第2章

  1


清涼(せいりょう)な朝がピーターを置き去りにして、そして時刻は昼前になる。

休日の抜けるように青い空の下。

先端のとんがった靴が愉快に歩き、薔薇のような深い赤髪が燦々(さんさん)と照り輝く。大人も子どもも道行く誰もが男に二度見三度見。笑顔、恐怖、不審、驚愕を面々に刻む。

絶好の散歩日和(びより)であると、街の往来を青年が愉快なステップで散歩していた。

「ふ~んふふふ~んふ~ん」

ん?

ふっと鼻歌を止めて、斜向(はすむ)かいにあるうす暗い路地で、小さくうずくまっている人影を視界にとらえた。直感的に胸がポップコーンみたく跳ねた。

「ふんふふ~んふふ~ん~」

ついっと足の向きを転換。体はまるで磁石のように引き寄せられる。

一方、うずくまっている少年──ピーターは、昨夜眠りに入って今朝がた目が覚めたものの、絶望的な虚無感に囚われ、腕の中で静かに半目を開けて、己の死をただ待っていた。

楽しげに迫りくる人影。その大きくなる足音も気配も、ピーターは気づいているが、微塵(みじん)の興味も沸かず、世界から除外していた。

足音が目の前で止まった。

妙な存在感に胸がもやもやする。宇宙人のような、どことなく現実離れした感じ。

目の前に誰かいる。知っている。が、どうでもよかった。

服が擦(す)れる音がした。奇妙な気配が話しかける。


「どうしたよ? 少年」


常人じゃこんな声はでない、キャッチーなまでに独特な、陽気な狂気じみた華のある青年の声。

情けをかけて話しかけているのは知っている。ただ、死を待ち望む自分にとっては、邪魔な存在でしかない。

「……見れば分かるだろ、絶望してるんだ」

「どうしてよ?」

「……そんなの、僕の運命に訊けよ」

笑い交じりに青年が感心する。

「ワオ」

予想外な切り返し……俺様の運命が叫んでるぜ──コイツは、ただモンじゃねえ。

「ただ……死を待っているだけだ」

「ハァッ!」

 青年は、独特の引き笑いをして、漫画のようにひっくり返った。

「リャハハハハハハハハハ! そりゃ笑止千万(しょうしせんばん)なこった! 死神と冥土のデートかい? そりゃアいい! 俺様もお手手繋いでお供したいほどだねぇ!」

爆笑した。何こいつ、ヘン。うるさい。その笑い声は狂人という言葉にうってつけだ。本当に面白そうにしているのがさらにムカつく。心で舌打ちする。

ぬっとラフに起き上がる。

「チョッチシッケーしちゃったねぇ。笑いのツボが地獄にもあるとはまさにこのコト。しかしこれが大半笑ってりゃアなんとでもなっちゃうもんでフシギ。アンタは絶望してるだけスゴいぜ? 俺様真面目に不真面目、職業病で泣けなくなっちまったしな。たとえ死んでも笑うさ。リャハハハ愉快痛快だねぇ! どうだ? 俺様もかなり、絶望的だろう?」

自分も病人だと言いたいのだろうか。しかし、ジャーキーかと思えば根本はイカれてるが近所の兄ちゃんみたいになる……訳わかんない奴。どうでもいいけど。

この頭お祭りと神輿(みこし)を担(かつ)ぐ余裕はないのだ。本当にお願いだから静かにしてほしい。孤独に闇に浸っていたい。ずっと。

「なぁ。なぁって」

「…………」

「なぁ」

どうせまた変なことしか言わないんだ。しかし、青年は茶化さずに言うのだった。


「下を向いていても、虹は見えないぜ」


…………。

……。

はぁ。ため息をついた。

「シャラップ」

「今好きっつった? これは偉大な道化師の言葉さ。それに、ないかどうかはアンタの両目で見て見なきゃ分からないぜ? 少年」

青年は飄々と天を振り仰(あお)ぐ。美しい青、のんびり屋な雲と太陽。その瞳を、少年のようにきらきらと輝かせて、夢のように語る。

「俺、空が好きなんだあ~。うまく言えねっけどさ、この世界のオっカさんみたいでさぁ。生きてりゃ泣きたいとか死にたいとか涙の数あっけど、上を見上げりゃあ大概青い空がある。ばかでけえ空が。そうすると、自分の悩みなんてすげぇちっぽけだなぁって思ったりすんだ。別に普通じゃなくても、人と違ってもいいんだって。アイツはいつも笑ってる。だから俺もつられて笑うんだ。ハハ、やっぱオッカさんには叶わねぇ。俺、何気に純粋だよな」

けらけらと笑って青年は少年に視線を戻す。一向に顔を上げないまま、一言も喋る気配もない。

沈黙を紛らわすようにふゅ~っと口笛を吹いた。それから帽子を取り頭を掻(か)いて、舌打ちし、ぶっきらぼうに言う。

「だぁぁぁから、さ! 顔! 顔上げな! 顔!」

うるさい、だまってくれ。自分の世界にズカズカ入り込んで……その強引で不器用な優しさがムカつく。

「少年! 好きな子はいるか?」

ぶち、と血管が切れた。

ピーターは殴りかかるように顔を上げ、剣幕(けんまく)で怒鳴る。

「もう黙れよ! 僕に構うなって……言っ、て──」

言葉は切れ、かっと見開いた。

「な、な、な…………っ」

がくがくと唇が震える。

裂けるような、血のように赤い口のペイント。

右目を縦に大きく貫く、黒い傷のメイク。

「お前……!」

道化の青年は雷に打たれたように、ピーターにぐいと迫り、驚愕顔を観察して言った。

「めちゃくちゃかわいいな……」

その顔もその行動も、もはやホラーでしかなかった。

「ぎゃああああああああああああああああああああああ!」

絶叫を遅れて出した少年の抜群のリアクションに、青年は足を仰向けにしてドタバタと大爆笑を重ねる。

悲鳴と爆笑のアンサンブルは長引いて、ほぼ同タイミングで終わった。ピーターは限りなく目を見開き、また叫んだ。

「ぎゃあああああああああああああああああ!」

「驚きすぎだろ!」

もちろん顔もおかしいけど、その風貌も四度見は回避できぬほどド派手極まりなかった。

つんつんした、燃え上がるようなレッドの髪。

まるでファンタジーの別世界からやってきたような、赤と黒を基調に奇抜の限りを尽くしたカジュアルなかっこいい道化服は高級感のある艶を放っている。つま先は鋭く曲がっているし、左右に折れ曲がる帽子はジェスターハットというが、ピーターは見たこともなかった。

世間を憚(はばか)らず、己の世界を滑稽と自負しながらも自信に満ちて表現する飄々とした佇まいは、カリスマ性のようなものさえ感じる。

見るからに花形(はながた)スターのようだ。

宇宙人を初めて見たような衝撃のせいで、絶望云々も空の彼方(かなた)へ吹き飛んでしまった。

立ち上がる奇抜な青年から目が離せず、ぶったまげて問う。

「き、君は一体何者なんだ⁉」

そのよき反応に、得意げに青年は引き笑いをして言った。

「ハァッ! 俺様はジョーカー! サーカスの王! 王子様じゃねぇよ? お道化様と呼びな!」

目ん玉が飛び出る。

 ──コイツやべええええええええええええ! でも、超カッケええ!

決めポーズなのか、ラフで自信に満ちたポーズを取ってジョーカーはそう言った。

「ジョーカー? サーカス?」

名前も変だが、サーカスなんて聞いたことがない。

妄想の世界をただひとりでに披露しているだけなのだろうか。それか実際に「サーカス」が社会裏に存在しているというのか。

ふと──誰かが言っていた、反社会的勢力、という単語が浮かんできた。

もしかしたら、もしかすると、この人はその一味なのかもしれない。

──世界に娯楽を訴えている、自分と同じ志を持つ者。

ピーターの闇に包まれた瞳が、そっと確かな光を灯し始めた。

「サーカスって? サーカスってなに?」

ピーターの問いに、粗雑(そざつ)に立つジョーカーはニッヒィと独特に笑った。

「珍奇なスリルと楽しさが爆破する、アホ―ニューワールドさ!」

心臓がドクンと高鳴る。まるで運命の相手でも見つけたかのように。

──サーカス……サーカス……サーカス……サーカス……!

その言葉を繰り返す度に、魔法のように気分が高く舞い上がるのは何故だろう。

世界が輝き出すのは、一体どうしてだろう!

「アンタ。名前は?」

名前、と訊かれて、ピーターは答えようと口を開けたものの、唾と一緒に喉に押し戻した。

ピーター──その名前は、あの男が付けたもの。あの男の狂った愛が込められた名前。そう思うだけで胃液が込み上げる。

気まずそうに目を泳がせた。

「名前は……ないんだ。あんなクソジジイが付けた名前……」 

かわいそうな孤児として同情されると思ったが、存外ジョーカーはあっけらかんと引き笑いをする。

「ハァッ! そうなのそうなの名前がないならしゃーないじゃないの。じゃあアンタは俺が名前をつけてやる。今日からアンタはシロだ!」

「犬かよ!」

ジョーカーはからからと愉快に笑い、ウインクを送る。

「おっとそろそろ時間がねえ! サーカスに遅れちまう」

大仰(おおぎょう)な仕草で付けてもないのに腕時計を見る素振りをして、ジョーカーは少年から離れてゆく。あ──。その去っていく背中を見てちくりと切なくなった。

「──一緒に来るか?」

「え?」

顔を上げる。ジョーカーは視線だけ振り返っていた。うす暗い路地、逆光が彼を包んでいる。

サーカス。得体の知れない場所。楽しい世界と言っていた。それは自分がかつて創ろうと思っていたものと同じだ。

──行きたい。

気になる。好奇心が弾けんばかりに疼いている。サーカス、見てみたい! だが……

──死にたい。

さっきの陰鬱(いんうつ)とした鉛(なまり)が急にどっしりと胸に襲い掛かる。そうだ、自分は両親も失って絶望していたところだった。静かに死を待つんじゃなかったのか? 生きる希望を持ってまでそんなアングラな場所に行きたいのか? それにこの青年は今しがた会ったばかりの男。知らない男も同然ではないか。そんな男についていって痛い目に遇わされたらどうする? 自分が信じた男に裏切られたばかりだというのに。

少年は逡巡(しゅんじゅん)する。

一方、ジョーカーは宝石を見るように瞳をぎらつかせていた。

──躊躇(ちゅうちょ)か。まぁ、是が非でも、連れていくけどな。

ニタリと笑みを深くする。

──少年! このジョーカー様に誘拐されろ!

清々(すがすが)しいまでの悪計(あっけい)。

そこでタイミングよくまるで神の啓示(けいじ)のようにひらめいた。

少年がずっと大事そうに片手に握りしめている、掌よりも大きい人形に目をやった。

「シロ! これお前が作ったのかよ⁉ ははすげぇなぁ! チョッチ触らせろ!」

さっきから普通に純粋に気になっていたので本心も含めて人形をばっと取り上げる。ハッとしたように少年は顔を擡(もた)げ、急いで立ち上がる。うんいいぞシロ。

「返して! 僕のロアを返してよ!」

と女子中学生くらいの身長をジャンピング。反応は抜群である。

ジョーカーは意地悪に高身長を使って、片手でロアを空中に高く左右に振って取らせまい。

「へぇ~これロアっつーの。なんか俺様と似てね? ハハッ、運命様感じるね~」

「返せ! 返せっての!」

「ん~俺と同じ匂いがするぜ。お、もしかしてっ! 生き別れの兄弟ってやつ⁉ リャッハハハ! 久し振りだなぁ! 兄弟!」

「気持ち悪いこと! 言うなあ! ロアは僕のともだちだ! 宝者なんだ!」

へっ、と嘲笑。驚く速さ、ジョーカーは一メートルほど一瞬で飛びずさり、少年を見据える。

ニッヒィ──意地の悪い笑顔。

「こいつがほしけりゃア──」 

ああ……嫌な予感。

「俺を捕まえてみな! シロおおおおおおおおお!」

彼はロアをギッた上に持ち主から全力疾走。心底おもしろおかしそうに高笑いしながら逃亡した。

ピーターはもちらん激昂(げっこう)。路地を出、明るい日差しを全身に浴びて、盗人(ぬすっと)を追いかける。

「僕は犬じゃなあああああああい! ロアを返せドロボー!」


  2


「何走ってんだ!」

「きゃあッ!」

街の往来を虎のごとく駆け抜ける者が二人。通りすがる者全員が暴風の巻き添えを食らい、悲鳴と怒声を巻き上げる。

「くそっ! 速い……!」

ピーターは小学校でもダントツの俊足の持ち主で、足の速さも右に出る者はいなかったが、あの変人の逃げ足は異常に速い。全く差が縮まらない。こんなことがあるなんて! スピードはほぼ一緒だ。背中まであと五メートルは優にある。

「うそだろ⁉ クソはええじゃねぇか!」

犯人も驚いている。後ろの小虎を見るなり目玉を飛び出す割には余裕だ。

「返せえ!」

「俺様の足に付いていける奴はダイヤよりも珍しい! リャハハハハ! こりゃいい! 楽しませろよ? 少年!」

ジョーカーはムカつくくらい楽しんでいる。

往来から路地につっと方向転換され、迷路のように入り組んだ道を紆余曲折(うよきょくせつ)と曲がっていき、死角に紛れないように必死に背中を追い続ける。

「ちょこまかと!」

立ちふさがる壁が現れる。追い詰めた! だが、ジョーカーはスピードを緩めず顔を背ける。

「やるじゃねぇか! じゃあ──これはどうかなっ! フォウ!」

行き止まりの壁を蹴って、──タン! ジョーカーは体を大きく後方にしならせ跳躍(ちょうやく)した。

「え⁉」

ピーターを宙で見下ろすようにバク宙。二人の目がスローのように一瞬絡む。路地の壁を長い足で一閃(いっせん)のごとく蹴り、その反動で対面の壁を蹴り、ブレイクダンスでも踊るように気狂いに笑いながら壁キックで上昇する。ぽかんと面食らう。

「──っ! やるしかないッ!」

彼の動きを真似するように、壁を思いきり蹴ってピーターもバク宙。運動神経には自信がある。ジョーカーと引けをとらない切れのあるアクションで壁と舞い踊る。

ジョーカーは眼下に目をよこすと、飛(ひ)竜(りゅう)のごとく少年がすさまじい眼光で迫って来ていた。

「………ッ!」

体格さもある。鍛え上げた身体能力とこいつは対等に張り合っている? あんな小柄で?

