17-4 クリスマスイブの嘘




 雨。

 雨。

 雨。

 北棟につながる渡り廊下を歩いていた。

 水滴がしたたる窓から中庭をのぞくと、

 外は嵐で散乱した別世界になっていた。

 歩を進め、あの場所へと向かった。

 途中、廊下、階段、

 人とすれちがうことはなかった。



 

 3階で足を止め、ほくたちは見上げた。

 4階へつづく階段越しに、

 明るく照らされた踊り場があった。

 上部の大きなガラス窓から、

 うっすらと青白い光があふれている。

 逆光で、

 窓枠が黒い十字を刻んでいるように見えた。

 足音をころし、

 神聖な地を踏み超えるように、

 二人で階段を上った。


 踊り場の床に鞄を置いて、

 並んで立った。

 後ろの広い壁に背をあずけた。

 空気が寒く背骨がひんやりとした。

 となりの今井を見た。

 周囲をながめていた。

 青白い光が、

 踊り場の天井と壁に反照して眩しい。

 左に見える下り階段の奥は暗く、

 右の4階につづく階段の先には音楽室がある。

 雨音にまぎれて、旋律が聴こえてきた。

 チェンバロの音だった。

 それを聴いたとき、ぼくは心の底から安堵した。



「かたくて、透明な音……」


 独り言のように、今井が言った。

 アリアがながれた。

 静謐で澄みきった音色、

 一音、一音、

 踊り場に響いた。

 周囲は、荘厳さに満ち満ちていく。

 甘美な旋律が心に沁みる。

 大好きなフレーズだった。


「ほんとうに、演奏会だね」


 となりの今井が言った。

 ぼくはうなずいた。

 身体は冷たかったけど、

 そばに君がいたから温かかった。

 曲調が転じる合間、

 君は、ぼくに身をよせ、

 顔を近づけ、耳元で声をひそめた。


「だれの曲だっけ?」


「バッハ」


 距離が近かった。

 君の息づかいを知った。

 黒髪が甘い香りをふりまいていた。


「いつごろの曲?」


 君の吐息、

 ぼくの前髪を撫でた。

 君の体温を感じた。


「1741年」


 記憶していたので、ぼくは答えた。


「……300年ぐらいまえ、か……」


 曲が進んでいく。

 音符も過ぎていく。

 高く、低く。

 低く、高く。

 強く、弱く。

 弱く、強く。

 速く、遅く。

 遅く、速く。

 となりの音と重なり離れ、

 離れては重なり、流れていく。



 遠くで雷が鳴った。

 雨が雷雨に変調した。

 今井は目をとじていた。

 美麗な二重の曲線。

 コートの袖から少しでた指先が、

 メロディーにのって控えめに踊っていた。

 紺色につつまれた君が、

 いっそうと清楚さを宿していた。



「あっ……」


 白い閃光、

 視界が一気に真っ白になった。

 


 ゴロゴロゴロゴロォ──────────ッ



「きゃっ!」


 今井が小さな悲鳴を上げた。

 雷だ。

 空をひき裂く雷鳴が鼓膜を震わせた。

 窓ガラスがビリビリと震動し、

 踊り場の壁にも伝わっていく。


 演奏がとまった。

 そして、

 静寂を奏でた──

 


 無心になっていた。

 ぼくと、この現実世界をつなぐ、

 五感の感覚が、研ぎ澄まされていく。


 雨音

 君の髪の香り

 背中に感じる壁

 踊り場

 となりの君

 

 ぼくの感覚は、

 リアルな現実のなかに入っていった。

 ぼくは、静かに思った。


 ぼくが、いま、感じているものだけが、

 存在している


 だから、

 ぼくが、いま、感じていないものは、

 存在していない


 いま、ここに、ないものは、

 存在していない、

 そう、思った。

 だから、──いま、

 世界には、君とぼくしか、存在していない。

 


 となりの君をみた。

 ──泪にぬれていた。

 ふたつの凛とした瞳から、

 きらめく雫がうまれていた。

 ぼくは、なにも言葉をかけられなかった。

 しろい頬をつたう、君の泪、

 その理由がわからなかった。











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