第63話:嫁入り前の参道
痰を絡ませたような、引っ掛かり気味の咳が激しいバスのエンジン。黒い霧に私もむせて、なお姿の見えなくなるまで見送った。
運転手さんか。考えてみると、私の移動のほとんどはバスだ。しかし自分で運転ができれば、頼らなくともどこへでも行ける。
まだ免許を取れる年齢でなく、車にもオートバイにも興味がないけれど。乗れば自分の好きな場所へ行けるという、普通極まりない事実に今さら気づいた。
あの大雪でも峠から下ろしてくれた、鷹守のおじいさんみたいに。
「好きな場所、ね」
どこへ行きたいの? 自分からの問いかけを、真面目に考えた。
スカイツリーにキャナルシティー。それとも美ら海、知床の大自然。ほとんどない知識を呼び起こし、写真で見た景色の中に立ってみる。
——車で沖縄には行けないでしょ。
などと、無味乾燥な答えしか出てこない。遠いところへと言ったって、実際に行きたい場所なんて思いつかなかった。
やはり御倉神社だ。もうまったく見えるはずもないバスの背中へ会釈をして、中央の通りへ足を向けた。
ここまで来れば一本道で、既に兄ちゃんの姿が見えたような気持ちになる。
ただし鷹守に関わったおかげで、この辺りにも見知った顔がある。平日の昼前にまさか出会うこともないはずだけど、こそこそと影を伝うみたいに歩く。
「あら直子ちゃん!」
またか。
どこから呼ばれたやら、きょろきょろ探した。しかし歩く人の姿は見えず、空耳かと思った。
いや、対面を走ってくるスクーターが手を上げている。立ち止まるとやはり、すぐ脇までやって来た。
「今日は制服なのねえ」
顎のないヘルメットのシールドが上がる。声で見当はついていたけれど、おたふくのおばさんだ。
明るいピンクのジャンパーと、いかにも事務服っぽいタイトスカートに毛糸のタイツ。
おそらく仕事中。けれどもスクーターのカゴに、土の付いた大根が剥き出しに載る。
状況が分からないけど、まあ私の口出しすることでない。
「今日はどうしたの? 鷹守さんの家とも違うし」
劇団の手伝いでなく、鷹守の家へ行くのでもない。しかも冬休み中に制服を着て。
どう言ってもボロが出そうで、すぐには答えられなかった。おばさんは私の向かう先を振り返り、首をひねって見せる。
「あの、御倉神社へ」
「わざわざお参りに?」
「え、ええ。よく来てるんです」
桃色に染まったふくよかな頬が、ふわっと盛り上がる。何度も見た優しい笑顔で「さすが直子ちゃん」と褒められた。
「うちの子なんかいい歳して、お参りなんかしないのよ。行事ごとのある時だけ、地元面してお酒目当てに」
「いえいえ、私もそれほどじゃあ」
それほどどころか、お参りとして行ったことがない。目的は三倉の兄ちゃんに会うことで、バチあたりという話なら、よほど私のほうがだ。
「ああでも、あたしもご無沙汰だわ」
愛嬌たっぷりに、くふふと笑うおばさん。まだどちらかといえば、はじめましてのほうが近い私へ。こういう人を懐が深いと言うのだろうか。
温かい配慮を向けてもらうのが悪くて、落ち着かない視線をさまよわせた。それがきっと、あせって見えたのだと思う。
「なにかやることある?」
「まあ、その、少し」
「あら、ごめんね引き留めて」
どうぞ行って、と御倉神社の方向へ手が差し伸べられる。ここはお言葉に甘え、「それじゃあ」なんてもごもご言いながら行き過ぎる。
別にこれから、罪を犯そうというのでない。けれどもなんとなく、バレなくて良かったと犯罪者っぽい心持ちがした。
「あ、直子ちゃん?」
「はいっ」
終わったと思ったのに、再度の呼びかけでビクッと硬直する。一気に関節まで錆びたらしく、動きの悪い腰を無理やりに振り向かす。
「んー。用事が終わったら、うちへ遊びに来なさいよ。お菓子でも食べてって」
「お菓子……」
「ええ、そう。お饅頭みたいなのしかないけど」
行けない。呼んでもらったのは嬉しいけど、用事のあとには無理だ。
とは、正直に言えなかった。
「す、好きです。お饅頭」
「そう。良かった」
まん丸の顔で笑って、そのまま私を見つめる。重ねてなにを言うでもなく、こちらからなにか言うべきな空気が漂う。
「行きます。行けるようなら」
「うん、待ってる」
完全なでまかせを吐いてしまった。満足と書き加えた顔を頷かせ、おばさんはスクーターを発進させる。
いくつか先の路地に折れ、見えなくなってから気づいた。おばさんの家がどこか、知らないことに。
どうせ行かないけど。
必要のなかった嘘が、鉄の重みを足に課す。嘘を吐いてすみませんと謝れはしないから、饅頭を食べて嘘でなくしたい。
でもそこまでの気力が残っていない。今すぐにでも、兄ちゃんの足もとへ倒れ込みたいのだ。
「もう誰にも会いませんように」
ボソボソ呟きながら、早足で歩いた。おかげで、その願いは成就する。
コンクリートの鳥居と、左右に鎮座するお稲荷さん。顔見知りに会うことはなかったが、兄ちゃんも居ない。
まさか、今日に限って。
前回の例もある。スカートの捲れるのも構わず、斜面を駆け上がった。人の通るところには雪がなく、泥はねの心配もなかった。
「はあ——はあ——兄ちゃん」
境内に踏み入り、本殿の階段へ向かう。そこがいつもの場所で、兄ちゃんと初めて出逢ったのも同じ建物。
「人気者だな」
兄ちゃんは居た。本殿の
「見てたの?」
「暇だからな」
同じ方向を見ても、私には見えない。たしかに集落のほとんどを見下ろせるけど、誰かが歩いているとかの見分けはつかなかった。
「兄ちゃんはいつも見守ってくれてるんだね」
「いつもってほどじゃないけどな」
「これからは、いつもでしょ?」
白いズボンに赤いシャツ。焼きすぎたクッキー色のツンツン髪まで、いつも通り。
丸く見開いた眼が、ようやくこちらを見てくれる。
「兄ちゃん、お嫁に来たよ」
これから私は特別になれる。なにより大好きな兄ちゃんと、ずっとずっと一緒に居られるのだから。
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