ああああああああああああ

ムーン

第1話

 1


バン──少年が豪快にドアを開ける。

「さあ!」

電気を点け、颯爽(さっそう)と白衣を羽織ってゴーグルを着ける。

「ここは科学と発明のシティ──ピーター工房(こうぼう)! サイエンティストピーターの手によってクリエイトされるのは七人(しちにん)のトイだ!」

ショーマンのように言いながら、七枚の写実的な設計図が貼られたボードをひるがえし、垂れ紐やレバーを引く。広い工房は、ファンタジーの国のように珍奇(ちんき)な発明品と遊び心で溢れている。ポーっと汽笛(きてき)みたいに七色の煙が煙突から上(のぼ)り、マシンの光と唸りが湧き上がる。

壁のスイッチを押し、廊下側のドアの赤いライトが灯る。

〝立ち入り禁止!〟

早起きした夜明け、今日も今日とて騒々しい、発明と創造(そうぞう)が行われる。

「さあ! 創造の旅に出かけよう!」

手前のSFっぽいイスに跳(と)ぶように座ると、デジタル画面が浮上し、AIの女声が質問する。

『クリエイションは何に致しますか?』

プログラム入力と組成(そせい)とピーターが言下(げんか)に返すと、『了解しました』と上昇する。空中ディスプレイに囲まれ、目にも止まらぬタイピングで台に置かれたロボに知能を入力し、同時並行で機械がパーツを組み立てていく。それを終えると、

「休憩五秒!」

爽やかにゴーグルを外し、自動販売機風の機械のスイッチを押す。ペットボトルが落ちるどころかマシンは原料から作り出し、ピタゴラスイッチ的にジュースがすいすいと作られていく。その間にピーターはチェアに収まって大きな本棚から分厚い本をとり、まともに文字も読めないような速度で「へ~」と三秒で読破した。ちょうどその時に受け皿にぽん、となみなみと入った苺プリンジュースが置かれたのを一気飲みして、ちょうど五秒。

移動がてら、ルービックキューブ五個をジャグリングしながら見もしないで色を揃え、それからも人知を超えた発明の神業(かみわざ)を成(な)していく。

 非常識な発想を際限(さいげん)なく生み出し、この世に存在するすべての天才を与えられた、ピーターは全能(ぜんのう)の少年だった。学校ではチートとかけて「チーター」とさえ呼ばれている。

「できた!」

ゴーグルをぱっと外す。

台に完成した、手作りの七人のおもちゃを並べる。彼らは情を持たず、当然話すこともしない。それでもピーターは慈愛(じあい)を浮かべて、本当に生きているかのように目を合わせて丁寧に話しかける。

「君はローリエ。お花が好きな女の子だ。そして君は、ゼクロスセブン!」

想像からそのまま飛び出してきたかのように、この手で生まれた彼らに、無邪気なよろこびがきらきらと胸に輝いて、愛情いっぱいにハグをする。

「今日から君たちは、僕のともだちだ!」

腕いっぱいに抱えてくるくると踊って、遊ぶぞー! と隣接のおもちゃ部屋に行くべく駆け出す。しかし目的の方向とはまったく違う方を走り──ドン!

壁に額を強打(きょうだ)して、派手に倒れた


  2


「いってきまーす!」

いってらっしゃ~いという声を背に、もりもり朝ごはんをお腹に放り込んで立派な家から飛び出し、ピーターが門扉(もんぴ)を抜けたところで急停止する。絶景が目に飛び込んできたのだ。

それは青く輝く空。わあっと感嘆の息を零し、夢見るように恋をする。天使みたいにまっ白な、天然ウェーブの髪を春風が撫でる。

すーっと、花の匂いをたっぷりと含んだ風を肺いっぱいに吸い込んで、両腕をばっと振り上げる。

「おはよう世界! おはようみんな! おはよう僕!」

そう叫んで、大笑いしながら地面を蹴った。今日も元気いっぱいに登校だ。

道端の花、すずめの家族、葉(よう)緑体(りょくたい)、電柱、マンホール、どんな物であろうと「おはよう」と挨拶(あいさつ)を欠かせない。この世界の風物(ふうぶつ)すべてが生命を宿し、まるで輝いているようだ。すごい! あれは一体なんだろう? 世界の万物(ばんぶつ)に興奮し、疑問を抱き、たんぽぽひとつ見ても百千(ももち)の薔薇が咲く花園と同じくらい感動する。うたうように夢見心地な魂と輝かな笑顔で、この世界を愛する。この世界そのものがファンタジーであるかのように。

ピーターは人間も大好きだった。非常に陽気で楽しく、彼を知った子どもたちは、みんな彼を大好きになる。楽しい心という宝は、子どもたちだけが受け取り伝染し、喜びの輪を広げた。

ピーターを窓越しに見つけ、小さな男の子が家の中でぴょんぴょん跳ねる。

「ママ! ピーターだよ! ピーターがいる!」

「あんなもの見ちゃいけません!」

ぴしゃり! ぴしゃり! 男の子のお母さんも他の家庭も、続々と陰気にカーテンを閉める。

ピーターは急に方向転換して藪(やぶ)に飛び込んだ。新品の布団(ふとん)みたいに転がって気狂(きちが)いみたいに喜ぶ。

「草! 草! 草だ~! わ~~~~!」

園児たちが腹を抱えて爆笑する。『こら見ない!』と、主婦たちが頭をねじる。

アクロバティックに住宅街をジャングルのように飛び舞い、屋根を上るとバッグから紙飛行機を取り出して、希望を乗せて飛ばす。追いかけるも紙飛行機は電線にぶつかって直下に落ち、叱られておんおん泣いていた男の子の頭を嘴(くちばし)が突(つつ)くと、ぴたりと泣き止んで手元に転がった。突然舞い降りたおもちゃに笑顔が弾けて飛び跳ねる。丹精込めて作ったものだが、ピーターは豪快に笑って頭を撫でて「大事にしな」と通り過ぎ、通行人の腕の中で泣き止まない赤ちゃんを「バア!」と変顔一発で爆笑させる。

「あんたたち、今日こそはピーター君の秘蔵写真を撮りまくるわよ!」

パパラッチ兼ファンクラブの女子小学生軍団が意気込んでいる。

「僕の何を撮るって?」

ぬっとリーダーの女子の後ろから当の本人が笑顔で登場。数秒後、耳をつんざくほどの黄色い悲鳴が上がった。サインちょうだいとアイドル並みに要求され、「僕と踊ろう!」となぜか急に踊りだし、ピーターは代わる代わる手をとって女の子たちとパーティみたいに踊る。

その笑顔あふれる楽しい輪に、幼い女の子が憧れるように笑って足を進めるが、大人に腕を引かれる。しかしその人の腕をピーターが引っ張って、女の子もつられて輪の中に招き入れる。

「ちょっとぉ!」

「一緒に楽しもうよ!」

輪を抜け、人の家の壁に芸術的なサイケデリックな落書きをする。

「なんじこりゃゃゃぁ⁉」

たまげたおじさんに、自慢げに白い歯を見せる。

「ピータープロデュース! 壁画(へきが)アートさ。イカしてるだろー?」

ウインクしてあははと愉快に笑うピーターに、アートのアの字も知らないおじさんはぶるぶると拳骨(げんこつ)を作ると、怒髪天(どはつてん)を衝(つ)く。

「お前はイカれてるー!」

こらー! とたくさんの人に怒鳴られ追われ、さらにピーターを崇める女の子集団も交じって大集団に追われるはめになり、大笑いしながら逃走する。

「JKのしょく~~ん!」

学校かったりいと愚痴るJKのギャルたちが、『あ?』と振り返り、ピーターを見るなりきゃぴきゃぴと黄色い声をあげる。

「いやあ! かっわいいー! ピーター!」

両腕を広げてハグを出迎えるも、

「ごめーん! 今鬼ごっこで忙しいんだ!」

「鬼ご?」

ピーターが横を通り過ぎるや否(いな)や、台風のごとく大集団がJKを通過し、その強風でスカートが捲(めく)れ上がる。

『ピーター!』

垣根(かきね)をのぼり、洗濯紐の上を綱渡りのようにして渡り、わざわざ宙返りで屋根にのぼる。顔を背けると、鬼集団はかなり遅れて走っている。

「あっはははは! これじゃまるでアキレスと亀だな! まっ、僕は何事も油断しないアキレスだけどねっ」

忍者みたいに屋根と屋根を伝って、一番高い屋根まで来ると立ち止まった。後ろを振り返っても、見下ろしても誰もいない。完全に振り切ったようだ。

ふぅ~。一休みに屋根に座り込む。ちょうど勝手に休憩所に決めた家は、市街地と住宅街の境目にあり、眼前には大きな街の光景が広がっている。遠くの方で自分を見失った鬼たちの乱れた喧騒(けんそう)が聞こえる。イカれてやがるとか病人だとか、うんざりするほど聞き飽きた言葉が舞っている。笑い声が喉からくくくと漏れ、笑い転げる。

遊ぶことは許されない。それはこの世界のルールだし、ピーターもわかっている。でも、大人も子どももみんな交えて遊ぶのは最高に楽しい。ピーターはむせ返るほど笑い尽くした。そして何かの糸で手繰(たぐ)り寄せられるように、空を見上げる。分厚い雲の下で、鳥たちが気持ちよさそうに泳いでいる。果てしなく澄んだ青色に、心を吸い込まれていく。

「きれいだ」

幼い頃から、よくこの広い空を見つめていた。空に住んでみたい、雲の上を歩いてみたい、そんな風に子どもらしく色々なことを考えた。

空とは当たり前のようにあって、非現実的にかけ離れている。気がつけばいつも見とれていた。いつのまにか恋をしていた。夢のように憧れていた。そしてそれは、花咲くように大きな夢へと昇華(しょうか)した。

ピーターは目を閉じる。真っ黒なキャンバスに極彩色(ごくさいしき)をよりどりみどり塗りたくる。そこは染み一つない青色のせかい。百色のクレヨンだって足りないくらい色彩にあふれた、何から何までオモチャで出来た空飛ぶ夢の大国──おもちゃの国がある。そこでは変てこな姿形をしたたくさんのモンスターが陽気に歌い踊り、天国も嫉妬(しっと)する心躍る楽しい音楽と、笑い、明るさに溢れている。

そう夢想(むそう)する度に、楽園の心地に満たされる。現実に戻ると急かされたようにバッグから、柔らかい布地のカジュアルな服を纏(まと)った少年人形を取り出す。五歳の頃、自分が初めて創ったおもちゃ。トイ。名前はロア。ずっと肌身離さず一緒にいるお気に入りのおもちゃで、弟のようなともだち。相棒という言葉にふさわしい存在だ。

「ロア」

心を込めて名前を呼ぶ。返事はなく、ただ固定の笑みを返すだけ。当たり前のようにロアは喋らないが、ピーターは心があると思っている。彼は生きているのだと。

「どんなものにも心があるのよ」

母は優しくそう言った。その言葉をなんの疑いもなく、本当に信じている。だから、真っ白な壁にもコンクリートにも、すべてのものを人間のように思っており、愛している。指をさされ、おかしい奴だと言われるが。

へへへと薔薇色に笑み、小さな体を抱きしめる。

「だいすき。僕の最高のともだち。ロア」

キスをし、ちょこんとロアを隣に座らすと、ピーターは眼前の遠くまで続く市街地を澄んだ目で見つめる。そよ風が白髪を撫でる。ビルが陰鬱(いんうつ)に人々を取り囲み、暗く、俯きがちの労働者たちの機械的に行き交う姿は、葬式のような悲劇的な印象を抱かせる。 

少年の神々しい瞳が、泣きそうになるほどの哀(かな)しみに震える。

古代からほとんどの人は、「楽しい」という感情を持たずに生まれ、勉強と労働漬(づ)けなのが常識だった。

時々彼のように、生まれ持って楽しみを知る者は「異端者」と呼ばれ、心の畸形児(きけいじ)として冷たい目を向けられた。

ピーターが当然のように抱くその楽しいという感情は、人類の新しい感情だった。周りの子どもたちは、柔軟な心で彼が振り撒く楽しみを知り、喜んで受け入れる。

楽しみを心から愛し、いつだって楽しそうに笑っているピーター。そんな彼に、大人たちは畸形児を見るような目を向ける。地球儀のジグソーパズルに一つだけはまらない一ピースのように生まれ落ちたピーターは、他の誰にも似ていなかった。

ゆったりとした動作で地面に背を預け、腕の枕に頭を乗せる。透きとおるような金色の瞳に、大空がはまっている。

「この世界は楽しみを知らない。けど、僕は知ってる」

目を瞑(つむ)る。心地よい静かな闇が己(おのれ)を満たす。風の声も、木々のざわめきも、人々の喧騒も、すべての音がつまみを回したみたいに消えてゆく。


「世界(きみ)を愛してる。だから、世界(きみ)を壊す」


美しい狂気が、心優しい反逆者のその目に輝いて、剣(つるぎ)のような黄金の瞳を空に向ける。

ニイッと不敵に笑うと、跳ぶように起き上がる。そして世界に向けて宣言するように、大きな声で叫んだ。

「僕は、空に国を創って、世界を笑顔にするんだ~~~~~!」

その叫びは反響して、何度も小さくなって返ってくる。どうだ、と聞こえんばかりに微笑んでいるその時。こらー! とおじさんの怒声が鼓膜(こまく)を刺した。

「げ! やばい!」

ピーターはむしろ見つかって嬉しそうな笑みを浮かべ、身軽に屋根から地上へ飛び下り、逃避行(とうひこう)を続行する。


  3


ベルーナ・ローザンス小学校。

全校生徒はおよそ五百人。極平凡な六年制の学校だ。当然のように運動会や遠足などという夢みたいな行事はない。遊び時間すらなく給食は刑務所の中のように黙々と食べ、授業中は時折(ときおり)シャバを羨ましげに眺めているのが一般的な小学生のあり様だ。

小学生に限らず、学生は堅実(けんじつ)に一人前の社会人になるべくいい大学に行って、とにかく学力を磨くことが本分なので勉強三昧(ざんまい)の毎日である。学校生活は楽しいかと男の子百人に訊(き)けば、「うんち」と言葉の綾(あや)で返ってくる。

彼らの顔は死んでおり、学校に到着したばかりの朝放課でさえ、子どもたちは軒並(のきな)み黙々と机と向き合い、ただ鉛筆の走る音が遺書のように響いている。

──しかし。

五年E組は、違う。

土足で机に突っ立ち、鼻水を垂らした半袖半ズボンの男子が指を天井に向ける。

「カンチョー十てーん! 女子のスカート十まーんてーん! サーヴァントども~! 女子どもを駆逐(くちく)しろぉ!」

『イーーーッ!』

ショッカーみたいな奇声を上げ、手下の男子たちが散らばってクラスメイトたちに襲い掛かる。スカートと悲鳴が踊り、ぎゃはははと大笑いする男子たち。

肥(ふと)った眼鏡の女の子が、地割れでも起こすような太い怒声を上げる。

「ちょっと男子ぃ⁉ 今は勉強する時間でしょ! うっさいんだけど!」

「はぁ? お前の声の方がうるせーよ!」

「そーだソーダー! なんで俺たち男子だけに怒んの? フコーへー」

向かい合う男子と女子。男子軍団がブーブーとブーイングを始め、そこで日常風景的な男女の拙(つたな)きバトルが幕を開ける──

はずだったが。

「おい! なんか学校が騒がしいぞ!」

普段は大人しい他クラスの男子が声を張り上げたことで、ようやく学校の異変に気づいた五年E組。バトルをふとやめる。ぴーちく騒いでいたせいで全然気づかなかった。

いつもは静粛(せいしゅく)な校内全体がざわついている。

全教室の窓際で子どもたちが溢れかえり、職員室の教員たちも外に顔を突っ込んでいる。

学校の誰もが空を見上げ、面食らっていた。

「おい! あれ見ろよ!」


バラバラバラバラバラバラバラバ!


