第3章

  1

 ピエロは原始的な方法で自然の中で野宿しながら、一晩身の振り方を考えた。

色々と社会的に賢明な方法も思いついたには思いついたが、どれも自分には合わないと思った。

 彼は天才が故に強烈な変わり者で、わくわくしないことに関しては絶対にやりたくない自由人であり、自分の心の声にしか従うことができない。破天荒、脳筋の突進型、言うなれば超絶馬鹿だった。そしてこうと決めたら、盲目(もうもく)なまでに曲げることはない。

最終目的は彼らと同じ、楽しい世界を実現することだ。経験上、振り向いてくれる人たちはいる。若者だけじゃない、大人だって少数いるのだ。さすらいの大道芸人として稼ぎながら、稼げない時は自給自足で過ごし、楽しみを訴える。

当座の目標は楽しい人たちを増やし、その輪を拡大して最終目的に繋げることだ。国を創るという発明にはお金がかかる。子ども一人ではできない。十分な環境がいる。大人の力も必要になるだろう。仲間を手に入れる。そのために笑わせる。今は、まずはやれることに奮闘(ふんとう)する。

旗を上げて、堂々と戦うのだ。自由に、心のままに旅をするのだ。

 わくわくした、これ以上にないほど。全身が勇み立つ。心が踊ったら正解だ。それが信条。これしかない。これしかやりたくない。楽しみが、心の声から逃げるという術(すべ)を奪ってしまう。

家も家族もなく、盗みも働かず、子ども一人で生きる命なんて限られている。だから限られた時を一生懸命に生きる。この魂は必ず世界に伝染する。根拠なんてない。逆に、夢追い人が根拠のない自信を持たなくて、一体何を持つのだ?

翌日の朝、ピエロは森を抜けて街にたどり着いた。

見知らぬ街の見知らぬ道。口笛を吹いて、悠揚に後ろ手を組み、ご機嫌に歩くピエロ。泣き笑いの笑顔に、ひとり残らず通行人が少年を異常として振り返る。

街頭を舞台に立ち、道化芸をするとわらわらと人が集まる。観客を巻き込んでおどけ、笑う少女たちもいて、拍手して缶にお金を投げていく。反応は上々。いいスタートだ。ピエロ自身も楽しく、後ろを振り返ると目の前には背の高い男が立っており、にっこりと笑った。

「ふざけるなクソガキ!」

にべもなく一蹴(いっしゅう)され、路地裏の壁に叩きつけられる。心の硝子は欠けたものの、笑顔は鉄のごとく崩さず笑った。

「ハハッ、冗談きついね。ふざけるのが僕の仕事ですが?」

逃げ切り、気を取り直して街角でパントマイムをすると、通学路の子どもたちが立ち止まり、しばらくして「面白い」と大きな笑い声を上げた。

しかし行きずりの大人たちが彼らを引っ張り、こんなことはやめろ、恥知らずだと罵(ののし)った。

「つまり退屈に生きろと? 至難の芸だな。お代はいくらで?」

彼らはひんしゅくしてしばらく黙った。

「遊び心もないストレス社会で険しい顔になるのは僕にも共感できます。まあ何事も笑ってください。その方が魅力的です、楽しくなくても、笑えば不思議と楽しくなります」

「違う、君みたいな悪(あく)徒(と)が民間から金を巻き上げるなと言っているんだ! そんなものは必要ない! 人生を溝(どぶ)に捨てるな!」

「ご冗談を。お客さんこそもったいないな。笑顔はタダなのに?」

男は黙った。怪物を見るようにピエロを見る。

ピエロは軽薄に口笛を吹いて、客が悪いためとっとと退去し、後ろ姿のまま手を振った。

「人生を棒に振るなよ」

 翌日、中心街の店先でひと休みし、行き交う人々を観察する。

「おしゃれな街だと聞いたけど──」

 着ている服は確かに垢抜けているし、美男美女が多いが、暗く、無表情だ。

ピエロはおしゃれが好きだ。自己表現手段で、似合えば自分を魅力的に輝かしてくれる、人の目をも楽しませてくれる。ピエロは知っていた。伝えたかった。誰もが似合う、誰もが輝く、誰もが知っている最大の化粧品。ピエロはダンボールのボードをひっくり返し、彼らに見えるように掲げた。


『笑顔こそ、最高のオシャレだろ?』


 普段の大道芸のように、人々は笑いもなく通り過ぎていく。


翌々日、掲示板を見ると自分の顔が載(の)っており、急いで仮面を外して街を出る。

大道芸人として旅をし、公演していれば心ない言葉を浴びることもしょっちゅうある。誹謗(ひぼう)中傷(ちゅうしょう)などトイレの落書きのようなもの。と表向きでは思っても、傷つくものは傷つくし、泣きたいほど辛い、でも笑い流す。それでも仮面の裏には泣き虫の涙が滴る。

仕事を終え、ピエロは人気のない森の小高い丘に寝転がる。眼前には広大な夜空が限りなく広がっている。予想していた現実を目の当たりにし、辛酸(しんさん)も嘗(な)めたし、色んな笑いを浴びた。色んな人に出会い、色んなことを言われた。たとえば──この空と同じ。

──お先真っ暗だな。

それでも美しい、星々を抱く空に憧れて、きらきらと手を伸ばす。彼は、嗤う男子高校生たちの目よりも輝いて、こう答えた。

──それの何がいけないの? その中には、勉強したって分からない、素晴らしい星の輝きが隠れているんだ! 僕は、その輝きを信じる。

その先が闇か光かなんて、そんなの僕が決めることだ。

僕は、星を信じる──。


『Happy Birthday  Pierrot!』

十一歳になり、遊具もない公園の砂に誕生日ケーキをうまく描いて、足で消した。

「行くよ!」

旅回り生活から一か月は経過し、冬になり肌が冷えるが、ロアを連れて元気いっぱいに今日も躍進する。

田舎の街角でおどけていると、中学生の男子の集団が腹を抱えて嘲りの爆笑を上げた。

「こいつヤバっ」

「人生終わったな」

ピエロはやんわりと仮面を外し、変わらない笑顔で言い返した。

「笑いたきゃ笑えよ」

嘲笑がはたと消え、息を吞む。黙らせるほどの美貌と相まって、揺るがない覚悟がぎらつく圧倒的な笑顔。まるで、綺麗な怪物だった。

ピエロはやんわりと綻んだ。

「僕の顔って、凶器だよね」

さっさと仮面を付けて次の寄席(よせ)へ行く。先頭にいた男子が、彼の背を見て呟いた。

「……付けてても凶器だよ」


移動した街は不衛生で治安も悪かった。汚いところで日々暴行を浴びたせいか、美しい容姿は全身傷物になり、白い髪を差別され、素顔も唾棄(だき)されるようになる。

路地裏に不良たちに囲まれ、暴行の限りを受ける。仮面を取られ、罵倒の嵐を浴びてもピエロは鉄のように笑っている。中心の青年は彼の夢をあざ笑った。

「おもピロ──『おもちゃ』と『ピエロ』だとよ。幼稚な道化の戯言が! くっだらねェ!」

「国をつくり、世界を笑顔にするだア? バーーカァ。お前に向けられる笑顔は精々嘲笑が限界だ」

「これ白髪か? イカれちまうと老いが早いのかねぇ」

全身は血と傷でボロボロで、岩が圧(お)し掛かったように動けない。絶対に離さない人形を青年はばっと取り上げた。

「……!」

「類は友を呼ぶってか? このガキの唯一のお友達だぜ。キッモ。コイツも笑っていやがる。きったねえ。下らないゴミだ」

乱暴に引っ張って関節を破り、綿がこぼれる。青年はニヤリと笑った。

「バカが。世間から見捨てられたゴミめ。道化なんて誰も愛さねぇ。作り笑い、幼稚な真似事。所詮嘘に過ぎないペテン師さんなんだよ。──お兄さんが、ペアルックにしてあげるねぇ?」

青年が手に力を入れて、ロアがまるで苦鳴を上げるように体を歪められる。壊れる。宝者が殺される。血がてっぺんにまで上った。

「……離せよ」

「あ?」

頭の上の足を力強く鷲掴(わしづか)み、ものすごい力で放り投げ、転倒する男を突っ切り弾丸のように跳ぶ。ロアを握る青年目掛けて、ピエロは怒り叫んだ。

「離せっつってんだよオオオオオオオオオオオオオオ!」

強烈なパンチで勢いよく青年が後ろに飛んだ。ロアが地面に落ちる。バカにされるのは慣れている、だが友達を侮辱し、破壊するのは許せなかった。ピエロは泣きながら怒り叫ぶ。

「そうだ! 道化師は嘘で出来ている! 愛で! 出来ている! クラウンはどんな時も笑い、皆の慰藉(いしゃ)となり笑顔にしてくれる、強く! 心優しい道化師だ! そうだ! 僕はバカだ! 僕をこんなにも惨めにする世界を……! こんなにも愛している大バカだ! 僕は惨めだ……! 僕は幸せだ。僕の人生だ! おもピロはッ、世界を! 笑顔にしたいんだああああああ! 笑いたきゃ……ッ! 笑えよオオオオオオオオオオオオ!」