──やっぱタダもんじゃねえ。

「ハッ……おもしれぇッ!」

目がギラリと光る。ジョーカーの中に火がついた。

壁を登り切って建物の屋上に到達するや否や、矢のように突き進む。数瞬、ピーターも達すると間(かん)髪(ぱつ)容(い)れず風を切る。二人は軽々と建物と建物を大ジャンプで乗り移り、柵も何もない高層の屋上で、超人的な鬼ごっこを繰り広げる。

フィールドは変わり、人がごった返す中心街へ。ジョーカーを屋上の縁まで追い込める。彼は際に踏み込むと、眼下を見るなりつっと身をひるがえした。ピーターが怒涛のごとく迫る中、大の字になって叫ぶ。

「さあ! 俺と一緒に大恥かこうぜ~!」

謎のセリフを残し、そのまま後ろ向きで飛び下りた。「ヒャッホーーーーーー!」と、地上の人海へ落ちてゆく。

「ジョーカー!」

滑り込むように地面に膝をつき、死ぬのではないかと急いで下を覗き込む。ジョーカーは俊敏(しゅんびん)に店舗(てんぽ)用のテントに受け身を取って、地上にケガもなく華麗に降り立った。ほっとしてピーターも彼に続いた。

突如空から舞い降りた道化男に、周辺の人々は仰天(ぎょうてん)してどよめいた。隙間(すきま)も許さないひどい人ごみである。彼の周りにだけ円ができる。まるで舞台のように。

スポットライトが当たったかのように、華の青年は、周囲の視線を独占する。

円形舞台に立ち上がり、道化師は踊るようにゆるやかに腕を伸ばすと、少年を流し見る。

挑発的に、まるで試すように。


〝さあ、やってみろ。少年。〟


「さッさ、この走るも歩くも困った困った人だかりイ。ジョーカー様が横断してみせよう!」


不審の目が集る中、電源が入ったかのように、ジョーカーは踊り出した。

目が離せないほど切れのある動き、とち狂うダンス。大人たちが悲鳴の合唱、異端者の楽しさ全開で陽気なオーラが、若者たちの心に瞬く間に伝染して、彼らは一気に爆笑し、絶賛喝采とヤジが嵐のように飛び交う。

進むと雑踏(ざっとう)がレッドカーペットをつくるように、道を開けていく。

その圧倒的な輝きと、圧倒的な変質者ぶりに、後退せざるを得ないのだ。

「はあああああああああ⁉」

何事かと群衆が群衆を呼び、さらにジョーカーの世界に人々は引きずり込まれる。

地上に降り立ったものの、人ごみに吞まれたピーターは身動きができないでいた。

「こんな人ごみで自ら笑い者になって道を作るだって⁉ くそ、こんなんじゃあいつに追いつけない!」

相当な自信と鋼(はがね)の精神力がなければできない芸当ともいえる。

あいつが踊る前一回目が合って、あいつの挑戦的な態度もえらく癪(しゃく)だった。 

このままじゃロアは取り返せない……ああ、もういい。くそ! もうやってやる! 待ってろジョーカー!

眦(まなじり)を決して面を上げた。

腹の底から声を振り出し、天にも木霊(こだま)するような、喧騒を引き裂くシャウトを上げる。

周囲の群衆が目を剥いて、一斉に少年に振り向いた。

ピーターは、ニヤリと凶悪な笑顔を浮かべた。ディスコも釘付けになるような、キレキレなふざけまくったダンスを踊り始める。

大人たちのけたたましい悲鳴! 若者たちの大爆笑! かっこいい! かわいい! という女性陣の黄色い声──ジョーカーの世界に劣らずバカ騒ぎが巻き起こる。

ドリルでざくざく穴をあけるように人波を掘り進み、ピーターは波に乗るようにジョーカーへ快進撃を続ける。道幅は大体同じだがその速さはジョーカーよりも凌ぐ。新興勢力のお出ましにジョーカーの観客は少年の方にも引き寄せられ、どっちを見ようかと左右に激しく首を振る。

やがて二つの穴は繋ぎ合わさって、パレードでも見るかのように馬鹿でかい一つの道ができる。たった二人を見るためだけの。

街の異変にジョーカーは何気なく後ろを振り返る。自分と同様人々を魅了し、軽蔑され、笑い者、破廉恥(はれんち)になって一本道の先、おどけて踊る少年がいた。

「──ブッ!」

ジョーカーは一瞬息を吞んでから、盛大に吹き出し爆笑した。

「リャハハハハハハハハハハハハハ! アイツ! アイツマジかよぉ⁉ ここまでのド変態とは思わなかったぜ! マジで⁉ 腹いてえ!」

建物の窓からも人がこぞって見物し、地上では軽蔑(けいべつ)罵倒(ばとう)に絶賛喝采の大嵐。

「少年! 駆けっこ再スタートだ!」

そう言った途端に道化をやめて疾風(しっぷう)のように駆け抜ける。

「待てえええええええ! ジョーカー!」

ピーターもすぐさま切り換えて背中を追いかける。

大きな一本道で駆けっこを始める二人に、ギャラリーは一段と盛り上がる。

いいぞー! やれやれー! とマラソンのように声援が飛び交い、ふざけるなー! と野太いヤジの束、子どもたちの悲鳴にも似た笑い声が踊り、パトカーのサイレンが鳴り響く。

パレードの街を抜け、天を衝(つ)くような鬱蒼(うっそう)とした森に出る。ジョーカーは木々の枝を相手に舞踏(ぶとう)するように操って逃げ続け、ピーターも同じように追い続ける。もう長時間経っているが体力が尽きることはない。

「へっ、惚れ惚れしちまうくらいの執念だねぇ。俺も誰かにこんなに愛されたいぜ! 普段なにしてたんだ? 滝に打って修行でもしてたか?」

「修行してたら絶望なんかしちゃいないさ! 別に──慣れてただけだ」

黄金の問題児時代。あの日は毎日が輝いていて、悪戯(いたずら)しては誰かに追われていて、街のすべてを獣のように駆け巡っていた。懐かしさと愛おしさで胸が軋(きし)んだ。

一方、ジョーカーは。

──それにしても、この体力、運動神経、メンタル、容姿、オーラといい、マジでとんでもねぇやつだ。

化け物と言われる自分についていけるなんてもっと化け物だ。ポテンシャルを考えただけで怖気(おぞけ)さえ走る。誘い込むためではあるが、同時にテストをしていた。あの少年が本当にふさわしい人物であるかどうかを。自分の直感が本当に正しかったのかを。

結果は──ニィッと笑みを象(かたど)る。胸が狂い躍る。

「面白れぇ面白れぇ面白れえええええええええ! 少年! 俺はお前を気に入ったぜ! 来い! 俺に絶対ついてこい!」

宝石型のグラフに表せば枠を超越している。規格外(きかくがい)に輝く、こいつは黄金のダイヤモンドだ。

「変なヤツだな……」

なんで追われているのに自分を気に入っているんだと、ピーターは心底不思議がる。

森の奥深くまで進み、ジョーカーが地上に降り立つとピーターも地面に飛び移った。

それから見えてくるものがあった。

背の高い木々と重なって見えづらいが、その存在はすぐに気づくことができる。紅白のボーダーラインの、まるで一個の城のように大きな奇抜な建物に。

木々を抜け、広大な開けた場所に出た。

ピーターは眼前にはっと息を漏らす。

森林に覆われて、秘密めいてしかし堂々とそびえ立つ、圧倒的な天幕(てんまく)を。豪華なケーキに乗っかったチェリーみたいにてっぺんにはフラッグがはためいている。

まさに別世界。この世の楽しみのすべての輝きを詰め込んで、代表せんばかりに煌々と輝きを放っている。大規模に森が取り囲んでいる様(さま)はまるで城郭(じょうかく)である。

「すごい……」

見たこともない建物。感じたこともない雰囲気。とびきり輝く夢の世界に胸が躍らずにはいられない。なんて大きいんだろう。自分がありんこになって、人間を見上げているみたいだ。

その瞳をきらきらと光らせて、呆気(あっけ)にとられるピーターを横目に見つめ、嬉しそうにジョーカーが笑う。

「でっけぇだろ? あれがサーカステントだ! そしてここが、奇人(きじん)変人(へんじん)揃いのサーカス団KING(キング) ROZE(ロゼ)だ! 薔薇色のサーカス。まあ、俺の家だ。ヒャホーーーーーーーー!」

シンボルマークが天幕の斜面にド派手に描かれている。アルファベットの看板を飾るアーチをくぐり抜ける。受付小屋の若い女性が気を揉んでそわそわしており、楽しそうに全速力で駆けてくるジョーカーをハッと発見した途端怒鳴る。

「ちょっとジョーカー! もう始まるわよ⁉ みんな探してたんだから!」

「へへわりぃ!」

止まることなく軽くあしらうジョーカーに「もう!」と呆れ返る。

「ジョーカー!」 

彼に続いて横切る少年に「えぇ⁉」と仰天した。

巨大な天幕をぐるりと回り込んで裏口から入る。廊下のような道を駆けてピーターは諦めず追いかける。もうジョーカーの片手にロアはいない。走りがてらピーターに見えないように巧妙に物陰に隠したのだ。

誰もいないうえに暗い、大体の物は通れそうな幅の広い道に入る。その道を抜けようとした途端、ジョーカーが急に停止した。背中に突撃する。

「いだっ! なんだよ! 捕まえたっ! もう逃げられないぞ! さぁ観念して僕のロアを返せ!」

背中からぎゅっと抱きしめてピーターがかわいい拘束(こうそく)をする。ジョーカーの手の中を熱心に探り込むが、目当ての感触が、ない──。あれ? ない、ない、ない!

「なんで⁉」

動揺してジョーカーの上半身を掻(か)き乱し、ジョーカーはくすぐったそうに爆笑して「おい!」とピーターを押し返す。

「ロアは⁉ ロアをどこにやったの⁉」

「あー」

ジョーカーは罰が悪そうに顔を泳がせ頭を掻き、なにやら納得したようにうんと勢いよく頷(うなず)くと、

「隠しちまった!」

親指を立てて爽やかに言った。

滑らかに血の気が引いていく。

「なんだって⁉ どうしてそんなことしたんだよ! 隠すなんてひどいよ! どこにやったんだよ!」

ジョーカーは悲しげにいきり立つピーターを宥(なだ)めるように手のひらを振る。

「まあまあ落ち着け。なくしたわけじゃねえ。終わったらちゃんと返してやっから」

「終わったらって何がさ!」

「舞台だ」

「舞台……?」

「俺はもう行かなきゃならねえ。アンタの大事なモンは必ず俺が返す。それは約束だ。だから少年。ここを一歩も離れるな。今度は逃がさないように目で追いかけろ。俺は舞台(ここ)からは絶対に逃げない。絶対だ。俺たちをその目で捕らえて離すな。わかったか?」

その笑い面(づら)が不釣り合いにも程がある、真面目な凛々しい声音で青年は言った。

真剣な鋭い眼の光が心を貫く。

──なんだよ。 

ロアを盗(と)ったくせに。

僕を誘拐したくせに。

ムカつくんだよ……。

わかっている。わかっていた。自分を絶望の海から手を強引に引っ張ってくれたこと。

それを気づけないほど、そこまで少年はバカではない。

押しつけがましく、掌で優しく踊らされている。それがこそばゆくて悔しくて恨めしい。でも睨むことはできず、ただ不安げな情けない顔を見せた。

青年はふっと笑い、まるで兄のような眼差しを向けた。

「たとえ、目ん玉が飛び出るようなヘンな奴を見かけても、だぜ。ここを離れるなよ、少年」

「……わかったよ」

釘を刺され、ピーターが渋々と言うと、ジョーカーはからりと笑ってくしゃくしゃと髪の毛を掻き乱した。

「じゃあ、また会おうな」

ジョーカーは撫でた手を上げて身を翻す。背中が遠のいていく。闇に紛れていく。青年が消える。

ふん。かっこつけやがって。

「ジョーカーのバーカー……」


その背中は、目が離せないくらい、すごく大きくて──かっこよかった。


  3


圧倒的な規模を誇るサーカス会場の客席は、円形劇場を取り囲んで満員の観衆(かんしゅう)で溢れ返っている。老若(ろうにゃく)男女(なんにょ)問わず、裏社会の禁じられた世界であるにも知ってか知らずか、子どもから赤子まで多様な面々を並べている。四筋の道が円形舞台を中心にクロスし、役者の出てくる口に繋がっている。そのうちの一つは手前に大階段を構えるものもある。

今か今かと待ち焦がれる、期待と好奇にひしめく喧騒の最中(さなか)、

「レディース、エーンド、ジェントルメェ~ン! さァ、ご来場の皆々様ぁ! ついにお待ちかねの時間でぇーす!」

奇抜で華やかな中性的な男の声が響き、パン──と、一条の光が舞台の中央に降りそそぐ。

プラチナブロンドの長いポニーテール、杖を片手に持って紳士帽を冠(かむ)り、ゴージャスな燕尾服(えんびふく)をまとった長身のマスカレード男が現れる。

そのきらめく存在感一つで、喝采の嵐が男に集中する。

リングマスターの男はスタンドマイクを持って、身振り手振りに語りだす。

「ここは国境も上司も部下も関係ないROZEのサーカス! ボクは珍奇な笑いと感動、スリルをエスコートさせて頂く案内役、団長のメリィ・ゴーランドです! 空想と甘いものが好きですよぉ。ららららんらぁあぁあぁあん。歌うこともね? どうか愛してくださいまし」

美しいビブラートを奏でて、メリィは滑稽な一礼をしてみせた。お茶目で甘い語り口だ。茶の間に響くような温厚な笑いを催し、メリィ、メリィさんと男女問わず絶大な喝采を浴びるスター。

腕を高く高く宙に掲(かか)げ──

「イッツ、ショウタァァァイム!」

パァン──。華麗に響くフィンガースナップの余韻(よいん)を残して、メリィは闇とともに消えた。

会場は暗闇に包まれており、舞台上に光が灯り、白紫のスモークが幻想的かつ不気味に這(は)い漂う。魑魅(ちみ)魍魎(もうりょう)が這い出るようなファンタジックな演奏が流れ、妖しい夜の世界を作り上げる。

四筋の道からぞろぞろと演者たちが出てくる。煙に隠れてシルエットしか見えない。

頭が二つある青年の影、二・五メートルの女体(にょたい)の巨人、二足歩行で歩く獅子(しし)、細すぎる紳士、奇々怪々なシルエット。よたよたと歩き、または嬉しそうに跳びはね、踊っている者もいる。

くすくす、げたげた、からから、くつくつ、彼らの笑い声がサーカスを不気味に満たす。観衆は息を吞み、畸形の影に我が目を疑い、奇怪な夜の迫力に圧倒される。

メリィはいない。ナレーションとして声が響き渡る。会場の円天井に真紅(しんく)の三日月がぽっかりと映し出され、大袈裟にニヤリと声を上げて嘲笑う。

「ここは道化の国のサーカス。笑い声永遠に響き渡るワンダーランド。人々は青空に君臨する太陽を笑いの神ロゼと称える、イカレ者。だが悪戯か気まぐれか、ロゼは青い空を見せることを忘れ、永遠の夜をつくった。爆笑するような出来事を見るまで、夜のままずっとサーカスを嘲笑って。だが、住人はそんなこと気にも留(と)めない」

音楽がアップテンポで一際おどけた曲調に移り変わる。

「さぁ! サーカスのずっと夜だけど愉快でスリル満点、クレイジーな一日が今宵(こよい)も始まります。拍手~!」

メリィがそう言うと、どしゃ降りのような拍手と歓声が巻き起こる。絶好のタイミングでステージが点灯。

クラウンたちが四筋の端から円形舞台に至るまで、向かい合うようにずらりと整列している。

大階段の前にいる位の高い従者が、ラッパを吹いてから野太く叫ぶ。

「女王陛下、お道化様のおなぁ~~~~り~!」

すると、大階段の先の大きな口から、厳(おごそ)かなクイーンとお気楽なジョーカーが(夫婦なのだが)距離を取って並んで現れる。その瞬間、喝采が爆発する。

花形スターのお出ましだ。

クイーンより先駆けて、ジョーカーが尊大(そんだい)なラフなポーズを取る。

「俺様はジョーカー!  サーカスの王! 王子様じゃねぇよ? お道化様と呼びな! アンタもノノさんも笑い殺しにしてやるぜ!」

──あ、それ決め台詞だったんだ。

ピーターは今気づき、特に女性の黄色い悲鳴がうるさい。

豊満(ほうまん)な胸と長い手足が大胆に露出している、動きやすいミニドレスを身にまとった金髪ショートの美女──クイーンがジョーカーと並んで、威厳を放って言い放つ。

「妾(わらわ)はクイーン・レアハート。つまらん者は皆笑い殺しの刑じゃ! 敬礼!」

熱狂が爆発し、主に男性の歓声がうるさい。

「今宵は茶会を開くぞ! 従者ども。国から目ぼしい道化を召集(しょうしゅう)するのじゃ! スリルも面白味もないつまらん客は問答無用で処刑する。よいな?」

クラウン一同が滑稽な敬礼を取って散開する。

ジョーカーとクイーンは階段の両端に身を詰めて、最長の距離を取ってから同じスピードで降り始める。賑やかに笑われるほどの夫婦仲。ジョーカーは素とキャラが全く変わらない。

