第56話:普通を勝ち取るため
初期設定のままの着信音が響く。応答のところへ指を翳しかけ、拳に戻した。
電話に出たくない、話したくない、とまで明確な思いはなかった。どうしても言いわけをしろと言われれば、話す理由が見つからないと答える。
五、六回でスマホは鳴りやんだ。触れていたくなくて、バッグの上に放り投げた。
するとまた電話がかかる。やはりお父さんと表示され、もう持ち上げるのも嫌だ。
しかし、ふと気づいた。校内に誰かが居たら、この音は届いてしまうかも。
繰り返す同じメロディーが、なぜ出ないかと怒気を含んで聞こえ始めた。
目を瞑り、バッグの中へ放り込んだ。それではあまり変わらなかったので、お腹に抱えて押さえつける。
まだ耳障りだけど、かなりましになった。
「出なくていいの?」
「出たくないの。どうせお母さんのことだもん」
ちらと向いた鷹守の眼に、無理に笑って見せた。変に思われても、強がる他の選択がない。
スマホの振動がジジッ、ジジッと。お腹の底を炙るように鳴いた。静かにしてと頼んでも、もちろん聞いてもらえるはずもなく。
こんな時にまで、勘弁してほしい。腹が立つより、悲しかった。
「それなら良かった」
「良かった?」
いっそスマホを壊してしまおうか。とまで考えかけたところに、鷹守が言った。
聞き違いかと思ったのに、彼はにこやかに頷く。
「うん、良かった。出たくないなら、音を消せばいいんじゃない?」
「あっ」
真意はともかく、なぜ気づかなかったのだろう。
言われた通り、素早く音量を最小にした。それでも何回か、また大きな音を響かせてしまったが。
「——お父さんからの電話なんだよ」
「そうみたいだね」
「なのに出ないって、いいの。良かったなんて、褒められること?」
完全に無視はできないけど、息を殺したくなる緊張感からは解放された。
安堵の息と同時に、鷹守の意外な言葉を問う。
「他の誰かのことは分からないよ。僕が見てきた高橋さんには、間違いなく言える」
彼は筆を放る。バケツに飛び込み、硬い音で文句を言われた。いや文句を言われるのは私かもしれない。電話を鳴らし、喋りかけ、作業を邪魔している。
でも問わずにはいられなかった。
「私だから? ごめん、意味が分からない」
「クリスマスってね、子供にプレゼントをくれる家が普通だと思うよ。誕生日も」
「えぇ?」
突然にまったく違う話。喩えにでもなっているかと考えたけど、そうではなさそうだ。
「ええと、うん。小さな子にはサンタさんが来るよ」
「お父さんとお母さんは仕事をしてる。だけど高橋さんだって、学校へ通ってる。それなのに一人で家事をやるのが普通とは、僕には思えない」
また関係のない話を無理やり持ってきた。返事になっていない。会話になっていない。
理解しようと、抱えた頭を必死に動かす。だけどやっぱり分からない。
「ね、ねえ鷹守。分かるように話してよ。私がおかしいって言ってるの?」
料理や洗濯をすることが、普通でない。間違いなく理解できる部分だけを拾ってみた。
それなのに彼は、首を横に振る。歯痒そうに口を結んで。
「忠臣蔵、読んだよね。どう思った?」
「えっ、また……ええと、難しくて。なんで浅野さんの部下たちが仇討ちしたか不思議だった」
「不思議って?」
「あのね、最初は自分たちが職を失ったら大変だって言ってて。それは分かる、家族を養うんだから。でも最後は浅野さんの名誉のため、って。家族を捨てて討ち入りしたから」
正直、物語の話はどうでもいい。けれど会話の噛み合ったのがここだけで、そんなのいいよとは言えなかった。
それに頭の回転の早い鷹守のことだ、私には気づけない関連性がきっとある。そう信じる気持ちも。
「そう思うんだ。良かったよ」
「また?」
鷹守の力んだ口もとが緩む。それで頷かれても、私はさっぱりだ。いよいよ「どういうこと?」と、こちらはぶんぶんと
「武士にとって、幕府の命令は絶対なんだよ。その幕府が、悪いのは浅野と判断した。だから切腹に従ったんだけどね」
「うん」
「でも大石内蔵助たちは、浅野家の名誉を守ろうとした。幕府も間違うことくらいありますよね、って。そうすれば浅野家を再興できて、自分たちが生きていける」
私の理解と食い違わない。分からないのは、なぜこの話を続けるのかだけ。
「それでも覆らなかった。だから内蔵助たちは討ち入りをする。俺達を罰するなら、吉良も罰するべきだろう。なぜ主君の時はケンカ両成敗にしなかった、と幕府の間違いを示すために。それが
普通という部分に力が篭められた。
そこに意図があるらしい。とは感じられても、どういうものかは見えてこないけれど。
「普通を勝ち取るために、内蔵助たちは戦ったんだよ。だけど幕府が間違っていても、従うのもあの時代の普通だった」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます