湖畔

 湖のほとりで何かうねうねとしたものを拾った魔術師は、自分が誰であるのかを忘れつつあった。向こうの岸では釣り人が濡れた岩の上にかがみ込んでおり、見たところ何やら針を糸の先に取り付けているらしい。しかしこんなところで魚など釣れるものだろうかと魔術師は訝り、手にしたそのうねうねとしたものをなにげなく水面へ放ってみたのだが、それは波紋を作るまもなくしゅっと蒸発してしまった。やっぱりそうなのか、と彼は思った。こんなところに魚の住めるはずがない。そして、鏡のようにぴたりと静まっている湖面へそっと人差し指をさしいれてみた。わずかにひやりとして、引き抜くと、水に浸かっていたはずの第二関節まで、指がすぱりとなくなっているのだった。

 たいへんだ、と魔術師はひとりごちた。指を失くしてしまった。これじゃもう魔術なんてできないかもしれない。

 しかし魔術師は自分が誰であるのかを忘れつつあったから、当然魔術についてだって少しずつ忘れていた。腰に帯びたワンドもポケットに入れたコインも石も、今となっては何がなんだかわからない。まるきり意味を剥ぎ取られた記号のようで、どうして自分がそんなものを持っているのかも、てんで見当がつかないのだった。かつては彼は、ちょっとした腕利きの魔術師として街の人々を沸かせたものだった。何もないところから幻のコインを取り出してみせることだって、がらす壜のなかに七色の炎を燃え上がらせることだって、彼の鍛え上げられた想像力をもってすれば訳ないことだった。雨上がりの真新しい水溜まりがあればもっと事は簡単だった。彼はその上に翼を打ち震わせる怪鳥の幻をあざやかに映じてみせ、ひとびとを沸かせたものである。しかしいまとなっては、そんなことはもう不可能に近かった。というのも、魔術師はもう湖の平たい水の上を見ても、ただの広い水にしか思えず、そこに何か別のものを映し出すなんてことは考えられなかったのである。湖だけでない、空を見上げてもただのけしごむ色が広がるばかりで、そこに想像の虹を架けてみようなどとはもはや思いつけもしなかった。魔術師はもう何かを想像することができなくなっていたのである。

 とぼとぼと岸を歩いていると、魔術師は再び何かうねうねとしたものを拾った。手のなかに入れ、弄びながらまた歩いてゆくと、さっきあちら側の岸から見えたところにいつのまにか達していた。岩の上に釣り人が腰かけて、糸を垂れていた。

「こんにちは」

 と魔術師は挨拶した。「調子はどうです。魚は釣れますか」

 しかし釣り人は少しも答えない。釣り糸を引き上げてその先を調べ、また針をとりつけて水面に垂らす。しばらくしてまた糸を引き上げて先を調べ、からっぽになっているそこへまた針をとりつける。水に垂らすたびに徐々に糸は短くなってゆき、ついに竿の先を水面につけねばならないほどになると、釣り人は岩から降りて、道具箱から新たな糸を取り出した。

「何をしてるんです」

 魔術師が尋ねると、釣り人は目も上げずにただすこしだけ眉をひそめた。「何って、糸を結わいてるんですよ」

「しかし、さっきから見てるとその糸は短くなっていくばかりだ。ぼくは思うんですが、ここじゃ魚なんて一匹も釣れませんよ」

「魚さかなって、さっきからこいつは何を言ってるんだろう?」

 忌々しげにそうつぶやいて釣り人はまた岩によじ登ると、どかりと腰を下ろしてさっさと糸を垂らし始めた。しばらくしてまた糸を引き上げ、針がなくなっていることを調べ、再び針をとりつけて垂らす。

「やれやれ、これは酷い話だ」

 と魔術師は首を振った。「さあ、こんなひとは放っておいてぼくは自分の指を探さなくっちゃ」

 すると釣り人が振り向いた。「指だって? 探すだって? そんなものどこにもありゃしない!」

「つまらないことを言うひとだ。あなたの魚のほうがよっぽど、どこにもありゃしませんよ」

「また魚だって! なんてくだらない。この世で最もくだらないことばだ。魚だって!」

「魚がくだらない? そんならあなたは一体何を釣るためにさっきからそこにいるんです!」

「釣るだって? 何をだって? まったくわけがわからない! あんたこそ、さっきからいったい何を探し回ってうろうろしてるんだ」

 しかし魔術師には答えられなかった。彼は自分の指のことももう忘れつつあったのである。

 はて、と彼は首を傾げた。こめかみをぼりぼり引っ掻き、その手の中にある何かうねうねとしたものを見た。「おや、これは何だろう?」

「おお!」と釣り人は歓声を上げた。「そいつはおれのじゃないか。さあ、そいつを寄越してくれ。早く!」

 言われるままにその何かうねうねとしたものを渡すと、釣り人はその先端を自分の額にねじ込んだ。すると釣り人の体は急速にぱたぱたと折り畳まれてゆき、最後にはちいさな光る針になって、岩の上に落ちた。

 彼はしばらくそれをぼんやりと見つめていたが、やがて岩によじ上った。そして針をつまみ上げると、そこに残されていた粗末な釣り竿にとりつけて、糸を注意深く湖面に垂らした。

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