「全く今宵も茶会かよ。懲りないねぇアンタ。まだ夢見てんのかよ? 道化をかき集めてサーカスすりゃあ、また青い空に戻るかもしれないわぁなんて──まぁメルヘンでおかわいらしいこと」

「黙れ。三流道化が妾に物申すでない。口汚い言葉を発するのなら口を縫ってやろう。そうして永遠にマイムでおどけておれ。加齢臭が移るわ」

階段を降りつつジョーカーを心底臭そうに手を振るクイーン。

「俺様はまだティーンですが⁉ 何事もうまくいかなくて目や鼻まで老け込んじまいましたか老女様? 昔はあんなにかわいかったのに、へッ! 今やすっかりブッ細工に早着替えだぜ!」

「なんじゃと⁉ 聞いていれば偉そうに! お前が便利な処刑係ではなかったら早速処刑していたぞ! 妾より美しい女は他にいるまい無礼者! 昔はあんなにかわいげがあったのに! キィ~ッ! 今じゃなんじゃその体たらくは! 近寄るな、ったく」

二人はズンズンと進んで睨み合いながら口喧嘩をする。

「ハァ? あまりの腐った嗅覚にこちらの鼻が大爆笑しちまうね! クライマックスにゃあそのブッ細工なツラに口が大爆笑だ! リャッハハハハハハハハハハハハハハ!」

「黙れ! その仮面引き裂いて一糸まとわぬ姿で踊らせ衆目に晒してやろうか!」

「言っておくが俺様の素顔はアンタと違って一笑(いっしょう)千金(せんきん)だぜ? 顔なんか隠しても俺はモテモテの色男さ。これはモテる男のアドバイスだが──アンタはその胸を顔にした方がいいぜ~」

「キィィィ~ッ! レディに向かって何を言うこのド変態がッ! ああムカつくぅぅ! 貴様の顔など見たくもない! 嫌い嫌い嫌い嫌い嫌いじゃ!」

「ハッ、俺もアンタなんか大ッ嫌ェだね!」

「妾も大大大大ッッ嫌いじゃ!」

ブウウウン! ブゥゥウウウン! そこで唸るような盛大なバイクコールが響いた。

『誰だ⁉』

三人の男の笑い声が奇天烈(きてれつ)に響く。歯から顏まで全身ゴールドの男を先頭にバイクまで金、銀、銅のギラギラした改造バイクの三人組が道を猛烈に走ってやってくる。

「おっとこれは⁉ 前から順に金(キム)・金(コン)金(コン)! シルバーフォックス! 銅(どう)一刻堂(いっこくどう)! タマライダーのお出ましだ!」

「磨かれた俺たちの魂(タマ)!」

「失禁注意のタマタマのスリル……」

「タマの中で、たんまりと味わせてやるぜ」

巨大な鉄網(てつあみ)の球体の中に入り、イカれた奇声笑声を上げて、重力をまるで無視して球体を猛々(たけだけ)しく駆け巡る。事故と紙(かみ)一重(ひとえ)の中ですれすれのところで入り乱れ、ヘヴィメタが刺激を倍増させて驚愕と喝采が吹き荒れる。常人離れした超絶技に、ピーターはすごいと歓声を上げた

「フ、よかろう」とクイーンが茶会の同席を許可し、天叩くからシャウトが木霊する。

「姉貴イ! 遊びに来てやったぜェ?」

じゃり、とじゃらじゃら鎖の付いた、殺せるほど鋭いつま先のとがった靴。

「この声は……」

彼にスポットライトが当たった瞬間、エレキギターの音色が猛る──クイーンの義弟(ぎてい)でジョーカーの悪友、ジョーカーをライバル視しているが実はジョーカー大好き、化粧顔のパンクでワルかっこいい道化男が、見上げる程に高いブランコに威圧的に立っている。

「エース!」

「ハ〝アッ! また会ったなァジョーカー!」

「会いにきたんだろ」

鼻でもほじり出しそうな態度である。

「今日こそテメェを笑い殺す! 目(ココ)ひん剥いてよ~く見てな〝ア! 〝アァアァアァアアオオオオオオォォォウ!」

滑稽なシャウトを上げ、力強くブランコの勢いをつけヒュンと飛び移った。宙を何回転も舞い、受け手のブランコに乗る美女が絶妙なタイミングで両手をキャッチすると、わっと盛り上がる。彼を抱え、一個のブランコの上に二人も乗っているため危うく美女が落ちそうになったが、即座にエースが抱き寄せ、乱暴にキスをするなり黄色い悲鳴が爆発。

『エース!』

地上で、ミニドレスの美女たちが現る。

「エースの七人の恋人たちでーす」

どっと爆笑。浮気がバレて、美女八人が逃げるエースを追って下のトランポリンで舞い舞い、なんとも超人的な鬼ごっこが繰り広げられる。ジョーカーもトランポリンに参戦して抜群の身のこなしで美女たちをモノにしエースは憤慨(ふんがい)、結果全員に追われて爆笑が弾ける。

「くうぅうエース! 女遊びは程々にしろといつもいつも言っておるじゃろ! ジョーカー貴様は何をしている! 一応貴様は妾の……、ああ癪じゃ癪じゃ! この浮気者! 痴(し)れ者め!」

「はいリア充おつ~」

入り口からおじさんの声が響き、今度はまじもんの悲鳴(特に女性)が会場を呑み込む。黄金色のお盆で黄金を隠した全裸のおじさんが現れる。

「元キングのご登場で~す! 元道化の王でもあり、ナンバーワンの実力を誇っていたすごい人ですが、今は定年退職し、ジャパニーズのある芸人に感銘(かんめい)を受け、露出狂の〝ヘンタイ〟大臣に就任しています。通称、『はだかの王様』~クイーンのおじいさんで~す!」

クイーンの祖父と聞くと客席が笑い転げ、老人だがバキバキに鍛え上げられており、

「裸の悲鳴は蜜の味」

威厳に満ちたいい声で座右の銘を放つ。爆笑と悲鳴の大合唱を涼しい顔で浴び、その場で腕を組んでまさに王がごとく貫録を放つ。クイーンは娘らしく背いて何をしておる全くと赤面し、ジョーカーとエースはのたうち回っている。

「ありのまま体操~」

周囲に同じく裸のお兄さんたちが快活に並び、ラジオ体操的なノリで音楽が流れる。リズムよく体を上下し、緩やかなテンポの体操をしながら打って変わってスパンと皿をひるがえす。息の合ったパフォーマンスで仲間の黄金を隠し合い、皿を投げ合い仲間が見事キャッチする。一歩間違えれば人生が終わる、一寸も目を離せない展開に観衆をハラハラさせ、かつてない地球が割れるような大爆笑が起こる。

そして曲のフィニッシュは、

「ふう……」

このおじさんのエクスタシー音声(二重)で終わる。

子どもみたいにガミガミ女王に叱られるものの茶会を許され、その後も続々と破天荒でクレイジーな演者たちが登場する。

イケメン双生児によるジャグリング。全身二・五メートルに渡る長身のアジア人女性が、さらに三メートルもののっぽの厚底を履いて綱を渡り、無言の悲鳴を轟(とどろ)かす。

オカマクラウン+画家マチゲリータの絵画を活かしたパントマイムは盛況(せいきょう)で、合間にクラウンが客席に乱入して客をいじる。女体を自由自在に柔軟に折り曲げ、生き物のように魅せるコントーションは息を吞むような静寂に包み、カップルの織姫(おりひめ)と彦星(ひこぼし)が天に吊るされたリボンにぶら下がり、ロマンチックなラブストーリーを空中で舞い踊る。

静寂、暗転。静かな交響曲が流れつつ、星々が幻想的に灯る。

──巨大な月が急に振り返り、音もなく嘲笑う。

ぱっと点灯、音楽が絢爛豪華に返り咲き、着飾った従者のペアが舞台中を整然と埋めて、一糸(いっし)乱れず滑稽に舞踏する。クイーンが大階段から一人愁い顔で現れた瞬間、ダンスが写真と化したように動きを止め、音楽も同時に止む。

彼女の威厳と、王冠のような美しさが響く静寂のなかで、物憂(ものう)さに歩みを進め、スローのように舞い踊る周囲。愁いの中でなにか湧き上がるような旋律。舞台の中心に俯いて立つや、滑らかな白い腕を空に伸ばして仰ぎ──

狂気的に美貌が笑う。曲が華麗に爆破して、彼女は暴挙なまでにギラギラと踊り狂う。いかなる角度から見ても美しいダイヤとして客席を圧巻と魅了し、活き活きとマリオネットのように周囲のペアが踊る。

しかし、突然壁を豪快に破壊したような轟音が華やぎを破り、盛大にとんだ素っ頓狂な曲調に変わる。例の茶会の集団、チャリやバイクに乗ってジョーカーを先頭に一味が爆笑して乱入してきた。踊りもやめて女王が大迫力でキレる。

「ジョーカアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」

「ハァッ! 舞踏会なんてヤだねぇ、踊る相手もいねぇからって腹踊りとか冗談キツいぜ!」

「誰が腹踊りじゃ!」

「かわいそうだと思ってポッチのアンタを助けに来たってのに。マッいい! 野郎どもオ! ココはこのジョーカー様が占領してやったりイイイ!」

彼はエレキギターをかき鳴らし、他のメンバーもノリノリでなんとロックライブに変えてしまう。エッジの利いたジョーカーとエースたちのボーカルとヘヴィメタで、沸騰(ふっとう)するような熱狂に包まれ、失神者まで出た。

まあ彼は、彼女が他の見ず知らない男と踊るのが嫌で居ても立っても居られず来たのだが、そんなこと、口が既に裂けていても言えまい。


舞台はきらびやかな極彩色に輝き、熱狂の渦に吞まれながら、活き活きと躍動する道化たち。

 反逆者であり、命を賭けて、この世に最大の娯楽を教える革命家のようにも見えた。

片時も逸らすことを許さず、少年を魅了する。

 ──カッコいい……。

いよいよ終盤になり、茶会を再開し、本来ならここで一同が一斉におどけて空も晴れて大団円(だいだんえん)なのだが、陰謀を既に秘密(ひみつ)裏(り)に広めていたジョーカーは、裏方に視線を送って合図する。

「そういや、俺様の悪友がまだ来てねぇな」

アドリブ。何も知らないクイーンは何を考えていると口パクで彼に言うが、素知(そし)らぬ風でシナリオを破る。

「悪友じゃと? 既に定員集まっているはずじゃ」

「特待生だ。とっておきがまだ残ってんだよ。切り札の、サプライズ登場さ!」

直後に、何者かに強い力で背中を押された。何するんだよと振り返る。

ジョーカーが指を鳴らし、スポットライトが、闇を切って照射する。


──パン。


会場が、急に明るくなった。いや、自分の周囲に丸い境界線ができている。

ずっと暗いところにいたせいか、目がめちゃくちゃ痛い。


──……は?


スポットライトが、少年、ただ一人に当たっている。


──は?

おびただしい千の客と、演者たち。その全視線が今、少年に向けられている。

──いや、は?

 初めて見る少年に、観客は言葉もなく瞠目して、目を奪われる。

──なんだよ……。

たちまち空気を支配し、幻のような輝きが、世界を独り占めしてしまう。

──なんだよコレ。


メリィが、マイクを強く掴んで、声を震わせる。

「あれはっ……」

ごくんと、生唾(なまつば)を飲み込んだ。


「絶世の、美少年です」


直後、うおおおおおおおおお! と歓声が爆発した。超絶技でも披露したように、まさに割れんばかりの凄まじい拍手喝采が巻き起こる。


──いや何もしてないんだけどおおおおおおおお⁉ 


「なんという喝采! なんというDNA! いるだけで芸です!」

演者たちはポカーンと面食らい、誰だアイツ……、かわいい……、天使、そんな言葉を零(こぼ)し、または腕を曲げ、目を奪われる。

「美少年が、サーカスに迷い込んでしまったああああああああああ!」

気狂い級の熱狂が会場を包み込む。

アイツ……、とピーターは奴を恨み、犯人は一観客になって爆笑している。

「お名前は何でしょう?」

喋って(音符)とばかりに、マイクをニッコリと女性が渡してくる。持つ。

「名前……」

浄化される天使の美声が響き渡り、女性たちの悲鳴が上がった。

「名前……」

好奇のビームで輝く目目、焦りがアップテンポになる。

「ピ……いや違う、ピ──」

ドドーンと迫力満点な巨乳に目がいき、赤くなって逸らす。

「エロ……」

──ピエロ……?

ハッと、頭の中に流れ星が落ちた。

その欠片を繋げると、それしか考えられない、心躍る発明品が、頭の中で光り輝く。

サーカス全土に向かって、その名を全力で叫んだ。


「僕は、ピエロ・ペドロニーノだあああああああああああああああ!」


シーン……、と、会場は限りない静寂に包まれる。

目をぱちくりする一同。

「ピエロ……」

「ペドロニーノ……?」

その明らかに本名ではない、明らかに即興の、世界でただひとつの、その奇天烈なフルネームに──

「ブッ……!」

サーカスが笑いに転がった!

がっはっはっはっはっはっはっは!

ナレーション席のメリィが足を真上にする。

「ピエロ・ペドロニーノ! ワーオ! ワ~オ~……信じられない素晴らしい名前ですね~。こんな変な名前はボクでも聞いたことがありません」

ジョーカーは港(みなと)に打ち上げられた魚みたく跳ね回っている。

大変ウケがよろしかったので、ピエロは若干嬉しそうに微笑んでいる。

クラウンたちがやってきて、数多の腕が彼に向かって伸びてくる。


さっ、おいで!