強い感情が彼を燃やし、突き動かす。大勢の男を相手に飛び込み、激しく血と舞った。

やがてサイレンが轟き、赤い光が街中を乱反射して、警察の部隊が路地に駆け込む。

パン──血塗れの男たちが死んだように倒れ、その中でただ一人、しゃがんで人形を切実に抱きしめ、立ち上がり、振り返る、顔に伝う血を拭う少年を照らした。警察の一人があ然と呟いた。

「なんて事をするんだ……」

一瞬、悲しい顔をしたが、すぐにピエロは血塗られたナイフのようにニヤリと笑い、仮面を付けて腕を曲げる。

「『人形の取り合いをしていました』と言えば、疑いは晴れますか?」

警官の男が少年を見据えて言う。

「……詳細は署で聞くよ」

かかれ、低い声でけしかけ、多数の警官が襲い掛かる。雨の夜を駆け巡り、ピエロはからがら逃げ切った。

誰もいない濡れた道路でへたり込み、激しい息を整える。

「はぁ……はぁ……ははっ、ククックククっ…………ンフフフフッ……! アハッ! アッハハハハ! アッヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャ!」

逃げ切った痛快な爽快感、喜び。愛しているのに、誰からも愛されない。嫌われ者で、孤独で切ないのに、ひどく楽しくて、可笑しくて、悲しい。体と心もボロボロで、壊れたように空を仰いで、爆笑した。

激しい雨が号泣の涙と一緒になる。ピエロは笑う。笑い続けて、泣き続ける。笑い声が変わるほど、無邪気に陽気に狂っていく。怪物になっていく。

ああ、雨が好きだ。

その日だけ、自然に涙が隠れるから。

ピエロはよろよろと酔ったような足取りで、倒れるまで、狂うように踊った。


さすらい、緑の多い静かな田舎に到着する。夜の清らかな空気が辺りに満ち、ピエロは電(でん)燈(とう)の下のベンチに腰掛け、仮面を取って体を休めた。

「あ──」

声の方を見ると、眼鏡をかけた少女が、目を丸くして彼を見ていた。

光に照らされた、幻想的なまでに白い髪と肌を持つ少年が、とても綺麗だと思った。

一か月も滞在すれば街が揺れて追い出しにかかってくるが、まだこの街に来たばかりだし、仮面も付けていない、叫ばれることもないはずだ。ピエロは素顔でくしゃりと笑った。

一つ年上、中学生のゾーイという子と肩を並べて話した。ピエロは自分の夢や経緯を笑って話した。純粋で素敵で、初めて楽しいという喜びを知り、ゾーイはすぐ彼を好きになった。彼女は成績も振るわないのに勉強漬けの毎日に耐えきれず、親と喧嘩し、家出して夜道をあてもなく歩いていたようだった。

「勇者かよ。それで? いつ僕とドラゴンを退治する?」

ゾーイは隠すように小さく囀(さえず)る。

「私が勇者なんて……逃げてきた羊なのに」

「変わりたいと思って、足を動かしたんだ。なら、羊なんかじゃない」

「そんな……あなたと比べたら私なんて、全然だよ。頭も良くないし、あんまり可愛くないし……」

…………。

「──『なんて』。そんなこと言ったら、君と『なんて』が可哀想だ。こう使ったらどう? 君の笑い声は、なんて可愛いんだろう。君のその目は、なんて澄んでいるんだろう。家があり、喧嘩できる家族がいて、私はなんて幸せなんだろう。沈んでいても、君は懸命に生きている。悩めるだけ生きる意味がある、君はなんて尊いんだろう。そんな人も愛おしく、笑顔にしたいと思う。僕は、なんて優しいんだろう──なんてねっ」

嘘のない瞳、今までに見たこともないほどの素敵な笑顔を浮かべるピエロという少年を、まん丸にした目に刻んで、彼女は大輪の花が咲くように笑った。

「ふふふ可愛い。悩むこと、悲しいこと、いっぱいあるよね。そんな時はちゃんと泣くといい。君には仮面なんてないんだから。そしたら、僕を見ろよ。悩みなんて吹き飛ぶから。そしたら、いっぱい笑うといい。君の心に従えばいい。必要以上に、抱え込まなくたっていいんだ」

ピエロは首を傾けて、美しく微笑んだ。

「たった一回しかない、たった一個の命を、悲しいことに無駄遣いしないで」

衝撃を受けたように、彼女の瞳が大きく開いて、涙が閃く。優しく心を撫でられたようで、胸が熱く込み上げる。

「ピ──」

「ゾーイ!」

女性が鋭く叫び、彼女の手を強引に引っ張った。反射的にピエロは立ち上がる。お母さん、離してお母さんと、彼女が彼の方を見て痛烈に叫ぶが、ぐんぐんと遠ざかっていく。

「ピエロくん!」

ゾーイが振り返る。泣き叫ぶ。

「あなたのこと! あなたの言葉! 私、大人になっても忘れないわ!」

何を言っているの! 母親が彼女に怒鳴るが、彼女は必死に抵抗して前進する。

「私は! あなたの夢を、笑わない……!」

ゾーイは涙しながら、歯をすべて見せるように、美しく笑った。

この胸に、恋と宝物をくれた少年。自分のために、そして、世界のために──。

「ありがとう……」

背きざま、鴇(とき)色(いろ)に染まり、彼女は綺麗な涙を流して、微笑んだ。

グッと胸が詰まり、熱い涙がぽろりと落ちた。じんじんと熱く軋む胸を堪(こら)えるように、胸部をギュッと掴み、泣くのを耐えた。初めて投げかけられたそれは、投げられるお金よりも価値があった。少年は、より固く決意を研ぎ澄ました顔付きで、前を向く。

愛してくれた人たちのために、世界のために、戦い続ける。


 都会──美しい青空の下、昼下がりの交差点で、人間たちが空の青さも知らず、行き交う。

 決められた未来に吸い込まれていく、少年の、悲しみの横顔。

文明の川に流される、大人の、囚われの背中。

陽の射さない、闇が覆う舞台裏のような路地で、ピエロは涙してこの世を憐(あわ)れんでいる。

そして、路地を駆け出し、闇に逆らって、笑顔で光の世界に飛び込んだ。

往来で、ひとりの道化師が杖のように佇む。世界でただ一人、光を浴びた人間を見るように道行く誰もが彼に振り返る。

少年は夢見るように顔を上げ、踊る。手は空に憧れて、世界に孤立しておどけだす。誰もがバカにするような、揺るがない夢を持ち続ける。


「世界(きみ)を、笑顔にしたい」


人々は彼をバカにして指をさす。彼に惹かれる子どもを大人が引っ張り、男たちは社会の鬱憤(うっぷん)を少年に吐き捨てて、ピエロは誹謗中傷と嗤いの的になる。確かに少年は悲しい。しかし、少年は幸せだった。夢を抱き、自由に生きられることが喜びだった。楽しみは理解できないが、嘲笑いはできる者たちが彼を笑う。

戦う者を、戦わない者が笑う。


  2


それから、五か月が経過する。スタートを合わせると一年が経つ。

同情で食い繋いでいたが、骨が浮き出るほどやせ細っていった。醜い孤児同然の姿となり、人々の同情も唾棄に変わった。野良犬のように虐(しいた)げられ、右も左も分からず、おどけることもできず彷徨(さまよ)う。極度の飢餓(きが)、脱水症状、挙げればきりもない労苦(ろうく)の限りに喘(あえ)いでいると、若い大人たちに拾われ、山奥に捨てられた。

吹雪が横殴りに降っている。人影もない広大な雪原(せつげん)に長靴をのめり込ませ、長身の男が歩いている。

「……?」

ふと違和感に気づいた。吹雪の中目を凝らし、遠くの方の、滑らかに続く雪の絨毯が一所(ひとところ)だけ歪になっている。近づいてみると、それは雪とさほど変わらない色の白さの小さな子どもの手だった。痩せぎすの、孤児の手だ。髪も雪のように白いが、ひどく汚れている。雪に、今にも全身を浸されかけ、生気はない。

「……死んでいる」

惨憺(さんたん)な目に遭ったのだろう。天にも見放された、哀れな餓鬼(がき)だ。汚いものを見た。男は、白い息を吐いて足を動かした。

──白い手が、足首を掴んだ。

「……待ってください」

男は静止する。見下ろす。

瀕死(ひんし)の息を吐き、薄着を震わせ、最後の力を振り絞って、小枝のような腕を立たせる。

絶対に、諦めない。

もう道化はできない。死ぬわけにはいかない。

誇りを持ち、この命と必死に戦い続けた。

どんなに情けなく、醜く惨めでもいい、生きたい。

情熱の炎が、限界を超えた体に燃え滾る。

ピエロは仮面を取り、首を勢いよく地面に着け──土下座する。全霊をかけて、腹の底から声を振り上げる。

「お願いします! 僕を拾ってください! なんだってします! 僕には、どうしても叶えたい夢があるんです! 荒唐無稽(こうとうむけい)だってバカだってそんなことは分かってます! たとえ命に替えてでも! 嗤い者になろうとも! 僕は、世界中の人たちを笑顔にしたい! そのためには命が必要なんです! もうじきに死ぬっ……これが、最後のチャンスなんです! 泥も辛酸も舐めた! なんだって耐えられます! お願いします! お願いします! 僕に、命をください!  涙は、僕だけのものでいいッ! 僕をどうか、生かせてください!」

