第77話:御用納め
「秘密なんだね。やらしー」
どんなことも私には言ってほしい、なんてまったく思わない。だからこうして茶化して言えば、いいよいいよと冗談で収められると思った。
しかし鷹守は、ちょっと考える素振り。
予定と違う。そんなことない、と彼は慌てるはずだった。
「秘密というか、向き不向きの話かな?」
「え、なに。その二つが置き換わることってあるの」
わけが分からなくて、私が早口になる。それでも彼は「まあね」と、ごまかしたまま目的の場所へ辿り着いた。
コンクリートの鳥居。左右を守るお稲荷さん。
御倉神社の丘にも、雪の気配がなくなった。
「僕が居ても大丈夫かな」
並んでおじぎをして、鳥居をくぐる。鷹守の遠慮がちな目と声が、私を窺う。
「私が一緒に来てって言ったんだもん。兄ちゃんはそういうの、ちゃんと分かってる」
はず。
九割二分くらいは信じているが、不安もゼロでない。
「もし、会えなかったら。それはそういうことなんだよ」
「そういうこと……」
どういうことなのか、明確に思い浮かべてはいない。分かりきっているのだけど、言葉にしたくないとも言う。
そんな無責任な返答を、彼は「だね」と呑み込んでくれた。
「兄ちゃん。またなって言ったよね」
緩い斜面を登るのにも、息苦しくなる。誰がボソボソ喋っているかと思えば、私の独り言だった。
ますます遅れる私の手を誰かが握る。ちょっと乱暴なくらいに力強く。ぐいぐい引っ張って進むのは、鷹守しか居ない。
ありがとう?
ごめんね?
こんな時、普通はどっちを言うのだろう。その答えは境内へ着くまでに決められなかった。
「おっ、来た来た」
かくれんぼも覚悟していたのだけど、兄ちゃんは居た。煎餅をばりぼりばりぼり、本殿の脇へ。
「兄ちゃん!」
会えた。今日はたくさんの気持ちを抱えてきたのだけど、まずは嬉しい。駆け出す私の手は、いつの間にか誰とも繋がっていなかった。
「なんで涙ぐんでるんだよ」
「泣いてないし」
いつもなら、醤油くさい手で頭を撫でられる。
今日は——まあいいか。今日くらいは。
身構えて撫でられる心づもりをしたのに、ふいと兄ちゃんは歩き出す。本殿の裏側へ。
「こんな木、あったっけ?」
まばらに雑草の生える真ん中に、太い木が立つ。
奥は崖に塞がれ、物置きの三つ四つくらいなら置けそうな空き地。さっさと歩いた兄ちゃんがもたれても、幹はこゆるぎさえしない。
本殿にすっかり隠れる、さほど高くもない木だ。ちょうど五本に分かれた枝が、人の手のように思わせる。
茶と灰色の間の、滑らかそうな樹皮。見ているだけで、妙に心が落ち着いた。
「で?」
煎餅もなくなり、腕組みの兄ちゃんの声が太く短い。
で、どうするのか。問われたのは、これから私の生きる場所。
「私ね、いろんなことが分かったの。なんていうか、普通とか普通じゃないとか。まだまだ私なんかが区別できるほど、世の中は単純じゃないって」
およそ正午。張る枝の影は短い。きっとそこが境界と勝手に決め、踏まないようにする。
「兄ちゃんの特別になりたいって思ってた。だけどそれは、兄ちゃんを利用したかっただけなの。そんなのが隣に居ても、兄ちゃんも困るでしょ」
「困らないって言ったら?」
頭の中に台本めいて用意していた。けれどもここで、そんな返事は想定にない。
答えがないか、ぶっきらぼうにそうかとでも言うと。
「ええと……」
「どうした? そのくらい俺が気づかないと思ってたのか。俺の隣で、俺と同じに暮らすんだろ。来いよ」
兄ちゃんの長い腕が、手の届くところまで伸びたように錯覚する。
いや、そうとしか見えない。しかし実際、兄ちゃんの背は幹に預けられたまま。あり得ない。
差し伸べられた手を握り返したかった。どれだけ悩んでも、考えても、無視できるはずのない大きな気持ちがある。
私は兄ちゃんが好き。
「でも」
呟き、唇を噛む。血の味がして、兄ちゃんから目を背けた。
回れ右。すると目の前に鷹守が居る。
「ダメだよ、兄ちゃんはお母さんの頼みを聞いただけ。私は知らずに、板挟みにし続けた」
これで合ってる?