手と腕を引っ張られ、音楽が絢爛に返り咲き、立ち並ぶクラウンが執事的にお辞儀する。歓迎に満ちた大喝采を浴びて、華と歓楽の舞台に連れていかれる。

円形舞台の中心にやられ、茶会の連中が喜んでぐるぐるとピエロをいじるように囲う。皆で手を叩いてビートを刻み、足を鳴らしてリズムを叩き、会場全体が一体化し、サーカスがゾクゾクするほどの途轍(とてつ)もないエネルギーで律動する。

少年は戸惑い、ころころと視界に入れ替わる、クスクスゲラゲラ笑う輪の、万華鏡(まんげきょう)のように個性豊かな道化たちの生身の迫力に圧倒され、ちょこちょことちょっかいを受ける。巨人のビートはどんどん強く速く拍車をかける。

ジョーカーと目が合い、言葉で介(かい)さずとも、そいつは見たことのある雰囲気で語っていた。


〝さあ、やってみろ。ピエロ〟


そのエラく癪な態度に火がつく。ピエロは笑った。挑発は、挑発で返す。それが礼儀だ。


〝ああ、やってやるさ!〟


ビートの中心で、足をスローに傾け、ゆっくりと顔と腕を天に伸ばす。

ただならぬオーラ。悟ったように道化たちは客と化して、彼のために空間を明け渡す。

かたたたんたん!──小気味よい音、ピエロは、凄まじいキレで地面を靴で打奏(だそう)し、目にも止まらぬ速さで華麗に足を踊らす。それは超絶技巧という形容にふさわしいタップダンスだった。驚愕的な歓声が広がる。

そんなの俺でもできると言うように、ジョーカーがピエロの前に踊り出て彼のステップを完璧に真似てみせる。怒涛の精緻(せいち)なステップを刻み、ターンをやるとそれをピエロが茶化して踊る。ジョーカーも新しい足取りでおどけ、今度は超人同士共に踊り、靴音だけで滑稽に演奏する。見ていた他の者たちも演奏に加わり、ピエロが踊るとそれを全員が真似をして、ついには息を合わせて圧倒的なセッションをする。

最高潮に達すると、主導のピエロがわざと宙返りして大げさにコけ、他の全員までもが一斉にアクロバティックにズッコけた。会場は爆笑の渦である。

ピエロは上手な口笛を吹き、ゆったりとマイムで踊って、ハワイアンな音楽になる。勝手に青年の帽子を取って紳士的に一礼し、マチゲリータの前にやって来てニッコリと会釈すると、親切心につるつるの頭に帽子を被せ笑いを呼ぶ。

今度は隣の女性に会釈し、無礼に花束の一輪を勝手に取ると、美女の方へおどけて向かう。あらと笑みを深めて自信ありげに髪を掻き上げるが、素通りして隣の美丈夫に同性 (も) 愛者が照れた様子で差し上げると、悲鳴と大笑いに包まれ美女は大仰に腕を曲げる。

小さな女の子を前にして屈むと、女の子はにっこりと笑い、ピエロもニッコリと笑い、大真面目な顔ですぐに担いで逃走した。

「少年、少女誘拐で~す」

ハイテンポで素っ頓狂な曲に変わり、このヤローとお父さんが彼を追い、きゃっきゃと笑う女の子を違う男に託(たく)す。マチゲリータの絵具を勝手に取って、まあ待って待ってとものの二秒で絵を描き、不っ細工な顔を描いた──『←YOU』。お父さんは怒髪天! かの街のように悪戯をしまくって大勢に追われるハメになり、男たちが束で襲いかかってくるが踊るように躱(かわ)して、背中の列を舞台にして舞い踊る。茶会は一人の少年によってハチャメチャにぶち壊され、大笑いの観客はもっとやれと下品にも称賛喝采をする。

サッカーボールのように一輪車を手にし、綱渡りのスタンドに上る。「待って!」「ダメ!」と悲鳴のような声が上がるが、「待て、やらせろ」とジョーカーがギラギラした目で制する。「だって彼は素人よ⁉ つい先ほどまで観客だった!」

ピエロはあれよと上り切って、高所から見下ろす人間の小ささに息を吞み、ゾクゾクと高揚(こうよう)する。

死を前に喜色(きしょく)満面(まんめん)に笑う少年をゾッと見上げ、会場は恐怖に包まれ、絹を裂くような悲鳴が上がる。嘘だろ……? できる訳がない。今すぐ辞めさせろ! と客席から怒鳴り声まで上がる。

靴を脱ぎ捨て、素足になり、一輪車を天に掲げ、足よりも細い綱に足をかける。悲鳴も忘れ、恐ろしい沈黙に包まれる。母親は悲鳴を上げる幼い娘の口ではなく目を隠す。全神経を集中させ、ピエロは針の穴に糸を通すような調和を辿って、一歩、一歩と足を進める。演者が腰を抜かし、逆に笑いが零れ、誰かが涙を流す。

全身に汗が伝う感触も忘れる。何もかも忘れるほどの享楽(きょうらく)。超人的な領域に達し、何も考えない。透明な感覚だけで中央に達すると、掲げていた一輪車を、震える手で綱の上に車輪を置く。

綱につられて震える一輪車を股にかけ、ピエロは乗るどころか、逆立ちをするべく、イスに手を敷いて、ゆっくりと体を宙に持ち上げる。綱も一輪車もひどく震える中、均衡(きんこう)を選(よ)りだし、血の気を脳天に溜めて、ゆっくりと足を中天に向ける。

少年の片手逆立ちが、美しく空に鎮座(ちんざ)する──。

甦(よみがえ)るオーケストラ! 観客一同は弾かれるように立ち上がり、感動して涙さえ浮かべる者もいて大喝采をありったけありったけ送る!

「すげえ!」

ジョーカーが輝いて身を乗り出す。そして──ハープが奏でられ、

「アッハッハッハッハッハッハ!」

ロゼが大きな口を開けて大笑い! 太陽に姿を変え、ライトブルーが夜を追い払って青空を天いっぱいに広げた。

「ロゼ!」

クイーンが歓喜し、そして最高の熱狂が爆破する。

ピエロが一輪車ごとぐるぐる回って高速ヘッドスピンをし、盛大な音楽と紙吹雪を浴びて、踊り狂っている。華麗にウインクを決めると女の子たちが砕けた。下の演者たちも終盤でするはずだったダンスを歓楽と躍動に満ちみちて踊る。

ピエロは「ふう~」と目いっぱいスリルを味わったので、満ち足りた笑顔で綱の上に立ち、──飛び降りた。

『ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!』

全員が目を飛び出させ、悲鳴の絶叫がハモった。ジョーカーが瞬時に反応して笑顔で落ちてくるピエロをしっかりと抱き留め、「アンタ、マジ面白すぎだぜ!」と大爆笑した。

クライマックスの音楽が再開し、本当によかったと熱いハグをたくさんもらい、サーカスの一員となって愉快な仲間たちと踊る。立ち上がっている観客たちにとびきりの笑顔を向けて、力強いフィニッシュで決めポーズを取った。

どしゃ降りのような拍手喝采に包まれる。「ピエロ~!」とあちこちに名前を呼ばれ、元気いっぱいに手を振り返す。

仲間が押し寄せ猛烈なスキンシップをしてくる。ジョーカーにくしゃくしゃに髪を撫でられる。

「な? 最高だろう? 俺たちのサーカスは!」

ピエロは彼を見上げ、顔をくしゃくしゃにして笑った。

「ああ!」

史上最高の興奮と刺激を味わい、胸がやりきったと強く熱く満ち足りている。

絶望を空の彼方に吹っ飛ばし、ピエロはサーカスが大好きになる。ジョーカーも、そしてその仲間たちも。


  4


公演後、舞台に乱入(正確には誘拐された)したつもりが観客たちからにはすっかり一団員に思われており、共にした一座となぜか一際嵐のような握手を求められた。ジョーカーと先に忍び抜け、隠蔽(いんぺい)されたロアを見つけてトレーラーハウスに乗った。見た目は地味だったが、内装は改造されていて華やかなリビングのようだった。

安心した笑顔で手の中のロアを見、むっとした顔をジョーカーに見せる。

「もう盗るなよ」

「わーってるって」

シートで粗雑に寛いでいるジョーカーは悪びれもない様子だ。そこでドンと扉が豪快に響いた。

「我が家に到着だぜエエエエ!」 

ヘビメタな声。エースのド派手なお出ましの後に、賑やかで珍奇な老若男女の列がぞろぞろと続く。そのまさにパレードのような光景に、ピエロは驚きと好奇を宿して見上げる。エースがジョーカーを見つけるなりぱっと笑顔になる。

「ア~ニキ~! あ⁉ あんときのチビ!」

(マチゲリータ含む)女性陣がキャー!と悲鳴を上げ、「かわいい!」とハモり、男性陣を押しのけてピエロに称賛と物理的に胸いっぱいのハグを送る。

「キャー! もうなんてかわいいの⁉」

「やるじゃないかアンタ!」

「はあ⁉ 俺は⁉ 俺も頑張ったよね⁉」

ジョーカーが立ち上がって抗議し、男性陣もお前たちだけズルい、お前もズルいとピエロに言う。そこでまたドアが豪快に開かれ、クイーンを演じた金髪の少女が憤然(ふんぜん)と現れる。

「ちょっとジャック!」

「ジャック?」

「あんたまた勝手にルールを守らないでって……え……」

ちょうど、美女たちにモテモテのピエロと目が合い、美しい碧眼(へきがん)がとたん丸くなった。

「あ、どうも」

鼻血が出そうになっているピエロがへらりと会釈をする。素で会うのは初であり、みるみる顔を赤らめていって、「キャーー!」とさっきの威勢はどうしたのか、ピエロたちを横切って一瞬で奥の机の下に隠れてしまった。体育座りをして目をぐるぐるしている。

「ヒ、ヒトと話すときはちゃんと目を見て話すこと! 挨拶の次は、背負い投げだっけ? スキンシップが大事だもん……そ、それから、羽交(はが)い締(じ)めをして……受け身を取る」

夜露死(よろし)苦(く)である。ピエロがジョーカーを見る。

「君の仲間、だいじょうぶ?」

「ああ内弁慶(うちべんけい)なんだよ」

「要するにコミュ障」

「それも重度のね」

「舞台の時とほんと大違い。超、ネガティブなの」

「あ、明るいときは明るいですぅっ!」

レナが幼い女の子みたいに不満気に言い返した。仲間たちは慣れているようで「はいはい」と言い返す。ピエロも笑い、彼女も面白い人だなと思った。

「挨拶もろくにできないなんて本当にどうしようもない女だわ……だからカレも振り向いてくれないのよ……取り柄といったらおっぱいくらいだし……二つの玉を移動させるしかないのね」

「やっ! レナ! よろしくね!」

覗き込むようにコミュ力の神が満面の笑顔で言った。レナが爆発する。

「きゃあああああああああ! ハ、ハイ! 夜露死苦! お願いしまああああああああす!」

立ち上がり、構えを取り、そして勢いすばらしくなぜかピエロに背負い投げをした。

「ぐふっ! 強い……」

玉などいらないだろう。

「きゃあああああ! ごめんなさい!」

深くお辞儀すると、また下から見るエロスの暴力。

「おっぱい!」

「ハァッ! そんなコミュ障じゃあカレシも一生できないだろうな。そういうのなんて言うかわかるか? 『宝の持ち腐れ』だ」

「はぁ⁉ 何よ~! あんただって男の宝もろくに使ったこともないくせに!」

「なっ! だからこれから使うために毎日しこたま磨いてんだろうが!」

「なっ……誰によ⁉」

「い、言うわけねえだろブス……」

「何よそれぇ!」

舞台のジョーカーとクイーンのように毎度のことといい、みんながニマニマしている。

「早くしねえと重力で垂れるぜ?」

「その髪色は、『俺はずっとチェリー』っていう標榜(ひょうぼう)かしら! まあお固い信念ですこと~!」

「もう早くくっついちまえよ。こんな引き合うのに引かない磁石は初めて見るぜ」

楽器を持った大柄の男、アダルベルトが呆れて言った。

「別に好きじゃない(ねえ)し!」と、二人は同時に口にした。

みんなが賑やかに笑い、そしてドアがまた盛大に開き、メリィがご機嫌に踊ってやってくる。

「たっだいま~~~~! おっとおっと? あらあら?」

ピエロを夢色に輝いて見、とびきり無邪気なハグをした。

「ピエロ・ペドロニーノ~! 舞台最高だったよー! ボクはファビュラスマックスに感動した!」

「むぅ……ありがとう」(苦しい)

中性的な柔らかい雰囲気を持つメリィだが、体はちゃんと男だ。彼はぱっと離れてシルクハットの鍔(つば)を掴んで笑顔で語る。

「ボクのことは知っているね? 団長のメリィ・ゴーランド~! 世紀のロマンチストであり世紀の運動音痴。それなのにサーカスを創っちゃったちょっとすごい人~。ここの団員が軒並み変わり者であるように、ボクは男でも女でもある両性なんだ!」

「へぇ~! カッコいいね!」

らららぁんと歌いながら懐からぺろぺろキャンディを取り出して、「これボクが作った」と言って舐め始めた。

「かわいいね」

恋愛対象が人類の自分と、男女の垣根(かきね)のない彼は似ていて親近感が湧いた。そして糖分が好きなところも。見た感じ、目尻に優しい皺(しわ)がある程度だし三十路(みそじ)くらいだろうか。

「ちなみに五十代前半~」

「嘘だろ⁉ 見えない!」

「いつも楽しく笑ってる人は若いんだよ~!」

子どものままの心を持ちながら、貫録が滲んでおり、一座の長(おさ)というのが感じられる。彼を見る団員たちにも父を見るような厚い信頼がある。

「メリィは俺たちのオッカさんでもありオットさんなんだぜ! な? オッサン!」

「オッサンじゃねェ!」

わたあめからドスの利いたトーンである。

「怒るとマフィアだ」

ピエロはなんて楽しい連中なんだろうところころと笑い、ふと横で壁にもたれている青年の、片目を貫く化粧を見つめる。

「あ? 何見てんだよ、悪いが俺はノンケだぜ」

「ずっと思ってたけど、ジャックってカッコいいよな」

「ハァッ! 『おはよう』の次によく言われるぜ」

「目が」

「目かよ!」

ジャックは確かに化粧で隠すのがもったいないほどハンサムだが、男の勲章(くんしょう)めいたそれがピエロの少年心をとてもくすぐった。

ジャックはきらきらと褒め称(たた)える彼に、一瞬目を見開いて豪快に笑う。

「ふふ。で」

真面目なトーンが空気を変える。メリィは頬杖をついてにこにことピエロを見つめ、好奇心を覗かせながら、探るように見据える。

「ピエロ。君はこれからどうするの?」

あ、と言葉を詰まらせる。自分は既にここに溶け込んでいたが、他人なのだ。帰る場所も、家族もいない孤児なのだ。急に虚しくなり、胸が軋んだ。

「あはは急だったねぇ。じゃあ君の本当の名前は?」

かすかに瞳が震え、愁(うれ)いを帯びて瞼(まぶた)を伏した。

「名前は……捨てたんだ。──一度、僕は人生までも捨てようとした。両親が死んで、家もなく、孤独と絶望の中にいた。でも、あなたたちが教えてくれたんです。人間の可能性や、魂の高揚、世界を吞み込むような一体化した熱狂、人生の道しるべ、インスピレーション……。きっとあれは、運命だった。新しい人生の扉だった。その扉を開けるのに必要なアイテムは、新しい名と、変わらない夢だ。僕の本名は、ピエロ・ペドロニーノです」

決然と輝く眼差しで見つめ返す。いいBGMが鳴っているような空気だったが、

「おい、俺が誘拐した話がひとつもねえじゃねえか」

ジャックの一言で爆破した。「感謝してるよ」と誘拐を感謝し、愉快なエネルギーをたっぷり吸い込んで、勢いよく立ち上がって身を乗り出す。

「僕、サーカスに洗礼を受けたんです! 僕の運命のアンテナが叫んでる! お前はここにいるべきだって! 絶対にいなきゃ承知しないぞって! 僕、あなたたちと行きたい! 生きたい! 絶対にいきたい! 僕とロアみたいに運命共同体だと思うんです! だって僕! 〝空に国を創って、世界を笑顔にする〟のが夢なんだ! ねえ! 一緒に! 世界を笑顔にしようよ!」

団員たちは少年の熱量、あまりの瞳の輝きに目を皿にする。そして口をあんぐりと開けて、まさにキャラバンが横転するほど笑った!