苦痛の満ちた血眼になり、水分があったのなら涙を溢れさせ、枯渇(こかつ)した喉を引き裂けんばかりに叫び、命乞(いのちご)いをする。

視界が点滅し、世界が歪み、灯は消えようとしている。

重厚な低い声が放たれる。

「……名を言え」

少年は命の限り、名を叫んだ。

「僕は、ピエロ・ペドロニーノだアアアアアアアアアアアァァァァァァァァ!」

力がふっと抜け、どさり──彼は雪の中に崩れ落ちた。

意識を手放しても、仮面とロアは、決して手を放すことはなかった。

男が、ゆっくりとしゃがみ込む。


  3


目をうっすらと開け、朦朧とした視界が広がる。目を完全に広げるとぱっと冴えた。薄暗い。知らない天井。上体を起こす。何日も眠っていたのか、体が重くなまっている。下を見る。ソファで寝ていたのか。見渡すも、暖炉や、必要最低限のものしか置かれていない、殺風景(さっぷうけい)な知らない洋室だ。清潔な姿で、体は健康的に肉が付き、痛みも空腹感もない。

「生きてる……」

胸の中でじわじわと歓喜が膨らむ。となると──

「起きたか。クソガキ」

電気が点く。低い声の方を見ると、四十代後半あたりの黒髪の男性が通路から現れた。男らしい体格の高身長で、皺が多少あっても健康的な肌で男前な人だ。ただ目つきが鋭く、無愛想で、極道(ごくどう)のボスと言われても頷ける威厳と強面だが。ピエロは普通に接する。

「おはよう! やっぱり、おじさんが僕を救ってくれたんだね。なんてことだ! ありが!」

ハグしようとしたが全身に激痛が走り、「う……」と蹲った。

「まだ重傷だ。丸々ひと月はかかると医者は言っていたのに、一週間で起きやがった。まともじゃねえ」

彼は興味もなさそうに通り過ぎ、帰ってきたばかりなのか帽子を脱ぐ。

「おじさんが、介抱(かいほう)してくれたの?」

「冗談を言うな」

「じゃあ奥さん?」

「一人暮らしだ」

「してくれてるじゃないか」

「雇(やと)ったんだ」

事実だが、ピエロの言うことも事実だ。全身が軋むように痛むが、家があり、話せる人がいて、命があることが嬉しくて、ピエロはソファにどしんと沈んで笑顔を輝かせる。

「僕はピエロ! ピエロ・ペドロニーノ! 本名なんだ。空に国を創って、世界を笑顔にするのが僕の夢! バイ! おじさんは?」

「……脳みそも診(み)てもらったが、異常がないのが異常だな。少しはまともな人間を演じてから名を聞きやがれ。俺はゼノだ。よく聞けクソガキ。俺はお前の鼻クソみたいな夢物語に感化されてどこの馬の骨かも分からない泥から抜き取ったようなガキを拾ったわけじゃない。俺は潔癖症なんだ。ゴミが落ちているから拾った。ただそれだけだ。…………まあ、俺の狩庭(かりにわ)に野垂(のた)れ死んで風紀(ふうき)を乱されても困るからな。てめえがガキを超えるまでは、ここに置いてやる」

「え……? 今なんて」

「調子に乗るなよ。俺はお前を一切甘やかさない。堕落(だらく)、贅沢、反抗は許さん。変な気起こしやがったら同様すぐにここを追い出す。いいな?」

ピエロははっとして反射的に頭を下げた。

「はい! ありがとうございます! 掃除洗濯家事なんでもやります! 精一杯尽くします! この御恩は死んでも償い切れません! 本当にありがとうございます! ゼノお義父(とう)さん!」

ゼノは葉巻(はま)きに火を点ける。

「てめぇのパパになったつもりはねえよ、クソガキ」

「僕はクソガキっていう名前じゃないよ!」

「クソガキで十分だ」

「わかった! 僕の愛称はクソガキだ! よろしくお願いします!」

顔は人を殺せそうなくらい怖くて口は悪いけど、悪い人ではない気がする。

「……フン、来い」

家を案内される。山奥に孤独に建つ立派な家で、余った部屋をあてがわれる。ここも最小限の家具しかないが、きっと用意してくれたのだろう。ロアと仮面がちゃんと綺麗に置かれてあった。ピエロはとても喜んだ。痛みも忘れてベッドの上で踊った。

ドンドンドン! わーーーーーーい!

「うるせぇガキだ……」

最初は本当にクソ汚くてトングが欲しかったほどだが、綺麗にしていくと見違えるほどだった。あの器量だけで名誉も容易く手に入るだろう。捨てられたにしてはあまりにも惜しい。だとしたら、自らが捨てたか。まあ、クソどうでもいいが。

「ガキ! 騒ぐな! 来い!」

はーい、とピエロはロアを連れていそいそと階段を降りる。

なんだそのガキは。僕の心(しん)友(ゆう)のロアだよ! 生きてるんだ! ……フゥ。

──人形が? 訳ねえだろ。

リビングの食卓を二人で囲み、ピエロも料理を振る舞われる。対面のゼノは彩りとバランスのいい質素な食事だが、その半分にも満たない僅かなおかずと、パンとスープだけだった。まるで刑務所。

「⁉」

服が汚れないようにヨダレかけをかけ、小綺麗にフォークを持つ彼が、にべもなくピエロを見て言う。

「なんだクソガキ。文句の一つでも言いたいのか? 俺は俺が稼いだ金で飯を食う。俺は十分てめえの面倒を見たつもりだ。これからは、てめえのケツは、てめえで拭け」

別にゼノに嗜虐(しぎゃく)心(しん)がある訳ではない。

ぶるぶると震えた手つきでパンを持ち上げ、ピエロは涙する。

──フゥ、ったく……。

「いえ……こんなご馳走が、嬉しくてっ」

感極まり、ピエロはもらったヨダレ掛けで涙を拭いた。

「…………」

拍子抜けしてしまう。

涙ながら、「ありがとう!」と言い、パンを一口頬張る。

「⁉」

毒を飲んだような反応をする。

「ぅ、ああああああああ! ──美味い! これはっ……市販のパンでも、ミシェランが焼いたパンの味でもない! 泥を舐めた者だけが味わえる、人生の味だ……」

人生の食レポを語るピエロ。

「小麦粉とバターだガキ……」

ゼノが冷静に言うが、ピエロはまた一口噛み締めた途端号泣して机に伏し、ヨダレかけで涙を拭く。

「…………」

シュールにも号泣を聞きながら、黙々とゼノは口に運ぶ。嵐が過ぎ去り、静かに食べろと促すとにこにこと食す。たかが知れていると目をやると、おフランスにスープの香りを嗅ぎだした。

「料理がお上手だ。白ワインに、ニンニク。コンソメ一個と、エキストラバージンオリーブオイルが少々でしょうか。料理人の粋(いき)を感じます」

──庶民的なスープのソムリエか。 

しかし躾ける必要のないマナー、絵画のような手つき。野良犬かと思えば目を疑った。育ちがいいものだ。

──コイツ……所作にはムカつくほど品がある。まるで金持ちの貴族の坊ちゃんだ。なんで路頭(ろとう)になんか迷った? いや、こいつのことだから、自分から路頭に迷ったか。まぁ……俺が知ったことではないが。

同じような思考回路を辿る。

「ご馳走様でした! お義父さん! ありがとうございました! 行ってきます!」

ピエロは定規みたいなお辞儀をして、即家を出ようとする。

「おい待て! どこに行く!」

玄関の前でつっと立ち止まって、ピエロはいい笑顔をする。

「何って、働きにいくんですよ」

「そんな体で死にてえのか!」

「美味しいもの食べたら完治した! 心配ご無用! 行ってきますなのだ~!」

バタン! 行ってしまった。

「まともじゃねえ……」

バタン! スーパーいい笑顔で戻ってきた。

「六つ掛け持ちしてきたー」

「バカかてめえ! くたばるぞ!」

「その時はその時。倒れたらまたゼノが看病してくれるだろ?」

ニッと歯を見せて無邪気に笑った。ゼノはため息を吐く。

「フゥ……呼び捨てにするなクソガキ」

山間(やまあい)の街で、彼はなりふり構わず客がいる中でも虱潰(しらみつぶ)しに漫画のように懇願(こんがん)してきた。

「履歴書(りれきしょ)もなしに、どうやったんだ?」

「一軒一軒土下座して、『僕を働かせてください!』って言ったんだあ。一度やってみたかったんだよ! 門前払いされた所もあったけど、あの街の人はみんないい人だね!」

「バカかてめぇ……」

別に、自分の顔があれば汲んでくれたというのに。

「その並外れた図々しさは認めてやる。職場で出過ぎた真似はするなよ」

「はーい!」

こんな歳で働くとか夢にも思わなかった。「初めてですごいワクワクするよ! 徳も積めて、さらにお金ももらえるなんて!」と、楽しそうだ。何があろうと死ぬこと以外かすり傷だ。

一方。ゼノは呆れたように腕をこまねく。出会い頭から分かっていたが……。

「まともじゃねえもんを拾ってきた……」


  4


無愛想なゼノと過ごす生活が始まった。

ゼノは若い頃貯め過ぎた貯金で、堕落もなく社会人から見れば羨ましい暮らしをしているようだった。ピエロは夜遅くまで働くのは肌が荒れるということで、早く寝て早く起き、一流ホテルマンのように手際よく家事をしこなす。ゼノの部屋にノックして颯爽と入る。

「おはようございます、お義父さん。朝食のメニューは何に致しましょう。タルティーヌ? ムイエットなんかもいいですよ。それともお風呂に致しましょうか」

白布巾を腕にかけて畏まって立ち、ゼノはちょうど寝起きで眠そうに体を起こしている。

「……誰も執事になれとは言ってねえよ。自分で作れる。初日だろ。お前は自分の飯を作ってさっさと仕事に行け」

「食うなって言ったのは?」

「そんなに動くと思わなかった。エネルギーがなきゃ死ぬぞ。何より俺が疑われる」

「やったー! おじさん! 僕もりもり食べて働くね! おじさん大好き! ヤッフーーー!」

バタン! いて! 小指打った! あああああああああ!

