第69話:決意
「最初の日だよ。直子ちゃんが劇を見に、集会所へ来た日」
おじさんは新聞のチラシを下敷きに、布きれをテーブルへ置いた。
ボロボロなのは無理に千切ったのでなく、自然と擦り切れたように見える。
「もう寝ようかって頃、この事務所から物音がしてね。覗いたら、なにかがさっと逃げていった。イタチには大きいし、犬って感じでもなかった。なんだろうって思ってたんだよ」
「その時これが?」
イタチでも犬でもない獣が布きれを置いていく。なかなかおかしな話だけど、おじさんは頷いた。
「しかも、それだけじゃない」
整理された事務机に、いくつかのバインダーが放り出されている。おじさんの腕はその上を素通りし、壁際の棚に伸びた。
迷うことなく抜き取った物を、小判か宝石でも扱うみたいに差し出す。
「これ!」
思わず、鷲づかみにするところだ。どうにか留まり、ゆっくりと触れる。
とても形のいい、作り物みたいな朴の葉に。
「何日か前まで、こいつは間違いなく本だった。いやどこかへ失くしたとも思ってたけど、直子ちゃんの話を聞いて確信したよ」
「本って」
一連を話すのに、三倉の兄ちゃんから借りた本についても言ったはずだ。
さすがにまさかと戸惑いながら、バッグから取り出す。
「ああ、それだね。同じだよ、忠臣蔵。それで今年の演目を変えたんだ」
「そうそう。まあ他でやるのと順番を入れ替えただけだから、なにも困らなかったけどねえ」
葉っぱと、本。二つを並べて見る私に、おばさんは言葉を付け加えた。私のせいで稽古の段取りが狂ったのではない、と。
感じた温かさと息苦しさに、今は気づかぬふりをする。
「こいつにこう、巻きつけてあった」
今度は自分の首から、おじさんは手拭いを取る。私が貰ったのと同じ、劇団の手拭いを。
舞台を見るちょんまげ姿の観客。赤い大入の文字。近くにあった手帳にくるくる巻いて、そっと床へ置いて見せた。
「でも、だからって」
真新しい手拭いを見るまでもなく、その絵柄はしっかりと覚えていた。
テーブル上のボロボロの布に、まったく同じ柄が見えるのも気づいている。御倉劇団の文字も。
「だから、だよ。このボロ布は朽ちてしまってる。こんなになるほど昔には、手拭いなんて作ってなかった。柄だって何度も変えてるし」
おじさんの視線が、高いところへ向く。急にどうしたかと思えば、そちらに神棚があった。
どこの神社のと問う必要もない。赤い前掛けを着けたお稲荷さんが、左右に並んでいる。
「ほんとにキツネさんとは思わなかったけどなあ」
がははっと笑った口を、おじさんは自分の手で塞ぐ。
別に構わない。気遣う空気の続くほうが、申しわけない気持ちで苦しくなる。
だから私も笑って見せた。「あはは」と、声を出したのはわざとらしくなった。
「でも兄ちゃんは、どうしてそんなこと」
すぐさま自分で、なかったことにする私はズルい。「そうだなあ」と、きちんと答えようとしてくれるおじさんたちは優しい。
「やっぱり瞬坊の言った通りなんじゃないかねえ」
「言った通り?」
悩むおじさんに先んじて、おばさんが言った。鷹守と話したどれのことか、私は首を傾げる。
「だって手紙を出してこいって瞬坊と会わせたり、なんでも見透かしてるわけでしょう?」
「ですね、いつも」
神様じゃないと言っていたけど、不思議なことができるのはたしかだ。約束もなく来る私を、必ず鳥居で待ってくれていることすら。
「じゃあ瞬坊が、忠臣蔵をどう話すかも知ってたんじゃない?」
その件だけでも、彼はたくさん話してくれた。あの時代の感覚に照らし合わせば、決して討ち入りをするのが普通ではなかった。
しかしそれでは、残された人たちの普通に生きる場所がなくなってしまう。だから勝ち取るために討ち入りをした。
細かな部分はあやふやだけど、おおむね合っていると思う。ただこれを私に当て嵌めるとなると、首を傾げて「ええと?」と困った。
「僕はね、こう言ったよ。もしも世界じゅう、みんなが否定しても。僕だけは高橋さんの味方だって」
おじさんと、おばさんと。交互に見ていた視界の外。聞き違えようのない、はっきりとした鷹守の声が聞こえた。
真横に座る彼を見れば、私の袖をつかんだまま。だけど背すじを伸ばし、キッと鋭い視線を神棚へ向けていた。
「いいねえ」
「男の子だねえ」
からかうつもりもないのだろうけど。おじさんとおばさんが言っても、鷹守は真面目な顔のまま。
引き結んだ口もとを少し緩め、笑みを作ってから私と向き合う。
「こうも言ったよ。高橋さんは、普通でいることの呪いをかけられてる。それは呪いをかけた相手が居るってことだよ」
「うん……」
今日の鷹守は、見た目の雰囲気と言うことが合っていない。などと冗談にしたかった。
彼がどう言いたいか、察するのが怖い。
それなのに袖を握っていた手が離れ、代わりに私の手を握る。両手で包み込み、私の心の奥底を問う。
「討ち入り、しようよ」
「舞台に立ってみようよ、みたいに言わないで」
物騒なことを言うのに、彼の表情は和らかだ。冗談めかした苦情にさえ、フッと笑う。
助けを求め、おじさんとおばさんを見た。
二人とも、鷹守と似たり寄ったりで頷く。
「どうしてみんな、信じてくれるの。私、おかしなことしかいってない」
生まれるずっと前の母を見てきた。神社に棲む、正体の知れない誰かに連れられて。
途方もない話だ。話した私自身、バカなことをと苛立つ。
今、どこへ立っているのだろう。俯いても、ただ現実の床が見えるだけ。その耳に「そりゃあ」と、なんだそんなことと翻訳できる、呆れた声が届く。
「高橋さんが特別だからだよ。僕にとって、劇団のみんなにとって」
頷いた。一度では足らない気がして、何度も何度も。
「信じたい」
「うん、信じてほしい」
「疑ってるんじゃないの。でも、信じたいとしか言えないの」
「大丈夫。信じて」
顔を上げる勇気がない。これから口にするのは、限りなくひどい言葉だから。
「私、お母さんと話したい」
鷹守はまた、なあんだみたいな感じで答えた。
「そうしよう」
と。
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