「リャハハハハハハ! 空に国だって⁉ おもしれえサイコーじゃねえかあ! おーい大統領いるかあー⁉ 国ひとつ追加だー!」

「大統領はこのオレだ! オレを連れてけ!」

「ピエロにできないことなんかないっしょー」

大勢に応援されて、温かい笑いに包まれ──心から純粋にこの夢が人を笑わせたのは、大人では彼女しかいなかったから、胸がいっぱいになった。

僕、ここにいていいんだ。

涙が出そうになる。メリィは涙を拭いて、ピエロを笑って見据える。

「イカれた悪役(ビュラン)でもあり、主人公(ヒーロー)の目だ。でもわかっている通り、ボクらはお尋ね者だ。不正に経済を回し、秘密裏に動く非合法組織で、『楽しんで稼ぐ』企業、言い換えれば、彼らにとっちゃ最悪の響きらしい『遊んで稼ぐ』企業だ。世間には〝闇社会〟とさえ言われているよ。過激派は、ボクたちを嗅(か)ぎ回って殺そうとしている。いや、実際にもうそうだ。愛の代わりに、銃を持ってね」

「スーツを着た悪魔」 

女性が呟いた。背筋に悪寒が走る。生半可(なまはんか)な気持ちではない、彼らは命をかけて場所を決め、命をかけて人を楽しませているのだ。

エンタメ界の中でもサーカスはダントツの人気を誇り、KING(キング) ROZE(ロゼ)は、その名に相応(ふさわ)しくサーカス界の憧れ、エンタメ界に君臨する王である。熱狂的なパトロン団体も多く、会員(フレンド)しか知ることのできない情報媒体(ばいたい)がある。

そして過激派は、道化を虐殺(ぎゃくさつ)する非合法組織だ。各地で大小の組織が存在し、世界規模のグループも中には存在する。社会の憂(う)さ晴らし、金品目的、動機はさまざまであり、政府はその事実を黙殺(もくさつ)し、世間に放送しようとしない。

「ロゼは娯楽の頂点に君臨する。つまり、メリィが闇社会のドンだな。そうなると、オレは幹部って訳だ!」と、エースが嬉々(きき)として語る。

 ピエロはある単語を聞いた時、首をかしげた。

「まあそうなるネ~。通称ボクたちは大家族(ファミリー)。総勢百人は上る。君はついてる。メンバーが結集したロゼの最高潮とも言えるショーに、偶然タダで相まみえることができたから。でもボクたちの仲間になるということは、つまりそういうことだ。──君は、世界に魂を売ることができるのか?」

空気を変え、メリィはピエロを射抜く。

「ちょっとよく分からないんだけど」

ピエロは勢いよく立ち上がった。メリィたちがぎょっとする。

「闇社会? 闇世界ならまだ分かります。サーカスは闇社会なんかじゃありません。世間が勝手に決めたクソみたいな名前で、僕は闇社会になんか入りたくないです。サーカスは世界の新常識を標榜とする、愛と正義の立派な大企業です。ロゼは太陽の下(もと)、闇世界に輝く唯一の光社会だ! 僕たちは日曜の午後の輝きを知っています! 青空を知る陽気な子どもです! この世界はまるで夜です。太陽の代役として、ロゼは燃えるように薔薇色に輝いているんです。僕の魂が太陽に貢献(こうけん)できるのなら、赤字覚悟で売ってやる! 利息も担保(たんぽ)も保険もなし! 僕のすべてを買うといい! 魂の返品は、この僕が許しません!」

黄金の瞳は太陽を象り、磨かれるように輝いていき、白い髪は無垢の心を象徴しているかのように美しく、その姿は、美しい母のまるで生き写しだった。メリィたちは子どものように目を丸にして、少年という啓蒙(けいもう)の巨人を見上げる。

「一瞬太陽かと思っちまったよ……」

皆が圧倒される中、メリィは声高々に笑った。

「あっはっはっはっはっは! こんな面白い面接は初めてだ! 怖いもの知らずで、破天荒で、それがボクたちの遺伝子だけど、君は規格外だな。よし即決だ! ピエロ・ペドロニーノ! 君は今日から家族(ファミリー)の新しい一員だ! サーカス団ロゼへ、いや、光社会へようこそ~!」

メリィたちがどっと盛り上がって歓迎し、自己紹介をする。舞台に出ていたキリン姉さんに金(キム)・金(コン)金(コン)、花が好き過ぎて自分が花の妖精だと思っているファフィに、ピエロ! ピエロ! ともう懐いてくれている、かわいい双子の男女の凛々(リンリン)と藍々(ランラン)など、クラウンもいる。

アダルベルトがアコーディオンを弾いて、豪快に言う。

「俺たちが社会になんと呼ばれてるか知ってるかあ? 〝マフィア〟だとよオ!」

皆が笑い転げ、レナは机に頭をぶつけた。愉快な音色が奏でられ、闇世界にバカクソ言われている異名の数々や各自のあだ名を歌詞にして、皆が即興で海賊の宴のように歌ってバカ騒ぎをする。

「僕もあるよ! 世紀の変人と言われた僕を嘗(な)めるなよ!」とピエロが立つや歌う。チーター、ギャグ殺マシン、キンタマ(金の瞳)、ゼウス──勲章の数々や、問題児時代の女帝マリアとの話も歌詞に組み込んで大ウケである。

「ひどいわ……みんな私を置いて楽しそう……私の存在感なんてどうせおっぱいしかないのよ……私はおっぱいを抱きしめておっぱいと添い遂げておっぱいといつまでも二人きりなんだわ……おっぱいと永遠にね……」

「ほらレナ~! 早く戻って来なさいよ! この子超楽しいわよ!」

「う~……わかってるよぉ~……」

彼女を待ちわびるような明るい旋律、勇気を絞って立ち上がった! 涙ながら叫ぶように歌う。

「デカパイ! ヒステリック女! 金髪で巨乳だからってビッチじゃないんだから! 私はまだ純潔の白百合(しらゆり)よ⁉ 私の顔は胸じゃな~い!」

「アンタはふつーに美人だぜ~?」

ジャックがそう言いつつ「おー?」と谷間を覗き込んで「いやあ!」とレナが張り倒した。

新入りのいる楽しい騒ぎを聞きつけて、ドアが重量に耐えきれず大勢のクラウンたちが総崩れ。

「クラウン! みんなで歌おうぜ~!」

一同が外に踊り出て楽器も増えて、心躍る音楽に乗って大家族がとち狂う。ピエロは多くの仲間たちに囲まれて、脳天が空に弾けるほど楽しい時を過ごした。


  5


KING(キング) ROZE(ロゼ)──運搬、設営、撤収(てっしゅう)においても完璧にこなし、秘密裏に世界を旅する旅回りの一座だ。すべてにおいて最高を追求し、新米でもゼロからプロに育てる優秀な指導力も誇る。基本的に団員は動く家、その名もトレーラーハウスで移動し、自然環境ではキャンプで過ごしたりする。ロゼ自身トップのエンタメ企業であり、パトロン団体の全面的な支援もあり、経済や物資に困ることはない。

翌日には別の広い自然環境に移動し、一座は修練に励む。ピエロは早速演者たちと練習できると思ったが、

「まずは裏方も勉強してもらわなきゃね~」

影なくして光なしということで、まずは裏方からいろんなプロフェッショナルの人たちに教えてもらうことになり、彼らは活き活きと語った。

音楽、劇、体術(たいじゅつ)──サーカスは数々のパフォーマンスで織られた総合芸術だ。

華やかな光に当たる分、私たちの死は最前線にある。

ヒュンと飛び移った先の差し伸べられた手のように、他者の信頼がなくては成り立たない。

サーカスは違いを軽く飛び越える。肌の色も国境も関係ない! サーカスの言葉はひとつ!

みんなが飽きないために旅をするんだ! 足を運べない人にも、我が家を迎え入れるために。

弾力性、しぶとさ、怖いもの知らずな芸術家!

物理的にも精神的にも、俺たちはアーティストだ!

一座の入団、ピエロ少年の汗と涙の葛藤(かっとう)の日々が始まる──かと思いきや、渇いたスポンジはやる気満々も高(こう)じて一瞬でノウハウの限りを吸収してしまう。革新的なやり方を考案するにとどまらず、楽器を勘で弾いてはプロを超え、逆に教えるという主客(しゅかく)転倒(てんとう)、兄弟仲のジャックとエースは練習場を駆け巡り、至る所でアーティストたちがげっそりと倒れ込んでいた。

「オイ! オイ! オイ~! なんてこった! ここでも倒れてやがる!」

「大丈夫か⁉」

「アイツの才能が、俺をいじめてきたんです……」

 音響家がピエロに(才能で)ボコボコにされ、

「気を付けろ……アイツは、全能だ……」

プライドまで吸い取られた音響家が力尽きたように倒れる。オイスターソースでダイイングメッセージ風に地面に『MONSTER』と書いてある。

『チータああああああああああああ!』

兄弟は糖分補給をしているピエロの下へ飛んだ。

「先輩いびりはやめろっていつもいつもお兄ちゃんは口すっぱく言ってるだろ⁉」

「自分が爆弾だってこと分かってんのか⁉ 全員殺す気か!」

「つーかテメェかわいいんだよ!」

「なんで女じゃねぇんだよ! 〝アァ⁉」

『このチーターが!』

「なんで僕怒られてるの?」

何故か長男ジャックと次男エースに挟まれ、末っ子のピエロ(勝手に決められた)が怒られ母親兼父親メリィにも「どうしようもないね」と(茶番だが)呆れられる。

『全能のチーター』という元本名をなぞったあだ名が付き、入団一週間という異例の速さで花形と練習することになった。そこでも大爆発して多くの被害者が出た。 

いざという時は最強だが、日常に戻ると天性のドジを踏みまくるためめちゃくちゃ笑われる。ここでは面白い奴ほどモテるため、休憩すれば汗の滴るピエロに見計らったように女の子がきゃあきゃあ囲んで、ジャックを中心とするイケイケ男子たちが爽やかな笑顔で見ている。

「アイツ、表情筋でしばこうぜ」

代表のジャックが笑顔で輪の中に乱入し、要旨(ようし)「調子乗んな」「芸歴俺の方が上」「身長お前は下(笑)」と情けないラップでピエロに挑み、ピエロが余裕の超絶技巧でねじ伏せ勝利。今度はみんなのアイドルピエロの奪い合い合戦が始まり、髪を下ろした美女姿のメリィが通りかかり、サングラスを取った。

「賑やかだね~」


移動前、道化たちは朝早く起きて身支度を整える。互いに化粧し合う者たち、ジャックは目の傷をメイクブラシでなぞり、娘たちはミニドレスにさっと着替える。

 茶化さないメリィの声が、無線でそれぞれのハウスにいる皆に届く。

「いいかい。ボクたちは、『楽しい』ことの喜びを知っている。それがないのが、どれだけ『哀しい』ことかも知っている。退屈が普通だった常識人が、ボクたちという非常識と出会い、陽気な子どもに変わる瞬間をボクは何度も見てきた。道化の心は、やがて世界に伝染する。ボクたちの最終目標は『何人(なんぴと)たりとも退屈させない楽しい世界』を実現することだ。そのためにまずは、世界各地を笑顔にすること! さぁ、喜劇の幕を開けよう!」

『オーーーーー!』

トラックに扮(ふん)したロゼのハウスが分岐して、世界を駆け巡る!

大集団で移動すると目立つため、一座はそれぞれのハウスに一流役者を配置し、世界各地で演技する。場所によっては無償で公演し、ピエロの初公演は、教育機関の行き届いていない熱帯に位置する発展途上国の小さな村落だった。ピエロは重要な役をもらい、機密ミッションを与えられたスパイのようでハラハラドキドキして、笑顔にしたくて奮い立つ。砂嵐にも負けない大爆笑を起こしてやる! よし! と意気込んで、仮設小屋の舞台に踊り出た。

が、彼がいくらキレのある道化をしても、客は真顔でぴくりとも笑わない。あろうことか、一人の褐色(かっしょく)の肌の美少女は少年の姿を見つめ、綺麗な涙を流した。

「あの子、涙が出るほど綺麗……」

「え……?」

顔だった。顔芸でも化粧をしても隠せない、泣くほど美しい少年の神秘的な美貌に見惚れてしまっているのだ。「皆、心してよく聞け」と村長が真剣に言い、お目目をうるうるさせて続ける。

「あの子はきっと天使じゃ……。この村をお慈悲(じひ)してくださり降臨なされたのじゃ……そうに違いない!」 

天使様! と客全員が手を合わせて一斉に拝みだした。「えっとあの、僕はただの道化師」とピエロが困惑するなり、どうぞ娘のお婿(むこ)に! 結婚してー! ときゃあきゃあと女性陣に襲われ、天使のサインを頂くのじゃ~い! と村長のおじさんが卍のポーズで走って彼の奪い合いを始める。

「ぎゃああああああああああああああああああ! ジャック! みんな! 誰か助けてええええええ! ヒエエエエエエエエエエエエ!」

ピエロは襲われ、舞台袖(そで)で「あ~~っ!」と仲間たちがしまったと頭を大仰に抱える。

ピエロは大量のキスマークを浴び、初舞台は失敗に終わった。エースとジャックがピエロを挟む。

「アー! こりゃ絶望的に顔がダメだな! 」

「もっとこうっ……顔をブサイクにできないのか⁉」

『整形しろ! 整形!』

ピエロが笑顔で言い返す。

「顔が美しすぎてごめんって言えばいいの?」

その話をファミリーに話すと大爆笑された。

「仮面かぶれ! 仮面!」

「んがっ!」

ジャックに強引に仮面を付けられる。息はしづらいし視界は狭いし違和感が半端ない。

「やだよ! こんなの不自然だよ!」

「あらぁ~! よく似合ってるわよ~? ピーちゃん」

相変わらず絵画を描いているマチゲリータにそう言われ、むーっと膨れる。

「じきに慣れる。お持ちの全能で、表情が動く仮面でも作りゃいいだろう?」

「そうだね」

「軽いなっ」

素顔を隠し、今度はヨーロッパの街の街頭で堂々と大道芸をする。基本的に素通りされていくが、好奇心に若者のグループが集まり、社会人も訝(いぶか)しげにぽつぽつと立ち寄っていく。おどけた音楽に乗ってピエロはマイムでおどける。最初はよく分からないといった反応だったが、幼い子どもから順に楽しい心はすぐに伝染し、一部の中年の社会人も含めて若者を中心に大ウケ、反応は百八十度違いピエロの演技は爆笑だった。

しかし途中で、警察が騒ぎを聞きつけてホイッスルを鳴らした。

「そこの道化! 今すぐ公演を止めろ!」

ピエロたちはすぐさま小道具を持って運動神経の悪い仲間は担いで、悪戯を企てた教室の子どもたちのように笑って逃げ、警察に追われる。それも一種の演目のように客が爆笑する。

「待て! この無法者ども!」

「無法者だって⁉  道化にとっちゃ『退屈』こそ重大犯罪だぜ! 少しは顔芸を見習ってお勉強しな! みんなでお巡りさんに顔芸でご挨拶だ!」

全員が一斉に振り返り、べー! とバカにするような変顔を披露した。

「こんのッ……逮捕だアアアアアアア!」

 逃げ足も一流の超人集団を捕まえられるはずもなく、華麗に巻いていった。

大活躍もあり、初めてのお給金は子どもが手にするような金額ではなかったが、ピエロは大変喜んだ。

ふとある時に頭に電撃が走り、トイが自分と同じ道化師であると運命的に悟る。ワクワクしたインスピレーションを行動に移した時、経験上大成功しかあり得ない。ロアを道化服に着せ替え、サーカスにインスパイアを受けて、道化の名を冠して『クラウン・トイ』という正式名称を付けた。

元々道化師はクラウンという一個のまとまりだったが、色んな個々の道化師(ジョーカー、クイーン、最近はピエロ等)が派生(はせい)して、別々の種類に分かれた。集団のクラウンは客席をいじったりして演技の合間を繋ぐ、場繋ぎの役として固定され、客と最も距離が近い一番親近感のある道化師である。実際に人間と触れ合って楽しませ、無限大に個性が派生していくという共通点から冠した。

道化にとどまらず、ピエロの発明力は一同の舌を巻かせた。仮面の表情を動かすことに成功し、第二の顔を発明。シンプルの中にインパクトがある、モノクロの仮面だ。素顔の動きを真似て動く。

少年の手は神の手と呼ばれ、非常識な発想で続々とおもちゃをクリエイトし、ロゼの花形がプリントされたトランプカードを発明するや、一座の間でトランプが大流行し、まさか量産することになるとは思わなかった。

ピエロは異例の速さで花形役者となる。公私人気者であり、周囲には大勢の人間がいて一際賑やかだった。中でもジャックと一番よくおり、レナやエースも交えて皆で大富豪をして盛り上がる。大富豪はジョーカーが最強なのでジャックが一番調子に乗る。

一方ピエロは逸材だと褒められても調子に乗らず、裏方の仕事も積極的に手伝い、仲間内からも評価は高く非常に愛された。監督、演出、脚本を手掛けるメリィを中心に皆でブレストし、先鋭(せんえい)的なアイデアを息を吐くように出し、あらゆる所で欠かせないクリエイターとなる。そうやって人から必要とされていることがとても嬉しかった。

歌って踊って全身で笑う日々。

陰謀を企てたトレーラーハウスが、今日もどこぞの街を駆ける。中では道化たちが騒々しく歌ってとち狂っている。

誰だって、心に陽気な子どもがいるものさ!

