詩人は死ぬと樹木になる。そのように決まっている。器に与うるだけのすべての歌をうたってしまった後は、かれにもう人間としての姿を留める必要はなく――何故といって、幾千幾万の枝葉はもっと多くの歌を覚えることができる。宇宙を覆い尽くす、巨大な蜘蛛の巣のように手を伸ばして私たちの頭上に毎日毎日、ちがった子守唄を降らせてくれる。

 森とはそういうものだ。

 清冽な大気は水をおおく含む。私の乾いた羽根はかろやかに風を捉まえ、翠緑の紗をくぐり枝と枝の狭間を抜けては詩人たちの夢を聴く。森とはこの世のすべての歌を孕みはぐくむものだ。ひとびとがすべての歌を忘れてしまってもきちんと残してしまえるように。そのようにして、私たちは共生してきた。私は多くの詩人を見たし、多くの樹々をいまこうして見ている。そして私は多くの詩人の死を見たが、未だ樹々の詩を見たことがない。樹が死ぬとは聞いたことがなかった。少なくともこれまでは。

 樹々がざわついている。

 枝葉は風になぶられ、幹は音なき音で歌をうたう。だれもかれもが忘れてしまった歌、いまはもう死んでしまった歌を。そう――死んでしまえば、無くなってしまわなくてはならない。完璧にすっかりと損なわれてしまわなければならない。そうではないか? 樹木たちはそのように歌った。だれもが歌をうたわなくなれば、われわれはここに生きている意味をうしなうだろうと。それで初めて、忘却というものが何かを殺し得るのだと、私たちは知った。私は知った。そして樹木たちは、ずっと昔から知っていた。

 樹々は歌った、砂漠に転がる水晶の塊の歌を。潰れた柘榴の実の歌を。冴えた空気のなかでひかる釣り糸の歌を。樹々は歌った。どこへも行けない少女の歌を。肩にナイフをあてがう少女の歌を。そしてまだ歌われたことのない歌は、いくつもいくつも未だ枝と枝の間に翠緑に滴っている。そのほとんどはきっと冬のくるまえにすべて落ちてしまい、たったひと葉、陽光に透かされ脈をきらめかせて最期の歌をうたう。つまり自分たちが死にゆくという歌、とうとう死んでしまうのだという歌、最期の最期のひとかけらまで徹底的に損なわれてゆくのだという歌の、ほんとうの断末魔の瞬間までをそのひと葉は歌いあげるに違いないのだ。

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