第73話:向き合う
「なんで」
見開いた眼が私を見ているようで、でもどこか遠くに焦点が結ぶ。薄く形のいい唇が、なにか言おうと動く。
今、母の脳裏にあるのはなんだろう。実際の声が発せられるには、何十秒かを必要とした。
「なんの話?」
父と同じように、眉間を揉む母。だけでは済まず、眼の周りも。それが終わったと思えば腕を組み、覗く指が貧乏ゆすりみたいに動き続けた。
なんで内緒にするの?
あからさまに引きつった頬を眺め、考える。
大したことでなくとも、過去に触れられるのは気恥ずかしい。などと言う以前に、私は当てずっぽうを言っているだけかもだ。
そういう気持ちなら理解できる。しかし、違えて思う。
では、なにか。突き止めても、あまり嬉しくない気がしてきた。だからもう、このことを考えるのはやめた。
「私、学校から帰って遊ぶ友達って居ないの。まあ買い物とか掃除とか、退屈でもなかった。おかげでだろうね、裁縫を褒めてもらえたんだよ」
縫い物やアイロンが特別という感覚は分からない。けれど、劇団の人達は喜んでくれた。
理屈でなく、たぶんそれでいいのだ。
「でも時々、決まって行く場所もあってね。御倉神社っていうところで、優しいお兄ちゃんが居るの。結局いまだに本名も知らないけど」
両親がそれぞれ、ぴくっと眉を動かした。母と父と、タイミングは少しずれていた。
「困ってるって言ったら、なんでも相談に乗ってくれる。兄ちゃんにも分からないことはあるし、ヒントしかくれない。だけど必ずそこで待ってて、必ず話を聞いてくれる」
「なんだその怪しい奴」
独り言めいた父の声を否定はしない。兄ちゃんを知らなければ、怪しいと感じるのがきっと普通だ。
「あなた方のしなかったことをしてくれた奴、じゃないかねえ」
おじいさんの言ったのには驚いて、返す言葉が見つからなかった。
「ええと……なんだろうね。私の知ってるのは、ずっと昔に一度だけ、コンちゃんって呼ばれたことくらいだよ」
ブッ、と水気混じりに鼻の鳴る音。誰かと言えば、母。
いつも不格好を嫌うのに、人前で。「どうしたどうした」なんて笑う父にも構わず、慌ててティッシュペーパーを顔に当てた。
「お正月の夜。御倉神社の巫女さんが、頂上に御札を持っていくの。そこで出会ったコンちゃんが、遊んでいて川に落ちた。急に雨が降ったから」
ぐずぐずと鼻を鳴らしつつも、母の眼が鋭く私を睨む。ただ、窓や戸の辺りにも視線が揺れる。
「巫女さんは、冬の冷たい川に飛び込んだ。だけど一緒に流されて、凍えて、どうにか岸に辿り着いたけど動けなくなって——」
「やめて」
落ち着いた風に、ぴしゃりと。とうとう母のストップがかかった。百メートルほども走って来たかというくらい、激しく肩を上下させて。
「あんた誰に。いや誰も知らないはずなのに!」
叫んだ顎が、わなわなと震えた。同時につかみかかろうとした母の手は、腕の長さで止まる。
歯を食いしばり、ふっふっと息を乱して繰り返す。が、どうやら足腰に力が入らないらしい。
「だから、兄ちゃんに見せてもらったの。コンちゃんにね」
「そんなこと、あるわけないでしょ!」
勢いをつけ、また母は飛びかかろうとした。けれども足らず、テーブルに倒れ込む。
父もさすがに笑みを凍らせ、引き起こした。「ほんとにどうした」などと聞いても、母は答える余裕がない。
「そう言われても、お母さんの言う通りだよ。あそこにはコンちゃんしか居なかった。それなのに私が知ってるって、おかしいよね?」
「いい加減にしろ。そのコンちゃんってのに聞いただけだろ」
母の背をさすりながら、父の声が低く響く。なにがなんだか分からなくても、奥さんを大事にはしたいようだ。
「本当に見せてもらったんだけど。聞いたとしても、お母さんはあり得ないって言うよ。だってコンちゃんは、キツネだから」
「……キツネ?」
日に焼けた、いかめしい父の顔。黙っていると、知らない人は恐いと言う。
そこに苛立ちの皺が深く刻まれ、「なに言ってんだ?」と読み取れた。
「お、おい咲。直子が」
娘の頭がおかしくなった。そんな時に父親は、どんな対処をするのが普通だろう。
私の父は、今にも泣きそうな声をした。唯一の味方である母を揺らし、すぐに反応がなくて頭を掻き毟る。
「咲、おい咲!」
されるがまま、母の首はがくがくと振られた。有り様に父も悟ったのか、そっと手を放して問う。
「まさか、本当……なのか?」
なにをされても、母の眼は私を見つめる。こんなことはいつ以来かと記憶を手繰り、
しばらく、無言の時間が過ぎた。母と私と、行ったり来たりする父の首は、何往復をしたか。
庇う手が動員されるころ、ようやく母は頷いた。
「私、見てきたよ。お母さんが朝まで柱に縛られてるのも、おばあちゃんに叱られるのも」
私の手と、腰と、首。それは母が、縄をかけられた箇所。順に、労るように撫でる。
さめざめと、母は顔を両手で覆う。
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