世界は、クラウンを待っている!

サーカスを待っている!


  6


綱渡りはいちばん好きだ。まるで空を歩いているみたいだから。

花形を圧倒させるほど曲芸は上達したが、それでも向上心は決して尽きることがない。

「おっ」とメリィが激甘コーヒーを傾けて、誰よりも早く起き、外で高い綱の上で踊っているピエロを目撃する。その姿は自分自身と戦っているようにも見えた。

自分に問いかける疑問が寝る間も全身をくすぶって、おどけずにはいられない。

もっと自分を出せるのに、最高にして最大の自分の魅力を百どころか十も出せていない。ピエロは探し求めていた。それはとても漠然としたもので、自分の中に眠る宝のようなものだ。

たとえば、ジョーカーのあの内在から漲(みなぎ)る、何者をも魅了するカリスマ的な存在感。

自分らしさの体現者(たいげんしゃ)であり、狂気なまでのアイデンティティで魅了している。

口が悪くラフ、陽気で狂気の道化師。

それはジャックであり、ジョーカーのキャッチフレーズだ。

ピエロは直感していた。自分にも、それがあるはずだと。

技を磨いても、自分の個性はジョーカーにも及んでいない、ピエロにもなれていない。一介(いっかい)の少年クラウンに過ぎない。

自分の性格、長所、素質の中から発掘するのだ。

頭のギアをフル稼働(かどう)して考え続ける。しかし思考はとりとめもないものが流れていき、ぱっとする答えはいつまでも出ない。

こういう時は何も考えない。ただひたすらに、無心で踊り続ける。

 しばらく、透明な感覚が続いた。

 ふと、イメージの中で、ピントが合っていないようにぼやけた、大人の男の姿をした黒いシルエットがぽっかりと浮かんだ。

彼は少年の踊りを上手に真似てきて、靴音を小粋(こいき)に奏で、上品にも下品にもふざける。

少年は笑いを零した。目を瞑り、舞台に夢中になって、彼をもっと知りたいと魅了される。

すると徐々に、影がくっきりとデザインされるように形を成していく。クールな燕尾服、王冠を真似たシルクハットを取り、ステッキや、先のとんがった靴を踊らしている。

その姿は紳士で道化師。少年の素質の中にいる、もう一人の自分だった。

彼は勢いと精彩(せいさい)を増して、紙吹雪のようにカラフルに輝き、逆に少年が彼の動きを真似るようになる。

動きの変わった少年に、メリィはおっと身を乗り出した。

いつしか少年はイメージの舞台上で彼と踊り、二人は向き合って至近距離でぐいと顔を近づける。

それはまるで、未来の自分と目が合った瞬間のようだった。

心の中で、パズルがハマった音がする。

彼らはひとつとなり、現実に戻って、ピエロは3Dとなってカラフルに空でおどける。

上品に、時に下品に、その正反対な掛け合い──ギャップが、道化をより斬新に磨く。いかなる時も余裕に笑っている精神。反対のように思える彼らは、二卵性の兄弟のように、相通じるものがある。

──紳士で道化師、ピエロ・ペドロニーノ。

これは発掘であり、発明だった。

運命的な出会いを果たしたように、ときめきと喜びが魂いっぱいにあふれ出す。

「僕は上流の出身で、生まれ持っての道化師だ。紳士で道化師ピエロ・ペドロニーノ……ピエロ・ペドロニーノ!」

と、新たな道化師が誕生した瞬間にハイになって、急いで一座のみんなに言い回したが、めちゃくちゃ笑われた。

「おい! ピエロがまたジョークを言ってらあ!」

まだピエロは見た目もかわいらしい少年である。早く大人になりたいと生まれて初めて思った。


  7


翌日、野外でジャックを中心に盛り上がっている男女のグループを、外れの壁の方からレナがすごい目で覗いていた。

「楽しそうー。そうよねどうせカレは私のことなんて眼中にないものこんな壁が誰よりも似合うような女なんか興味も湧かないわよねどうせおっぱいしか気づかれないもの私どうして壁に生まれてこなかったのかしらいやもう既になってるわ」

「何してるのー?」

「きゃああああああああああ!」

レナ・ワールドににこにこ顔のピエロが横から参上し、レナがぶっ飛んだ。

「もうピエロ! 脅かさないでよ~!」

またネガってたの? とピエロが手を伸ばしてやり、ありがとう……と元気なく彼女が手を取る。最初は警戒心半端なかったが彼がコミュ力のお化けだったこともあり、レナは彼と早く心を開くことができた。

「うぅ~だって! だってカレ! 違う女の子と話してるのよ! ショックよぉ! 妬(や)いちゃうし泣いちゃう! そりゃネガにだってなるわよぉ……」

「そんなにジャックが好き?」

「ええ! もうこの世でいちばん大好き!」

レナは見違えるように花が咲くように笑う。明るくなったり暗くなったり面白いくらい極端な人だ。彼女はずっと小さい頃から彼が好きだった。

「だってカレ……優しくて頼もしくてハンサムでたくましくて面白くて背が高くて傷顏なんかすごくチャーミングで澄んだ瞳が綺麗でくしゃっと笑う顔がかわいくて子どもの時なんてすごく可愛かったのよ? 私カレ専用のアルバムもいくつも持ってるの! ふっふふっ! ツーショットの写真は宝物でね気持ちが落ち込んだ時はそれを見て癒されてるの!」明るく可憐に笑い、長いので省略する。「カレは私の初恋の人なの!」

レナがピエロを見ると、早送りしても長い彼女の愛にかなり引いていた。

「やだ私ったら語り過ぎちゃった! 彼を見ているだけでも私幸せなの! あ、でもいざ彼の隣に他の女の子が並ぶとなると……やだわどうしよう! 嫉妬の炎が燃え上がるわ! そうよね……いずれ彼も結婚するもの、私みたいな暗い女となんか隣に並びたくないわよね……」

また始まった。彼女はズーンと沈み体育座りでぶつぶつ世界に浸る。めんどくさい人だなと思ったが、そんなところが面白くてピエロは笑う。目線を合わせるように屈(かが)んだ。

「レナ。君は確かにネガティブだけど、ジャックにお似合いの人だと思うよ。強い男ほど弱い女性を守りたくなる。君は、とても守ってやりたくなる人だ。君の繊細な心はあいつの心に響くと思うんだ」

ぐすんと鼻水をすすって、レナが幼い声で訊いた。

「……ほんと?」

「ほんと」

「……ほんとにほんと?」

「ほんとにほんとだよ」と頭を撫でる。もうどっちが年上なのかわからない。

「君は不完全だから魅力的なんだ。それに君は摘(つ)みたくなるくらい美しく可憐な人だよ。男が一番惹(ひ)かれるのは、おっぱいでも巨乳でもない、君の笑顔なんだから」

レナは「うぅ……」とうるうると不細工になった泣き顔でピエロお~! と子どもみたいに抱き着いた。ほぼおっぱいに抱きしめられている。

「ありがとう~~! あなたってホントに優しい人だわぁ! 最高の理解者よ~!」

「ん?」

ジャックがレナのおっぱいに抱きしめられているピエロを目撃する。

「あぁ⁉ あんのクソガキイイイイイイイイ!」

嫉妬の炎に燃えた。秒で来てすぐさまピエロを乱暴に引き剥がす。

「テメェ! なに話してたのか知らねえけど成り行きで○〇〇(ぴー)○させてもらってんじゃねえよ! 男のロマンだぞ⁉ クソ羨ましいじゃねえか! 何を言ったらさせてくれたか教えてもらえませんか」

「離してもらえませんか」

ふいとレナとジャックの目が合った。お互いドキっと動揺して、

『フンッ!』

顔を背け合った。

「茶番だよね?」

挟まれているピエロが笑顔で言った。


  8


昼下がり、透きとおるような青空の下。ジャックと二人きりで、気持ちいい風になびく野原に腰を据え、青い空を愛でている。彼との沈黙は心地いい。

サーカスの旅回り生活から五か月は経過し、もうこの場所はかけがえのないものになっていた。

明らかに両想いなのに顔を合わせるごとに喧嘩するジャックとレナ、ジャックが大好きで本当の兄のように思っているエース、挙げればきりがない、楽しく面白い一座のみんな。血の繋がりはないけれど、本当の家族だと思うほど彼らが大好きだ。仕事でも、自分の道化で自分の言葉で、お客さんが笑ってくれるのはこの上なく嬉しいし、毎日が、しあわせだ。

「ジャック」

「なんだ?」

「僕を誘拐してくれてありがとう」

「ブッ! 急に何だよマジで。マッ、こちらこそ。──まんまと誘拐さしてくれてありがとう。で? 雪はいつ降るんだって?」

ピエロも吹きだし、二人は天まで響くほど高らかに笑った。

「レナとはうまくいってる?」

「うまくいってたらお前と二人で空なんか見ねえさ」

言いながら、ジャックは背中を野原に預けた。

「それもそうだな。ぷっ……」

「笑うんじゃねえ。チェリーは誇りだ。好きな子できたか?」

「できたら今頃チェリーなんてしていないさ」

ジャックが「似た者同士だねぇ」と盛大に笑い、「どこがさ」とピエロも背を預ける。

「──いろいろ」

日差しを受けて、色素(しきそ)が淡くなる赤い目を細めて、過去を見るようにピエロを見やった。

「君たちが好きだ。友達のようで、家族のような君たちに出会えて、本当によかったと思ってる。僕はしあわせ者だ。君がいなかったら、僕は今頃抜け殻になっていただろう。翼の折れた僕を、君が救ってくれたんだ」

「俺が助けた天使はもう空にいっちまうのか? 涙腺(るいせん)が久方ぶりに踊るねぇ。ああ、緩むか」

「ああ。いずれ行くよ。空に」

冗談を返したつもりだが、まっすぐな眼で空を見つめる横顔を見る。こいつちょっと大人っぽくなったか? ピエロが来てから、サーカスはより活気づいてますます皆の笑顔が輝いた。まだ出会って一年も満たないが、盟友(めいゆう)と呼べるほど固く絆を結び、かけがえのない仲間になった。だからこそ知っている。こいつは、自分たちを遥かに置いて行くほどの才能を持っている。才能なんてものではない、全能だ。彼が一人で巣立っていく姿を想像すると、滑稽なほど、虚しい音を心が立てる。

「いくなよ。クソ退屈だ。俺を泣かせるつもりか?」

珍しく真面目な顔をするジャックを見るなり、ピエロは明るく笑った。

「まだ行かないさ。前途(ぜんと)はまだ果てしないからね」

「車で行くのか知らねえが、トランクの中にゃ俺様がいることを覚悟しとけよ」

「ちゃんと里帰りするよ。メリィにも恩があるし、ちゃんと親孝行(おやこうこう)するさ」

「ハァッ! そりゃアいい! 俺もメリィに計り知れねえ恩がある。アイツは凄いぜ──」

ジャックは生き生きと語った。

メリィ、元オスカー・ゴーランドは名家の生まれで、学才もあり有望視されていた。が、生粋の異端者で空想好きで、両性で理解されず孤立していた時もあったが、孤独さえ楽しんでおり「変人」と言われていた。全(まっと)うな社会人になり人柄と才覚で妻も得て成功したが、つまらないという思いが常に胸中にあった。二十代後半で地位も仕事も捨て、離婚し、かわいくないと思っていた名を改名し、幼い頃からずっと空想していた「サーカス」を創ることにした。

最初はうまくいかず家族にも落ちぶれたと非難されたが、孤児を見つけて哀れみ、周りに理解されない不遇者や恵まれない人々を純粋に救いたいという思いを兼ねて、彼らを拾った。物資と人材を調達して教育し、『サーカス団ロゼ』を創設した。初公演では、廉価(れんか)で公演したところ大好評だった。社会に不満を抱く者たちの心の闇を慰め、サーカスの噂は一気に広まり、信(しん)泰者(たいしゃ)やパトロンを手にして規模を大きくした、という経緯をピエロに話した。

「メリィは、俺の命の恩人だ。俺は、元々ここにいた訳じゃない。みんなそうだ。みんな最初は涙があった。初めて会った時は、マジで女神じゃないかと片目を疑ったよ。俺は元々、人じゃない扱いを実の父親から受けてたんだ」

ジャックは、過去を見つめる深い笑顔で語った。

母は幼い時に父と離婚し、父と二人で過ごしていた。母親を想起する容姿が父親の疳(かん)に触れ、些細(ささい)なことがあっても手を上げられた。

──こっちを見るな! 気持ち悪い!

学校でも、悪目立ちする見た目、異端の心を生まれつき持ち、クラスでは浮いていて、いじめられていた。

──もし、俺が普通だったら、父さんに、みんなに愛されていたかもしれない。

自分の性格、母に似た容姿を、心から憎み、呪った。

九歳の時、耐えきれず父親に反抗し、さらに酷い暴力を受けた。父親は息荒く台所から何かを取り出し、研ぎ澄まされた銀の切っ先が天上に輝いた。

──その目を切り裂いてやる! 怯えるな、綺麗に描いてやる。お前の顔に相応しいようにな!

ギロチンを髣髴(ほうふつ)とさせる勢いで、刃は目を、残酷にも美しく切り裂いた。

激痛に苦しみ、涙と出血が溢れ、彼は家を逃げるように出、誰もいない路地に蹲(うずくま)った。

神、人間、この世の理不尽への呪い、憎しみ、悲しみ、苦しみ──地獄のような炎が胸を焼き尽くす。

 俺は努力した。愛されるために俺は笑顔だった道化だった。でも、どいつもこいつも俺を醜い怪物にする。

こんな性格と見た目で、苦しむくらいなら……生まれてくるんじゃなかった。

少年は、血を吐くように泣き叫んだ。


「誰か……俺を……愛してくれよおおおおおオオオオオオオオォォォォォォォォォ!」


そして、暗黒が世界を飲み干し、魂の輝く意味を失う。

涙が惰性(だせい)に伝う。

何秒かあとだった。たんぽぽの綿毛のような、中性的な声が上から聞こえてきた。


「愛してあげるよ」


右目を悲痛に見開き、顔を、徐(おもむろ)に上げる。


「ボクたちが、愛してあげるよ」


母親のような、父親のような、その両方の性質を持つ、長く輝く白金の髪の、この世のすべての闇を慈しむような、そんな、見たこともない、美しい笑顔だった。

初めて、家族に会ったようだった。

ふと視線を下に移すと、ちっこい、彼より濃い金髪の少女が彼の背に隠れた。おずおずと顔を出し、目が合うと慌ててすぐに隠れた。

レナが、ジャックを最初に見つけて、メリィを急いで呼んだのだ。


「家族になろう」


白い手が伸びる。暗闇に灯るたったひとつの希望の光のようで、手を伸ばした。

サーカスの家族の一員となり、最初はびくびくしていたが、そんな彼を仲間は快(こころよ)く受け入れ、ある女の子は自分のこの傷が好きだと言ってくれた。

彼は信じられないくらい楽しくヘンテコな仲間と、世界を知り、絶望を根っこから吹き飛ばす大きな笑い声を上げた。

初めてのショーで、舞台の最前線で歓声と喝采の嵐を浴びた。

初めて息をするかのようだった。

笑いと狂気を魂に消化し、自らをジョーカーと名付ける。

才能の芽をめきめきと出し、涙も忘れ、ギラギラと輝いていった。十五歳の若さで花形に昇格し、十八歳の今になれば、スターにまで上り詰めた。

演技前、ありのままの姿で化粧台の前に立ち、呪わしかった、残酷な過去を象る片目の傷を見つめる。青年はナイフのように笑った。


──この傷を茶化そう。


メイクブラシで、その傷を悪ノリでブラックになぞり、青年はジョーカーに化ける。

ヘン? 奇を衒(てら)ってる? それの何が悪い。それが俺の魂の生地(きじ)、そのカラーは学歴とロジックのパレットでは足りない。前衛的(アバンギャルド)に尖りまくって、自分らしく輝くことの何がイケねぇのよ? 