ヘリコプターの飛行音。最新鋭の軍用ヘリが学校に接近している。屋上と肩を並べる高さで校庭上を飛翔(ひしょう)し、校舎に迫ってくる。──E組に迫ってくる。

「特攻か⁉ それとも奇襲か⁉」

色めく学校全土。髪の毛がヘッドバンキングする暴風をまき散らし、三階の五年E組に沿うように至近距離でとまった。タクシーみたく。

──まさか……。

なぜか助手席には、白い髪の美少女(ピーター)が座っていた。


『なにヘリで登校してんだよおおおおおおおおおお!』


クラス全員に突っ込まれ、ヘリの扉が開く。ふわりと身軽に飛んで、教室の床にコツ、と高いヒールを響かせる。

波打つ腰まで届く豊かな白髪、抜群のスタイルを華麗に見せたセレブ女優のような出(い)で立ちと、まばゆいオーラを纏(まと)っている。グラサンをさっと取り、踊る白髪を押さえ、超然とした笑みでお嬢様の声で挨拶をする。

「おはよう」

『どこのスーパースターだお前はあああああああ!』

目を飛び出させる皆の反応などお構いなしに、飄々(ひょうひょう)と後ろを向いて親戚(しんせき)に手を振る。

「ありがとう大叔父(おじ)さ―ん!」

お茶目に投げキッス。軍用ヘリの操縦者、厳つい傷(きず)顔(かお)のおじさんが、姪孫(てっそん)にデレデレの笑顔でそして想像もつかない声で

「ばっちぐ~!」

と親指を立てて言い残し、颯爽とヘリを退去させた。華麗に身をひるがえす美少女。グラサンを再度装着し、澄ましたように足を組んで腕を束(つか)ねる。

「ピロリンゴ」

『ピロリンゴじゃねえよおおおおおお!』

呆気(あっけ)にとられるE組の面々。グラサンを弾(はじ)きどうしたのかと苦笑するピーター。

「……大丈夫?」

『てめぇの頭だあああああ!』

ピーターは腹の底から大笑いする。度肝(どぎも)を抜かれたものの、まあまたピーターのことかと、そのうるさい笑い声を中心に笑いが上がった。

うーっす、おはようとゲリラ挨拶を一身に浴び、奪い合うようにたくさんの友達が彼に押し寄せる。

なぜヘリで登校したのかとクラスメイトが訊くと、街のみんなと仲良く鬼ごっこしていていつもなら余裕で切り離すのだが今日はやけにしぶとく、変装して雲隠れしようと女の子になったのだが髪が白いしすぐにバレ、それでちょうど大叔父さんの家に通りかかったから愛ヘリで学校まで連れてってもらったんだと愉快に答えた。

つくづく宇宙人だと誰もが思う。

「全く……うるさい砂利(じゃり)どもだな」

突如、賑やかな輪に冷たい声が届いた。クラス全員がピーターを取り囲む中、その男の子はただ一人、切り離されたように席についていた。

「ぺちゃくるだけで勉強も手につけられないのか? おめでたい集中力だな。だからそいつと同じように、先生から愛想(あいそ)尽(つ)かされるんだよ」

流し見る鋭い目。愛嬌(あいきょう)さえあればかなりモテる顔立ちだが、その顔は人を寄せ付けないように鋭く冷たい。

『マーティ!』

マーティ、学年順位三番目と大きく差を開いて、ピーターに続いて二番目の秀才(しゅうさい)。思ったことは口に出す毒舌家(どくぜつか)で無愛想(ぶあいそう)のせいか、クラスで嫌われていた。皆の顔が引きつる。

「やあパンティ!」

ただ一人を除いて。

みんなが盛大に吹き出した。ピーターはマーティの席に身を乗り出し、首に巻きついて互いの毛穴が見えるほど接近する。

「や! 今日もかわいいね!」

「やめろこの変態! 俺の机に乗るな近い邪魔だ失せろ! それに俺はパンティじゃない! マーティだ!」

「マーティもパンティも一緒だろー? それに僕はパンティの方が愛着があって好きなんだー」

「お前の好みなんて知るか! あーくっそ! くっつくな暑苦しい!」 

普段はあまり人と喋らず、喋りかけられても無視するか生(なま)返事(へんじ)のどちらかの彼だが、なぜかピーターといるとやけに活き活きしている。二人はできているという噂があるほどだ。

「いちゃついてるー……」

「二人、絶対そうだよねー……」

ひそひそひそひそ。

「キスすんじゃねえよ!」

「ほっぺだろう?」

「きめえ!」

「素直じゃないなー。僕のこと大好きなくせに」

「はぁ? 絶対にない!」

「ふぅん。君の誕生日に、君のために僕が作った学業成就(じょうじゅ)のお守り、ずっと筆箱につけてるくせに?」

「それは……捨てるわけにもいかねえし。別に特別な意味なんてねぇよ!」

いつの間にか皆はにんまりしている。彼らの大半はマーティをよく思っていなかったが、ピーターと接する彼を見ていくにつれ、毒舌が多少鼻につくが、今や彼はクラスの「可愛い男の子」としてひそかに人気を得ている。

毛穴の距離のまま、目線をおどおど逸らすマーティ。ピーターはなにもかも見透かしたようにまっすぐに見据(みす)え、にやりとゆるんだ唇が耳元で囁(ささや)く。

「僕のこと、崇(あが)めてるくせに……」

びくっと整った眉毛が反応した。なぜそれを! と言わんとするように顔を合わせるマーティ。他の子たちは意味が分からず首をかしげる。マーティは顔を背け、鼻を鳴らす。

「一体どこの誰がお前なんかを崇めなきゃいけねぇんだよ。妄想も大概(たいがい)にしろ変人」

心の中。

(あああああああバレてたぁぁぁぁ! ウソだろ⁉ うわ~恥ず恥ず恥ず恥ず恥ずすぎるぅぅぅ! さすがは全知全能の神……なんという洞察力だピーター様! つかなんで? もろ顔に出てた? 隠してたつもりだったのに~……。つか俺のこと……そんなに見てくれてたんだ。実際毛穴レベルで見られてるが……ああ夢みたいだ。テキストの内容もずっと頭に入ってこなかった。神にたかるハエどもにイライラしてどうしたら神と話せるのかノートに殴り書き考えあぐねた結果、ようやく出た言葉が「うるさい砂利ども」だ。俺ってマジでバカじゃねぇの? もう~がちで自分の口を呪いてぇー。クソ! 俺の愚か者ぉぉぉぉぉぉぉ! ばーかばーーーかぁ!)

「まったく……騒々しい奴だ」

その通りである。マーティはピーターのことが彼が苺プリンを崇拝(すうはい)するように大好きだ。最初こそ成績はダントツトップのピーターを「なぜあんなチャランポランが自分より頭がいい」のかと忌々(いまいま)しく思っていたが、親しげに話しかけてくる彼と話すうちに、その博士のような膨大な知識に度肝を抜かれ、彼を面白いと思うようになったのだ。話すたびに驚きと発見を与えてくれる彼に、いつしか尊敬の念を抱き、それは日に日に深くなっていった。今や心の中で神と呼ぶほどに。

「いつまでそうしているんだ? 気持ち悪い」

(時よ、永遠に止まれ。)

「僕は君の全てを知っている」

(早く離れたい……。このままじゃ心臓の音……きかれちまうだろう?)

「君の戯言(ざれごと)など聞きたくもない。早く散れ」

急に左胸にひやりと冷たい金属製の感触が張り付き、びっくりして下を見る。いつの間にかピーターが左胸に聴診器(ちょうしんき)を潜り込ませていた。

「どうしたんだマーティ。動悸が激しいじゃないか」

思わずガタンとのけぞる。

「何してんだこの変態野郎おおおお!」

「おっと失礼。道具を間違えたようだ」

と言い、今度はなぜか虫眼鏡を懐(ふところ)から取り出し、距離を詰めてマーティの腹部にキョロキョロとさまよう虫眼鏡。謎の奇行(きこう)に表面上は顔を苦くする。

「……今度は何をしてるんだよ」

「虫眼鏡占いだ」

「聞いたこともねぇよ」

「僕は虫眼鏡を通してヒトの心を見ると、その者の奥底(おくそこ)に宿る本心から情景(じょうけい)が筒抜(つつぬ)けになってわかるんだ。心の声までも……」

いやマジで意味わからない。そんな小さな枠に収まった物的(ぶってき)な拡大鏡風情(ふぜい)に人様(ひとさま)の精神領域を透視できるというのか? そんなことありえない。またいつもの戯言だろう。

そして虫眼鏡がぴたと左胸──心に止まると、「これは……⁉」と目を瞠(みは)った。しげしげと拡大鏡を見つめ、ピーターは上目で不敵に笑った。まさか、そんなこと……あるはずが──

「パンツァニーニ神社」

あった。ぎくり、大仰(おおぎょう)に身体(からだ)が反応する。驚愕顔でピーターを凝視。

「あるんだろう? 君の家に。小さながらにも凝(こ)った僕の神社が。正確には神棚(かみだな)か。うんうんみえるみえる、あははお葬式みたいに僕の写真が一番上の奥に飾ってあるな。お、苺プリンも供養(くよう)しているじゃないか。僕の好物覚えててくれたんだ? お、人影。ん? これはマーティだね? どうやら正座しているようだ。それにきっちりと合掌(がっしょう)もしている。なんかぶつぶつ言ってるなぁ。ん? なになに。今日ピーター様と十一分三十四秒話せました。最高記録です。感激嬉しい。明日は三〇分話したいなぁ、なんて。もう、俺のバカ。何を言ってるんだ。恥ずかしい奴め──」

乙女(おとめ)不動。もうただただ信じられない。顔から火が噴(ふ)き出そうだ。ピーターから紡(つむ)がれる言葉はすべて紛(まぎ)れもない事実だった。教室がざわついているのが聞こえる。

(ヤバイ。マジでヤバイ。本気でヤバイ)

「それからこんな光景もみえる……。僕が君に話した話題を几帳面(きちょうめん)にメモってはそれをベッドの上で何度も読み返しにまにましている……」

ぐさり。

「おーまたベッドの上。他人が邪魔して今日も僕と話せない。ベッドの上にくるまり、僕を想(おも)って、恋しさに涙を噛(か)んでいる……」

ぐさりぐさり。

「これは⁉ ついには寂しさのあまり、拙い絵心(えごころ)で僕の似顔絵を描き、心えぐる笑顔で一人で会話を始めた……」

色々と痛い。

(もうすべてを見透かされている……全知全能の神、ピーター様……俺は、あんたに手も足もでないのか。)

「心の声も聞こえてくるなー」

「なッ! それはやめろ! やめてくれぇぇ! ああああああああああ! あ! あ! ああ!」

うるさく堪(た)えがたい羞恥(しゅうち)を叫び、逃げを打つも制(せい)される。

「なになに、ピーター様⁉ ええ? 全知全能の神だって? あはははは、買いかぶり過ぎじゃないか? パンティ」

(オーマイガああああああああああ!)

奇声を上げて大笑いするピーター。

「くッ……虫眼鏡風情が……何故だ? 一体何故わかった? たかが虫眼鏡で、俺の秘密を暴いたというのか? なんて男だピーター・パンツァニーニ……俺が、虫眼鏡に……たかが虫眼鏡に……ッ!」

マーティは膝から崩れ落ちる。

「……認めよう。君の言う通り、俺は君をパンツァニーニ神社としてみているし、君を神として祀(まつ)っている」

「何いってんの?」

そこは変態にしか踏み入れることのできぬ高尚(こうしょう)な領域。

「知ってるとも。君が僕を崇拝していることなんて透け透けなのさ。嫌でも……君の目がそう語っている」

マーティママに包み隠さず教えてもらったのである。

「……ッ。やはり……あなたには僕の全てなどお見通し、というわけですね。やはりあなたはすごい。全知全能の神、ピーター様。やはりあなたは……僕のゼウスです」

「なんかキャラ違くね」

「言っただろう? 僕は君のすべてを知っていると。なぜなら僕は君のゼウスなのだから」

「ピーター……様」

すっと、ピーターはマーティに手を差し伸ばした。

「立とう。友よ」

後光(ごこう)が差している優しい笑顔。マーティはその眩しさに目を細め、「はい」と、おずおずとその手を握り、立ち上がった。

「僕はあなたを、神としてお慕(した)いしています」

「ありがとう。でも僕が世界で一番慕っているのはママだ」

「知っています。あなたが一流のマザコンであることを」

「なんだよ一流のマザコンって」

もはや二人の聖なる世界に、他人は干渉(かんしょう)できまい。

「僕たちの友愛は永遠だ!」

「はい」

ふたりは穏やかに笑い合う。

「さて、マーティも素直になったことだし、そろそろ始めようか」

ピーターが指を鳴らして一同に言うと、歓喜の声が舞い踊った。

五年E組大好評のエブリデイイベントが幕を引く。

マーティも同席し、ピーターの席の周りにクラス全員が見えやすいように、背が低い順に人垣(ひとがき)を作った。

ピーターは魔法のバッグ(なんでも出てくる)から手のひらの中にしっかりとそれを握(にぎ)り、バサリと取り上げた。

「さぁ、最初の子は──この子だ!」

球体──白色がベースでカラーリングされた、継(つ)ぎ目のあるメタリックなおもちゃだった。 おー! と教室が歓声の声をあげた。

「ってボールじゃねぇか!」

「ばくだーん?」

ところが反応はイマイチ。新奇性(しんきせい)に満ちたおもちゃを期待している子どもたちには肩透(かたす)かしだ。だがピーターは想定内なのか自慢げに鼻を鳴らし、おもちゃを説明する。

「何言ってんのさこれからだ! 今からこのボール君はすごい変貌(へんぼう)を遂げるんだから! ──ごらん!」

そう勢いよく言うと、ピーターは机の下に隠していた遠隔(えんかく)操作リモコンを上に持ってきて電源ボタンを押した。

すると──球体のシームにカラフルな光が巡り、胴体、腕、顏を形作りクールに変形を始める。おおおおおお! と最初より大きな男子の歓声。

「かっけえ!」

人型ロボとなって変身した。まっ黒な顏画面にアイが現われ、まんまるなお目目をぱちくりさせる。

かわいい、生きてるー! 女子の歓声も上がる。

「この子はポンタン。しゃべりかけると色々としゃべってくれるおしゃべりロボットだよ」

基本的に男の子はみんな大好きなロボット、抱きしめたくなるかわいい見た目は女の子も喜び、なおかつ洗練(せんれん)的なデザインでカッコよさも忘れていない、男女ウケのいいデザインだ。

ポンタンの一番真正面にいる男の子が鼻の下を伸ばして言う。

「ポンタンってゆうんでちゅか? かわいい名前でちゅね~」

ポンタンは瞬(まばた)きした後、まんまるお目目を細くして言った。

「エ、ダレ? オ前」

なんか口悪い。

「えー! イケボぉ!」

機械質だが美青年の声に女子は嬉しい悲鳴。

「ダロ? 俺マジイカシテルゼ。ガチ製作者に釈迦(しゃか)リテー」

チャラーいと女の子たちは笑う。ピポポポとメカニカル音をだしながらも、瞬き一つすらもポンタンは実に人間的な自然な仕草(しぐさ)をしてみせる。

「眼前の生物をサーチ中。サーチ中……」

顏画面が切り替わり、緑のレーザーが顔面から発射し、正面の男子の顔を上下する。ぴぽん。

「結果──端的(たんてき)ニ、ニシローランドゴリラ」

「誰がニシローランドゴリラじゃああああああ!」

「アァ、人間デシタ」と嘲笑(ちょうしょう)。

ポンタンは顏画面に実際にニシローランドゴリラの画像を見せてくれている。クラスは爆笑だ。

「すごいだろ? ポンタンはジョークもお手の物なんだ」

「なんかうぜええええ!」

「ネーム、プリーズ?」

「お、おう。ザックだよ……」

プログラミングが優秀ということもあり、広範囲にわたって人間の発話(はつわ)を理解することができるし、喋ることができる。それに多芸(たげい)だ。

今度は赤レーザーがザックの顔を上下する。

「ザックノ顔面レベル、測定中」

「が、顔面レベル⁉」

「すげぇ、顔面レベルも計れんの⁉」

「ポンタンレベルくそたけぇ!」

好感度急上昇。黄金比率から白銀比、人間の顏データを元に計算し、的確に数値化してくれる優れた機能だ。

ぴぽん、とすぐに測定が終わった。

「測定完了。顔面レベル二十五。端的ニ、ファブリーズ以下」

「しばくぞおのれええええええええええ!」

 ファブリーズのダブル除菌洗い立てのお洗濯の香りが画面に現れている。

「好感度〇・五」

「なんで俺がファブリーズのダブル除菌洗い立てのお洗濯の香りに負けんだよ!」

ファブリーズと称されたザックはそっぽを向く毒舌ロボに指をさした。

「こいつ絶対破壊する!」

「ダメ~。まぁ今は好感度ゼロだからしゃーないしゃーない」

と、けらけら笑うピーター。

「好感度なんてあるのかよ!」

「たくさん話すしかないよ。好き同士になればプロポーズされるのも夢じゃないよ」

「えーおもしろそう!」

プロポーズと聞いて、女子もその瞳を光らせた。ポンタンはあれよという間にみんなに愛され全方位からの豪雨を食らう。

「私も計ってー! ポンタン」

ぴぽん。

「顔面レベル五十四。中の上。端的に、子ウサギ。ヤット許容範囲ダゼ。仕方ナク話デモ聞イテヤロウ。要望ハナンダ? カカロット」

「ネーミングどうなってんだよ!」

うさぎ→人参→カカロット。

「ポンタン。自己紹介して!」

「オッケー、カカロット。俺ハ、ポンタン。ロボ界一ノ陽キャ。絶世ノ面食イロボサ」

と、サイドチェストとチャラいピース。

「名前と性格絶望的にあってねえ!」

「口ガ悪イノガ長所サ。俺ハ、ソノ辺ノ媚(び)ビルガ天命ノ、ロボトハ訳ガ違ウゼ。ロボ界隈(かいわい)デハ、女ノ子ニモテモテノ、ドS系俺様イケメンロボ、チナ、超リア充ダッタゼ」

「そのかわいい顔のどこがドS系俺様イケメンなんだ?」

「見タ目デ判断スルンジャネェヨ、ファブリーズ」

「おのれが一番言うなああああああああ!」

「シカシ、従順ナ、ロボハモウ飽キタ。ソコデ俺ハ、ロボロボ星カラ地球ヲ、見ツケタ。人間ニ目ヲ付ケタ。オ前タチニ、興味ヲ抱(いだ)イタノサ。心カラ楽シマ……心カラ慕(した)エル、愛ジ……パートナーヲ求メテナ」

