第62話:思わぬ言葉

 競歩の大会に出れば、いい成績を残せるかも。そう思うくらいの急ぎ足で学校を出た。

 冬休みにも練習を欠かさない運動部の声。目標へ向かっていく人たちとは正反対へ、堪らず走り出した。


 額ににじむ汗が、べっとり気持ち悪い。貼りつく髪も鬱陶しくて、除けても除けてもしつこくくっつく。

 もう要らない。

 こんな要らない物、切り刻んで捨ててしまいたい。


 だけどこんな往来で、できるはずもない。私にできるのは邪魔にならないよう、早く兄ちゃんのところへ行くことだ。


「あ、時間——」


 バス停に着いて気づいた。峠の上へ向かう次のバスには、まだ一時間近くもある。

 それくらい、用意された三人掛けのベンチで待てばいい。名前の書かれた歯医者さんや塾の人も、それが本望だろう。


 だから・・・歩いた。厚意に甘えてはいけないんだ、と。いわゆる中二病的な自己陶酔とも思う。

 だとしても、自分の良心が許さなかった。


 二つか三つも先のバス停へ行けば、ちょうどいい時間になる。

 歩きながら、振り返ってみた。それでなんとなく、バスの順路とは違う道へ逸れた。


 学校の近所の見慣れた住宅地も、一つ裏の路地は見知らぬ街という感じがする。この辺りに住む人だって、誰も私のことなんか知らない。

 でももっと遠くへ。今までとはまったく違う場所へ行きたいと思う。


 やがて、家と家の間に田んぼが挟まり始めた。もちろん今は切り株が残るだけで、青い葉も金色の稲穂も見えないが。

 さらに進むと比率が逆転して、広い田と田の間にぽつんと家が建つ。そういう脇を抜ける道路の、歩幅にも満たない歩道でバスを待った。


 ものの数分。峠を下る冬の風が、火照った肌を少し冷ましてくれた。

 やってきたバスに乗り込み、いちばん後ろの席へ座った。たぶん人生で初めての景色だ。遠いフロントガラスの先と、真横とを交互に眺める。


 間もなく、バスが一台の自転車を追い越す。ちょっと登りになった坂を、小柄な男子は懸命に漕ぐ。

 まさに一心不乱——いや、そんな言葉では足りないくらいの形相で。


「ごめんね」


 呟きながら身を隠す私は性格が悪い。

 降りて待つこと、スマホで話すこと。それらも思いついた上で、しなかった。

 路外へ僅かに雪を残す峠の道は、ぐんぐんと角度を増していく。


 それからおよそ正確に、時刻表通り。集落のバス停へ到着した。

 単に座っていただけなのに、一つ関門を越えた気がする。ほっと息を吐き、財布から回数券を取り出した。


 せっかくの貰い物を、こんなことに使っていいのかな。

 とは思いながら、回数券にしろ現金にしろ、残したところでムダになるのは同じ。そう納得することにした。


「ありがとうございました」


 道中、私の他にお客さんは居なかった。私なんかのためだけにバスを走らせてくれた運転手さんへ、頭を下げる。

 当然に運賃も支払い、そそくさと降りようとした。


「ああ、直子ちゃん。今日も劇団の用事?」


 背にかかる声。そうだ、ここにも私を知る人が居るのだった。

 申しわけないが、完全に忘れていた。鷹守のおじいさんが、バスの運転手さんだと。


「あ、いえ、はい。そんなところです」

「そうかい」


 向き直り、頷く。するとおじいさんも同じく、にっこりと私を見つめた。

 バスは止まったままで、大丈夫なのかこちらが心配になる。けれどもおじいさんは、いつものおっとりした声で続けた。


「やっぱり学生さんは、セーラー服がカッコいいねえ」

「そ、そうですか」

「うんうん。儂らのころは当たり前だったけど、最近は見なくなったよねえ。懐かしいよ」


 言われてみれば、近隣にセーラー服の学校を思いつかない。


「でも私なんて、似合わなくて」

「えぇ、そんなに可愛いのに?」

「いやその、ありがとうございます」


 お世辞というのは応対に困る。特にこうして、意外な人からもらった時には。

 ひたすら頭を下げ、ある程度のところで「では」と逃げる。そういう作戦を立案し、実行しようとした。


「ああ、直子ちゃん。急いでるのにごめんね」

「は、はい」


 しかし捕まった。とても柔らかな、脱脂綿みたいにふんわりとした声で動きを止められる。


「儂みたいなジジイに言われても気分が悪いだろうけど、首やら裾やら直したほうがいいかもしれないねえ」


 自身の襟を指さし、教えてくれるおじいさん。なにかと思って見ると、たしかに捲れて恥ずかしいことになっていた。

 慌てて直し、「ありがとうございます」と。何度も言いすぎて、どうにも薄っぺらい。


「切羽詰まってるとねえ、これを失敗したら終わりだって思っちゃうもんだよ。でもこの歳になって思い返すと、あれは本当に終わりだったってのは一つもなくてね」

「ええと……?」


 急になにを言いだしたか、話が見えなかった。適当に合わせる手もあっただろうけど、咄嗟にできるほど頭が良くない。


「えっ。バスの時間に遅れそうで、そんなになったかと思ったよ。服だけならいいけど、車に撥ねられたりしたら危ないから」

「あっ、そうですね。気をつけます」


 普通に気遣われていた。恥ずかしくて、地面へ打ちつける勢いで頭を下げる。

 バスを降りるのにも、何度も左右をたしかめてから。扉を閉める前に手を振って、おじいさんは走り去った。

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