 悪ノリでクソクレイジー、生きてるだけで悪目立ちの、それがジョーカー(俺)というただ一つのカード。


人生の傷は、いずれ必ず輝く。


それを俺は、タトゥーと呼ぶように──。


「世間様にゃヴィランと異端と叩かれて、宝を目指して冒険して生きる。毎日のように宴をして、正義と掲げた手合いに追われ、また宝のために山も海も超える。この傷は、俺のタトゥーだ」

そう言い、ジャックは笑った。彼の過去を知り、衝撃を受けたものの、彼という人間がより好きになった。強く美しい、炎の中でも輝くルビーのような男だ。

「お前は、この空が、この世界が好きか?」

「もちろんという言葉以外にあるか?」

「リャハハ! そら! 俺とお前は似ているだろ? なんたって、俺もそうだからな」

かつて路地の闇に浸り、舞台の光で輝いている二人。

ピエロの笑顔がきらりと輝き、ジャックはニッと歯を見せた。そして精悍(せいかん)な青年の顔付きになり、言った。

「約束してくれないか、ピエロ」

「?」

赤い目が、刃物のように気高く光り輝く。その光の名前を、少年も知っている。

「世界を、笑顔にしようぜ」

風が吹く。異端に生まれ、純粋な魂を抱く若者たちの髪と、野原の草花を揺らして。

正義と、美しい狂気を放つ瞳は、兄弟を見ている。

ピエロは、真顔から満面に笑み崩れた。

「もちろんという言葉以外にあるか?」

ジャックがぜんぶの歯を見せるように輝く。

「約束、だ!」

二人は笑顔を照らし合い、拳と拳を突き合わせ、誓い合った。


  9


翌日に、ピエロはハウスのシートに座って仮面と深く見つめ合っていた。ジャックはピエロの作ったゲーム機でゲームし、その他のみんなは居眠りやトランプゲームなどをしている平和なリビングの図だ。 

ジョーカー、エース、クイーン、クラウン。道化師は色々いる。 

彼らに共通するのは、「泣かない」ということ。

じゃあ、ピエロは?

道化の仮面は素顔を隠す偽り、だけど自分の美学や心の本質を映すキャンバスだとも思っている。

この笑いだけを象っている仮面はいいのだが、違和感が半端なかった。──笑顔なのはいいんだけど、あとなんかもうちょい欲しい。 

ぼーっとしたような頭で考え、はっとした。

その空気に気づいて、ジャックがゲームをやめてピエロを見る。ピエロは彼に気づいて深く笑み、視線は仮面のまま話しかける。

「僕は、本当は──図太いように見えて泣き虫なんだ。夢を非難されて涙が出る。グラスを割って可哀想で涙が出る。幸せを感じて涙が出る。寂しくて涙が出る。涙は切っても切り離せないもので、到底隠せるものじゃない。嘘をついても、仮面からこぼれてしまうだろう。僕は、あえて、それを形にする」

「ナミダを?」

ピエロは頷いた。

「クラウンたちは強い。だから泣くことはない。そこが、哀しいところではあるんだけど。君が傷を茶化すなら、僕は──」

マチゲリータの絵の具を取って、仮面の目の下に、ちょこんと一雫のペイントを付けた。

「涙を飾るよ」

ジャックは目を剥いたあと、ひっくり返ってめちゃくちゃ笑った。

「リャハハハハハハハ! そりゃ笑止千万なこった! おいみんなア! またピエロの奴がとんでもねえ大発明をしやがった! 耳をかっぽじろ? ナミダだ! 〝泣き笑いのピエロ〟だとよ! ナミダを伴侶(はんりょ)にするんだとよ!」

それを聞くと、トランプと酒が爆(は)ぜて、皆口をがばりと開けて大笑いした。

「今日は、ナミダの誕生を祝して、宴だア!」

「いやなんでだよおおおおおおおおおおお!」

と言いながら、ピエロは誰よりも楽しく騒いだのであった。


  10


ジャックとの出会いから、十か月は経過した。

サーカステントは人里離れた巨大な森の奥に拠点(きょてん)を置き、仲間が集結してオズの集大成ともいえる地上最大のショーに控(ひか)えて、他の皆は意気揚々(いきようよう)とリハーサルをしている。ジャックとピエロはのんきに森を抜けて、田舎なのもあり、帰ったらすぐにリハーサルに参加するためジャックは衣装姿、ピエロはシンプルなサスペンダー姿で右腰に仮面を引っかけて、町に遊びに出かけていた。

ピエロは紙袋を提げて店から一人で出る。自分好みのアクセサリーも買えたし満足だ。

町は静かである。秋の冷たい夜風が頬を撫でる。

「ちょっとくらい付き合ってくれてもよかったのに」

むっと膨れる。あまりに彼の買い物が女の子みたいに長いので、ジョーカーは痺(しび)れを切らして先に帰るぞと言って先に戻ってしまった。そりゃあ僕の買い物は長いけど、とぶつぶつ言っている時にスーツを着た若い男とすれ違った。

「うん、楽しみだよ。地上最高のショーが始まるからね」

楽しみ──異端者の言葉だが、電話越しに話すその不敵な笑顔に、ピエロは気づくことができなかった。

差し入れを買ったスタッフの男女が歓談(かんだん)して森を歩いている時、スーツの男女が道を塞(ふさ)ぐ。中には未成年の少年少女もいた。上等なオーダーメイドの靴が歩を進め、ハットを被った、端正(たんせい)な面差しの男が先頭に来る。悪魔のように黒いスーツと、銃。団員たちの顔に戦慄(せんりつ)が走る。その男は人好きのする愛嬌笑いで言った。

「初めまして。ったく、ようやく見つけましたよ、死ぬほどね」

「ッ! お前は過激派の⁉」

「サラリーマンだ。言っておくが虐殺(これ)は副業に過ぎない。なかなか割のいいホワイト企業だよ」

彼は、同じ異端者でありながら道化を憎み、正義と銘打って道化を虐殺して金を奪う、世界的な過激派グループの長である。組織にも企業的なシステムが存在し、歩合制(ぶあいせい)で高い報酬を受け取る幹部もいる。サーカスが「遊んで稼げる」企業なら、過激派は「殺して稼げる」企業だった。周りの者たちは、サラリーマンに影響された、楽しく殺す異端者の幹部だ。

「ホワイトですって⁉ あんたなんか性根(しょうね)の腐ったブラックよ!」

「なんだ。すぐキレるってことは、あんた、格下だね」

 冷淡な少年が流し目で言う。

「は……⁉」

「あら、格下でも道化なんですもの。笑顔で死んでもらわなきゃ、面白くならないわ」

 明るい少女が笑顔で言った。

「面白い……⁉ 私たちと同じ感情を……異端者なのに……」

 団員たちは恐怖に支配されて、後ずさる。

「最初で最後の出会いを記念して、冥府(めいふ)の旅へ手配しよう──ばいばい」

最後は皮肉を込めて、向けられた銃口が轟きを上げる。女の悲鳴が上がり、容赦(ようしゃ)ない銃声の乱発が森の暗闇を引き裂く。

演者たちは会場に集まり、爆笑を上げ、異変に気づくことができない。

男たちは手際よく液体を振りかけ、出口を障害物で塞ぎ、ライターの口をピンと弾いた。

無情の笑顔で、油の湖へ火をゴミのように放り投げる。湖に飛び込むと、爆発するように灼熱の炎がテントをくるんで天まで踊り上がる。

中で絹を裂くような悲鳴が上がった。鉄骨が溶け軋んで落下し、空襲のように全員が騒乱と逃げ惑う。電気を失い、鼻をつんとする焦げくさい臭いが充満し、とてつもない熱気が中を包む。

「逃げろ! 火災だ!」

「火事⁉ 一体どうして⁉」

「水を用意するんだ!」

出口を逃げようとも、烈火と障害物が妨害し外に行くことが叶わない。茫然自失とする仲間たちのところへ遅れてやってきた男が、慄然(りつぜん)と呟いた。

「違う。これは……襲撃だ」

手当たり次第消火に努めるが、雀(すずめ)の涙も利かない。威嚇するように勢いを増す炎に追いやられ、絶望と恐怖を満面に浸す団員たち。

悲鳴が中で舞い踊る、業火(ごうか)を着たサーカスを望み、過激派の人間たちはバーベキューをする家族のように笑って興じている。

「かわいそー」

「微塵も思ってないくせに」

「私、花形見てみたかったなぁ」

「帰りにクレープ奢(おご)ってあげるよ」

「ようやくサーカスは片(かた)を付いた。圧巻のラストだな、間抜けだが」

サラリーマンは瞳に火を映して笑顔で言う。

「言っただろう? 害虫の巣は火でまとめて焼き払うのが合理的だとね」

 そして彼は、元団員の男ににっこりと笑いかける。

「奴らの留保(りゅうほ)は重くなかった? 間者(かんじゃ)の務め感謝するよ。君には相応の報酬を支払う。君たちももう行け。関係者も皆始末した。しかしまたどこからかソファの下に忽然(こつぜん)と現れるのが奴らの生態だ。灰(はい)になるまで、僕はここで焚き火しているよ」


  11


リハーサルに参加しないといけないが、ジャックは気ままに道草して、森の帰路(きろ)を歩いていた。

「サボっちまったなぁ。こりゃ怒られるぜ。レナの奴がまたカンカンに……」

足が止まる。遠くの方、紛れもない秘密の場所で、黒々(くろぐろ)と黒煙(こくえん)が立ち上っているのを発見する。ジャックは剣呑(けんのん)に駆られて駆け出した。

走り、走り、無惨に殺された血塗れの死体が通り過ぎていく。

そして開けた広大な場所に出る。まるで、棒になったように動けなかった。

さすがねと笑うスタッフのみんなも、またサボったと怒るレナでもなく。

──そびえ立つ炎の巨人が、ジャックを見下ろしていた。

呼吸を忘れ、この世が終わったような、信じたくもない地獄の感情が彼を苛(さいな)む。

「は……? ……だよ、これ……」

泥濘(ぬかるみ)を歩くような覚束ない足取りで、一歩、一歩を刻む。

「レナ……メリィ、みんな……」

帰る時には、仲間の死体があまりに転がっていて。

家族はみな、あの、炎の中にいる。

絶望の竜が胸を横切り、全身全霊で彼らを叫び、淀(よど)みなく彼は必死に我が家に向かって走る。表が塞がれている。裏を激しい息使いで走り回り、名を叫び、入る隙間もなく業(ごう)を燃やし、完璧な処置に烈しい憎悪が込み上げる。結局何もできず、表に戻って地面を殴った。

「クソッ! クソッ! ざけんなよっ……俺が……外出なんかしている間に……みんな……ッ」

目が熱く燃え上がり、世界が歪んだその時。

パン──乾いた銃声が轟く。背中に弾丸が命中した。

「──ッ⁉」

灼熱(しゃくねつ)の温度と激痛が同時に苛み、出血がほとばしる。ゆったりとした靴音が背後に聞こえる。力を振り絞って、振り向いた。

「……あン? 誰だテメェ」

スーツを着た若い男が悠揚に歩を進め、爽やかな愛嬌笑いで挨拶する。

「初めましてこんばんは。ノリのいいサラリーマンだ。引き金(がね)を引いていいですか?」

 愛嬌とは裏腹に、黒い銃口を向ける。

ジョーカーは力を込めて立ち上がる。今すぐにでもその小綺麗な服を引き裂いてやりたい衝動に駆られるが、丸腰、絶体絶命の状況、下手な真似をしたらそこで死ぬ。致命傷の深手(ふかで)を負い、醜く暴れ回って終えるくらいなら……言わずもがなだ。

ジョーカーの眼に憎悪が燃え上がり、歪んだ嘲笑(ちょうしょう)をギラリと浮かべる。

「ケンカも売ってるんだな、皮肉屋。大繁盛だよ」

「君のお店の炎上っぷりには及ばないよ」

「──射撃。ぬいぐるみは取れますか」

目も追いつかない銃弾が腹を貫き、サラリーマンの目が黒い殺意にぎらつく。

「君の命くらいはね」

ジョーカーは鉄のごとく笑顔を浮かべている。

「ハ……クソが」

「噂に聞いているよ。確かジョーカーと言ったな。常軌(じょうき)を逸(いっ)した言動、狂人のジョーク。一座の花形、赤髪、片目の傷。思ったよりも若い。高(たか)を括(くく)っていたが……ふぅん? まあ造作(ぞうさ)は悪くない。顔は褒めてやろう。イケメンは得だよ? 涙があれば完璧だが」

「テメェにやる水分は生唾(なまつば)で事足りるねェ。俺の涙はダイヤよりも珍しいぜ」

「ああその安いダイヤなら、先日大量に発掘したよ」

「……あァ?」

ジョーカーのルビーのような目が奮(ふる)い立つ。

「まったく、まさにゴキブリのようにしぶとい連中だ。この世に蔓延(まんえん)する、世界の秩序(ちつじょ)を乱す学のないクズどもを一匹残らず僕たちの手で粛清(しゅくせい)したよ。これは正義に基づいた公演(ショー)だ。政府さえ暗黙に黙殺する」

サラリーマンは目を歪ませてかっぴらく。

「ムカつくんだよねえ。こっちは苦労して稼いでるってのに、君たちは何の苦労もなく法律の外で遊んでいるんだ」

「実力派俳優と個性派俳優。ただそれだけの違いだね」

両者は互いに笑みを浮かべて富を得、実際に互いに作り笑いを浮かべている。

「君のジョークは心底理解に苦しむが、程よく殺意には手伝ったから感謝するよ。世界にサーカスなどいらない。そして、君がようやく最後だ。執行猶予をやろう。僕が楽しむために公演しろ。その余裕、どこまで貫き通せる? 道化も所詮死を突き付ければ赤子のように泣く人間だ。君もどうせ変わらない。炎の中のご家族も、せっせと涙の井戸を汲(く)んでるよ」

「それはどうかな」

「……何?」

──炎の中。

天の糸で吊り上げられたような、笑いを象る口々が赫赫(かくかく)と照り輝いている。

「俺の知るアイツらが、そう簡単に笑いを落とす訳がない。──アイツなら、きっとこう言うだろうさ」

顔を伏せていたメリィは顔を上げ、満面の笑顔で言った。


「おもしろいことが起きたねぇ」


アダルベルトがアコーディオンを弾き始め、老若男女が弾かれたように祭りのごとく道化だす。

炎の独房(どくぼう)に囚われたマチゲリータは画房(がぼう)のようにして、鼻歌をうたって日常的に絵画を描き、織姫と彦星は二人きりの美しい火焔(かえん)の舞台でロマンチックな舞踏をする。凛々と蘭々はおもちゃに囲まれてきゃっきゃと座って遊び、レナは子どもたちと小さな子を抱いて、メリィの作り話を笑って聞いている。

