第59話:虚しい夜の終わり

「なんでそこは塗らなかったの」


 絵を保護するスプレーをするには、朝まで乾かす必要がある。だから今はなにもすることがない。


 鷹守は「よいしょ」と、屈み続けで痛めたらしい腰を庇いながら座った。

 私も隣に、一人分の間を空けて座る。すぐに質問をしたのは、することのなさが怖かったから。


「見ての通り、人間の形にくり抜いたようにしたかったんだよ」


 絵の中の校舎へ向かう道。植え込みと花壇に挟まれたそこにも、桜の花びらが数えきれないほどに舞う。


 しかしレインコートを着た鷹守が、真ん中へ寝転んだ。当然ながら、その部分には白い吹雪が残る。


「なに、顔を出す看板みたいなこと?」

「あー。そんな感じかも」


 観光地にあるという、人間やキャラクターの立ち姿を描いた立て看板。顔の部分だけはくり抜かれ、訪れた人が自分の顔を出して写真を撮ったりする。

 自分では見たこともやったこともないものが、なぜがすぐに頭へ浮かんだ。


「でも、劇の背景なんでしょ」

「そうだけど、どこかに飾っとく話もあるみたい」

「えっ、すごいね。鷹守の絵が飾ってもらえるんだ」

「まだ決まってはないけどね」


 ブランケット代わりの布で、首からつま先までを隠す。なおも冷え込む室温は、容赦なく内側まで入り込む。


「それでも、やる人居る?」

「別にいいんだよ。見る人の全員に意図を分かってもらう必要はないから」

「ふうん」


 そんなものかもしれない。動画で見た顔を嵌め込む看板も、誰がこんなのやってみるんだと言われながらネタとして使われていた。

 本来の主旨に沿っていないと思うが、何十秒かを楽しめればそれでいいのだろう。


「それにしても、鷹守が身体を張る必要あった? 切り抜いた紙とかじゃダメだったの」

「まあね。なんていうか、僕の自己満足かな。この絵の中に僕が居るのを、僕だけは分かるっていう」


 誰もが見る場所へ飾られた絵に、それと知られず自分の痕跡を残す。

 言いたいことは、たぶん理解した。

 しかし私もやりたいかと考えると、答えは完全に「いいえ」だ。


「うん、いいんじゃない?」


 共感はできなかったけど、否定する理由もない。最大限、肯定の方向へ気持ちを近づけて言ったつもり。

 でも彼は、すぐに慌てた様子で言葉を接ぐ。


「あっ、ええと、その。僕だけじゃないね、高橋さんもだ。高橋さんも知ってるのは、僕にとっていいことだよ」

「そうなの? なら良かった」


 手伝わせてもらって嬉しい。なんて言えば、百点の回答と分かっていた。

 言ってあげようかな、とも思った。

 だけど言えない。言ってあげる・・・とか、偉そうな自分に吐き気がして。


 怖れていた沈黙が降りる。蛍光灯のブゥンと唸るのが、場違いな絶叫にも感じた。


 こんなに寒いのは、雪が降っているせいか。顔を洗った鷹守だが、まだ絵の具の着いているところがある。

 いくつかのきっかけは思いつく。これを使えば、居心地の悪い沈黙を退けられる。


 なんでそんなことしなきゃいけないの。


 ふと、そう思った。

 会話のない、目の前の相手がなにを考えているか量りようのない時間。

 形のないそんなものを怖れ、切り抜けたことに安堵して、また必ず訪れる沈黙を危ぶむ。

 永遠の反復を虚しいと感じた。


 誰も。特に鷹守が悪いわけでなく、私が勝手に思っただけだ。疲れたと言い換えてもいい。

 どう過ごしたところで、明日までのこと。

 だから難しく悩む必要はないと割り切れば、なにもかもどうでもよくなった。


「ねえ鷹守、ごめんね」

「え、なにが?」

「ううん、こっちのこと。ありがとうって言いたくなっただけ」

「ええ?」


 目の際まで、布に埋めていた鷹守の顔が露わになる。反対に私が顔を布へ隠す。

 首を傾げていた彼だったが、それ以上を問わなかった。


 しばらく。時計を見ると、ちょうど日付の替わる頃合い。

 氷のような床の冷たさが、布越しにもお尻に伝わる。もぞもぞ動いていると、鷹守も同じようにしてこちらを向く。


「高橋さん。嫌じゃなかったら、くっついてもいいかな」

「寒いね」


 いいよ、とか。頷いたりもしなかった。

 視線だけは合わせ、彼の「いいのかな」と窺うのが分かる。

 それでもただ待っていると、鷹守は少しずつお尻をずらして寄ってきた。肩と肩、腕と腕が触れ、すぐにそこから温まる気がした。


 その後、どれくらいで眠っただろう。定かでないが、目を覚ますと朝だった。

 鷹守が私の膝へ寄りかかり、その背中へ私がのしかかりして、意外にぐっすりと眠ったように思う。

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