第65話:丘のてっぺん
思った以上に、巫女さんの歩みは遅かった。一歩ごと、深呼吸をするような調子だから。
これでは私も動けない。兄ちゃんは、いつまでと時間の制限をしなかったけれど、どうなのだろう。
そうだ、スマホ。
終わりの時間はともかく、どれだけ経ったかくらいは知っておきたい。この突然の夜にも説明がつくかもだ。
なにより照明として使えるし、急いで取り出す。
「なんで?」
スマホの真っ暗な画面は、どこを押しても撫でても明るくならなかった。強制的に再起動させる操作までしたのに。
壊しちゃった……?
これほど唐突に壊れるものか疑問だが、当てにならないのは間違いなかった。
すると真っ暗な森を、明かりもなしで歩くことになる。ましてそんな中、兄ちゃんを捜すなんて。
どうしよう。すぐに考えたのは、明るいままの本殿だ。巫女さんが持つ以外にも、懐中電灯があるかもと。
しかし勝手に取れば泥棒だし、誰か居ればなぜここに居るかを怪しまれる。
でなければ、思いつく手段は一つ。一定の距離を保ち、巫女さんを追う。
決めてすぐ、兄ちゃんのくれた木の実をポケットに押し込んだ。
かくれんぼで勝たなくても、これを食べればお嫁さんになれる。という、ずるい気持ちもあったけれど。
ダメだ、と自分を厳しく叱りつけた。
ほとんど四つん這いの恰好で走る。音を立てないよう、低い藪に隠れるよう、気遣った結果。
巫女さんの様子では、踏み固められた道から外れることもないだろう。
だけど捜す相手は兄ちゃんだ。獣道を分け入り、ボロボロになる必要はない、と信じる。
それから五、六十メートルも進むと、巫女さんも少し落ち着いて見えた。
相変わらず大きめの物音には慌てふためくけど、おおむねゆっくりの散歩くらいで歩む。
道の左右。気になる茂みを覗いたりしながらの私には、ちょうどいいと言える。
そのうち、気づいたことが二つ。
一つは道の外。自然の、と言うには綺麗に下草の整理された山肌。長身の兄ちゃんを隠せる場所そのものが、意外と少ない。
もう一つは、巫女さんがなにか運んでいること。懐中電灯と反対の手に、真っ白な封筒のような物を握っている。
驚いた時。懐中電灯と共に向け、敵? への威嚇を試みているらしい。
魔除けの御札みたいな物だろうか。なんにせよ雨粒からは庇う素振りで、大事なのだと察せた。
いつも兄ちゃんの居る、御倉神社を抱えた丘。
巫女さんという意味ありげな人が、意味ありげな物を携え、一人で闇の中を行く。
——神社とは違う、重要な場所が他にある?
だとしたら、兄ちゃんもそこへ居るのかも。
根拠はないけれど、きっとそうだ。妙な確信を持ちつつ、辺りの捜索も油断せずに行う。
しかし結局、得るところなく頂上付近まで登った。
「どこまで行くの」
少しずつ、雨粒の落ちる密度が増していく。最初は忘れかけたころにぽつぽつだったのが、今は数秒ごとに一つ。
決して動きやすいと言えない格好で、なぜ一人で。今ならまだ、風邪をひく心配もない。
早く帰ってよ、と心の中で呼びかける。
と、巫女さんが立ち止まった。懐中電灯や御札を右往左往さすこともせず。
まさか通じた、なんてことはなく。私も見覚えのある岩に、彼女は向かい合う。
今の私が両腕をめいっぱいに広げて、届くかどうか。それくらいの幅を持つ大きな岩だけれど、ただの岩としか記憶がない。
でも巫女さんは、岩の上に御札らしき物を置いた。一旦は懐中電灯も置き、拍手とお辞儀を岩に向ける。
なんだか分からないけど、これが彼女の用件に違いない。誰かに意地悪をされたわけでなく、神社の慣わしのようだと安堵した。
で、帰ってねと。今度は私の都合だ。
小屋でもあるのを期待していたけど、違った。しかしあの岩なら、兄ちゃんも隠れられる。
「ひいっ!」
突然の叫び。離れていても耳もとで聞いたような金切り声に、私も竦んだ。
巫女さんは懐中電灯を取ろうとして、二度も転がす。やっと持ち上げ、照らす光線はどこへ向けたいのか暴れ回った。
でもたしかに、なにかが居る。岩の陰から出てきた様子で、四つ足で立つ姿が見えた。
お化けなどではないと彼女も悟ったらしく、じきにまっすぐ光が向く。
柴犬?
と思ったが、どうも違う。茶と白の組み合わせはそっくりだけど、スリムな胴体に三角の頭。
「キツネなんて居るんだ」
それも子ギツネに違いない。小さな身体、好奇心でいっぱいの瞳が巫女さんを見つめて踊る。
遊ぼう。跳ねてぐるぐる回るのを、他に翻訳のしようがなかった。
しかし大切な役目を果たす最中、巫女さんが応じるはずなんて——
あった。
子ギツネを追い、捕まえようと腕を伸ばす。もちろん簡単には触れることもできず、するすると逃げられる。
おそらく子ギツネは、もっと機敏に動くこともできた。あとちょっとで手が届く、ぎりぎりを待って逃げるのを繰り返した。
二人ともが楽しそうに追いかけっこをする。いつしか「待って」と、巫女さんが声を上げて笑い始めた。
どこかで聞いたような声。既視感みたいなものだろうけど。
子ギツネは自身の何倍もの距離をひと跳びに、あっちへこっちへと目まぐるしい。
やがて二人は道を下っていく。神社とは反対の、川の流れるほうへ。
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