号泣の代わりに爆笑し、涙の代わりに汗をかき、灼熱のヒールで踊り狂い、死の舞台を謳歌する。

炎に炙(あぶ)られ、おどける。ひとつの演目のように。

泣き叫びたい、本当は怒り狂いたい。それは、ジャックだって同じだ。

悪魔のような強靭(きょうじん)な笑顔で言う。

「笑顔は道化のポーカーフェイスだ。いざとなれば、死の悪魔とも踊る。──それが、俺たちのオシャレでね」

騒々しい音楽と爆笑のバカ(サー)騒ぎ(カス)が、炎の壁を突き破る。

「ならば心臓にタトゥーを刻んでやろう。そっちの方がオシャレだろう?」

「ハァッ! 嫌(キレ)ェだね、そのジョーク滑ってんだよ。ゴキブリと言えば、アンタのそのオシャレなコスのことだろう?」

銃弾が横腹に命中し、軸を崩しそうになるが力づくで堪(こら)える。

「テメェはブラックキャップがお似合いだよ」

再び無言で打ち込まれ、立ち笑い続ける。

「正義は、常識や概念で決められるものじゃない」

パン──血しぶきが舞う。

「悪魔に魂を売ったか。つくづくイカれている」

全身は焼かれるように熱く、狂気的な正義は依然として眼に輝き、ジョーカーは乾いた大声で笑う。

「何が可笑(おか)しい」

「アンタの重大なミスにだよ。臓器は蹂躙(じゅうりん)された。だが心臓は撃てちゃいない。──怪物がいんのさ。神は、ロゼは、オッカさんは、とんでもねえバケモンを生み出しちまったんだよ!」


──森の帰路。どす黒い大煙(たいえん)が列をつくり、炎が天を焼いていた。少年は、黄金の目を慄然と見開いていた。

「この世の反則カード──アイツこそがジョーカー。少なくとも、アンタが殺れるシロモノじゃねぇ」

ゾッとするほどの冷たい悪寒が、少年のつま先から全身を流れる。

「ジョーカー!」

絶叫し、ピエロは血相を変えて馳(は)せる。


ジャックは一人の男を鮮やかに思い浮かべ、瞑目し、銀河を背景に彼の未来を想像する。

「俺には分かる──」

胸の中で、まるで絶対的な信頼と畏怖(いふ)で出来た巨大な塊が、燃える魂に月と太陽の衝突の図にも似てぶつかり、武者(むしゃ)震(ぶる)いの交響曲の似合う気高い現象として桁外(けたはず)れに爆発する。燃える眼(まなこ)で射抜き、理不尽な正義に、全霊をかけて言う。

「アイツは、宇宙を擬人化した男だ。この世のすべてを創造する男だ……! 概念もろともカードみてえに翻す、全能だ! 約束したんだ──」


燃えるような使命感が、糸で操るように限界を超えた体を突き動かす。

道化るように、片方の脚を横に蹴り上げ、大きく両の腕(かいな)を折り曲げる。


「アイツの炎が、消えない限り」


聳(そび)え立つ炎上のサーカスを背景に、カードになるような圧倒的な画の中で、ジョーカーは笑顔を浮かべた。


「俺が死んでも──サーカスは、死なねぇよ」


ドン──道化師の真後ろで、炎が超弩(ど)級に爆発した。 

 金色に舞い散る火の粉の激しい熱風に、サラリーマンの髪が踊り、圧巻の道化を見据えている。

煌々と輝く火炎を背に咲く薔薇のように、ジョーカーは道化たまま、男を決然と見据えて続ける。


「サーカスは、俺たちの心にある」


その目に、嘲笑いさえ浮かべて、狂気的に射る。


「アンタに、サーカスは──殺せねぇよ」


束の間。


「既に燃えているが?」

サラリーマンは真顔からニッコリと嘲笑った。

「道化──狭きに愛され、広きに愛されず、政府にも葬(ほうむ)られ、滅びていく哀れな存在。炎に焼かれて、死んでいく。死ねば、笑うこともなくなる」

アコーディオンは止み、笑い声は消えていく。炎の中の道化たちは、一人ずつ倒れていく。地面に力なく横たわり、断末魔(だんまつま)も悲鳴もなく、笑う口の隣に、透明な涙が滴る。

「そして、君の命もそうだ、ジョーカー。吹けば消えるだろう。命の在庫は、もう残ってない」

滝のように汗が出る。意識は朦朧(もうろう)とし、視界は点滅して蛆虫が泳いでいる。あの男が何重にも見える。戻らない眠りへ沈んでいく。死にたくない──死んでたまるか──生きたい──立つのに精一杯だ。

理不尽に、殺戮(さつりく)に、悲しみと憎しみが無様に喧嘩(けんか)して鬩(せめ)ぎ合う。こんなハズではなかった。こんな風に終わるはずではなかった。

アイツ一人に、背負わせるつもりなんてなかった。

アイツの翼に乗って、空を飛び、世界を家族と共に笑顔にするはずだった。

アイツを、一人にさせるつもりなんてなかった。

結核にも近い荒い息を吐き、出血の止まらない傷口を押さえ、彼はよろめき膝を突く。地面に手を着き、疲弊(ひへい)し、笑顔で死にかける。

──無様だ。だが君が一番楽しかったよ、ジョーカー。

ニッコリと笑い、サラリーマンは言った。

「この世の勤務ご苦労さま。ばいばい」

乾いた銃声が、幾度(いくど)も深い森の中で轟いた。


  12  


「ハァ、ハァ、ハァ……ッ、ハァ……ッ!」

死体が、視界に流れていく。涙を溢れさせ、焦燥(しょうそう)に駆られて全力で走る。仲間は襲撃に遭い、魚のように死んでいた。非道極まりなく、怒りと悲しみがぐちゃぐちゃに込み上げる。絶望に満ちた慟哭を噛み潰し、まだ生きているかも知れない仲間のために、徐々に大きくなる炎を目指す。

森が開けると、日車と化したサーカステントが彼を待っていた。鼻腔(びくう)を刺す臭いと、灼熱の熱気を放ち、死の静寂が辺りに満ちている。

仲間が、リハーサルをしていた。全員、あの炎の中の餌食に……?

頭が真っ白になり、涙を忘れるほどの絶望に苛まれる。

血だまりに倒れる赤髪の青年を視界に拾い、涙を光らせ弾かれるように駆け寄った。

「ジャック……ジャック!」

上体を起こし、血を流す顔に至近距離で呼びかける。

「ピエロ……」

ジャックが、消え入りそうな声で反応する。

「そんな……こんなの酷過ぎるだろ……? ジャック……」

少年の瞳からぼろぼろと大粒の涙が溢れだす。

「そんな泣くな。こんなの掠り傷ッ……」

命を削り取る激痛が顔を歪ませる。紛れもない致命傷は、命を果てまで食らう。

「どこが掠り傷なんだよ! 君は……」

知っている。あの雰囲気と、誰かと似た、さほども残っていない生気を振り絞った笑顔。

また自分は、大切な者を誰かに奪われ、失う。

「大丈夫だよ、まだ間に合うよ……急げば……」

ジャックは優しく笑った。

「もう、遅い」

 衝撃を受け、ピエロの顔に激しい悲しみと絶望が広がり、涙が激流をつくる。

「嫌だ……冗談だろ……?」 

「泣き虫が。笑えよピエロ……お前の好きな空に行けるんだぜ」

少年は泣いて怒り叫んだ。

「ふざけんな! 滑ってんだよォ! 死ぬなジョーカー! このバカ野郎! ジャック! ジャックゥ……!」

 青年の首に取り縋(すが)りながら、少年は嗚咽(おえつ)して続ける。

「……みんな、燃えちゃったよ。僕たちだけなんだよ……。ねぇ、二人で生きようよ……三人で生きようよ。大丈夫だよ、何とかなるよ……。ねぇ、お兄ちゃん……」

赤い目が悲痛にきらめいて見開き、悟られまいと目を閉じて、口角(こうかく)を震えながら吊り上げる。

「ごめんな……ピエロ……」

自分を抱きながら泣く弟を、震えながら強く抱き返し、笑顔で言った。

「……かけがえのないほど、愛してる……」

少年の瞳は限りなく衝撃的に見開かれ、愛と悲しみに打ち震える。

ジャックは少年を見つめる。

こいつは自慢の弟で、盟友であり戦友で、自分が知る、最も凄い道化師だ。

だから──

「ピエロ……聞いてくれ。お前に、伝えたいことがあるんだ」

ひどい泣き顔に、笑顔で言った。

路地で見つけた、白い子猫のように蹲っていた少年。

「お前を、一目見た時、思ったんだ」


初めて目が合ったあの時、魂を掴まれた。

瞳の奥にある、無限の銀河を見つけた。

直感が、確信を叫んだ。


「お前は、すげえ奴なんだって。世界を照らしてくれる、スターになるんだって」


少年という、奇跡を見つけた。


「生きろ」


遺言と、使命を託す。

黄金の神々しい眼が、それを刻み込む。


「どんな理不尽に打ち負かされ、独りになり、正義を翳(かざ)されても。迷わず、足を動かせ。前を見定め、歩き続けろ。お前には、立派な目と脚が付いてるじゃねぇか。大事な夢と、相棒がついてるじゃないか」


限りなく瞠目し、ピエロは涙を垂れ流す。ジャックは最後まで笑う。


「信じろ。必ず叶う」


大きな瞳に涙を溜めて、ピエロは泣き叫ぶ。

「でも、君を置いてなんて行けないよ! 一緒に……」

ジャックは全身全霊で怒り叫んだ。

「男がグズグズと泣いてるんじゃねえ! さっさと行け! 行っちまえ! まだどこに潜(ひそ)んでるのかわからねぇんだ! 殺されてぇのか⁉」

ピエロは激しく傷つき、涙に満ちた瞳の中にある愛を見、力強く目を瞑る。そして、勢いよく振り切った。


 地面の土を寝台に、沈黙の中で、青年の生命の灯は静かに消えていく。

ポツリ、ポツリと小粒の雨(あま)雫(しずく)が顔を叩き、強くもなく弱くもなく滔々(とうとう)と降り始める。

哀切(あいせつ)が激しく胸を灼き、喉まで熱が込み上げ、きつい悲しみの匂いが、鼻の奥を突き刺す。

──ナミダくせぇ。

眼前に横たわる、雨の降りだした暗黒の空が滲む。 

──もう、遅ぇよ。

みんな燃えちまった。

やり残しまくったまま。

「まだアイツに……好きだって言えてねえよ」

目が熱くなる感覚が懐かしく、胸が苦しく、彼女のために用意していたそれは、命と共に流れようとしている。

──道化の愛は、いつだって笑われる。

最後の力を振り絞って、空を抱いた世界に、震えながら手を伸ばす。


「……愛、して…………、愛して、いる」


最期までそれは得られず、けれども、ひとりの女へ、また家族へ、果てしなき世界へ、道化師は最期(さいご)に愛を送る。

その手は届くことがなく、一筋の血の涙が、頬に流れていった。


13


雨は怒り狂うように激しく森を叩き付け、少年の溢れる涙と混ざる。仲間を見捨て、目を開けるのも厳しい豪雨の中、必死に少年は森の道を駆ける。

躓(つまづ)いて勢いよく転び、地面に顔面を叩きつけて泥を噛んだ。湿った苦味が広がる。鼻筋がじんじんと痛む。力が震えて入らず、四つん這いになることしかできない。涙が溢れ続ける。 

大切な人は、ひとり残らずみんないなくなってしまう。

砂のように、握った傍(そば)から零れていく。

自分が幸せになってはいけないというように。それがまるで運命とでもいうように。

結局、ひとりになる。

一体、どれだけ奪われればいいのだ。どれだけ奪ったら気が済むのだ。

自分のすべてを奪ったお前が憎い。世界が憎い。

なぜ奪う。

なぜ命を奪う。

なぜ僕から大切なものをひとつ残らず奪い取る。

自分を孤独の線で縁取り、雨音は爆笑するようだ。

「ふざけるなよ! 何のためにお前を愛していた⁉ 僕はただ、お前を笑顔にしたかっただけなのに! お前は無情だった! お前のために命を賭(か)け! それでも嘲笑う人形だった! 何一つ! 僕から何も残らないのなら……僕はお前に殺されたも同然だ。僕も殺した、お前も……炎に焼かれてしまえば良かったんだ……」

もう、何もかも燃えてしまった。

自分の命を追う動物の気配もない。

走る意味もない。

憎悪も雨に溶け、悲しみの世界にたったひとり残され、圧倒的な虚無感が命の原動力を奪う。

僕も殺したいのなら殺せばいい。

生きる意味もない。

絶望で出来た人形になる。

「ふざけるなよっ……一体何のために、こんなろくでもない世界で、一体何のために……」

雨が、ただひたすらに惰性に涙と溶けていく。

少年は盲目となり、絶望の淵(ふち)に沈んでいく。そこで長い時を過ぎた時、せせら笑う、良心が崩壊した罪と悪の世界が待っていた。

その、取り返しのつかないところまで、堕ちようとした時だった。

ゴロゴロゴロ……

黒雲(こくうん)が唸り、世界の空が歪(いびつ)に白く閃いた。


──ドゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!


天が怒り叫び、幾筋(いくすじ)の雷が、少年を囲う森林に落ちる。

たちまち両隣の森が巨人のように燃え上がった。

熱気に満ちて、周囲の世界が赫赫と光り輝き、少年を囲う。

少年は顔を上げた。

黄金に輝く地面の上で、より主張するように照り輝く二個の輝きがそれぞれ、限りなく開かれた少年の瞳に暴力的に飛び込む。

仮面と、人形。

──ザバン!

バケツをひっくり返したように、どしゃ降りが火災を消し、再び雨と暗闇に戻る。

石化したように呆然となり、限りなく瞠目している。

瞳の奥を震わせて、魂を掴まれ、葬りかけた生きる意味を見つける。

涙に目を歪ませた。片手に力を入れて、泥を這う。しかし力が笑って体軸が崩れた。腕を伸ばし、重い体を引きずって……また一方の腕を伸ばす。泥を舐め、絶望の中を泳ぎ、必死にもがきながら這い進む。


「僕には……夢がある」

右手が、仮面に触れた。


「僕には──君がいる」

左手が、ロアを掴んだ。


起き上がり、生きる意味を手の中に収め、胸の中に押し込んできつく抱き締める。

涙が、ぼろぼろと頬を流れる。

「負けたくない……諦めたくないっ」

絶望の淵(ふち)に沈み、また、崖を這い上がる。

世を恨み、世を憎み。理不尽に打ち負かされそうになり、涙を噛み、下を向き──

お前に負けたくないと、心を擡(もた)げる。

むくむくと生気の煙が立ち起こり、暗雲に埋もれた信念が、月のように冴え渡る。

そうだ……。

メリィと、約束したじゃないか。

──お前のために、命を捧げる。

怒りと、覚悟の火炎を巻き上げ、命の焔(ほむら)が太陽を模して輝く。

「この世において……」


理不尽へ、正義へ、常識へ──。


「この世において……」



そんなもので出来た世界へ──。



少年は全霊をかけて、涙を流して、怒り叫ぶ。


「叶わない夢なんて、ない!」


心に刻んだ、青年の言葉を思い出す。頬を強く叩く。

「信じろ! 夢を、自分自身を! 生きろ! 仲間のために、応援してくれた人たちのために! どんなに笑い者になっても、絶対に諦めない! 立ち上がる──」

もう力は笑わない。使命が、少年をたくましく立たせる。

 ──みんな。

授(さず)けてくれた想い、繋いでくれた命を、ムダにはしない。

君たちは、偉大な道化師だ。

ジャック。

ありがとう。

少年は、紳士が突く杖のように立ち、凛々しい顔で笑う。


「創るよ。僕が──新しい世界を」


世界に挑む笑顔が、覚悟と信念を光らせ、少年は泣き笑いの仮面を被る。

空は真黒く、雷雨に荒れ狂っているが、ピエロは青空の快晴のようにも思えた。

 もう、誰も絶望させない。もう、誰も悲しませない。


「僕は、ピエロ・ペドロニーノ。世界を、笑顔にする道化師だ」


 仮面と同じ素の表情が、狂気を裏打ちして笑った。

今はまだ小さいけど、大人になったら一人称を変えようかな。

立ちふさがる運命の小石を楽しく蹴るような足取り。後ろ手を組んでご機嫌に歩む。

ここでシルクハットがあったら最高なんだけど。空から落としてくれないかな。

まあ、雷なら落としてくれたけど。

口笛を吹いて、ピエロは晴れ渡る闇の中へと消えていく。


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