第68話:告白
それから彼は、私の腕を放さなかった。支えてくれている、のではなく。逃さないよう捕まえたという風に。
なんだかぼんやり、考えがまとまらなかった。だから私としても、ちょうど良かったのかもしれない。
みんなが口々になにか言っていたのも、まったくと言っていいほど覚えていなかった。
ふと気づくと、知らない家の戸口をくぐるところだ。開け放した引き戸の先はセメントのたたきで、事務机が向かい合わせに置かれていた。
その奥、革張りのソファーを使った応接スペースがある。四人でも使えそうな真ん中に、鷹守は私を座らせた。
ぐいぐいと強引ではある。でも嫌だとは思わなかった。
というより、まだ私の脳みそが追いついていなくて、それどころでない。
母と、三倉の兄ちゃん。それに祖母。
口の中へ無理やりに突っ込まれたけど、これはそもそも食べ物なのか。喩えるならそういう代物で、呑み込み方以前に、呑み込んでいいものか悩む。
「まあとりあえず、なにか食べて。昨日から食べてないんでしょ?」
そういう中ではっきり聞き取れたのは、おたふくのおばさんの声。同時に薫る、味噌汁の匂い。
目の前のガラスのテーブルに、大根の味噌汁とおにぎりが並べられた。さらにドーナツ、カップ麺、コーヒーにオレンジジュースまで。
「遠慮しないで、好きなのをどうぞ。全部平らげたっていいしね」
向かいのソファーは空いたまま。お箸も皿も二人分あったけど、おばさんは私に向けて話す。
きゅるる、と腹の虫が鳴く。それでも空腹の感覚はないのだけど、ここまで勧められて要らないとも言えない。
「いただきます……」
言ったつもりが、自分の耳にも届かなかった。お盆を抱えたおばさんを見上げると、普段の十倍増しでにっこりと笑う。
食べていいんだ。
口に出せば、そう言っているじゃないかと笑われたかも。
しかし嬉しかったのだ。私のために、味噌汁もカップ麺もわざわざ作ってくれたのが。
ところどころ、塗りの剥げかけたお椀を両手で取る。
私が食べなければ残飯になってしまう、という意味ではカップ麺を先にするべきだった。でも作りたての、立ち昇る味噌とだしの芳香を後回しにできない。
ひと口。飲むと和らかな、甘いとさえ感じる温もりが喉を伝う。お腹に溜まり、冷えた指先までも広がる。
じわり。湯気のせいか、視界が曇った。熱い雫が一つ、頬を流れたのは汗に違いない。
「座ってもいい?」
おばさんの指が、ソファーを指さす。
慌てて、二度も三度も頷いた。問われる意味が分からない。ここはたぶん、おばさんの自宅と繋がった仕事場と思うから。
「話したくないと思ったら、嫌だって首を振って。そうしたら、もう聞かない。だけどもし、聞いていいなら。瞬坊がそんなになってる理由を教えてもらえる?」
事務机の向こうで、見るとはなしを装う、つるつる頭のおじさん。おばさんが切り出すと、目を見張って乗り出した。
しかし私が頷くと、元通りに背を向ける。
鷹守が
見ると彼は、私の袖をつかんだままだった。ひどく眉間に皺を寄せ、死にそうなくらいに不安げな顔で。
川に落ちたのは子チワワだったかなと錯覚する。
「ええと、なにを言えばいいか——」
たくさんの言葉をくれた。きっととんでもない勇気を振り絞って。
そんなものを話していいか、勝手に決められない。そして鷹守が言ってくれたことは、今までの出来事を知らなければ分からない。
目を合わすと間髪入れず、彼は頷いた。
なら、どこから話そう。今朝、学校を出てから。それともクリスマスの公演、その前の日。
味噌汁を飲みながら、記憶を手繰る。お椀が空になっても決められなくて、カップ麺に手を出した。
誰も急かすことをしない。おじさんが熱い番茶を出してくれた。
待たせるのが申しわけなくて、逃げ出したくなった。
「ねえ高橋さん、最初からはどうかな。順番とか、関係あるとかないとか、そういうのはいいから。思いつくまま、言いたいことだけ」
子チワワが吠える。私の袖をつかんだまま、きゅっと寄せた眉根のまま。
言ってることと見合ってないよ。
そう思ったのと、口に出した言葉とは違った。
「あんたが言うなら」
さっきのいただきますとは比べ物にならない、普通の声。釣られておばさんまで、「うん」と笑う。
だから楽しく、というわけにもいかなかったけれど。私は話した、鷹守と出会ってからのこと。覚えている限り、父や母のこと。
「……手拭いって」
なにもかもを聞き終え、つるつる頭のおじさんが呟いた。
たぶんひとり言だったのだろう。おばさんが声をかけても、気づかずに奥の部屋へ消えた。
しかしすぐに戻ってきて、手にはお土産ものの紙袋がある。
そこから出されたのは、黒ずんだボロボロの布きれ。
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