ドタバタと階段に騒音で落ちる。いってえええええええ!

「騒々しい……」

しかし、彼がいない家は静かで、より侘(わび)しさに満ちていた。ふと考えるとやけに浮かび、心配なんかもしていて払拭(ふっしょく)する。なんだ……気持ち悪い。

夜家に帰り「どうだったか」と聞くと「楽しかった!」とピエロは弾ける笑顔で答えた。

怒鳴られることも多かったが、褒められることもあって刺激がいっぱいだった。互いを仲間として認め、労いをかけ、もらい、自分のため、人のために考えて奉仕(ほうし)する。理不尽なこともあるけれど、そうやって人間としてどんどん向上できる場でもある。ずっとされる側だったけど、こんなに若い時に社会を肌で味わえた。

教科書の暗唱を詰め込んだ教育よりも、複雑な経験を高めるべく、大人との口の聞き方や、実地教育のほうが高い知覚を鍛えることができると働く中彼は思った。そのためピエロは学校には行くという手段は考えなかった(そもそも行く必要がない)。

「働くって楽しいな!」

楽しい。そんなこと働いていた時は考えたこともなかった。

「……お前はどこに行っても同じことを言うだろうな」

「もしかして褒めてくれた?」

「変人だと言っているんだよ」

「変人なんて立派な褒め言葉だよ。おじさんも変わってるよ。定年退職する年齢でもないのに、お金をどっさり持ってる。社長でふんぞり返ってる人よりおじさんはそれを鼻にかけたりもしないし凄いことだ。それに、地下の本棚──案内している時には教えてもらえなかった、僕が自分で見つけた場所だよ。図書館みたいに広くて本棚がズラリと並んであった。ジャンルに問わず、分厚い本もたくさん。僕も知ってる有名な大学の帽子や、若い頃の写真も卒業証書も飾ってあった」

本は必ず定位置に戻せ、遊ぶな、踊るな、汚すなと、張り紙をあとで張らなくてはならないとゼノは思った。

──頭も学歴もよく、今実際に富があるということは社会でも輝かしい功績を残していたはずだ。しかし、大学以降の思い出は途切れていた。山奥に立派な家を構え、一人で暮らしていた。まるで世を忍ぶように。

「最初にも思ったよ。絶対タダモノじゃない。あと、カッコいいのに彼女がいない! 紹介してあげようか?」

「てめえ…………」

結局どちらも変わっている。


数日が経ち、ゼノは普段狩猟(しゅりょう)や読書、吸いたい時に葉巻を吸い、苦いブラックを傾け、悠々自適(ゆうゆうじてき)に過ごしているが、買い出しのついでに、買い出しのついでに、来訪(らいほう)を兼ねて、よく行く店に通う。

「あらぁゼノさんいらっしゃい、嬉しいよ。来てくれたんだね」

どこかぎこちなく答える。

「ああ」

肉を受け取り、横を向いて自然な感じで訊(たず)ねる。

「ここに、白い髪の騒々しいガキはいないようだな」

「そんなお肉扱ってないよ?」

「……じゃあな。また来るよ」

大きな背中を向け、カミラという年増(としま)の女性は笑顔で言った

「知ってるよ。あの子のことだろう? 知らない奴はいないよ。街でもあの子のいる店ときたら大盛況だからね」

「そうか」

──何だって?

カミラは親切に歩いて三分もかからないパン屋まで連れて行ってくれた。

「ほら、あそこだよ。相変わらずすごい人だねぇ」

入り口まで人がごった返し、普段では考えられないほど賑わっていた。少年のよく通る明るい声が響き、群衆は楽しそうに大きな笑いを上げ、盛り上がって何かを熱心に見ている。二人も覗いた。

焼きたてのパンが乗った盆を、パフォーマーのようにくるくると華麗に片腕で持ち上げ、いつ料理人に昇格したのかコック帽を被ったピエロが大きな声で宣伝している。

「売れ行き続出! オーナーと共同制作した『踊りたくなるほどおいしい苺プリンパン』新発売だよ~! 仕事の疲れも恋の悲しみも糖分で癒そう! この機に、糖分に身を委ねてみてはいかがかなあ⁉」

もはやライブのように客はフィーバーして、「ピエロ!」「ください!」という声が踊る。

爽やかな笑顔で受け答えし、見えるようになった厨房(ちゅうぼう)で凄技を見せるとどっと歓声が上がる。

さっと商品棚に陳列したピエロは急に動きを止めて、考える仕草をする。きらきらとした目で見上げる女の子が聞く。

「何を考えているんですか?」

ピエロは後ろに羽が見えるような笑顔で答えた。

「お客さんが、次はどうしたら笑顔になってくれるか」

「また行きます……」

お母さんが笑顔で感動して答えた。

「何だあれ……」

あ然とする彼に、ゼノさん! ゼノさんじゃないですかと彼の元にもオーナーの男性や人が集まる。店でのピエロのことを朗らかに教えてくれた。

「最初は破天荒で手の打ちようがないと思ったんだけどねぇ。すごい頑張り屋で、発想がまた面白いんだよぉ。ああ見えて気遣いもできるし、仕事も乾いたスポンジのようにすぐに覚えてさ。言葉も巧くて、接客なんか見ての通りプロだし嫉妬するくらいだ。あと、メンタルがバカみたいに固いよねぇ。ドジだけど、そこがまた憎めない。美少年だし」

「オフの時も元気でモテモテでね。いつも囲まれてるわよ」

「うちもそうさ。あの子が来てから売上は激変だよ。あの子がいる日は特に凄いよ。お店より、みんなあの子に会うために来ているもんだ。何事も誠実に、全力で楽しみ働いてくれてね。きっと……、楽しく、賑やかなところに、人は求めて集まって来るのかもしれないね。そんなこと、親にも学校でも学ばなかったのに。あの子から学ぶことは多いよ」

彼らは皆ピエロに影響されて、楽しそうで、幸せそうに笑顔を浮かべている。 

この前あなたが凄いってあの子話してたわよ。すごくゼノさんに懐いているのね。うちの子が一目顔を見たら大泣きしちゃうのに、と彼らは穏やかに笑って言った。

「ゼノさんは、まだ結婚するつもりはないの?」

「返答に困るな」

一生するつもりはないと言っている。

「羨ましいな。あの子、譲ってもらってもいいかしら?」

ゼノはやや黙る。

「……返答に困るな」

そして何も買わず、店を後にした。彼の背を見届けながら、皆がニマニマして冗談を言った若い女性が「あら~」と言う。

「あっははは。ビックリしたよ。あのゼノさんが子どもを拾ったっていうからね」

「さすが親子だわ。急に現れて、私たちを救ってくれたところ、似ているわね。素人じゃ、とてもわからないビジネスセンスをお持ちで、一人一人の悩みを真摯(しんし)に向き合ってくれた。ゼノさんが興(おこ)してくれたからこの街はある。ほんと、不思議な人よねぇ」

ただいま! ピエロが仕事を終わり家に帰ってきた。居間に行くと夕餉が用意されていた。ピエロは内心驚いたが、変に突っ込まず美味しそうに食べる。

「ガキ。お前……ほんとに空に国を創るつもりか?」

「もちろん! お金が貯まったら始めるつもりだよ」

その夢を言って、肯定してくれた大人は一握りだった。反対されて家に出て行かなければならなくなったと思った途端、少し強張(こわば)る。

ゼノは頭が痛くなったが。

「今日、お前を見かけたよ。要領(ようりょう)もそれなりに悪くなかった。その道に行けば、それなりの地位も築けるが……」

食べ物と一緒に生唾も飲み込んだ。

「──勝手にしろ。てめぇの、したいことをして、生きたいように勝手に生きろ」

手が止まる。驚いた目でゼノを見た。ピエロに目もやらず返す。

「変なことを考えるなよ。俺はお前の親でもない。どうでもいいからそう言っただけだ。飛ばずに落ちた骨くらいは拾ってやる。世間がどうなろうが俺にはもうどうだっていいことだしな。お前がこの家を出た時は、縁を断つ。だから俺にはどうでもいい。だから、勝手にしろ」

最後で目が合う。

銀のフォークが皿に落ち鋭い音を立てる。激しく込み上げるものがあって、ぎゅっと胸の部分を掴み、震える手でブローチを握った。俯きがちに目からぽろぽろと涙が光って転がる。

「ズルいよ、おじさん……」

泣きながら、とても美しい笑顔を咲かせて、ピエロは言う。

「そんなこと言われたの、母さん以外に初めてだ……」

ぶっきらぼうな言葉が、泣くほど嬉しかった。

無愛想に見える目は彼をちゃんと見ている。少なくとも、母親はピエロの夢を肯定していたのか。それ以外の者は当然のようでもあるが、ことごとく侮辱したのだろう。泣き顔を初めて見たのもあり、水面下で少し驚く。