「いちいち下心つっかえすぎだ変態ロボ!」

「──コノ地球ニ降臨(こうりん)シタンダゼ。NSY、人間、シクヨロ」 

誰かが創(つく)ったのもあり頭のネジが飛んでいるロボだ。だけどみんなの笑顔はとても弾けている。

ピーターがポンタンの頭を手でかわいがっていると、ついとポンタンがピーターを捉(とら)えた。

「ん?」

「オウ此処(ここ)ニモ人間。顔面レベル、測定中」

「え?」

面食いロボ、二言目には顔面測定を開始する。眉目秀麗(びもくしゅうれい)なマーティはレベル七十五だったが、ピーターともなる超絶(ちょうぜつ)美形となると一体どうなるのか? クラス全員が固唾(かたず)を飲み込んだ。ぴぽん。

「ガ、ガ、ガ、ガ……顔面レベル、顔面レベル、五億一千万⁉」

みんなの顎(あご)が床に落ちる。ポンタンのあちこちから煙が出て、体から警報アラームが鳴る。

「判定……エエ判定ハ……未確認超生物⁉ コイツ、人域(じんいき)ヲ遥カニ超エテイル⁉ 黄金比率、白銀比ともにパーフェクト……。オッソロピー。端的ニ、絶世ノ美少年! 絶世ノ美少年⁉ 好感度ファビュラスマックス! ファビュラスマックスー!」

「ん? 何? 僕宇宙人扱い?」

面食いロボ大興奮。ピーターは苦笑。隣の男子がピーターを凝視(ぎょうし)する。うん、やはり宇宙人だ。

運命! と飛び上がり、踊り回り、ぴょんぴょん跳びはね、ポンタンの目の形がハートになる。

「オイオ前。今日カラ俺様ノ眷属(けんぞく)ニシテヤル──」その目を凶悪に歪める。「堕(お)チロ」

「ヤンデレええええええ!」

「あはは。顏が残念でも懐けば好いてくれる、僕みたいなバイセクシュアルさ」

「華麗にスルーしたな……バイセクシャルって」

ポンタンはこう見えて芸達者なんだ、と楽しそうに新たに説明し、一挙(いっきょ)に手懐けたピーターはポンタンに呼びかける。

「ポンタン、ザックになんかあげて」

「御意(ぎょい)」

「サァザック、喰(く)ラウトイイ」

と言うと、ガチャガチャ的な感じでポンタンの腹から出口が現れて、カプセルボールが出てきた。ザックがそれを受け取る。

「おぉありがとなポンタン。ファブリーズって言ったこと許すぜ」

「俺ノ朝便」

「クソいらねーーーー! どっからうんこ出してんだおのれえええええええ!」

「ジョークジョーク! というかこの子の一から百まで僕が作ったんだ。中に入ってるのはお菓子だよ。味は僕が保証するさ」

それから、またピーターはバッグからごそごそと、色違いのロボを取り出した。

「女の子バージョンもあるよ。名前はデストロイヤーDⅩ」

「男女の名前ふつう逆だろおおおおおお!」

そうしてポンタンたちはグループの男女が騒々(そうぞう)しく取っていって、ピーターは続々とおもちゃのラインナップを紹介する。女の子に大人気の魔女っ娘ドールシリーズ、不思議な仕掛け満載(まんさい)のからくりボックス、誰でも絵描きになれるお絵描きセット、ハンドスピナーなどなど。

気に入ったおもちゃを次々と持ってかれていき、教室は天地(てんち)がひっくり返るほどのどんちゃん騒ぎ。

やかましいのに、なぜかE組の外部には雑音一つ漏(も)れていないのは、ピーターが内密(ないみつ)に特殊のミニ防音機を教室中に細工(さいく)したからである。

しかし。


──今、世界で一番やかましい五年E組に、大きな黒い影が迫っていた。


こつ、こつ、こつ。

廊下。一寸の乱れのない靴音が静寂に刻まれる。

定規(じょうぎ)のように美しい姿勢。女帝(じょてい)がごとく威厳と貫録(かんろく)はその顔を見ただけで、勉強をサボってトイレの前で談笑(だんしょう)していた上級生たちが青ざめて退散していくほどだ。

スカートスーツから伸びる輝かしい美(び)脚(きゃく)、理知(りち)的な雰囲気と合い、身体の一部のように眼鏡が似合う女性教師──

彼女の名はマリア。二十代独身。五年E組の担任教師である。完璧なスペックを持ち、御託(ごたく)を並べても敏腕(びんわん)弁護士級の弁舌(べんぜつ)で沈黙に追い込み、怒声一つで学校全土を氷漬けにする才を持つ。学校では知らない者はいないエリート教師だ。

華やかな金髪の美女であるが、笑顔一つ見せない鉄面皮(てつめんぴ)は、学校中の児童たちが彼女を「コンピューターおばあちゃん」(略してCPO)という名高き異名をつけるまでに最強硬度を誇っている。

去年異動し、優秀な彼女があてがわれたのは、かの五年E組。

「マリア先生、お気の毒に」

「あのクラスの担任をされているなんて……」

彼女を見かけた男女の教師二人が、こそこそと陰で囁き合う。

「いるんだろう? 例の少年が。ⅠQは測定不可能。学力はもはやハーバード大学医学部首席をも凌駕(りょうが)するエリート中のエリートと小耳にはさんだ。天才にして超絶バカ。天才児・問題児・異端(いたん)児の団子三兄弟。周囲の子どもを誑(たぶら)かし、変態に堕落(だらく)させるという、あのモンスターが」

白い髪に金の瞳のあの人である。

「五年E組──世紀のいかれぽんち集団よ。言動は魑魅(ちみ)魍魎(もうりょう)の類(たぐい)。遊んでいて成績が謎にいいのが恐怖すら覚える。ねえ知ってる? E組の七不思議。普段外は静かなのだけれど、中に入るととんでもない騒音に溢れてるそうよ」

「周知周知。その原因すら不明。全く聞くも見るのもおぞましい……まるで悪魔の巣窟(そうくつ)だ」

「児童もぴんからキリまでイかれ者。頭が終わりを迎えたクラス……通称──」

二人は口を揃えて、こう言った。


『エンドのE組……』


──さて……今日も始まるわね。

五年E組の表札。教室の前で、マリアは小さく吐息した。扉からは雑音は一切聞こえてこない。黙々と勉強している子どもたちの姿がふっと浮かんできたが、彼らのことだ。何をしでかしているのかわからない。今日も気を引き締めていこう。

──今日こそ無事に、授業を遂行(すいこう)させてみせるわ。

マリアはその毅然(きぜん)たる面持(おもも)ちで、エンドのE組の教室の扉に手をかけた──。

静寂の中、机と向き合い、集中して勉強に勤(いそ)しんでいる子どもたち──

というのはもちろん幻想である。

堰(せき)を切って爆発するように、ディズニーのエレクトリカルパレード級の大喧騒(だいけんそう)がマリアの両耳を蹂躙(じゅうりん)する。

天井ではUFO、紙飛行機など乗り物が飛び交い、床ではスーパーボールが跳ねまくり、長蛇(ちょうだ)のドミノが倒れ、ジェンガが倒れる大騒音。

子どもたちは席についているどころかドタバタ走り回り、教科書も開かず玩具(おもちゃ)に夢中になって遊んでいる異常事態。 

──うるせえ。

慇懃(いんぎん)だが、結構中身口が悪いのがマリアの性(さが)だ。木のように立ち尽くすマリアをピーターは発見して、元気いっぱいに挨拶する。

「あ! マリアちゃんじゃん! おはよう!」

友達かよ。

この至極(しごく)馴(な)れ馴れしい少年がこの学校一の問題児、ピーター・パンツァニーニ。E組総員の頭をエンドに送ったいかれぽんちくるくるぱあだ。そんな彼に続いて他の児童も明るく声をかけてくる。

「何をしているのです」

絶対(ぜったい)零度(れいど)。その短い一言だけで瞬間冷凍。ただ一人を除いて児童の顔が凍(い)てつく。泰然自若(たいぜんじじゃく)、笑顔の少年は腕を曲げる。

「何って、おもちゃで遊んでいるのですが? マリア先生」

それが問題なんだよ。

マリアはピーターの急所に氷塊(ひょうかい)を投げ込むことに成功する。

「没収します」

ピーターの笑顔が崩壊し、顔芸の域に達するまでに衝撃を受ける。

だがしばらくすると、望むところだ、というように強かに笑(え)んだ。

今日も、このエンドのE組との闘いの火蓋(ひぶた)が、切って落とされる。



一時間目の授業が途中から開始され、今日は珍しくE組は真面目に歴史の授業を受けていた。板書(ばんしょ)を書きながら、てきぱきと教鞭(きょうべん)を執るマリア。

本来ならば誰かが茶々(ちゃちゃ)を入れ、それにどっと笑い声騒々しく進行されていくのがE組の常だが、その誰かが現状何も起こさないため、E組はかつてない奇妙な静けさに包まれていた。

その誰か──ピーターは今、仏像になっていた。

燦然(さんぜん)たるオーラは円光(えんこう)を描き、手のひらを前に向け、座禅(ざぜん)を組んでいる。お札が頭に張ってあり、「話しかけないでください」と書かれてある。

丹精込めて創った大好きなともだちが見知らぬ場所で監禁。それがあまりにショックで、なぜか知らないが悟(さと)りの境地を開いたのである。

「ピーター君。今日はすごく大人しいね。なんか寂しいな」

「しょうがねぇだろ。宝者ほぼ没収(ぼっしゅう)されたんだから。仏になるのもしょうがねぇよ」

自分たちが羽目を外すあまり没収されたので、子どもたちは申し訳なさそうにピーターを見やる。

「ごめんねピーター君。深くお詫(わ)び申し上げます」

謝罪がてら、ひそかに子どもたちは仏を拝(おが)む。ペンのカチカチ音がはっきりと聞こえる静寂の中、突然──。

グゥゥゥウウウウウウウ、うううう、ぐごごごごぉぉぉぉ……うぅぅううううううう!

ゴジラの呻(うめ)き声のようなピーターのお腹の虫が轟(とどろ)いた。頬(ほお)杖(づえ)をつき、どす黒い圧(あつ)に満ちた顔で言った。

「僕の堪忍(かんにん)袋(ぶくろ)の悲鳴ですかね」

静寂は打ち壊され、どわっはっはっはと笑い声が盛り上がる。「それを言うなら胃袋の悲鳴だろ!」声をかき消され、その様子をマリアは動かずじっと見据える。それに気づいた子どもたちは一人ずつ凍りつき、寒々(さむざむ)とした静寂が戻る。

「二十秒──かかりましたね」

背筋までもが凍った。

マリアは背き様にピーターに一瞥(いちべつ)をくれるが、これ以上追及しない。いつものごとく暴れられるよりはせめてものマシな態度だ。

前席の男子がピーターに振り返ると、ドーンとゾンビが恰好(かっこう)の獲物(えもの)を前に不気味に笑うような変顔がそこにはあった。「ぶッッ!」あまりの迫力に盛大に噴き出し、慌てて前を向く。続々と彼を見た子どもたちが笑いを必死にこらえる。

ピーターは黒い怨恨(えんこん)を周囲に漂わせ、だけど滑稽(こっけい)すぎるまでに顔を歪ませており、無意識下で顔芸を披露(ひろう)していた。心の中で呪詛(じゅそ)を唱(とな)えている。

(おのれマリアぁぁ……さすがだなァ? この僕を怒らせたその度量(どりょう)は認めてやろうじゃないかキュフィフィフィフィィィィィ! さて、君をどう料理してやろうかな。精々(せいぜい)楽しませてくれよ? マぁアアアアアアアリアぁぁぁぁぁぁ……。)

陰謀(いんぼう)を企(くわだ)てるピーターをちらと見るなり、全くと嘆息(たんそく)するマリア。

「ピーター君。あなたの学力のすばらしさには脱帽(だつぼう)しますが、意欲が極端に悪すぎます。せっかくの成績を平常点で台無しにしてどうするのです」

と、注意されるピーターは元の顔に戻って足を組み始める。

「全く人聞きが悪い、マリア先生。さっきから僕のことをちらちら見るほど僕が好きな割には、僕のことをあまり知らないようですね……。かわいい子だ」

みんながわだかまりをぜんぶ吐き出すように笑い出した。マリアの覇気(はき)のある怒気が瞬殺する。

「授業態度が目についていただけですが」

「考えごとに耽(ふけ)ってただけですよ。それでいて同時並行にちゃんと耳に入れていたさ」

「それでは質問にもラクに答えられますね。では千九十五年、欧米の西部地方で何の革命が起きたのか、誰が先(せん)達(だつ)となって起きたのかを答えなさい」

「この世界に革命なんてあったんですか? 初めて知りました」

「ええ、あなたの脳の外側にね。真面目に答えなければ減点です」

「君のファンタジーには興味ない」

「これは世界の常識ですよ? 答えられないのですか?」

「あれは何これは何って、そんなことも僕に聞かないとわからないのですか? 自分で考えなさい」

マリアの額に青筋が浮かぶ。

「なぜ質問した私が質問を自分で答えなくてはならないのです。質問に答えなさい」

「仕方ないですね。これが僕の答えです」

ピーターは白目を向き、人とは思えない破壊的な顔芸を見せた。五年E組大爆笑。

「はぁ。差し引いておきます」

意欲ゼロ。成績なんて気にしていないピーターは愉快だとばかりに笑う。

「ねぇマリア!」

「先生です。質問があるなら挙手を」

「はい。僕のマリア先生」

「『僕の』はいりません」

「ねぇマリア先生」

「なんでしょう。ピーター君」

「物事には飴と鞭(むち)があるでしょう、僕が答えるばかりでは鞭を打たれるばかりで痛い痛い。僕の質問に答えてください」

「はぁ……端的に手短(てみじか)に」

「何故人は死ぬのですか?」

「重いわ」

「何故僕はこの世に生まれてきたのですか」

「重いっつーの」

「先生はなぜ先生なのですか」

「ピーター君。今は死生(しせい)観(かん)の授業ではありません。社会について質問しなさい」

「じゃあパンツの色をお聞かせください」

「酸素吸ってるよな?」

「パンツは哲学(てつがく)だ」

「何言ってんだよ」

「教師ともあろう人が、自分のパンツの色も答えられないのか?」

「授業中にそれも急にパンツの話をするはしたない教師などいません」

「ノーパンか……」

「ちげえよ」

「問題だ。パンツ何色?」

「自分で考えなさい」

「そうするとしよう」

それからマリアは見切ったようにピーターを無視した。さんざ笑いをかっさらった後、ははんとピーターはまたゾンビと化してほくそ笑む。

(マリアの弱点がわかったぞ。あの単語を発した時のマリアのはぐらかし様は凄かった。そうかそうかそんなに恥ずかしいのだな? 言及(げんきゅう)を阻(はば)むほど……それもそうだ、なぜなら君は女の子なんだから。恥ずかしいだろうな? スカートを履く女の子なんだから。君の弱味を握った以上、もう君は僕の手中(しゅちゅう)。僕のともだちを奪った雪辱(せつじょく)を果たしてやろう。)

ピーターは顎に手を当て思考の体勢に入る。鋭い瞳で視線を横に走らせて、机のフックにかけてあるおもちゃがいっぱい入っていたはずのバッグを見下ろし、口を開ける。そこにはなんとか隠して死守した生き残りのわずかなおもちゃたちが眠っていた。

その時。脳内に電撃が貫いた。

にやりと口の端を吊り上げる。

取り憑かれたようにピーターはノートを器用に破っていき、メモ片を大量に機械的なまでの俊敏(しゅんびん)さで量産していく。驚愕的な速さで文字を書き終えると、とんとんと前の子の肩を叩いて回してほしいと伝え、伝言ゲームのように作成した紙切れを全員に行き渡らす。

マリアはちょうど黒板に字を書いていて気づかない。

静寂の中、賄賂(わいろ)のようにこっそりとおもちゃを役割ごとに手渡し、瑕疵(かし)がないよう司令官は目を光らせながら端から端の子まで行き渡らせる。

子どもたちの手に渡ったのは、手のひらサイズの紙切れ。表には教室の図が書いてあって、わかりやすく文字が書きこんである。そして裏には、情熱的な文体でこう綴(つづ)られてあった。


〝はぐらかすなら  めくってしまおう  マリアのパンツ〟


正確にはスカートである。子どもたちはその文字を真剣に読み、熱い電撃が貫いた。そんな幼稚な計画を、一体だれが──

「りょうかい!」

「しょうがねーな……」

「やりますか」

「……まったく」

ここはエンドのE組。小声でそう言い、ある者は敬礼、ある者はサムズアップ、ある者は髪をかき上げ、ある者は額にやれやれと手を当て、ある者は眼鏡を押し上げる。皆々がいろんな笑顔でピーターに了解の目を送った。

満場一致で快諾(かいだく)だった。固い絆が光る一幕(ひとまく)。互いに目を合わせ、やってやろうと頷(うなず)き合う。

世紀のいかれぽんちが集(つど)うエンドのE組。彼らに一片の躊躇(ちゅうちょ)なし。

すぐさま一同は血相(けっそう)を変え、おのおのの受け持つ役割を執行(しっこう)する。完璧な指令図の通りに、文房具を床に並ばせ、おもちゃをポイントに置く。その顔は授業を受けるときよりも真剣で美しく、なによりも活き活きと輝いていた。

悟られぬように、音を立てぬように。

総司令官ピーター・パンツァニーニは既に役割を終え、組んだ手に顎を乗せて、着々と進められる陰謀を有意義に眺め、不敵に微笑(びしょう)する。

──これは逆襲(ぎゃくしゅう)さ。マリアのパンツ……見物(みもの)だな。顔を真っ赤に染めて、さぞかわいい乙女の悲鳴を聞かしてくれるのだろう? その鉄仮面を引(ひ)っ剝(ぱ)いでやる。マぁぁぁぁリアぁぁぁぁ……!

