、悪夢と変わらない現実に起きる。最初に頭に浮かぶのは、アの子、最初に顔に浮かぶのは、涙だけ。


白髪(はくはつ)が月明かりに輝いて、夜風(よかぜ)に幻想的に靡いている。バルコニーに襤褸(ぼろ)のように座り、ピエロは五月蠅(うるさ)い孤独を紛らわすために、哀しく美しい旋律をバイオリンで奏でている。上半身をはだけさせ、頬の裂傷(れっしょう)から赤い血が滴る。

ふっと指を止める。片手がやや上昇し──手首をさっと払う。お前も変わらないと、楽器が欄干(らんかん)を飛び越え、背後の空に、また捨てられた。

ちょうど背後で、満月がありのままのピエロを影にして輝いている。

──お前が嫌いだ。

月は美しい。月は時に愛にもなると、誰かが言った。

月は空(むな)しい。何が綺麗だ、何が愛だ……お前なぞ、空のにきびだ。

お前も玩具。陽光を借りなければ輝けない。真似をしなければ生きられないお前は、人間を模さなければ生きらない人形をも真似ている。

………天涯孤立め。ふざけるな。

お前は、私をも真似ている。

しかし。

しかし………。

たとえ………踏む土は違えど、同じ月の下(もと)に、君はいる。

名前も知らない誰かに恋をして、月よりも、星よりも、誰よりも、その誰かを愛している。

いつか名前を教えてほしい。その笑顔を見せてほしい。その肌を分けてほしい。

……焦るべきではないと分かっている。しかし一寸の時でさえ、永遠のように長く感じる暗闇は、アの子のいる扉の道を永久に思わせる。

まだ会えないのか、また会えないのか。

欄干に腕を敷き、憎いほどに大きい満月を見上げる。

アの子を、月明かりが普遍的に導いている。

きらりと、透明な涙がこぼれる。

私は……、


──ずっと君を、探している。

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