壁の外

 目を醒ますと体じゅうが軋んだ。頭はぬるい水で満たされたようにぼんやりとしまぶたは熱く重い。胸の中で鋭い小骨のようにちりと痛む感覚があって、これは何だろうとしばらく考えを巡らせていると、やっとそれがついさっきまで見てたらしい夢の片鱗だということに思い当たった。

 おはいりなさい。

 今いちどまぶたを閉じて、外から聞こえてくる様々な音に耳を澄ませた。まだ人々が半分ねむって熱い珈琲でも沸かしているような時分でも、目を閉じてじっとしていればじつに多くの音を聴くことができるものだ。何もないまっしろな平面から幾重もの感情を纏った貌を削り出す彫刻家みたいに、ぼくだって平坦な静寂からたくさんの音を取り出すことができる。鳥の声や大気の揺れる音、奥さんが声高に子どもを叱る音、桟に引っかけた布団を威勢よく叩く音――いくつもの空気の層や壁や格子をかいくぐってぼくの耳に届いてくる。そうだとも――そうしなければほんとうの音なんて聞こえやしない。目をひらいたままで真実の音を聴こうだなんて虫がよすぎる。わがままに過ぎる。何かを叫びながらにして相手の声を呑み込むことなどできないし光をみつめながら闇の底にたゆたう暖かみに触れることは叶わない。そんなのは高望みというものだ。そうさ、だからぼくにはこんなふうに眼がない。唇もない。うっかり忘れるところだった。あまりにもたくさんの夢を見たから。

 ゆめをみるのにまぶたを開く必要はないということ。

 ああ、ぼくの針は――そうだ、ぼくは針を探していたんだっけ――あれは何処へ行ったろう? あのつめたい針は。ぼくにはもう指だってないのかもしれない。ああ、そんなのはあんまりだ。ぼくはただの皮膚のあつまり。肉のかたまり。ぼくはもう誰でもなくなってしまったのか?

 いつだったか、約束を破ってこの暗がりから這い出たとき、酷く棒で打たれて惨めな思いをしたものだ。何か濡れ濡れとした果実を投げつけられ臭い水を掛けられ水よりももっと冷えた空気のようなものを吹き付けられて背中の皮が剥がされた。ずっとずっと昔のことだ。手探りで路地を逃げて、そこでぼくは目のない女の子に出会った。ぼくなんかとは違う、ほんとうに目玉のない子で、ぼくは実際にその子のくぼみに指を差し入れて確かめさえした。ぼくの指はぼくのこの脳みそより数段賢い。だからすぐにわかったんだ。ぼくのこの眼――生まれてから幾らも使っていないで閉ざされてしまったこの眼、どうせもう永遠に使うことのないこの眼をきみにあげると言った。それがいちばん正しいことだとわかった。だからできるだけきちんとしたことばでそんなふうに言ったのにあの子は疲れたように笑ったのだ。

 私には要らないの。

 どうして。

 それには答えずに、彼女は、おやすみなさいとだけ言った。この上なく涼しい声で。ねむるのに眼は要らないでしょう、と彼女は言った。もうあなたは何もみなくていい、ただねむって、ふかくふかくねむって、美しい夢をごらんなさい。ひとりの少女の夢をごらんなさい。それだけで誰かが救われる。たったそれだけでひとりの人間がこの世に存在できる。

 そこに握った針を放しなさい――ああぼくはずっと針を握ってたのに気づかないでいたんだ! ――もうあなたは何もしなくていい、ただそこに横たわって、つめたい石のうえでおねむりなさい。

 あの子がそんなふうに言ったのをぼくはよく憶えている。

 だからぼくはただひとつの夢を見てきた。これまでずっと、そしてこれからも。ぼくの頭のなかでいくつもの音、音、音が、抽象的な形を描きいくつもの色を放って、永遠に変化し続ける万華鏡を作り出す。その光のなかで一人の少女がこちらを向きひどく不安げな顔で――だからぼくは、できるだけやさしく微笑んでやるのだ。そしてこんなふうに話しかけてあげる。ぼくがいると。ぼくが永遠に夢を見続けると。ぼくのふたつの眼は、そのためにずっと新品のままでまぶたの奥に収まっていたんだよと。そんなふうに、きっと話しかけてあげるのだ。

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