第61話:分水嶺

「ねえねえねえねえ、なにしてんの」


 ネバネバの泥を浴びせられた心地。視界に入った沢木口さんは、わざわざ腰を屈めぎみに。一歩ずつ、私と鷹守との顔を覗き込みながら近づく。


「なにしてんの?」


 間際で足を止め、鼻から抜ける笑い声で繰り返す。

 彼女の後ろへ、いつもの女子も付き従う。その二人も笑っていた。既に堪えられず、ふすふすと息を漏らし。


「僕、高橋さんのこと――続きは?」

「あはははっ」


 手を取り、見つめ合う。さっきの鷹守と私のモノマネ。そんなにだらしなく、緩んだ顔はしていなかったと思うけど。


「あんたたちやめてよ、笑っちゃうから。バカにしたら悪いでしょ」


 沢木口さんは宥める身振りと言葉。しかし私の目には、もっとやれと煽って見える。


「鷹守は真面目に告白しようとしてるんだから、温かぁく見守ってあげないと」


 告白?

 くっ、と。聞いた鷹守が小さく唸る。一瞬、握ったままの手も震えた。

 俯いた顔は見えないけれど、歯を食いしばって感情を抑え込むのが伝わってくる。


 告白って——


 言葉の意味を探す。語彙の少ない私の辞書にも、きっと正解と思う答えはあった。

 私に、か。なんて物好きな人だろう。


 どこかで水の流れる音がした。

 いや耳を澄ませても雨ではないし、水道の破裂した様子もない。気のせいだ。


「ねえ沢木口さん」

「なに」


 気安く呼ぶなと言わんばかり、一転して睨まれた。

 私より、頭一つ低い位置から見上げる眼。どうやってやり込めてやろうか、そういう意図の透ける淀んだ瞳。


 どこかで。似たような視線に覚えがあった。

 そっくりとは言わない。でもきっと、同じ場所に立っている。私に冬を送りつける雪の国だ。

 気づくと、私の中でなにかが切れた。胸の奥のどこか深いところで、ぷつり。


「さよなら」


 名を呼んだ時には、別の言葉を用意していた。しかしもう、そんな労力をかけたくない。なにを言おうと思ったかも忘れてしまった。


 だから踵を返し、自分のバッグを拾い、扉へ向かう。文句を言われたとして、聞こえないふりをすればいい。


「あー、フラレちゃったねえ」

「かわいそうな鷹守君」


 お付きの二人がからかう。ああ、そっちへ行くのか。

 ままならない。世の中の不運は私が撒き散らしているのでは、と錯覚する。


 まあでも、私が居なければ材料がなくなる。そうすれば鷹守も、黙って耐えなくていい。

 迷いかけた歩みに力を篭めなおし、平静を装って進む。


「あんなデカいだけの役立たず、どうってことないって。あんたより小さい女なら、探せばいるし」


 慰めてるつもり?

 沢木口さんの声が、そんなものでないのはもちろん。私への追い打ちにしては新鮮味とインパクトに欠ける、と皮肉ったのだ。

 声に出して、氷の国境を越えることはしないけれど。


「僕のことはいい。なにを言ったって、気にしないふりはしてあげられる。でも高橋さんのはダメだ、絶対に許さない」


 低く震えた声を、地響きかと思った。勝手に止まる自分の足と、振り返る身体を制することが叶わない。

 鷹守は三人に囲まれ、俯いたまま。ただ両手が拳に握られ、激しく揺れた。


「はあ? お前バカ? 許さないって、なにしてくれる気?」


 男子の口調で、沢木口さんがすごむ。あとの二人も鷹守を見下ろし、睨めつけつつも厭らしく笑う。

 もう勘弁して。関わりたくないのに、なんで放っておいてくれないの。


 どうにかしてやろうか?

 耳に届く、三倉の兄ちゃんの声。あの時に見た鋭い眼が脳裏に浮かび、それはダメだと心の中でかぶりを振る。


「鷹守、本当に嬉しいよ。でもあんたまで腐っちゃうから、もう忘れなよ。そんな人たちのこと、私のことも」

「たっ……」


 高橋さん。私の名を呼ぼうとしたに違いない。はっと上げた彼の顔、見開いた眼に映ったのがそうだから。

 だけど待たない。誰かのためになにをするのも、しないのも、もうやめた。


「私、疲れちゃった」


 言い捨てて歩く。

 廊下に出た途端、誰かと出くわした。後田さんだ。じっ、と目を合わせて逸らす。もう二度と見たくなかった。


 どこか近くで、カラスでも騒ぐような声がうるさい。

 兄ちゃん、今から行くよ。

 返事がなくとも呼びかけるだけで、風のように走れる気がした。

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