第66話:あの時と今

 ざあああっ、と。

 耳をふさいだ轟音にたじろぐ。見る光景も、夜空が垂れたように黒くぼやけた。


 突然の大雨だ。私が全身をくまなく冷やされたのでは、もちろん留まらず。そこらじゅう、どこもかしこもが泥沼と化す。

 ただ幸い、バケツを返したような勢いはすぐに衰えた。十を数える間もあったかどうかで、ぽつぽつと穏やかな雨音に変わった。


 あの二人は?

 巫女さんと子ギツネを見失った。下っていく道に、視線を沿わせる。

 真っ黒な木と木の合間を、踏み固められた土が少し明るい。一人でなら余裕ある幅が、緩くうねった先でかくんと折れる。


「コンちゃん!」


 巫女さんの絶叫。土下座でもするみたいに、地面へ伏せていた。

 分かる。あれは誰かに謝っているのでないと。

 覚えている。急に折れた、あの道の脇になにがあるかを。


 この世の終わりのような彼女の叫び声と、いまだ子ギツネの見えないこと。

 それでなにが起きているか理解できた。

 走る。今さら間に合わないかもしれないが、放ってはおけない。


 巫女さんの蹲る場所が、ちょうどスタート地点だった。幼いころ仲間達と繰り返した、坂下り遊びの。

 川に流された経験なんて役に立たないけど、あの可愛らしい子ギツネが死ぬのはかわいそうだ。


 離れていた二十メートルほどを駆ける間に、巫女さんは立ち上がる。彼女も走って、追おうというのだろう。

 そう、それしかない。行く手には何ヶ所か、流れの弱い場所や淀みもある。

 と思ったのに、巫女さんの動きは予想と違う。


「待って!」


 喚いても遅い。彼女は助走をつけ、川へ飛び込んでしまった。

 巫女さんの足跡を踏んだころには、流れに二人の姿がない。


「なんで……?」


 足が止まる。なにも考えられなくて。問う自分の声も、なにについて言ったか分からない。

 脳裏に、あの時が映る。

 つるつる滑って、自分では勢いの止められない川底。沈むだけの水量もないのに、勝手に喉へ流れ込む冷たい水。


 それでも助けてと言った。声になっていなくとも、手を伸ばした。

 対して仲間達は、なにをすることもなく見ているだけだった。


「くうぅっ!」


 お腹の中を、ぎゅっと雑巾絞りにされた心地。強く唸り、また走り出した。

 流れの緩やかになる所もある。追いつけば、助けられる。ここで立ち止まっていては、その機会さえ失う。


 子供のころより速く、坂道を翔ぶ。

 子供のころより鈍く、曲がり角を折れる。

 子供のころにはできなかった、川を跳び越えてのショートカットもした。代わりに、せり出した枝へ顔を突っ込んだけれど。


「見つけた!」


 思った通り、深みに巫女服の赤白が見えた。そもそもが浅い川で、深いと言ってたぶん膝くらいだ。

 彼女は子ギツネを肩に乗せていた。乗せられたほうも襟巻きみたいに、首へ抱きつく。


 しかし滑って立てないようだった。

 がちがちと歯を鳴らす凍えた身体は、言うことを聞かないだろう。ずぶ濡れの巫女服も、とんでもない重さのはず。

 私も迷わない。バッグを投げ捨て、飛び込む。空いている手を取り、引っ張ろうと手を差し出す。


「え……?」


 無視された。私の手が、いや私そのものが、ここへ居ないように。

 たしかに視線がぶつかり合ったのに。変わらず必死の形相で、巫女さんは足掻く。


 触れられなかった。どういうことか呑み込めなくとも、とにかく助けるのが先と手を伸ばしても。

 つかもうとした巫女さんの腕を、私の手はすり抜ける。


 それなら、なにか枝でも。見回すと、頃合いの倒木を対岸に見つけた。

 でも動かない。自分の感覚でしっかり握ったつもりでも、よいしょと動かせばその場へ残る。


 まさか私、死んでる?

 自分が幽霊になったというくらいしか、理解のしようがない。

 というか理由はどうでも良く、巫女さんと子ギツネになにもできないことが腹立たしかった。


「頑張って! もう少し!」


 できることは声援だけ。彼女に聞こえなくとも、傍観は嫌だ。

 風の吹いてくる方向に立ち、あとは拳をぶんぶん振って大声を上げ続ける。


 やがて。私のおかげなど一つもなく、巫女さんは岸に倒れ込む。

 子ギツネもすぐには動かない。死んでしまったかと覗き込むと、ゆっくりしたまばたきをしていた。


 先に動けるようになったのは、子ギツネ。最初は巫女さんの頬を舐め、次は彼女の顔や首を温めるように身体を押し付ける。


「ありがとコンちゃん」


 咳き込みながらの声。このままでは二人とも凍え死ぬ。

 なにか。なにかできることは。

 考えても、触れられもしない私にできることなどあるはずがない。


 強いて、気休めにもならないけれど。グレーのコートを脱ぎ、掛けるくらいしか。

 子ギツネには、別にいい物がある。投げ捨てたバッグから取り出し、小さな身体に巻きつけてあげた。

 御倉劇団の手拭いを。

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