眼窩の街

富永夏海

壁の中

 あたしの眼のなかへおはいり、と彼女は言った。あたしの口のなかへ、耳のなかへ、皮膚のなかへおはいり。そうでなければあたしのことはわからない。

 声のなかへ、とも彼女は言った。あたしの声のなかへ、あたしのみるもののなかへ、息吹のなかへ、唾液のなかへ。なぜならまだあなたはなにものにもなっていない。

 そのように彼女は言った。狭い穴蔵にかがみ込み、いつものように麻衣を縫っているときだった。

 じくじくと湿った土床につま先を食い込ませかじかんだ手でつめたい針を繰るのは、べつになんていうことでもない。ぼくは生まれてから何度も、拇指の腹で細かな縫い目を数えた。数というものを、誰かに習ったことはなかったが。

 幸い〈音〉というものは習わなくてもわかった。壁一枚隔てた往来から聞こえてくる音は、ぼくにとってはすべすべした石だ。透き通る四角い形や、炎のように揺らぐ輪郭。刺を持つものもあれば、触れたとたん脆く崩れ去ってしまうものもある。ぼくは石のことならすこしはわかる。なぜならぼくの周りにはつめたい石がたくさん積み上げられているからだ。ざらついたこの大きな塊が〈石〉だと教えてくれたのも、壁越しに聞こえてくる音だった。

 声は形を持っている。

 だがこの子の声にはそれがない。

 ぼくは首を傾げる。高い高い双つの壁の間に這いつくばり、針を持った手を止めて耳を澄ませてみる。ぼくは、光の声だって聞き分けることができる。ふつうのひとが眼の上で光を感じるなら、ぼくは耳の奥でそれを感じる。この壁のずっと高いところにある裂け目から、わずかに注ぐ光の柔らかな声を聴くことができるのだ。なぜならぼくのまぶたはとっくの昔、綿を詰めた不織布でも縫い合わせるみたいに錆びた針金で縢られてしまった。まるでこの眼球が世界でいちばん重要な宝物でありでもするかのように。まったく厳重なことだ。そんなふうにぼくの目玉が人気ものになったことなんて一度もない。盗むなら盗みにくるがいい。できることなら大きな窓のある家に住んでいるやつだといい。そいつの手の上で、ぼくの下ろしたての目玉は初めて空というものを見るだろうから。

 あたしの眼のなかへ、と彼女の声が再び届いた。おはいりなさい。そうでなければあたしをみることなんてできやしない。

 ぼくはかっとなって縫いかけの衣を打ち捨てた。どのみちぼくはあんたをみられないさ、なぜならこのまぶたは生まれてから一度だって開いたことがないんだから。そう喚いたら、彼女の声が笑った。それなら尚更都合がいい、あたしをみるにはまぶたを閉じなければならない。

 自分のまぶたの裏にうつるものがみえないの? と彼女は尋ねた。あなたはほかの人間とはちがう。自分の軀をめくりその内側をみることができる。ぼくは尻がぐしょ濡れになるのも構わず床に座り込んで骨張った膝を抱く。だってどうしようがある、こんなぼくに、麻の服を縫うことしか知らないぼくに、いちどだって壁の外に出たことのないぼく、死ぬまであの光というものを眼の上に受けることのないこのぼくに! ざりざりとした赤錆が頬を伝った。ああぼくは、まともな涙の一滴だって持ってやしないのに。

 おはいりなさい、とまたしても声が言う。私はあなたの眼のなかにいる。ぼくは縫いかけの衣を拾い上げようとするが、どこを探ってもそれはない。そもそもぼくは針を失くしてしまった。拇指と二番目の指の間にぴたりと馴染むあの針。あのつめたい針。こんどこそはあいつに、この唇を綴じ合わされてしまうだろうか。

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