ピエロははにかむようにピンク色になって俯き、上目遣いで言う。

「じゃあまた、勝手に決めてもいい?」

「なんだ」

どうでもいいことだが。

「おじさんを、僕の本当のお父さんにする!」

銀のスプーンが皿に落ち鋭い音を立てる。スープが机に散った。ゼノは冷静に対処するようにスプーンを持ち上げ、机を丁寧に拭く。仏頂面(ぶっちょうづら)で言い返す。

「食事中は静かにしろ。驚くだろうが」

ピエロもちょっと驚いたが、ムっフフフフー、えっへへへーとニヤニヤと笑み崩れる。嬉しさというか、萌えからのときめきというか。

「勝手に落ちただけだ」

「どうしよう、僕もゼノに……落ちそう」

キラキラと甘ったるい上目遣いを向ける。

「てめえそろそろ表に出すぞ!」

ゼノが立腹(りっぷく)し、はーい、と明るい笑い声が二人だけのダイニングに響く。


 5


朝から夕方まで仕事に精を尽くし、家に帰れば大好きな人が仏頂面で待っている。地下の書斎で本を読み漁(あさ)り、ゼノと料理を作ったり、悪戯もたくさんして怒られて、充実した日々を送る。多大に貢献している功(こう)もあって大きなお金を得るとピエロはとても喜んだ。化粧品を原料から開発し、苺プリンメーカーやトイを作って創作にも励む。ゼノはパトロンになる気は一切なく(お小遣いと銘打って雀の涙ほどはくれてやるとは思っている)、大金が必要となるのでビジネスの戦略や、国の具体的な設計も本格的に考える。


一年余りが経過し──癒しの時間に居間の床におもちゃたちを広げて堂々と戯れる。バースデーシーズンを超して二月になり、雪は降らなくなったがまだまだ寒く、暖炉がぱちぱちと音を立てている。

ピエロは身長も健康的に伸び、変声期に入った。本来なら中学生のピエロが、無邪気に物体たちに声を吹き込んでいるのをチェアに座って、複雑な心境で見下ろすゼノ。

頭のネジは抜けているが、頭脳や知性は頭一つどころか足まで抜けている。幼少期覚えたという円周率を今でも覚えていて諳(そら)んじてみせたり、本を秒速で読破しなおも内容を写真で取ったようにインプットし、訳の分からない記号の列をA4にのたくっていたので、これはなんだと聞くと筋は通っていよう弁論を笑顔で弄(ろう)し、歩くようにバク天はするし天井に張り付くしスマホを開発するしもはやできないことなどない。

なのだが──。

「グルコサミンのビタミンシャワー! ギュウウウウウウウ! 残念だったな! お前はずっとグルグルしてろ! ロア危ない! 後ろにコラーゲンが! なに⁉ アイツの弱点は『紫外線』だ! メラニンビームを繰り出すのだ!」

お前……。

美容成分のモンスターたちが、リビングでドール戦士たちと戦っている。

「ガキ。そいつらは、この世界で生きているのか?」

気づいてはいたが。言わなかっただけだが。

「何言ってんだよ。当たり前だろ? ロアも、机も、そこの壁も! 物体には心があるって僕の女神が言ってたんだ! 知らなかったのか? ゼノぉ」

お前…………。

ここまで来ると哀れみさえ浮かんでくる。それを信じて国だの世界だの言っていたとすると、何でも話しかけていたのだとすると、マジで、哀れみさえ浮かんでくる。

以前も『この子たちは生きているんだ』と笑顔で言い、冗談かと思っていたが、さすがにずっといると明らかに嘘ではないことが分かる。それを聞いても他の奴らは変人の戯言だと聞き流しさして突っ込まなかったのだろう。それを信じ込むほどこいつに取ったら偉大な母親だったのかも知れないが、天才がつくほどこいつは恐ろしく、偉大なバカだ。

「フゥ……ガキ。……これは俺の私見(しけん)ではなく、普遍(ふへん)的な常識だが……物体には心なんて宿ってねえよ、ましてや命なんてな」

「え? そんな馬鹿なぁ」

「……俺が嘘をつくと思うか?」

ピエロの動きが静止し、ゼノを笑顔で見る。彼の目を見れば見るほど、真実だと物語っている。悪寒が背筋を走り、冷や汗をかく。信じている彼が嘘なんてつくはずがない。ましてやあのゼノが。

「……マジで?」

至極(しごく)真顔で聞き、至極真顔で返される。

「マジだ」

「マジで?」

「マジだ」

「マジで?」

「マジだっつってんだよ」

がくがくと顔をロアの方に動かし、瞬きをして、生きてるよ! と言ってくれることを期待するが、生気のない不動の笑顔がドンと視界を殴りつける。衝撃のあまり叫んだ。

「ロア……お前……生きていなかったのかああああああああああああああ⁉」

十三歳。衝撃の事実を知る。

「お前も……! お前たちもか⁉ そんなみんな! こんなのあんまりだあああ! 僕は信じてたぞ! 絶対絶対生きてるって思った! 愛していればいずれ話しかけてくれるって思ってたんだ! 花が咲くように! 母さん! 僕は信じていました! いやロゼッタは悪くない! 悪いのは僕だ……ああ……こんなことって……マンマミーアアアアアアア!」

号泣し、上体をくたりと地面に脱力させしょげる。

「純粋すぎる自分が憎い……ずっと友達だと思ってたのに……それは僕だけだったんだ……え、何それ、ただのバカじゃん。アホじゃね。おもちゃに動力を与えようとは思っていたのに……心がなければ機械と同じだ。そんな機械たちと、一体誰が張り切って世界を笑顔にするんだ。おもちゃの国じゃない……僕がずっと豪語していたのは工場の国だったんだ…まるでゴミのようだ」

ズーンと落ち込む。

傍(かたわ)ら、ゼノはコーヒーを傾けながらイスに座って本を読んでいる。コーヒーが残り半分になった。

ピエロはむっくりと頭をもたげた。ゼノがふと見やる。

胸を覆い尽くす暗雲を一条の光が破り、差し込んだ。それは希望であり、ひらめきだった。

「ないものは、つくればいい……」

昔からそうしていた。ゼロから創り、百を生み出す。

「心を、つくればいい」

即決で固い決意をする。晴れ渡っていく心を真似るように、瞳がぐんぐんと希望で輝き渡る。

面食らって言葉が出てこない。達磨のようにすぐ起き上がると思ったが、思わぬ土産までついてきた。

弾かれるように跳び上がる。意気揚々とゼノの方を向いた。

「ゼノ! 僕、心を創るよ! 心を創って、おもちゃに命を与えるんだ!」

もうこれ以上聞くと頭が割れそうだ。

「……勝手にしろ。俺は一切協力しないからな」

「うん! 家族が増えるな! 楽しみにしとけよ! 早速、開始だ~~~~~!」

ドン! 猪突(ちょとつ)猛進(もうしん)のあまり、ドアに額を派手に打った。どへっ!

「フゥ……」


 6


心──体の中に宿る、知識・感情・意志、思いやりなどの精神的な働きのもとになるもの。

それだけでなく、性格や動力、声、才能を与え、多彩に笑う──人間と姿形が違うだけの完全体の個を創る。一人だけではない。数え切れないほどの数をだ。それはもう新しい生き物を創る、命を創造するに等しい。おもちゃたちがいなければ、幼少期から追い続けていた夢の実現の意味がない。国の骨格を創ると同時に、彼らに心を与える。

引力を操るほど人知を超えた技術力を持っているものの、心なんて形のないものを創るのは初めてだ。常識を覆(くつがえ)す発明はいくらでもしてきた。非現実的で超抽象(ちゅうしょう)的な、原料さえままならない生粋のゼロからの大発明。神業とも言える。不安はない。とてつもなく高揚して、ワクワクする。

絶対に創れる──自分を導いてきた、そんな根拠のない自信と確信に燃える。

ピエロは工房の机と向き合い、まずは考えた。

原料は自分の心だ。

媒介的に心を与える装置を創る。自分の全能、自身の心を何らかの形でコピーしたものを注ぎ、封じ込め、不滅の状態で、心を彼らに限りなく注ぐ。命を宿した時、最初は皆人間の幼児のように言語を流暢(りゅうちょう)に話さず、知性を育んで学んでいく。同じ心でも性格は派生し、個性が出るようにする。自分の全能の中から彼らの容姿と照合(しょうごう)して才能が選ばれ、人間が生を謳歌するべく与えられたすべての恵みを彼らに授ける。その装置は、彼らにとって友達であり、母なる父であり、唯一、自分の生き写しの心を宿す分身のおもちゃとして、彼らに愛を注ぐ。

名前をラブ・メーカーとしよう。

「これだ! なんでもいい! やってみよう!」

勢いよく立ち上がって行動に移す。

キャリアボーイとして大繁忙(はんぼう)していたが、資金に困ることもないため仕事を減らし、創作にあてる時間を大幅に増やす。

前代未聞の取り組みに失敗ばかりだったが、その設計図は肉付き始める。ゼノが様子を見ると散らかった部屋で作業しており、また様子を見ると書斎でのんきに本を山ほど積んで読み、運動すると行って山に遊びに行った。熱中はしても一辺倒(いっぺんとう)になることはなく、家族の時間も大切にする。


そして、一年半余りの月日が流れ──十月になり、ピエロはもうすぐ十五歳になる。

ラブ・メーカーは、設計図から飛び出してきたかのように完成した。デザインは「聖堂」がモチーフであり、成人男性も見上げるほどの高さだ。ゴシック様式をおもちゃ化したように軽快で、メルヘンで神秘的なデザイン、体を分離してミニとして移動することもでき、トイを投入するステンドグラスの大きな窓が中心部にある。

工房で、ピエロは彼と向かい合っている。

「君に、心を授(さず)けよう」

最終段階として、自身の心をコピーした小さな結晶(けっしょう)を中に投入する。すると、ラブ・メーカーの中心から、命が宿るように神秘的な光が広がって、光の粉を幻想的に散らして、まばゆいばかりに光り輝く。

誕生する生命の匂いを感じ取り、ピエロは彼を見上げて歩み寄る。

「僕は、ピエロ・ペドロニーノ。君の開発者だよ」

そっと触れて、目を瞑り、優しい微笑みで頬を添える。

「君は、ラブ・メーカー。僕の新しい友達。みんなに心を与える、愛の創造者──」


──ラブ……メーカー?


