第67話:迎えの人

「あ……」


 目が覚めた。と言うのが正解かは置いて、そういう感覚がした。

 まぶた越しにも、空が明るい。投げ出した手に土がざらつき、冬の乾いた風が寒い。

 開いた眼に青空が見えた。か細い枝が網をかけるように、四方から張り出して邪魔をするけれど。


「蜘蛛の巣——」


 みたいだ。だとしたら囚われているのは空でなく、私。

 あれほど高いとどうしたって届かなくて、引き千切って逃げようとも思えないが。


 重い心と向き合うのが面倒で、しばらく大の字に寝転んだままでいた。

 でも温もる気配のない地面と、遠慮の欠片もなく体温を盗む北風とは仲良くできない。


 仕方なく、鉛の重さの身体を起こす。三倉の兄ちゃんを捜す目的もまだだ。

 たぶんあそこと見当がついていても、実際にやってみなければ結果は訪れないから。


 投げ捨てたバッグを拾い、はみ出た忠臣蔵の本を押し込む。しかし御倉劇団の手拭いはなかった。バッグの中にも、辺りの地面を探しても。

 それは巫女さんにかけたコートも同じ。脇の川に流された可能性もあるけど、きっと違うだろう。


 のろのろと頂上へ歩きながら、考えた。見てきたものは、いったいなにか。

 過去のできごととは分かる。なぜ見せたのか、だ。いやそれも既に分かっているのかも。


「私が変われって言うの?」


 呟いたのは、巫女さんが御札を捧げた大岩の前。ここで兄ちゃんを呼べば、任務達成になると思った。

 しかしもう、兄ちゃんは居る。岩に腰かけ、長い脚をぷらぷら遊ばせ、手を上げたりして。


「見つけたことになるのかな」

「んなわけないだろ。俺はどこに居た?」


 冗談のつもりはなかったが、くくっと笑われた。しかしなるほど、意図は分からないけど趣旨は分かった。


「コンちゃんっていうんだね」

「そう呼ばれたことはあるな」

「手拭い、暖かかった?」

「まあまあだ」


 答え合わせは何点がつくか。少なくとも落第ではないはず。おもむろに頷く兄ちゃんに、なんと言っていいか言葉が浮かばない。

 ひょいっと兄ちゃんの降りたあと、大岩になにやら彫られているのが見える。漢字ばかりで読めたものでないけど、稲荷とか御倉神社という文字があった。


「兄ちゃんがお稲荷さん?」

「だから言ってるだろ。神様とかじゃないって」

「でもそれじゃあ、さっきのは」

「どこまで見えた?」


 子ギツネに手拭いを巻いたところで、あの光景は終わりでない。

 雨の降る中、ずぶ濡れの巫女さんが大丈夫とは思えず、ハラハラし通しの時間を過ごした。


 およそ三時間。大勢の声が森に響き、その一つが巫女さんに辿り着くのは、さらに三十分ほど。

 私は呆然と、巫女さんの運ばれるさまを眺める。彼女を呼ぶ、二種類の名を聞いたために。


 咲。あるいは、にのまえ

 同姓同名の可能性はない。この集落に一という姓は一軒だけだ。


「お母さんが、私を守ってくれって」

「ああ」


 自身もぶるぶる震えながら、子ギツネは巫女さんに寄り添った。たくさんの人間の気配にも、怖れおののきながら。

 それを彼女は、そこまでしなくていいと笑った。もちろん無理やりに作った笑顔だ。


「私の子供がこの森で遊ぶことがあったら、私みたいにならないようにって」

「ああ」


 子ギツネは何度も振り返りつつ、茂みの向こうへ消えた。小さなぬいぐるみみたいだった彼は今、すぐ目の前で微笑む。


「本当にあったことなんだよね」

「だな」

「おばあちゃんが、お母さんにしたことも?」

「俺には分からないけど、ナオが見たんならそうだ」


 神社でお風呂を借りて着替え、神主さんに付き添われた母は自宅に戻った。

 迎えた祖母は、母を叱りつける。お客さん用の和室で、太い柱に縛りつけ、朝が来るまでお説教だ。

 うなだれた母は、「すみません」以外の言葉を吐かなかった。


「さて」


 これ以上、特になにを言うこともない。そんな感じで兄ちゃんは、私を見下ろす。

 ずっと、何度も会ってきて、急かされた経験はなかった。だから今も、私を待っている。


 なにを質問しても、できる限り答えてくれるはず。これからどうすると言っても、その通り叶えてくれる。

 私の決めた次の言葉を、兄ちゃんは待ってくれている。


「高橋さーん!」


 遠く、かすれた声の聞こえたように思う。


「直子ちゃん!」


 誰かが私を呼ぶなんて、あり得ないのに。

 あり得ないはずの声が、どんどん増える。つるつる頭のおじさんと、おたふくのおばさん。御倉劇団のみんなの声が、冷たい斜面を駆け上がる。


「高橋さん!」


 先頭に見えたのは、鷹守。全身、真っ白な湯気をもうもうと上げ、血走った眼で私を睨みつけた。

 次の瞬間、ぐしゃぐしゃに顔が壊れる。なにがなんだか、言葉に聞こえない雄叫びと共に走り出す。


「また、だな」


 耳もとで囁かれ、振り向いても兄ちゃんの姿はない。力が抜け、私は膝からくずおれる。


「ぼう、ぼう! あべないとおぼだ!」


 子ギツネが居なくなり、代わりに子チワワが突っ込んでくる。

 どうしていいか、頭の中がメチャクチャだった。それでも鷹守を受け止めなければ、とだけは思う。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る