第58話:絵の中の時間を動かす

 固く閉じた窓と暗幕越しにも、巻く風が唸る。サッシの揺れる小さな音、彼の少し大きめな鼻息。

 一つの会話が終わり、次にこれという話題のない時の沈黙。義務でないのは分かっていても、無為に過ごすのは落ち着かない。


「そういえば、絵は?」

「あ、うん。最後にコーティングしたりもあるけど、それを除けばあとひと手間で完成だよ」


 妙に脱力して見えると思ったら、そのせいか。

 邪魔しちゃったね。私のせいだね。と言わずに済む言葉を探す。


「まだ仕上げないの? 朝まで出られないなら、急ぐ必要もないと思うけど」

「まあね。いつでもいいんだけど、最後は僕じゃ描けないから」

「えっ、なんで?」


 絵の常識は知らないが、私の目にはものすごい大作としか映らない。四畳半くらいの紙いっぱいに青空と学校と、そこへ続くレンガ色の地面が描かれている。


 青空に雪。花壇に咲く小さな花々を揺する吹雪。そのミスマッチの意図をさておけば、見たことのない迫力を持つ風景画と言えた。

 ここまでを描いた当人が仕上げられないとは、どういうなぞなぞなのだろう。


「高橋さんのやることが、二つあるからだよ」

「私?」

「完成までに、なんの絵か当てるんでしょ」

「あ、忘れてた」


 本当に、くっきりすっきり意識になかった。

 でも気持ちの上でそれどころでない時間が続いたし、今「ははっ」と笑ってもらえたから、まあいいのかなと思えた。


「なんの絵って、雪の降る学校の風景っていうんじゃないんでしょ?」

「それは正解に程遠いね」

「うーん」


 腕組みで、床に広がる雪景色の正面へ立つ。

 見れば見るほど。首を曲げて横向きに眺めたりしても、吹雪と学校という以外のキーワードが浮かんでこない。


 その間に鷹守は、自分のバッグからなにやら取り出した。かと思えば首をひねる私を横目に、絵の具を容器へ移したり掻き混ぜたり。


「ねえ。私のやることって、もう一つはなに」

「それを言ったら、答えになっちゃうかな」

「えぇぇ、じゃあ他にヒントは?」


 正解すれば、なにか賞品があると言っていたっけ。それを目当てでないのだけど、どうにか当てたいと思う。

 いや当たらなくてもいい。私の話でなければ、どんな話題でも良かった。


「ヒントねえ」


 鷹守も疲れているようだ。普通に話しはするものの、声に張りがない。


「そうだなあ。最初に言ったかもしれないけど、これは演劇部の使う背景なんだよ。で、その使う時期は新年度になってから」

「そんなに先なの」


 というと四月か五月くらい。今月をカウントしないとして、三ヶ月から四ヶ月も先。

 春。それともゴールデンウィーク。

 って。それなら雪が降っていては、なおさらおかしい。


「分かんない……」

「ギブアップ?」

「うん」

「正解の賞品をあげられないけど」

「分かんないもん」


 考えていると無言になる。それよりは正解を聞いて、その感想とかのほうが話しやすい。

 諦めるって、なんて楽なんだろう。


「なんで鷹守が残念そうなの」

「残念っていうかね。現実に状況のほうが追いついちゃったっていう」

「なにそれ」

「ううん、なんでもない。僕の妄想みたいなこと」


 なにを言っているのか、さっぱり。しかし改めて聞いても、なんでもないが繰り返されるだけだった。


「それより正解発表をしようよ」

「うん、どうぞ」

「でもその前に、一ついい?」


 私はさっきから正解待ちなのだ。タイミングを外した鷹守に、「どうぞどうぞ」と答えるしかない。


「高橋さんは、雪の学校って言ったよね」

「うん。でも違うんでしょ」

「これで完成なら、僕も同じタイトルを付けるよ。だけどまだ、もうひと手間ある。それは高橋さんに筆を持ってもらうんだけどね」


 言いつつ、用意していた容器を渡そうとする。

 でもこれは気軽に、はいはいと受け取れない。ここまで何時間も、何十時間もかけた絵を私が汚すなんてできるわけがなかった。


「ムリムリムリ。私に絵なんて描けないし、これは鷹守の絵だよ。最後の最後でメチャクチャになったらどうするの」

「絶対に大丈夫だから」


 拒む私の手へ、筆と容器が押し付けられる。いつになく強引に、ぐいぐいと。


「でも」

「今のこの絵はね、今の高橋さんの心だと思う」

「えっ?」


 意外な発言で隙を作らせる作戦か。そう思うくらいに唐突な言葉。

 実際に私の手は、無意識に押し返す力を弱めた。それでも無理やりに筆を持たされることはなかったけど。


「これは絵だから。ここに描いた学校は、ずっと冬の中だよ。だけど高橋さんがちょっと手を動かせば、あっという間に季節が変わる」


 雪の吹き荒ぶ、寒々しい風景。彼の言うように、絵の中の時が流れることはない。

 もちろんあれこれ描き変えれば、春や夏、秋にすることもできるはず。絵心のない私には、筆をどう動かすかの見当もつかないが。


「私には無理だよ」

「無理じゃない。ちょっと絵の具を加えるだけだよ、すごく簡単。だけど高橋さんがやると言ってくれなきゃできない」


 ああ。鷹守はまだ、さっきまでの話を終わらせてはいなかった。私が呪われていて、でもすごいんだと。

 いくら言われても実感がない。しかし彼が、心の底から案じてくれているのは分かった。その気持ちを嬉しいとも感じる。


 それじゃダメなの?

 こんなことは初めてで、どうしていいやらだ。ただし嫌とも思わない。


「おかしくなっても責任取れないからね」

「絶対に大丈夫」


 信じろって言うなら、あんただけは信じられるよ。三倉の兄ちゃん以外で、あんただけは。

 そう、胸の内にはっきりと浮かべた。だから筆と絵の具を受け取るのも、スッと力まずにできる。


「どうするの?」

「これを使って」


 渡されたのはもう一つ。木枠に目の細かい網を張った物で、料理に使う裏漉し器とよく似ている。

 筆に絵の具をたっぷりと含ませ、絵の全面に飛沫を散らせと。

 さらに手順はあって、鷹守がビニールのレインコートを纏った。


「やっちゃって」

「うん、行くよ」


 迷いはない。寝転がった鷹守を含め、広い紙面に絵の具を振り撒く。粗い金網に筆を擦りつける感触が気持ち良く、大小さまざまな点が大量に浮かぶさまが心地いい。

 絵の具の色は濃いピンク。だけどケバケバしさのない、むしろ力強いと感じる色。


「これって——」

「分かった?」


 私が筆を動かしたのは、一分にも満たなかった。飛沫の密度の濃いところも、薄いところもある。それがむしろ、絵として自然に見えた。

 本当に簡単なひと手間で、厳冬の冷たい景色がガラリと季節を変えた。


「桜吹雪。すごく暖かそうな、春になったよ。新入生を迎える、桜の学校だよ」


 思い浮かぶ言葉を並べただけで、なんの絵とひと言にはならなかった。

 けれども私の友人は、桜色に染まった顔を頷かせる。


「高橋さんと僕とで描いたんだよ」


 そう言って、小さく笑った。

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