透き通るような幼い声が、自身の心に響く。昔のピエロの声だ。

彼らの心は繋がっている。心の声が共有できるのだ。

光と肌はあたたかく、嬉しそうに光が抑揚(よくよう)している。心の中で響く無邪気な笑い声に、胸の中に小さな男の子がいるようで、くすぐったくあたたかく、愛おしく笑う。ピエロの分身であり、性格もピエロと同じ、声も彼のものだが、年齢は幼児の段階で幼い。成長すれば声を本人の年齢まで自在に操れるようになる。

感慨の波がどっと込み上げ、彼の前で涙しながらロアを抱きしめる。

──どうしたの?

──うれしいんだ。

ステンドグラスの扉を開け、中に入り、そっと人形を目印に置いて、扉を閉める。

ラブ・メーカーは目覚めた瞬間から、記憶はないが、ずっと傍にいたかのように絶対的にピエロを信頼していた。賢く、早く言語を解(げ)し、己の使命を理解する。お腹の中にいるおもちゃの存在を感じ取り、ラブ・メーカーの心の中で慈(いつく)しみが満ち溢れ、光がさらに輝き溢れる。

──この子に、ラブればいいの?

──さすが僕だ。すぐに言語を開発したね。

まるで兄弟のように笑って、彼らは話す。

──ラブ。できる?

──うまくできるか分からない。だけど、やってみる。

──君ならだいじょうぶさ。だって、君は僕だから。できないことなんてないよ。

ピエロは彼の一部のレバーをぎゅっと握りしめる。二人は心をひとつに、ピエロの声と、ラブ・メーカーの心が合わさる。


『君に、心を授けよう』


レバーを振り下ろす。

全身からポップな機械音が湧き上がるように唸り、メーターの針が踊りだす。内側から強烈な光を全身にほとばらせ、メルヘンで神聖な讃美歌(さんびか)を演奏する。まるで爆発的な生命のオーケストラに、ピエロは反射的に後ずさって腕で目を覆う。 

バラバラだったメーターの動きが均一(きんいつ)に整うと、ティーン、と余韻を引く高い効果音を鳴らして、潮(しお)が引いていくように終わった。ふらっと、扉が開け放たれる。

想像以上に、壊れるのではないかと心配するほど迫力がすごかったので、ピエロは腰を抜かしており、ぽかんと口を開けていた。

厳(おごそ)かに立ち、腫(は)れ物を扱うように、熱くなった中からロアを取り出し、机の上にそっと置く。

イスを引き、ごくんと、固唾を吞んでじっと見守る。

目が──閉じている。

重心を崩して小さな体がうつ伏せに倒れた。ピエロは息を吞む。指先がぴくりと動き、手を使って体を起こし、お尻をついてかわいらしく足を投げ出して座る。まばたきをいくらか繰り返して、瞼を広げてひとつゆっくりとまたたき、つぶらなまるい目でピエロを見つめ、首をかしげる。

ピエロは口も目もぱっくりと開けて、固まる。大きな目がみるみると涙に揺れて、歪み、少し小首をかしげて、一筋の光を零して笑った。生きている。ロアが生きている……。なんて愛くるしい。胸に喜びと、温かい愛が満ち溢れる。涙を拭(ぬぐ)い、すぐに笑った。

「はじめまして。僕はピエロ。ピエロ・ペドロニーノ」

「ピエロ……?」

幼い子どもの声で、ロアはかわいらしく首をかしげる。分かりやすいように、ゆっくりと噛むように言う。

「うん。君はロア。僕の、ずっとずっと、ともだちだったともだち。君は覚えていないだろうけど、僕たちは、ずっと一緒にいたともだち同士なんだよ」

「ともだち……」

ロアはなぜか、その言葉を聞くと嬉しくなって、大きな目をゆっくりと細めて、とても愛らしく笑った。目の前にいる大きな少年を見ると、心がぽかぽかとあたたかくなる。楽しい気持ちになる。前から彼を知っているようだ。初対面ではない。親近感と愛情で分かる。彼は、とても大切な人だ。

「ともだち、どうし」

また泣きそうになるのを堪(こら)え、急いで涙を拭いて、にっこりとピエロも笑う。心から愛している、ともだち同士は見つめ合う。

「ロア。約束だよ。僕たちは、ずっとともだちだ」

その言葉を聞くと、ロアはかわいらいしく満面に笑った。

「僕と、国を創って、世界を笑顔にしよう!」

 ロアは、また愛嬌たっぷりに笑う。

「ともだちどうし!」

小さな腕を精一杯伸ばした。ピエロは宝物のように彼を持って、抱きしめる。

自分よりずっと小さい、生きる少年人形のかわいい笑い声が痛いほど愛おしい。弟を持った兄のような、初めて子どもを授かった母親のような、幸せに胸がいっぱいになる。目を瞑り、少し大人びた顔で、笑顔で愛を噛み締める。

「だいすきだよ、ロア」


 7


深夜を過ぎ、朝になり──

「ゼノ! おっはよう~~~~!」

オールしても元気過ぎる声と、扉を盛大に打ち破る音が洗面所でも聞こえる。

「ああ、ガキ……」

リビングに来ると……

「ええ⁉ あの人だれ⁉」

「おっきい!」

「顔こわーーーーい!」

「ポポッパポッポポ~~~!(殺されるぜ~!)」

ミニサイズのパトカーが走り回り、ミニラブ(ラブ・メーカー)が飛行モードで飛び回り、見つかって死んだフリをするどころか、部屋中でちっこいモンスターたちがピエロとわいわい騒いでいた。

「………………」

急に女装したり、天井に張り付いたり、ピエロに驚くことなど慣れているが──

モアイになり、さすがに言葉が出ない。

「ごら~~~ん! すごいだろ⁉ 発明は大成功! おもちゃたちが生きているんだ! ラ~~~~ブリー! 僕とそっくりで言葉はすぐに覚えるし天才なんだ! 別に食べ物も食べないしお金もかからないよ! 家族が増えたな~ゼノ! またどんどん増やして賑やかになるぞー!」

ピエロが踊りながら言った。「ピエロ!」とロアがアクロバティックに肩に乗る。

「次は何つくるのー?」

幼いがもう言葉を流暢に話している。

「金髪のかわい子ちゃんかな!」

おー! とド歓声が上がる。ゼノはモアイのまま立ち尽くす。

「俺は、きっと疲れている……」

自分の部屋に戻り、一度寝てまた起きたが、モンスターたちは賑やかにリビングを走り回っていた。

「てめえら! 遊ぶなら外で遊べ!」

鬼だー! と、おもちゃたちは笑顔で幼稚園児のように散っていった。

「みんな! 新しい子が生まれたよ!」

扉を開けて、さも自分が産んだように大事そうにお人形を抱えて居間に入るピエロ。ほんと⁉ わーいとおもちゃたちが一斉に集まる。みんなが見えるようにしゃがみ、好奇心(こうきしん)旺盛(おうせい)にみんなが三寸(さんすん)ばかりのお人形を覗く。人間とそっくりの大きな瞳が、おもちゃたちをぱちぱちと見つめ返している。

「かわいい!」

人見知りなのか、慌てて背いてピエロに抱き着いた。

「この子はアルル。すごいだろ? ちょっとシャイだから、みんな仲良くしてね」

はーーーい!