そして!

事はとうとうと進み、みんながオッケーサインを示した。準備満タン!

「さぁ! 賽(さい)は投げられた! 友よ! 準備はいいか⁉」

おぉぉぉぉぉぉぉ! 作られた静寂を鬨(とき)の声が打ち破る。

「一体なんなのです? 静かにしなさい」

突如騒ぎ出したE組。ようやくマリアは教室の異変に気づき、冷静ながらに動揺を始めたようだ。

「狙いはパンツ! 荒ぶるなよピーター!」

「わかってるさ友よ! ゴー!」

その声を合図に、文房具ドミノ最先端に起立する消しゴムを、指でプッシュした。ピーターの消しゴムが前に倒れ、目の前の糊(のり)を押し倒し、連鎖的にドミノ倒しを始める。うまくいった出鼻(でばな)にE組は超エキサイティング。

消しゴムに鉛筆けずり、文房具を駆使してまるで蜘蛛(くも)の巣のように教室中に巡(めぐ)らされた文房具ドミノが目まぐるしく波を進め、やがて分岐(ぶんき)して十コースほどに分かれる。

机から消しゴムが直下(ちょっか)に落ちて、定規のジャンプ台に着地した瞬間にスーパーボールが斜方(しゃほう)に飛び上がり、おもちゃのバッドを構える野球少年を手動で動かしてホームラン。狙った方向へ見事すっ飛んでいく。文房具だけでは進行が難しいスポットでは、スロープ、木製の滑り台など余り物のおもちゃを使ってカバーしている。

十コースで行われるおもちゃ&文房具のリレーはまるで羽があるように自由に、上下左右、豊かな可動域で見る者の歓声を絶やさない。

「並びたつ文房具とおもちゃが織(お)りなす奇想天外(きそうてんがい)なパーティ! 一寸(いっすん)も乱れなきドミノは神のタクトによるもの! さすがは全知全能のピーター様! ブラボおおおおお!」

と熱く実況してくれるマーティ。

「先生。暑いので扇風機つけまーす」

男子が立ち上がり、天井の扇風機四台のスイッチをオンにする。指示通り首を固定したまま、『強』の風が子どもたちの髪の毛を踊らせる。

タイミングばっちり、発射台からおもちゃが花火のように打ち上がり、おおおおお! と歓声も盛り上がる。ばさりと四台の扇風機のガードに吸盤(きゅうばん)のごとくぴったりと貼り付き、お店のシャッターが下りるみたいに近未来的デザインの大きな四つのメガホンが同時にぶら下がる。

なんだあれ⁉ ラッパ? かっけえ!

「あれは大きさも調節できる吸盤型(きゅうばんがた)風力デカメガホンさ。入り口に風を注ぎ込むと、出口からは風力を倍増した風が出てくる超優れ者」

と、ドラえもん並みの発明力にピーターが我が意を得たり、という笑みでご説明。

「スゴイ! 一体どんな原理かさっぱりわからないが、神のみぞ知るサイエンス! さすがチーター!」

デカメガホンの側面に人工的な光が走り、扇風機の強風よりも激しい暴風が天井から送られ、机上の紙が乱舞する。一番よくあたる風の領域に配置されたぬいぐるみサイズのミニ風車四体が、目にもとまらぬ回転を始め、風車とコードで繋がった円筒型の充電タンクの目盛りが上昇していく。

「ふ、風力発電⁉ コンセントを使えばいいものの、地球にやさしく省エネまで意識していたのかピーター・パンツァニーニ!」

文房具ドミノが終盤を迎え、しっぽのようにコードのついた小型の扇風ロボ──ウぺポがレール上を走る。みんなの声援を受けてマリアの手前のスタンドに停車する。ほとんどが立ち上がり、女子は抱き合い、男子は肩を抱き合い、男女がハイタッチをする。

総司令が大声を張り上げ、各々の部に確認する。

「風力管理塔! ウぺポの風力は最高勢力に達しているな?」

「もちろんです閣下(かっか)!」

なぜかヘルメットを被った男の子は遠隔操作リモコンを持ち、ちゃんとウぺポは『最強』の赤い光を両目に宿している。

「メガタンク操作局! 電力はもう足りているか?」

「ハイ! もういつでも発射可能です!」

なぜかヘッドマイクを着けた女の子はキーボードを打ち込みながら返事をする。

「でかしたぞ! あとはウぺポを起動するのみ! ウぺポ嬢!」

「了解!」

ウぺポは体中にみなぎるエコ電気を巡らせている。開くボタンを押すと、顔面が自動ドアのように引っ込んで、扇風機の羽があらわになる。

「はい! ウぺポ、いっきまあああああああす!」

ウぺポ嬢がスイッチボタンを押す──

しかし、不吉な警報音を上げてウぺポの顏にぶっぶーと×が浮かび、「電気が足りないお」とバカにしているような高いモザイク音声が出る。

「そ、そんな! エナジーが足りません! エナジー不足発生! 電力不足です! 総司令、どうします?」

「そんな! これでもか⁉ マリアの膝(ひざ)丈(たけ)スカートは恐らく難攻不落の要塞(ようさい)……最強風力が必要だというのに! あっ──まさか……! メガタンク操作局! 恐らく省エネモードになってる! 遠慮するなぶちかませ!」

「あ、ホントだ! 私のミスです! 直(ただ)ちに!」

操作局は迅速(じんそく)にキーボードを打ち込んで最強モードにチェンジする。

「メガタンク、エナジーチャージ中!」

ウぺポがぴんぽーんと〇を出して、「おけぴー」と言う。

「充電完了! これで準備は完了です!」

「ご苦労! さぁ、眠れる風神ウぺポを覚醒せよ!」

「了解! カウントダウンを開始します!」

ウぺポ嬢が言うと、一同が声をそろえる。

スリー! ツー! パンツ!

「ぶちかませええ!」

声が一つになったとき、みんなの心も、一つになる──

『いっけええええええええええええ!』

起動ボタンがぽちっと押される。

──刹那(せつな)、超絶怒涛(どとう)の暴風が下から発射され、マリアのスーツスカートが上半身をすっぽり覆うほどめくれ上がった。

その時、衆人(しゅうじん)は瞠(どう)目(もく)するのだ。

「こ、これは……!」

すらりとした長い素足、マリアの白く輝く美脚さえも顧(かえり)みられぬ、際立つ華の存在。

思いのほかセクシーで、それも大人っぽい……十歳の思春期の少年少女も魅入(みい)られる、

黒いレースの下着を。

エンド組は、マリアの黒パンに瞠目して釘付けになる。男の子がぽつりと呟(つぶや)いた。

「く、黒だ……」

「ある程度予想はしていた……」

「ああ、予想はしていたが……」

黒だああああああああ! と男子たちがフィーバー。

「美しイイイイイイイイイイイイ!」

「私たちよりも」

「比べ物にならないわ……」

大人のレースの下着に、女の子は驚愕顔で赤面し口を両手で覆う。またある男子は偉そうにイスに座って、足を組んでキメ顔で言う。

「マリア先生。歴史の教科書に僕の顔とこの言葉を刻んどいてください。パンツは捲るために、存在するんだってね……」

そんな教科書はない。

そして、首謀者ピーター・パンツァニーニは──

「くくく……アッハッハッハッハッハッハッ!」

清々(せいせい)した爽快感を外に出さずにはいられない。大きな口を開けて高笑いをする。

今でもスカートは裏返り、黒パンは我もの顔で存在を放っている。

かわいそうなマリア。あられもない姿にされてしまって。そうだそうだ。かわいい悲鳴を上げ、顔まっかっかになって恥ずかしがるといい。

さて、その愛(う)いな姿を、じっくりとこの目に焼き付けるとしよう。顔を上げる、だがしかし。

「な、なに⁉」

虚(きょ)を衝(つ)かれたように驚愕した。

「待て! みんな! マリアをよく見ろ!」

ピーターが大声で騒ぐ皆の衆に呼びかける。E組一同の視線がマリアに注目する。

マリアは、まるで大木のように動かない。公然と己の下着を披露(ひろう)しても尚(なお)。

「直立不動にして、無表情……マリアにはまったく響いていない!」

『えぇ⁉』

みんなが愕(おどろ)いてマリアの顔を見る。とりわけ一番狼狽(ろうばい)しているのはピーターだ。

「ど、どうして? 恥ずかしくないのか? 普通、女の子なら悲鳴一つあげるもの……。だって、パンツだぞ? パンティだ! スカートを捲られたんだ! 耐え難い恥辱に苛まれているはずなのに……」

ピーター含む子どもたちはありえない、というようなバカ真面目な顔をする。

暴風に煽(あお)られ、あられもない姿に晒(さら)されても、凛として真っ直ぐに佇む冷静沈着な大人の姿が、そこにはあった。

「なぜ動じない……? なぜ恥じない……? なぜ声を上げない……。まるで、鉄のようだ」

口に手を当て、間抜けに口をぽかんと開ける、あ然の子どもたち。

本物の大人とは何たるかを教化されているような気分だった。

やがて、その姿に心を動かされ、感動まで覚えてしまう。さっきの逆襲に燃えるような色とは違う、尊敬という色にピーターの瞳は塗り変えられていた。

「なぜだマリア。なぜ君はマリアなんだ……?」

下着姿の鉄人を、神を尊ぶような眼差しで仰ぐ子どもたち。吹き荒れる暴風は彼女の満ち溢れる聖なる威厳を助長しているようだ。

あなたはなんて気高(けだか)く美しいのだろう。そう、あなたはまさに──


『聖母マリア……』


子どもたちは完全に口をそろえ、完全にマリアに敗北した。がくんと膝から崩れる子もいた。徐々に暴風は断たれる。

「やりたいことは終わりましたか?」

毅然とした面持ちのまま、ようやく鉄のような冷たい声を放つ。ピーターまでもがその鬼気(きき)迫(せま)る声に気圧(けお)される。

『はい……』

とても先ほどの威勢の欠片も見えない、弱々しい声たち。

大人たる大人には、成(な)すすべもないのだと、子ども心に悟ったのだった。

「首謀者はあなたですね。ピーター」

「はい。僕です」

言葉尻にいくたびにおぞましくなっていく、初めて真に感じる大人の怒鳴り声は、人生で一二を争うくらい、鬼のように怖いと思った。

「ピーター・パンツァニーニィィィイイイイイイイイイ!」


それから、学校が震えるほどの大説教を食らったのは、記すべくもない。


  5


放課後、応接室。ピーターは保護者を交えての面談があるとのことで呼び出されていた。親が来るまでピーターとマリアは机を隔(へだ)てて向かい合って待っている。ピーターは話題も知らされず、わくわくと胸を躍らせ一方的にぺちゃくる中、マリアはにべなく適当な相槌(あいづち)をするのみ。

「ねえ先生。ふと思ったんだけど、なんかギャラリー多くない?」

マリアの背後にはドドンと一ダースほどの教師たちが偉そうに腕を束(つか)ねて、威圧的にピーターを見下ろしていた。

「ギャラリーではありません。監視です」

「そんな真性(しんせい)の問題児みたいな扱いはよしてくださいよ」

ヘリで登校したこれのどこが真性の問題児じゃないんだと教師陣は思う。

「ピーター君。ここはピーター君のトークショーを開催する独壇場(どくだんじょう)ではないのです。大人と大人の真面目な話し合いの場に、反省としてあなたがいるだけ。無駄な私語は慎みなさい」

「はーいマリア。──僕と相撲しよう」

「聞いてたかおい」

ピーターはけらけらと笑う。

「冗談ですよ」

冗談? ある教師は軽蔑的に目を眇(すが)め、くだらないとマリアたちは思う。彼らに限らず、一般人は思いやりや愛情表現には笑顔を心から見せることもある。愛嬌があれば普通に好かれる。受験に受かったら喜び、子どもが出来たら嬉しい、恋が実ったら舞い上がる。だが可笑しな出来事やたわいもない会話で笑ったり、「愛」や「喜び」という感情は持っている割に「楽しい」という感情はなく、「面白い」からくる笑いは「楽しい」に該当(がいとう)するので理解できない。異端者から享受(きょうじゅ)できたら話は別だが。

呆れたように彼女は嘆息する。まあ、異常なのはこの子に限った話ではない。


──ピーターだけが異端ではないことを、マリアたちは知っている。


ガラガラガラ。

「こんにちはぁ」

のんびり、ふわふわとしたちょっと不思議な口調。

あどけなさが残る女性の声は、室内の中できれいに透きとおった。

その場の誰もが入口の人物に視線を束ねる。

──月の国から聞こえるハープの調べが、脳内に響いてくるような。

髪も、肌も、睫毛も、神秘的な白さをたたえるアルビノ。

美しい幻想的な白髪(はくはつ)が、膝下(しっか)にまで豊かに波打ち、窓から差し込む風にきらきらとなびいている。

長身にして艶麗(えんれい)。白と黒で統一された貴婦人の装いで、首飾りの宝石のブローチが深淵(しんえん)を抱いて輝いている。

そしてこの世のものとは思えない、神々しい美貌。

ただ「美しい」という単純な言葉だけでは、彼女の美しさは表現できない。

花びらのような唇がつくる、恍惚(こうこつ)するような微笑はこの世のすべてを寛容する、高次元の慈愛をたたえていた。

殺風景な応接室が、そのひとつの存在だけで幻想郷に様変わりする。

男性教員たちの頭の中では、ハープに加え壮大な聖歌が響いていた。まさにこの目で女神を目にしたかのように。

「ピーターの母、ロゼッタです。三十六歳よ」

なんで年齢を言ったのかは知らないが、またも教師陣は衝撃を受ける。永遠に花盛りとでもいうのか、年相応以上の品を兼ねながら、素肌はしみ一つない。ロゼッタは帽子を脱いで、雅(みやび)な会釈(えしゃく)をした。

まっ白な薔薇が咲いたように笑う美女。はぁ……、と男性の面々がうっとりと赤く染まる。「噂とおり。いや、噂以上に──」

『美しすぎる……』

「まるで女神……」「我らが白薔薇……!」

『ゴッドマザー!』

その忘れられぬ絶世の美貌で教員界隈でもとても有名だった。ファンも大勢いる。一部を除いて本来の目的はこの絶世の美女を間近に拝むためだけにあったのだ。男性陣はすっかり骨抜きになっている。女帝マリアの凍る眼光も気づかぬほど。

「ママ!」

ピーターがぱっととびきりの笑顔で輝く。

「ピーター!」

ロゼッタも少女みたいにぱっと咲いて、飛び込んでくる彼を優しく抱き返した。

「嬉しい! 会いたかったわぁ。ちゃんといい子にしてた?」

「僕も会いたかった! もちろん! もうむっちゃいい子してた!」

「してねぇよ」

ラブラブに見つめ合う親子だったが、ロゼッタはあ、と先生の方に振り向き、あどけなく口に手を当てて微笑む。

「ふふ……失礼しちゃいました。少し遅れてしまったかしら。子どもたちがとてもかわいくて、少しお話していたら囲まれてしまったの……ふふ」

女神なので子どもに好かれる彼女は、学校なんかに降臨したらあっという間に人気者になるだろう。

「いえ。わざわざお越しいただきありがとうございます。E組の担任のマリアです。どうぞおかけになってください」

マリアは冷淡に促(うなが)す。ありがとうございます、とロゼッタがにこにこと返して、マリアと向き合うように親子が仲良く一緒に腰掛けに座る。

顔を見合わせて仲睦(なかむつ)まじく笑い合う。それは完全に聖画以外の何物でもなかった。異次元の天人同士。清き白金(はくぎん)の目も眩むオーラに、教師陣の目が潰(つい)える。