誰にも答えられるはずのない問い。言葉にしなければ、伝わることもない問い。
ふた回りも小柄な男の子はゆっくりと、力強く頷く。
「もう大丈夫だから。兄ちゃんは普通に、自分の生きたいように生きて。行きたいところへ行って」
息を継ぐたび、鷹守は何度でも頷いた。両手を拳に、頑張れ、頑張れと振ってくれる。
すごく。これ以上ないくらいにものすごく、力が湧いた。
「あ、あのね。調べたんだよ、兄ちゃんがなにを食べるか。ネズミとか虫とか、私、食べられないし。ね?」
言いたいことの大筋は言った。細かな言葉が飛んでしまったけど、こんな感じが私の普通に違いない。
「じゃあ無理だな」
「う、うん。だから私のことは心配しないで」
背中にかかる兄ちゃんの声が平たい。
寂しがってくれている。うぬぼれはしても、決心を覆しはしない。
「後悔しないな」
「しないよ」
「すると思うけどな」
「でも大丈夫なんだってば」
なんで揺さぶろうとするの。そんなに言われたら、なんて弱気になりそうなのを堪える。
私は大丈夫。大丈夫。大丈夫。励ます鷹守の目を見て、呪文みたいに繰り返す。
「よし、本気っぽいな。あはははっ」
重苦しい声が一転、あからさまにからかって笑われた。
「試したの?」
「正解」
本当はどうだろう。なんて、思いもしなかったことにする。「もう!」と腹を立てたふりで、再び兄ちゃんのほうへ振り返る。
「兄ちゃん……?」
居ない。
太い幹にもたれた、赤いシャツはどこにもなかった。木の上も、崖を登った様子もなく。
「餞別に、なんでも叶えてやる。俺のできる範囲だけどな」
さあっと吹く風。涼やかな、冬の凍てつきを感じさせない柔らかな風。
まだ兄ちゃんの声が聞こえたのは、気のせいかもしれない。すぐ傍に居るようで、やはり姿が見えないから。
「もうたくさん叶えてもらったよ」
「そう言うな、最後の思い出ってやつだ」
最後と聞いて、鼻の奥がツンとなる。そのつもりで来たのに、私は我がままだ。
「じゃあ、気が向いた時。ほんとに本当に暇な時、様子を見に来てよ。見たら会いたくなっちゃうから、こっそりね」
意味ないだろと言われても、これ以上はダメだ。私が甘えてしまう。
きっと兄ちゃんには自由が必要なんだ。だから。
泣かないよう、歯を食いしばった。たぶん変な顔で、兄ちゃんにも鷹守にも見られていいものでない。
でもどうにも、これで精一杯だ。
「分かった。じゃあこれで俺は用済み、御用納めだ。巫女さんにも言っといてくれ」
「う、うん!」
どこかで見ているはずの兄ちゃんに、手を振ろうとした。それなのに強い風が、そうさせない。
ごう、と。世界にただその音一つきりみたいな、途轍もない風の唄。
と同時に、視界がピンクで染まる。吹き付ける花びらが渦を巻き、全身を包んで、やがて消えた。
ほわっ、と息を吐く。するとどこからか一つ、ピンク色が舞い落ちる。
手のひらに受け止めると、桜の花びらだ。
これだけは持っておこう。握ろうとすると、花びらは融けた。人肌で雪のなくなるように、そっと儚く。
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