第71話:親子の関係

「直子ちゃん?」


 おばさんが腰を浮かしかける。いかにも怪訝な声だけれど、それ以上を問うことはしない。


「ごめんなさいで済むと思ってんの? 高校生で、しかも女の子が、家に帰ってこないなんて。普通はそんなことしない。まして――変なことしてないでしょうね」


 一瞬の沈黙。私が息を吸ったのにかぶせ、捲したてる母。一瞬の息継ぎで生まれた間は、鷹守を睨むのに使われた。

 蓄えた息が漏れ出ていく。言わなければと浮かべていた言葉が、震える唇の隙間から溶け落ちる。


「まあまあ。あの子だってクラスメイトだから、心配して来てくれたんだろ。なあ、きみにも選ぶ権利ってもんがある。な?」


 自分の指と指を絡め、堪えた。ぶるぶる揺れるのは力を篭めたせいか、怖れのせいか。

 父の声は薄ら笑う。向けられた鷹守は、息遣いの一つとして返さなかった。


 助けて。


 心の中で叫ぶ。ぎゅっと目を瞑り、どうにかして見ているでしょと。三倉の兄ちゃんに。

 そんなことで答えのあったのは、これまでにない。そして今も。


「黙ってないで、なにか言いなさいよ」


 鞭打つような声が、まぶたをこじ開ける。

 キッと吊り目の母。イライラと足を揺らす父。

 祈るみたいに手を組んで、私を見つめるおばさん。姿勢良く、握った拳を膝に置き、力んで笑うおじいさん。


 隣の男の子は、視界の外。でも深呼吸みたいな息が、ずっと聞こえている。

 そうだね、と勝手に答えた。


「ごめんなさい。もし心配してもらったとしたら、それも謝ります。だけどさっき謝ったのは、別のこと」

「もし、って。なんだその言い草は」

「そうよ。心配かけたって気はないわけ? あんたはいつだって、人がどう思うかとか関係なしよね」


 続けようとした声が掻き消される。もみくちゃに潰される。

 拍車のついた母が息を継ぐまで、またじっと唇を噛んで待つ。


「あのう、ちょっといいかな?」


 意外にも、その時はすぐにやって来た。遠慮がちに手を挙げ、おじいさんが割り込んだから。


「儂は親でもなくて、じいさんだけども。親御さんの腹を立てるのは、分からんでもないよ。でもまあ最年長ってことで偉そうなことを言うんだが。あなた方、親とか子とかいう前に、人の話をまともに聞こうって姿勢はないのかい? 直子ちゃんが一つ言うと、十も二十も畳み掛けてさ」


 のんびりした声が、もつれた指を解かせてくれた。強張った顎を動かし、頷いて見せる。

 両親の眉間に彫られた、深い深い溝を目の当たりにしても。


「直子ちゃんも座って、落ち着いて話しなさいよ」


 手を扇がすおばさんの言う通り、椅子に深く腰掛ける。

 今度こそ。

 おかげで、そう意気込めた。


「私。お父さんとお母さんがケンカになったの、みんなに話した。謝ったのはそのこと。言わなきゃ伝わらなくて、仕方がなかったの。でもよそで勝手に言われるのは嫌だと思うから、それは謝ります」


 すかさず、母が叫びかけた。しかし太い腕が制し、その父自身も大きくため息で言う。


「ケンカはまあ、したけどな。理由もか?」


 ちょこっ、と頷く。

 母の喉から、ひゅっと風音が聞こえた。視線は父に、まだ耐えるのかと問う。


「伝わらないってのは?」


 抑揚が薄まり、へらへらと笑い混じりの声。愉快には見えないけれど、不愉快も感じさせなかった。


 聞いてもらえる。

 なまじ思うと、言葉に詰まる。どこから話すか、思い出そうにも辿る記憶を失ったかに頭が真っ白だ。


「ああ、それは私から」


 少なくとも、昨日からのあれこれを話さなければいけなかった。

 となるとおじいさんの言った「細かいこと」だと、今度はおばさんが手を挙げる。


 おととい、母が朝帰りをして、私がゴミに埋もれたこと。間もなく父が帰宅し、ケンカになったこと。

 私と鷹守とで説明したのを、おばさんはメモを片手に漏れなく伝えていく。


 その間、私は俯いて休む。マラソン大会の完走直後みたいに、心臓が爆発しそうだ。

 と、隣の膝に小さな小銭入れが飛んでくる。持ち上げた鷹守の手でじゃらじゃらと重そうに鳴った。


「喉が乾いたな、そこに自販機があったろ。直子ちゃんと、好きなの買ってこい」

「う、うん。高橋さん、行こう」


 アパートから二十メートルに自動販売機はある。しかし私が抜けていいものか、手を引かれても立ち上がれない。


「あ、いえ気がつかなくて。お茶を淹れます」


 母が自分から席を立った。おばさんが話を止めると、「聞こえますからどうぞ」とまで言って。

 ただしお客さん用のお茶っ葉がどこにあるか、知らないはずだ。鷹守の手をそっと戻し、私もキッチンに向かう。


 リビングとを隔てる、引き戸を開け放したまま。水屋の最上段から、玉露と書かれた銀のパッケージを取る。

 母はほとんど使ったことのない、引き出物の急須を取り出す。


 お湯の沸く間、なにを言われるだろう。身構えていると、母は眉間を揉みしだくばかりで、こちらを見ようともしなかった。

 小皺などもない、普通に美人と言っていい人だ。あの巫女さんもだけど、見れば見るほど同一人物と思えなくなる。


「なに」


 眉間を揉みつつ、開いた目が睨む。


「お化け、苦手なの?」

「はあ? どういうこと」

「いや、そうかなと思って」


 脈絡のなさに自分でも驚く。でも、なんでもないとごまかさなかった。答えを聞いてみたくなった。


「昔は苦手だったけど、今は別に」

「そうなんだ」


 なんの関係があるの。怒った顔に書いてあって、種明かしをしないでいると、舌打ちされた。

 川に流された母が、あれからどうなったのか。改めて知りたいと思う

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