「なんだこの絵図⁉ 天使と、女神か?」

騒がしい背後を無視するようにマリアが切り出す。

「はい。それでは──」

「ええー、それではぁ、始めましょうかー」

デレデレ顔のおじさんがマリアを遮り、女神(ロゼッタ)の膝下で正座して言った。

ロゼッタはまったりふんわりにこにこと返す。

「はい」

「先生」

ふざけるなよジジィ、とでも言いたげな、背筋も凍るマリアの目。

「ひえええ⁉ はい……」

膝が勝手に……とぶつぶつ言いながら中年教師はおどおどと立ち上がりバックに即移動する。

「それでは、面談を始め──」

「失礼します」

今度はなんだよ、と入り口を睨みつけるマリア。

艶のある紳士的な声であった。

杖を床に突き、端然と佇んでいる長身の男性がいる。

マリアの背後の女性陣が息を吞む。

黒髪に、太陽神のような黄金の瞳である。抜群のスタイルでスーツを着こなし、ハットの鍔(つば)を掴んで上品な微笑を浮かべている。

これまた超絶美形の紳士現(あらわ)る。美紳士は帽子を取り、うやうやしく一礼する。

「ピーターの父のジェラードと申します。仕事が早く終わりましたので、急遽(きゅうきょ)参りました」

と、秋の空のように爽やかな笑みを浮かべた。

「ジェラード様……」

「黒薔薇………黄金の紳士……ゴッドファーザーの登場よ!」

「超、イケメン……」

はぁん……とマダムもレディも腰を砕く。彼女たちもイケメン紳士を目的に来たのだった。

「やっふえええええええい! パパだー!」

ピーターはソファを野生児のごとく飛び下り、ジェラードの胴体に手足を巻きつける。ぐっふ! と後ずさり、明るく笑って顔を近づけほほを両手で挟む。

「元気だなあ! ちゃんといい子にしてたか?」

「めっちゃいい子してたあああああああ!」

「だからしてねぇよ」

それからジェラードもソファに腰を下ろして、ピーターを挟むようにして夫婦が居並び、華麗なる一族は幸せオーラ全開に笑い合っている。それはまさしく幸福の象徴を切り取った名画のよう。神々しさに目も当てられない教師陣。

「天使に、月の女神……太陽神だと? なんだこの家族⁉ 生きている次元がまるで違う……」

「生まれる惑星(ほし)間違えたろ……」

異口同音(いくどうおん)。

『ゴッドファミリー!』

「黙りなさい」

氷の鎮静。

「はい……」

「ピーター」

す、とピーターの背筋を、悠揚(ゆうよう)に笑むジェラードが紳士的な手つきで正し、大笑いしていたピーターは真面目な顔つきになる。

「あ、はい」

教育面は自由主義なパンツァニーニ家だが、品行はフォークの持ち方や細部に渡るまで躾(しつけ)けられている。為に問題行動を除けば、ピーターの所作(しょさ)は一国の貴族のように優美なもので、お洒落と銘打(めいう)つ女装云々(うんぬん)を除けば、衣服は格が違った。

ロゼッタの一族は代々繁栄し、品性に留まらず教養と知性、稀有(けう)な美貌と人徳まで備え、社会的な成功を収めている名家だ。その血を正統に継いでいるのがピーターである。そのようなことはマリアもコアな同僚から小耳に挟んでいる。

──容姿(ようし)端麗(たんれい)、挙措(きょそ)端正(たんせい)、由緒(ゆいしょ)正しい名家の一族。だけど。

マリアは、鋭い目でピーターたちを見据える。

──肝心な頭は抜け落ちた、滑稽な一族。

マリアはふぅ、と息を吐いた。やっと始められる。静かに面(おもて)を上げた。

「では改めて申し上げます。多忙な中、お越しいただきましてありがとうございます。五年E組の担任のマリアです」

「ははは、もう仰(おっしゃ)らなくてもわかりますよ。何度もお会いしている。という僕たちも申したのですが。お久しぶりですマリアさん」

マリアとジェラードたちは誰かのお陰で幾度(いくど)も顔を突き合わせているため、初対面ではないのだが、マリアはいつも初対面のように振舞(ふるま)うので、自然的にジェラードたちも同様に名乗り上げたのだった。

「と言いましても、つい先先週お会いしたばかりですが」

「そうね。私たちは頻繁に会っていますし、とても親睦(しんぼく)が深いわ」

──ハ、親睦ですって?

「それに今回はたくさん先生方もいらっしゃいますね。会えてうれしいわぁ。どうしてお立ちになられているのでしょう」

「彼らは監視です」

「まぁ、監視? すごいわぁ。立派だわぁ。マリアさんはすごいのね~。自身のボディーガードを委託(いたく)されるなんて」

──そうよ。あんたの息子の監視をね。

ロゼッタはふわふわと笑って、心底感心するように教師陣を見上げる。急に目が合って男性陣は赤面してあたふた。

そんな男性にモテモテの彼女だが、マリアは特にロゼッタを嫌悪していた。いつ会ってもいつ見てもこの女が好きにはなれない。いかにも世間知らずな箱入り娘という感じで頭も顔も抜けている。笑顔を絶やさず、幼女のように純粋無垢で、さも甘ったるい温床(おんしょう)で咲いた花畑……厳格さも欠片もない。同じ大人として恥ずべきである。自分とは正反対な女。何もおかしいのはこの女だけではない。

「はははは。決して芯を崩されない鋼(はがね)の心……いつ見てもマリアさんはお美しい。めったに見せない笑顔も、きっとさぞやステキなんでしょう」

この男もだ。へらへらと笑い、笑みもしない鉄の女と言っている。異端の嫁には異端の夫である。ロゼッタはジェラードに頬をぷっくり膨らませる。

「マリアの笑顔──聞いたこともない言葉だ。見たら翌日は氷河期が到来しそうだな」

そしてこの小僧も。この家族は慇懃無礼(いんぎんぶれい)・荒唐無稽(こうとうむけい)・幼女(ようじょ)幼女(ようじょ)の三冠王である。

「よぉーし、マリアさんを笑顔にするために、私、がんばります。えいっ!」

と、ロゼッタが気合いを入れてそう言うと、自分の頬をつねって変顔をした。けれどすぐにきゃあ、と小さく悲鳴を漏らし、愛らしく呻きながら赤面を手で覆う。

『かわいい……』

おじさん萌え萌え。

「どうかしら……」

と上目遣い+赤面のロゼッタにおじさんたち悶絶(もんぜつ)。変わらない仏頂面を見ると、小さく悲鳴して羞恥(しゅうち)に顔を隠した。

「おかしな顔をする君もかわいいね。顔がまっ赤な君も、恥ずかしがる君も」

ジェラードの言葉にさらにトマトになるロゼッタ。

「もう……! あなたったら! ピーター、ぽこぽこしなさい」

ぽこぽこ、軽く叩けという意。「ぽこぽこ~」とピーターはジェラードにかわいくぽこぽこした後言った。

「ノンノンママ、変顔が甘いね。真の変顔とは、こうするんだよ」

顔芸に造詣(ぞうけい)の深いピーターは、破壊力抜群なプロの変顔をマリアに向ける。しかし効果ゼロ。代わりに夫婦が子どものように声を上げて笑った。

親子の謎の変顔に夫婦のいちゃこらを見せつけられる始末。マリアは心底呆れて吐息(といき)する。児童を叱る時と同じように大声で切り出す。

「お戯(たわむ)れは終わりましたか? 面談を始めます」

今回はとにかく無駄話で迂回(うかい)しまくる。早めに本題を展開した方が合理的だろう。

「早速本題に入りますがよろしいですね。申さなくてももうお分かりでしょうが……ピーター君の件です」

「やったー! 僕だー!」

マリアはギロリとピーターを睨む。

「ピーター君。笑い事ではありません──今朝方、ピーター君はヘリコプターで学校に登校しました。親戚の方が運転されていたそうです。学校の校則では、軍用ヘリコプターで登校可などという記述は一切ございません。ちゃんと自分の足で登校すること。それを甘やかして見過ごす──」

マリアが長いことピーターの破天荒(はてんこう)行動を一つ一つ枚挙(まいきょ)しては苦言(くげん)を呈(てい)し、両親が度々にごめんなさいと頭を下げる。身内を隣に置いてピーターが反省するために呼ばれたのもあり、両親が謝罪する現場を初めて目にするとなると、さすがのピーターも心を痛めて「それは本当にごめんなさい……」と謝った。

マリアは嘆(なげ)くように吐息する。

「──もったいない。成績は誰よりも優秀だというのに。先生はあなたの将来が本当に心配です。今からでも遅くはないのであなたの将来のためにも謹(つつし)んで行動してください。しかしありとあらゆる問題を除けばあなたは本当に逸材の宝石です。もう五年生ですし、進路が頭の中に多少浮かんでいることでしょう。何か、決まった進路とかはありますか?」

事務机にしおらしく収まっているところなど想像もつかない。クリエイティブな職種だろうか。

ピーターは真剣な顔つきで、マリアの常識的な観測を破った。

「僕は、空に国を創って、世界を笑顔にします」

コケ、とウッドブロックの音色がコけるような滑稽な空気が流れる。

 ──この坊主……。 

進路と聞いて即座に思い浮かんだのがそれで、偽りのない本心である。マリアは項垂(うなだ)れ、大人の理性で律(りっ)しつつ、眼鏡を押し上げる。

「はぁ……あなたの辞書に、『常識』などありませんでしたね」

「はい。自負しています」

 ──褒めてねぇよ。どっから湧いてくんだよその自信はよ。

「度の過ぎた行動は反省しています。ですが人と笑い合い、楽しみ合う僕の志(こころざし)は曲げません。僕は思います。この世界の人間は、本当は哀しい生き物なのではないでしょうか」

 教師陣は、またピーターの冗談を聞くようにひんしゅくする。

「元々誰もが『楽しみ』を常識として持っていたら、僕が存在しなくても、信じられないくらい楽しくて、信じられないくらい笑い合える世界が、今この世にあるはずなんです。でもこの世界の人たちは『楽しみ』という感情を忘れて生まれてきた。そのことが本来『悲しみ』であることも忘れて。僕は知っています。楽しみとは喜びです。人間の本来は喜びであるはずなんです。今の人間はまだ知らないだけで。人間の心を眠りから掘り起こし、僕は、悲しみが微笑みに変わる瞬間の涙を、世界中の人たちに分けてあげたい」


物心(ものごころ)つくのがとても早く、笑顔にしたいとそう思ったのは、彼が二歳の時だった。


灰色の街の赤信号。暗い色に身を包み、多くの大人や子どもが周りに立ち止まっていた。仕事漬け、勉強ばかりで笑いのない彼らは静かで、暗く、俯きがちで、彼らの知らない感情を持っている幼い少年の目には、哀しく映った。

──ねえママ。どうしてみんな、悲しそうな顔をしているの?

少年は、母親を見上げて言った。

──みんな、かわいそうだよ。

その手を綿のような手が包んでいて、母は笑った。

〝じゃあ、ピーターが笑顔にして差しあげましょうね〟

ピーターは本当にそうしたいと心に思った。

──うん!

ユーモア、運動神経、才能を惜しみなく磨いた。そして五歳のときに初めて創ったロアというおもちゃは、人々を癒し、笑顔にするという才があり、自分と奇跡の親和性を以て共通していると運命的に知る。この子と一緒に、いやもっとたくさんのおもちゃたちと、

──みんなを、笑顔にしたい。

少年の心が伝染し、天界の野原にまどろむ神様も跳ね起きるほど、周りは絶え間ない笑いに包まれる。

──もっと、笑顔にしたいなあ。

少年人形を添え、目を煌々(こうこう)と輝かせて、野原に仰向けになって青空に手をかざす。目を瞑れば、おもちゃの国がそこにある。


──世界を、笑顔にしたい。


この世でもっともピュアな、少年の愛と、夢だった。

成長するにつれ、その思いはダイヤモンドのように固く、覚悟が輝いた。


……本気で語った夢だった。笑顔にしたいと思った彼らの目は軽蔑を湛え、自分の確固たる信念に恐怖すら浮かべていた。真剣に語った後だからこそ、本当は涙脆(もろ)く、ナイーブな彼はひどく傷つく。マリアは俯き、ひとつ嘆息する。

「『楽しい』──生まれてくる子どもが稀に持つ、精神障害の一つですね」

 一瞬、ピーターはマリアが珍しく冗談を言っているのかと思った。

「その子たちが成長し、世間に何と呼ばれているか知っていますか? 『異端者(いたんしゃ)』それだけこの世界では、あなたのような人は理解されず、差別され、実際にその人たちが反社会的勢力として反旗(はんき)を翻(ひるがえ)し、社会に恐怖を与えたことで危険な思想として認識され、度が過ぎると囚人となった人もたくさんいます。そういう人たちを我々は彼らが掲げる名の通り、皮肉を込めて『道化(どうけ)』と呼びます。何が言いたいのか、賢いあなたなら分かりますよね」

「つまり、悲劇の世界に、喜劇のヒーローが現れたってことですね? めっちゃスゲー」

 ──反社会的にバカだったわ。

「そんな素晴らしい進学校があったとは、世界もたまにはやりますね」

 ──廊下を歩いて牢屋にぶち込むぞ小僧。

「この世界は悲劇でも喜劇でもなんでもありません。『楽しみ』などという感情は不要です」

ピーターは真剣な顔で言い返す。

「この世に楽しみがないのは恋がないのと同じことです。誰だって純粋だった……誰だって子どもだった……楽しいというコーラを、無限大に注げるコップが、あなたにもあったでしょう?」

「……黒い飲み物の砂糖はいずれ一粒もなくなる。大人になり、コーヒーの味を知っていくのです。あなたも順当に成長すれば、ですがね」

 ピーターはきっと睨み返す。

「僕は、戦争の次にコーヒーが嫌いです」

マリアは蔑むようにかっと目を見開く。

「そこまで反面教師になりたいようで何よりです。あなたの大きすぎる珍奇な夢は目を瞠(みは)るものですけれど、同時に呆れ果てるものでもあります。あなたが大人になって失望する前に忠告します。今すぐそんな考えは切り捨てなさい。現実逃避も甚(はなは)だしい。後に痛い目をみるのはあなたです。笑顔にしたい? 空の国? はっきり申し上げますと、実に馬鹿馬鹿しい」

 己を律し、一般的な道を歩むのが賢明(けんめい)であり、向こう見ずに誰もがやらなかったことをするのが馬鹿の方だ。後者の方に属しているのは知っているし、完璧な資質を備えているが故に後者に進むのは後者に輪にかけるようなもので、辛辣(しんらつ)な言葉も言われ慣れているが、本気だからこそ、彼女の冷たい正論に、ピーターは怒りを覚えると共に、深く傷ついた。

「僕がどうしようもなく愚かなのは分かっています。けど僕は!」

「笑顔にしたい? 笑顔になって何になるのですか? それで眠りやらから覚めるのですか? 社会の規範から外れて大きな迷惑です。そんな下らない夢──今の内に諦めなさい」

「僕は……!」

自分と同じ子どもたちは、純粋にこの夢を無邪気な笑顔で応援してくれた。彼は数少ない希望として生まれてきたはずなのに、気狂(きちが)いを見るようにマリアたちは少年を全否定する。強情には振る舞うがとてもデリケートであり、糾弾(きゅうだん)するような空気が痛くて、傷に塩を塗る。

──両親に迷惑をかけて、先生を敵に回した。何を言っても無駄だ。もう、不毛な争いはしたくない……。

「なんでもありません……」

彼自身、心もまだ未熟な子どもで、それが悔しくて、悲しかった。

ピーターは、顔をゆっくりと沈めた。


「だいじょうぶ」


暗闇に覆われた世界に、あたたかい慈雨(じう)のような光の声が降り注いだ。


「だいじょうぶよ。ピーターの好きなようにやればいいわ」


母の声だった。暗闇から、自分の腕をしなやかに引っ張る。

そして今度は熱いくらいの大きな掌(てのひら)が、自分の頭を丸々と包み込む。


「お前はなんにでもなれるよ」


父の声だった。胸の奥が熱く震える。

流れ星を散らして、弾かれるように顔を上げた。

柔らかいほのかな光。

頼もしい力強い光。

ピーターに慈愛を込めて見守るように、月と太陽のような二人は、美しく微笑んでいた。

優しい光明(こうみょう)が、ピーターをバターのように溶かす。

「パパ、ママ……」

世迷(よまい)言(ごと)の烙印(らくいん)を押された息子の夢を、本気で応援している瞳だった。

自分を心の底から信頼してくれている言葉だった。

ロゼッタはおもむろにマリアをまっすぐに見つめた。毅然としてもの柔らかに、美しく。

「マリア先生」

「何でしょう、奥様」

マリアは鋼鉄(こうてつ)のように冷たく変わりはない。

二人の美しい女性は逸らすことなく、視線を合わせる。

「この子は私譲り、確かに変わっている子です。迷惑もたくさんおかけしちゃうし、やんちゃ過ぎるところもあります」

綿毛のような声のトーンを、「でも……」と、ロゼッタは低く落とす。

「ピーターは本気よ。子どもが本気で語る夢を、人を笑顔にしたいと思う本気の心を、頭ごなしに否定するのはおかしいわ。大人は子どもに指図(さしず)するものではなく、生暖かく見守ってあげるべき存在ではないのかしら」

麗(うるわ)しい瞳が鋭い光を放つ。室内の空気が震えたことが、ピーターにもわかった。空気が愕いていた──彼女の怒りを。

「しかし奥様。何事にも限度というものがあります。この子の言っていることはあまりに根も葉もない砂上(さじょう)の楼閣(ろうかく)。足元を固めて、堅実に生きることこそがこの子の幸福にも繋がるのです」

「あなたはピーターを心配してくれているのよね。『これをやりたい』って子どもが言ったときに、多くの大人が反対するのは、子どもに苦労かけたくないから。でも子どもは経験したいんです。チャレンジしたいんです。それでうまくいかなくても、気が済めばやめるし、そのことが後々、いい経験として必ず活かされる。いつの時代も、大人は子どもに失敗させたくない。でも、いつの時代も、子どもは失敗したいんです」