おもちゃたちは数を増やしていき、もっと家は賑やかになっていく。

数日も経てば、彼らは言葉をすぐに覚え、書斎に連れていき授業をすると知性を飛躍的に伸ばした。技術や道化の心髄(しんずい)を彼らに教え、みんな素晴らしい才能を十人十色(じゅうにんといろ)に持っていた。ミニラブも含めて新しいともだちを考えて一緒に創り、ラブって動き出すと感動が止まらない。国の設計を共に考え、同じ素晴らしい発明家としてアイデアを熱心に交わす。

冬になると家中華やかな飾りに溢れ、ピエロは盛大に祝われて大家族のように賑やかな誕生日を過ごし、十五歳になった。顔付きはまだあどけない少年だが立派に成長している。

九月下旬、ゼノを目隠ししてソファに座らせ、目隠しを解(ほど)いた瞬間、パン! とたくさんのクラッカーが弾けた。目の前に豪華なバースデーケーキ、大勢のおもちゃたちとピエロがゼノを囲っている。

「ゼノ! お誕生日おめでとう~!」

教室の子どもたちが合唱するようにバースデーソングを歌い、ゼノが一発で蝋燭(ろうそく)を消すと賑やかな拍手に包まれる。泣けるBGMを流してピエロとおもちゃの代表者が手紙を読む。命の恩人ですと言って号泣する人がいたがゼノは木だ。笑いと感慨のあるいい時間をつくれた。

「ケーキは僕たちが作ったんだよ! ピピはゲレンデに落ちるしエイティはスポンジを焦がすし、もう何度失敗したことか!」

「……感謝する」

ゼノはやはり木だ。笑いが上がる。

「その仏頂面もクリームみたいに溶けないかな?」

みんながバカみたいに大笑いする。こいつらのノリにはついていけないと思いながら、しかし毒舌は吐かないゼノ。

「ゼノ! 誕生日プレゼントがあるんだ」

すっくと立ち上がって、ピエロは隠していた所から拾って、綺麗にラッピングされたプレゼント箱を差し出す。

開けてみて! あけてみて! とピエロたちに促され、ラッピングを解き、箱を開けると。妖精サイズのおもちゃがくるくるとかわいらしく跳び上がった。

ゼノの目線の真ん前に浮いて、初対面のおもちゃなら悲鳴を上げるほどのゼノの強面(こわもて)を前にしても、口を丸っこい手で隠してくすくすと愛くるしく笑う。そのおもちゃは動いたり笑うたびに、きらきらした優しい星の音を奏でる。クリオネに似ていて透明であり、お腹は銀河を抱いたように幻想的に光っている。

「この子はクリッぺって言うんだ! みんなでつくったんだ! 性別はなくて、言葉を話すことはないけど、感情をお腹の色で表すんだ。かわいいだろう~?」

ゼノの周りをぐるぐる回り、インプリンティングという訳でもなく彼が純粋に気に入ったようで舞い踊り、小さな手で彼の大きな指に触れてくる。お腹が違う色に輝き、濃いピンク色は好きな人に甘えている。

「ハグしてみて」

机に頬杖をついてピエロが微笑む。仕方ないという素振りで、ゆっくりと片手で引き寄せて胸に収める。クリッぺはくすくすと笑い、きらきらと色が変わって、お腹が金色に輝き溢れる。

「ゴールドは愛」

見ていてお腹の底がこそばゆくて、ピエロはくすぐったくて笑う。おもちゃたちも同じだ。クリッぺはとても喜んでゼノの胸ポケットに入り込んで、顔と手をちょこんと出して、真上にいるゼノを見上げてくすくす笑う。

「……まあ、一番マシなヤツだな」

と、言って口コミは星三だが内心星五くらいはある。そんなことピエロたちは分かっているので、喜んでもらえたので踊り上がってハイタッチした。

「ゼノのお腹はゴールドに光らないの?」

「風船みたいに破裂(はれつ)して!」

「わけねえだろ」

片方の胸があたたかい。変にうるさくもなく、傍にいる。なんか孫ができたような気分だ。金色の光が染み渡るように、胸の奥がじわりとあたたかくなる。

賑やかなリビングは、空気が破裂しそうなほどに、ゴールドの笑いに満ちあふれた。


  8


パーティを終え、ピエロの次に(一緒に入ろうと言われたが断固(だんこ)拒絶して)風呂に上がると、リビングのソファでピエロが騒ぎ過ぎたのか、ぐっすりと仰向けになって寝ていた。

なかなか危ないが、寝相は許容範囲だ。懇願(こんがん)されて仕方なく一緒に寝た翌朝に目覚めた時のパフォーマンス以来こいつと寝るのは何がなんでも断っている。点々と彼の周りにおもちゃたちも安らかに眠っている。食事も運動もいらない割にきちんと睡眠は取るあたりマジで意味の分からない生物だ。寝たい時に寝る。どの睡眠もどうせ昼寝と変わらないだろう。

「……フゥ」

まだ、眠気はない。寝室に行く所以(ゆえん)もない。することもない。暇で、何の気なしに、空いたスペースにソファに腰を掛け、脚を組む。さりげなく、でもどこかぎこちなく、やや顔を傾け、ピエロの方に目を落とす。

ムダに賢く、口うるさい普段生意気なガキの寝顔は、今だけまあ生意気ではなく、年相応よりあどけなく……別に嫌いではない。そっと寝息を立てている。

瞬き、さっきよりも細く、あまりにも深い瞳で彼を見る。

──まるで似ていない。だが──似ていた。

夢を語る瞳を見る時々に、昔の愚かな自分を見るような錯覚を覚えた。

出会った時も、あの宿命と燃える目と、在りし日の目とが重なり合った。

お前は何度も、俺に語ったよな。

──くだらないさ。ああ。俺も、くだらなかった。


表裏も熱く、口は豪語するためにあるかのように、ほとばしって情熱を燃やす。

表は冷たく、されど大きな青い焔(ほむら)を隠し持っていた。 

深淵を抱いた目が、少年を抱く。


──夢…………。


生まれ育った家はとても裕福とは言えず、学費を払うのもひどく苦労したものだった。


「ゼノ。お前はどんな大人になりたい?」

大学最後の制服同士、同じく若者のよき友人が肩を抱いて訊いた。ゼノは無表情で、だが目をぎらりとさせて答える。

「お前よりもいい会社に入り、いい女を手に入れ──まあ社長くらいにはなるだろうな、莫大(ばくだい)な富を手に入れ、札の雨を浴びる」

友人は異端者のかますような冗談でもきいたように言った。

「その前に口説く練習をしろよ!」

「うるせえ」

志、競争心は誰よりも高く、渇いた環境が子どもの時からの野望にさらに火を付け、ゼノの静かな眼を研(と)ぎ澄まし、渇望(かつぼう)と燃やした。

大企業に入り、出世を夢見て邁進(まいしん)するが、仕事はよくできたものの上司との衝突や人間関係で苦悩し、同僚は次々と出世していく中、高い理想だけを持った自分だけが取り残されていくようだった。ストレスも極限に近く、思い悩んでいる時に、頬にギンギンに冷えた缶が当てられる。

「冷たっ! 何する!」

見上げると、長い金髪の女がにっこりと立っていた。

「ほら。また眉間に皺寄ってる! せっかくかっこいいんだから、もったいないよ?」

「……あんた、誰?」

「ちょっと! 知らないの⁉ アメリアよ!」

「ああ……」

「それだけ⁉」

本当は美しくてちょっと見惚れ、照れていた。それを機に、アメリアがよく話しかけるようになった。おしゃべりで正反対だったが居心地は悪くなかった。人間関係が極端に苦手なゼノに真摯に助言をし、コミュニケーションと愛想笑いの練習にも手伝った。

彼女は一目惚れをしたそうだが、ゼノは次第に彼女に心を許し、笑顔を見せ、惹かれていった。

「ゼノ。約束してね。ずっと、私たち家族を愛して、傍にいてくれるって」

「ああ。約束する」

二人は結婚し、金髪のとても可愛らしい娘のアリシアを授かった。

アメリアは育児休暇を取り、ゼノも娘の成長を見届けて笑顔と幸せに包まれた。人間関係が円滑に回るようになると仕事は急激に好転して、本領を発揮してスピード出世をしていく。上司にも後輩にも慕われるようになった。プロジェクトが通り、採用されて成功を収め達成感を味わう。

出世するたびに、桁が増えるたびに、彼は富にますます溺れていった。

「ねえあなた」

「悪い。時間がないんだ。行ってくる」

ドアが閉まる。ベッドの隣に、夫がいない。誕生日、結婚記念日。アメリアは娘と二人きりで愛想笑いで祝う。ポジティブなカレンダーも見ないで、背を向けて足早に立ち去る彼は自動人形に見えた。彼のいない、そんな日が多くなり、当たり前になり、夫の幸せの数だけ涙が増えていく。

世間が絶賛する、テレビに映る社会的な成功者を、彼を、アリシアと並んで呆然と見る。テレビに映っているのと同じ、疼く指輪を撫でた。

彼が帰ってくると、たとえ夜中でもアメリアは起きる。ゼノは病気かと思うほど活き活きと笑顔で、ハグを求める彼女が見えないかのように通り過ぎる。

自分の部屋へ行くと、アタッシュケースを放り投げ、万札を大量にばらまいた。舞い散る金の雨を浴びて、ゼノは狂ったように笑った。

アメリアは、ゼノの部屋の前で立ち尽くしていた。

家に帰る度に札をばらまいて、日ごとに嵩(かさ)を増していく。

鳩尾(みぞおち)が浸かるほどになり、大量の札を散らして、この世のすべてを得にしたように笑う。

人形のように立つアメリアの手を、アリシアがそっと握る。大きな目を男に固定して、言った。

「ママ。あの人、だあれ?」

アメリアは何も答えず、暗い深淵がどこまでも目に広がっていた。

愛した心も、ここにいる理由も、なくなってしまった。

「アメリア! 待ってくれ!」

ゼノが叫び、転んで腕を伸ばす。荷物を持ち、手を繋いで、二人の背中が遠ざかる。

大切なものが、なくなるという時になって、冷水を浴びたように目を覚ます。

愛していたはずだった、大切にするはずだった。約束したはずだった。

欲望で何も見えなくなり、取り返しがつかなくなるまで失望させ、そして、失う。

永遠の決別の道を辿る家族を、涙を流して叫び止める。

「行かないでくれ……」

アリシアが振り返る。

大きな目は、軽蔑を湛えていた。他人を見、ゆっくりと流れていった。

取り残され、限りなく開いていく目に、涙が零れ落ちる。絶望を、骨の髄まで沁み込ませていった。

暗い部屋で、金の山の上に抜け殻のように座り込む。

札を拾い、あんなに宝石のように輝いていたそれは、ただの紙切れにしか見えなくて、恐怖を走らせて投げ捨てた。

呻き、悶え、慟哭する。

涙が札の世界に落ちて、まるで海をつくる。

仕事を辞めた。欲望の世界から身を引き、まるで流刑人(るけいにん)のように人里離れた山奥に居を構える。罪の意識を抱え、悲しく、傷ついた過去を忘れるために。

──残ったのは、金と、孤独。


それから、二十年が経過する。


──夢は、呪いにも似ている。

時に強烈な希望を与え、時に絶望を与える。

笑われるような夢を掲げ、一つ物事を決めたら脇目も振らず直線に突っ走る。それは素晴らしい成果を上げることもあるが、誤れば、失うこともある。

夢は恋にも似て、盲目だからこそ、人を素晴らしく、そして残酷なものにするものだ。

ピエロを見下ろす。

邪魔だから、拾った。それは本当だ。こいつの夢を聞いても特に心は動かされなかった。夢などくだらない。だが、昔のゴミみたいな自分と重なって、拾ったのも、少しはあった。

