逆しまの塔

 どこにも通じていない九百二十五段からなる階の七百三十二段目に蹲って、柘榴売りはこれまでのことを丁寧にひとつひとつ思い返してみたが、どれもこれも柘榴のことばかりで、ほかのことはひとつとしてなかった――はるか遠く、エメラルド色の海辺ではひとりの狙撃手が鼻持ちならない貴族に照準を合わせていた――或るバーの扉の隙間からは麦酒の壜が転げ落ちて幾千の破片を散りばめる――道端に屈みこんだ少女のむきだしの踵はひどく裂けていた――大きな窓もつ山荘の住民はきらきらと輝く宝石をふたつ手のひらの上に並べ、そこからみえる往来では物乞いまがいの身なりをした少年が役人にしたたかに打ち据えられていて――そのすべてをわたしはゆめみた。

 深い水底では炎のいろをした大蛇がいままさに息絶えようとしている。空の高みでは生まれたばかりの星が真新しい涙を流し、水たまりに浮かぶ古びた銅貨は誰かに拾われるのをじっと待っている。大事な売り物の石をうっかり落としてしまった老婆が呆然と地に膝をつき、草原の彼方ではよく研がれた槍先が薄っぺらい胸板を刺し貫いた。そのすべてをわたしはゆめみた。ここで。この塔のなかで。

 わたしの姿を探すために何人もがここを訪れたが、その誰もがただがらんどうの空間にまんべんなく体積したベルベットのような埃を目にしただけで、ほかには何も見つけられなかった。というのも、湖畔にたつ細い細い塔のほうは贋物だからだ。わたしはみなもに映る逆しまのほうにいる。

 すべてをゆめみよ、とかれは言った。

 この世を形づくるちいさな部品、それがどんな些細な片鱗であってもすべて、すべてをゆめみよとかれは言い、わたしの喉の奥に華奢な骨の鍵を挿した。すべてのひとびとが、漏れなく誰もかれもが、もうゆめをみなくなってからのことだった。じつにあっという間の話で、わたしは自分が声を出していたときのことなんてもう憶えていない。ゆめをみるのに声は必要ない。眼は必要なく、肉体は必要ない。かれはわたしの両のまぶたに掛け布をした。長いこと椅子に座るのに都合がよいようにと、腰の皮膚に針を通され丸椅子に縫い付けられた。じつにいいアイデアだ。お陰でわたしは永遠にこの椅子に座っていられるのだ。

 わたしをどうしても掴まえたいひとたちがきょうも、逆しまでないほうの塔を覗きにくる。こちらには誰も訪れない。わたしはこの世のすべてのひとびとの声を聴くがわたしの声を聴く人はいない。わたしはわたしのゆめみたすべてのひとびとの顔を知っているが自分の顔をゆめみることはない。だからわたしの顔を誰も知らない。わたしはときどき、ここにこうして座っている自分自身がほんとうに存在しているのかと不安になる。だから左の手で右の手を撫でひとつひとつの指を丁寧に握ってみさえするのだが、それらはいつだって精巧な作りもののように確かな質量でそこにある。ではいったい誰が、この肉体をゆめみているというのだろう。そう思うとき、わたしはかれがこの喉に骨の鍵をしたほんとうの理由を知るのだった。つまりわたしは何かを尋ねたりしてはならないのだ。

 またしても――誰かが逆しまでないほうの塔を訪れている。

 ここに居るよと言いたくなる。そちらではなくこっちだと。ゆめでなく、ほんものの人間の顔を見たくなる。ほんものの顔を見て、ほんものの皮膚に触れてみたい。ゆめでなくほんものの瞳を覗きたい。

 誰もわたしを見つけないのだろうか。

 空っぽの闇のなかでわたしは考える。想像してみる。布に閉ざされたわたしの目を射抜くもうひとつの目のこと。わたしのことをみつけだす一対の瞳のことを。しかしいったいどこにそんな澄んだ瞳があるというのだろう? いったい誰が、わたしのことをゆめみてくれるというのだろうか。

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