劇場


 そう、右と左の視ているものはすこしずつ異なる。そんなのはわかり切ったことだ。だからわれわれは何ひとつわかり合うことなくいずれ朽ちてゆくだろう、右は左の視ているものを知ることなく――どうせすこしずつ違っているに違いないのだ――あの花の色、枝の形、空の翳った感じやなんかも、ほんのすこしずつずれているだろうし――ほんのすこしどころか――全然まったく違うかもしれないじゃないか! これは由々しき事態だ。右と左とで視ているものが違うだなんてまったく馬鹿げている。だったらいったい何をとしてゆけばいいというのだろう、自分に視えているものの何ひとつとして信頼に足るものなどないということじゃないか。

 違うのか?

 このことについてはとことん審議しなくてはならない。突き詰めてきちんと結論を出すべきだ。出すべきだというのに、此処ときたらどこもかしこも作りものめいていて葉は葉でなく枝は枝でなく土ですら土でない、われわれは贋の大気を呼吸し贋の光を見つめている。

 また光の話か。

 可笑しいか? 光がなければすべてのものは眼に映るまい! わかり切ったことだ。ただ右と左のどちらがほんとうの光を視てるのかというのは、判断し難い、おいそれと断言できない、それについては結論を出すのに消極的にならざるを得ない。それにしたって此の場所といったらどうだ、大体ほんとうのものなんて一片だって在るだろうかね、どれもこれもまがいもののように視えて、しかしわれわれは眼を擦ることすら出来ないというのだから嗤える。

 皮肉だね。

 そうだとも。

 それにしても嗤えはしないさ。

 何せ唇がないものだから? ……まったく馬鹿げてる!

 そんなふうに何もかも馬鹿げたものに貶める必要なんてないだろうさ。もっと真剣に取り組み給えよ、われわれ左右が互いを理解できないばかりにわれわれはたったひとりのお客人さえ招くことができないときてる。思うのだが、われわれはこうして自分のまわりをひっきりなしに凝視みつめてみるまえに、もっとお互いのことをきちんと視たほうがいんじゃないだろうかね。たとえばこんなふうに向かい合って互いに互いの姿をまっすぐ視てみるのだ。左眼は右眼を永遠に視ることがなく、右眼は左眼を永遠に視ることがないだなんて、そんなことこそ馬鹿げている。われわれは親しくするべきなのさ。

 そうだろうか?

 そうだとも。

 しかしわれわれは――視るものはつねに視られているものだと、知らなかったのか?

 視られるものはつねに見ているものだと、知らなかったか? われわれは世界を見つめ世界はわれわれを見つめ返してくる。そもそもわれわれは視ているのではない、われわれは世界に光を与え、世界は光をわれわれに照射している。これは観念の話じゃない、至極実際的な話さ。

 喋り過ぎだ。唇もないくせに。

 知らなかったのか? 眼は何も視ず、唇は何も語らないということを。

 しかしわれわれは視られている。

 知らなかったというのか、われわれは何も視ておらず、ただお互いの姿を夢想しているだけに過ぎないのだということを。われわれは何ひとつとしてほんとうのものなど視ることはない、われわれは何も視ていない、いまもこうして暗闇のなかにいる。昏いスープのような可能性だけがわれわれを丁寧にくるんでいるだけで、われわれはずっと眠り続けているのだ。濃厚な闇からただ自分の視たいものだけを引っぱり出している。

 喋り過ぎだ。

 ほんとうに知らなかったのか?

 しかしわれわれはゆめみることができる。

 もちろんだとも。ゆめをみるのに眼などいらない。当然唇だって。われわれは最初から存在する必要だってなかった。ではなぜいまここに存在していると思う?

 さあ、お客人がお待ちだ。

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