第70話:討ち入り
夜。
午後八時ころになって、父から電話がかかった。
休ませてもらっていた鷹守の家で。ためらう私の代わりに、彼のお母さんが出てくれた。
「ええ、直子ちゃんは無事にうちに居ます。よろしければ、車でお送りします。お話もそこでどうでしょう」
他にクラスメイトの母親と名乗ったくらいで、会話という会話はなかった。
最後に「うちのバカ娘がご迷惑を」という父の声。鷹守のお母さんは無言で電話を切る。
「じゃあ行きましょうか」
「えっ、おばさんも?」
「もちろん」
いつもの威勢良さに、強い語気。いかにも当然の様子でエプロンを取る。するといつか見たブラウスを着ていて、出かける準備はばっちりだ。
直ちに自分のスマホを持ち、誰かと話し始めた。もしかしなくとも、おたふくのおばさんと。
今日の出来事を逐一、共有していたらしい。たった今の電話も。
「お
「ほんとになあ。直子ちゃんがおかしいって、最初に言ったのは儂なのに」
などと言われて、返答に困る。そうでなくとも何時間も、寝床から飲み物から、おやつ等々、いたれり尽くせりだったのだ。
二人は、さっさと玄関へ向かう。
私を思ってのことと分かっていても、あぜんとならざるを得ない。年季の入った畳から、踏み出すきっかけを失った。
「高橋さん、行けそう?」
「ええと——」
廊下から、鷹守が顔を覗かす。私と同じく、彼も制服のままだ。
準備というほどのことはない。行かないという選択肢もない。休憩したおかげで、気持ちも落ち着いた。
ではあと、なにが足りないのだろう。
「大丈夫そうだね。行こうよ、僕がついてるからさ」
にゅっ、と。無遠慮と言える勢いで、手が伸ばされた。下ろした私の手を、肩の高さに上げさえすれば届く距離。
それくらいの勇気なら、奮い起こすまでもない。握った彼の手が、私の身体を引き寄せる。
私よりふた回りも小柄なのに、どうしてこんなに力強いのか。
それは男の子だからだけど、見るからに逞しい父とも違う。
「ねえ、鷹守」
「うん?」
軋む床板をずんずんと、彼は私を引いていく。呼べば立ち止まり、目も耳も私に向けてくれる。
「ええと、ごめん。忘れちゃった」
「あはは、あるある」
本当は忘れていない。凍りついたような気持ちのまま言うことでもないと思った。
もし、これが残らず融けてなくなるならその時は。
希望的観測というか。宝くじが当たったら家を買うくらいの、ダメで元々の望みとして取っておく。
知るはずのない鷹守は、それからずっと私の手を握っていた。
言っては申しわけないけど、ジムニーの後席は狭い。彼と互いに身体を押し付け合うようで、それでもだ。
アパートに着き、来客用のスペースに駐車し、玄関の前でようやく放した。
放す瞬間、ひと際強く握ってくれたのが心強い。
おじいさんがチャイムを鳴らし、さすがにすぐ扉が開く。
迎えた母は仕事に行く時のスーツ姿。
おじいさんとおばさんと、大人が二人も居ることに驚いたのか、私とは視線が合わなかった。
百均の簡易的なやつだけど、一応はワックスをかけているフローリングにスリッパが並べられる。
狭くて短い廊下をぞろぞろと、母はリビングまで案内した。
ホームセンターの、安っぽい布張りのソファー。でもほとんど毎日掃除をして、綺麗に保っているつもり。
そこにどかっと、父が座る。よれよれになっていないワイシャツ姿を見るのは、いつ以来だろう。
「このたびは、ご迷惑をおかけしまして」
「いや全然」
父とおじいさんが会釈を交わす。言う割りに、父の目には怒気が見える。
「ソファー、足らないね」
そう言ってダイニングの椅子を取りに行ったのは、深呼吸をするためだ。鷹守も着いてきてくれて、頷きあう。
「で、状況がまるで分からないんですが?」
切り出したのは父。大人の四人がソファーで対面し、私と鷹守は脇で椅子に座る。
「あの——」
おばさんが勢い込み、口を開こうとした。けれどもおじいさんが手で制し、私に向く。
「まず直子ちゃん、先に言うことがあるかい? 細かいことは儂らで話すよ、でもものには順番ってのがある」
順番? 突然に言われて驚いた。そういえば一緒に来ると言いながら、なにをどうするとは話さなかった。
まず言うこと。考えだすとあせるばかりで、鷹守に助けを求めた。すると見上げる彼は、こともなげに答える。
「いや順番とか置いといて、高橋さんの言いたいことを三つか四つ思い浮かべて。お父さんとお母さんの顔を見ながら」
父と母を見る。言う通りにすると、すぐに目を背けたくなった。おじいさんとおばさんを見て、また両親を見る。
何度か繰り返し、最初に言うべきことが思いついた。
「思い浮かんだ? じゃあ最初に出てきたのを言えばいいと思うよ」
「うん、ありがと」
彼の思惑と違うかもしれないけど、これで合っているはず。ここへ
「お父さん、お母さん。最初に言わなきゃいけないのは、ごめんなさいです。この通り、謝らせてください」
椅子から立ち、両手を揃え、深く頭を下げた。
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