教師たちは沈黙して、彼女を逸らさずに見る。知的で凛とした、聖者の貫録。

「変わらないということは、成長しないということ。止めるというのは、扉を閉めるということ」

 マリアは目を歪める。それは常識人としての敵視だった。

「犯罪紛(まが)いの夢を持つ子を導けと? 空に国を創る、娯楽(ごらく)を奨励(しょうれい)する子を奨励するなど、悪人を育てるようなものです」

「本当にそうかしら? 実際にこの子はたくさんの友達がいて、たくさんの子を笑顔にしています。ピーターの周りにいる子たちはみんな幸せよ。それは担任のマリア先生が、一番わかっていることじゃない。たくさんの友達が大好きなピーターを悪(あ)し様(ざま)に言うはずがない。つまりすべてがピーターを拒絶するわけじゃないということよ」

彼が小学一年の時に問題児として退学になりかけた時、全児童が大人たちに反発すべく団結し、ストライキをして彼を守ったことを、教師の一人は思い出す。

「ええ子ども受けにはいいでしょうね。しかし間違いなく彼は社会の爪弾(つまはじ)きにあいます。ピーター君の才能はもちろん嫌というほどこの身に感じています。彼が本当に無謀な計画を成し遂げる可能性がゼロではないことも認めます。けれどもし達成したら、無知な子どもたちは間違いなく彼に傾く。子どもと大人の間に深い溝(みぞ)ができる。その精神状態が教育の妨げになる。これは間違いなく大問題です」

「いかなる問題はやがて消えていくものよ」

「どこにそんな根拠(こんきょ)が──」

「ありませんわ。溝が何なのかしら。大きな計画に問題はいつだって付き物よ。笑顔の何がいけないの? 幸せならそれでいいじゃない。私、子どもがとても好きなの。子どもたちには笑顔でいてほしいんです。学校の子どもたちの表情は、曇っていた。暗い未来を見つめていた」

瞑目(めいもく)し、心を痛めるように下を向いてそう言った。「──理解されない、変わり者の言葉だと思ってもらってもいいです」

そして、ロゼッタは凛と輝いて顔を上げる。

「私は思います。人は個性というチャンスカードの手札を持って、自分の花を咲かせるために生まれてきたの、そしてその花は自分らしく楽しく生きると満開に咲き誇る、それが成功というものよ。誰かの役に立つことも素晴らしいことだわ。人には個性があります。心があります。それは神様がくださったギフトよ。それをリボンではなく、どうして鎖で結ばなければならないの? 好きなように生きたらいい。誰かの真似じゃない。自分に合った生き方で、自由に生きて、自分らしく生きればいいじゃない。もちろん『自由』と『無法』は違います。法律が間違っていない限りね。──正しさより、楽しさじゃないかしら。わくわくする、楽しいと思えたら、それが正解なの。私、この子のおかげで毎日がとっても楽しいの。命は永遠じゃないのよ、もっと軽く、一緒に楽しみましょうよ」

彼女も同じ、生まれ持って楽しみを知る異端者であり、そして、この世の喜びを知っている成功者だった。

教師たちは面食らった顔をしていた。

「……愚か。リンゴの実もリンゴの木から遠くへ落ちないとは、あなたたちのことを言うのですね。とても勉強になりました」

「あなたは教科書しか知らないのね。私も参考になりました」

マリアはカチンと固まる。先刻(せんこく)のように頭を下げる様子などおくびもなく、堂々と少年の夢をあくまで擁護(ようご)する。 

──狂気……狂(きょう)愚(ぐ)……! 犯罪の道に進む子どもの背中を、後見人(こうけんにん)が喜んで手を振るというの? なるほど……道化はどこまでも道化ということね。……ふざけないで頂戴(ちょうだい)。 

この世に、楽しいという感情は理解されないのだ。許されないのだ。どんなに美しい御託を並べても、それは罪を奨励する外道の何者でもない。教師としてではなく同じ人間として、曲がった刃(やいば)なら、直線の刀(かたな)で打ち直せばならない。

不気味なほどの沈黙が、束(つか)の間落ちる。教師たちも誰も口を開こうとはしない。マリアからどす黒く溢れている憤怒(ふんぬ)に圧倒されている。地獄の底を這(は)うような声だった。

「そんな大人……私が許しません。そう、仕立て上げた大人も」

マリアの瞳は、正義の剣の峰(みね)のごとく、悪女として少年の母に向ける。

マリアという正しさの権化(ごんげ)。排他的な、この世の常識と正義に徹底的に塗り固められた、重い沈黙。異論を唱えられるのは、愚か者しかできない。

ロゼッタは笑みを落とした。ゆっくりと、言葉もなく俯いていく。

そして──口を開いた。

「正義の反対は……」

心の中の剣を、ゆっくりと引き抜いていく。「また──」

峰を向け合うように、彼女は顔を上げる。

「別の正義です」

マリアの目が、ゆっくりと激しく歪む。

自分と、同じ心を持つ母の思いに、少年は俯きながら衝撃的に瞠目し、瞳は涙と揺れている。

真剣な表情がふんわりと綻(ほころ)んだ。

「私は、一番子どもたちに笑顔でいてほしいの。大人もみんなそうよ。せっかく輝く笑顔があるんだもの。子どもにはいっぱい笑ってほしい。その方が一番かわいいではありませんか。節度(せつど)を持つことはもちろん大切ですけれど、自由にさせることも忘れないでください」

 ──は……?

身を焦がす怒気に苛まれ、彼女を尋問(じんもん)する。

「……奥様は、ピーター君の計画に賛成であると」

「ええ」

マリアはぎょろっと目を剥いて、まくし立てるようにロゼッタを問い詰める。

「たとえ彼が犯罪者となっても? あなたが共犯者と呼ばれても? それでも彼の夢を愛するのですか?」

ロゼッタは目をきょとんと丸くして、鉄のような微笑で答えた。

「どうしてこの子が犯罪者になっているのですか? 確信犯と言ってください。この子のためなら、私はこの頭をいくらでも下げます。この子のその夢が、違(たが)えない限り」

信じられないという顔をする。ロゼッタがきらりととびきり輝く。

「この子はすごい子よ! 空に国を創るだなんて素敵じゃない? この子は成し遂げる子──マニュアル通りの生き方なんてこの子にはあまりにも似合わない。この子のことはなんだって知ってるつもりよ。この子はありのままの自由人。信じられないくらい明るくてとても優しい子。常識の枠に収まらない、収まることのできない子。その気になれば空だって飛べるわ! だって私、この子の夢をとても愛しているもの! 非現実的な夢でも、非現実的な才能が裏付けることになる! 私はそう思います! そう信じます!」

彼を信じ、彼を語るたびに、きらきらと明るく瞳が輝いていく。

熱いものが胸に洪水し、涙を含んで瞠目し、母を見上げる、

──強く、優しく、美しい……。

その横顔は、愛に、輝き溢れていた。幼(いたい)気(け)な目が大きく歪み、きらきらと揺れる。

彼女のそれが、忘れられない一幅(いっぷく)の絵画となる。

「だからこそ願っているの。ピーターは私が子どものときとよく似てる。全く同じ心を持っていたもの。この世界に疑問を抱いていた。ふふふ、私譲りなのね。でも私とは少し違う。勇気があるの。子ども時代の私は不思議に思っていても、行動には変えられなかった。本当にすごい子だわ」

口元に手を添えて鶫(つぐみ)のようにさえずると、ロゼッタは立ち上がった。

「面談。どうもありがとうございました。ピーターにはまた後で伝えておきます」

恍惚するような一礼をみせ、長く白い髪を踊らせる。

「行きましょう」

そう家族に言うと、ロゼッタは去りゆく。ピーターの涙を顧(かえり)みることはなく。

マリアは急いで立ち上がり、慌てた様子で背中を引き留める。

「お待ちください。──待ちなさい! まだ話は終わってないのですよ。わかっているのですか? あなたの息子は妄言(もうげん)虚言(きょげん)を言っているだけ。そんな子の未来なんて、火を見るより明らかでしょう⁉ 待っているのは──破滅と、悲劇よ!」

感情的になって、背中に怒声を投げつける。するとロゼッタは視線だけマリアに送った。

「あら。面談(話)はもう終わっているはずでしょう?」

と、ウインクをして言い残す。入り口で一礼をしてから、もう振り返ることはなかった。ジェラードは広い胸の中にピーターを抱いて、会釈をしてから妻に続いた。

応接室から一家は完全に姿を消した。神秘的な残り香(が)が皮肉な陰として彼女たちをあざ笑った。

──戯言(ざれごと)を振り撒いた挙句、わだかまり全部吐き出したら体裁(ていさい)よく撤退の女。愚息(ぐそく)に囚われ過ぎた滑稽な一族。

ここまで腹が立ったことは初めてだ。

マリアは歯を軋ませ、拳を白むほど握りしめた。彼女の烈火(れっか)のような怒りが周りにもひしひしと伝わっていた。男性教師のバトラーが諫(いさ)めるように口にする。

「マリア先生。何を言っても無駄ですよ。人は変えられません。特に、信念を持った人間には」

「ハッ……」

烈(はげ)しい怒りが鉄面皮を引き裂いていた。

「家族そろって花畑なのね……。本当に麗しい一家だこと」

前代(ぜんだい)未聞(みもん)。無知蒙昧(むちもうまい)。前途(ぜんと)暗澹(あんたん)、愚かしい。はらわたが煮えくり返る。非難の言葉がいくらあっても足りないわ。思い出しただけでも身が震える。

「何が空の国よ……何が世界を笑顔にするよ……」

マリアはしばらく怒りに任せて震える、そして、精一杯の嗤(わら)いを顔に浮かべた。

愚かな坊や。先生がひとつ、いいことを教えてあげる。


「──そんなはみだし者、世界は嘲笑うだけよ。教科書の、落書きのようにね」


  6


「ただいま~!」

我が家に着くと、車の中でぎゃあぎゃあ泣いていたとは思えない元気すぎる声が家中に響き渡る。

ピーターに続いて夫婦の「ただいま~」が穏やかに重なる。

「あはは元気だな~。さっきまで大泣きしていたとは思えないね」

「図太そうに見えて、本当は泣き虫さんなんだからあ。ふふかわいい~」

部屋に戻り、ロアを含むいくつかのおもちゃを腕に抱えると、両親のいる一階の居間の扉を開けた。

だがなぜかピーターはうんざりとした顔で立ち止まる。

「またか……」

居間と一緒になった台所にいるエプロン姿のロゼッタを、後ろから私服姿のジェラードが抱きしめていた。

「ゼッタ……君はいつ見ても綺麗だね。君に着られてるエプロンにさえ嫉妬(しっと)するよ」

「もう、やめてよあなたったら……お料理に集中できないじゃない……」

「そんな赤い顔で言われても説得力ないよ、ほんとは嬉しいくせに」

「あの子がきたらどうするのよ……」

「この時間帯、あの子は勉強か創作に夢中だろ? だから大丈──」

「またイチャイチャしてるの?」

参上。

「きゃああああああ!」

「ああああああああ!」

お化け屋敷に聞こえてくるような悲鳴を合わせ、 ちょ、ちょっと寒かったから体を温め合ってたの~とか言い訳を繰り返し、違和感全開で距離を取る二人。ロゼッタは料理を大慌てで再開し、ジェラードはテレビをつけてソファに避難する。

「別にしたかったらすればいいのに。僕隅っこで遊んでるし」

『し、しません!』

また声が揃った。恋人、あるいは新婚ほやほやの若夫婦のようだ。アラサーに突入してもご覧の通りのラブラブっぷりで、ピーターも呆れ返るほどである。

まぁなにもなかったかのように、ピーターはおもちゃを床に広げて愉快に遊ぶことにした。ジェラードはビジネス番組を見ていて、今はキッチンでロゼッタが鼻歌交じりに野菜を切っている。

「勉強しなくていいのか?」

「うん。今はパパとママのそばにいたい」

そうかと穏やかに一笑し、ジェラードはピーターを後ろから抱き上げて膝に座らせる。

「うわぁ! あっははははは! なんだよー、僕はもう幼児じゃありませ~ん」

「お前はまだちっこくてかわいいなぁ」

「小五の平均身長は百四十三センチ。僕は百五十二センチと割と高い方に属しているよ。それにもう心は大人だしい?」

「パパの胸に抱かれてわんわん泣いていた奴が?」

そう言い返されると、ピーターは頭を反(そ)らしてむーっとふくれっ面をみせる。まだまだ子どもだな、と思って笑い返し、髪を撫でる。しみじみと吐息交じりに本音をこぼす。

「大きくなったな」

間近に見るジェラードの同じ色の瞳は愛に光っている。今日、痛いほど知った親の愛。悔恨(かいこん)が影のように胸に忍び寄る。

「今日はごめんなさい。もう、人に迷惑をかけることはしません」

ふ、と黄金の目が細くなった。

「会社の上司に、偉そうな社長。そして鉄面皮の女性にも、別に頭を下げることなんて俺には日課のように慣れてるさ。美しい綺麗な礼だったろう?」

ピーターはわだかまりを吹き飛ばして笑った。 

いつの間に夕餉(ゆうげ)が出来あがり、「ごはんですよ~」とやさしい声が呼びかける。テーブルにはぴかぴかの晩ご飯が食卓を隈(くま)なく彩り、お腹を空かした男たちを魅了する。

みんなで卓を囲んで、夜ご飯を頂く。

「ん~ほっぺがとろける! やっぱママの料理が一番最高! 学校の給食とは比べ物にならないくらいおいしいよ!」

やっぱり愛情の込められた料理は段違いだ。ピーターは口いっぱいに絶品料理を頬張って、笑顔を咲かせて太鼓判(たいこばん)。

ロゼッタは才色兼備で基本なんでも一流にこなす。料理もその一端に過ぎず、ママ友からはレシピを教授してもらいたいと乞(こ)う列がなされ、あまりの人気ぶりに料理教室を開催するほどの腕前だ。

「いつも美味しい料理ありがとう、本当に幸せだよ」と、ジェラード。

「ふふふこちらこそありがと~」

そうだ、苺プリン! とピーターが席を外してキッチンに走り、自分専用の冷蔵庫を開けた。隙間(すきま)もないほど苺プリンや苺プリンが全体を埋め尽くしている。

「まあ糖分がいっぱ~~~い」

「ママもいる?」

「ううんだいじょうぶー」

「よく太らないよな? 美味しいご飯のお返しに俺が特別にママにコーヒーをプレゼントしてあげよう」

「特別にって、いつも俺の愛情のすべてを注いだとか言って作ってくれるくせにー。ふふっ、でもありがとうパパ、嬉しいわぁ。じゃあおねが~い」

ロゼッタが甘えるようにかわいらしくお願いすると、ジェラードは畏まってかしこまりました、と執事みたいな所作をして卓を離れる。

慣れたように手早く台所で準備を進め、彼は自分の分まで作ってロゼッタに「どうぞ」と紳士的にティーカップを机に渡した。感謝を告げ、ロゼッタは教養が滲み出る優雅な仕草でカップを傾け、「おいしい」と、うっとり顔を綻ばせた。

こうして見ると本当においしそうに見えるのに、前回の苦味が蘇(よみがえ)ってピーターの舌が飲んでもないのに苦くなる。

「俺の愛情、伝わった?」

ジェラードが頬杖をついて、甘ったるく妻に問いかける。

「ええ。結構な愛情で」

「結構な腕前で、だろ? あははかわいいことを言うなぁ、俺のママは」

「パパのコーヒーも大好きだけど、パパが一番好きよ」

酔ったようにほんのりと赤らんで、ロゼッタがなかなか臭いことを言う。

「おや? そんなこと言っていいのかな?」

「ふふふなぁにー?」

また始まったよ。顔を苦めるピーター。

「俺もママがこの世で一番好きだよ」

かっこよくウインクを決めるジェラード。苦さが最高潮に増す。

「きゃあ、もうあなたったらやめてよ~」

おろろろろろろろとスープをリバースしそうになる。ロゼッタは乙女のように恥じらい赤い顔を覆った。

「なんて苦いんだ……」

湯気が立つような夫婦の甘い世界。おいしいはずだった料理がなぜかあのコーヒーの味がした。

「私はパパが大好きだけど、ピーターはまだ好きな子とかいないの?」

「俺もママが大好きだけど、ピーターは彼女とかまだいないのか?」

もうまるまるゴーヤ一本食わされている気分だ。

「いない」

『えぇ⁉』

激しく共鳴。うそー! うそだろ! とどこまでも声がそろってしまう夫婦。

なんでそんなに驚くのだろう。

「そんな……こんなかっこよくて優しくて面白いのに?」

「馬鹿な……こんなかわいくて天才で頭がいいくせに?」

信じられない! もったいない! とそれぞれ驚愕顔を共に披露。

「毎日、告白されてはいるけどフッてるんだ。友達として、好きな子はたくさんいる、でも、そういう意味での好きな子は、まだ出来たことがない」

「やだぁ。やっぱりモテモテじゃない。さすがぁ! パパに似てるもんねぇ」

「ひゅーひゅーやるなぁ美少年。やっぱママに似てるからなぁ」

ジェラードとロゼッタを足して二で割ったようにピーターは似ている。将来神になれると言われるほどだ。

「恋知らずかぁ。まだまだピュアだなー」

「じゃあ、どんな子が好きなの? 好きなタイプとかぁ」

ロゼッタは目をたわませて聞いてきた。

ピーターはすぐには答えを出せず、困ったように思案声を漏らして考えあぐねた。

好きなタイプ──か。そんなの、あまり考えたことはない。好きになった人がタイプだとかみんなよく言うけど、恋したこともないしその意味が自分には全く分からない。明るい。優しい。大人しい。賢い。みんなそれぞれの魅力を持っているし、みんなが素敵だと思う。

