第76話:諦めた
翌日、昼前のバスに乗った。バス停の時刻表を見ると、通常ダイヤは今日までとある。
十二月二十八日。私にはなにもない、普通の日。運転手さんも、おじいさんでなかった。
「ふあぁ」
「眠そうだね」
並んで歩く。いつも意識しなくとも同じ速さなのに、今日は私が遅れ気味だ。
鷹守は合わせようとしてくれるが、するとさらに私の足が鈍くなる。
「寝たの、三時過ぎくらいだから」
「眠れなかった?」
「ううん、お父さんが。話そうって」
また出たあくびを手で押し潰し、伸びをした。
瞑った目を開けると、彼の手が差し出される。そこに小さな、飴のパッケージが二つ。
「いいの?」
「母さんがね、非常食に持ってろって」
会話の成立していない気がした。でも頷いてくれたから、いいのだろう。「ありがとう」と、青りんごのほうを貰う。
濃い甘酸っぱさが唾液に溶け、なんだか顎が痛い。おかげで目が覚めたけれど。
「話すって、高橋さんのこと?」
「ううん。最初はなんでもいいからって言ってて、結局はお父さんの自慢話になってたかな」
「へえ。たとえば?」
「プロ野球の球場。十何年か前に新しくなったんでしょ? あれ、造ったんだって」
野球に興味がなくて、何度か見たことがある以上の関心もなかった。それでもあんな巨大な物を、一人で造ったような言い分がおかしいのは分かる。
「あと新しいイーロンモールとか、ええと——」
大抵の人が知っているような建築物がいくつも挙げられた。球場と同じく、父が一人で造ったのではあり得ない。
でもまあ、父の仕事のイメージはつきやすくなった。今までは建築関係とだけ書かれた、分厚い塀の向こうだったから。
「すごいね。知ってるとこばかりだよ」
「うん、そうじゃないのもたくさんあると思うけどね」
歩道と車道の区分もない通り。並ぶ家の軒はどれも短く、太陽が照らすのを邪魔する物は少ない。
それでもしつこく残る雪があったはずだけど、今日は見当たらなかった。
「お母さんは?」
「うーん。お父さんと出会う前に、車屋さんに勤めてたみたい」
「トヨタとかの販売店かな」
「うん、そう」
行ったこともなく、どんな仕事か想像ができない。スーパーで欲しい物をカゴに入れ、レジを通すのとは違うはずだ。
母自身、詳しいことを話したがらなかった。「ノルマとか大変だった」と渋い顔で、あまりいい思い出がないのだろう。
「びっくりしたのは、お父さんも知らなかったこと」
「え?」
「お母さんがなんの仕事してたか。お父さんも聞いて『そうだったんだ』だって」
「へ、へえ。拘らないんだね」
カラコロと、鷹守も飴の音をさす。ほとんど車の往来もない道だけど、私が家の建つ側なのは偶然なのか。
ちら。と盗み見れば、すぐに気づいて微笑む。私は慌てて、たまたま見ただけのふり。
「そんな感じで、私の話はしなかったよ。話せって言われても困ったけど」
「そっか、残念だったね……」
「ううん。良かった」
同情の気落ちした声に悪いけれど、強がりでなく本当に良かったと考えていた。
「良かったの?」
「うん、良かった。分かったから」
分かったとは、なにを。鷹守は問いたいはずで、私ももったいぶらずに言えばいい。
でも迷う。
普通、はともかく。こんなことを言えば、彼はどう感じるだろうと怖気づいた。
「いくら話しても、分からないことが分かった。お父さんって言いたいことを言うだけで、相手がどう思うか考えてないのが分かった」
「——傷ついたり?」
「それもそう。だけどそれ以前に、自分の話が伝わってるかもどうでもいいみたい。『言いたいことを言い合おう』って、最初に言ってたなあって、最後に理解した」
今度はばれないよう、素早く眼球を動かした。難しい顔で「うーん」と、呆れてはなさそうだ。
「だから諦めた。私が呪われてたとか、通じるはずないって」
「それで……ごめん。無責任な言い方になるけど、それでいいのかって思っちゃうよ」
頭一つ低い位置から、視線を感じる。彼がこちらを見て話すのに、無視もできない。
なんてどうでもいい言いわけで、目を合わせた。もちろん歩きながらだ、頷いてまた前を向く。
「無責任じゃないよ。鷹守が私のこと心配してくれるの、分かってるし」
「うん」
「でも本当にいいの。諦めたっていうのも、すぐにはどうもならないって意味だし」
時間を置いてどうにかなるものか。たぶんならないだろうな、と予感があった。
彼が同じく考えたかは分からないけど、唸り声がより低くなった。
「私のことはいいよ。お父さんとお母さんが仲良くしていければ」
「仲良くは、その、できるのかな」
「浮気?」
「う、うん」
ためらいながらも、彼はごまかさずに問う。この態度だけを見ても、興味本位でないと分かる。だから話すのに、私もためらわない。
「なんだかね、バカみたい」
「へっ?」
「ライブに行ってたんだって」
「ライブって、バンドとかの」
「そのライブ」
やはり父も知らなかった。母が推し活を始めたことを。
祖母の抑圧があって、テレビも雑誌も見られなかった反動と自己分析していた。
パート仲間、といってもかなり歳下らしいけど。若い女の子に誘われてハマったと、母は泣いた。
「いや好きなものがあるのはいいよ。全然バカじゃない」
「あはは、そこまで内緒にしなくてもね」
「そうそう。もっと笑って」
さすがの鷹守も、愛想笑いが引きつった。
本当に浮気だったとして、それそのものは私の口出しすることでないのだ。
昨日も言った通り、変なことをするななんてどの口がと思うだけで。その前提が崩れた今の状況を、バカみたいだと言った。
「鷹守は? 寝てた?」
彼が次の言葉に困っている。ならば話題を変えればいい。
なにを察したでもなかったけど、鷹守の発した声が妙に弾む。
「えっ、僕?」
「うん。どうかした?」
「いや、ちょっとね。学校に行ってたよ」
「あの絵でも見に?」
それくらいしか思いつかなかったが、彼の首は縦に動く。
あれだけの大作だ、様子を確認に行きたくなるのも当然——と考えたのは、どうも違うらしい。
「うん、ちょっとね」
なにをしたのかは言葉にせず、鷹守はスマホを取り出してみせる。
スマホをどうしたのか、尋ねてもそれには答えない。
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