……最初はどうでもよかったはずだった。孤独を当然の報(むく)いのように思い、若い身を引き裂き、今となれば空気にした。しかしこいつは、当然で出来た暗闇にあまりにも色彩を与え過ぎた。当然を捨ててしまった。こいつがいない空気ほど、突き刺す孤独はない。孤独の痛みを思い出す時間はない。今ではもう、捨てられなくなってしまった。

彼は少年の命を拾い、そして少年は、痛ましい忘却(ぼうきゃく)から彼の心を拾った。

──夢──家族…………。

俺もお前と同じだった。お前も、俺と同じなんだ。

「俺も、お前も……もう、失わせるんじゃねえよ」

当然のように、寝ているピエロは何も返さない。

指がぴりつく。恐れるように動き出し、意図(いと)を持った手が、起こさないように寝顔へ伸びる。

だが、寝息がかかった段階で、諦めるように弱く沈んでいった。

何事もないのだと、また頑固さに対して息をつく。

もう寝ようと、腰を浮かせた。

「失わせないよ」

ゼノの動きが止まる。ピエロを見下ろす。寝ぼけてなどいない、しっかりと見据え、溶けるように微笑んでいた。

「君を、失わせないよ」

その確固(かっこ)とした言葉が心に響き、胸を熱くする。わずかに瞳を見開いたが、また静かに凪(な)いだ。

「……親に向かって君とはなんだ」

へへへと悪戯っぽく笑う。

「てめぇ……起きてたのかよ」

聞かれていたのかと思うと羞恥が走り、せっかちにソファから身を弾いた。

「いかないで。お願い。いっちゃだめ」

また見ると甘い光を満たしており、目を逸らして速い瞬きを繰り返す。仕方ないと息をつき、腰を沈める。ピエロは目をぱっちり開いてにっこりと笑う。起き上がって、パジャマ姿で腕を伸ばし、ゼノの胸に収まって抱き着いた。

ゼノの胸はあたたかい。好きだ。すごくしあわせだ。

抱き返すことはなく、雪みたいに光る白い髪をただ見下ろす。ぬるく、底の冷たい胸が陽だまりにくるまれ、溶けていく。

「大好きだよ……パパ」

途端(とたん)、桁違いの熱が、胸を焦がすように込み上げる。目に軋みが走り、燃え出す。力を入れて、小さな体を抱きしめた。

ピエロは胸がグッとなった。瞳を揺るがし、笑顔で閉じて、綺麗な雫がひとつこぼれる。

孤独も、暗い過去も、ことごとくこいつに溶かされる。色褪(いろあ)せていた、この胸を抱いて満ち溢れる光は、確か、しあわせと、愛といった。

ゼノの頬に涙が幾重(いくえ)に伝う。その気配がピエロにも伝わる。

「もう、失わせない。お前は、大事な息子だ」

ピエロは涙色に微笑んで、言い返す。

「うん……。よく言えました」

「突き放すぞ」

「ごめんなさい」

ピエロが笑う。涙を隣に、ゼノの口の端がそっと上がる。

それから宝物のように胸に収め続けるが、離すタイミングが分からず、ピエロもずっとこうしたかったので、「大好き」「ああ……」という会話も長時間続いていた。おもちゃたちは邪魔をしてはいけないと思い、心の中でみんなとくすくすしていた。


──三年の月日が流れる。


世界の青空を集めたかのような青天の春。心地よい風に白髪(はくはつ)がそよぐ。杖を突き、燕尾服風の道化服を粋に着こなす仮面を被った青年が、シルクハットを指で摘まんで振り返る。

「私はもう行きます、父さん」

背後には大勢のおもちゃたちと、これからまた空でもっと大きくなる国がそびえ立っている。声はすっかり低くなり、洗練された紳士に成長した。一人称は数年前に変え、当初はオカマだと散々いじられたが、十八歳に成長した今になっては違和感なく自然に聞こえる。

「もう二度と帰ってくるんじゃねえ」

戸の前で、腕をつかねてゼノが無愛想に言う。何か国も翻訳(ほんやく)できるおもちゃがピポン、と効果音を流した。

「『帰ってこないと殺す』だって」

どっとピエロを含めて笑いが上がった。

「翻訳がなってねえよチビ」

「翻訳なんてしなくたって! ピエロ・ペドロニーノ様には、ゼノの心の声なんて透け透けなのだ~!」

「てめぇは年を追うごとに気持ち悪さが悪化してるな」

──生きるために、一度は里帰りしないとな。

肩にロアが身軽に乗って心に語りかける。ピエロはウインクして返す。

──ああ、ゼノとよく似た仏頂面の世界を笑顔にした後にな。

心(しん)友(ゆう)と笑い合い、ピエロは悠々と足を進め、父の前に立つ。

「あなたがいたから、ここまでこれました。私をここまで育ててくださって本当にありがとうございます。今まで、お世話になりました」

ピエロは心を込めてお辞儀した。もう背丈(せたけ)もあまり変わらないゼノにハグをする。

「いいんだよ。私たちと一緒に来ても」

「毎日説教されてえのか? さっさと往(い)ってこい」

「はい」

と、ゼノに離れた瞬間走って泣き崩れておもちゃたちがはいはいと宥めた。それからおもちゃたちが束になってゼノにハグの嵐を浴びせ、とうっとピエロは復活して走り国に跳び上がる。おもちゃたちも彼に続いて乗っていき、ピエロたちが上から手を元気いっぱいに振る。

「行ってきまーす!」

「ゼノさん! お元気で~!」

四角いモニター一面にポップに映るシモロンという女の子が、泣きながら言った。国も心を原動力として動く一個のおもちゃであり、国自身として彼女が体として操作している。

数多の歯車が生き物ように廻りだし、煙を吐き出して国が気球のように浮遊する。歓声がわーっと上がる。ゼノはフンと鼻を鳴らしてティッシュを取りに行く。

希望と歓喜と、夢を乗せて、国が飛び立つ──。

森や家がどんどん小さくなっていく。何度も繰り返しテストしたため、墜落(ついらく)する心配もない。国は速度を上げて、大きな翼を生やしたように空へぐんぐん吸い込まれる。澄んだ大気を目いっぱいに吸い込む。周囲に鳥が飛び、世界は壮大に広くなっていく。大海原(おおうなばら)を航行(こうこう)する船の船長みたいな気分で、本当に、空を飛んでいるみたいだ。皆ハイになって騒いでいたが、雲がご近所になると静かに感慨を噛み締めるようになる。

自分が創ったすべての創造物に対する誇りと情熱が、彼を圧倒した。ロアの隣にやってくると、ピエロは天からの絶景に見惚れて、欄干(らんかん)に手を乗せる。

「ロア。私は今、何をしてる?」

「君は今、仲間たちと夢を叶え、空を飛び、また新しい夢を叶えようとしている」

「まさか本当に、空に行ける日が来るなんて。まるで浮いたような心地で、信じられないよ。夢の中にいるみたいだ」

ピエロはず、と鼻をすすって言った。

「夢なんかじゃないさ。君がつくった、夢みたいな現実だよ。それから君はまた、夢を現実に変えていくんだ。君は偉大な人だ」

「偉大なのは、私をそうさせてくれた人間と、ひとりの母だよ。そして、かけがえのないお前たちだ」

いや、母じゃない、女神だ。マザコンは空でも健在だなとロアは笑う。

雲と、ミニラブやおもちゃたちに囲まれて、蓄音機(ちくおんき)を模したラッパへと近づく。

世界に、世にも素晴らしい爆弾を落とすような気分だ。

今、世界の舵(かじ)は自分が握っている。

心臓が破裂しそうで、発狂しろと言われたら発狂できる、クレイジーないい緊張感。

笑いが絶えず、ワクワク、ドキドキを絶頂に、希望に満ちみちて道化たちは笑う。


ピエロの声が、世界をドームに、あまねく響き渡る。


「ねえ、もしかしてヒマ? 『おもピロ』と、あそぼうよ~!」


──さぁ。遊戯を始めよう。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る