第75話:もう一つの呪い
「……ええと、なにがなんだか分からんけど。納得いった、のか?」
新しいお茶を啜るだけの、静かな部屋。ポテトチップとかチョコとか、お茶うけっぽくないお菓子も出したが、誰も手を伸ばさなかった。
でも二、三分くらいが経つと、父が急に袋を開けた。
掘った穴に誰かの悪口を埋めるのは、なんという童話だったか。ちょうどそんな感じで、ポテトチップの袋へ向けて問う。
そのまま父は、袋を開ききった。どこからでも中身を取れるパーティー開けをしては、閉じ込めた声もすぐに逃げてしまっただろう。
「納得っていうか――」
答えかけた母が言葉を詰まらせたのには、きっと関係ないと思うけれど。
「納得はしたよ。お母さんが私に求めてたことも、なんとなく分かった」
「そうか。じゃあまあ、仲直りってことだな」
多少なりと探るようだった空気が失せ、父の大きな手がポテトチップをひとつかみ。反対の手にいくつかのチョコも握り、むしゃむしゃ食べ始めた。
仲直り?
違う、そうじゃない。心の中で
ずっと、ではなく。今は。
知ってほしいと思うけれど、そうするだけの熱が残っていない。
少し休んで、胸に新しい火を点けたらきっと。などと逃げを打つのは甘えだろうか。
「お父さんこそ。もう仲直りしたんだね、お母さんと」
「ん、まあな。そんなことより、お母さんに謝っとけよ。一応な」
「私が?」
なにを謝るのか、ピンとこない。一応と加えるだけあって、笑いながら食べながらの父。
関連する項目を丸で囲め。というテストの問題だとしたら、想定する語群に候補が見当たらない。
「お母さんは謝ったけど、お前は謝ってないだろ。いいんじゃないかって俺も言ったが、不法侵入も家出も褒められたことじゃない。お前が息子だったら、ゲンコツの何発かは食らわしてるとこだ」
ああ。
誰か代わりに伝えてくれないか、本気で願う。私と母と、両方を理解できる人がいい。
居るとすれば御倉神社にだけど、それは無理だ。
「僕が話す?」
鷹守の手は、もう私の手を握っていない。しかし彼の声を聞くと、不思議なくらいに温かくなる。
「高橋さんの代わりは務まらないけど、説明の手間くらいは代われるよ」
おばさんの話してくれた一連の出来事から、私の見た過去のことは省かれていた。
だから父だけが置いてけぼりで、その部分を伝えてくれると鷹守は言った。
「ううん、ありがと。大丈夫」
頷き、しかし断る。父が知らないのは、そもそも母も話していないからだ。
だというのに、覗き見ただけの私が勝手にできない——なんていうのも今さらで、偽善かもしれないが。
「あのね、お父さん。納得はしたけど、まだ私にはどうしていいか分からないの」
「どう、ってなにがだ」
ビールとおつまみで、衛星放送のナイター観戦。なんて風に見えて、湯呑みの中はお茶だよね? と疑いたくなる。
上機嫌でもないから、きっと負け試合だ。
「お母さんはずっと私に、普通でいろって言ってきたの。私は信じて、言う通りにしてきた。でも、それが違ってたって分かったの」
「うん……?」
「間違いとは言えないよ。だって私には、なにが正解か分からないから。今まで育ててもらったのと同じ、もしかするとそれ以上の時間をかけないとダメかも」
「だから、なにが」
「なにが普通か、私が自分で見極められるようになること。かな」
威圧的で、熱のない視線。逃げ出したいのを必死で堪え、目も逸らさなかった。
先に逸らしたのは父。首を傾げ、すぐに反対へ倒し、勢いままに母のほうを向く。
「なあ咲。なんだかさっぱりなんだけど、分かるか?」
夫の応援要請に、母は頷く。私よりよほど疲れた表情は動かないけれども。
「ふぅん、なんだか込み入ってるっぽいな。じゃあまあ、今すぐとは言わないや。また教えてくれよ」
「ええ、ごめんね」
嗄れた声。母の浮気がどうなったか分からないが、もういいやと思う。父が問題にしないものを、私がとやかく言ってもだ。
「んじゃ、そういうことで。いつものうちに戻ろう。普通の俺たちにな」
「普通の?」
締め括りらしき声を、聞き流せない。他のことなら大抵なんでも、まあいいやで済ませたのに。
まだ蒸し返すのか。父の顔にあからさまな、疎ましい感情が見えても。
「普通だろ。こうやって親子ゲンカするのも含めて」
「親子ゲンカ……」
「違うって言うのか? 俺は外で仕事して、お母さんはパートで、お前は学校。家があって、持ち物に困ることもなくて、飯も食える」
普通だ。挙げられたそれぞれは、たぶん普通だろうと思うものばかり。
「昭和の頑固オヤジってこともない。咲にもお前にも、大して厳しいことは言ってない。これほど普通の家庭も逆に珍しいと思うんだがな」
うん。うん。
間違っていると、私には言えない。きっと父も、普通の呪いにかかっているのだと感じるだけで。
「そう、だね。普通だった」
普通、ここで父の呪いまでも断ち切るのか。と考えかけてやめた。
普通がどうだろうと、私の手には余る。普通の凡人らしく、愛想笑いでお茶を濁す。
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