第60話:冬の朝に

 スマホを手繰り寄せ、見えた時間は午前八時過ぎ。寝ている鷹守を起こすまいと、ぼんやり一時間くらいを過ごしてからのこと。


 すると彼も、むにゃむにゃ言いながら目覚めた。私の膝に頬を乗せたまま、焦点の定まらない視線を動かす。


「あっ、ごごっ、ごめん!」


 ふいに跳ねた。首をどうかするのではと心配になるほど。


「いいよ。鷹守の言った通り、くっついてないと寒くて寝られなかったよ」


 なにをされたでもない。謝られる理由がないのだけど、彼はもう一度頭を下げた。

 いいってばと苦笑で返し、ようやく「うん」と頷いてくれる。


 でもなぜか使っていた布を私にかけ、自分はいそいそと窓の外を覗きに行く。

 せかせかとした素振りが、やはり子チワワだなと和む。


「もう先生が出勤してきてるね。でも今は目立つから、部活の人が来てからにしよう」


 さあそろそろお別れだ、と思ったところで鷹守が振り返った。

 なるほど、たしかに。「そうする」と、予定と言うほどもない予定を繰り下げる。

 部活動は早いところで九時からのはず。たった一時間に、今さらなんの感慨もない。


「ん、なにこれ」


 スマホの通知がたくさん並んでいた。こんなになるのは初めてで驚いたが、全て父からの電話だ。

 なぁんだ、と口に出すのはやめておく。代わりのため息を鼻から噴くだけ。


 けれども不審げに上げた声を、「大丈夫?」と問われた。さっさっと目の前まで戻った彼は、私の持つスマホに目を向ける。


「どうかした?」

「ううん、電話の通知が何回もあったから。でもお父さんからだった」


 父親からの電話を気にする必要がない。そう言ったに等しかった。

 正直、これはうっかりだ。でなければ、ほんの数瞬前に言葉を呑み込むこともしなかった。


「そんなに何回も?」

「うん、六回かな」


 そもそも父との会話は少ない。こちらから電話をかけたとなると、今までにあったっけ? と悩む。

 かかってくれば忘れ物をしたとか、なにか買っておいてくれとか。おつかいめいた用事ばかり。


「お母さんからは?」

「ないよ」


 あるわけない。言いかけ、これもやめた。

 なくて当たり前のものに、どうこうと言葉を連ねるのがバカバカしかった。


「六回かあ……」

「ね、多いよね」


 なんだか悲しそうに眉を落とす彼に、画面を見せようとする。しかし彼は「悪いから」と手で遮った。

 別にいいのにと思うけど、見たくないものを無理に見せるほうが悪い。


 じゃあ消してしまえ、なんて単純に通知を削除していく。と、一つだけ別の通知が残る。

 あれ、後田さん?


『ごめんなさい。無理やり白状させられた』


 オンスタのメッセージが届いていた。ゆうべ、私達が眠る少し前に。なんのことやら意味がさっぱりだけど。


「もういいかな」


 考えていると、ちょっと大きな鷹守の声にびっくりした。もういいと言ったのが、話したくないという意味かと受け取ったせいもある。


 彼は構わず、塗料の保管してある箱へ向かい、大きなスプレー缶を取った。

 ああ、最後のコーティングというやつだ。


「あんまり吸わないようにしてね」


 そう言う口もとに、ハンカチが宛てがわれた。倣って私もハンカチを出し、彼の隣へ並ぶ。


「邪魔になる?」

「ううん。でも制服にコーティング剤が着くかも」

「いいよ、そんなの」


 学校のルールで決まった服。もう本来の存在理由を果たすことはない。

 だからいいのだ。

 この部屋に満ちる、冬の朝の空気と同じくらい清々しい気持ちで言った。


 それなのに鷹守は短く「そう」と、ぼそり答えるだけ。たったこれだけの言葉を、聞き違えたかもと思うほど口に篭もらせて。


 そのまま、スプレーが思いきりのいい音で噴き始める。やけに白く見える霧で、せっかくの絵がダメになりそうだ。


 だけど紙面に落ちてしまえば、すぐに分からなくなった。

 艶々とした透明の膜になって、それも乾くと元通り。スプレーをする前と後とで、私には区別ができそうにない。


「これでほんとにほんとの完成?」

「だね。額を作ったりするんだろうけど、それは演劇部でやるって言ってた」

「そっか。見届けられて良かった」


 ぐるり一周して、正面へ戻った。これだけの絵を描きあげて、達成感はどれだけだろう。

 盗み見ると、鷹守はお世辞にも晴れやかな顔をしていない。


 なにがそんなに気に入らないのか。まさか絵をビリビリに破いてしまうのでは。

 などと危ぶむくらい、大きな絵を睨みつける。


「あっ、そういえば。絵ができたら、呪いがどうとかって」


 彼に限って、そんな乱暴なことをしない。信じているけれど、万一が怖かった。意識を他へ向けるつもりで、ゆうべの言葉を引っ張りだした。

 すると鷹守は小さく、身震いをして俯く。


「うん……」

「鷹守が気にすることないよ。気遣ってくれるのは嬉しいし、もう大丈夫だし」


 目的は果たした。見るからに落ち込んだ彼を前に、良かったとはまったく言えないけれど。


「あのね、高橋さん。呪いを解くって、ずっと考えてるよ。気づいてないと思うけど、やろうとして失敗もした」

「えっ、そうなの?」

「うん、でも諦めてないんだ。どんな風に、どう言えばいいかって。勇気が出ないだけで」


 いつ試みたのだろう。彼との会話、彼のしたこと。記憶を辿っても、思い当たらない。


「言うことなんだ?」

「あっ」


 小さく、しまったと呟きが聞こえた。でも鷹守に思惑があるのなら、聞こえないふりをする。


「あのね、高橋さん」

「うん」

「僕は高橋さんのこと」


 俯いて話しながら、どこか私の見えないところで激しい運動でもしているのか。

 そんなはずはないけれど、鷹守の息が乱れる。今まさに持久走の最中みたいに激しくなっていく。


 なんだか分からないけど落ち着いて。彼の手を取り、声をかけようとした。

 その時だ、部室の扉が荒々しく開いたのは。


「ほんとに居たー」


 歌うような、からかいの声。顔を見るまでもなく、沢木口さんの訪れと知れた。

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