砂漠
白い砂漠にそびえた巨大な
西へゆくのか東へゆくのか、それだけで砂漠の運命というのは決まってしまうものだ。身を屈めて待つかそれとも歩くのか、ほんの些細な決断が後々大河のこちらとあちらの差を生んで、いつか彼岸の自分に手を振らなきゃならないことだって、ひょっとしたらあるかもしれない。
だが死んでしまえるだけこちらのほうが幾分ましだ、と女は考えていた。幻の街とは逆のほうを見やれば、練絹を広げたような砂丘の中腹に炎めいて揺らぐひとの姿が見える。だがその足下に影はない。もうとっくに失ってしまったというのに、それを見つけさえすれば幸せになれると信じ込んでいる。女はもう随分長いこと砂漠を歩いてきたから、この熱い砂の上で誰かと出くわしたときには顔でも身なりでもなく、何よりも先に足下を見るべきだということをちゃんと知っていた。影のないひとを見るというのは最初こそ薄気味悪いものだったが、砂漠というのはあまりに影を持たないひとばかりうろついているものだからもう慣れてしまった。また影がない。此のひとも。彼のひとにも。もう取り戻すことはできないと何度言っても、彼らは聞きれようとしなかった。もう彼らは音を聴くことがなく飢えることもなく渇くこともない。女の知る限り、砂漠で影を失くすというのはそういうことだった。
うろうろと彷徨い、熱い砂のなかに手を差し入れて探す彼らのそばに、一匹の獣がうずくまっているのを女は何度か見かけた。獣は何か黒いものを静かに食んでいた。しなやかな前脚に押さえられた黒いものが、まるで吊り上げられたばかりの鱒のようにさかんにもがいているのを見て女は怖くなった。砂漠に出てきて初めて心底何かを恐ろしいと思った。それで女は、古びた革靴の裏から急いで自分の影を取り外し、くるくる丸めて荷袋のなかへ入れると駆け出した。
砂漠には朝も昼もなかった。浅い呼吸の合間に頭上を見てもただ砂と同じ色の空があるばかりで、その境界線でさえどこまでも淡くぼやけていた。道々、女は凍える炎の夢を見た。滴る氷の夢を見た。少なくとも、夢を見られるということはまだ生きているということだったし、夢を夢だと思えるということはいま起きているということだった。そして何度目かの夢のあとに、とうとうこの巨石に辿り着いたのだった。
西へゆくのか東へゆくのか。
女は乾いた唇を薄く開いてつぶやいた。それともあの街を信用してみるのか――干上がった喉は狂ったように革水筒の中身を求めていたが、飲む訳にはいかなかった。じりじりとうなじを灼く太陽をせめてすこしでも避けようと、括っていた髪を解いたとき、赤い編み紐が指の間をするりと抜けた。つかもうとする間もなく、紐は水晶の肌を撫でながら零れて零れて――砂の上に蹲る獣の鼻先へ落ちた。
いつの間に尾けられていたんだろうか。
女は唾を飲み込んだ。獣は、がらす玉のように透明な眼を上げてこちらを見た。
影をおくれ。
その荷袋に満ちている生きた影をおくれ。
女の手は知らずのうちに短剣を掴みすばやく鞘を払っていた。獣は低く嗤った。殺すのか。しかし砂漠に獣は一匹と決まっている。次の殺し手がやってくるまで、おまえはずっと影を喰うことになる。喰っても飢え、啜っても癒えぬ命を生きたいのならそれもいい。
嘘だと思っているな、と獣は再び嗤った。なら試してみるかね。
女は短剣を降ろして獣を見た。獣はあばらの浮いた胸をひっきりなしに上下させ、黒い舌をだらりと伸ばして喘いでいた。ひどく弱っていた。
自ら差し出せば苦しまない、と獣は言った。抵抗しなければ少なくとも、永遠に影を求めて彷徨うなんてことにはさせやしない。ああ、おれは影が欲しい。くれないのならおれは今からそこへ登って行って、無理矢理喰ってしまうかもしれない。おまえの影をおくれ――獣はとうとう涙を零して訴えた。厭だと言っても仕方がない、それならおまえは、最初っからおれに見つからぬようにしなければならなかった。
それで女は、荷袋のなかを覗き込んだ。影はひどく怯えて縮こまっていた。女は手を伸ばして影を取り出し一度だけきつく抱きしめると、宙に放った。弾かれたように伸び上がった獣がまず影の指先に食らいつくと、女は自分の指が燃え上がるのを感じた。そして獣が最後の影のひとかけらまで綺麗に舐め取ってしまうころには、女の姿はもうどこにもなく、ただ今しがた彼女が腰掛けていたはずの群水晶の上に、磨きたての真新しい水晶のかたまりが残っているきりだった。
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