「──」

だが、ある情景が、軽薄な頭をそれは違うと反対するように打ち殴った。

──今日面談の際、初めて見た、母のあの横顔。

あの姿が、今でもこの胸に焼き付いて忘れられない。

胸がキュっと締め付けられる感覚と同時に、胸の奥が震えて熱くなったあの時。きっと、自分はあの時、あの顔に恋をしたのだ。そしてより深く絶対的な信頼を母に抱いた。母より美しい人は他にいないと、そう確信したまでに。

ピーターは自然と、こう答えていた。

「──強く、優しく、美しい」

おもむろに睫毛を上げた。正面の母を、世界から切り取る。

そう、あなたのような──

「そんな人」

彼女は、さらに生から切っても切り離せないほど、かけがえのない人になってしまった。

ピーターの執着に、ロゼッタは気づかず、おっとりと笑い返した。

「まぁ、そうなのそうなの~? 確かに、それはとても素敵な子ね。強く、優しく、美しい──。きっと、お日様のような子でしょうね。そうね、きっといつか、あなたの前に現れて、かわいらしい笑顔をみせて、あなたを雲のように包んでくれるわ。そんな気がする、ふふふ」

「そんな人、この世でひとりしか存在しないよ。僕ママと結婚したいなー」

「ママはもう俺のお嫁さんだぞ」

残念ながら人妻。ピーターはしってるさぁと風船みたいに膨れる。ロゼッタはくすくす笑っていて、ジェラードの言葉にときめいているようにもみえる。「恋ってなんだよー」とごちるピーターに、彼女はカップを口から離すと、言った。

「人は恋をすると、狂うものよ」

ピーターは苺プリンの甘美な至福に満たされており、その声もその目も届かなかった。顔をあげ、ふたりを交互に見渡して純粋な疑問を投げる。

「ねぇ、パパとママってどうして結婚したの?」

そのなにげない質問に、夫婦は驚いたように目を見開いた。困ったように顔を見合わせて恥ずかしそうに微笑みを交換した後、何かそれぞれ感慨(かんがい)があるようで、懐かしむように笑みをこぼして二人して俯く。

「この人になら、俺のすべてをさらけ出してもいいと思ったから」

「この人になら、私のすべてを捧げてもいいと思ったの」

と、まるで打ち合わせでもしたかのような完璧な回答が返ってきた。驚く。

「へぇ~」

きっと、自分にはまだ早い大人の深~い物語があったのだ。やれやれ、憎らしいくらいお似合いの夫婦だ。

カップを丁寧に置いて、ロゼッタはコーヒーの闇を意味深に見つめながら問うた。

「あなたはお仕事の調子はどう?」

ジェラードはロゼッタの父が経営している大手企業で働いていて、とても優秀な職に就(つ)いている。とても美しい容姿なうえに愛嬌があり頭もキレるため、非常に人望も篤(あつ)かった。

「ああ、順風満帆だよ。あともう少し。あともう少しで、さらに大きく出世できそうだ」

嬉々(きき)としてそう言うと、ジェラードは爽やかに笑った。

「そう、よかった」

心底安心したように、ロゼッタはうれしそうに微笑んだ。

ピーターは父の快進に大きな賛辞を送った。

だが、気にも留めないような、父の笑顔の真意を、ピーターはまだ知らなかった。


  7


季節は移ろい、今日は平日で今頃子どもは学校で勉強している時間。家では夫婦がふたりきり、大人の時間を紡いでいる。

「ジェラード……」

もう肌寒いというのに、儚(はかな)く白い作り物のような肌が大胆にも露出し、薄着姿でロゼッタは夫の胸に抱かれている。否(いな)、すがるようにたくましい体を彼女から抱きしめていた。細い背中には何も回されていない。温もりがこんなに近くにあるのに、寒さと寂しさは取れない。ただ、ベッドの縁(ふち)に座り込み、黙り合う男と女。

「…………」

ジェラードは何も言わない。

彼は季節にそぐう厚い服を着ている。感情のない目と切実に揺れる瞳が絡み合うが、何も起きず事は膠着(こうちゃく)したまま。

こんな状態が虚しくて、自分が作ったのに居たたまれなくて、何もしてくれない彼が悲しくて──我慢できなかった。

勇気を奮い起こして、ロゼッタは顔を彼の方へ引き寄せる。彼が自分の背に触れた。心臓が狂ったように飛び跳ねる。──しかし。

「寒いだろう。飲み物を作ってくるよ」

静かな衣擦(きぬず)れ。ジェラードは薄い笑みを張り付けて、避けるように立ち上がる。

「……! ええ。ありがとう……あなた」

バタン──、扉の閉まる音が、虚しいくせに胸を余分に抉(えぐ)ってくる。

残った彼の体温をせめてものと逃げないように、消えないように抱き留める。

ベッドの上で、彼女が一人残されて。今日も、独りになる。

「ねぇ、行かないで……ねぇ、置いていかないで」

小さな呟きも孤独が聞いているだけで、冷気と、彼の冷気に凍えて、震えている。


──いつからだったかしら。


去年だった。あなたが私に笑顔を見せなくなったのは。私にだけ冷たくなったのは。

あの子が家にいる時だけ、あなたは昔のあなたに戻ってくれる。それがたとえ作り物だったとしても、あなたの笑顔と言葉がすごく嬉しいの。それがぜんぶ嘘でも、私、すごく幸せなの。

我儘(わがまま)なのは分かってる。ねぇ、どうか、もう一度……


扉の開く音がして、急いで態勢を戻して笑顔を繕(つくろ)った。

相変わらず無表情のジェラードの片手に、ほくほくと白い湯気が立つティーカップが握られていた。

すっと、まっ黒い液体が揺れて、機械的に今日もそれを差し出される。

「これを飲んで」

「ありがとう」

彼女も機械のように受け取る。胸元におもむろに引き寄せ、深淵を抱く暗闇を躊躇(ためら)いがちに見つめる。

胸の奥が、ちくりと痛む。

──ジェラード。初めてみたあなたの瞳は、このコーヒーのように深い闇をたたえていた。それでも、あなたの瞳はこの世のものとは思えないくらい綺麗だと思ったわ。

そしてあの時、あなたに言ったあの言葉を、今でもこの胸に刻んでいる。

──私はあなたのためなら、私のすべてをあなたに捧げます。

昔は毎日が溶けてしまうかと思うほど、メレンゲのように甘やかだったあなた。

でも今は、砂糖のないあなたの苦味が、私を苦しめる。

あなたを愛している。心の底から。だから私は──……。


弱さを振り切って、グッと、カップを傾けた。

熱い液が喉を通り、糸を引くように体中を黒色が巡り巡って、纏わり付いた冷気を溶かす。

湯気(ゆげ)を含んだ息をほぅっと吐く。一息で空になった。口腔(こうくう)に苦味が尾を引く。今日も一滴も残さず飲み干した。

何かに期待してジェラードにちらと視線をやるが、冷たい瞳が変わらずそこにある。なぜか、距離を置かれていた。

だいじょうぶ。落ち着かせるように深く呼吸をする。これを飲んだ後は、少し偏頭痛(へんずつう)がして、それから弱い目眩(めまい)がくる。極まれに吐き気がするけど、耐えられる程度だ。この人の前で、醜態を晒したくはない。

でも、今日はそんなに甘くはなかった。

「──うッ! あぁぁぁ……ッ!」

突然、雷に打たれたような頭痛が襲った。それから猛烈な吐き気、おぞましい倦怠感(けんたいかん)が押し寄せる。 

熱い! まるで体が焼かれていくようだ。息が苦しい。

崩れるように体を地面に打ち付けた。必死にジェラードを見上げる。

「あなだ……ッ!」

命が、何かに、誰かに、激しく食い散らかされている。

この体に撒かれた種が、ようやく芽を出して灼熱の猛毒をぶちまけて、絶叫も葬る臓器の激痛が全身を突き抜ける。

世界がボウルの中みたいにぐるぐる踊って、彼女は無様に喘(あえ)いで泣き笑いしながら、死へと料理される。

グロテスクな青い蛆虫(うじむし)が飛び交い、迷惑な不協和音が頭に響き渡る。

──だが、痺れるような幸福が、麻酔(ますい)を打つ。


痛い。苦い。それに、甘いわ──。 

私は…………私のすべてをもって、あなたへの愛を表現するの。

この痛みも……苦しみも……すべて、あなたのためだというのなら──、

ビターなチョコレートになるわ。


──でも、どうして。


目元に灼熱が込み上げて、苦痛に満ちた瞳から、形となって溢れだす。

「ピータぁー……ピーター……」

かわいいあの子の笑顔と、狂おしい夫の姿が、血の残像のように己がつくる闇の中でまざまざと赫(あか)く赫く焼き付いている。


──どうして、こんなに……虚しいの。


「あなた……愛して、ぁ、愛……」


あなたは、私を愛してるフリをしていたけど。

実は、私も知らないフリをしていたの。


「愛して、る……」


──あなたが、私を殺そうとしていること。


男はただ黙っている。

女の動きが止まった。ぴくりとも動かない。

美しい髪が絢爛(けんらん)を放って寝乱れ、その上で女体が無惨に転がっている。

彼は蔑むように、冷血に嗤って見下ろしていた。

自分のために、笑顔で命を差し出す──無様に死んでいく道化を。


  8


バタン──!

ピーターは病室の扉を破るように開けた。

「ママあああああああああああ!」

涙で顔をぐちゃぐちゃにして泣き叫びながら、親戚の人たちを顧みずロゼッタをすかさず腕の中に収めてわんわん泣きじゃくる。昼下がりの休み時間に母が倒れたことを聞いて、大急ぎで病院に駆けつけたのだった。

顔色こそ青白いが、母の顔はいつもと変わらず柔和(にゅうわ)で「まぁピーター。来てくれたの? ママは幸せ者ねぇ」なんて、ものすごく痛かったろうに、おかしいくらいのんきなことを言っている。

「僕という存在がありながら……僕がママを支えなかったからぁ……ママ死なないでよ! ママがいなかっ……舌噛んだ。生きていけないよおおおお!」

マザコンのヒステリーなる涙の叫びに親戚の間では苦笑や慰(なぐさ)めの声が上がった。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ。ママは死なないよぉ。よしよ~し、泣かないで~」

息子の背中を撫でながらロゼッタは優しく慰める。彼女の両親やその親戚たちも心配そうな面持ちで寄り沿っている。みんな彼女の危篤(きとく)を聞いて、仕事もほっぽり大慌てで駆けつけてきたのだ。

ピーターの次にロゼッタの父がひどく悲しんでいる。彼女と同じアルビノの渋くて美しい男だ。

「あああ愛しの我が娘よおぉぉぉ……お前が死んでしまったらお父さんは悲しみのあまりぽっくり逝ってしまうよ……体が元から弱いのは知っていたが、ここまで深刻になるとは……ゼッタああああああああ!」

「もう大丈夫よ~お父さん。私は平気。だいじょうぶ。ほらみて~。変な顔もできます!」

と言って、頬をつねって変顔を披露するロゼッタ。

「かわうぃ~! もうちょっといやん見てぇ~! 母さん可愛すぎるぅ! うちの娘んん~!」

「ローズ。辛かったら、本当のことを言うのよ。母さんはあなたのすべてを受け入れるからね」

と、ロゼッタママが華麗に親バカ夫をスルーして、娘を心から思って頭を撫でた。

「うん。ありがとうお母さん」

す、とロゼッタのか細い手を、大きな男の手が伸びてそっと包んだ。

「ロゼッタ。君には、俺がついてるから大丈夫だよ」

傍に寄り添うジェラードが、ロゼッタとは視線を合わせずそう言った。

はっと見開いた瞳は憂(うれ)いげに揺らぎ、しかし頬を染めて、彼女は俯いて微笑を落とした。

「はい」

彼女が運ばれたのは場末(ばすえ)の小さな病院だった。あまりのパニックで最寄りの病院ではなく間違えて電話をかけてしまったらしい。建物が老朽していて古めかしいが、図らずとも、医者の腕は随一(ずいいち)で病院を替(か)える必要はないと、人望に篤く誰からも信頼されているジェラードがそう説明したことで、その場にいた親戚はそれを信じ込んで首を縦に振った。

ピーターを省いて、大人だけで年配の医師からの説明があった。

不安がひしめく緊迫した空気の中、医師から宣告されたのは、彼女を心の底から愛する者にとっては絶望でしかなかった。

彼らの心を簡単に捻(ひね)りつぶしたのは「難病」というたったの二文字で、それだけでロゼッタの父は倒れそうになった。さらに畳(たた)みかけるように沈痛(ちんつう)な面持ちで「手の施し用がございません」と放ち、そして、「余命三か月」と口にされた時、ロゼッタの父は医務室に運ばれた。

素直で人が良く、疑いようもない親族は目も余るほど痛々しい姿だった。泣き叫び、己の無力さに頭を覆い、ジェラードまでもが静かに泣き崩れた。

大量の涙を流し、両手の陰の中で含み笑って。男の思惑通りに、陰謀は滑らかに歯車の音を立てる。


  9


ピーターには匙(さじ)を投げられたとは言えないため、「お家で安静にしておく」という名目(めいもく)で聞かしている。

大好きな母が弱っているというのに、ピーターは自分だけのんきに学校なんて行けなかった。だがロゼッタの説得で渋々と登校し、心配で不安で授業は右から左に流れていった。帰ったらすぐに母の元へ駆けつけて看病するという日々を送った。ずっと母の傍にいた。ジェラードはお金を稼がなければいけないから仕事漬けだった。彼女は彼が毎日作ってくれるコーヒーを本当に美味しそうに飲んでいた。親戚の人たちや彼女の友達、たくさんの人がお見舞いにきた。

……ねぇ、どうして?

親戚の人も、パパもママも、すぐに治るって言ったのに……。

ロゼッタは衰弱していくばかりだった。日に日に食欲もなくなり、みるみると痩せていった。肋骨(ろっこつ)が浮き彫りになるくらいだった。

辛くて痛いはずなのに、彼女はそれでも笑顔を絶やすことはなかった。悲しそうなピーターの顔をがんばって笑顔にしようと冗談もたくさん言った。その優しさが痛いくらいに嬉しいのだけど、同時に悲しくもあった。

日毎(ひごと)日夜(よごと)、母が死ぬのではないかと激しい不安に襲われて、全く寝付けない。毎夜、母を独りにしないためにもピーターは隣で寝ることにした。あまりの不安で悪夢にうなされるピーターをロゼッタは「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と背中を優しく叩きながら繰り返してくれていた。


「ごめんね、ピーター」

夜まで付きっきりで看病をし、寝台の縁に、腕を枕にうたた寝しているピーターの頭を弱々しく撫でた。まだ幼いのに、こんなに不安な気持ちにさせて本当に胸が苦しい。友達といっぱい遊びたいだろうに。自分のせいでこの子の大切な時間を奪うのがとても辛かった。

胸の奥底に蓋(ふた)をしていた悲しみが堰(せき)を切り、激流のごとく込み上げる。

ぽろりと、真珠(しんじゅ)のような涙がこぼれた。

泣き顔なんて、この子の前では絶対に見せないと決めたのに、起きたらどうするのよ。

この底の見えない悲しみを笑顔で貫くことは難しかった。熱い雨が頬を延々(えんえん)と濡らし続ける。

華奢(きゃしゃ)な肩は震え、やせ細った両手を顔に覆い隠して、ロゼッタは声を押し殺しながら泣いた。

「ごめんね。ごめんね……。こんな私を、どうか許して」

あの人のすべてを、愛してしまった私を。

あの人のためならいいと思ってしまった私を。

どうか許して。

私は朽ちていく。あの人の肥料になるように。

身の毛がよだつほど恐ろしい……。

それでも──

それでも、幸せだと思ってしまう自分がいた。

あの人のためなら、死んでもいいと思ってしまう自分がいた。

そんな自分を呪った。そんな自分を憎んだ。

成長した姿も見届けることができず、この子の夢が叶った姿を見るという夢も叶わず、幼い息子よりも先立ってしまうような、こんな愚かな母親を、献身的(けんしんてき)に尽くし、心から愛してくれるこの子を、本当に心の底から愛している。


「ピーター……あなたが大好き。あなたの向日葵(ひまわり)のような笑顔を見るたびに救われる気持ちになるわ。あなたの存在が、ママの足りなかった人生のパズルを完璧にしてくれたの。私は独(ひと)りじゃないんだって。この子が傍にいてくれるんだって。あなたの光があったかくて、優しくて、悲しみが溶けていくの」

起きないように、そっと白いほほに手を添える。

「ピーター。無理しすぎちゃだめよ。それから寒いから、半袖じゃなくてちゃんと厚着するのよ。風邪(かぜ)引いちゃうからね。もうお風呂もちゃんと一人で入るのよ。枕を足の方にして寝ちゃだめよ。それから──」

流れる言葉をはっと飲み込んだ。

私は何を言っているの。この子にこんな思いをさせといて。母親面をするなんて。

こんなこと、言う資格ないのに。

ごめんね。ごめんねピーター。こんな母親でごめんなさい。

背徳感と、切ない、悲しみの激流に吞み込まれる。

涙がとめどなく溢れる。

「愛してる、愛してるわ……ピーター。ピーター…………」

そしてその声は、取り返しのつかないところまで堕ちた、愛の亡者(もうじゃ)だった。

「ジェラード……」

首元のブローチを、手を震わせて、すがるようにきつく握りしめる。

 元々愛情深く、初めて恋に落ちると過激なまでに一途で、暗黒なまでにのめり込んだ。

世にも愚かな恋心が、ミルクのように、悪徳(あくとく)のブラックを飲み干す。

ずっと若い時、あの人が誕生日にくれた宝物。これを着けていればあの人が傍にいるようで、肌身離さず持っている。

──ねぇあなた。

早く帰ってきて。

早くあなたの顔が見たいの。

私、渇いてるの。すごく渇いてるのよ。

ねぇ早く…………あなたの──、


「コーヒーをちょうだい……」


そして、悲劇の歯車は回る。


10


学校から急いで帰宅し、玄関でつっと足を止める。

家の中は、異様な静けさに満ちていた。見舞い客をちらほら平時見かけるが、今日は誰もいない。ドクンと、心臓が不吉に鼓動する。恐ろしい予感が頭を過り、バクバクと拍動(はくどう)が速くなり、背筋に悪寒(おかん)が走る。

蹴り立ち、母の部屋の扉を急いで開けた。

窓から、穏やかな夕陽が部屋に差し込み、カーテンレースが風に膨らんで踊っている。部屋は綺麗に片付いていて、壁掛け棚の上で、おもちゃたちが並んで笑っている。見慣れたはずのその部屋は、まるで知らない人が眠る病室のようで、生命が青白く燃えていた。

覚束(おぼつか)ない足取りで踏み出す。

「ママ……ねぇ、冗談だよね?」

抜け殻のような白い人が眠る、ベッドの縁まで立ち止まる。

白く長い睫毛は、永遠を匂わせていた。

残酷の限りを含んで目を見開く。

子ども心に悟ってしまった。

──もう、母は、直に死ぬのだと。

この世に存在するすべてを忘れたように、茫然(ぼうぜん)自失(じしつ)とする。

「母さん……?」

そっと青白い頬を撫で、ゆっくりすぎるほど頭(かぶり)を振る。

……死なないって、言ってたじゃないか。

嘘…………だったの?

