第72話:普通の家族
ぬるめのお茶をお盆で運ぶ。ちょうどおばさんの話は、神社の丘で私を見つけたところだ。
それから冷えた身体を温め、休息させるために今まで預っていたと。
「こちらからご連絡しなかったのは、すみません。直子ちゃんの気持ちを考えてと、ご理解いただけるなら幸いです」
淡々と話し終えたおばさんは、すぐにお茶へ手を伸ばす。私に向け「いただきます」と口角を上げたけれど、あまり笑って見えなかった。
「なるほど」
ソファーにまるきり体重を預け、父は呻く。経緯を知って、表情の緩む気配はない。むしろ、元の位置へ座った母と顔を見合わせ、やれやれという空気で首を振る。
「私もこの歳まで、真面目一徹で来たわけじゃない。だから夜の学校に忍び込んだとかは、まあバレなきゃいいんじゃないかと思う。でも」
父が自分を、私と呼ぶのは初めて聞いた。真剣に話している証左なのかもしれない。しかしこの父の娘としては、ちょっと驚いたというだけ。
それより鷹守に向く眼が嫌だ。
蔑むような、値踏みするみたいな。見えないはずの視線まで、歪に捻じ曲がって思える。
「鷹守、瞬くん? きみは責任とれるのか」
「責任?」
「みなまで言わなきゃ分からんかな。高校生となったら、身体だけは大人だろ」
彼は最初、ぽかんと首を傾げた。しかし少しの間を置いて、息を詰まらせながら俯く。
私が理解するのには、さらに数秒遅れた。きっと鷹守と同じく、顔が真っ赤になった。
「いや、なにをどうしろって言うんじゃない。どうにかなった時、逃げ隠れするなってだけだ」
背けたい目を、どうにか留めた。こんなことを言うのは私の父で、事実もないのに困らされているのは鷹守で、申しわけなかった。
ただ、娘の親となると普通の意見なのかもしれない。それなら、息子の親はどうだろう。
ちらり、おばさんを盗み見る。
赤い。柔らかそうなほっぺたが、鷹守の描いた桜よりも濃い朱に染まって震えた。
「お、お父——」
ダメだ、なにが普通とかを超えているらしい。私がどう取り繕ったところでだが、黙ってもいられない。
戸惑いながらの父を呼ぶ声は、しかしきっと誰にも気づかれなかった。
「とります」
大きな声でもないのに、やけにはっきりと耳へ残る。この場の誰もが、声の主に顔を向ける。
「んん?」
「責任、とります。高橋さんのお父さん」
「おじさんでいい」
「はい。高橋さんのお父さんが、どこまでのことを考えてるか分かりませんけど。僕は僕のしたことから逃げません」
ぽかんとするのが入れ替わった。
体格のいい父からすると、半分と言っていいような小柄な男の子。その口から発した声に、気後れなど微塵もない。
「へ、へえ、いいじゃないか。なあ咲、いつまで売れ残るかって心配しなくて済む」
「ええ?」
あぜんとするバトンが、母に渡った。父の言い分に肯定も否定もないようだけど、そもそもなんの話かというように。
なんだろう。
このちぐはぐな感じは、いったいなんなのだろう。
鷹守が言って、おばさんの握り拳から力が抜けた。おじいさんは何度も「うんうん」と首を動かす。
あれが家族? それなら私と、父と、母。三人を結ぶものも同じだろうか。
「お父さん、責任ってなに」
ボソッと漏らしたのは私。ただ、言おうと思ってではなく。私の中の別の私が、私の知りたいことを声に出す。
「はあ、頭悪いな。お前の彼氏を見習え」
「そんなこと聞いてない。私ね、ずっとお母さんの言う通りにしてきたよ。女の子だから、高校生だから、人間として当然って、いろんな普通を教えてもらったよ」
いや、逃げるのはやめよう。これは間違いなく、私の言葉だ。
なにから、どうやって話せばいいか。使うピースの多すぎて持て余したパズルが、どんどん形になっていく。
迷う暇があったら順番だのは気にせず、片っ端から言えばいい。
「でもね、おかしいよ。お母さんは浮気して朝帰りだし。お父さんの仕事っていうのも、私には区別がつかない」
「な、直子!」
ガタッと、父が立ち上がりかけた。けれども目の前に、おじいさんが手の平を突き出す。
まあまあと宥められ、父はしぶしぶで座り直した。
「ねえ、もう一度教えて。一から、全部。なにが普通なの? 本当に私は、普通に生きてる? ねえお母さん、変なことっていつも言うけど、自分は変なことしてないの?」
椅子から前屈みに、視界が段々と床へ向く。気分が悪くて、吐き出す声が反吐そのものみたいだ。
ひきつけたように息が乱れ、鷹守が背をさすってくれる。
落ち着くには、しばらくかかった。みんなの視線を感じたけど、身体を起こすのは無理だった。
たぶん五分や十分も待たせ、それでも彼に頼んで支えてもらう。
「お母さん」
「あの、私——」
答えてくれるかな。
期待したが、母は固く唇を閉じた。
「あのねお母さん、教えてもらったよ。私、呪われてるって」
もう構わない。心に決めるとほんの僅か、喉のつかえが消える。まだ荒い息で、いちばん問いたいことを問う。
「……呪い?」
「そう。普通でいなきゃいけないって、呪ってるのはお母さん。だけどお母さんも、同じ呪いを受けてるよね」
「そんなこと」
「あるよ、おばあちゃんから。私、見てきたの。お母さんが助けたキツネに、見せてもらったの」
母はきょとんと、疑問の形に眉を寄せた。けれどもやがて、大きく口が開いていく。
声にならない声で、なにを言いたいかは察せた。しかし要望に答えない。今は私が問う番だ。
「ねえお母さん。私が川に流された時、どうして知らないふりしたの」
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