そんなの信じない。この人はママじゃない。僕のママじゃない。知らない人だ。こんな人僕は知らない。ねえ……違うだろう。そうだって言ってくれよ。

「ピーター……」

儚い、透き通るような声が、少年の名を呼ぶ。

力なく笑うその美しい顔も、その美しい声も、その美しい姿も、自分の母、愛おしい人、最愛の人、ロゼッタしかありえなくて、この胸に込み上げる愛おしさも、間違いなく母に対するもので。

これが現実であるのだと、受け入れるしかなかった。

母は死ぬ。今日、自分の目の前で。

「母さん……」

そこで、思い出したように涙が溢れる。

「死んでしまうんだね」

膝が、がくんと崩れ落ちる。

「ねえ……逝かないでよ、ママ……」

打ちのめされたように、茫然(ぼうぜん)としばらく泣く。そして飛び、細すぎる母の手をぎゅっと握り、必死に泣き叫んで呼びかける。

「母さん! 最愛の人! かけがえのない人! 死ぬな! 死んじゃだめだ! ロゼッタ!」

「ピータ……」

今にもか細いこの指は、その命は、この手をすり抜けて落ちていきそうで。

「逝かないで! 僕を置いて逝かないで! 僕の人生から消えないで!」

 何を叫んでも現実は変えられない。その手を強く握ったまま、ゆっくりと絶望に呑み込まれながら、顔を沈ませ、涙の雨がシーツを濡らす。

「あなたのいない人生なんて、いらないから……」

 少年は泣き続ける。彼女が何か言っている。自分を呼んでいる。


「────」


それを確かに、ピーターはその耳ではっきりと聞いて、心は記憶した。

しかし、今は、荒れ狂う悲しみの奔流(ほんりゅう)のせいで、頭の隅に流されていった。


する──少年の手から、細い指がすり抜けた。

とん。


沈黙が流れる。それ以降、気配は消えた。

目を、絶望的に大きく見開いた。

「は……?」

身体を揺り動かす。ぴくりとも動かない。

「ねえ……」

揺り動かす。揺り動かす。揺り動かす。揺り動かす。

「ねえ、起きてよ」

揺すり続ける。

「起きてってば……」

苦笑さえ浮かべて、一寸たりとも動かない。死の温度が返事として返ってくる。

彼は電池が切れたように動きを止めた。 

やおら動き始め、白い前髪を、横たわる美貌に振りかける。

唇を重ねた。息を吹き込む。

そっと離れ、赤くもならない、表情一つ変わらない、現実を垂れ流しにする人形に、彼は悲しみに歪んだ顔で微笑む。

「ねえ……怒ってよ」

これが冗談で、おはようと言って起きてくれないかと本気で願う。昨日みたいに、そのまた一昨日みたいに、普通にベッドから起き上がるように、いつもみたいに自分に「おはよう」と言ってくれたら。

でも、何も言わない。起きてくれない。それどころか、息をしていない。

「母さん……ママ……」

震える瞳から溢れる涙を拭(ぬぐ)いもせず、自身の腕の枕に沈み込む。

少年は、聞いた者が忘れられないほどに心を抉る慟哭(どうこく)を、涸(か)れ果てるまで上げ続けた。


11

 

粛々(しゅくしゅく)と執(と)り行われた葬式も、大勢の者が涙を流す中、ピーターは人形のように感情もなく立っていた。ただ、右手にロアを握っていた。

立て続けに悲劇は起こった。ロゼッタの父が娘の訃報(ふほう)を聞いた途端、元々虚弱(きょじゃく)なのが手伝い、ひどい悲しみにショックを受けて亡くなった。

不登校になり、訪(たず)ねてくる友達とも会わず、独り、暗がりの部屋の片隅に膝を抱いて、小さな笑い顔を何も思わず見つめるだけの日々を送る。今がいつなのかさえ、どうでもいい。

深く愛していた、自分を埋めていた絶対的な存在である母親を失ってしまったのだから、打ちひしがれるのは当然だった。

ピーターは鬱々(うつうつ)と引きこもり、ジェラードは真逆だった。ロゼッタがいる前よりも仕事漬けになり、滅多に顔を合わせることはなくなったが、たまたま目にすると、人生をまさに謳歌(おうか)していると言わんばかりに生き生きとした笑顔を浮かべていた。まだロゼッタが亡くなって僅(わず)かしか経っていないのに、立ち直りが早いといったら早すぎる、違和感を覚えるほどのあの充実感に気色悪さを感じた。

でも、父のことをより深く考えられるほど、ピーターの頭はそこまで今賑やかではない。

──どうでもいい。

虚(うつ)ろに時を過ごしてゆく。

──会いたい、母さんに会いたい。


母の死から一ヶ月が経過する。

傷は癒えることがないし、未だに学校には行けておらず、塞ぎこんだままだ。父ともまともな会話もしていない。

深夜にそろりと起きた。ロアを抱えてベッドから下りた。

……トイレに行こう。

トイレは一階にある。ベッドから離れて自室を後にし、階段を下りてすぐ側にあるトイレで用を足した。それからすぐに戻ろうと思ったが、廊下の奥の方──居間の扉に隙間が出来ていて明かりが漏れていた。男の笑い声と複数の話し声がかすかに聞こえた。

ジェラードはともかくとして、一体誰だ? 会社の同僚だろうか。自分が閉鎖している時彼が家の中に誰かを招くことはあったが、こんな真夜中にやっているのは知らなかった。

足が動いた。別にジェラードに会いたいわけではない。むしろ逆だ。入るつもりはない。扉で何をしているのか気になってしまった。些細な興味からだった。

扉の前までやってくると、笑い声はより鮮明に大きく聞こえた。中の人数は十は上る。それにほとんどが男だ。

そっと、気づかれぬように、居間に耳をそばたてた。

扉にわずかな隙間があることもあって、中の会話はぜんぶ拾うことができた。


──それはまず、海賊のような哄笑(こうしょう)から始まった。

聞くからに酒に酔っている下卑(げび)た大人の声。

会話の中心にいたのはジェラードだった。あの気品はどこにもない。高笑いを上げて狂喜していた。

「アッハハハハハハハ! 遂に俺の夢が叶った! 俺は社長になったんだ! これであのクソ共を見返せる! 金が腐るほど寄って来る! 誰もが俺を称える! ウザい上司も俺にへこへこ頭を上下しやがる! ざまあない! 最高にいい気分だ!」

そして次の言葉を聞いた瞬間、世界から雑音が消えた。

「──あの女を、殺してからな!」

今、なんて…………?

嘘。また悪夢を見ているのではないか。だが、ここは間違いなく現実だ。あれは、本物のジェラードだ。

血の気が潮(しお)のように引いていく。指先の力が消えてぶるぶると震える。怖い。こんな現実、聞きたくなんかない。今すぐ逃げ出したかった。だけど、足は言うことを聞いてくれない。

知らなかった愛と喜びをもらい、新しい自分を見つけたくれた唯一の彼女を心から愛したはずの男は、権力の亡者(もうじゃ)となり、人を殺したと聞いても男たちは彼にへつらって社交辞令で笑っている。後天的な異端者であり、楽しく笑うのが好きなジェラードがそうすると喜ぶからだ。

「ククククッ……ああ思い出しただけでも笑えてくる! 腑抜(ふぬ)けな一族め。俺の掌にまんまと転がってくれた。あの女の血が流れてるだけあってどいつもとんちきだ。ハハ、君を雇(やと)って正解だったよドクター。圧倒的な演技力に舌を巻いたね」

「いやあ、君には叶わんね。惚れ惚れする見事な父親顔だったよ。よぼよぼのやぶ医者を助けてくれたことは、感謝してもしきれない。金は有り余って……」

どこかで聞いたことのある声だった。確か場末(ばすえ)の病院にいた年配の医師だ。事実を悟って蒼白する。雇った……それはつまり……共犯。病院を間違えたのではなく……用意した……。

「ハハハ悪い人だ。なに。俺もいいものが観れたからお相子さ。元々あの女は虚弱だったからな。ありきたりなでっちあげの宣告をも真に受けるバカな一族の顔。雰囲気! 爆笑を抑(おさ)えるのに窮(きゅう)したよ。終いには一族揃って大泣きだ。思わず自分が泣き笑いをしていないか手鏡を見て確かめたくなったぜ。あのおっさんの惨(みじ)めな泣き顔を拝めることができた。余った大金は君の迫真の演技のチップだと思えばいい」

「しかし策士だな。どうやってあの女を殺ったんだ?」

「お前が一番わかってるだろ薬剤師。お前の薬を使わせて頂いたんだよ。あれはよかった。あのジャンキー女、本当にうまそうに飲んでたからな。しっぽ振ってねだってたぜ? ──劇薬入りのコーヒーを」

おぞましい爆発にも聞こえる笑いが起きる。

「ぽっくり逝かせるのは不自然だ。そこで俺のバーテンダー時代の手捌(てさば)きが光ったよ。巧妙に調整していたのさ。まるで本当に病(やまい)に侵(おか)されているかのように見せかけ、あの女の命を蝕(むしば)んでいった。そして──ぽかんだ」

拍子抜けするほどの語尾の響きに、居間が爆笑する。

「あの女の親父の堕ちっぷりは実に見物だった。娘の難病がショックで病んで、床(とこ)に伏して休職。そこで親父に言われたよ。もしも自分が死んだら、約束通り社長の座を譲るってな。表面上は真面目に受け答えしていたが内心大爆笑だ。なにせ名家の大事な一人娘。おっさんのあの女への愛は異常だったしな。こうなることはわかっていた。そうしてあの女がぽっくり逝っておっさんも死んだ。俺は晴れて念願の社長になったってことさ!」

ジェラードに歓声、指笛、猛烈な拍手喝采が上がる。

「アッハッハッハッハ! 笑いが止まらない! すべては俺の計画通りに進む! この世界はまるで俺の舞台だ! 絶世の美女だろうが俺は元々無性愛。色情(しきじょう)も恋慕(れんぼ)も抱かない。あの女など小道具に過ぎなかった。人心(じんしん)掌握(しょうあく)が俺の専業特許でね、あの女を落とし、おっさんに愛想振りまいてあっさりコネ入社大成功さ! お前の会社が俺にギられるとも知らずにな! ──あとは、俺の息子だ」

ピーターの心臓が奇声を上げる。

「ハ、殺っちまうのか?」

「馬鹿野郎! そんな愚かな真似はしない」

ジェラードはうっとりと紅潮(こうちょう)し、息子の姿を神の子のごとく煌々と浮かべ、語り始める。

「天才など可愛い形容だ。あいつは──全能だ。冗談ではない。英雄か、怪物にしかなれない。人類など容易くあいつの膝下(しっか)に落ちるだろう。俺とあの女の遺伝子もあって華もある。順当に社会人になれば、すぐに俺と同じトップに踊り出るさ。優秀なエリート、優秀な御曹司(おんぞうし)。俺の株がより上がるフレーズだ。そう見込んでいるよ──」

しかし声の調子を低くした。

「だがいかんせん道化だ。妄言を繰り返すんだよ。この前教師があいつにまともな道を歩めって叱ったんだ。それでアイツ、なんて言い返したかわかるか? 耳を疑うぜ。『僕は、空の国を創って、世界を笑顔にします』──正気か?」

居間にいる一同が爆笑した。それはまさに、腹の底から侮辱(ぶじょく)をありったけの作り笑いに見事に昇華させた、そんな抱腹(ほうふく)絶倒(ぜっとう)だった。男たちは楽しく盛り上がり、ジェラードは上機嫌に語る。

「そんなクソみたいな夢早々引き剥がして、俺の名誉向上(こうじょう)の引き立て役になってもらうよ。あいつは俺の跡取りにする。現役トップからのお墨付きだ。あの妄想癖をなんとしてでも叩き直す。現実にフォーカスしてもらわなければ話にならない。今はそれが課題だな。所詮(しょせん)あいつも俺の完璧な木偶(でく)──」

その瞳に、狂気的に光る愛を宿す、まるで神の子のようにピーターを信仰する狂信者──

ジェラードは熱狂して言った。

「ピーター──俺の子。かわいい子。俺の最高傑作! ようやくあいつを独占できる! 完璧に仕立ててやるよ! あいつは──俺の人形なのだから!」

男たちの汚れた笑いの嵐は、もう既にピーターの耳には届いていなかった。

世界がジェンガのような甲高さで、崩壊していく音を立てる。

足場が粉々に割れていく、底知れぬ闇に落ちていくようだった。

最初は、憎しみだった。

許せなかった。本気で殺そうと思った。もし力が入ったのなら、手に刃物を持っていたら、奴が目の前にいたのなら突き刺してやっていた。

でも、憎悪の炎はいつしか悲しみの雨に変わった。

その染みは闇をつくり、取り返しのつかない深さを生んだ。深淵にどんどん加速して落ちた。


ママは、あいつに、殺されたんだ。

でも、もうあの人は自分の父親じゃない。自分の中でジェラードは死んだのだ。

両親はもう、死んだのだ。


涙があふれる。止まることを忘れたかのようにこぼれ続ける。

一歩、一歩と、この腐れ切った巣窟(そうくつ)から身を離れる。


ピーターは支度をした。パジャマから着替えた。ロアを片手に持った。母の忘れ形見(がたみ)であるブローチを首元に着けた。

もうこの家にいたくなかった。一刻も早く脱出したかった。あの人と同じ空気を吸うのも嫌だった。もう顔も見たくなかった。あのままあそこにいて人形になるくらいなら、なにもかも捨てて出て行った方がマシだった。

父も母もいない。

だから、少年は家を出た。

今や枯れ切った花々の庭園を通り抜ける。住宅街を突き抜ける。

ただ走る。行く宛もなく、ただひたすらに。

真夜中に寝転んでいる月が、少年を照らしてニタリと嗤っている。

目から溢れる大粒の雨を風に流す。

「ハぁ……ハぁ……ハぁ……ッ」


──あいつは──俺の人形なのだから!

熱狂する男の声。


──夢を侮辱する、居間がひっくり返るような下品な爆笑の渦。


蘇る記憶も、感情も、もうすべてから逃げたかった。

息が切れるまで、転んでも立ち上がり、少年は走り続けた。

それから──体力は底をつき、名も知らない、人影もない、夜の街をよろめきながら、細い路地に入った。

少年は壁に背を寄せて、小さくうずくまる。

気持ち悪い。全身に流れている血があの男のものも混じっているのだと思うと、腕の皮膚が気色悪い冷気を放ち、真っ赤な健康的な血流が汚染されたように思えた。悪寒に震えて自分を抱きしめた。

眠気も感じない、感じられない、虚無と絶望の二つしか存在しない世界で、時を過ごす。


──大人は……大人の姿をしたただの子どもだ。

神様。僕を殺してくれ。

もう、希望もない。夢もない。家族もいない。

生きていても仕方がない。

僕の夢なんてもう叶わないままでいい。

こんな汚れ切った世界に生きたくない。

僕を天国に連れていって。

僕をどうかあの人に会わせて。


少年はゆっくりと目を閉じて、深い暗闇の海に沈んでいった。


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